ヘーゲルに学ぶ

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<<   作成日時 : 2017/02/14 11:15   >>

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 神が死んで、形而上学が残った。そこで一切であるところの一個の真理が、前もってその企図の内に未来の哲学もそのプロレゴメーナも含み込むことになった。後から来るものは、始まりでもある終わりによって回収され、未完のものは、終わりでもある始まりに統合される。偶然的なものは、即自的に、また対自的でないまでも我々に対しては表象に属するが、それも必然において永遠に実現されてある。ただ論理に無知であることが、未来の諸々の可能事、世界の展開過程での諸々の偶然事、生成の諸々の切断、天才の予見不能な諸々の直観を信じさせるのである。つまり、一切はつくられてあり、一切は言われてある。精神は、自己自身を自ら経巡り、主体としての自己に還帰するように自己の実体の直接性において自己に対立して巡歴するが、その精神の検証たる歴史と時間は、定在の拡がりと奥行きを概念の中に回収する。哲学的意識は、現象学的に巡歴する中で即自を対自に対立させる否定において形態化するが、結局知の相等性に帰着する。そこで、「この実体は、精神であるが、自体になりゆく精神の生成である。そして、自己自身に再帰するこの生成としてのみ、精神が真に自体的に精神なのである」。

 私=私。このただ一つの命題において、その他の一切が、私の普遍性と述語の実体的本質に包摂されて、理解可能となる。そして、言語は、確信における主体の真理と同じものであり、また真理における対象の確信と同じものであるが、唯一の言語しかないのだから、一つである。把捉することは、当然の前提として把捉すること自体の条件としての、認識することである。認識することとは、感覚的確信という過去を、常に以前である以前へと無際限に押しやること、直接的なものを援用しつつ知覚されたものを援用すること、一致を喚起しつつ離れてあること、である。そこで、経験とは、この事物という事物、この私という私、この木あるいはこの家という木や家においてなされるのではなく、事物、私、木、家である言葉、時間と空間である言葉においてなされる。というのは、昼の今が否定されるために夜の来るのを待つとか、家のここが否定されるために木を見ることは、やはり語る仕方だからである。ここ、今、この私、この事物は、悟性のここ、今、私、普遍的事物、空間、時間、主体、対象であって、知覚のそれではない。また諸法則の静かな王国に逆らう生命の内なるもの、他者の欲望が交渉し合う諸々の自己意識の環境、私である我々、我々である私、多数者の精神である多数の精神、のそれではない。形態は、他の形態に吸収され消失するのに、同じ形態としての形態に呼応し、事物が言葉でないとしても、<言葉>は事物であると知っているものに対しては、言葉は言葉に反響する。表象がもたらす見かけの富、経験的直観の幻想の富がどのようなものであれ、実体の固有性、言語の内なるものでないものは、何ものでもないのである。
 言語は、空虚な経験の諸契機に満ち、また記憶をもたぬ経験の過程の諸段階の図式主義をもっていて、常に同一であるが再言されることのない言明において、つまりまた単なる展張である展開において、<内容>を自らのものと認めて諸々の範疇を<範疇>に同一化し、内容における形式の内包をもって形式と内容を同一化する。そして、「あたかも自己の疎外を前にして不安を感じているかのように、実体性と対象性の形式に対立する自己意識の形式に固執する必要のない私の相等性の内に、直ちに自己を展開するのである。そこで、精神の力は、むしろ自らの疎外において自己自身との相等性を保持するところにあり、また、即自的でもあり対自的でもあるものとして、対自存在を定立するところにある。私は、諸々の差異を絶対者の深渕に投げ込み、この深渕においてそれらの相等性を言表する第三項では決してない。しかし、知は、むしろ、差異するものがいかに自己自身において運動してその統一にまで還帰するかをただ省察するだけの、この見かけの不活動にあるのである」。
