ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS 言語における直接性と媒介性

<<   作成日時 : 2017/02/18 11:45   >>

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 ヘーゲルの、いわゆる直接性に対し媒介性を対置し、媒介されたものは具体的であり、直接性を低次のもの抽象的なものとみなした考え方は、より観念的なものをより現実的であるとみなす、悪しき形而上学的観念主義を表すにすぎないのだろうか。
 もし我々がヘーゲルとは反対の前提、すなわち直接的なものを具体的であるとみなして(例えば経験論、唯物論、現象学など)、ヘーゲルを裁き、評価し、位置づけるのであれば、それらの規定はいずれも極めて不毛であると言わねばならない。
 たしかに彼は、あらゆる実在の真理を、思惟的なもの、ロゴス的なものとして捉えた。人はしばしばそれを本来超越的な観念の、世界へ流出したものとして解する。しかしここでプラトンからカントにいたるまでのあらゆるイデア主義(観念主義)とヘーゲルのそれとの根本的な相違を見落とすべきではないであろう。それはヘーゲルがイデア的なもの、ロゴス的なものに対して生成を与え、また彼がカントの主観主義を批判して、ロゴス的なものが経験に投入されるのではなく、経験に内在するものであることを説いたことである。ロゴスが生成、運動を負わされているのは、それがロゴス的でないもの、すなわち普通の意味で経験的なものとの交渉関係に置かれているからである。自己の否定としての経験的なものを内に含むことによってロゴスの運動は成り立つ。ロゴスにとって生成と経験への内在は表裏一体をなしている。
 ロゴスと経験的なものとの関係を成り立たせる存在が意識である。意識とは、それ自身ほんらい純粋な関係に他ならないような存在であって、意識の関係する実在の真理が、ロゴスの統一性の内に成就することによってのみ、自己意識の不幸な分裂から救われるのである。この意味においても、意識の存在を実体化することに第一原理をおく近世の主観主義とヘーゲルの観念主義とは原理的に異質である。
 意識を媒介することによって、経験に内在し、経験に内在することによって、生成するロゴス。ロゴスとは何かと言えば、その元義に立ち返ることによって我々は容易く、それは言葉であると答えることができよう。この時ロゴスとしての言葉が生成を負わされていることは、いかなる意味に解すべきだろうか。言葉は生成を欠き、生成を欠くからこそ、言葉の論理性が成り立ち、たとえ事実上、新しい用語や用法が作り出されても権利上言葉は常に自同的なものとして定立されねばならないと考えられるかもしれない。たしかに言葉に意味の自己同一性を保証しなければそれは使うことができない。逆に、言葉に生成を認めることなく、あたかも永遠のイデア界、英知界にある神的本性を持つものとみなすべきであろうか。我々はどの言葉どの概念をとっても、それが歴史的経験を通じて形成されたものであることを否定できない。カントがア・プリオリの必然性、普遍性を持つと考えた「物体界のあらゆる変化において物質の量は一定である」という命題が今日その普遍性を失ったことを我々は知っている。ア・プリオリのものがア・プリオリとして成り立つためにも、それなりの経験を前提とする。ア・プリオリの概念が持つ自己同一性もまた、形成されたものである。我々はしたがって言葉の形成ということを、言葉の意味の超越論性、自己同一性の形成と考えねばならない。
 しかし言葉を使用する自然的意識に、言語の意味が自己同一性でありながら形成されたものであるという、いわば種の起源(スぺチエスの生成)が、受け入れられることはないであろう。言葉を使用するとは、言葉の形成を忘れることに他ならないからである。自然的意識にとっては、生成なきイデア的・英知的論理空間を設定することの方がはるかに自然である。しかし自然的意識の真理を展開し、熟知されたものを媒介的認識にもたらすことが哲学知のあり方であるとすれば、窮極的には自然的意識もまた哲学知への道を辿り得るのでなければならない。
 それでは果たして差し当たり自然的意識の段階にあるものとして、我々はヘーゲルの観念主義を、経験におけるそのつど超越論的なものとしての言語(意味)の内在というふうに解し得るであろうか。そのためにまず我々はヘーゲルと共に、存在はいかなる意味で理性的であるかという問いを、最も始元的な、我々にとって最も先なる地点から問い始めなくてはならない。すなわち直接的なものはいかなる意味で抽象的であるかと。

