ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS ヘーゲルにおける言語の位置

<<   作成日時 : 2017/02/11 11:32   >>

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 『精神の現象学』の緒論の始めのところで展開されている認識論批判についてヘーゲルは次のように述べる。認識を道具、または手段とみなす認識観は、一方の側に真なるものとしての自体的にあるものをおき、それを認識によって意識のものとしよう、ということをその課題としている。その企てに際して、現実に認識することに取り掛かる前に、予め真理を媒介する道具、手段としての認識の機能を吟味しておこうという一応最もな要求が生じてくる。また吟味は、認識は一定の種類と範囲との能力であるゆえに、その本性と限界とをより厳格に規定しておくためにも必要だとみなされる。
 しかし、そもそも絶対的実在を、道具としての、手段、媒体としての認識を通して我がものにしようとする企てそのものが不条理なことである。というのは道具を或る物に適用することは、その物を何らかの意味において形成、加工することであり、変形することであり、また媒介を通じて捉えることも、それはあくまで媒体を通じて捉えられたものにすぎず、自体そのものではないからである。そこでこのような窮地を脱するために、道具、手段の本性を知り、それらが認識行為に際して、付け加えた余分なものを差し引いて、物そのものに属するものを残そうとする。しかしそのような目論見全てが徒労に終わる。というのは、そのような操作の後に残るものは努力以前の物の姿にすぎないからである。
 このような苦労多い努力の結果辿り着かれる結論は、認識と絶対者との間には絶対に超えられない限界があるという確信である。しかし、ヘーゲルによれば、むしろそれらの認識の吟味が前提としているものこそ、予め検討されるべきなのである。つまり、認識を道具、手段として表象し、しかもこの認識から絶対者を引き離すことを前提にして吟味がなされるが、そのことがむしろ予め検討されるべきである。さらにヘーゲルは、誤謬に対する恐怖と称されるものが、実は真理に対する恐怖であった、ということを暴露するものとして、この吟味の次のような前提を挙げている。「とりわけ、これは絶対者が一方の側に立ち、認識は他方の側にそれだけで、絶対者から分離していながら、しかも或る実在的なものであることを、したがって言い換えれば、認識は、絶対者の外に、またおそらくは真理の外にありながら、それでも真なるものであるということを前提しているのである」。
 このような絶対的に真なるものと、その他の真なるものという曖昧な区別に基づく立場に対して、ヘーゲルは極めてぶっきら棒に、「絶対者のみが真であり、言い換えると真なるもののみが絶対的である」と自らの立場を断言する。このヘーゲルの言葉が意味する事態は、今後の展開において明らかになるであろう。それはともかくとして、絶対者の本性、認識の本性を知らぬものとして、ヘーゲルによって展開されている認識=道具、手段説に対する批判は、絶対者と認識との分離という表象に基づくあらゆる諸関係に妥当するものである。それゆえ、この批判はそのまま言語=道具、手段説に通じている。そのような言語観において常に問題なのは、道具、手段としての言語とそれによって伝達される実在、あるいは思想、感情との隙間の問題である。つまり、言語はいかなる程度に実在を、思想を媒介しているのか、ということが常に関心の中心を占めている。言語についての分析的思惟にとって、言語は対象となる、つまりそれは言語をその外的形式あるいは外面的な合目的性に従って、一面的に意志の疎通や表明の手段、あるいは情報伝達の道具としてみなしている。そのような観点から見られた時、言語はいわば意味内容に後から付け加わる言葉による表出の役割を果たすものにすぎない。
 絶対者を認識という道具、手段によって捉えようという企ては、結果として、認識と絶対者との間には超えることができない断絶があるという確信に変じていかざるを得ない。それは言語との関連においていえば、言葉は絶対に事そのものに届かないという主張に通ずる。火という言葉を言っても口が焼けるわけではない。そこで媒介は何ら絶対的なものではなく、絶対的なものの中に全く含まれていないということから、媒介を排し、直接絶対者を捉えようとする態度が出てくる。それに対して、ヘーゲルはそのような直接知の立場を次のように批判している。「始まり、原理、すなわち初めからいきなり絶対者と言い表されるものは、一般的なものにすぎない。私が全ての動物と言ったからとて、この言葉が動物学として妥当するわけではない。それと同様に、神的なもの、絶対的なもの、永遠なものなどの言葉が、その中に含まれているものを言い表していないことはすぐ気づかれる。つまりそのような言葉だけでは、実際には無媒介なものとしての直観しか表現していないのである。そのような言葉以上のもの、たとえ一つの命題への移行にすぎなくても、これは他者となることを含んでおり、それは取り戻されねばならないものである。それは媒介である。しかしまさに媒介こそ嫌われている当のものである。というのは、媒介は絶対的なものではなく、絶対的なものの中には全く含まれていないということ、ただこれだけのことより以上のことが媒介から引き出されるならば、それによって絶対的認識が断念されるかのように考えられているのである」。