 また、意識の諸々の調和と葛藤のない絶対知の中でしか理解されない。論理は、表象において経験され、悟性が運ぶ言葉において思考され、感情や知覚や意志の内容に意味を滲透させる自発的で自然的な方法において理解される。おそらく、直接的印象は、情動、衝動、本能の自律性が強く、また合致の基準としての対象の独立性の強いものであろう。また、おそらく超越論的仮象は、形式を孤立させることで、物自体という空虚な抽象の内に内容を放棄するのであろう。しかし、「普通の直接的な反省に形式を欠いた内容として現れるものは、実際には形式、規定そのものを決して欠いてはいないのであり(なぜなら、そうだとすれば空虚、物自体という抽象と同じことになるだろうから)、むしろそれ自体において自らの形式を持っているのである。この自らの形式によって初めて、それは生きて活力をもった内容となるのであり、形式こそが内容という仮象をつけたのであり、すなわちまた、この仮象の外にある事物の仮象をつけたのである」。
 
 言語は類(形式的包括と量的外延の階級に従って解体したり再構成されたりする抽象的な類ではなくて、対自存在と他者存在との相互否定においてつくられる生きた類)としての普遍であるが、また、論理学が、ものとしてではなく概念としての対象の運動を反省しつつ、自己意識へと導いてゆく経験である。

 言語はまた、一連の言表、判断、肯定、否定であって、それらによって言語の主観的素材が、客観的に伝達され、またそれらによって言語の客観的構造が主観的に解釈される。かくて、コミュニケーションの道具、私と事物との間の媒介項である言説は、言表等々のもつ諸々の含意と関係を展開するのである。
 表象的であるにせよ形式的であるにせよ(形式的というのは、想像の往復運動に従属していて、表象的でもある)、共通的命題は定立的であって、それをめぐって、語る主体、語る主体がそれについて語る基体(主語)、それの属性、あの秘められた固有性が区別されたり接近したりする環境、すなわち表現された存在を繰り広げている。共通的命題の潜むア・プリオリたる空虚な私が、諸々の性質と論理的連関を配分する。肯定的なものと否定的なものがこの命題に付け加わっても、この命題の意味は変わらないし、事物の諸々の定義もこの命題には外的なものであり、トートロジーとして捉えられた同一性、同質性としての統一が、分析判断において現れる名目的言語を規定するのである。
 言語は、それ自身で超越論的であって、一つの項の他の項との一致、「私は考える」の「私は考える」とその諸カテゴリーとの一致を作り出す。その数学的、物理学的、形而上学的判断がどのようなものであろうと、言語はそれ自体分析的である。すなわち、同じ活動が、総合されたもの(これは思考されずとも認識される)の多様の内で繰り返されながら、悟性の自発性の様々な表出の下で常に同一の形式をとるのである。かくして、経験と意識、世界と学は、それらの原理およびカテゴリーの統一において、すでに作られてあり、それらをあらゆる思考の形式に送り返す構成において、すでに言われてある。同様に、経験的ないしは純粋に感覚的なるものが付け加わっても、そのことは、言語をその諸命題の同一性に結びつける分析的関係を、本質的に変化させることはないし、あらゆる連結の原理をそれ自体をしか包摂しないようにする。そこで、総合は、総合的なものから生ずるのではなくて別のところから来る総合され得るものから生ずるが、総合されたものが、総合するものとの分離し、これらの合致の空虚な統一は、対象の内部では認識されるものと思考されるものとのアンチノミーに、主体の内部では思考されるものと思考するものとの対立になる。自然科学と数学が可能であり形而上学が不可能であることは、語りかつ語られる言語の同様の不可能性を示している。そこには、言語を定立から引き剥がすような媒介、言語を肯定する力能を揺るがす否定性、言語を言語に近づけたり離したりしながら、言明することにおいて言語を変形させる他者性が欠けているからである。
