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zoom RSS ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(2)

<<   作成日時 : 2017/03/01 10:12   >>

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 ヘーゲルは言葉を哲学の対象そのものとして論じてはいないが、同時に哲学の核心に触れるところでは常に言葉を問題にしているということは既に述べた。ヘーゲルの言語論は彼の哲学的関心、つまり「哲学の必要」と切り離しては考えることはできない。ジモンもボダマーも、それぞれの主張に聞くべきところは多々あるとしても、結局のところ予め出来上がったヘーゲル哲学の本質を前提し、しかもそれに対する方法的反省を行っていないということが問題であった。したがって我々としては、ヘーゲル哲学がいかなる問題意識から出発し、この問題にどのように答えたのか、あるいは答えようとしているのか、ということを予め大まかにでも見透し、概観しておく必要がある。もちろんヘーゲルの場合この学は体系であり、この体系は全体として、絶対者が自己展開する過程そのもの、つまり絶対精神の自己展開、自己実現する理性の歴史そのものだと言うのだから、別の言い方をすれば、ギリシア精神とキリスト教精神との結合と敵対とを柱にして組み上げ形成されてきたヨーロッパの全精神史を内に含んだ体系であると考えられているのだから、このようなヘーゲル哲学の本質に触れる問題を簡単にまとめあげてしまうことには危険があるし、また困難でもある。しかしヘーゲルが己の思索の問題として出会っていたことが明らかになることによって初めて、ヘーゲルが言葉についてどう考えていたのかを読み取る手掛かりが得られるのも確かであろう。いわばヘーゲル哲学そのものが生成してくる根源の問題に予め一定の視点を定めておくことが必要なのである。したがってここで、ヘーゲルがどのような問題に対してどのように答えようとしていたのか、ということを言葉の問題との関連から概観しておきたいと思う。このヘーゲルにとっての根本の問題との対決の結果、この問題そのものの生成と発展との過程そのものの中にこの問題に対する一つの解答を聴き取り、叙述したのがヘーゲルの体系あるいは思想である。

 ヘーゲル哲学は絶対精神の哲学である、つまり絶対者を精神と考える哲学、実体が同時に主体でもあると考える哲学である、という定義はそれ自体としては別に異を唱える必要のない、正当な命題といえよう。精神という概念の中にもっとも明瞭にヘーゲルの根本的な考えが現れているのだから。しかしこれらの命題はそのままでは空虚な言葉にすぎず、このままでは呪文としての意味しかない。今我々に必要なのは、このようなヘーゲル哲学の在り方を決定づけたヘーゲルにおける問題である。ヘーゲルにおける「哲学の必要」とは何か、これがここでの問題である。
 ヘーゲルが自己の思想として初めて世に問うたのは『差異論文』(1801)であるが、この論文はラインホルト流の「現代哲学」解釈に反発し、シェリングの『超越論的観念論の体系』に触発されて、カント-フィヒテ的反省哲学との対決を意図して、「哲学の必要」と「哲学の課題」とを説こうとして書かれたものである。ここで今我々にとって重要なのは、その当時ヘーゲルが「哲学の課題」をどう考えていたかということである。その手掛かりになるのが、この書の序論の中に見える一項「哲学の必要」なのである。この箇所でヘーゲルはこう言っている。「分裂が哲学の必要の根源」であり、「統一の威力が人間の生から消滅し、対立物が生きた関係と相互作用を失って、それぞれに独立なものとなってしまった場合に哲学の必要が生じる」と。じつにヘーゲルの青年時代の宗教、政治、社会の問題の研究は、このような問題の発見とこの問題との対決の記録である。そしてイエナで彼はその解決の糸口を見出したのである。このころに初めて分裂の根の在り場所とその克服の可能性とが見えて来たのである。そしてこの分裂に対する考え方がやがて『精神の現象学』において、矛盾としての「絶対概念」「生の単一な本質」「世界の魂」として取り出されてくる。つまり哲学にとっては、本来生きた統一である生が、分裂し相互に無関心なものとして固定されてしまっているという現実があり、それに対して生きた統一を回復することが哲学の使命として自覚されていることがあるから、哲学の必要が現にあるのである。一方では生きた統一が、本来在るべき生、真実、絶対者として求められており、他方ではこの統一が不在であることの自覚と苦悩とが現前している。そしてここに現前しているということの自覚が意識の経験の出発点であり、この自覚に基づく問題との対決が、意識の経験の道程として展開されるとき、彼独自の学としての哲学が叙述されることになる。だからここでの主張の根幹は、その「こと」を自己に突き付けられた問題として受け取り、在るところのものの了解としてこの問題と対決することが哲学の仕事だ、ということである。
 したがってヘーゲルがベルンとフランクフルトでの家庭教師時代に、失われてしまった生きた全体をどうしたら回復できるかを問い、この問題を深く考えて行くうちに、カント哲学の研究を経て、実定性という後の自己疎外の概念に通じる重要な概念を発見して行く過程が、ここに分裂の問題として、彼の哲学の根本問題として自覚されてくるのである。ヘーゲルにとっては、宗教は民族宗教、人倫の根底として、常に生きた全体の基盤として研究されまた求められており、このような関心がそのまま現実としての社会の問題への関心を呼び起こし、その研究の結果として、市民社会=欲望の体系としての悟性国家という実定性にもなっているのである。このような背景のもとに、この『差異論文』では、この分裂が歴史の必然性であり、正義=権利として当然に主張され、実現されて行くものでありながら、同時にこの分裂の苦悩に騒然となっているのが、時代の現実である、ということをヘーゲルは見抜いている。ここにもヘーゲルとシェリングとのフランス革命に対する態度の相違の原因が見て取れる。
