ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS 『精神の現象学』における個体(3)

<<   作成日時 : 2017/02/04 16:13   >>

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 カントがアンチノミーの批判的解決のために示した不定的無限あるいは可能的無限という考え方に対して、ヘーゲルの場合、その現実的無限はカント的なアンチノミーに現れたテーゼおよびアンチテーゼのそれぞれの規定がいわば自己の限界へ移行することによって自己崩壊を惹き起こしたものと見なすことが出来る。カント的な二元性の世界は崩壊し、それらを包含する肯定的な全体が回復されるのである。二種の現実としての内なるものと外なるもの、あるいは現象と超感覚的なるものといった諸対立は、もはやここには現存しないのである。けれども対立の止揚や完成ということは運動の絶対的な静止や安らぎのみを意味するのではない。むしろ反対に無限性は純粋な運動の絶対的動揺といわれた。無限性はこの運動の魂なのである。無限判断がその対立と矛盾とに耐える精神の力を予想したように、無限性とは力の無限を表す。これに対してカントの無限論の根底にあるものは数学的無限(無限なるものの数学的概念)である。単なる量の無限性である。
 物の性質を、その物自身(物自体)である力の外化と見るヘーゲルは、この力の法則に関して独自の無限論を形成することになる。無限を全能なる神の力との類比によって捉える考え方はすでに新プラトン派に由来し、中世のボナべントラの哲学にも明瞭に指摘されるが、一切の数多性から解放されたクザーヌスの神は数多性を超越した一者であり、この神に真の無限性が帰属する。近世哲学においては、まず神の無限なる意志に仮託して人間の自由意志の無限(悟性の有限性に対して)を説いたデカルトを挙げねばなるまい。相対立する二つの力が対立したままで一つの運動をそこに実現しているというイメージは、人間の意志の分裂、葛藤、対立とその緊張に耐える精神の力というイメージと容易に結びつき、そこに現実的無限性という共通の性格を指摘することが出来る。
 これに対してカントの無限の考え方は量的無限、つまり同質的なものが限りなく延長可能であるという不定無限、可能的無限である。もっとも自然学に関しては世界の幾何学の立場をとったデカルトもこの考え方をとり、それはロックやヒュームなどの経験論に受け継がれる。可能的無限の源泉はアリストテレスにまで遡ることが出来る。ただしカント自身は不定無限への進行を無限への進行から区別して論じている。不的無限への進行と無限への進行の相違は、前者が純然たる外延量について、つまり世界全体の無条件的量に達しようとするときの進行(または遡行)であり、後者は全体が経験的直観において与えられている場合のその内的条件の系列における背進である、という点に認められる。前者は純然たる量に関するアンチノミーの解決として、つまり「世界は時間的、空間的に究極の限界を持たない」という消極的結論を、確定した答えとして与えるときに示される。すなわち「世界現象の系列における背進は世界の量を規定するものとしては不定(無限)への背進である」と。後者、すなわち、直観において与えられた全体を分割する場合には、つまり質的な実在性に関するアンチノミーの解決の場合には、「単純にその背進が不定への背進と名づけられてはならない」のである。けれども無限分割が可能であるところのこの与えられた全体についても「この全体が無限に多なる部分から成り立っていることは許されない」のである。弁証論のこの箇所において、連続の合成という伝統的な難問を前にしてカントの語り口は非常に慎重である。なるほど背進によって到達される一切の部分は与えられた全体の中に集合として含まれているかもしれないが、それ自身不定的に続く分割の全系列はその中に含まれていないからである。けれども与えられた全体という概念によって無機的物体のみならず分離量、とくに無限に組織されている有機的物体を考えた場合、さすがのカントもここで奇妙な自己矛盾に陥ることを告白せざるを得ない。つまり無限な背進は、ついに完結することのない不定的な無限系列と見なさねばならないにも拘わらず、その全体がまさに無限であるような質的実在的な部分は全体として与えられており、完結していないと見なされているからである。