 言明すること、それは、事物として言明された事物を言明することである。それゆえ、言明すること、言明された事物、事物として言明された事物の間では、他者性は外部性ではなく、否定性は偶有性ではなく、内容は超越論的演繹の項ではなく、主体は無制約的な感覚的確信の収斂するところではない。外から事物に来るような純粋な他者、外来の属性、別の名称は、事物と共に、名称のない二つの事物の数量的な集合を構成するだろう。事物に一致するような他者は、事物を名づけるとすれば、何でもないという名称か名とだけいう名称で名づけるであろう。決着をつけるために概念なしで判断すること(述語的命題の要請)は、内容と並んで位置を占め、あわよくば後で内容に取って代わる。並置された言語-事物であるか言うに言えぬ事物-言語であるかのいずれかであり、言明することは、議論の内にか恍惚的一致かの内に消える。そこで、内容は思考された事物であるか何ものでもないかであり、何ものも言明されないのであれば、言明することは言明されるものを含んでいるのである。言語は、事物であると同様、言葉であり、同一であると同様、他であり、運動していると同様、静止している。そして、本質的に次のことを含んでいるのである。すなわち、私は、私が考えることをすでに考えていながら、それを考えなかったように考えるものであること、また私は、私が言明するものを、言明されていながら言明されていないように言明するのであること、が含まれているのである。それゆえ、同一者は、考えたということにおける考えるということの否定性によって他者なのであり、他者は、考えたということと考えるということの同一性によって同一者なのである。
 
 主体は、定立されるものであるにせよ定立するものであるにせよ、また対象定立的であるか自己定立的であるかいずれにせよ、経験というものと自己の経験の超越論的領野の、また諸々の表象の総体の、諸々の対象と諸々の主体との全体の、中心としては姿を消す。単一の規定すなわち内容は、外来のものからは生じない。そして、主体が自己自身にそうであるあるように、概念に内在的であり、かつ外在的である。また命題は、否定性に媒介されて、自己に還帰する。そしてそこで命題は、非現実的述語の内に、つまり不可能な出会いにおいて存在を求めなくとも、存在を発見するのである。おそらく、単独性というのは全て、本質と現実存在との知覚的分離によるものであろう。おそらく、現象的には、ポケットの中に貨幣がないこと、ポケットの中で私の指がそれに触ったときの貨幣の実際の接触とは区別されねばならないだろう。しかし、始めの偶然性と先行の規定とに二重に従属して、また後に続く結果と最後の帰結との二重の不確実性において現れるというのは、またそう思われるというのは、感覚的把握によって隔離され、自らの経験的文脈に結び付けられ、しかも転移ないし代置によってそれから分離されるところの表象されたものの条件である。「一つの内容(そこでは規定された性質という事実でもって規定された定在、この内容、この定在が暗黙の内に考えられているが)が問題となるたびに、常に、他の諸々の内容と定在との多様な関係が現前している。一つの内容にとっては、あれこれの他の内容があるかないかは、決して無関係ではない。なぜなら、その内容が本質的にそのようにあるのは、他の内容との様々な関係の故であるからである」。自らの外には何ものももたず、一つの項として関係や比較の内に入ることもなく、量的にまた質的に付加されてくる諸々の部分的なものをまとめ上げる中和する全体にとっては、存在も無と一つの同じものであり、いかなる現実もそれを超越せず、いかなる因果関係もそれを絶対的で無限で完全な存在者に従属させることもなく、いかなる消滅もそれを減衰させることはない。それの反省は、その属性が実体でもあるところの唯一の主体のものである。つまりは、神は存在である。
 思弁的言語は、普遍的主体の言語である。普遍的主体は自らをすでに思考したのであるから、内容を、単に自らの歴史の想起としてだけではなく、概念としても言明する。普遍的主体が内容を自らのものだとするのは、客観的(対象的)に投影された自己自身についてもつ知を、反省のレミ二ッセンスにおける自己についてもつ知に、よりよく包摂しようとのことであり、また自らの述語によって自らの自同性をよりよく肯定(確言)しようとしてのことである。「自らの内容を再び満たす主体(基体)は、それ以上にまで行くことを止め、もはや他の述語や偶有性をもつことはできない。逆に、内容の散乱は自己につなぎとめられる。内容は、主体(基体)から自由になって幾つかの他の主体(基体)にも適合するような普遍的なものではない。こうして実は、内容は、もはや主体(基体)の述語ではなくて実体なのである。それについて語られるところのものの本質であり概念なのである」。
 