 このような分裂はなぜ生じてくるのか、ということが問題になる。それは制限づける力である悟性が、絶対者とその現れとの間に一つの悟性界を構築し、この悟性の構築したものを、自然、宇宙、客観的な、学的法則の世界として独立の存在とするからである。しかもこの世界が常に生きた統一としての絶対者の現れと考えられ、そのために絶対者との関わりにおいて初めてそれとして独立自存の自然、世界、宇宙であることができるという意味で、絶対者を否定することができず、常にこの絶対者を目指して自己の制約性を乗り越えて行かなければならない。この客観的世界がそのまま絶対者なのではなく、絶対者を目指しての無限の努力であり、絶対者を立てることにおいて初めて可能であるということがすなわち分裂の現実であり、哲学の必要を呼び起こしているのである。悟性による客観性としての自然、世界の固定と、それに対立する生の事実としての主観性との相克に直面しているということが現に在る。そしてこのように主観性と客観性とに分かれてそれぞれ固定されてしまった対立を止揚することこそ理性の唯一の関心事である。しかしこの理性の仕事は、この対立に対して、より高次の力として、悟性の対立物として立てられるのではない。なぜならこの必然的な分裂は生の一つの要因であり、生は永遠に対立的に自己を形成し、総体性は最高の生命においては、最高の分離からの回復によってのみ可能だからである。理性は悟性による分裂の絶対的な固定に反対して自己を措定するのである。
 ヘーゲルの悟性と理性の使い分けは、イエナ当時はほぼカント以来の使い分け、つまり悟性は思惟、判断の能力として、論理的に分析し、分割し、秩序づける理論的能力であり、規則による認識の能力、意識の側に備わる能力であると考えられ、したがってこの能力によって認識という形に整理される素材は、経験の内容として、意識の外に与えられていることになる。悟性にとっては「超越論的弁証論」というような必然的論過の問題はない。悟性にとっては絶対者は与えられていない。絶対者は悟性にとっては非存在のままで別に問題はない。しかし同時に悟性は絶対者を予想しなければならない。絶対者は対象の根拠として前提される。この前提の問題が意識にとっての問題として自覚されるとき理性が働いていることになる。つまり意識の転倒が起こっているのである。だから理性は絶対者を問題にし、絶対者を対象に立てるという必然的論過を犯す。カントでも問題になるこの悟性の必然性としての理性の問題が、そのまま反省の問題としてヘーゲルにおいて問題になっているのである。もちろんヘーゲルは後には、カントの概念では、理性を悟性を以て扱ってはいるが、悟性を理性を以て扱ってはいない、と言って批判し、またカントの理性は空虚な悟性である、と言っているが、この場合にはクローナーの言う弁証法とは合理的-非合理的な思惟ということになろう。悟性は徹頭徹尾整合性に立つという意味で合理的であるが、その時悟性は自らの前提(目的と根拠)としての絶対者という非合理に突き当たる。悟性には絶対者は問題にする必要もないし、問題にできもしない。だからこそ悟性は整合性を保っている。しかしだからといって、この非合理は無ではない。悟性にとっての対象ではないという形で、悟性が予想し前提するものである。どうしてもこの非合理はついて回る。しかも非合理は合理ではないものとして、悟性によって分けられたものである。この非合理と合理との矛盾対立と相互予想との問題に直面するのが理性だというのである。そしてそこに思弁哲学の根源を見ようとするのがクローナーの見方であろう。だからここでヘーゲルの哲学が非合理的なものをも主張する一種の超合理主義だと言っているのではない。悟性にとって問題にできない、したがって悟性にとっては、どうでもよいもの、つまり無差別が、悟性にとって非合理なものとして迫ってくる。悟性が悟性として整合性を主張することが、そのまま悟性の根底としての非存在=絶対者に出会うことを言おうとしていると考えるべきである。反省が自己自身を対象とする限り、理性によって与えられ、反省がそれによって理性となる、その反省の最高の法則は反省の絶滅である。そしてこれが知と呼ばれるのもそのためである。
 だから、単純に悟性の妥当する範囲と理性固有の問題などという両者の分類はできないのだが、とにかくここでは、絶対者と制約されたものの総体つまり秩序づけられた世界である客観界との区別とその必然的関係の問題が、悟性と理性との問題である。こうして悟性による分裂と理性によるこの分裂の克服としての哲学の必要には二つの前提があることになる。一つは絶対者そのものである。この分裂の根源に在って、分裂の克服において回復され、目指されるものがなければ、そもそも分裂ということ自体が自覚されないのだから。二つには、存在と非存在、概念と存在、有限と無限という、本来一つであるはずのものが二つの対立物に固定されてしまっているという現実である。したがってここに言われる絶対者とは、主観と客観との同一性、一切の対立の根としての観念性と実在性との同一、つまり思弁的な絶対的同一性であり、ヘーゲル哲学一般の問題に直して言えば、思惟と存在との一致の問題である。ヘーゲルが時代の要求として見たものは、カントやヤコービやフィヒテの哲学の体系がこの要求に応えようとして考えられながら、結局この同一性を、主観的同一性もしくは逆に客観的同一性においてしか主張せず、絶対者としての絶対的同一性は当為に、要請につまり信に求められ、したがって教条論として対立するに止まっているということである。