ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(1)

<<   作成日時 : 2017/02/24 11:08   >>

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 ヘーゲル哲学の外からの批判は、いわばそれぞれの立場が先にあって、その尺度に当てはめてヘーゲルの言語の用法の曖昧さをあばき、こうしてヘーゲル哲学の核心である矛盾の問題が外見上のものにすぎず、じつは見せかけの問題にすぎないということを示そうとするか、あるいはヘーゲルが弁証法として説く問題の根は言語の問題にあるのだが、ヘーゲル自身はそのことを自覚していないために、絶対精神の哲学を説く結果になっているとする。つまり一方からは自らの言語解釈に立ったヘーゲル哲学の全面的否定が説かれ、他方からはヘーゲル的問題は専ら言語の問題に読み換えられていくのである。
 これらの批判の背景になっている現代哲学に共通の関心あるいは動向の根には、形而上学の批判または破壊の問題がある。この中で最も過激な立場からすれば、これまでの西洋の哲学は全て形而上学であり、本来の哲学思索を取り戻すためには改めてヨーロッパの哲学の歴史をひっくるめて全体として問い直し、破壊しなければならないことになる。もちろん形而上学が批判されたのは現代に限ったことではないし、またカントとハイデガーあるいはウィトゲンシュタインだけの問題でもない。形而上学という語を広い意味にとれば、ソクラテスにしても、デカルトにしても、ヘーゲルにしても、後の時代からは形而上学の創始者あるいは再興者と言われはするが、じつはその時代の形而上学の批判者もしくは破壊者であったとも言えよう。安定していたはずの時代理解が揺らぐと必ずこの時代理解の基盤になっている形而上学的確信への問い直しが現れる。
 形而上学の形式は確信である。したがって今我々が言語の問題との関連において、現代における形而上学の問題を考える場合には、形而上学という語の意味をもう少しはっきりと定義しておく必要があろう。言語が注目されるのは現代に支配的である確信の形式が特定のものだからである。我々はそれを「自己意識または主観を根本原理とする哲学」であると考える。あるいは広い意味での超越論哲学と言ってもよいであろう。
 自己意識または主観はデカルト以来近代の形而上学を基礎づけてきた。この自己確信が一切の知の根拠であるということは自明のこと(明証)であるとされる。今問い直され、論難されているのは、この形而上学の原理としての自己意識という確信形式である。デカルトのコギトにしろ、ライプニッツのモナドにしろ、カントの主観、フィヒテの自我にしろ、全てこの原理への反省あるいはこの原理の純化という形で、この原理に立脚している。ヒュームのようにこの原理に立たない哲学者でも説明できないものとしてこの問題に出会うという形で、自己意識は問題になっている。
 なぜ自己意識は哲学の原理となったのであろうか?確実な、時と場所を選ばない知または認識が真理であると考えられ、この知または認識の妥当性の根拠が、確かさ(確信)としての、意識の事実に求められ、さらにこの意識の事実の確かさの根拠として自己を自己として知る直接知である自己意識または主観が、あらゆる確かさは常にどこででも伴っていることが見つけ出されたからである。この原理に立脚して世界あるいは存在が説明され納得されてきたからである。そういう形で近代的な世界の安定と、この安定をよしとする価値観とが受け入れられてきたからである。そう考えることで万事うまくいっているように見えた、つまり、新しい形而上学的基礎が確定されたと考えていたからである。
 したがってこの考え方を生む背景には一つの認識論的な前提がある。いわゆる主観-客観-関係という認識モデルである。認識は意識に与えられた所与と、この所与としての認識の素材を素材として受け取り消化する認識の主観(主体)とから成立するという、それ自体としては認識されたのではない前提から、説明または解釈されている。近代形而上学の歩みはこの前提への反省としての説明または解釈の純化と精緻化との努力であったと言えよう。認識論が大きな意味を持ったのはそのためである。この主観-客観-関係による知の説明は、誰にでもすぐ分かることであるが、知るものと知られるものとが向き合っていて、この両者が係り合うことによって、知ないし認識が成立するというような素朴な説明では処理できない複雑な問題を抱えているからである。
 この関係をそのまま維持しながら、どうしたらこの複雑な問題を矛盾なしに説明できるかということが関心の重点になる。「何を知るか」が問題であるよりも「どのように知るのか」が重大だと考えられているのである。もちろん最初に置かれた前提は「何を知るのか」であるが、この「何を」を確定しようとして「いかに」に重点が移っていく。そしてそのことは同時に「何を」の暗黙の前提である、「何を」の根拠としての「何かが在る」ということへの問題を含んでおり、さらに「誰が」この問題を立てているのかという問題に連なってくる。つまりこの説明または解釈の成立根拠としてのぎりぎり究極の前提が、自己反省としての、意識の意識自身への反省(意識の確からしさとしての自己知)に求められたのである。だから自己意識において「何を」も「いかに」も「何かが在る」ということも、さらには「誰が」も基礎づけられるのである。
 現代の形而上学批判は、このような意識の事実の確かさに基づく認識論ないし存在論の批判なのである。「どのように」ということを問題にしている中に暗黙の中に前提されていた「誰が」「何を」ということそのことが問題の根源にあるということが浮かび上がってきたのである。この主観-客観-関係という図式そのものに問題の根があるということが言われるようになる。主観-客観-関係ということは果たして確かなことなのか、確かだとして、どうしてそれが確かだということを説明し、証明するのか?もともとこの考え方は説明でき、証明できることを確かさの根拠としていたのであるから、この問いには答えねばならない。しかしこれにうまく答えることが出来ないということが現代の「形而上学批判または破壊」という姿をとるのである。それではなぜこの形而上学批判または破壊は言語の問題として考えられているのか?