 言語は全て共通的である。しかし、共通的言語においては、知の自己としての、また唯一の主体としての他者が、述語的命題を思弁的命題に変換する。そして、この生成と相互変換性とが属性を主体に送り返し、また主体を絶対者に還帰させるのである。言語の自己たる知の自己は、また自己の知であり哲学であって、すなわちまた内的差異であり他者性なのである。この特殊な思考様式、すなわち思考がそれによって一つの認識となり、理解的(包括的)認識になる仕方、は、人間の内に現れるような、つまりは人間の人間たる所以である思考様態とは異なる。もっとも実は、この様式はこの様態と同じものであり、即自的には唯一の思考様態しかないのであるが、この相違は、思考に基盤をもつ意識の人間における内容が、先ず思考という形式の下に現れるのではなく、感情、直観、表象(つまり形式としての思考とは区別されるべき諸形式)として現れるということから来ている」。即自的には唯一の言語しかなく、また言語は一つであるということは、内容ではなくて内容としての形式であるところの論理的に思考すること及び語ることの特殊性を排除するものでもなければ、内容としての形式ではなく形式としての形式であるところの哲学的に思考すること及び語ることの特殊性を排除するものでもない。
  
 知は常に始まっている。そして、知の始まりではない始まりというものは、知の内にあり、知が先後の順序において先行しているものの内容と契機は、知の探求と目的論とによって、媒介されてある。そこで、媒介は、悟性には単純とみなされる固定的規定からも、理性には決定的とみなされる所与の概念からも作られない。いずれの場合にも、無関係な否定が加えられているだけである。そうではなくて、媒介は、規定と概念の内で運動して、それらから定立の単純性を排去するのである。それゆえ、哲学の第一歩は、この媒介の自己知であり、それは、媒介するものが最初の直接的なものであるわけはないのだから、知としても媒介としてもすでに媒介されてある。そこで、現象的疎外から解放された我々に対しては、知は解決されてある。すなわち我々に対しては、哲学的な思考すること及び言語は、概念の転換、すなわち言語の自己の知と自己の知の知を含んでおり、この概念の転換は、諸々のカテゴリーを諸々の純粋な本質性の生成の内に引き入れて、概念を哲学的概念の真理へ、すなわち哲学の概念の辛苦へと導くのである。
 形而上学か論理学か。論理学か哲学か。哲学か秘教的語彙か。形而上学の権利主張は棄却されている。それは、それの外挿の空しさが認識され、理念の厳格さを回避する主観的直観主義が統合されてあり、真理は全体であり、実体は主体である、現実的なものは普遍的なものであるというような存在論的証明の現実性において、分析論や超越論的弁証論の諸結論が止揚されているからである。論理は、精神に本来的な物でもあれば哲学に本質的な物でもある。概念は、表象の冒険ではない。純粋な学は、究竟性(合目的性)を立てるから、錯雑した現象的知に代わるものではない。論理、概念、学は、それらが終わりから始まりへとい導ていく意識の道程において、つまり自己、本質、実体が潜んでいる述語的判断において、また理念が動かす言説において、自らを明らかにする。新たな必然性すなわち経験の残渣を残さぬ叡知的なるものの叡知的時間であるところの新しい自発性において、自己に対して自己を我がものにする直接態-媒介態、つまりは概念、言い換えれば自己の生成と自己に対する生成である概念は、実体の内部から、つまり表出の外部から、否定的なるものの自動的反省から、全ての哲学でありかつ哲学の意全体であるところの言語の他者性の言語すなわち論理学を、実現するのである。
 しかしながら、この統一の中にある隔たりから、歴史と論理学の、すなわち歴史と論理学における最後の他者性が生ずる。第一の言語は、表象の分節に結びつき、普遍的なものにおいて自らを現す。第二の言語は、普遍的なものをそれ自体において、またそれ自体に対して言明する。そして、哲学はその歴史の特殊性において異なった言語を完成する。すなわち第三の、最後の言語であって、それは、他の二つの言語を、その概念の高みから測る。というのは、その概念は、時間と共通的言語の圏外の概念と考えられたからである。論理的概念における、かつまた論理学の概念における、概念の論理としての哲学的意識は、過程にありながらその不動性を示すものであるが、それはまた、その実体が自然でもなく精神でもなくて、自らの言語であるところの自己である。そして、この自らの言語において、哲学的意識は、思考しつつすでに思考されてある理念の形式の下に自己を反省する。それはつまりは最高の否定性であって、この否定性が、哲学的なものをそれ自身の内容として導入し、また哲学的概念を自己の哲学的概念として、哲学を哲学的概念の哲学として導入するのである。