 媒介とは、自分の直接的立場を否定し、他者となることを通して、自分自身へ照り返る、つまり、屈折的に復帰するという迂回の道である。それゆえヘーゲルは媒介作用を、自ら動いて自己自身と等しくなること、言い換えれば、自己自身に帰す(反照す)ること、自己自身に対している自我の契機、純粋否定性、単純な生成と呼んでいるのである。それゆえ、そのような反照の働きを真理から除外し、それを絶対者の肯定的な契機と考えないとすれば、理性を見誤っていることになる。例えば、神は永遠なものであるとか、道徳的世界秩序であるとか、愛であるとか言われるとき、これらの命題においては、真なるものがいきなり主語として定立されているだけであって、自己自身へ反照する運動として述べられていない。つまり、この種の命題においては、神という言葉で始められるが、この言葉はそれだけでは意味のない音であり、ただの名前であるにすぎない。この単なる言葉としての神という概念が充たされ、意味をもつようになるのは、主語が述語へ移るとき、述語が神とは何であるかを語るとき、つまり媒介作用を通して初めてである。「空なる始まりは終わりに至って初めて現実となる」。
 B・パランの言葉を借りるまでもなく、ここにおいてヘーゲルは「実体論的観念論」に対して闘争を挑んでいる。つまり「実体論的観念論というのは言葉を観念の運送手段として定義するもの、言い換えれば、名詞(実体詞)を実体の形象として定義する思想であり、ヘーゲルはこれは、カントをも含めて近代の他の一切の哲学者たちの根本的誤謬と考えるのである」(パラン、1972年)。ここにおいて言語の道具化、手段化は、実体を実体としてしか捉えることができない立場に由来するものであることがわかる。最初の場合は、認識と絶対者との間には超えられない断絶があるという確信によって、後の場合は、媒介は絶対的なものではなく、絶対的なものの中に全く含まれていないという主張によって、いずれも実体論的立場に固執している。因みに、その場合言語は、前者においては、分裂の言葉として、後の場合は、直接的なもの、無媒介なものを言表する単なる名前として、いずれにおいても道具、あるいは手段の役割を果たしているにすぎない。それゆえ、実体論的立場を越えることが、取りも直さず、言語=道具、手段説を超える地平を示すことになる。かくしてヘーゲルにとって、道具、手段としての言語との闘いは、彼の哲学の核心を構成するものとなるのである。

 ヘーゲルは、実体論的観念論の批判的検討を背景に、自分の絶対者観を次のように導き出している。「真理は全体である。しかし、この全体は自らの展開を通じて自らを完成する実在のことに他ならない。それゆえ絶対者について言われるべきことは、絶対者は本質的には結果であり、終わりにおいて初めて、それが真にあるものとなる、ということである。まさにその点にこそ、現実的なもの、主体、あるいは自己自身になる、という絶対者の本性が存するもである」。パランはこの定義の中にヘーゲルにおける言語の定義を読み取り、しかもこの定義は言語の表現主義的定義を表現していると言っているが、我々はその問題を検討する前に次のことを確認しておきたい。この定義は絶対者を「精神」という言葉で言い表すことと同じことを意味しているが、それはまた、「実体を主体」として理解し、表現することでもある。「真理は体系としてのみ現実的であること、すなわち、実体は本質的には主体であることは、絶対的なものを精神と言い表すという考え方の中に表現されている」。続いてヘーゲルは「精神的なもの」を次のように形式的に規定している。精神的なものは、まず「実在すなわち即自的に存在するもの」であり、第二には、「関係するものであり、限定されたもの」、「他在であり、対自存在」である。そして、第三には、このように規定されていることにおいて、すなわち、自らの外に存在しながらも自己自身の内に止まるもの、つまり「即自かつ対自的」に存在するものである。
 さて、以上の事態をパランにならって言語の相の下にみるとき、まずパランが表現主義という言葉で言い表そうとした事態は、ヘーゲルにおいて、言語は、何か一義的に規定できるようなものではない、ということを意味している。K・レーヴィットが次のように述べているのは、そのようなヘーゲルにおける言語の言い表し難い構造に特に注意を促すためである。「思弁的思考の弁証法的構造は、そもそも言語という用具が、一義的な諸命題を生ずるようにと、それを精密に規定し固定化しようと欲することを、禁じているのである」(レーヴィット、1970年)
 それでは我々はヘーゲルの言語の位置をどこに定めるべきであろうか。その場合、我々が、ヘーゲルは、先に批判した道具としての、あるいは手段としての言語を全面的に否定したところに自らの言語の位置を定めようとしていると思うならば、それは間違いである。ヘーゲルが批判しているのは、それらの立場がそれぞれ、分裂を固定化し、媒介を拒絶することによって、言語を単なる道具、手段に貶める結果となってしまっていることに対してである。それゆえ、ヘーゲルは、そのような固定的立場を流動化することによって、言語を精神の自己展開の過程の中に位置づけようとするのである。レーヴィットがヘーゲルの言語哲学の位置を規定するに際して、次のように述べているのも、その事態の一つの説明である。「ヘーゲルもまた記号から出発して言語の本質を規定しようとするのであるが、しかしそのやり方は、記号を精神の否定性という普遍的構造の中へ取り戻し、何か両義に解せられるロゴスという基礎の上で、事柄と言葉とを同一のものとする、というふうにである」。