『精神の現象学』においてこの問題に対するヘーゲル的な体系の構想が確立するまでに書かれた諸論文は、この問題に対決するヘーゲルが同時代の諸体系を徹底的に研究して、進べき道を模索したものだと言えよう。「哲学の課題はこの二つの前提を統一すること、つまり存在を非存在へ、生成として、すなわち分裂を絶対者へ、この絶対者の現れとして、有限なるものを無限なものへ、生として措定することである」。そしてこれが俗に言う「哲学の前提」ということに他ならない。このような近代哲学の前提からカントもヤコービもフィヒテも出発し、この前提に対して結局のところ、信=彼岸における統一を要請し、憧れ、当為とすることによってしか応えていない。つまりこの前提と一致していない。前提と結論が相容れない。この問題を特に論じたのが同じ頃に書かれた『信仰と知』である。
 しかしこのような意味で「哲学の必要」を哲学の前提であると考えるのは不都合である。なぜならこのように考えてしまうと、この対立は意識にとってのこととして、そのまま反省の中に立てられたものとなり、絶対者は反省において一方の極として立てられたものとして、制限づけられたものとなって矛盾に陥る。そしてこの矛盾は哲学そのものによっては問題にすることができず、哲学の必然的前提となり、哲学は自己の根拠を、自己以前にまた自己の外に持つことになる。これは哲学そのものが有限なるものとなることを意味し、哲学の必要に哲学が応えないことになる。つまりこのように考えることは二律背反の問題として理性の論過だとされることによって、悟性の反省の中に閉じ込められてしまうのである。
 つまり二律背反は反省が哲学の道具として働いている限り、ことがらの真実として指し示すものであるのに、この二律背反として、絶対的矛盾として追ってくる両項の一方を絶対的なものとして立てる、つまり理性を単なる反省と悟性との観点に従属させ、この理性的なもの(二律背反)をイデーという形式(当為)の中で絶対的に対立したものとして固定してしまうことによって、二律背反としては対決されず、この空しい反省が絶滅されないで、無限の反省つまり努力、要請として唯一のことになってしまうのである。これは存在の教条論を思惟の教条論に、つまり客観性の形而上学を主観性の形而上学に変えたにすぎない。一方の極から他方の極へと逆転しただけであるために、無限=真理は無の無底という一つの夜として彼岸に立てられているだけである。
 だからこの矛盾は矛盾として哲学思索の問題とならねばならない。この矛盾の媒介が哲学的反省である。だから反省としての理性は否定的絶対者の力という意味で、絶対的否定として現れ、しかも同時に対立する客観的総体と主観的総体とを措定する力として現れるのである。ここにはシェリングの無差別ないし同一としての絶対者という考え方に立って、フィヒテ的な絶対的反省を考え抜こうとしているヘーゲルの姿勢がはっきりと現れている。未だ用語や表現の仕方がシェリング的であることは事実であるが、なおそこにカント-フィヒテ的な反省が絶対者にとって必然的な意味を持つことがよく読み取られている。
 よく秩序づけられた、明確に区別され制限された、つまり認識された客観として、悟性による純粋反省によって立てられた措定された世界は、この悟性の反省がそこから、そこへと考えられているものの前提において立てられている。この「そこ」とは、もはや反省によって秩序づけられた客観としては立てることのできない反省の根拠であり目的である。反省は必然的にこの「そこ」つまり絶対者に出会う。この絶対者に支えられ、この絶対者を目指して、反省は初めて無限の反省、つまり一般に好んで主張され哲学の仕事としての説明として、一切を反省の中に取り込むことができる。だから逆に絶対者は反省の根拠、目的として、反省の外に、反省を反省として初めて成り立たせているものでありながら、絶対者は反省において、反省の一方の極として初めて反省の制限づけの根拠でもある。絶対者は反省に対する全くの無差別ではあり得ない。反省を離れてそれ自体なる絶対者は絶対者たるの意味を持たない。しかしまた、反省の一方の極としての絶対者は、すでに反省の構築するよく秩序づけられた世界の中に位置づけられて、一つの制限されたものになってしまい、説明されたものとしてもはや反省の根拠でも目的でもあり得ない。この絶対者に直面していることが、分裂とその克服の必要としての「哲学の必要」であり、「理性のこと」である。
 対立する極を固定するから矛盾に陥る。しかしこの固定は恣意的なもの、止めようと思えば止められるものではない。絶対者を絶対者として立て、しかもこの絶対者を絶対者として認識しようとすることが、対立矛盾、固定を生んでいるのである。この矛盾、対立するものの固定がなければ、絶対者の問題は生じさえしない。絶対者は、悟性による固定が存在するから存在する。しかもこの絶対者は悟性の固定に固執する限り、つまり反省の中にいる限り彼岸に止まり、彼岸として此岸との関係において立てられた対決する固定の一方の極になってしまって、固定は越えられない。だから「分裂」は「現に在り」、この分裂の克服が求められているのである。このことをヘーゲルは二律背反の問題に関連づけて、二律背反の真実は、この悟性の固定、つまり形式的思惟にあり、イデーの契機をそれだけで独立に存在するものとして固定するところにあるとし、そのために一面的になってしまうのだと考えている。が同時にこの固定の立場は一面的でありながら真理の絶対的な出発点であるという優位を保持しているのである。つまり、ただ思弁の形式的な面だけを反省して、知の総合を分析的な形式の中に固定している場合に、二律背反が存在する。これは自己自身を止揚する矛盾、つまり知と真理との最高の形式的表現である。ヘーゲルが「哲学の課題」であると考えているのは、このような「哲学の必要」と真正面から取り組むことである。