 与えられた全体を無限なる空間という直観的表象として考えるならば、それの無限分割の可能性は現象の連続量について容易に適用し得るであろう。けれども第一アンチノミーの解決から生れた無限への不定的な背進を指示する理性規則は、残念ながら分離量に適用した場合妥当し得ないのである。分離量は自然学において伝統的に、不可分な力の単位であり、はずみ、自在力、さらに生命である。
 或る物質がどこまで有機的に組織されているか否かを決定できるのは、カントの場合、経験だけである。けれどもこの経験において与えられた全体という物体の概念には明らかに無限のプロセスが現実化したものとして見出される。ここには単に量的でない質的な無限が与えられている。現実に飛んでいる矢がそうであり、生命がそうである。このような無限概念は、スピノザやライプニッツの場合にも指摘できる。カントの批判哲学はこの経験を説明することが出来ない。そしてこの無限が単に概念(カントの意味における)の内に存在するだけで、直観の内に在るのではないと考えるのである。むろん有機体は合目的的な存在として直観された概念だと言い得るけれども、批判哲学の中で、認識の対象としての領域を与えられていない。これに対してヘーゲルはこの物体において、とくに有機的な自然的産物において概念と実在との直接的統一の直観を持つのである。
 質的な無限が与えられているということはその限定の中に無限の過程を含む個体もまた与えられている、ということに他ならない。この個体-実体が生命でありさらに主体であるという考えはカントには全く認められない。この実体を自己意識あるいは概念に結びつけるプロセスを意識の経験として対自化していくところにヘーゲルの個体経験が成り立つのである。カントとヘーゲルの無限論の相違もここから生れてくると思われる。ただこの直観がヘーゲルにおいては概念として捉えられることになるから(無限の過程を含む判断は直観的表象を越えた概念において統一される)、無限判断と概念の立場とは同じものになると言わねばならない。
 普遍と特殊の総合的統一としての個体が、純粋理性の理想としてカントにおいては人間的理性の到達し難いイデーであることは繰り返し述べた通りである。この人間理性の本来的な理想を現実に持つ場合にのみ、物についてのそれ自身一般的な概念は自己自身によって余すところなく規定され、個体を表すものとして認識されるのである。
 個体は、そのものについての一般的概念が余すところなく規定されたときに、認識の完成された形態として現れるのであるから、そこに無限過程が含まれていると見なさねばならない。これはライプニッツのモナドと無限の関係を考えても明かであろう。単に不定的無限のみを認め、それを越えた知的直観(概念的直観)を拒否したカントにおいては当然のこととして個体の認識は成立しない。逆に個体の限定を可能としたヘーゲルの場合について、この個体限定の論理を無限判断との関りにおいて改めて考えてみよう。
 (一)普遍的生命とはこれを個別的な生物の側からみれば、有機化されていない自然を摂取して自分のものとする普遍化、客観化の過程であり、人間の個々人について言えば社会化の過程である。他方、実体としての普遍的生命の側からみれば、自らを個々人の生命とし個体化していく主観化の過程、人間が自己を主体として確立していく過程である。普遍的生命の個体化と個別的生命の普遍化という往復運動は、ヘーゲルの観念論(有限者がそれに対して常に否定的に関わる統一的な全体を観念的に定立し、それによって否定を限定しなければ、この無限過程は悪無限に陥るであろうから)を規定している精神の二重の運動を示すものである。すなわち(1)実体(この場合は普遍的生命)が自己自身を外化(放擲)して自己意志(個別的生命)となる個体化の運動、カントで言えば、物自体が現象へ墜ちると我々が考えた事態である。(2)逆に個別意志が自分を外化し客観化して普遍的自己となる普遍化の運動、カントでいえば未完結な遡行の過程である。実体は生命(主観・個体)となり、主観は普遍的実体となる。この二重運動を同一性判断として捉えるところに思弁的な無限判断があり、個体があり、あるいは同じことだが概念が成り立つ。