 このことから、ヘーゲルにおける言語の成立根拠は一応、精神にあるということが出来る。それは同時に精神が自らを展開するのは、言語という場においてであるということをも意味する。まさに言語は、精神の定在(時空限定的存在)である。「したがって我々は再び言語が精神の定在であることを知る。言語は他者に対して存在する自己意識であり、それは直接、そのようなものとして目の前にあり、このものでありながら普遍的なものである。言語は自分を自分自身から分離する自己であり、それは純粋な自我=自我として、自分にとって対象的となり、しかもこのような対象性においてもこの自己として自らを保持すると共に、そのまま他者と合流して、他者の自己意識でもある。この自己は、他人から聴き取られるように自分を聴き取る。この聴き取ることこそ、まさに自己となった定在なのである」(PG、S.458)。この言表はヘーゲルにおける最も一般的な言語観を述べているものとしてしばしば引用されるものであるが、『エンチュクロぺディー』の次の言葉は言語の本質をより簡潔に表現したものである。「言語というものは、いわば、思惟の身体である」。
 この「精神の定在」としての言語という規定を、レーヴィットは次のような意味に解している。「言語は、ヘーゲルの体系では、思惟する精神の方から理解される、つまり、言語は何ら純粋にそれ自身から把握、理解できるような根源的かつ自立的なものではない。言語は何ら存在論的威厳を持ってはいない。言語は<存在の住家> Haus des Seins ではなくて、人間の思惟の宿泊所でしかない」(レーヴィット 1970年)。このような理解に基づいてレーヴィットは、ヘーゲル哲学において言語は主観的人間精神に位置づけられ、しかもそれは専ら主観的な記号としての役割に限定されたものにすぎないとみなしている。「ヘーゲルは言語を、人間的思考にとってのその間接的、媒介的意義に制限する」。しかもそのような有限な主観的精神は、世界の精神としての無限な精神の内にその根拠をもつものであるゆえに、思考も言語もまた、ただ単に人間に属するばかりでなくて、その根源的位置を世界精神の絶対的全体者の内に持っていることになる。しかし、レーヴィットによれば、そのような言語の存在論的=神学的意義については、当然問題にされるべきはずなのに、ヘーゲルにおいては問題となっていない。
 このレーヴィットの言語の位置づけ、理解は、それなりに実に明快なものではあるが、それゆえにまた、最も一般的なヘーゲル理解と同じ浅薄さを共有している。ここにおいては、言語を含めて全てのものが、いわば実体化されて把握された精神、究極的には絶対的精神が、己を世界や人間において有限化し、時間化するその自己運動の中に吸収されてしまうものとみなされている。それゆえ、その精神の展開における媒介の運動、反照の働きは単に形式的なものとならざるを得ない。そこでは、精神における否定的なものの役割、あるいは他在、疎外とその超越の意義が十分に認められているとは言い難い。そのために言語は先に論究した立場においてよりも、むしろ徹底して道具化してしまっていると言うことが出来る。
 一方ヘーゲルにおいては、否定的なものはその哲学の要である。それはまた、同時にヘーゲルにおける言語論の要でもあり、その評価の分岐点でもある。それゆえ、ヘーゲルは至る所で「否定的なもの」の意義を強調している。「分けるという働きは悟性、最も驚嘆すべき最も偉大な、あるいはむしろ絶対的な威力である悟性の力であり、仕事である」。そして、「このように分けられたもの、非現実的なものこそは、本質的契機なのである」。と言うのは、具体的なものは引き離され、非現実的なものになるから、動くのである。分けられたものの区別、不等性、つまり否定的なものは両者の欠陥とみなされるが、実際には両者の眼目であり、両者を動かすものである。それからすると、「自分の中で安らい、実体として自分の諸契機を支えている円環」としてある直接的に実体的なものは、「何ら驚くべき事態ではない」。驚嘆すべきことは、その円環から「偶然的なもの」、「結びつけられたもの」、「他のものと関連してのみ現実的な物」が、自己の「定在」 Dasein を得て、「自由」になるということである。まさにそれこそ、「否定的なものの途方もない威力」である。しかも、その力は「思惟の、純粋自我の活力」である。精神はそのような絶対的な分裂の中にいるときだけ、自らの真理を得ているのであって、そのような否定的なものから目を逸らすような単に「肯定的なもの」ではない。つまり「媒介を自らの外に持っているのではなく、媒介そのもの」である。まさに「実体は主体」である。