 すでにデカルトにおいて言語の問題はコギトの演繹と共に現れている。内在観念あるいは生得観念として、それ自体認識されることのない実体が承認されるとき、この主観-客観-関係という認識モデルを支えている形而上学的確定が、言語の問題への反省の欠如に基づいていることを、あるいはこの問題を素朴な思い込みからしか見ていないことを示している。実体として、主観に対して立てられた自体を主観において承認された客観たらしめるものは、主観におけるコギトとしての、よく秩序づけられた観念の体系であると考えられているわけだが、この観念の体系とは言語を手段とした命題の体系である。したがって客観として確定されたものは言語において立てられたものである。言語の介在が予め前提され承認されている。しかもこの言語の介在を承認することは、やがてこの主観-客観-関係を前提した認識モデルという形而上学的前提そのものを攻撃する武器となる。デカルトとライプニッツとが数学的宇宙として、新しき論理学を求め、メタ言語の問題、記号の問題に先鞭をつけたのも、ロックが彼の形而上学批判を行う際に言語の問題に注目するのも、根底にあるのはこの問題である。
 主観といい、客観といい、さらに両者の関係から成立するはずの認識といい、全て道具、手段としての言語(観念または表象とこれらの総合あるいは体系としての判断または命題)以外の何ものでもない。確かなこととして確保されたのは、日常的な、多義的な言語において、動かない言語の構造の核として(これを論理と言っても文法と呼んでも良い)取り出されたものである。確かなことの確かさの場も、この確かさを求めさせた不確かなこととの出会いも、この言語においてしか生起していない。それ自体なるものとしての実体への確信が、媒介手段としての言語による主観の承認に支えられていると考えることは、自体そのものを主観のことと主張することに他ならない。つまりこのような形而上学的確定に立つとき、常に言語についての一定の了解が前提となっているのである。言語は主観の使用する、不完全ではあるが不可欠な認識のための道具である。
 言語は主観の側のものであるが、同時に客観がこれにおいて主観に知られ、主観における客観の認識の証しとなるものだと考えられているのである。これが超越論的な近代的主観の行う超越においてなされているのである。主観の超越の可能性のために、素朴に前提された、超越のための場としての言語(道具性)は、主観の超越そのものの中に取り込まれてしまう。橋を架けたはずのものが自らその橋を渡ると同時に橋を呑み込んでしまう。超越はそのままで純粋内在の主張になる。しかもこの純粋内在としての客観の言語性は、主観のこととして、新たな超越の要求を呼ぶ。純粋内在を主張することが言語の問題として新たな外を呼び覚ますのである。つまりこの主観は主観-客観-関係において自体的なものの知を主張するという形而上学に支えられている。主観そのものが自らの手段としての言語において、見つけ出されたものであることを示してくる。超越することと超越の不可能性との相即を自覚させるのは言語である。この形而上学的確信を支えていたのは言語への素朴な信頼であったが、この確信を主張することはそのままこの確信を支えるものとしての言語の、道具としての働きへの反省として、つまり言語の問題として意識されてきたのである。
 「言語はプラトニズムにおけるように、イデア的な意味という、言語がそれに関与(メテクシス)するにすぎない、すでに確定された領域を前提しない。一般者すなわち存在の意味は、言語を通して、言語において初めて、一つの確定した意味連関の形式を獲得するのである・・・あるいは第一哲学は、もはや事物または存在者の自然(本性)あるいは本質の探求(存在論)でもなければ、意識または理性の表象あるいは概念の反省(認識論)でもなく、言語による諸々の意味(指示関係)あるいは意義への反省(言語-分析)である」という、ウィトゲンシュタイン-ハイデガー的な言い方によるアーペルの問題の捉え方がこのことをよく表している。だからこそこの自己意識に立脚する形而上学の批判または破壊は、言語の問題に注目することになるのである。
 このような問題意識から出発する現代哲学の動向は、言語の問題を哲学の特殊問題の一つと考えることはできない。言語の問題は哲学の中心問題であり、根本命題である。そしてこのような共通の関心から生じた動向として三つの相異なる考え方をあげることができよう。一つにはウィトゲンシュタインに由来し、その影響下にある言語分析の哲学、二つにはハイデガーおよびその流れに立つガダマー、アーペルなどの解釈学、三つにはカッシーラー、ハインテルなどの、言語の問題への反省から超越論哲学の再構成を目指す立場である。
 言語分析の立場からすれば、哲学の問題は専ら、言語の構造と働きの分析に限定される。それはもともと一切の形而上学的な問いが間違っているからではなく、本来そのような問いが、言語の論理についての無知に由来する、無意味な問いだからである。形而上学の問いは問いになっていないというのである。したがってこの立場では記号としての言語の問題は、文章論、意味論、道具論に尽きることになる。「意味を問うな、用法を問え」という格率がこの考え方をよく表している。