 (二)無限判断を介した個体限定の論理からみれば、カントの種概念、類概念によって自然を体系的に記述する方法はどのようにみられるであろうか。ヘーゲルはその近世哲学史の中で、次のようにカントを批判する。「カントの場合この悟性の秩序は決して即自かつ対自的ではなく主観的なものに止まると言われる。かくして、理性にとっては、その自己との純粋な同一性の形式以外に何も残らなくなる。そしてこの形式は多様な悟性法則や悟性関係やまた悟性が見出す級・種・類などを組織すること以上には達し得ないのである。理性または表象としての自我と外的事物とは、両者とも相互に端的に他者として相対し、そしてそれはカントによれば究極の立場である。動物はかかる立場に立ち止まらない。むしろ実践的に統一を生み出す・・・」。
 (三)それではヘーゲルの場合に真の意味での概念的関係、類(普遍)-種(特殊)-個(個別)の関係が自然において見出されるであろうか。明らかに否である。そこに偶然性としての生命あるいは地 Erde が個体化の原理たる質料として、類に暴力を加え、類の場合とは本性を異にしている区別項を類の体系化に対抗して抬頭させる、と言われるのである。自然には精神が欠けているから、あるいは自然とは隠された精神だからであり、普遍的個体としての地すなわち非有機的自然、あるいは、環境の未知なる影響が個体の形成を偶然的なものの手に委ねるからである。概念の単一性が形相における個体化の原理であるのに対して、地は質料におけるそれである。地が普遍的個体としてヘーゲル哲学における個体化の原理となっているのは、ヘーゲルにおいてさえ(あるいはヘーゲルもまた)類を逐次に限定して最低種にまでは到り得るとしても、それを越えて個体にまでは到達できないからである。このことは自然界には概念あるいは理性が完全には見出されないことを意味している。「自然は生命という己の普遍者から、いきなり現存在の個別態の内に転落するだけである」。「自己意識は民族の内部においては普遍性から特殊性にまで下降するだけであって個々の個体性にまで下降する・・・」ことは出来ないのである。全体への信頼が辛うじて普遍的自己を生み出すだけである。
 以上のようにして自然界における個体的生命は普遍者との無媒介な統一においてなるほど類を形づくるけれどもただ数としてしか限定されないのである。個別的生命相互の間の差異は数的差異を示すにしかすぎないし、その活動はその個体的生命にとっては各自の点に局限されているにすぎない。それゆえこのような生命を意識することは、イポリットが巧みに表現しているように、自分の前に現れたものが真の生命ではなく、一つの偶然にすぎないことを認める意識なのである。自然は精神の疎外態であると言われるとき、自然的生命についてみれば、それは否定の媒介において自己に還ってこない。個別的生命は、その内なるものによって種としての自分の限定を越えて立ち、これを無視するのであり、これを普遍的個体(質料としての地)の側から見れば、個別性は同時にこういう普遍的個体であるのではなく、普遍的個体は有機的に生きるものの外に出ているのである。
 ここから真に個体と言えるものは、自己意識をもった人間の場合についてのみ、したがってまた真の普遍はこれら人間の人間関係(ヘーゲル的にいえば自己意識と自己意識との関係)についてのみ言えることが明らかとなる。人間は言葉を使う動物だからであり、個人はただ他の個人の中に己を反映した場合にのみ、つまり我々として生きる場合にのみ個体となるからである。自然観察において、ただ与えられた物の内に個体を見出そうとしていた意識が自己自身の内に回帰してくる。観察において存在の形式を遍歴し終えたところのカテゴリーが、今や対自存在(自覚存在)の形式において定立されることになる。
 自然から歴史的な人間社会へ、あるいは物の不透明さに代わって、「事」という透明な人間的世界が、個体性の本質である「仕事」と共に新しく登場してくる。