 直接的なものは抽象的であるというヘーゲル特有の考え方が普通の考え方と正反対であることは彼自身十分自覚していたようである。彼はおよそこんなふうに述べている。普通、人は初めのものが具体的なものだと考えるかもしれない。例えば子供は動物的な生活を送り、大人は知的生活を送るという意味で、子供の生活は直接的・具体的であり、大人の生活は抽象的であると。このようにして感情や直観が最初のものであり、完全に具体的なもので、思惟は反対に、より後のもの、抽象の働きであると考える。しかしここで事実は反対なのである。感情と思惟を較べてみれば、たしかに一つの見方としては、感情とか感性的な思惟一般は、より具体的なもの、すなわち一般的により具体的なものである。しかし同時に思惟においては最も貧しいものである。我々は自然的に具体的なものを、思惟における具体的なものから区別しなければならない。要するに、自然的具体性と思惟の具体性をはっきり区別しておかねばならないのである。ひとまず我々は、自然的・感覚的に直接的なものは、同時に思惟的には抽象的であると考えてよいようである。
 しかしこう考えることが出来るためには、まず感覚的なものが同時に思惟的であるのでなければならない。感覚的なものと思惟的なもの、すなわちカントの言葉で表せば、感性と悟性との統一が果たされていなければならない。こうして我々は一見したところカントとは非常に異質だと思えるヘーゲルの思想展開の一齣一齣の中に伏在するカントの問題、認識論の問題を探り出さねばならないのである。
 感覚的即直接的、直接的即抽象的という考え方は、ヘーゲルの論述の非常に多くの個所で語られているけれども、その際多くは直接的なものが、最初のものという資格で登場していることも見逃せない。それでは一体我々の全経験における最初のものとは何であり、それは体系的論述における本性上先なるものと一致するのであろうか。
 上述のようにヘーゲルは、カントと共に、我々の認識の始まりが、感覚にあることを否定しない。「感覚の中には全理性、精神の素材が存在する。あらゆる我々の表象、思惟、概念は・・・我々の感覚する知性から発展してくる。これは逆の言い方をして、それらが完全な展開を得た後には、感覚の単純な形式に集約されると言っても同じである」。すなわち、我々の精神生活の全体は外的自然、法的なもの、人倫的なもの、宗教の内容にいたるまで、感覚の変容なのである。一見したところ単なる経験論の立場を述べているにすぎないかのような、こうした断言を、それだけ切り離して捉えれば、彼の思想を誤解することにもなろう。しかし、経験論の立場と決定的に異なるのは、感覚と悟性との関係の仕方である。感覚を外から受容するものと考え、悟性的概念を内から投与するものと考えて、両者を相互外在的に考える考え方にヘーゲルは反対するのである。カントの言葉「内容なき思考は空虚であり、概念なき直観は盲目である」を念頭において、ヘーゲルはこう述べている。「感覚から発する精神のある発展は、しかし、あたかも知性は根源的、徹底的に空虚であり、したがってそれゆえに、あらゆる内容を、知性にとって全く疎遠なものとして、外から受容するかのように解されるのが常である。しかし、これは誤解である」。しかし、外からの受容を認めないとすれば、最初のもの、根源的に直接的なものとしての感覚そのものの内に、すでに思惟的なものが内蔵されているのでなければならない。
 ヘーゲルの経験論に対する批判的態度は、しばしば誤解されているように、根源的な素材としての感覚的経験を否定するような性質のものではない。彼が批判するのは、感覚と思惟とを外在的に捉える超越論哲学と経験論(これは反省的形而上学と直接知とも言い換えられる)に共通する誤謬なのである。
 かくして、こう言わねばならない。「感覚、経験の内になかった何ものも思惟の内にはないという命題は・・・もしも、思弁哲学がこの命題を承認しようとしなかったならば、それは誤解とみなされるべきである。しかし思弁哲学は同時にその逆、すなわち、知性の内になかった何ものも感覚の内にはないという命題をも主張するであろう」。我々の経験において最初のもの、直接的なものにも思惟は内在している。我々はひとまず直接的即抽象的というヘーゲルの考え方を、感覚的・直接的なものも、そこに内蔵された思惟に即して言えば抽象的である、という意味に解することが許されるであろう。
 
 我々は経験において直接的とみなされる感覚的なものの内にも、思惟的な契機が存在し、そうした経験の一層面を、その思惟的なものの次元で問題にすることによって、直接的なものが抽象的であるとする立場が可能であることを見てきた。そこでは、直接性という概念そのものは自然的・感覚的というふうに、いわば一般常識に従って考えていた。しかしこの直接性という規定は、思惟そのものには該当しないのであろうか。ヘーゲルには「思惟そのものの直接性」という言い方がある。すると直接的と抽象的を、経験を構成する二つの要素に振り当てて考えることには、些か危険があると言わなくてはならない。しかもこうした振り分けには、解釈者自身が二つの要素を再び外在的に見る立場・反省の立場に立たざるを得ないという危険もある。問題は最初から感覚的なものが同時に思惟的であるとみなされるその同一性の性格にある。単に初めから同一であるという直接性に終始するのであれば、哲学史的に批判以前的、哲学的に反省以前的立場を固定することになるであろう。それを同じく固定的な反省の立場から眺めて、感覚的-直接的そして思惟的-抽象的という振り分けをするとき、肝心の同一性は無規定のままに放置されることになる。