 解釈学からすれば、主観の問題にせよ存在の問題にせよ、伝統的な形而上学の問題は常に言語の問題が付きまとっていることへの反省を根本に置き、そこから真の哲学思索に迫ろうとする。したがって言語の問題は哲学の根本問題であるが、言語分析のように一切の問題を言語の問題に還元するのではない。形而上学の問題は同時に言語の問題であることの自覚に立って初めて、哲学の問いが問われ得るのだということから出発し直そうというのである。言語が言語として問題なのではなく、形而上学の批判または破壊という意味での形而上学的な問いがあって、その問いそのものが、言語への問いになることの自覚に立とうとするのである。だから解釈学的な対話において初めて求められた了解が成し遂げられるのであるが、その際、言語はむしろこの了解そのものが遂行される普遍的な媒体である。この了解の遂行の在り方が解釈であるということが関心の中心に置かれている。そのことが言語を対象的な記号の体系として扱うことを不可能にもしており、そこから出発して新たな言語了解の問題も生じてくる。
 新しい超越論哲学はこのような反省に立って哲学の概念を再構成しようとする。つまり解釈学などの影響下に立って、近代的な原理を改めて問い直し、基礎づけようとする試みである。主観の問題を近代的な形而上学の前提に持ち込まないで、ということは言語についての素朴な解釈に立たないで再構成しようというのである。
 これらの立場に見られる共通な問題は、哲学の根本の問題としての言語あるいはロゴスの問題である。言語についても、ロゴスに関しても、その理解または概念が論争の中心に在るのである。ここではっきりさせたかったのは、なぜ現代の哲学的関心としての、形而上学の破壊または克服は、言語の問題と関連するのかを示して、この論考の意図を予めはっきり確定することである。そもそも言葉語あるいはロゴスの理解そのものが対立し、その結果、言語が関心の中心に置かれるということが哲学思索それ自体の問題になっているということを、どう理解したらよいのかが問題なのである 
 記号論理学や言語分析の立場では、近代的原理としての自己意識の問題は全て記号の体系に還元される。自己意識、自我といった、命題形式において自己を内容として示すと共にこの形式を支える実体となるものは、全て命題関係としての記号の体系の中に溶かし込まれる。したがって一見したところでは形而上学の破壊は徹底的に行われ、改めて自己意識の問題を取り上げる余地はないように見える。記号の体系そのものには、形而上学的問題は無関係であるという主張がもっともであるように見える。しかし一切の形而上学的前提を排除した、この人工的な計算用の言語は常に日常言語の中に働いている、言語遊戯 Wortspiel という実用性に支えられている。したがってこの考え方そのものが極素朴な形而上学的確定に立っていることが見て取れる。計算用の、純粋に客観的で形式的な言語というような、日常の言葉の外に立った第三の立場によって、言語と世界とを存在論的に相即させることは不可能である。ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』時代の、ラッセルの「論理的アトミズム」の立場から後期の「日常言語の哲学」へ転換した理由はこのことに見られる。自己意識の問題を持ち込まないで存在の問題や認識の問題に答えようとすることが、そのままこの自己意識の問題を呼び覚ましている。もちろん近代形而上学の原理としての自己意識が、そのまま承認されねばならないというのではない。乗り越え破壊されたはずの形而上学が、依然として否定され破壊されるべきものとして迫って来るということである。ハイデガーにせよ、ウィトゲンシュタインにせよ、このような原理に立たない哲学思索を求めているのではあるが、しかもこの問題に直面している。言語を問題にすることは、このような問うに値するものとしての自己意識、自我、主観、自己などの問題を共に問うことである。
 ヘーゲルはこのような現代的関心としての自己意識の問題を自覚的に分析した最初の哲学者である。ヘーゲル自身が近代哲学の原理を自己意識に置いて、そこにあらゆる近代の問題とその解釈の可能性を見ていることは、『精神の現象学』、『哲学史』などから明らかである。もちろん同時にヘーゲルはこの自己意識の問題に伝統的な主観-客観-関係という認識論的、近代的な前提から答えようとしているのだという批判にもそれなりの正当性はある。ヘーゲルは近代形而上学の中で考えていたのだということを頭から否定することはできないであろう。それは『哲学史』でデカルトにふれて、自己意識が真理の本質的契機であると言い、思惟、内面性が絶対的なものだと受け取られることによって、本来の哲学が再び始まったのだとしていることにも現れている。
 いきなりヘーゲルを現代の哲学的動向の中に引き入れて解釈することは危険である。それにヘーゲルは言語を主題として扱ってはいない。しかしヘーゲルが自己意識という近代的原理を自覚的に問題にしながら、しかもなお現代的な言語論に類する理論を立てなかったことに関心を惹かれる。そこに様々なヘーゲル解釈を生む根があるように思われる。また逆にこのような観点から考えたとき、ヘーゲルの考えようとしたことがうまく行ったかどうかは別の問題として、少なくともヘーゲル哲学とは何であるのかが理解できるように思われ、また現代的関心からヘーゲルを読み直す意味もある。したがってヘーゲルを先入見なしに読むということは、一つには出来合いのヘーゲル解釈に立たないということであり、二つには出来合いの言語解釈に立たないということである。
