ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS 『精神の現象学』における個体(4)

<<   作成日時 : 2017/02/07 14:17   >>

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 ヘーゲルにおいて精神が空間として己を外化するとき精神は自然となる。だが既述のように、この自然において精神は即自的かつ対自的な個体を見出すことは出来ない。自然は生命という己の普遍者からいきなり現存在の個別態の内に転落するだけである。ここにヘーゲルは自然の無力を認め、また自然の偶然的運動が生み出されるのだという。その理由をヘーゲル的に言えば、自然は自己を認識する精神に対してのみ精神であるにすぎず、即自的にはロゴスであるが、対自的にはロゴスではないからだと言うことになろう。したがってまた、有機体の自然は何ら歴史を持たないと言われるのである。自然物ではなく人間的個体すなわち個人としても、その類的実体を限定して種(民族)にまで特殊化することは出来る。しかし種は依然として普遍であって個体に達することは出来ない。人倫の段階においては、自己意識の行為に含まれる全体に対する安らかな信頼が普遍的自己を生み出すにすぎない。
 自然において個体認識の原理は貫徹していない。したがって個体はそれ自身偶然的な普遍者からの転落としてしか捉えようがない。かくして自然的生命の流れにとっては、この流れを動かす水車がいかなるものであるかはどうでもよいことだと言わざるを得ず、このように認識している弁証法的理性そのものの限界が指摘できる。してみれば本当の(ヘーゲル的に言えば即自的にして対自的な)個体認識が成立する場面は自然ではなくして、人間の世界、この人間の作った社会と歴史だということになる。物 Ding ではなくて事 Sache の世界である。自然が歴史を持たないのは、理性が普遍的な個別者、すなわち個別性と普遍性の統一である個体もしくは概念を自然の中に見出すことが出来なかったからである。このことは逆に、歴史において理性は個体を認識することが出来るということである。ヘーゲル流に言えば、個別的な意識の諸形態が織りなす体系は、世界史として己の対象的定在を持つところの体系である。自然と歴史に対する人間認識の振る舞い方が明確に区別されている。この議論を押し進めれば、我々は、このような認識を通して歴史を統御できるという近代の歴史認識、さらにマルクスの史的唯物論の思想に行き当たるであろう。
 カントにおいてもその個体論が歴史的個体へと展開する可能性があった。自然と歴史とを対比させる場合、デカルトと異なり、さらにアリストテレスとも異なって、歴史を人間の歴史として、それゆえにまた人間によって完全に認識できる知の対象として捉えようとした、G・ヴィコの『新科学』(初版1725年)の思想を挙げねばならない。自然は神によって創られたものであるからそれについての完全な知を持ち得るのは神だけである。人間にとっての確実な知識は、ヴィコが諸国民の共同の自然と呼んだ、市民的世界にこそ求めねばならない。真とは人間自ら作ったものによってのみ測られるからである。「人間は自ら歴史を作る。しかしそれは意志と意識とを以てではない」(J・ハーバーマス)という命題は、所与としての政治的社会的制度への人間の受動的適応と、自然への能動的な支配との分裂を示す言葉である。この分裂を乗り越えるところの、社会および歴史に属する個別的な事への認識が、ヴィコの『新科学』によって新たに拓かれた。つまりデカルトにおける自然学の優位という出発点から自己を解放し、言語、習慣、法律、さらに制度といった人間の世界に現れる「こと」の上に哲学的原理が築かれたのである。ヴィコの『新科学』の一世紀後、所与としての政治的、社会的制度は、『精神の現象学』において精神の所産としての人倫、教養、道徳、宗教(ここには当然先の言語や習慣、制度などが含まれる)として示される。それはカントの場合、反省的判断力による歴史認識の初発の形態として述べたものの更なる展開である。それはまた意識が自覚的に遍歴する旅路として、つまり人間精神の歴史として理解されるのである。絶対知が出現し個体認識が完成したという意識の運動は、精神が現実の歴史として達成する仕事をも意味する。