 レーヴィットはこの「否定的なもの」の意義を十分評価することが出来なかったために、全てを実体化した精神の自己運動の中に吸収してしまった。そのために、言語も徹底的に道具化、記号化してしまい、それを越える地平を示し得なかった。しかし、このようなヘーゲルの言語観に対する理解はひとりレーヴィットばかりではなく、フォイエルバッハ以来、一般的なものであり、しかも極めて根強いものである。そこで我々は、ヘーゲルにおける言語の真の位置を定めるために、言語がヘーゲルの体系において最初に登場してくる場に改めて立ち会うことにしよう。というのは、今まで我々は『精神の現象学』の序文に基づいて、つまり精神の現象学の叙述が終わった後に書かれた序文において、精神の運動について考察してきたからである。それゆえに、ヘーゲルの否定にも拘わらず、全てが実体化した精神の自己展開の中に吸収される、という解釈の成立する余地を残すものであった。そこで我々は展開の始めに還って、そのような臆見の臆見たるゆえんを明らかにしようとするのであるが、それは同時に、手段としての、あるいは道具としての言語を超える地平を切り拓こうとする試みでもある。
 そのような試みを我々は、『精神の現象学』における「意識」の最初の段階の叙述である「感覚的確信、あるいはこのものと私念」と、1805-06年の『イエナ体系構想V』講義草稿を中心におこなう。

 ヘーゲルが「意識」の最も原初的状態から記述を始めるにあたって、まず注意を促していることは次のようなことである。我々は考察に当たって、何よりもまず、現れてくる知をそのまま直接的に受け取るべきであって、一切の反省的態度を遠ざけねばならない。そのような前提の上で感覚的確信をみるとき、未だいかなる抽象も加わっておらず、対象が余すところない完全な姿で我々に前にあるゆえに、この確信は「最も豊かな確信」である、とい一般に思い込まれている。このような感覚的確信の思い込みが、真実のところいかなるものであるかは、意識自身がおこなう感覚的確信の弁証法を通じて明らかになるのであるが、つとに名高い「いま」、あるいは「ここ」への問いを中心に展開されるその弁証法の過程を追って行くことは、ここはその場ではないので、我々は次のようなヘーゲルの総括をもってその経緯を確認するに止めよう。
 「感覚的なこのものが意識にとっての真理であるというのが一般的な経験であると言われるが、しかし、むしろ反対のことこそ一般的な経験である。つまり、意識はそれぞれ、例えば、ここは樹であるとか、今は正午であるとかいうような真理と見なしているものを、自分で再び廃棄して、ここは樹ではなく、家であるというような反対のことを言明する。しかし、この最初の主張を廃棄する第二の主張においても、感覚的なこのものについてのまさに同様の主張となるものを、すぐさま廃棄するのである。それゆえ、あらゆる感覚的確信において、実際に経験されることは、我々が今までに見てきたこと、つまり、このものとは普遍的なものであるということだけであるが、これはあの主張が一般的な経験であると断言しているところのものとは反対のことである」。
 かくして、言葉を通じての意識の経験の結果、感覚的確信にとって、普遍的なものが真理であることが明らかになったのである。「否定によって、存在し、このものでも、かのものでもなく、このものならぬものでありながら、同様に無関心にこのものでも、かのものでもあるところの単一なもの、それを我々は普遍的なものと呼ぶのである」。それゆえ、最も豊かな認識であり、最も真実な確信であると思われていたものが、実は「最も抽象的で最も貧しい真理であること」をさらけ出す結果となるのである。この感覚的確信の弁証法を言語の問題との関連のもとに次に考察してみよう。
 感覚的確信の主張を厳密に規定すれば、「現実的な、絶対的に個別的な、全く個人的な、個別的な物であり、その各々が絶対に同一のものをもたないような物として規定されるような外的対象の定在」の主張である。しかし、ヘーゲルによれば、このような「このもの」、例えば、私が今持っているこのリンゴ(絶対的に個別的なものとしてのこのリンゴ)を、私が自分で思っているように言おうとしても、それは本来不可能なことである。というのは、それは「自体的に普遍的なものである意識に所属する言語」にとっては到達できぬものだからである。それでも敢えて、それを言うとすれば、一つの現実的な物、外的なあるいは感覚的な対象、絶対的に個別的な実在などということ以上のことは言えない。しかし、そこでは、最も普遍的なもの、したがって一切のものとの区別というよりかむしろ同一が言い表されているにすぎない。一切のものが個別的な物だからである。つまり、このリンゴといっても、一切の、また各々のリンゴが、一つのこのリンゴであるゆえに、普遍的なもののことを言っているにすぎないのである。
 このようなヘーゲルの所論に対して、フォイエルバッハの批判を取り上げることによって、その問題性の在り所を明確にしてみよう。フォイエルバッハの批判によれば、ヘーゲルの感覚的意識の実在性に対する弁証法的反駁によって、実のところ、その実在性は些かも損なわれはしない。それどころかむしろ、個別的存在は言い表すことができないというヘーゲルの反駁はむしろ感覚的意識に妥当するものであるよりも、言語に対する反駁となる。「感覚的な個別的な存在の実在性は、我々にとって我々の血で確証された真理である。感覚的領域においては、目には目を、歯には歯を、である。事柄そのものへである。言葉はどうでもよい。君がそこで言うものを私に見せよ」。つまり、感覚的意識にとって、まさに言葉こそ、非実在的なもの、空虚なものである。というのは、「言語は事柄には属さない」からである。つまり、「火という言葉を言っても口が焼けるわけではない」というわけである。