 ひとまず我々は最初にある同一性と、それが反省され批判され対立に移行した後、再び回復された同一性とを、共に規定している単純性という概念に注目したいと思う。
 経験における最も直接的・始元的な場面として、感覚的確信を分析し始める『精神の現象学』の冒頭の一節にはこう述べられている。「最初に、または、直接的に我々の対象となる知は、それ自身直接的な知、直接的なもの、または、存在するものの知である。そこで我々もまた、直接的な、または、受容的な態度をとり、現れてくるままのこの知に些かの変更も加えず、それを捉えるにしても概念的把握を遠ざけねばならない」。すなわちここでは、まず、現象学を記述する「我々」の対象としての現象知が、最初にして直接的であり、次にその現象知が主観としてそれ自身直接的な知であって、そして現象知の対象が直接的なものとしての存在であり、更にそれを捉える「我々」も主観として、受容・直接的な態度をとるのである。「我々」と現象知という二つの主観と、それに対応する二つの対象、都合四つのものが全て直接的というあり方をしている。そして現象知という主観の存在と、その対象との両面に亙る弁証法的展開を通じて、現象知が直接性というあり方において捉えられているものが、真実には媒介された普遍性であることを明らかにするのであるが、対象と主観の両面に亙る弁証法的展開は、同一の形式で行われるので、ここでは一応、対象の側の展開を略述し、単純性という規定に光を当ててみることにしよう。
 第一段階は「純粋存在、または、単純な直接性」と規定される。ここで感性的確信は、単純な直接性としての、これ、ここ、いまといった直観内容に真理があると考えている。しかしそれが真理であるためには、あるまとまりを持った何かとして捉えられねばならない。感性的確信は、それを今、ここ、これと表現し、真理であることを要求する資格を得る。しかしこのまとまりは、意味内容としては普遍的なもののもつ形相的単純性によってしか成り立たない。まとまりとは何らかの意味で、そのものが一つであることを意味する。その一つであることを、その質料的意味は差し置いて、ひとまず存在の形式的条件として確保しておくものが、この単純性である。存在にまとまりを与える概念の単純性は、ラーケブリンクの言葉を借りて、これを「意味形態の完結性」と呼んでもよいであろう。
 しかし、今、最初の最も直接的な次元において、存在と概念の対立を語ることは「我々」にも許されていない。ここではむしろ存在するものは、その存在において、概念であると言わねばならない。直接性とは、思惟が存在の資格で登場し、存在が単純な純粋存在であるかのような次元である。この最も直接的な次元においては、統一が対立するものの<統一>であるがゆえに、対立が現れていないという現象知にとっての真理と、統一が<対立するもの>の統一であるがゆえに、統一には対立が孕まれているという「我々」にとっての真理とが、直接的に未分化の状態にあると考えなくてはならない。これが四つのものの直接性として述べたことの意味であり、ここでは少なくとも感覚の直接性と思惟の抽象性とを二つの要素に分けて振り当てる必要はない。
 しかし「我々」にとっての真理である対立は、現象知自身にとっても現れてくる。存在は一つでなければならない。一つは概念の単純性によって支えられている。しかし概念はそれ自身普遍的なものとして、多を内包している。今は朝であり、昼であり、夜である。単純な直接性であるべきものに、多数の今がまとわりついている。
 第二段階は「否定的なもの一般、・・・自己自身を維持する今」と規定される。今とは不断に今でなくなることによって今であるような、いわば脱自的存在である。自己自身でないことによって自己自身であるような存在、否定的なもの一般である。しかしそうすることによって今は今として自己自身を維持している。ちょうど踊りの輪が、成員が次々に出入りすることによって、不断にそれ自身ではなくなりながらも、それ自体としては、一つの静止した輪であるように、卑俗な例を挙げれば蚊柱が柱であるように、今は生成かつ消滅であるようなあり方を通じて自己を維持している。