 ヘーゲル哲学の特徴はこのような形而上学的確定そのものの内在的論理による乗り越え、つまり自己吟味そのものに成りきることであるから、我々もヘーゲル哲学そのものの言語論に立たねばならない。ヘーゲルの場合、単に言語が思想の表現の手段、道具という意味で思想表現にとって不可欠だというに止まらず、むしろ言葉にならない思想はなく、思想が未だ内包されない、純粋表現形式という意味での言葉もないのである。ヘーゲルは偶然の問題に関連して、言葉は思想の身体であって、その意味で必然性としての現実性であるが、同時に一定の言語表現には偶然性が重要な役割を果たしていることを語っているが、これも以上のような観点があってのことである。言葉は思想の作品であるとヘーゲルが言うのは、思想が言葉を通して語り出ることにおいて、言葉が思想そのもののエレメントであるということを言いたいのであるが、このことは、言葉は単なる不完全ではあるが必要不可欠な媒介物でもないし、また言葉の特殊性を排除した、純粋論理性だけが言葉に求められるのでもない、ということを意味している。ヴォルフの功績を論じて「彼が初めて哲学思索をドイツに根付かせた」という場合にも、ヘーゲルの念頭にあるのは言葉のこの働きである。彼の思惟と言葉とはこのような両者の本質構造の上から切り離し難く結びついている。思惟の道具、主観的精神の他者に対する媒介の場であるという言語の通常の受け取り方がないわけではないが、このような反省的悟性の仕事あるいは分析そのものが実はすでに総合であるということが読み取られており、したがって言語の問題はヘーゲル的思弁の対決しようとする問題の核ともなっており、このような常識的な言語理解の孕む自己矛盾がそのままヘーゲルの矛盾の哲学の問題に連なっているのである。だから少なくともヘーゲルの思想を理解し、批判的に乗り越えようとする限り(そのためには内在批判以外に方法はない)出来合いの弁証法解釈や言葉論をもってヘーゲルの言語の問題を解釈することはできない。またこの意味から我々は、普通の意味で、ヘーゲル哲学を対象として研究し、検討することも出来ないであろう。ヘーゲル自身がそれをはっきり語っている。
 
 ヘーゲルは言語を主題とした著書を一冊も書かなかった。またこの主題のもとに講義もしていない。また一切の哲学的学の集大成という性格を持つ『エンチュクロぺディー』においても言語の問題を論じていない。つまり、ヘーゲルが言語の問題を特定の学問領域として体系の中に位置づけていないということである。ヘーゲルは言語を思想表現の媒介者と見なしていたので、言語自体は特定の学の対象になるものではなく、折りにふれて、方法上の反省を行う場合に、ついでに考察すればそれで足りると考えていたように思われる。ところが一方でヘーゲルは近代形而上学の前提の批判を行う際に、折にふれて言葉の問題を取り上げている。しかもそれは彼の哲学思索の核心となる問題である。例えば矛盾の問題、疎外の問題、無限判断の問題、反照規定の問題、もっと体系的な観点からいえば、絶対者の自己展開を叙述する際には体系のあらゆる箇所で、先にあげた体系の各部分ではそれぞれのテーマに関連して、必ずと言ってよいほど言語の問題にふれている。
 しかもそれが常にその箇所での問題に即して論じられているので、場合によると彼の言語の理解を一義的に確定することが困難な場合さえある。しかし同時にその底には、困難な問題、つまり自己矛盾の問題には常に言語の問題が伴っているという一貫した考え方も見られる。そしてこれは単に体系叙述上の方法的反省の問題に止まるものとは考えられない。折にふれて語るのは、無自覚に、たまたま語っているのではなく、常に語るべき箇所でそのつど語っているように思われる。それにヘーゲルの哲学が絶対者をロゴスであると考えるのだという定説からすれば、絶対者は言語においてのみ存立するのだと考えられていることになる。このことだけからも、言語のヘーゲルにとっての重要な意味が見て取れる。
 絶対者がロゴスであるとはどういうことかが我々の問題である。ヘーゲルの思索と共に考えて行けば行くほど、どうしても言後の哲学的意味についてのヘーゲル自身の一定の解釈があった、つまりヘーゲルが言語について深く考え、彼の哲学にとって言語の問題は、一つの重要な根本問題であったと考えざるを得なくなる。しかも当時、ハーマン、ヘルダー、フンボルトなどの、後の言語論、言語哲学に重要な意味を持つ哲学が発表され、ゲーテもそれについて己の考えを述べていたほどで、この言語の問題は、カント哲学との対決と関連して、当時の学問文芸世界の関心事の一つであったことを考えてみると、ヘーゲル自身がこれらの言語論を一応は知っていたであろうと思われることからしても、そうである。
 D・J・クックはヘーゲルは哲学の自然言語への関連の問題を、真剣に受け取った最初の哲学者であり、おそらくはハイデガーを別とすれば唯一の哲学者であると述べている。リット、レーヴィットなど、多くの論者は『エンチュクロぺディー』の「主観的精神」の中で比較的まとまった言語論が展開されていることを論拠として、ヘーゲルは言葉を主観的精神の記号と考えていたので、言葉は体系の一定の位置に置かれていたのだとしている。この解釈に立てば、ヘーゲルには一定の、はっきりした言語論があり、しかもそれはヨーロッパ伝来の記号、道具としての言葉であったことになり、このようなヘーゲルの言語理解そのものが批判の対象となる。つまりヘーゲル独自の言語論は存在せず、問題はこのような言葉の問題を結局のところ、絶対精神または世界精神の自己表出といういわゆる弁証法の中に解消してしまうことだ、ということになる。しかし先に述べた通り、ヘーゲルはそれ以外の個所でも、折にふれて言葉にふれている。