感覚的意識にとって言葉は全て、「名前すなわち固有名詞」であり「それ自体全くどうでもよいもの」であり、「最も早いやり方で自分の目的を達成するための記号」にすぎない。まさに、典型的な手段、道具としての言語の位置づけである。フォイエルバッハは言語の役割について別の所で次のように規定している。「言語とは、類の実現、つまり、私と君とが個人的に分離していることを廃棄することによって類の統一を表現するために、私と君とを媒介することである」。すなわち、言語とは、論証の手段、思想伝達の手段にすぎないものである。その場合、論証とは、「思想そのものの内での、思想そのものの為の思想の媒介」ではなく「それが私のものである限りでの私の思考と、それが他人のものである限りでの他人の思考との間の、言語による媒介」のことである。つまり、「論証は、他人に対する思想の媒介作用の内にのみその根拠をもつものである」。そのような論証においては、それゆえに論証する人が伝達する思想は、何ら「物質的な、現実的な伝達」ではないのである。
 それゆえ、フォイエルバッハによれば、そのような思想を単に伝達する手段、道具にすぎない言語に媒介されている現象学の始めは、真に直接的なものではなく、論証の始めのもの、定立されたもの、依存的なもの、媒介されたものにすぎない。つまり、その始まりは思想とは別のものについての思想にすぎないのである。それゆえ、現象学の始めにおいては、現象学で対象とされる存在と感覚的意識の対象である存在との媒介されぬ矛盾と分裂が存在しているのである。それに対してフォイエルバッハは、無媒介な、直接的に個別的なもの、つまり、言語にまだ汚染されていない、言語の届かない事柄そのものの存在を懸命に確保しようとするのである。
 このような自体的にあるものの存在を主張する立場に対して、ヘーゲルはあたかもフォイエルバッハの批判を先取りしているかのように次のように応答している。「それゆえ、言い表すことの出来ないものと呼ばれるものは、真ならぬもの、理性的でないもの、ただ思い込まれたにすぎないものに他ならない」。このヘーゲルの言表を、もしヘーゲルは感覚的意識の対象の存在を認めているのだけれども、その存在は言語で言表できないと主張しているのだと理解するならば、我々は誤っていると言わねばならない。そのような理解は結局フォイエルバッハの批判と同根のものである。この「思い込み」、「真ならぬもの」というヘーゲルの言葉を我々は文字通り受け取るべきである。「言い換えると、我々は、このものを感覚的確信において思い込んでいる通りには決して言わないのである。しかし、言語の方が、我々の見るところでは、思い込みよりもいっそう真なるものであり、言語において我々は自分の思い込みに自ら直接背くのである。そして、かく普遍的なものが感覚的確信の真理であり、言語もこの真理のみを言い表すものである以上、我々が自分の思い込んでいるような感覚的存在を仮初めにも言い得るなどということは到底可能ではない」。そこで、ヘーゲルは言語の持つ創造的な力について、次のように言っている。「語るということは、思い込みを直ちに逆のものに変え、ある別なものとし、その結果、思い込みに全く発言の機会を得させないという神的な本性をもつものである」。
 我々はここにおいて、言語は単なる手段、道具であるどころか、真理を意識に媒介するものであり、逆に、我々が真だとみなしているものが単に思い込みにすぎないものであり、それゆえに言語は思い込みに自ら背くことによって、思い込みの思い込みたるゆえんを明らかにするゆえに、言語の方が思い込みよりもいっそう真なることを理解することができる。つまり、以上のことを、そのままで直接的に精神そのものである意識に相即的に媒介し、意識を自らへの自覚へと目覚めさせたものこそ言語である。そのような意味で、言語は、意識の、さらには精神のエクシステンツ(実存)の必然的制約であるということができる。
 さて、言語が真に創造的なものであり、真理を媒介するもの、精神そのものであるということを、我々に明らかにしたのは、「自体的なもの」と、手段、道具とみなされていた言語との反転の論理であった。それゆえ、いま一度この反転の論理を確認しておくことは、必ずしも蛇足ではないだろう。というのは、フォイエルバッハ的臆見はいつの時代にもたえず支配的なものであるゆえに、徹底的な対決を要する問題である。またここで繰り返し確認しておくならば、この論理こそ、ヘーゲルにおける言語観の核心を構成するものである。

 ヘーゲルは『精神の現象学』の緒論において、自体そのものを前提としている思想的立場の自己確信の固定性が、自己崩壊せざるを得ない必然性を、現象する知の叙述という形で述べているが、ここでは、言語の問題との関連で、自体の展開について要約しておこう。
 一般に、あるものの知が問題になるとき、一方に真とみなされる自体(即自)存在 Ansichsein が置かれ、他方にその知が分離して置かれて、その知の吟味が行われる。そしてもしその吟味において、知が尺度としての自体に一致しないとき、意識は自分の知を変えて、自分を対象に一致させねばならないと思う。これが最も普通の、常識的意識である自然的意識の根底を支配している認識観である。