 おそらく哲学は、そこにおいてあらゆる経験とあらゆる知とが、その契機の内に帰着して集合する全体に属している。またおそらく、哲学は、異なった内容をもつ歴史ではないし、教化の諸々の他の局面に対していかなる特権をももつものではない。そして、最後に、おそらく哲学は、知に関して、即自かつ対自的な凝縮であるが、しかし、その媒介の結果の内に、たちまち直接的なものへの回顧的参照すらなしに媒介される媒介の隔たりが現れ、すなわちまた、三重の次元(すなわち、この時間の概念における時間の精神の次元、哲学的概念における精神の時間の次元、哲学の概念としての哲学の時間の次元)に従って、それ自身において、またそれ自身に対して思考され語られる独立的な思考と言語の隔たり、が現れる。この第一の次元は、意識、自己意識、意識の自己の知という哲学的意識、という三重性に依存している。そこで、この第一の次元においては、それによって精神が普遍的主体となり、また哲学する主体となるところの反省の諸契機が展開される。第二の次元は、哲学的主体としての概念に属する。第三の次元は、哲学自体の絶対的主体としての哲学に属する。かくて、三つの運動が姿を現し、哲学からは世界精神と歴史の連続性が現れる。すなわちまた、言語精神と、概念の歴史と哲学の同時代性、精神の言語の世界と、哲学の概念的歴史への哲学の偏在である。
 一者は一である。このパルメニデス流の根本仮定は、概念の、概念自身による、歴史における歴史による、概念の理念による冒険を告知している。一者は、多くの先行のものがあるはずの出発点、始まり-始まったもの、であるが、その直接態以来、その相等性と統一は、それの多様への対立と多様の対立において、つまり観念的にと同時に現実的にも発見する。観念的には、相等性と統一は、一者の統一の哲学的概念と一者を概念化するその概念の哲学を生み出す。現実的には、それらは、量の不思議な発見、労働、道徳性、教化、量を内面化する諸制度、量をその幾何学的特性にまでもたらす諸々の構成的知、表象の原理としての行為と、諸々の世界観の動因としての直観と、形式と内容の統一としての概念とが量を弁証法化する諸哲学体系、を通じて、量を事実上観念上で同じものにする必然性の不思議な発見を表しているのである。しかし、最後の冒険つまりヘーゲル的冒険としては、生成した哲学的概念たる一者は、もはや多様に入り込むために世界の中に行くことはないし、思考は、延長を解消しようともしなければ、何等かの経験において延長と和解しようともしない。一、延長、思考、存在する一、存在しない一は、哲学者ヘーゲルが哲学の内部でそれらを再び生成させるためにそれらについて語るところの一者、延長、思考と最後にはなるように、一者、思考、延長の哲学的概念において構成されるのである。
 抽象的に記述されたこのような進行過程は、不可分的に世界の展開過程を意味している。すなわち、意識と外部性、主観性と主体の葛藤、それを通じて人間がその活動によって自然と自己自身とを自らのものにする歴史的連続、反省による概念の再把握、概念自体から出発して概念を実際に作り出す最終的哲学における哲学的なものとしての概念の知、という世界過程のことである。世界精神は、もはや疎外されて思考の内にあるものに関わるものではなく、プラトンとデカルト、スピノザとライプニッツ、フィヒテとシェリングが無媒介的にしか理解しなかったこと、すなわち思考と延長、実体と主体、肯定的なものと否定的なものを実際に捉える思考の問題なのである。絶対的自己は、哲学の内に、その転換とその思弁的同一性の本質的で実体的な述語を見出す。私=私は、特殊的なものと普遍的なもの、哲学者と哲学の決定的な統一を宣言している。言語は、表象の幻想、直観の盲目的確信、常識の首肯し得ぬ主張が消滅するところに自らを解放してやる。言語は、哲学的概念をその定在において把捉することで把捉される。そして最後に、言語は、哲学的言語を、哲学的なものとして作る方法を知っているものになる。概念は、その哲学的直接態によって、またそれになるように、次のような哲学を含んでいる。すなわち、その哲学の経験であり知であった理念が、絶対知において反省された諸々の現象学的カテゴリーに内在的な知から、また諸々の本質の自律的な生成の知から、さらにまた哲学の現実態としての本質の知から生ずるような哲学を含んでいる。この第一の知においては、歴史はその弁証法の哲学的概念であり、第二の場合には、哲学は哲学の歴史の諸概念の概念であり、第三の場合には、哲学は、絶対的な哲学的自己としての哲学の概念における哲学自体の概念である。