 さてリットなどの解釈は、ヘーゲルにおけるロゴスが二重の意味を持っていて、一方では人間(有限な精神、つまり絶対的理性の現存の場)のロゴスとしての言葉であり、これは他者に関わる意識の、他者との矛盾的同一性を表す言表(これが弁証法の根源である)であるとし、これを自覚的に取り出したことをヘーゲルの功績であるとしながら、他方でこのロゴスを、世界精神、超人間的-神的ロゴスとして、他者をも包み込んだ純粋自己同一としてのロゴスとして、そこに矛盾の解消、和解を見ることによって、本来言葉の主体である人間を操り人形にしてしまったとする。結局この人々においては、ヘーゲルの言語論の限界は彼のロゴス論あるいは絶対者論の限界にその根源があることになる。我々はこのような解釈そのものに問題があると考える。むしろロゴスの二重性がヘーゲルの言語論の曖昧さ(両義性)となって表れており、しかもこの曖昧さの中にヘーゲルが考え抜こうとした問題の核心があると考える。
 レーヴィットの解釈も言葉=記号という立場であり、素朴実在論の前提においてのことであるからこの部類に属すると考えられる。彼は「言葉はヘーゲルにあってはあらゆる局面において記号である」が、その理由は言葉が主題的に扱われるのは主観的精神としてであり、専ら有限な精神としての人間の側に備わる媒介者と考えられているのであるが、それはパルメニデス、プラトン以来の言葉の二面のアポリア以来問題になってきた言葉の問題を、デカルト以来の近代思想、つまりロックのノミナとしての言語論に立脚して言表(命題)の形式の側から論じたものであるとする。もちろんこのようにして記号として捉えられた、絶対者の自己表出の場としての言葉の問題は、ヘーゲルにおける絶対者=世界精神自体との関わりの問題として論じられねばならないのであるが、これははっきりとは「ヘーゲル自身においては論じられてはいない」。しかし結局ヘーゲルはこの問題をキリスト教の「人間-神論を前提して解決しようとしている」のだと言う。このことが見て取れるのは『精神の現象学』における「分裂の言葉」の扱い方であるが、近代的な記号としての言語論を分裂として論じながら、ヘーゲル自身がこの分裂の言葉そのものになってしまっているとする。つまりレーヴィットの解釈は、ヘーゲルが通俗の、ヨーロッパ伝来の言語理解、すなわち道具、手段としての言葉という解釈に立って、この問題の孕むアポリアをキリスト教の「言の受肉」という神話によって解決しようとするものだと言う。だから言葉の問題は言葉の問題として解決されたのではなく、存在-神論というヘーゲル哲学のキリスト教的前提によって、ロゴスの二つの意味、すなわちギリシア以来のアポリアである「こと Sache」と「言 Sage」とが和解させられているにすぎない。しかも、もともと「言」としての言葉論に立っているのだから、この問題は「分裂の言葉」におけるように、言表の背後にあって、言表を支える「こと」を一切否定して、言表(命題)をそのまま「こと」として主張することによって「一切が言表にすぎない」と主張する循環を出ることが出来ないのだと言う。
 このレーヴィットの解釈はハイデガーのヘーゲル解釈とも通じる面があるが、一面的にすぎるように思われる。ヘーゲルの言葉論をどう理解するかは「分裂の言葉」をどう解釈するかにかかっていると言ってもよい。しかしレーヴィットのように「分裂の言葉」を否定的にだけ解釈するのには問題がある。ヘーゲルのこの「分裂の言葉」の扱い方には同時に近代的自己疎外の克服の積極的可能性も見られているのだと考えられる。レーヴィットは論文を閉じるにあたって、このような抽象的な、空疎な分裂の言葉に陥らないために、もっと素直になって、言葉となって表れる言表の背後に、この言表によって全て指示され、言い尽されることのない世界があって、その世界との関わりにおいて初めて言表するような言葉を考えようと提案しているが、ヘーゲル的に言えば、このような素朴な立場自身が「分裂の言葉」として自らエスプリ豊かに語り出ることが、近代的自己実現の問題としての自己疎外であると考えられているのである。
 これらの解釈に対して他方では、ヘーゲルは言葉の問題をはっきり自覚しており、はっきりした言葉の解釈に立った上で言葉を体系の一部とはしなかったのだという解釈がある。これを最も強く主張しているのはボダマーであるが、ラウエナーの立場もこれに近いと言えよう。ラウエナーは『美学』における言語論を主として論じ、結局『エンチュクロぺディー』と『精神の現象学』とを手掛かりにして「言葉は精神の定在である」という命題にまとめている。これは間違ってはいないが、問題は「精神の定在」ということの意味にあるのでこのようなテーゼだけでは大して参考にならない。ここで特に取り上げるべきものは、ジモンの研究とボダマーの研究である。この両者は、相互に対立する立場をとっており、それに両者とも広範なヘーゲルの文献を検討したうえで論を展開しており、いろいろな解釈の論点を考慮した上で論じている。