 しかし、ヘーゲルはその驚くべき実相を明らかにする。我々が自らの経験を反省すればわかることであるが、じつは「知が変わる時には、実際には、知にとって対象自身もまた変わるのである」。つまり、知と共に自体的なものと思われていた対象も移動したのである。対象は本質的には知に帰属するものであったのである。まさに自然的意識の思い込みが逆転したのである。初めに自体であったものは、自体ではなく、意識にとって自体にすぎなかった。それゆえに、吟味は知の吟味であるだけでなく、尺度の吟味でもあるわけである。かくして、このような弁証法的運動を、意識は自らにとって新しい対象が生じてくる限り行うのであるが、その過程において、自然的意識は自らの足場を失うゆえに、それは自然的意識にとって「絶望の道」と呼ばれるべきものである。
 この意識の経験、すなわち対象は本質的に知に帰属するものであるということの経験は、『精神の現象学』におけるさらに進んだ展開においては次のように明らかにされる。一般に、認識は、何よりもまず、あらゆる現象から超越しているものであり、しかもあらゆる現象が、それから由来すると考えられている「物自体」という絶対的な自体が、措定されるところから始まると考えられている。そのような始めがなければ、いかなる認識も成り立たないからというわけである。カントも、この最も素朴な前提を超えることが出来なかった。しかし、ヘーゲルによれば、その物自体というものがいかなるものであるか反省するとき、物自体というものが問題にされるのは、いつの場合も、現象との関連のもとにおいてであることがわかる。つまり、物自体なるものは、現象を超えるもの、現象ではないものという形においてしか言うことができない。すなわち、それは現象から推理によって間接的に立てられた結果にすぎないものである。それゆえ、超感覚的彼岸と言われるものは、実は生じて来たものであり、その由来は現象にある。それゆえ、それの実相は現象としての現象だったということがわかる。これはまさに一般の物自体の理解が逆転したことを意味する。物自体と現象との真実の関係は、一方は、他方において初めて自らであり得る。一方は、他方をそのまま自分自身においてもつものである。
 ここにおいて、自体とは、実はこちら側との関わりにおいて、そのようなものがあるはずだという当為としての規定であり、自体ならぬものにおいて初めて自体であることが判明した。すなわち、自体は自体とされることにおいて、すでに対自を前提していたのである。つまり、割れ目なき絶対的自己同一なものと思われていたものが、実は自己に否定を含んでいるという意味において、割れ目を持っていたことがわかる。それゆえ、自体は、すでにただの一者ではなく、「否定的一者性」であることを意味する。自体は、自らに否定を含むゆえに、一であることにおいて二であり、反照を内在させているものであり、反照それ自身である。
 以上の展開を言語の相の下に見るとき、自体的なものが二つに分けられ、対自へと展開するとき、その運動を媒介しているのは、とりもなおさず、言語の根源的な分ける力であるということができる。しかも二つのものが一つへと、照り返るのを媒介するのも、また言語の力であるということが出来る。言語は、一つなるものを二つに分ける力でありながら、そこにおいて同時に二つのものを一つにする力でもある。つまり、言語こそ、反照それ自身であるということができる。ヘーゲルにおいて言語は、知性の高揚の推論における媒辞としての表象の領域に属するもので、精神の媒体、つまり直観と思惟との間を媒介する女神という役割を果たしている。言語は感覚的なものと非感覚的なもの、直観と概念との根源分割の力であると同時に、その両者を一つに形成する力でもあり、しかもそのような力として、意味形成の力である。それゆえ、言語は、人間の中の最高の力と呼ばれるに相応しいものである。言語は思惟の表象である。その言語の中で、人間の思惟の諸形式が、外に表出され、そして書きとめられるのである。言語は表出(外化)として規定されながら、その表出が同時に内へと再び取り戻されているような媒辞の世界である。
 我々は、最後に、以上のような言語の役割、位置づけを、ヘーゲルにおける言語の誕生の場において確認しよう。
 さて、我々はヘーゲルの言語の役割とその位置を定めるにあたって、1805/06年の『イエナ体系構想V 精神哲学』講義草稿の「主観的精神」のところと、1830年の『エンチュクロぺディー』の第一部、主観的精神の心理学の中の「理論的精神」のところを考察することにしよう。『エンチュクロぺディー』のその箇所は、ヘーゲルにおける言語の問題が論じられる場合には、必ず取り上げられるところであるゆえに、ここに改めて、その箇所の言語の問題への関わりについて言及する必要もない。それに対して『イエナ体系構想V 精神哲学』においては、我々はヘーゲルの体系の中に、言語が登場し、その役割を果たし始めるその瞬間に出会うことができる。