 そしてそのときに大きな意味を持って迫ってくるのは、理性が否定的な絶対者の力であって、その意味で絶対的な否定であるということである。悟性は固定する力、制限する力として、一切を有限性に変えて秩序づける否定の威力ではあるが、この威力は己を、絶対的に否定する無限としての絶対者、己の秩序づけの中には組み入れることのできない、己の秩序づけの根拠としての絶対者に直面することによって、はじめて威力である。悟性は有限なのである。だから分裂の極に立つのである。有限性とは、或るものが自体的に或る何かである場合、言い換えれば、或るものがそれの概念から言って何かである場合のその何かは、対自的に何かである場合のその何かとは違った一つの現存または現象であるということである。だから絶対者は悟性にとっては一つの彼岸であるが、しかも彼岸として此岸をあらしめているものでなければならない。悟性の立てる秩序としての此岸には絶対者の占める場はない。悟性にとって絶対者は端的な非存在であり無である。しかも悟性にとって、この非存在である絶対者の存在が根拠である。だから悟性は悟性としては絶対者を問題にすることができない。絶対者を問題にすることは悟性が自己矛盾に陥ることを意味する。しかも先にも述べた悟性の前提から言って、悟性は自ら必然的にこの矛盾としての自己を提示する。この悟性の矛盾の必然性の自覚が「哲学の必要」の根源である。だからこの必然的な矛盾と正面から取り組むのが理性の仕事である。つまり悟性的固定によって生じた、このような凝固した対立を止揚することこそ理性の唯一の関心事である。悟性が自らのこの必然的な矛盾を己に課された問題として自覚した時、悟性は自ら理性としてこの矛盾の必然性に直面しているのである。だから理性にとっては絶対者だけが徹頭徹尾問題なのである。絶対者とは何か?ということ以外に理性の問題はない。しかしこの絶対者の問題は、否定の威力としての悟性が、悟性として己の区別する秩序づけを立てることによって生じてくる分裂に起因している。悟性の矛盾をおいて理性の問題も、いな理性そのものさえ存在しない。カントにおける総合判断の成立の可能性の問題に内在することは、ア・プリオリとア・ポステリオリ、つまり同一と非同一とが一つの絶対的統一の中になければならない、ということであるが、これが理性の形式的概念である。すでにこの悟性としての矛盾、背理は悟性において問題になっているのであるが、これを悟性的に、つまり二つの相容れない対立項として受け取るために、この理性というイデーが悟性に止まってしまうのである。
 したがって理性は悟性より高次の、悟性を超えた超越性としての、一つの不可思議な直観的全体把握であると考えることは許されない。ショーペンハウアーの批判もイリーンの批判もこの点では間違っている。そしてこのような解釈は、フォイエルバッハ以来の、言葉に関するヘーゲル批判が前提している共通の誤った理解である。悟性とは異質な、悟性には理解できない一つの理解力として理性が考えられてしまったら、結局悟性の矛盾は矛盾として受け止められたことにはならない。このように考えられた理性は、北方の原理、そして宗教的に見ればプロテスタントの原理として、この分裂の一方の極としての主観性になってしまう。つまりこのような悟性との対立に立つ主観性はそれ自体分裂の結果なのである。だからこのように考える場合には、悟性とは無縁の、しかも悟性を遙かに超えた心情の真実、美しき魂の真実として分裂の苦悩は顧れていない。このような分裂の問題が近代的自己の問題として自覚されるとき、自己疎外的精神の教養、純粋透見、良心の言葉の問題が自覚的に論じられることになる。このように純粋主観性に立つ立場は、悟性の有限を宣言することによって、悟性を超え出るというのだが、そのことによって矛盾は解消するのではなく捨て去られるのである。そしてもっと重要なことは、この悟性の矛盾と共に、絶対者の問題すなわち理性も捨てられてしまったということである。このような理性の受け取られ方では、理性を立てることが理性の唯一の問題を捨てることを意味している。理性を言うことは一切の問題の廃棄であって問題の解決ではない。ヘーゲルが反省哲学としてカント、ヤコービ、フィヒテの哲学と対決しなければならないと考え、『信仰と知』という論文で考え抜こうとしているのは、実にこの問題なのである。この三人にあっては、絶対者は理性に対抗して存在しているのでもなければ、ましてや理性のために(理性のこととして)存在しているのでもなく、理性を超えているのである。そのために理性の問題は悟性的に扱われ、絶対者は彼岸に止まり、絶対者の問題は信仰と感情との問題にすり替えられ、分裂は越えられていないのである。無限者と有限者とが相互に対立するものとして、どちらも絶対的なものであるということが反省哲学の一般的性格である。
 したがって悟性と理性との区別を悟性的に立てることは許されない。理性は否定的な絶対者の威力である、という先の命題はどう理解されるべきであるのか。悟性は有限な否定の威力である。理性も悟性も否定の威力である点では同一の規定を担っており、しかもこの否定は有限なものを有限なものとして、一つの秩序づけられた総体性に位置づけるのである。したがって理性は否定的な絶対者の威力であるとは、理性が、悟性的否定、つまり一切の存在者を一定の存在者として秩序づけ、位置づけるそのことが、同時に悟性にとっての非存在としての絶対者からくる否定であると認識する能力であるという意味になる。悟性がそこにぶつかってその整合性を失うあの矛盾が、絶対者自身の行う絶対的否定に起因しているという事態として示現するのが理性であることになる。哲学的反省として、悟性的反省の矛盾を媒介すること、それが理性の仕事である、というのはこのような意味である。