 「自己は物である」という無限判断は己自身を止揚する無限性の意識をもって受け取られなくてはならないとヘーゲルは述べている。換言すれば、この命題において主語と述語とがそれぞれ固定した接続的命題として考えられるのではなく、主語は述語に、述語は主語に転換し(「物は自己である」)、両者は同一律の命題に帰する。
 ところで無限判断において主語と述語との結びつき、およびその転倒は、直接的であって媒介の形式は排除されている。しかしこの判断が内的統一にまで高められ、判断の両項の必然性と媒語とを出現させる媒介運動となることによって、判断は推理(弁証法的推理)へと転換する。無限判断そのものが無媒介体から媒介体へ、あるいは否定態への過渡態なのである。我々の場合について言えば、既述したように、形式論理学における概念、判断、推理は、生命、無限判断、弁証法推理の形をとっており、類-種-個という一般論理学の原理は、あらためて普遍性-特殊性-
個別性の推論的運動となる。対立するものの無媒介的な直接的一致という無限判断と、媒語によってそれを連結する推理という二つの論理的形式が、結合したり分業したりして『精神の現象学』は「その内実の豊かさと共に論理的形式の豊かさにおいてオーケストラの魅力を与える」とシュミッツは述べている。無限性の本質は自己自身との無媒介的な対立であるから絶対的矛盾そのものであり、無限判断はむしろ青年期の著作の中心に置かれている。これに対して「推理はイデアリスムスの原理である」という命題もすでにイエナ大学『就職論文』(1801年)に記述されているが、『精神の現象学』以後の著作の中でその形式は洗練されていく。無限判断がその無媒介的な直接性のゆえに質的弁証法の性格を強く帯びているのに対して、推理論は和解と連続性とを基調とした量的弁証法の色彩が濃厚である。否定の否定は肯定であるとして実体を回復する運動が推理論においてより明確な形をとる。
 この推理論による個体とくに生命の認識をヘーゲルはどのように考えているのであろうか。
 まずヘーゲルは有機体を絶対的流動性として捉える。この流動性が否定的本性をもつのは区別項を止揚することによってである。けれども否定は既述したように限定された否定であって無限否定ではない。この止揚する運動も、区別された分肢であるところのそれぞれの区別項をそれ自身として存在する諸部分たらしめること、言い換えれば、実体の流動性を阻止し、実体との連続性を拒否しながら、自らを普遍者の内に解消せしめることなく、それ自身として存立していることを予想している。ここに個別的生命すなわち有機体の出現が認められるのである。有機体とはそれゆえ流動性(過程)と区別項(部分)との否定的統一である。このような有機体の意実をヘーゲルは、有機体の個体性が己自身との統一を得ることにおいて諸区別項の流動であるとか、有機体とは過程を備えながらこれを概念の単純性の内に所有するような対象であると説明している。有機体において現れたこのような流動性は、有機体における全体と部分との関係においてのみならず、思惟の形式と内容とが内的に結合して、ともに事実の本質を形成し、事実自身が変化し同時に形式を動かしていく運動においても、弁証法論理の思弁的性格をよく表している。この流動性に対応するのが移行であり、論理学における推理論である。
 次にこの推理論は有機体の形態化の過程に関して以下のように説明されている。「有機的なるものの形態化の推理において媒語には種と、種の個別的な個体性としての種の現実体とが属している。もし仮にこの媒語が自分自身において類の内的な普遍性と地の普遍的個体性という両極を具えているとすれば、この媒語は自分の現実体の運動に即して普遍性を表現し、また普遍性の本性を具え、かくして自分自身を体系化しつつ展開することであろう」と。
 この文章でヘーゲルが接続法しか用いていないのは、前述のように、普遍的個体性という地の原理は、生命という個体にとってはどこまでも外的な偶然的な現実であって、媒語の両極としてその中に含まれていないからである。真の個体は、ヘーゲルにおいては生命においてではなくして精神において、言換えれば、自己意識と自己意識との相互承認を通った我なる我々と我々なる我という普遍と個別の総合として成り立つ。有機体の媒語の説明に引き続いて次のようにヘーゲルは述べている。「実際意識は、このような具合に普遍的な精神とこの精神の個別性との、言い換えると感覚的意識との間の媒語として、意識の形態化の体系を備えているのであり、しかもこの体系は全体にまで己を秩序づける精神の生命としてのものである」。