 ヘーゲルは精神の哲学者であると言われる。このように定式化すると、ヘーゲルにおける言葉の問題はこの精神の自己表明の手段としてのみ問題にされることになるが、ヘーゲルにおいてはこのような認識批判の問題がそのまま言葉の本質の問題なのだから、そのような言葉の問題は彼の思惟の本質に照らして存在しないし存在し得ない。ヘーゲルにとっては精神が言葉においてどのように自己を表明するかという問題は存在しない。そうではなくて、精神、絶対者が有限な意識(人間)において絶対者として語り出ることによって主観的になる、すなわち有限なものとしてしか言表できない必然性があるために、人間は言葉において一面的にならざるを得ないのであるが、どの程度までこの「ならざるを得ない」がヘーゲルの思惟のテーマとなったのか、したがってどの程度まで人間の有限性と限界とが言葉の本質と共に考え抜かれたのか、つまりどの程度まで言葉が有限性の根拠として、その根拠において同時にヘーゲルの説く絶対者の叙述を成すのかということである。絶対者が自己となる過程を叙述することが彼の哲学であり、彼の方法(弁証法)であるわけだが、このような過程は有限な存在、すなわち「・・・についての意識」としての有限なる人間の言葉において生起する。そしてこの言葉において「絶対者は自己を開示する」ということこそヘーゲル哲学の問題の中心であり、したがって言葉はヘーゲル哲学の中心テーマであるということになる。つまり絶対者が問題となる場合にはまさにヘーゲルの理解するような言葉をもって語るということの本質的特徴が表面に表れ、かつまたこのように語り出される、ということを解釈として示すことが問題なのである。「彼の哲学は実際に語り出すことと事実的-有限な世界との出会いとにおいて偽装されてしまった根拠としての、しかも同時にこの根拠がこの偽装へと誘い込むのであるが、このような意味での根拠としての言葉の本質の叙述なのだということを示す」ことである。そして「言葉はヘーゲルにあっては絶対者の偽装の根拠であると解釈することによって、我々はヘーゲル哲学が絶対者を、本質的に現象すると同時にこの現象の中で自らを偽装する絶対的なものであると理解することによって、言葉をヘーゲル哲学が記述する現象として解釈するのだ」ということになる。その限りで言葉は「有限性の根拠」であることになる。言葉の問題とは、絶対者=絶対他者と出会う有限なる意識の本質に関わる問題であり、また逆にこのような意識に出会うことにおいて絶対者は絶対者として自己を開示するという問題であり、これがヘーゲル哲学の核心の問題である。意識が何ものかについての意識、すなわち他者において自己に出会い、自己自身であることにおいて他者を持つ有限なる自己であることと同時に、このような意識の事実において初めて絶対者は自己を現すということに内在しているのが言葉の問題だというのである。この絶対者を本質的に現象するものではあるが同時にこの現象において自己を隠すものだとする解釈は、ハイデガーの強い影響を受けた、かなり強引な解釈であることは諸家の言う通りである。
 ヘーゲルの哲学は本来言葉の本質の偽装と同時に、この偽装を通して言葉のこの本質、つまり絶対者の自己表出の現象を記述することなのであるが、ヘーゲルはこのことを自覚していないのであるから、我々としては、ヘーゲルにおいて自覚して行われていないヘーゲルの言葉についての思索を、彼の体系全体の解釈を通じて、ヘーゲル自身が言葉について語っている箇所を体系全体の中に位置づけることによって、いわばヘーゲル自身には隠されていたが同時にヘーゲル自身が本来考えていたことを示すことにある、というのがジモンの立場である。
 このジモンの解釈によれば、ヘーゲルが言葉を体系の一部として体系の中に位置づけなかったのは、本来言葉の問題そのものが体系そのものの問題であるからだが、しかもヘーゲル自身はこのことを自覚していないために、体系の各所で言葉にふれているだけで、体系そのものとしてまとめることができなかったのだということになる。この解釈は、その当否は別にして、とにかく先に示したヘーゲルの言語論に見られる矛盾した態度、つまり一方で言葉の問題が体系の核心的な箇所で論じられながら、しかも体系の中にはっきりと位置づけられていない、という問題に一応は答えたことになるが、問題がないわけではない。ジモンはリットらの解釈を前提して、予めヘーゲル哲学における言葉の問題を、通常の言葉の解釈に立脚して、近代的主観が伝統的な自体存在としての実体を把握する際の媒介者であり、しかも必然的で不可欠な媒介者であると考え、そのために絶対者(実体)は言葉において自己を表示する、つまり主観性と一つになるが、そのことにおいて実体はすでに主観のものとなってしまっている、つまり主観化されてしまっていて、再び言表できない彼岸に隠れてしまう。このような事態の起こる場としての言葉がジモンの問題にしている言葉なのであるが、これはすでに言葉において自己の他者と出会い、他者と対話し、理解する主観と、言葉において自己を提示する絶対者、実体との対立を前提し、しかもこの両者の出会いを可能にする第三者としての言葉を前提している。