理性は悟性によるこの分裂の絶対的固定に対抗して措定されるのであって、分裂そのものに対立して立てられるのではない。このようにして分裂としての有限に対立して立てられた無限は、悟性によって立てられた理性的なものとして、それ自体分裂の中にいること、つまり悟性の固定を守り抜こうとすることである。この分裂を生の要因として、否定の威力として受け取ることが、理性の仕事なのである。だから悟性も理性も否定の威力であり反省なのである。この反省による一切の流動化、つまり措定は悟性の仕事であるが、これは理性の関心であり、理性の秘かな活動である。このように考える時、悟性によって構築される客観的世界とこの客観的世界にには包含されずに、自体的に存在する理性界、つまり絶対者の王国とがあり、この両者が根拠づけるものと根拠づけられたものとして、相互に予想し合い、前提し合いながら、しかも相互に無関心なものとして固定されるという矛盾を生んでいるのである。理性はこのことを認識することによって悟性そのものを止揚してしまったのである。つまり悟性の行う措定は、理性からすると非-措定であり、悟性の生み出したもの(規定された定在)は否定の意味を持つのである。
 さてこうして哲学の必要とは、分裂の根源としての悟性の否定による固定を、絶対者が自らを否定して悟性による否定的固定をあらしめているのだという意味での理性の否定として媒介することである、ということが明らかになる。ここで問題は、この悟性-理性、有限-無限、相対-絶対という対立した相関項を、悟性的な意味での対立矛盾と考えないで、媒介関係と考えるとはどういうことか、ということである。この相関的対立項は相互に独立の、相対して立つものと考えることはできない。それは悟性というこの対立項の一方の項を絶対化することだからである。しかしだからと言って、この相関的対立項を包摂する一様性としての無差別な第三者を立てることもできない。このような第三者は相関的対立項としての前二者に対する対立項になってしまって、新たな対立項を生むだけである。対立項は対立項として、そのまま統一性をもたねばこの問題に答えたことにはならない。つまり両項の非同一はそのまま存在し続けながら、しかも両項の同一が成り立つのでなければならない。同一と非同一との同一ということが根源的な問題である。この分裂の一方の側か他方の側か、そのどちらかに与することによって、自分の与しなかった側を存在しないものと見なす可能性などはないのである。そしてこの問題に答えることがヘーゲルの哲学の課題であり、それが先に示された、絶対者を精神であるとし、実体が同時に主体であるとする考えである。ヘーゲルの哲学は精神の哲学であると言われるが、そのこと自体には別に問題はない。しかしここに言う精神はそんなに分かりよいものではない。諸家の解釈においても、ヘーゲルの説く精神の意味をどう考えるかに問題が集約されている。
 例えばクローナーは、精神とは悟性的理性、理性的悟性であると言っているが、これは今述べた悟性自身が自己の矛盾に直面して、自己の信じていた確固たる基盤が崩れることにおいて自己の明確な主張の意味が確保されるという意味で理性になる、ということを指して言われており、このことと関連してマルクーゼは、理性を歴史として示す用語は精神であり、これは人間性の理性的進歩と関係づけて見た場合の歴史的世界を意味していると言う。この関連で、ヘーゲルはこの悟性的固定を動揺させるもの、つまり自我意識(悟性の主体)に内在する生成の目的として、この自我意識を曇りない覚醒へと駆り立てるものを精神と呼ぶと言うこともできる。またハイデガーの、精神とは無制約な自己知の確信において自己自身のもとに臨在するものという解釈も、もちろんハイデガー流の考え方(例えばこの確信=自己意識が表象作用としての主観を意味し、ヘーゲルの考えようとしたことはこの表象そのものを絶対者=精神であるとして確保することであるとする解釈)から出てきているので、そのことと関連で考えないと危険であるが、ここでの関連ではそれなりに理解できるであろう。したがって我々としても、この精神のヘーゲルにおける意味をはっきりさせ、そのこととの関連において、ヘーゲルにおける言葉の問題の所在を予め示しておく必要がある。ヘーゲルが自分の哲学を、精神として自己実現する絶対者の叙述としての学という立場から論じたのは『精神の現象学』であるが、その序文においてヘーゲルは同時に、命題の思弁的運動という自分の立場を論じる際に言葉の問題にも触れている。
 
 W・カウフマンは『精神の現象学』の分かりにくさは、内容上の理由もさることながら、その文体にも原因があるとして、この文体のよってきたる所以を、ゲーテの『ファウスト』の場合と類似の詩的衝動、つまりヘーゲルの用語で直接性を嫌い、否定を同時に肯定的に考えようとするところにあるとする。そのために個々の命題の明晰さが求められず、むしろ隠喩による、全体の構想力による把握を前提した表現が前面に出て、読者をして謎の連続と感じさせるのだと言う。この構想力あるいは想像の問題はそのまま言葉の問題であり、しかも文体そのものがヘーゲル的思惟の内容に関わるものであるなら、そのことからだけでも、ヘーゲル哲学と言葉の本質連関が見て取れる。
 『精神の現象学』序文において言えるヘーゲルの哲学理解は「哲学は学でなければならない」という命題に見て取れる。「哲学の必要」に応えるためには哲学は学でなければならないのである。すでに『差異論文』においても、理性の「こと」としての「有限と無限との自覚された同一性が知である」と言われ、この問題は予想されている。この知の生成と展開とを主張し、そのための意識の教育(イポリット)の問題が『精神の現象学』では主題的に取り上げられていると考えても誤りはない。