 こうして、ヘーゲルの教示するところは多義的で曖昧である。というのは、彼が哲学としての歴史を認めながら、同様に論理学としての、また哲学としての哲学を認めるのだからである。全ての概念において、実在と論理の、論理と哲学的なるものとの、哲学的なるものと哲学の統一が生ずる。歴史は諸々の概念とすべての概念の概念を作り出すが、哲学は、現実的なものから思弁的なものにいたるまで、歴史の概念である。ヘーゲルにおいては、哲学の歴史は哲学の課題となったが、哲学は、その歴史において、かつ歴史によって、哲学的概念の存在仕方の概念なのである。ヘーゲルは論理学を超えて、哲学の労働としての哲学的言語の決算書を作った。それは、第二の段階ではなく第三の段階で、つまり直接態なしに絶対的媒介において、かつ絶対的媒介によって思考することを要求するものであった。
 
 ヘーゲルの後には?このことで諸々の哲学の形態の内の一つの新しい哲学であるような哲学の新しい形態の驚くべき出現のことを考えるとすれば、ヘーゲルの後はない。このような新しい形態は、哲学的概念の自動的実現の内に既に含まれていた諸形態中の一つの形態なのである。しかし、知の内にあって、すなわち、その直接性の内にあって、精神は、あたかも先行する全てのものが精神にとっては失われてしまっており、先行の諸精神の経験からは何も学ばなかったが、想起の記憶がそれらを保存しているかのように、極めて素朴に最初から再び始めねばならず、この形態から自らに固有の形姿を引き出さねばならない。この新しい形態は、実体の内なるもの、より高められた形式である。そこでもし、この精神があたかも自己からのみ出発するかのようなに、最初からその教化を再び始めるとしても、その精神が始めるのは、より高い段階においてである。最後の言葉は、最初の言葉でもあるのだから言明されない。だが、哲学は自らが言明したことと言明することを知っているのだから、また哲学は、第三の言語が何であるか、そしてすでに哲学的にあったものを哲学的に言明することが、新しい内容にも天才的な直観にも頼らないでどのように言明することなのかを知っているのだから、その最初の言葉は、もはや最初のものではあり得ないのである。
 しかしなお問題が残る。絶対的に一であることが相対的であること、ヘーゲル哲学が、哲学たるべき唯一の哲学であり、したがって限度を持たないのだから全ての哲学であるというのならば、ヘーゲル哲学は哲学の限界となることになろうという問題である。また次のような問題もある。すなわち、哲学的概念がどのように作られるかを知っており、また、もはや哲学的概念をもう一度作る必要のないものにとっては、自らをカテゴリーにしてその内部構造を活動させるような言語を求めるか、それとも、言語としての概念と概念としての言語を我がものにした後では、新しい概念を見つけるために新しい言語を見つけようと、おそらくヘーゲルがなお依存している哲学一般の言語に対して暴力の言語を求めるか、という問題である。
 さらに、二重の疑問が残る。すなわち、映画が実験的であるという意味での実験的哲学、それはそのカテゴリーを明確に駆使してその語彙を用いるものであるが(我々は、その形式がそれ自体で同時に形式でもあり内容でもあるジャック・デリダの諸論考のことを考えているのだが)、そういう実験的哲学は、この自分が自分の唯一のパートナーであるような組み合わせにおいて、概念と概念の概念を失わないであろうか。新しい言語(エマニュエル・ルヴィナの哲学がその実例と本質を与えてくれる)は、自らのカテゴリーが切断のカテゴリーであるとしても、哲学一般の一般的言語から逃れ出るのに、自らの諸々のカテゴリーの破棄に同意しなくともよいのだろうか。
 この二重の疑問は、さらに第三の疑問を含んでいる。すなわち、言語をその様相において省察することは、いつももう一度、再び始めることではないのかということである。







































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