 人間および人間によって作られた文化(事)が歴史的存在であることの自覚にとって、時間は特別な意味をもっている。それを歴史的時間と呼ぶならばこの時間はカントの時間論とは全く異なった相貌を帯びて現れてくる。
 対象意識の冒頭においてヘーゲルは感覚的確信の内容が、時間と空間とにおいて広がっていくと述べている。この場合ヘーゲルがカントの時間・空間は感性的直観の形式であるという命題を念頭に置いていたことは確かであろう。時間と空間は感覚的個物を指示する「このもの」の両側面である「いま」と「ここ」との意味を持っているからである。なるほどそうであろう。しかし単に表象を受け取る能力すなわち受容性である感性的な直観の形式としての時間と空間とに対して、それに対応する「いま」と「ここ」には必ずそれを指示する意識の働きが加わらねばならない。それなのにカントの直観形式としての時間と空間とには「ここ」と「いま」とを同定する意識の働きは含まれていない。時間は常に唯一の対象の表象であって、種々の異なる時間は全く同一の時間の諸部分にすぎないのである。それゆえ「いま」(したがって「いま」より以前の過去と以後の未来)という時相を持っていない。カントの時間は意識の時間ではない。
 これに対して時相あるいは位相を持った時間・空間を考えた場合、それは単なる純粋量、あるいは客観的な系列や延長として同質的に規定された時間・空間とは異なった意味を帯びてくる。すなわち時間と空間とは単なる形式ということ以上に、この世界(環境世界)の中に位置をもっている。このことはデカルトの解析幾何学に対するライプニッツの位置の幾何学という発想の中に認められるが、同じような相違はカントとヘーゲルの場合にも認められよう。その相違の理由を探っていけば、前述した意識と対象の関係についての両者の発想の基本的相違に導かれる。そして結論を先取りして言えば、ヘーゲルの場合の時間論の特質は、それが歴史の構造を持つという点に求められる。否、むしろ時間が過去・現在・未来の時相を持つがゆえに時間は歴史になると言うべきであろう。アウグスティヌス以来、意識の時間は必然的に、歴史の時間と関わらざるを得ないのである。
 かくしてヘーゲルは『精神の現象学』の序文において、単なる抽象的量の学問としての数学における時間・空間の扱い方を批判しながら、時間は、「今」の否定の否定であり、したがってそこに存在する概念そのもの、あるいは単なる直観された概念だと述べることになる。また時間は空間の真理である。なぜなら空間的点が対自的に自立する可能性の条件として「今」を定立するからであり、点そのものがすでに線や延長の否定であるから、この否定をさらに否定するのは時間だということになる。この否定の否定は精神の否定の否定という最も根源的な働きと対応しており、これを論拠にして、ヘーゲルは精神の実現が時間の中で歴史的に行われることの可能性を示すのである。
 ところで、ちょうどヘーゲルにおいて時間が空間の真理であると言われたように、カントにおいても時間は、空間表象が単に外的直観の根底に存するア・プリオリな形式であるのに対して、一切の直観の根底に存する必然的表象である。カントにおいて、我々人間が認識を問題にする場合には、全く知性的な概念の作用と言えども、それが現実に生起するためには常に感性的表象と結びつかねばならない、という説明にぶつかる。空間の覚知も空間の諸部分の総合として継次的であり、したがって時間の内に起こり一つの系列を含むのである。悟性の論証的歩みが常に時間の図式を必要とし、かくして偶然性を免れないという事実こそ(『判断力批判』)、人間の有限な認識の特質である。カントにとって個体の限定を目指す理性の宇宙論的推理がその目的を達成できないのは、その遡行する推理の歩みが時間の系列に従うからであり、それを忘れるところに推論の誤謬が生まれる。個体が認識できるかできないかは、与えられた被制約者から制約者へと遡る遡行の歩みの仕方からのみ認められる。推理はそれが人間的推理である限り時間には勝てない。個体の認識が不可能だというカントの議論も結局はここに基づいている。
 ではヘーゲルの時間は、カントのような悟性とは全く異質な、有限にして受動的な感性的直観という性質を持っていないか、というとそうではない。時間そのものが生成消滅する存在の抽象作用、一切を産み出してはその産児を喰い殺すクロノスなのである。時間とは有限なる存在における否定性そのものである。まことに時が命を喰らうのである。だからこそカントでは超越論的統覚は時間の中に堕ちないし、時間は意識すなわち統覚の時間とはならないのである。超越論的統覚は、生命なく、友なく、孤独である。この自我はカントにとってもパラドックスであった。