 この自己を維持するという表現には、普遍者における多数性と単一性の両契機を、有機体をモデルにして捉えるヘーゲル特有の考え方が現れている。普遍的なものとは、いわば多数性を食べて生き続けるスぺチエスなのである。例えば具体的生命に関して言えば、生命は、諸肢体の過程の内に自己自身を維持するものである。しかしそこに持続するスぺチエスをそれだけ取り出して考えれば、単なる抽象的普遍性にすぎない。すなわち外界との交渉関係を含めて自己を維持する具体的普遍性と、外界との交渉関係を持つにも拘らず自己を維持する抽象的普遍性との、両者にまたがって自己を維持するという表現がなされるのである。「概念は、外化・・・自己外発出の中にあって、それらの統一、観念性としての自己自身を維持する。・・・生命は、自己を顕現せしめた概念である」と言えば、前者であり、次の用例では、二義性が二義性のままに用いられている。「普遍的なものは、具体的なものの生命である。それは具体的なものに内在し、煩わされることなく、その多様性、差異性の中にあって、自己自身と等しい。それは生成の内に引き裂かれることなく、それ自身によって、汚れなく自己を維持する。そして不変不死の自己維持の力を持っている」。普遍的なものが生命的なものでありながら、多数性への無関心さによって抽象的なものに留まるという二義性は、窮極的には有限なものとしての外的世界を認識するという経験の場面では止揚され得ないのであるが、しかし絶対者との和解に向けて一歩一歩進んでいく経験の歩みは、そのつど、この二義性を解消して、単純性を回復するような仕方で展開されていく。ともあれ、直接知の語る今も、自己を維持するものとして、普遍性へと橋渡しされる。
 第三の段階は「媒介された単純性、または普遍性」と規定される。一者に対して対立していた多者を、一者の他者であるがゆえに、一者の他者へと、一者の内側に取り入れることによって、多者の自立性を、一者への対他存在へと没落せしめることによって、多者への対他存在から、一者は自己性を回復する。すなわち、他者としての多者によって媒介された単純性となる。多者は概念の単純性の内に取り入れられることによって知性化され普遍者のモメントとなる。こうして知的統一の中に透明化されている。一者と多者の区別は、いわば普遍者の単純性という土俵の中の区別となり、潜在化されて、もはや区別ではない区別と化している。普遍者は他者を自己有化することによって、他者との関係・媒介それ自体は失うことなく、他在において自己の許にある存在へと高められている。すなわち生動性を自己の内に孕んだ具体的普遍性である。
 第一段階「単純な直接性」においては、四つのものの直接性という始元的、絶対的直接性を地盤にして、思惟が存在の資格で登場していたということが出来るとすれば、第三段階「媒介された単純性」においては、存在が思惟の資格で登場しているということも出来よう。いずれにせよ単純性は、統一に対応し、その形式性を表している。「知のエレメントにおいては、精神の諸契機は、単純性の形式において展開される」。感性的存在の直接性が、思惟的に抽象的であるとされるときの、感性と思惟の統一そのものが、思惟の単純性におかれている以上、両者は一つのものの異なった二面というよりは、端的に一つのものなのである。しかし同時に我々は、この統一が直ちに対立に向けて自己を展開する統一であることも忘れてはならない。
 
 直接的単純性において感覚的存在と思惟は同一であったが、それは対立に向けて自己を展開していく同一性であった。存在と思惟、直観と概念、多者と一者の対立は、同時にまた直接性と媒介性、自己存在と対他存在の対立でもあった。この対立は他者において自己の許にある媒介された単純性へと止揚されるが、これは、いわば経験の現場にのみ成り立つ生動的・流動的な事態であって、その単純性を単純性のままに取り出してくれば、再び単純な直接性というあり方に転化せざるを得ない。
 すなわち媒介された単純性は、それの含む対立項を総合した新たな概念の成立によってのみ、その単純性を一つの概念として保証することができるのである。「これ、ここ、いま」と言い表された経験の真理を保つものは「これ、ここ、いま」ではなく、例えば「食塩」というような新しい概念である。食塩は物として存在の直接性を持つと同時に、それ自身普遍的な多数の性質を持っている。諸性質は、白いであれ、硬いであれ、辛いであれ、直接的感覚的経験の結果を表す普遍的なものである。こうして食塩の中には、過去の経験が一つの単純な概念として保有されているのである。しかし我々が経験の中で食塩という概念を使用するとき、それは再び直接的単純性としての食塩なのである。「食塩を取って下さい」というとき、それによって狙われている、志向されているのは、他との媒介を度外視された、単純な存在、差し当たり実物としての食塩である。我々の食塩に関する経験はここからしか始まらないのである。こうして存在の知性化としての生動的経験内容は、再び存在化され、主観的なものと対象的なものの統一の結果は、再び対象化されている。