 ヘーゲルは次のように言う。「真理が現存する真の形態は真理の学的体系以外にはあり得ない」。だから哲学をして愛知という名を捨てて(愛知とは知を愛することであるから知に至ろうとする努力であるが、未だ現実の知ではない。いわばカントのように、認識とは真理に段々近づくことだ、とする半可通の哲学あるいは啓蒙以来の幸福論の哲学である)、現実の知たらしめようとすることこそ彼のしようとしていることであると言う。ところでここに言う真理とは先の分裂から回復された形式と内容との統一としての知、つまり哲学的イデーと呼ばれる絶対者を指して言われているのだということである。問題になっているのはこのような意味での絶対者である。このような絶対者の認識すなわち知が学でなければならないという内的必然性は知そのものの本性にあり、この知の本性を概念的に把握して叙述するのが哲学であるのだから、つまり真理は概念においてのみその現存のエレメントを持つのだから、上の命題は、真理すなわち絶対者を直観や直接的確信において主張している学ならざる思い込みと同じ一つの断言にすぎず、この命題が超えようとして自己を主張しているその内容と一致しない、つまり自己矛盾だということになる。だからこの命題は断言であってはならない。これは時代の要求という外的必然性を把握することによって可能であるとヘーゲルは言う。
 時代がその時代の諸契機を表象している形態、これは知の外的必然性であるが、これは先の内的必然性が自己を現したものであるから、この内的必然性と同一のものである。だから哲学を学に高める時が来ているということを示すことこそ、このような目的をもつ試みを正当なものであるとする唯一の真の方途であろうと言う。これはつまり哲学が学であるべきだということは哲学自身の叙述において初めて実現されるのであるが、一方から言うと時代がこの必然性を感じ取り、絶対者を現実として知ろうとしている動きがあるのだから、そのような時代の要求を読み取ることによって説明できるというのである。先の「哲学の必要」はこの「時代の要求」に根差しているのである。「哲学の必要」ということが「哲学は学であるべきだ」ということを示す「外的必然性」であると解釈されている。先の『差異論文』ではこの時代の要求のよってきたる所以を、シェリング的な無差別としての絶対者の側から、この要求が正当でもあれば必然的でもあることを明らかにすることによって示そうとしたものであると考えることができる。
 そこでヘーゲルはこの序文において、彼の同時代の思想(シェリング、ノヴァーリス、ヤコービ)のよってきたる所以とその孕む問題とを指摘することによって、哲学が学でなければならない必然性を示そうとするのである。つまりシェリングなどの要求が哲学の必要として正当な権利を持っているものでありながら、しかもこの要求に結局のところ応えていないのはなぜか、そしてどうしたらこの要求に応え得るのか、を示そうとするのであり、先の「哲学の要求」すなわち絶対者の認識、絶対者の回復としての現実的知を実現しようとするのである。
 当代では真なるものは知的直観とか絶対者の直接知、宗教、存在としてのみ現存すると主張され、概念において存在するのではないとされている。つまり絶対者は概念把握されるべきものではなく、感じ取られ、直観されるべきものである、つまり絶対者の概念がではなく、絶対者についての感情と直観とが専ら論題とされ、言明されるべきであるとされている。なぜそうなったのか、そのことを一般的関連(歴史的必然)から言うと、そこには二つの大きな、対極をなす思想的対立とその克服の試みとが見て取れるとヘーゲルは言う。つまり現在の時代精神の置かれた状況は、かつてのような実体的生、つまり絶対者との直接的一致、すなわち絶対者、神に信頼している、主観と客観、有限と無限との分裂を知らない信仰の直接性を超え出てしまっている、ということが一つのことである。このような絶対者との直接的統一は現実ではない。中世的、スピノザ的な純粋な信仰における神との一致は現代では失われてしまっている。しかもなおこのような失われるべくして失われた統一への信頼を天才の霊感に訴えて取り戻そうとすることが現在流行しているが、これほど不愉快なことはないと言ってヘーゲルは言葉を尽くして非難している。当代は分裂している。しかも反省はこの統一を破り、信仰の確信を根底から揺るがし、それ自体なる実体を意識にとっての存在(対象)として、主観-客観-関係の中へ入れてしまう。一切はこの関係としての反省の中のこととなる。この反省自体は基盤を失ったあてどない知識の追求となる。だから自己自身への実体を欠いた反省(カント、フィヒテ)という実体的生の反対の極にも安住できない。この反省によって確固たる場としての信じられていた実在が全て流動化してしまう。全てはこの流動である。現実は実在として確保され得ない。逆に言うと、反省によって突き当たった現実は、全ての実在の非現実としての分裂の意識でしかない。いわば現実を求めて手にしたものは空虚な反省、一切の現実的なものの無であったのである。
 だから時代精神にとっては絶対者との和解としての一致という本質的な生命は単に失われてしまっただけではない。時代の精神はこの喪失と己の内容(信仰の確信の内容)が有限性であることとを自覚してもいるのである。先の分裂は自覚されている。実体的生における絶対者との一致は主観-客観の分裂として、意識に対してのものとなり、意識にとっての知の対象となる。しかもそのとき絶対者は意識にとっての非存在として知られる。反省によって必然的に実体的生の安逸は破られる。しかしこの反省は実体を欠いた分裂の苦悩として、逆に実体への渇きを自覚させるものである。分裂の苦悩が統一への渇望を生む。反省によって実体との直接的統一は破られているが、反省の仕事はそれに尽きるものではない。反省は同時にこの統一を破ることにおいて、実体喪失の痛みをも自覚させるのである。反省あればこそ実体的生がそれ自体として失われざるを得ない必然性も自覚され、しかもそのことがそのまま実体回復への要求を支えてもいるのである。これがヘーゲルが見た時代精神の現在の姿なのである。だからヘーゲルが哲学は学でなければならないと言うとき、彼の考えていることは、実体的生も反省も現実としての絶対者の知ではあり得ないということであり、内容をもった絶対者の知、つまり形式としての知が対象である絶対者を内容として真に掴んだような知が現実的であり、そのように理解された絶対者が真の現実的絶対者であるというのである。それが時代の要求なのである。そしてヘーゲルはこのような知を概念と呼んでいるのである。