 ここで精神と時間との関わりについてのアウグスティヌス以来の考え方を思い合わせてみよう。そうすれば思惟し反省する能力をもつ精神のみが自己を内面化する(想起する)過去と、前方に投企し期待する未来とを持ち得る、それによって歴史を持ち得る、ということは容易に理解されるであろう。ここからヘーゲルは飛躍する。すなわち、このクロノスたる時間を精神は完全に概念化し抹殺しなければならないと。なるほど時は生命を喰らうであろう。しかし「精神の生命は、死を避け荒廃から己を清く保つことではない。死に耐え死の只中に己を保つことである」。ヘーゲルの場合、実体を自己意識に、あるいは概念に結び付けるものは経験であるから、この経験(意識の行う経験)の中に現存している限り、繰り返すように、時間とはそこに存在する概念そのものであり、空虚なる直観として、意識に表象された概念であり、精神は必然的に時間の内に現象することになる。この精神の必然性のゆえに自己意識は即自の直接性を運動へと導くが、この現象し開示されねばならぬ即自に対して、概念が直観されるのが時間なのである。「だから時間はまだ自己完成を終えていないところの精神の負うべき運命として、必然性として現象することになる」とヘーゲルは記ている。この事情は「精神はその自己実現において否定の否定として規定された時間の中に堕ちる」とも説明されよう。巧みな表現である。『精神の現象学』の課題は、この時間の中に堕ちた精神を、その時間的発展(これが歴史になる)を乗り越えて、時間そのものの克服を通して絶対知にまで高めること、実体が同時に主体であり、真の普遍と個別との統一体(個体)であることを実現することを目指す。精神のみが時間を持ち、したがって歴史を持つが、同時に時間を越える、歴史を完成せしめることが出来る。単なる生命に時間はない。生命とは空間としてはしっかりとした形態を具えているから、時間の単純な本質として自同性なのである。有機体の自然が歴史を持たず、生命が即自的な自己意識を持つといわれる理由である。
 それでは「精神の生命」とはいかにして可能であるか。このような問いが出されるのは、人間が即自的には生命としての自然であり、精神が現在化するためには生命がなければならないからである。自然は、否定的媒介が己を通じて自己に還帰していない疎外態であり、この疎外態の現れが時間なのである。だからこれに対するヘーゲルの答えはそれ自身パラドックスだと言わざるを得ない。なぜなら一方において、絶対的に自己と合致している限りにおいて、この精神は、否定の否定としての時間を越えた永遠の今であるが、他方、同時に、この精神は絶対概念として「深み」 Tiefe であり、「この深みの内に、自己の内に止まるという意味において」精神の時間(具体的には啓示の時)を持つと言われるからである。このパラドックスをヘーゲルは「絶対精神のゴルゴダ」(頭蓋の場)とも呼ぶ。このゴルゴダがなければ精神は「生命なき孤独に止まるであろう」。生命である以上、自己に還っていない精神、つまり個別的なままに止まり、否定的分裂の中にいる未完成の状態を認めねばならない。それは亡びて(ゴルゴダへと向かって)根拠へと帰らざるを得ないという必然性の意味において、精神の運命としての時間が語られている。
 「個体は言い表し難い」という古典的な命題は、カントにおいて純粋理性の理想として、いわば認識の彼岸に掲げられ、人間の認識を導くイデーとなり課題となった。その前提としてカントは、伝統的な個体論が独断的な実体論であり、この実体論は、自らの批判によって否定され崩壊したという自負と自覚とを抱いている。これに対して、カント自身が、特殊性の問題あるいは新しい個体論の展開を『判断力批判』において提出しようとしながら、それは反省的判断力によって、単なる主観的目的論に達し得たにすぎなかった。そしてこのようなカントの考え方との比較において、その成果を批判的に継承したヘーゲルが個体論を『精神の現象学』(これは個体を経験する自然的意識の中で現象知と実在知との行う対話と言うことが出来よう)として展開した筋道を概観した。このような我々の発想は、言い表し難い個体を常識や感情に、あるいは内面の神話に、訴えることなく、概念の労苦を通じて自己のものとすることが、『精神の現象学』において哲学的意識のまともに立ち向かうべき課題であると考えたからである。ヘーゲル哲学はこの意味において単なる普遍主義でもなければ独断論でもない。むしろ普遍的な運命、必然性、威力、脅迫、偶然、さらに「実体の夜」に対して、いかに個体を守るかということにその思索を集中したのである。