 こうした直接化・媒介の止揚は(意識が根源的に対象についての意識である以上)経験のあらゆる次元で成立し、これによって、そのつど第一段階、「単純な直接性」が形成されるのである。最も具体的、生動的な精神としての神ですらも、直接性という形式によって、抽象的な存在に転化し、意識に対しては、表象としての対象的存在というあり方で現れる場面が成り立つ。なぜならは「概念は・・・媒介の止揚によって生み出されるものであり、したがって、それ自身直接的な自己関係である。ところが、存在とはまさにこうした自己関係に他ならないのである」。すなわち概念の形成とは、第三段階としての「媒介された単純性」から、媒介を止揚して、それを存在化し、第一段階としての「単純な直接性」に転化することに他ならない。
 こうして形成される直接性の領域は、我々の日常的、自然的意識の領域でもある。「今」がそのまま今であり、「食塩」が食塩であるような世界(ヘーゲル的な自同律の世界)は、また経験科学の世界でもある。物理学者が手にする物は、存在する単純性としての「剛体」であり、また存在する単純性としての「半導体」である、等々。「剛体」も「半導体」も、経験の結果として形成された、媒介されたものであることは間違いない。しかしそれが直接性へと止揚されることによって初めて「剛体」なり、「半導体」なりについての経験が成り立つのである。
 直接性の形成とは、簡単に言えば媒介の忘却である。「食塩」が食塩であるのは、「食塩」が食塩についての過去の経験を総括したものでありながら、それを括弧に入れて、単純な無時間性として持つ限りにおいてなのである。「食塩」によって食塩を志向的に指示することは、そうした志向的自己忘却によって成り立っている。この忘却に対して媒介を想起させる、「意識にもたらすことが哲学の仕事である」。自然的意識の世界とは、経験のあらゆる次元に成り立つ概念の直接性だけを摘み取って拾い集めた世界であり、哲学は、概念形成の歴史を辿ることによって、それに必然性を与えるのである。
 概念形成の歴史は、同時に、経験が高次化していく過程でもある。すなわち、媒介されたものが、直接性へ止揚されることにより、そこに生まれた存在する単純性を結節点とする新たな経験の配置が作り出され、この関係における対立項を形成したものをモメントとして自己の内に含む再び新たな概念が形成されたとき、再び新たな関係の配置が生まれる・・・というようにして経験は、段階的に高次化していくのである。この段階を刻んでいくものは、そのつど形成される直接性である。
 真相においては、媒介の結果であるものが、意識には、純粋な単純性として現れて来る。概念は、ここにおいてのみ、汚れなき同一性を持つ。すなわち媒介から止揚されることによって、多者との対立から離脱している。「同一性とは、矛盾とは反対に、単純な直接性の規定である」。通常の考え方では、ある観念が抽象的であると論ずるとき、抽象的なものを考察する視点が、反省の立場に立っていることを自覚していない。そして、多数性一般との対立におかれ、すでに自己同一性を対他性へと引き渡しているような概念を抽象的と断定するのである。哲学上の立場では、悟性的反省的形而上学の立場と、直接知の立場とが共にそうである。直接知は、概念の直接性を認めることはなく、概念を媒介知としてのみ捉えることによって、概念を斥けてしまう。悟性の立場も同じく、直接性が概念の単純性、自己同一性に成り立つことを認めることはなく、直接知と概念との対立に固執する。共に両者は反省の立場を固く守って、その各々の立脚点が同一であること、「抽象的思惟(反省的形而上学の形式)と、抽象的直観(直接知の形式)とは全く同一である」ことを自覚していない。
 直接性への転化とは媒介の忘却であり、他者との関係を消滅させることである。すなわち、媒介の内にあるものを、それだけで独立に存在するものとして、つまり絶対的なものとして定立することなのである。食塩が「食塩」であることによって、食塩は他者との関係の中に沈潜したあり方から切り抜き出されて、絶対化されている。もちろん、直接性の成立は、経験にとっては必然的ではあるが、直接性に留まることは許されない。なぜなら、媒介を失ったものである以上「直接性という形式は全く抽象的なものとして、いかなる内容に関しても無関心であり、それゆえにまさにいかなる内容でも受け入れることができる」からである。したがって、直接性に留まる限り、直接性の真理は保ち得ない。ただ、それを概念形成を展開する必然的歩みの一齣へ組み込むことによってのみ、その真理は保たれるのである。

 概念の自己同一性がもつ直接性という規定は、抽象的概念の直証性と考えるならば、よりよく理解できる。これはシェリングと共に同一哲学を語っていた時期のヘーゲルでは知的直観と呼ばれていたものであるが、その独断性を克服すべく、段階的に発展する概念形成の一齣とされることによって、経験の内部に位置づけられたものなのである。それでは、この直接性、直証性は、意識形態としては、どのようなあり方をするものであろうか。