 『イエナ体系構想V 精神哲学』の展開は、フィヒテとの対決を目指して、フィヒテ哲学の体系的構成にならってなされる。一つの展開は、言語を媒介項とする主体と客体との相互行為であり、第二の展開は、道具を媒介とする人間と自然との間の相互行為(労働過程)であり、もう一つの展開は、家族を媒介項とする自我と他者との相互承認行為(愛-互恵)である。自我はこの三つの過程を通って初めて、精神として、つまり、普遍性と個別性との同一性として現れることになる。K・レーヴィットが言っているように、三つの相互行為の内、第一の言語活動と第二の労働過程とは、共に直接性を否定することによって、第二の精神的に媒介された世界を生産するゆえに、まさに人間と人間の世界とを媒介する、精神的活動の二つの卓抜な現象様式である。それゆえに、我々がヘーゲルの体系における言語の位置をより明確に定めるためには、言語活動と第二の体系的には自我の実践的活動に属する活動との連関についての考察を必要とするが、第二の労働による自然的世界の加工の活動は、広義には言語活動に包摂されるものであるゆえに、ここでは労働が言語と共に精神の二大現象様式であることを確認しておくだけに止めよう。
 精神の初めはまず直観である。精神は自分の直観することを直観する。つまり、対象を自分の対象として、象 Bild として直観する。「直観において精神は像である」。対象は像として精神に属してはいるが、それはまた精神と一体となった単一なもの、いかなる区別をも有しないものとして、「精神の夜」の中に保管されている。
 このような形象の中に、すなわち外面的素材の中に沈潜している状態から人間は抜け出さなければならない。「この夜から像を引き出し、像を生み落す力、つまり、自己措定、内面的意識、行為、分裂」。直接的直観においては、私は単に対象の意識にすぎないが、ここにおいて、対象は一般に形式を、つまり「私のもの」という規定を手に入れるのである。「対象は私にとってすでに知られたものであり、私は対象を想起(内化)している、つまり私は直接対象において、私のものという意識を持っている」。ヘーゲルは「想起が対自有という契機を付け加える」という。「私はそれをすでに一度見たあるいは聞いた。つまり、私は想起している。私はただ単に対象を見たり、聞いたりするのではない。その際私は私の内部に行き、私を想起している。私は自分を単なる像から取り出し、私の中に私を措定する。私は特に私を対象として措定する」。
 ところで、あの精神の夜から引き出され私の前にある「対私有」においては、外的な対象そのものは廃棄されている。対象はもはやそれがあるところのものとは全く別のものであり、別の本質をもつものであり、自己であり、別な意味をもつものである。それこそ記号と呼ぶに相応しいものである。「記号においては対自有が対象の本質として対象である」。像の世界から言語の世界への決定的な移行である。『エンチュクロぺディー』において、ヘーゲルはこの移行の意味について次のように述べている。「記号は何か偉大なものと言明されねばならない。知性が何かを表す(記号化する)とき、知性は直観の内容を処理してしまっているのであり、感性的素材に、それとは疎遠な意味を魂として与えたのである」。
 ヘーゲルはこの段階を『エンチュクロぺディー』においては、表象の第二段階の構想力に位置づけている。一般には、記号や言語は単なる思想伝達の手段、道具とみなされるゆえに、何ら体系の核心を構成するものではなく、付属物と受け取られるが、ヘーゲルはそのような一般的な言語の位置づけを次のように批判する。「普遍一般には、記号や言語は付録として、心理学や、あるいは論理学の中のどこかあるところに差し込まれる。しかも、その際知性の働きの体系の中での、記号と言語の必然性と連関については考慮に入れられない」。
 さて、記号においては、対私有が物の本質として対象であるゆえ、自我が物そのものの内なるものとして、それ自身対象となっている。しかし、それは差し当たっては直接的な内面性である。そこで次に、自我はその定在の中に踏み入り、対象とならねばならない。それは同時に内面性が外化することであり、存在への還帰である。それこそ、命名する力としての言語である。命名によって対象は存在するものとして自我から外へ産み出されるのである。「言語は内的なものを存在するものとして措定する力である」。
 これは「精神が行使する最初の創造力」である。「アダムはあらゆる物に名前を与えた。それこそ全自然の大権であり、最初の占有(占有獲得)であり、すなわち、精神からの全自然の創造である。ロゴスは理性であり、物と話との、事とことばとの本質であり、カテゴリーである」。
 まさにそれは「精神の目覚め」である。あの像の王国は、「まどろむ精神」であった。それが今ようやく真理を得たのである。「我々が見たり、感じたり、聞いたりする限りでは、我々はそのもの自身であり、直接的にそのものと一つになって、そのもので満たされている。しかし、退いて名前としては、それは精神的なもの、何か全く別のものである」。
 ここに世界、つまり自然は、もはや諸像の王国ではなく、名前の王国となり、内的に止揚され、もはやいかなる存在をも持たなくなったのである。「名前において、やっと本来的に、直観、動物的なもの、空間と時間が克服されたのである」。つまり、言語は、諸感覚、諸直観、諸表象に対して、それらの直接的定在よりもいっそう高次の第二の定在を与えるものである。
 さて、差し当たって、名前は未だ個別的なものにすぎない。それゆえ、関係もなく、結合もなく、互に孤立している名前の王国を秩序づけ、組織づけなければならない。そこにおいて初めて名前は、個別的な偶然的な結びつきから、一般的な、必然的な、それゆえに持続的な結合へと高まるのである。これが記憶の行使である。「記憶の行使は、目覚めた精神の、精神としての、最初の労働である」。