 けれども、ここから導かれる結論は、極めてパラドクシカルであると言わざるを得ない。なぜなら、完全に限定された個体が個体即普遍の理想を達成し得たときに、それは絶対精神として有限な個別者(人間)を越えた普遍者となるからである。個体はただ絶対的な主体、無限な精神においてのみ実現しているが、有限なる主体においては実現されていない。それだけではなく有限な主体は絶対的個体が完成されるための通過点、それによって媒介されるべき過渡的な抽象的普遍に止まるであろう。ヘーゲルの歴史哲学において悪評の高い「理性の詭計」は、このような個体にその自立性を許容しない。老獪な意識、あるいは主観的目的が、暴力あるいは詭計によって、自然からその富を獲得してくる労働の過程(弁証法)は、社会化された人間の集団においては、逆に個別的な主観に対して自立的な威力を振るう。なぜなら、主観的目的が実のところ、生産手段そのものにおいて客観的となった理性(技術的な合理性)の手段として対象化され、さらにこの目的を実現するための客観的合理性(人間関係の対象化である社会的制度)によって常に追い抜かれるからである。「行動の主体は、自分の目的の実現を目指してまたこの実現を通して制度化された、社会的諸関係の中で、客観的な善がいちはやく現実性となり権力となっていることを思い知らされる。これに比べると、当初志向された目的は単に主観的なものとして格下げされていることを承認せざるを得ない」とヘーゲルは言う。ここにヘーゲルにおける普遍主義への移行のカラクリがある。社会制度とくに国家として客観化され普遍化された絶対精神は、個人の特殊な目的と特殊な情熱とを利用するが、しかし精神がこれらのものを必要とするのは、個体のためではなくて、普遍的な絶対精神すなわち自己自身のためだけである。完全に限定され、概念把握された個体とは絶対精神の操り人形になってしまう。操り人形になることを、すなわち、精神による普遍的承認を拒絶することによって、言い表し難い個体を守ろうとした美しき魂は自滅せざるを得ない、というのがヘーゲルの見届けた個体の運命であった。
 個体を越える論理をヘーゲルは青年時代のキリスト教の研究以来一貫して持ち続けている。原始キリスト教団の悲しむべき運命とは、現実の国家生活との合一から疎外され、排斥された私人としてのキリスト者の境涯に現れる。共同体(国家)との多種多様な関係や喜ばしく美しい連帯の中で失われたものが、孤立した個体性やその独自性に関する偏狭な自負によって補償されたとヘーゲルは見る。けれども生きた自由、真実の個体とは共同体との生き生きとした諸関係の中で初めて実現されるのであって、ここからカントの道徳性を越える、人倫性という普遍的概念が生まれる。人倫性とは「生命としての生きた個人が絶対的概念と等しいこと、その客観的意識が絶対的意識と一つであること」として規定される。「この完全なる同一存在はただ知性あるいは絶対的概念によってのみ可能である。この概念によれば、生ける存在者は、自らと反対のもの、すなわち客体として定立されるが、しかもこの客体そのものが絶対の生命であり、一と多との絶対的同一性である」。
 にも拘らず、このような運命に打ち克ち個体を普遍者によって完全に捉え得たと考えたとき、それは言葉や概念の普遍性に引き裂かれて、個体であることを止めてしまうのではないか。道徳性より人倫への移行には先述したような普遍化の論理が含まれているからである。普遍的全体が本来の自己であるとする論理は、唯一の普遍者によって個体を支配する論理に転化する。そして言い表すことの出来ないものは真ならぬもの、理性的でないもの、単に私念されたにすぎぬもの、として否定される他ないのである。物と言葉との基本的な矛盾がここに認められる。この矛盾を魂としてヘーゲルの論理は、この論理によって個体を完全に把握することによって個体をアウフへーべン(廃棄)してしまったのである。「ヘーゲル哲学の深刻な欠点の一つがおそらくここで言語論と個別性の考え方の中に現れている」とイポリットは言う。