 媒介された単純性が、新しい概念の形成によって再び単純な直接性に転化するとき、その内容は、すでに経験を通じて知られている、すなわち熟知されているのでなければならない。例えば、私はアメリカについて直接的に知っているというとき、それはアメリカについての見聞の集成なのであり、そこにはコロンブスの発見とか、メイフラワー号とか様々な媒介が含まれている。「我々が今、直接的に知っていることは無限に多くの媒介の結果なのである」。しかし、新聞紙上で、アメリカという概念に出会ったとき、私はそこに多数の知識の集成を思い浮かべるのではなく、単純性としてのアメリカを了解する。多数の知識は、いつでも取り出せる状態にあるが、それがそのまま意識に現前しているわけではない。すなわち「最も複雑な、この上なく媒介された考察の結果であることがよく分かっているような真理でも、そうした認識に通暁した人には、直接的に彼の意識に現前する」。
 直接性とは、常にそのつど、前もって-知られたものとして、単純性のままに現前するものであるが、それは過去のものという資格で現前するのではない。過去は、概念の単純性という無時間的なものに止揚されて、過去を総括しつつも、過去性(媒介、形成)を離脱した形で、現在的に存在し、経験に統一をもたらす範例的なものとして未来性を持っている。経験の歩みは確かに時間的なものであるが、そのつど媒介の止揚によって無時間的な概念が形成されるという時間性の中断によって刻まれる段階的な形成なのである。
 ここに、ヘーゲルが媒介の止揚によって生まれた思惟の直接性を、超越論的なものと呼ぶ理由も十分理解できよう。なぜなら、それは「普遍性、思惟の自己の許での存在一般であり、この普遍性の内に思惟が自己充足している」ようなものとして、直証的に了解されるものだからである。この「自己の発展への無関心さを植え付けられた」思惟によって、「経験的諸科学は、現象のもつ諸々の個別的なものを知覚するに止まらず・・・普遍的規定、類および法則を発見する」。すなわち、この超越論的なものは、諸科学に、本質的な形態を与え、必然性を保証するという役目を果たすのである。
 ここにはっきりと示されたように、ヘーゲルの直接性とは、彼の思想の中に影を落としたカント的超越論性なのである。今、カントの超越論性概念を仮に三つの要素に分解して考えてみよう。第一は、経験にまとまりを与える統一性であり、第二は、当該の経験から生まれたものではなく、前もって知られているという先行性であり、第三は、経験内容に必然性を与える普遍性である。まず、統一性に関してヘーゲルは、それが諸要素の結合という複合体ではなく、数的一者性を持つ単純性によって保証されるべきだとした。直観と概念の統一もまた概念の単純性に基づく以上、直観が概念であるような段階として、直接性が確立されねばならない。第二の先行性に関しては、カントでは「あらゆる経験から独立に生ずる」という意味であるのに対して、すでに述べてきたように、ヘーゲルでは、そのつど先行的なものとすることによって、概念形成の必然性を経験の進行と結合したのである。第三の普遍性については、経験に内在する超越論性という立場からして、当然ヘーゲルは概念一般に超越論性(統一性と先行性)を認めるが、その必然性は、概念形成の必然性によるという立場をとる。したがって、経験に内在する概念一般に超越論性が成り立つことになる。
 ヘーゲルは直接的なものの例として、プラトンのイデア、大陸合理論において唱えられた生具観念、数学上の諸知識をあげている。しかしさらに芸術や技術、常識や人生経験にもそれはおよび、驚くべきことに、身体の運動までも算えあげている。(習熟とは一般に直接性の形成であり、同時に、習熟とはすべて身体への刻印である。また、ヘーゲルが上に挙げたものは、いずれもいつ何時とは言えない想起である。常識や人生経験や身体運動はたしかにカント的な意味での普遍的必然性は持たない。しかし経験に単純性をもたらす、そのつど先行的な知ではある。)彼は身体運動の中にも知的統一が働いていることを洞察しているのである。
 こうして、あらゆる意識形態一般に成り立つ直接性としての思惟の介在を、現実的に示しているものは、当然、我々の言語の内に見られる。「思惟形式は、まず、人間の言語の内に表出され貯えられている。・・・人間の内面、表象に起こるもの、人間化された全てのものにおいて、言語が介入している」。まさに言語こそ、直接性、超越論性をもつ知そのものなのである。したがって「人間が言葉にし、言葉に表すものは、不明瞭であれ、混合した形であれ、明瞭な形であれ、いずれにせよカテゴリーを含んでいる」。もちろん言語を有する動物は人間のみである。そして言語の使用は人間の単に外面的特徴ではない。「論理的なものは・・・人間にとって本性的であって、むしろ人間固有の本性そのものである。・・・それは人間のあらゆる自然的行為、すなわち、感覚、直観、欲求、欲望、衝動の中に入り込んで、それを人間的なものにしている」。すなわち、人間的意識のあらゆる形態が、言語的であり、人間的であるということは、その意識の言語性において成り立つものであるといえよう。