 ジモンは以上の通り、極ありきたりの言語論と精神理解とからヘーゲルにおける言葉の問題を解釈しているが、実はこの解釈はヘーゲル自身が言葉について論じていることから出発して初めて得られるべきものであるのだから、ジモンの解釈は外からの、しかも予め出来上がった言語理論およびヘーゲル解釈からする理解だと言われても仕方がない。ジモンのように言ってしまうと、結局のところヘーゲルは自分の思想の本質に気づいていなかった。つまり自分の哲学のエレメントを無意識の内に前提し、しかもそのエレメントに至り着いていない、ということになる。しかしヘーゲルの目指したことは、元来、哲学はこのエレメントを自覚することであり、このエレメントを矛盾として自覚した自己たらしめることであったことを考えてみると、ジモンのように言い切ってしまうことには問題があろう。もちろんヘーゲルのこの意図が成功しなかったのだという解釈も可能であるが、その場合には問題はヘーゲルの言語論の解釈を越えてしまっている。ジモンにはヘーゲルにおけるこの自己の問題についての深い思索が欠けているように見える。ジモンのように言えば一応説明はつくが、それはヘーゲルがそう考えたということではなく、ヘーゲルは(我々の言語理解からすれば)このように考えるべきであった、そう考えて初めてヘーゲル哲学は(我々に)理解できるようになる、と言っているにすぎない。
 ボダマーの解釈は、以上のようなジモンの問い方に対する方法上の自覚に立ってなされている。そして結論としては、ジモンとは逆に、ヘーゲルは言葉の本質を十分自覚し、独自の言語論があったればこそ、要所要所で、その時々の体系上のテーマに従って、予めヘーゲルの言語解釈に立って論じているのだという。したがってヘーゲルが一つの言語哲学をなさなかったのは一定の言葉の理論ないし解釈が動機となっている。ボダマーは「言葉は哲学の中心テーマとしては全く意識的に排除されるのだ」と言う。そしてその理由として「なるほど言葉は、その本質的な機能から言って、精神の直接の定在、映現あるいはまた最初の直接の実存として記述されはするが、言葉がこのように精神の最初の、無媒介な、自然的な現象形態であるということからして、言葉はヘーゲル哲学の中心的な考察の対象ではないのである」。「日常的な語りの中で実際に語られる、自然的な言葉ではなく、この言葉の中に無自覚の中に働いている論理的なもの、それ自体こそヘーゲル哲学の中心テーマである」というのが、ジモンを意識した上でのボダマーのヘーゲル論の要点である。このような見方からボダマーは、専らヘーゲル自身の言葉についての解釈に基づいて論を進めることに心がけ、それ以前に一定の言語論を用意することは避けようとしている。この方法上の自覚は先述のように、ヘーゲルの場合には特に重要なことである。この点で我々もボダマーの方法に従うべきだと思われる。
 しかしこのような方法から彼が得た結論、つまりヘーゲルにおいては言葉は中心テーマではなく、むしろ中心テーマになっているのは言葉の中に隠されている論理的なものであるという主張には問題があるように思われる。確かにヘーゲルは言葉を「言葉にすぎない」という形で、素朴な、無媒介なものとして語っている場合が多いし、『大論理学』第二版の序文の中で、言葉と論理との関係を論じる際に、ボダマーの解釈を正当化すると思われることを言ってはいる。しかし他方では、「分裂の言葉」における「言葉の媒介する働き」あるいは「絶対者は言葉において自己外化することにおいて真に自己自身である」という「ロゴス解釈」などに照らしてみても、問題はむしろ「言葉に内在する論理的なものそれ自体」というそのことが「言葉においてしか」出会われ得ないもの、つまりこの論理的なものが論理的なものとして自覚されて「媒介された具体的なもの」となるのは、やはり日常的な、分節した言葉をおいて他にないということが、ヘーゲルの言葉の解釈の本質となっているように思われるのである。
 論理的なものを純粋な形で言葉から取り出し、こうしていわば言葉における哲学的に本質的なものを自然的な、素朴な言葉と区別しようとする態度は、ヘーゲルが最も中心的な対決の相手の一つと考えていた悟性的抽象つまり形式主義に立つものである。このように純粋に論理的なものが、自然的な言葉として自己を語り出ることが、悟性の偉大な威力として自覚され、このような否定の威力の真っ只中に立つことがヘーゲル的思弁であるのだから、ボダマーの解釈には問題がある。
 この自然的言語と論理的なものとの関連については、なお一言言っておきたいことがある。それはヘーゲルの用語の曖昧さの問題である。多くの論者がヘーゲル批判の根拠とするのがヘーゲルにおける用語の曖昧さなのである。ヘーゲルはいきなり用語の意味をずらし変えてしまう。しかも彼の矛盾の提示とその止揚とが大部分はこの用語の意味のずれ(常識的、日常的な意味からヘーゲル独自の思弁的な意味への)に負うており、まるで魔術のように問題から問題へと移行し、問題を提起し問題を解決すると言ってヘーゲルは非難され論難される。移行に無理があり、概念の運動が移行を成就するのではなく、予め全てを見透している哲学者ヘーゲルに操られて概念の見せ物が演じられているにすぎないという批判は、このことに由来している。だからヘーゲルを理解することは、この魔法の種明かしをすること、つまり言葉の意味のずれを個々のケースに基づいて「実証的」、「合理的」に明らかにして、納得の行くものとすることだとされるのである。