 かくして個体の限定にとって推理論は決定的な意味をもつことが明らかである。このものという感覚的個体が、このものだと私念されたものから多くのこのものを通って一般的なこのものに到る思惟の運動は、このものを意識する働きの中に既に推理が働いているからに他ならない。個別的なこのものが、普遍的なこのものへと推移していく過程そのものが、個別と普遍の両契機を含む媒語となっている。また個体的生命の推理による限定は次のようになる。
 「だから我々は一つの推理が成立しているのを見る。この推理において一方の極は普遍者としての、言い換えると類としての普遍的な生命であり、これに対して他方の極は個別者としての、言い換えると普遍的な個体(すなわち地の原理)としての同じ生命である。そうして媒語は両極から合成されたものであって、一方の極は媒語の内に限定せられた普遍性あるいは種として嵌まり込み順応しており、これに対して他方の極は本来の、あるいは個別的な個別性として順応しているように見える」。
 普遍と個別の統一を確立することが『精神の現象学』の関心の中心であるとすれば、推理論はその真理を表現するための原理であり、その本務は普遍が個別であることの論証を目指すことだと言えよう。弁証法的個体とはこの普遍と個別との矛盾的統一であり、この統一の証明が推理において初めて完成されるのである。逆にこの推理のプロセスを通らずに真に自存的な媒介を経ることなく、いきなり個別性へと転落するのは既述したように、観察する理性にとっての生命の個別性であって、この個別性は普遍者との無媒介的な統一において類を形づくるとしても、単に数的一としてしか限定できないのである。
 以上のようなヘーゲルの推理論をカントのそれと比較してみよう。
 カントにおいて推理に現れた理性の本務は、「常に悟性を拘束しているところの条件付きの総合から、悟性が到底達し得ないような無条件的総合へ上昇するにある」と言われる。この無条件的総合による与件の限定が個体の限定になるのだから、カントでも個体の限定が可能だとしたら推理の形を取るであろう。カントにおいても理性は本来推理の能力である。推理は一般的に言えば大前提に含まれている普遍的概念と小前提の個別的概念とを、この二つの前提に共通の媒語が、結論において媒介し結びつけるところに成り立つ。その場合に媒語の意味が二義的であるならば、形式論理学でいう媒概念多義性の誤謬が成り立つ。
 例えば、純粋理性のアンチノミーは次のような弁証的論証に基づくとカントは述べている。
 [大前提]条件付きのものが与えられていれば、このものに対する一切の条件の全系列もまた与えられている。
 [小前提]ところで感官の対象は条件付きのものとして我々に与えられている。
 [結論]ゆえに条件付きのものに対する予件の全系列は与えられている。
 この結論が正しいとすれば、我々は条件付きの与件を汎通的に限定された個体として認識することが出来るであろう。カントにおいても純粋理性によって認識の理想が達成されたことになる。しかしここには弁証的虚偽が認められる。なぜなら大前提における条件付きのものという媒概念は、超越論的な意味に解された理念の対象としての物自体であり、小前提における条件付きのものとは経験的意味における現象だからである。この推論の誤謬(それは形式的には正しいが元々虚偽の推理をするような超越論的根拠を具えている)を、カントは、大前提と小前提とに現れる媒概念をそれぞれ異なる意味に解したために生じた虚偽、言い表し方の詭弁と呼んでいる。先述した媒概念多義性の誤謬である。
 それゆえこの推理における相矛盾する媒語の二義性(物自体と現象)を直接的無媒介的に同一とみなす(物自体は現象であり、現象は物自体である)ならば、それは明らかにヘーゲルの無限判断となる。先に挙げたヘーゲルの推理論の媒語にもすべて普遍と個別、形相と質料といった概念の無限判断を介した同一性が前提されている。この媒語そのものがそれぞれ両極に分解し、それぞれの限定を交換することによって、全く反対のものへと移行していく弁証法的推理が成り立つであろう。媒語の両義性そのものが媒介され止揚されることによって媒語は虚偽ならぬ真理の推理を成り立たせるからである。