 直接性とは、媒介の止揚によって形成された概念が、自己同一性において、直証的、超越論的なものとして、経験の中に登場する仕方なのであった。そして、その超越論的なものを、純粋性において展開するのが論理学である。しかし、論理学のカテゴリーは、「いつも我々が口にする・・・言語の中に貯えられている」のである。それでは、いかにして、差し当たり記号という外的存在の形で登場するものは、思惟規定を実現することになるのであろうか。
 意識は一般に対象意識である。意識と対象との関係の仕方そのものは、外的物的対象と関係する場合も、自己自身を対象化して意識する場合も、またたとえ神といったものを表象において対象とする場合も、変わりはない。しかし、意識とは一面では対象の意識であり、かつ他面で自己自身の意識である。意識は対象と直接に関係する。しかし同時に対象から自己を区別してもいる。意識が、媒介の止揚、超越論的なもの、時間性の中断として単純なものである限りで、意識は対象から自己を区別するが、それはまた同時に、意識が対象と直接に関係する限りにおいてなのである。「意識の立場においては、対象的事物は、自己自身との対立において、自己自身については、対象的事物との対立において知られる」。
 我々が言語記号を対象として意識する場合も、この関係は同じである。問題は、あくまで外的物的存在としての言語記号が、意味という内在的なものに転化されながら、転化そのものは意識されることなく忘却されているという事態が、いかにして生ずるのかということである。
 まず、意識に関して、それが言葉を理解できる状態にあるということは当然前提されている。もちろん、単に言語のみならず、プラトン的想起にしてからすでに、本質的に教育すなわち発達が必要である。しかし、そうした発達、媒介は、即自的に人間の内にあるものとして、今や、言語の理解は、直接的な再生としての記憶に基づいている。次に、対象に関しては、音声にせよ文字にせよ、それが外的な物理的存在であって、しかも相互に区別される部分からなる非連続的な存在であることは前提されている。
 意識は、物体的記号がなければ形の定まらない単なる能力にすぎないであろうが、外的存在としての記号を対象とすることによって、自己を対象から区別する。こうして、思惟的なものを対象化する地盤が導入されるのであり、また、物的存在の規定性によって、思惟の規定性が導入される。すなわち、物的記号という「この定在は、我々の思想にとって絶対的に必要である。我々が我々の思想について知るのは(対象性の要求)、そしてまた、規定された現実的な思想を持つのは(規定性の要求)、我々が思想に対象性の形式、我々の内面性からの区別という形式、したがって、外面性の形態を与える限りにおいてなのである」。
 さて、記号としての対象は、分節されたものとして存在する。すなわち、単純な部分に明晰に区別されるということ、対象性の内に単純性が与えられているということである。しかし、その単純性を開示するのは意識である。意識は対象と関係することによって、対象から自己を区別した単純性として、対象の単純性を開示する。分節されるべき記号とは、内面化されることを求めている外面性である。記号を読むことにおいて、意識は、記号の分節を開示しつつ、自己自身を単純な内面性へと規定する。記号は「同時に最高の内面性の彫印を帯びた外面性である。そのような外面性はただ分節された音、すなわち言葉あるのみである」。
 分節が開示されて、例えば「これはライオンである」と読むとき、その名辞は当のものと見なされる。意識は記号「ライオン」から自己を区別した単純性であるが、そのことは、当の意識にとっては、単純なものを物的対象性の資格において存在させることである。熟知されたものとして意識の内部にあるものを、外部として意識することによって、外的なものとしての名前は、内部にある外的なものへと内化されている。「知性内での内容の実在(外化存在)としての名前は、知性の中にある知性自身の外面性である。そして知性自身によって作り出された直観としての名前を内化することは、同時に、疎外化することであって、知性はこの疎外化において自己自身を定立する」。しかし、それは当の自然意識にとっては、あくまで外面性を失わないという意味で、当のものなのである(『精神の現象学』の理性の章の「事そのもの」を参照)。意識は再生的記憶として「名前の中に当のものを認識し、当のものと共に名前を認識する」。
