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ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(1)
 ヘーゲル哲学の外からの批判は、いわばそれぞれの立場が先にあって、その尺度に当てはめてヘーゲルの言語の用法の曖昧さをあばき、こうしてヘーゲル哲学の核心である矛盾の問題が外見上のものにすぎず、じつは見せかけの問題にすぎないということを示そうとするか、あるいはヘーゲルが弁証法として説く問題の根は言語の問題にあるのだが、ヘーゲル自身はそのことを自覚していないために、絶対精神の哲学を説く結果になっているとする。つまり一方からは自らの言語解釈に立ったヘーゲル哲学の全面的否定が説かれ、他方からはヘーゲル的問... ...続きを見る

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2017/02/24 11:08
言語における直接性と媒介性
 ヘーゲルの、いわゆる直接性に対し媒介性を対置し、媒介されたものは具体的であり、直接性を低次のもの抽象的なものとみなした考え方は、より観念的なものをより現実的であるとみなす、悪しき形而上学的観念主義を表すにすぎないのだろうか。  もし我々がヘーゲルとは反対の前提、すなわち直接的なものを具体的であるとみなして(例えば経験論、唯物論、現象学など)、ヘーゲルを裁き、評価し、位置づけるのであれば、それらの規定はいずれも極めて不毛であると言わねばならない。  たしかに彼は、あらゆる実在の真理を、思惟的... ...続きを見る

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2017/02/18 11:45
最後の言語
 神が死んで、形而上学が残った。そこで一切であるところの一個の真理が、前もってその企図の内に未来の哲学もそのプロレゴメーナも含み込むことになった。後から来るものは、始まりでもある終わりによって回収され、未完のものは、終わりでもある始まりに統合される。偶然的なものは、即自的に、また対自的でないまでも我々に対しては表象に属するが、それも必然において永遠に実現されてある。ただ論理に無知であることが、未来の諸々の可能事、世界の展開過程での諸々の偶然事、生成の諸々の切断、天才の予見不能な諸々の直観を信じさ... ...続きを見る

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2017/02/14 11:15
ヘーゲルにおける言語の位置
 『精神の現象学』の緒論の始めのところで展開されている認識論批判についてヘーゲルは次のように述べる。認識を道具、または手段とみなす認識観は、一方の側に真なるものとしての自体的にあるものをおき、それを認識によって意識のものとしよう、ということをその課題としている。その企てに際して、現実に認識することに取り掛かる前に、予め真理を媒介する道具、手段としての認識の機能を吟味しておこうという一応最もな要求が生じてくる。また吟味は、認識は一定の種類と範囲との能力であるゆえに、その本性と限界とをより厳格に規定... ...続きを見る

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2017/02/11 11:32
『精神の現象学』における個体(4)
 ヘーゲルにおいて精神が空間として己を外化するとき精神は自然となる。だが既述のように、この自然において精神は即自的かつ対自的な個体を見出すことは出来ない。自然は生命という己の普遍者からいきなり現存在の個別態の内に転落するだけである。ここにヘーゲルは自然の無力を認め、また自然の偶然的運動が生み出されるのだという。その理由をヘーゲル的に言えば、自然は自己を認識する精神に対してのみ精神であるにすぎず、即自的にはロゴスであるが、対自的にはロゴスではないからだと言うことになろう。したがってまた、有機体の自... ...続きを見る

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2017/02/07 14:17
『精神の現象学』における個体(3)
 カントがアンチノミーの批判的解決のために示した不定的無限あるいは可能的無限という考え方に対して、ヘーゲルの場合、その現実的無限はカント的なアンチノミーに現れたテーゼおよびアンチテーゼのそれぞれの規定がいわば自己の限界へ移行することによって自己崩壊を惹き起こしたものと見なすことが出来る。カント的な二元性の世界は崩壊し、それらを包含する肯定的な全体が回復されるのである。二種の現実としての内なるものと外なるもの、あるいは現象と超感覚的なるものといった諸対立は、もはやここには現存しないのである。けれど... ...続きを見る

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2017/02/04 16:13
『精神の現象学』における個体(2)
 カントの考え方の道筋から見れば、ヘーゲルの哲学は、カントにおいて肯定的に展開できなかった個体論の全面的な展開であったといえる。なぜなら、純粋理性の理想に止まるカントの個体論から引き出された一つの消極的な結論は、主観と客観との一致、思惟と存在との一致を前提にしなければ、個体の真の限定は不可能だということである。そして歴史を舞台とし、まず生命として(すなわち単なる物としてでもなく、また普遍的な人格そのものとしてでもなく)、この地上に出現した人間の活動を捉えること、この個体的存在である人間を物や客体... ...続きを見る

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2017/02/02 11:21

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