 その際、記憶はもはや直観の像には関わらず、名前にのみ関係する。「ライオンという名前においては、我々はそのような動物の直観を必要とせず、またその像すら必要としない。そうではなくて、我々は名前を理解しているときには、名前は像を欠いた単純な表象である。・・・我々が思惟するのは名前においてである。…真実の思想が事象であるように、言葉もまた、真実の思惟によって用いられるならば事象である」。
 まさに、言語こそ思想の必然的制約である。それはまた同時に、言語が思想に制約されていることでもある。「こうして、言語は思想によって活性された定在となる。この定在は我々の思想にとって絶対的に必然的なものである。我々が我々の思想について知るのは、つまり、明確で現実的な思想を持つのは、ただ我々が、思想に対象性の形式、我々の内面性から区別された存在という形式、したがって外面性という形態、しかも、もちろん同時に最高の内面性の刻印を帯びているようなそのような外面性の形態を与えるときだけである。そして、そのような内面的な外面的なものこそ、ひとり分節された音、すなわち言葉だけである」。
 かくして、ヘーゲルにおいては、言語は、諸感覚、諸直観、諸表象に対してそれらのものの直接の定在よりもいっそう高次の定在を与えることにおいて、事象そのものを表すものであるゆえに、事象そのものに届かない、あるいは属さないようなものではない。さらに、ヘーゲルにおいては、精神は真に生きた現実的な精神としてあるためには、精神は自らを外化し、疎外しながら、その他在から自己自身へ還帰する運動を自ら表明することによってである。このような精神の展開をまさに相即的に媒介するものこそ言語である。つまり、精神は言語と共に目覚め、自らを最高の内面性の刻印を帯びた外面的なものである言語において外化し、そこにおいて自己へと還帰するものである。そのような場を離れて精神はあり得ない。しかもあらゆる人間の精神的営みは、広義における言語活動に包摂されるものであるゆえに、言語は精神である、と同時に、精神は言語であるということが出来る。へーゲルにおける言語を思惟することは、まさに、同時に、言語が思惟することを確認することである。

 ヘーゲルは『大論理学』を終わるにあたって、次のように述べている。「この理念はまだ依然として論理的である。それは純粋思想の中に閉じ込められているものであり、全く神的な概念の学である。なるほど体系的な展開は、それ自身、実在化ではあるが、しかしそれもこの学の領域内でのことである。その限り、この認識の純粋理念は主観性の中に閉じ込められているから、この理念はこの主観性を止揚しようとする衝動であり、また純粋な真理は最後の結果として他の領域と他の学との始元ともなる」。理念は展開の結果自らの概念を獲得し、純粋概念に到達することによって、絶対的に自分の中に安らいながら、後は自らの決意によって、自分を自由に解放すること、つまり自己外化、自己限定することだけである。
 この絶対理念の融通無碍な境位は、とりもなおさずヘーゲルその人のものであった。もはや未済のものは何もなく、哲学の終わりである。全てを見透してしまった人の生は空しい繰り返しとそれに伴う静かな倦怠である。しかしこの絶対的理念の境位こそ、絶対的肯定の中に吸収されることを拒み、あくまでイロニーの立場を貫こうとしたキルケゴールはじめ、いろいろと厳しい批判にさらされたものである。
 フォイエルバッハは、『将来の哲学の根本命題』(1843年)の序文において、自らの哲学の構想を次のように高らかに謳い上げている。「将来の哲学は、哲学を死んだ魂の国から、肉体を持った、生きた魂の国へと再び導き入れるという課題を、つまり、哲学を神的な、何ものも欠けていない思想の至福状態から、人間的悲惨へと引きずり下すという課題を持っている。この目的のために、哲学は人間の悟性と人間の言葉以上の何ものも必要としない」。
 フォイエルバッハのヘーゲル批判は、結局、次の二つに要約できる。その一つは、ヘーゲル哲学が神学の再興にすぎないというテーゼである。ヘーゲル批判においてたびたび引き合いに出されるフォイエルバッハの言葉を引用すれば、「ヘーゲル弁証法の秘密は、結局、ただ、彼が哲学によって神学を否定し、それから再び哲学を神学によって否定することにある。初めと終わりをなすものは神学であり、中間に立つものが、最初の肯定の否定としての哲学である。しかし、否定の否定は神学である」。もう一つのより根源的問題は、ヘーゲル哲学における始まりの媒介性の問題である。フォイエルバッハによれば、ヘーゲルにおける最初のものは、すでに直接的のものではなく、定立されたもの、依存的なもの、媒介されたものである。つまり、思想とは別のものについての思想にすぎないものである。ヘーゲルのこのような始めに対して、フォイエルバッハは自らの始めとして、純粋な絶対的他在、あるいは感性的で具体的存在を対置する。
 しかし、彼のヘーゲルに対する批判自体はすでに陳腐なことに属している。それはフォイエルバッハがヘーゲル批判をヘーゲルと同じ形而上学的伝統の下で、展開していることによる。そのためその批判は再びヘーゲルの体系の中に吸収されてしまうという皮肉な結果に終わっている。ヘーゲル哲学に対する様々な批判が、同じような運命に見舞われる。







































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