 つまり概念とは、一つの区別された自体存在であるが、この自体存在はそのままで意識にとっては己と区別されたものではないのである。だからここでヘーゲルが概念と呼んでいるものは、常識的な、主観の持つ対象についての表象という一般者だけを意味するのではない。ここで概念と呼ばれているものは、表象から思惟されたものへ(これが悟性の仕事)、さらにこれから概念へ(悟性の真実への還帰としての理性的であること)という道程をその中に含んでいるもののことをいうのである。つまり常識の言う、表象から思惟されたものへという反省的形式としての概念は具体的概念ではなく、辛うじてやっと概念にすぎないもの、つまり即自的に概念であるものであり、ヘーゲルにおいては形式と内容との一致としての具体的概念の一つの契機となるものである。この意味で概念はこの運動の全体であると同時にその結果であることになる。このようにして概念は自らの中にそれまでの過程を推理として含むものである。ヘーゲルは普遍性が特殊的なものを対立物として持ちながら、しかもこの特殊なものがそれ自身へ反照することによって普遍的なものと等しくされているような普遍性=個別性(ヘーゲル自身、主体性の方が良いと言っている)が概念だと言っている。これはまた論理的必然性としての有機的全体のリズムであり、学とはこのような概念に内在するリズムに注意を集中することだとされる。次々に現れる表象を追うだけの質料的思惟も内容からの自由を主張する形式的思惟も、この注意の集中ができないのである。このように悟性の反省という概念的否定の契機を内に含んだ絶対者、つまり現実的なものを概念把握することが哲学の必要である。
 これに応えようとしているのがシェリングを始めとするロマンティカーなのであるが、彼らはこれにどう応えようとしているのか?彼らは実体の閉鎖性を開示し、実体を自己意識の水準にまで高めるべきである、つまり混沌とした意識を思惟された秩序と概念の単一態とに戻すという反省の行う正当な働きによる知すなち概念的認識を求めないで、ただひたすら失われた実体と存在との堅固さの回復のみを求め、そのため区別する概念を抑圧して、実在についての感情を回復することのみを願い、透見をではなく、信心(建徳)を与えるべきだとするのである。だから美しいもの、聖なるもの、永遠なるもの、宗教、愛という法悦の直接性が主張され、ことがらの冷徹に進行する必然性である概念が実体を捉えるのではなく、湧き立つ霊感こそ実体の富を捉えるものだとする。要するに反省による自覚という必然性を無視して、いきなり実体的生という、否定を含まない、つまり概念とはならない直接性を回復することを求め、そのために時代の要求である哲学の必要に応え得ていないのである。彼らは反省による一切の実在の流動化すなわち有限化を恐れるあまり、この反省を一挙に飛び越えて、いきなり絶対者と一つになろうとする。そのためそれは知にはならない。知とは概念においてのみ、つまり反省の区別と必然性とにおいてのみ存立し得るものである。だからここに主張される直観は内容を欠いた空虚な直接性であって、決して内容を伴った形式としての具体的知ではないから、彼らの応えようとした時代の要求に応えたことにはならないというのである。
 ヘーゲルも若いときには愛による運命との和解としてのイエスに注目して、そこに時代の要求に応える道を見出そうとしたことがあった。そしてこの愛に、自己の他者において自己を忘れることによって自己自身を得るという点で、理性とのアナロジーを見ていた。だからヘーゲルは愛についてはそこに分裂からの統一の回復の可能性として、肯定的、積極的な面を見ており、それはヘーゲルの生涯を通じて変わることのない経験的基礎であった。しかし次第にこの和解の教えが必然的にポジティーフなものになってしまうことにも気づくようになったのである。後にヘーゲルは『法哲学』において精神の直接的実体性としての家族の統一を愛と規定した上で、愛は自然的なものという形式をとった人倫性であるとし、愛は理性の解き得ないとてつもない矛盾である。なぜなら自己意識のこうした点的性格は否定されるものでありながら、それでもやはり私が肯定的なものとして持たざるを得ないものであるから、これほど解き難いものは他に何もないからである。愛は矛盾の惹起であると同時に矛盾の解消である。矛盾の解消としては愛は倫理的合一であると言っている。愛は悟性には解き得ない矛盾として、悟性に突き付けられた心情、直観の断言である。その意味で絶対的合一としての分裂の克服の信条である。しかし同時にそれは矛盾の惹起である。だからこの断言された愛は知に他ならない。その意味で空虚なものである。愛という魔力をもった言葉に酔っているにすぎない。具体的な形態をとった愛は常に自己を矛盾として示す。だから愛は愛による紐帯を秘教的なものに求めるのである。したがってこの直接知という考え方は信心に拠り所を求める。つまりロマンティカーは、己の生活と思想との地上的な複雑多様な姿を霧の中に隠しこんで、このような定かでない神性を漠然と享受しようと願っているのだが、それは夢想(自己喪失)に他ならないのである。この人々は物事に限定(ホロス)を与える概念と必然性、つまり地上的な複雑多様な姿を霧の内に隠さず、区別と限定とによって白日の下に認識する概念把握を、ただ有限性を住処とするにすぎない反省であると考えて排斥する。だから彼らは、反省が絶対者を自然的実在として自己を持たない、つまり主体ではない自体すなわち存在と考え、それを実体とするのに対して、絶対者を愛とか生命とかいう主体でもあるものとしての基体であると主張しようとする。絶対者は、反省が自己の対象として立てる個々物の総体もしくはその背後にある物自体ではあり得ない、という正しい見解をロマンティカーも持っている。これは時代の要求に根差したことである。しかし彼らはこの主体としての絶対者を直接に断言しているだけである。