 一方このようなヘーゲルの普遍主義に対して言えば、個体は言い表し難いという立場を貫いたカント哲学の方が、逆説的ではあるが、節度をわきまえた個体論者だということになるであろう。カントは反省的判断力の格率がついに主観的なものに止まること、因果律と目的原理とを総合する直観的知性は、人間の認識の限界を越える単なる理念であることを率直に認めた。我々は主観的であるということの謙虚な自己認識の方が、それを客観的であると声高く主張するよりも遙かに客観的であり、鋭く人間の条件を捉えていると考える。カントの個体論には、自由と個人主義と法的平等という啓蒙期におけるヨーロッパ市民社会の常識が反映している。それはそれぞれの個体性を他との類同を越えて尊重するというのではなく、同時に普遍的であるような均質な人間一般を関心の対象にした啓蒙的理性の合理主義、さらに同時代のメカニカルな自然科学的合理主義と見合った概念である。けれども、個体の認識が純粋理性の理想であるとは、あらゆる個人が無限であること、したがってあらゆる個人は認識の対象である限りそのつどの完全なる認識を越える理念であることを教えている。あらゆる個人はまた理性的存在者として、それぞれが己の中に理性の深淵を腹蔵しているのである。この個人主義の中に近代の解放と同時に疎外を見たヘーゲルは、個体を生かす論理を抽象的な法や個人的な道徳を越えて普遍的な人倫に求めた。人倫は権力と結びついた民族国家として制度化された。個体は止揚されたのである。矛盾を自覚的に内包した普遍的な論理を現実化しようとして、完全な人倫の体制を民族国家に求めた結果が、非合理的な全体主義に陥ることをその後のドイツ政治思想が示している。アトムとなって分散し形骸化した個人主義と権威主義との癒着である。1930年代におけるナチズムの思想はゲルマン民族の哲学者ヘーゲルにその思想的源泉を持つとする、アングロサクソンの哲学者たち(B・ラッセル、J・デューイなど)の指摘もある。この場合「最高の論理的帰結ほど非論理なものはない。なぜなら、それは最後に到って急変する不自然な現象を生み出すのだから」というゲーテの『箴言と反省』の言葉が妥当するように思われる。

 『精神の現象学』(1807年)が出版された後、シェリングとの長い間の友情は断ち切られた。『人間的自由の本質』(1809年)以後、晩年に至るまでのシェリングの中・後期の思想も、ヘーゲルと共に共有した同一性の哲学の立場を越えて、あるいは、前述したようなヘーゲル哲学の個体即普遍という概念論や現実性の思想を打ち破って、実存や現実性についての新しい境地を切り開いていく。それはヘーゲル哲学の弁証法的合理主義に対していえば、その合理主義を越えた直観、あるいは経験に基づいた哲学、いわゆる積極哲学の展開である。シェリングの後期哲学思想が、ドイツ観念論より今日の実存哲学への移行を示す一つの里程標であることは既に多くの人々によって指摘されている。実存とは言うまでもなく人間的個体である。彼の個体はそれゆえ人間存在を意味する。我々もまた人間的個体の概念を中心として、シェリングのヘーゲル批判という見地から考えてみたい。この批判はシェリングの哲学がヘーゲルにおける関係の内在性を越える理論だという視点から最もよく捉えられると思う。
 東洋思想の没自己的な実体論やスピノザ流の抽象的な悟性の普遍主義に対して、ヘーゲルは個体主義の立場をとる。反スピノザ的な個体の形而上学とは言うまでもなくライプニッツのモナド論として登場する。けれどもこのモナド論も、関係の内在性という観点から見るならば、結局スピノザ主義に帰着するのではないか。ヘーゲルもまたライプニッツのモナドの理論、すなわち、述語の主語への内属を説く論理がトートロジーであることを指摘し、モナドと他者との関係については次のように解説している。「<したがってモナドは単純にしてそれ自身閉じており、他者から限定されることはあり得ない。この他者をモナドの中に置くことは出来ない。モナドは自分の外に他者を持つことも出来ず、さらにまた他者を自分の中に持つことも出来ないのである>(『哲学原理』第7節)。これはスピノザ主義との連関、つまり各属性はそれぞれ神の本質を対自的に表現し、延長と思惟とは相互に影響を及ぼすことはない、というスピノザ主義との連関を示している」。
 モナドの論理を同一性の原理として捉え、主語と述語との区別をモナド内の区別としてのみ固定するならば、ヘーゲルの批判は正しいことになろう。ヘーゲルにおいて概念の単一性は一と多との統一、自己と他者との総合であり、ここで維持されている同一性はトートロジーではなくて、まさに否定的同一性、連続的同一性ではなく、連続と非連続の弁証法的同一性だからである。ライプニッツのモナド論には弁証法的な、媒介が欠如している。