 この「当のもの」とは、もちろん差し当たり実物のライオンと直観を言っているのではない。またすでに単純性へと透明化されている以上、心像でもない。それは対象性と単純性を共に持つところの表象、観念である。「言語は直接的な定在における感性界の抹殺であり、またそれを止揚して、あらゆる表象的存在の内に反響する呼びかけであるような定在にする」。すなわち、記号が観念へ内化されることにより、観念は他のあらゆる観念相互の連関の中に置かれている。かくして、「我々が名前を了解するということにおいて、名前は、心像なき単純な観念(表象)である。我々が思惟するのは名前においてである」。
 内面化が完成し、意味と名前の区別が廃棄された時、言語意識としての「記憶・・・は思想の活動に移行し、もはや
名前に対立するものとしての意味をもたない。すなわち客観性から、主観的なものは区別されたものではない」。すなわち言語意識は思惟へと止揚されるのである。その思惟が、我々が普通「意味」と呼ぶものに全く等しいということは、今までの論述から充分に納得できよう。

 こうして我々は思惟という境位に達した。いうまでもなく思惟は一般にヘーゲルの思想世界では、世界に内在するヌースとも言われるもので、彼を「観念主義」と断罪するものに格好の証拠を提供している。しかし、ここに思惟、事象、意味として語られるものは、「知性の産物すなわち思想が事象であり、主観的なものと客観的なものとの単純な統一」であることを忘れるべきではない。すなわち外的存在でも、またカント的意味で思惟の内発性に由来する普遍性、必然性でもなく、思惟された存在者の即自を表すものなのである。
 ここに統一されているもの、それはまず第一に認識論的な主観と客観の統一である。すなわち、存在の一者性がカテゴリーの単純性によって保証されると同時に、カテゴリーのいわゆる観念性が、存在の実在性によって止揚されているのである。統一は複合態としての結合ではない。単純態としての数的一者性である。こうして、主観と客観の結合を再び主観的なものに求める認識論的主観主義を克服しているのである。
 第二にそれは意識自身の統一である。意識は対象についての知であることによって自己自身の知であるという根源的二重性を負わされている。この二重性、真と知の対立はカテゴリーの単純性に止揚される。カントと共にヘーゲルも、自己意識の自同性を、カテゴリーによる経験の統一と連関させているが、それは自己意識の同一性から経験の統一が生ずるということではなく、カテゴリーの形成において自己意識の分裂が克服されるということである(『精神の現象学』において、分裂した自己意識が理性の統一に移行した最初の場面がカテゴリーであった)。 
 第三に、この統一は論理的なもの自身のもつ諸契機の統一である。認識論的に感性と悟性、意識存在における対象と自己(真と知)は、論理的なものとしては、多数性の諸契機と一者性の契機に他ならないからである。このように、論理的カテゴリーの諸契機が同時に二重性としての意識の契機であることによって、経験の運動全体を通じて、カテゴリーは経験に内在し、そのつど経験の達成する認識論的真理を実現しつつ生成するのである。そのつど生成するカテゴリーは、経験の無時間化されたものとして、超越論的なものであり、また意識にとっては、新しい概念の生成は、新しい対象の生成である。それは、形成されたものが直接性というあり方をすることによって、概念が存在の資格で登場するからに他ならない。
 この超越論性が言語の超越論性として捉えられることを我々は見てきた。ヘーゲルの弁証法が言語哲学としていかなる意義を持つか、差し当たり次の三点を指摘しておきたい。
 第一にそれは、本来普遍的かつ超越論的なものとしての言語が、存在の資格で登場する場面を確保したということである。ごくありふれた存在に関して、言葉は存在の住家である。言葉の使用とは、直接性における思惟であり、それが一方では媒介の止揚として、他方では反省以前の統一として、存在と思惟の同一を実現する。これはある意味では実在論の立場を保証するものといってよいが、しかし、そこに留まることの出来ない展開の一段階としての実在論である。
 第二に直接性が、反省と対立の次元へと自己の真理を展開することによって、言語の意味を、一般に一者と多者の外在的関係として捉える通常の反省的、悟性的、形式的論理学の成立する場面を保証すると同時にそれを批判的に照明する可能性が得られるということも、充分伺い得たと思う。
 第三は、思惟を経験に内在せしめることによって超越論性そのものに生成を与えたということである。これによって、言語を獲得された習慣とか、約束の体系とか、総じて経験主義的に捉える言語観と、言語をイデア的、規範的な生成なき超越論性と捉える総じて合理主義的な言語観とを統一、総合する立場を確立しているということである。
 


















































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