ところがもともとこの用語の曖昧さはヘーゲル自身が自覚していたことであり、ヘーゲルはこの常識的、日常的な言葉の中に思弁的なものを読み取っているのであって、日常的な言葉と別に哲学の言葉を考えていたのではない。言葉がそのままで概念としての自己であることがヘーゲルの思弁哲学の核心なのである。だから大切なことはヘーゲルの用語の外見上の曖昧さに惑わされずに、そこに展開される思弁と共に歩むことなのであり、これを常識、つまり悟性的分析に理解できるように合理化することではないのである。ボダマーの解釈ではこの点について曖昧なまま、日常的な言葉の中に潜む論理的なものというテーゼが立てられているために、結論としては、言葉は中心テーマではないということになっている。我々としてはボダマーの方法的自覚は尊重しなければならないが、彼の結論には従うことはできない。ボダマーのように考えてしまうと、言葉が体系の中に一定の位置を占めないということはそれなりに説明はつくが、しかも言葉がヘーゲル哲学においては、常に中心テーマと共に、つまりヘーゲル哲学の核心にふれる箇所で、日常的な言葉として論じられているということの意味が失われてしまうように思われる。ボダマーの解釈は、ヘーゲルにおける言葉の矛盾を一面的に、しかも通俗の表現形式としての言語論というヘーゲル自身が自覚していた問題からのみ論じていることになる。ヘーゲルはこの一面性そのものが思惟の作品として、論理そのものの問題でもあることを自覚していたからこそ矛盾の哲学を生んだのだと言うべきであろう。
 それにボダマーはヘーゲルの「理性は言葉としてのみ現実に存在する」という『歴史哲学』の文章から、『論理学』の「実存」の定義によって、言葉を「媒介された直接性」であるとしていることからすれば、言葉は体系の中にはっきりと位置づけられていることになろう。しかもこの実存の問題は『論理学』「本質論」の「反照規定」において論じられる中心問題の一つであるが、ヘーゲルの『論理学』の特徴、いなむしろヘーゲル哲学の本質は、客観的論理(存在論)と主観的論理(概念論)との間に両者を媒介するエレメントとして「本質論」を位置づけたことにあるとしたら、単に体系の中に位置づけられているというだけではなく、ヘーゲル哲学の要となる位置を占めていることにもなろう。もちろん一切は言葉に帰するという意味でヘーゲル哲学の結論として、つまり体系の頂点に言葉の問題が位置するのではない。しかし言葉が理性の実存の制約であると同時に言葉は理性に制約されているという弁証法の問題こそヘーゲル哲学を内から動かしているものなのだから、ヘーゲルにおいて中心的な問題は言葉における論理的なものであると言い切ってしまったのでは、この弁証法的ダイナミックスは理解できないことになろう。むしろ言葉はロゴスと実存との相互浸透であるということに注目すべきであろう。言葉の積極的な意味(肯定的解釈)は常に言葉にすぎない(否定的解釈)と共に、言葉の本質(矛盾の根源)として問題にされている。この点についてはジモンの方がよく考えているように思われる。いずれにせよ両者の解釈は、それぞれにヘーゲルにおける言葉の解釈の曖昧さの根源を探る内に、いつの間にかそれを合理化して、「こうすれば分かる」、「ヘーゲルはこう言いたかったのだ、あるいはこういうべきだったのだ」という結論になっている。我々にとっては両者の解釈はそれぞれにヘーゲルの言語論の一面を捉えているが、同時に両者とも或る形而上学的前提に立って考えている、しかも両者の理解は相矛盾しているということが何よりも重要な問題である。この解釈の矛盾こそヘーゲル哲学における言葉の問題の核心であると思われる。したがって問題は同時にヘーゲルにおける絶対者とか論理的なものとかいう概念がどう考えられているかにも関わってくる。
 以上ジモンとボダマーとの主張から我々の研究の課題と方法とがかなりはっきりしてきた。1)ヘーゲルにおいて言葉はヘーゲル的思惟の本質と深く関わるものとして問題になっている。したがってヘーゲルの哲学を言葉の問題から理解することはヘーゲル哲学の本質に関わることである。2)しかしそれにも拘わらず、ヘーゲルは言葉を哲学の中心テーマとして体系の中に位置づけてはいない。3)それはヘーゲルが言葉の問題にぶつかりながら、その根元を自覚できず、結局絶対精神における和解に逃げ込んだからなのか、あるいはヘーゲルが言葉の本質を見透した結果、言葉そのものではなく、言葉における論理的なものそれ自体を純粋に取り出そうとしたから、つまり言葉そのものは中心テーマには成り得ないという自覚を持っていたからなのか、ということが問題である。そしてこの二つの解釈の矛盾、対立は、結局ヘーゲルにおける絶対者=精神自体をどう考えるか、つまりこの自体を世界精神もしくは絶対精神と見るか、あるいはそのことに自己を現すロゴスそのものを見るか、あるいは同時にその両者であると共にどちらでもないのか、ということが問題の根源であり、したがって根源の問題である。言葉の問題を考えることは、精神、自己というヘーゲルにおける中心概念を、実体=主体、無限判断、思弁的命題、自己疎外など、この問題を解く鍵となる語において、言葉の問題との関連で考えることなのである。
 





































 


























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