 むろんヘーゲルは、B・ラッセルのように関係の単純な外在性を説いているのではない。関係は関係項を離れては存立しないが、関係項自身が自己関係という形で一切の他なる、あるいは多なる関係を含むと考えれば、大文字の関係項が、あらゆる関係をその中に集約した実体として残るだけで、独立した個体としての他者との関係そのものは消滅してしまう。個体(他なる関係項)もまたこの大文字の関係項の中に拡散して、それを実体とする様態になってしまう。他者との関係を関係の第一義的意味と考える限り、関係とはそれ自身が超越的意味を持つ己ならざるものとの関係となるのだから、関係の内在性という言葉は形容矛盾になる。
 ところでヘーゲルにおいては意識は第一義的には対象意識であり、他者を志向する意識である。だから他者の意識と自己意識、他者への関係と自己関係との矛盾、対立、疎外を乗り越える論理として、ヘーゲルに独自の無限判断あるいは弁証法が生まれたといえる。対象意識から自己意識への移行において無限性が実現するからである。「かくして最後に無限性が意識に対してそれがまさにそうであるものとして対象であるときには、対象意識は自己意識である」。これはカント的な悟性としての意識の働きに、すなわち自己立法(自己意識)によって対象を構成する統覚の働きに注目した、ヘーゲルの巧みな解釈である。このようにして弁証法そのものが関係の論理、つまり対立し矛盾する関係項を関係づけ、媒介する論理となる。関係が関係項を離れた第三者によって成り立つとすれば、この第三者を含む関係はさらに第四者を要請し、かくして限りなく関係存立の根拠を求めて遡らねばならない。だから単なる関係の外在性は成立しないのである。これを悪無限として斥けたヘーゲルは、関係成立の基盤を、他者を媒介する自己関係の能力である理性に求めたのである。
 このようなわけであるから、ヘーゲルにおいて関係についての思惟と関係そのものとが結びつき、他者との関係についての思惟は関係の自己構成として総合される。関係は理性の働きに内在する。かくして関係の内在性に立つ限り、この関係に含まれる否定は、ニヒリズムの哲学が絶叫する無制限な否定ではなくて、限定された否定、限定された無であり、他者とは、全く異質の他者ではなくて、思惟された他者である。他であることにおいて自己自身に帰って来る反省、絶対的他在における純粋な自己意識といえども、関係が全て理性に内在するという条件のもとに成り立つのであって、絶対他者(K・バルト)という概念はヘーゲル哲学においては認められない。
 絶対者を目指して否定と肯定(否定の否定)とを繰り返す精神の歩みは、ちょうど、蚕が自ら吐き出した糸によって繭を作るように、己の自足的な体系の中に閉じこもってしまう。あるいはヘーゲルの体系は、ねずみ取りの罠に譬えられる。一度捕まったらなかなか抜け出せない。疎外された個体と言えども、絶対精神の永遠の生命として現象するのであり、それを保証する弁証法が個体の真理だということになる。事実我々は個体性を示すあらゆるカテゴリーを『精神の現象学』のいたる所に見出した。では果たしてそれは本当の個体であるのか。そこに本当に個体が存在しないとしよう。そうするとこのように断定することは、ヘーゲルの意味での概念(個体性)が何ら現実的なものではなく、あるいは具体的でないことを、ヘーゲルとは異なった経験の基盤で示さねばならない。他者の存在やあるいは非存在の概念についても、全く同じことが指摘される。我々はここでカントによってヴォルフやライプニッツの概念に対して向けられたと同種の論難にぶつかる。つまりこれらのライプニッツ・ヴォルフ的な、あるいはヘーゲル的な概念は、「可能的な百ターレル」にすぎない概念であって、現実の百ターレルとなるためには、この概念にとって他者となる経験的直観、感覚、知覚、あるいは現実性が欠如しているのではないか。もしそうだとすれば、これらの概念の本当のリアリティーをヘーゲル哲学の枠組みを越えて示さねばならないであろう。





































































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