 ヘーゲルは『差異論文』の中で常識と思弁との関係を論じて、「信仰の直接的確信は同一性そのもの、つまり理性に他ならないが、これは未だ自己を認識せず、対立の意識に付きまとわれている理性である。ところが思弁は常識にとっては無意識的であるこの同一性を意識にまで高める。言い直せば、思弁は凡俗な悟性である常識の意識の中では必然的に対立するものであるとされていたものを意識された自覚的同一性にまで構成し、したがって信仰においては分離されていたものをこのように統一することは信仰にとっては恐怖である」と言っている。だから「このような人々は実体の欲しいままな醗酵に身を委ねて、自己意識を包み隠し、悟性を放棄することによって、自分たちは眠っている間に神が知恵を授けてくれる神のいとし子であると思い込んでいる。だから実際彼らが夢の中で受胎し生み出すものもやはり夢にすぎないのである」。このような夢は少数の個人の秘教的な所有物にすぎず知の名に値しない。ここに語られる絶対者は内容を欠いた無意味な音の響き、単なる名にすぎない。したがって求められている絶対者の具体的知は公教的であり、概念把握されたものでなければならないのであるが、それは学習されて全ての人々の所有となり得るもの、つまり一般に理解され得ることでなければならない。「学の分かり易い、悟性的な形式は、全ての人々に提供された、またすべての人々のために行き易いように平らにならされた学に至る道であり、悟性を通じて理性的知に達しようとするのは学を志す意識の当然の要求である。なぜなら悟性は思惟であり、純粋自我一般であるからである」。ここにロマンティカーが時代の要求に応え得ていない理由が、悟性を有限性すなわち分裂の根として否定的にしか考えないことに見られ、それに対して悟性による限定が学の必然的契機であるとされていることに注目しなければならない。悟性が知にとって絶対的な契機であるということが読み取られることによって、哲学は学でなければならないと主張されているのである。
 ロマンティカーが求め主張した絶対者の回復は時代の要求に発したこととしてヘーゲル自身の問題でもある。その点ではヘーゲルはロマンティークと同一の問題意識に立っている。ところが時代の分裂と苦悩とに対して、いかにしたら実体の回復は可能なのか、と言うことについて、ヘーゲルの理解はロマンティークを越えているのである。彼らのようにこの分裂の根である悟性の分析を否定的にのみ考えて、絶対者を「一切の牛が黒く見える夜として説明するこのような知」あるいは「まるでピストルから弾を打ち出すようにいきなり絶対知を以て始まり、そのほかの立場は一顧だに値しないと宣言するだけで片付けてしまう魂の高揚」を絶対化して、美しき魂とか愛とかいう無内容な語による直接的(無媒介)な和解は、時代の両極である実体的生と反省との対極の一方、すなわち実体的生の直接的統一にいきなり帰ろうとすることに他ならない。このような知は、認識の欠如したナイーヴさであり、このような知は概念を欠いた実体的知にすぎない。このような知は知の名に値しないのである。そのこと自体が分裂を尖鋭に意識させる自己矛盾に他ならない。だからこそこのような直接知は反省に対して無力なのである。ロマンティークのように、いきなり実体の回復を主張してみても、その主張そのものが反省を経て、つまり反省の否定を媒介として断言されている以上、この否定につきまとわれて、再び反省の否定性の内へ、つまり死んだ悟性、外的認識、レッテルを貼る悟性となって否定性の内へ陥らざるを得ない。だからこそ直接知の主張は断言となって、この否定性から身を振りほどこうとする無内容な知でしかないのである。この反省を逃れるために、ロマンティークの断言は空虚なものとしての無底たらざるを得ず、もはや哲学は学の名に値しないのである。先にも言ったように、悟性的反省は自己の彼岸であると共に根底である絶対者に己の否定として否定的に出会い、躓く。また今言われたように、直観、確信もこの絶対者を一切の悟性的否定の彼岸として積極的に立てながら、空虚な語を語っているだけである。なぜならこの確信は悟性的反省とは無関係なものとして何ものでもないのだから。どちらも内容を欠いた、空虚な形式主義であり、主張する教条論(懐疑的反省)と断言する、すなわち自己確信を拠り所とする教条論(ロマンティーク)として、どちらも教条論に他ならない。なぜなら、ある体系において根底に置かれた必要が完全に形態化されておらず、制約されたもの、つまり分裂として対立の中でのみ存立しているものを絶対者に祭り上げた場合に、この体系は体系としては教条論となるのだからである。時代の要求はこの形式主義=教条論を乗り越えて、現実的知すなわち内容の実現としての形式である学に立つことを求めているとするのである。ヘーゲルはこれを「哲学の第一歩は絶対無を認識することだ」とも言っている。
 





































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