 この推理の果てに現れるのが絶対知である。このようにしてヘーゲルの絶対知にとって、物は推理を通して完全に限定された個体として把握される。感覚、知覚、悟性に対応して対象はそれぞれ直接的なる存在、限定性、本質として現象するけれども、全体としてみれば対象は推理であり、普遍者から限定性を通じて個別性に到るところの、あるいは逆に、個別性から止揚せられたものとしての個別性ないし限定性を通じて普遍者に到るところの運動であると言われる。対象は推理であり、また運動だと言われる奇妙な表現は、命題や判断ではなく推理をもって真理の表現形式とするヘーゲルにとってはむしろ相応しい。
 この推理の運動を通して、意識は対象を己自身として知らなくてはならないのである。絶対知に到る過程において、自我の存在は物であるという無限判断の第一の頂点、物は自我である、言換えれば物は自我との関わりにおいてのみ在る(有用性)という第二の頂点、物が本質あるいは内的なものとして知られるという道徳的自己意識、すなわち第三の頂点たる良心、意識と自己意識の和解を示す第四の頂点であると同時に最後の転換点である啓示宗教、これらの頂点を遍歴して実質的にも最後の頂点たる絶対知へと登りつめた意識(絶対精神)において個体論は完成する。
 無限判断から推理への移行において注目しなければならないことは、無限判断の無媒介性、直接的な対立とその矛盾的統一とが、そのものとして一つの過渡期だということであった。例えば対象を観察する理性の頂点たる頭蓋論において、精神は一つの物であるという無限判断は、対象意識より自己意識への過渡あるいは転換点を示すものである。
 ヘーゲルの弁証法はカントの実践哲学の優位を介して把握されねばならない、という哲学史上の通説をここに思い合わせてみよう。カントはその推理論の弁証法的虚偽を暴露することによって、形而上学的認識能力としての思弁的理性の無力を証明する一方で、純粋理性が実践理性へ転換しなければならないことを強調する。「要するに思弁的理性から経験を超越して認識すると称する越権を奪い去らぬ限り、私は、自由および霊魂の不死を、私の理性に必然的な実践的理性使用のために想定することすら出来ないのである」。このような実践哲学へのカント的な転換に対するヘーゲルの批判は、一方ではこれを継承しながら、他方、カントにおける理論と実践との二元論的な並立がそこに論理的媒介を認めていないこと、単に抽象的な自己立法と形式主義(個体としてではなく単に普遍的なものとしての道徳的自我)に止まり理念の実現という具体的実践を捉えていない、ということであった。しかるに広い意味の理論と実践との統一はすでに有機体のその環境に対する適応行動において現れている。カントにおいても有機体の存在そのものはすでに合目的性として直観された概念だと言い得る。にも拘わらず、その有機体論は動物の行動ということを全く考慮していなかった。カント的な理論の究極的立場に動物は立ち止まっていないのである。その行動あるいは行為の経験とその対自化が、理論と実践との二元論的対立を媒介する論理を生むのであり、その論理として、生命の論理が無限判断を含む推理として挙げられるのである。この推理によっても自然的生命の段階においてはその個体化を完成することは出来なかった。観察する理性は今や己自身を介して己を実現しなければならない。対象意識から自己意識への過渡を示す文章に引き続いてヘーゲルは次のように述べる。「こうして意識はもはや己を無媒介的に見出そうと欲するのではなく、却って己の行為によって己自身を実現しようと意識する」と。
 このような自己意識の一つの頂点を示すものは、観察する理性の頂点、すなわち頭蓋論の無限判断をそのまま倒錯した、「物は自我である」という有用性の世界である。物は全て己の行為のために自己実現の有効な手段である、という観点からのみ見られる。チンパンジーの行う道具使用のための見通し Einsicht (W・ケーラー)も、人間的意識の運動に翻訳して突き詰めればこのようになる。それによって、純粋な見通しとしての自己意識は、自足的な現実意識となる。あるいは、個別的意識は自分が直ちに普遍意志であることを自覚する。けれどもこの頂点は、絶対自由の恐怖へと没落する。なぜなら単純で不撓な冷ややかな普遍性と、非連続的で絶対に冷酷であり利己的で点的な自己意識という両極に分解したまま、間に何らの中間項をも見出さず、両極の関係は全然無媒介的な純粋否定すなわち無限判断(物は自我である)だけである。ついで物を単に存在の直接性に従ってのみならず、本質あるいは内なるものとして捉える道徳的自己意識(ここに道徳的意志は物自体を与えるというカントの実践理性の立場が考えられている)の立場が定立される。この立場が「ずらかし」と実行型良心とを通って、「美しき魂」に到ったとき、この美魂そのものも現実性を欠き、純粋自己と、これを外化して存在となし現実に転換せねばならない必然性との矛盾の内に、動きの取れなくなった、このような対立の直接態の内に止まっているのである。この矛盾こそ、ヘーゲルから見れば、カントやフィヒテの道徳哲学、あるいは美しき魂というピエティスムスの理想をも一緒に巻き込まれねばならなかった矛盾なのである。
 この直接態は対立を調停する媒語の役割を果たすことはできない。美しき魂は、肺患にかかって夭折したノヴァーリスや精神の薄明の内に晩年を終えたヘルダーリンにも擬せられるように、運命から身を守ることが出来ず憧憬の内に死を迎えるのである。人間存在の悲劇は、心情の独自なる私念と、存在の普遍的なエレメントの中の現実の行為との間の、喰い違いにおいて現れるわけである。この場合の個体性が抽象的と言われるのは、エレメントの普遍的規定を拒絶することによって、自己が未だ抽象的普遍性と同一であることを示しているからである。美しき魂はついに分解して狂気となり、無の直接性の中に沈まざるを得ない。精神はこの食い違いや躓きを越え、美しき魂と現実との、あるいは批評型の良心と実行型の良心との、赦しを成就させ、そこに和解が生まれる。和解を通して現れた精神とは絶対精神、すなわち普遍的な本質としての己自身に関する純粋知を、その正反対の知の内に、すなわち絶対に己の内に存在する個別性としての己についての純粋知の内に、直観する精神に他ならない。ここにおいて自己意識と自己意識との相互承認を通して普遍であると同時に個体である、そこに存在する精神、絶対精神、あるいは概念が実現する。
 このような運動へと導き、赦しと和解を可能にしたものは何か。それを「表象」するのが啓示宗教における神の子にして人の子であるイエス・キリストである。精神の概念は本来キリスト教に属する。受肉の表象の中で、神は無媒介的に自己として、すなわち一人の現実的な個別的な人間として感覚的に直観されるのである。さらにキリストの十字架上の死によって、対自存在をではなく、単一なるものを以て己の本質としているものが、己自身を外化し放棄して死に移り、そうすることによって絶対実在と己自身との和解を得ることとなる。なぜならこのような運動においてこそその精神たることを示すからである。
 このようにして我々は、無限判断における対立する主語と述語との直接無媒介の相互転換、分化対立した両極を含む媒語を介した推理、このことによって、神の本性と人間の本性という二つの本性が同一であることを啓示するキリスト教の真理が、直接的な表象として実現されていることを知るのである。十字架上のキリストの死を介した神と人間との和解は、美しき魂と実行型良心との相互承認や赦し、神の自己否定としての自らの人間化とその否定(否定の否定)を意味する。媒概念多義性の誤謬はヘーゲルにおいては無限判断と推理を介して真理を実現する。啓示宗教における実体(キリスト教の神)は、頭蓋論、純粋透見および良心という無限判断の頂点を経過することによって、さらにこの宗教的表象を概念とすることによって、絶対知として主体化され個体化される。カントにおいて認識の理想であった個体は絶対知となる。実体は同時に主体であり、普遍的にしてかつ個体であるという意味でヘーゲルの個体論はここに完成する。



 






























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