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zoom RSS ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(3)

<<   作成日時 : 2017/03/04 14:02   >>

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 求められた学としての哲学は、万人の悟性に理解できるものとして、絶対者を概念において現存するものとして示さねばならないとしたら、一体絶対者をどのように考えたらよいか。学はただ概念自身の生命によってのみ己を組織することを許され、したがって学的認識はむしろ対象の生命に身を捧げること、つまり対象の内的必然性を目の前に据えまた言い表すことを要求するわけだが、この要求はいかにして応えられるのか?
 この問題についてヘーゲルは、「真なるものすなわち絶対者は実体であると同時に主体でもある」ということを理解し、表現することが学としての哲学の仕事であると言う。続けてヘーゲルは、「同時に注意すべきことは、実体性という概念は一般者すなわち知の直接性そのものを含んでいるばかりではなく、同時に存在すなわち知にとっての直接性であるものを含んでいるということである」と言う。実体を主体とも考えるということは、同時に、実体の本質(実体性)が知の直接性でもあれば、存在すなわち知に対しての直接性でもあるということを見透かしていなければならないのだとヘーゲルは考えている。ここに実体的生と反省とロマンティークとの三者が、それぞれに実体性の一面にだけ目を向けて抽象的になってしまっている理由が読み取られていると同時に、この三者を貫いて語り出ている「ことがら」を読み取ろうとしているヘーゲルの態度がはっきりと出ており、このことが真理つまり実体を主体とも見ることに連なっている。絶対者は実体であるということを実体的生も反省もロマンティークも主張するのだが、もともと実体とはそれ自体であって他のもののために在るものではないのだから、これらの主張はそれなりの理由はあることなのだが、そのときこの実体が今述べたような二重の直接性において考えられており、実体的生はその一方の側面、つまり知の一般性としての実体性を主張するために、そのまま知にとっての存在という実体性を立て、そこにおいて知の内容を検討、計量する有限な知としての反省にあっては実体は知の内容とはならない知の彼岸となり、崩れてしまう。この考えでは実体は硬化し麻痺した実体であって、個体化の原理を欠いている。つまりこの実体は未だ精神としては理解されていないのである。ところが逆に反省のように、存在としての自体的な直接性だけを実体として主張してみても、この存在は反省としての知の彼岸として、つまり物自体として立てられているだけであって、直接性としての知の一般性と同一の単一性、つまり区別されない、動かない実体性になってしまう。この立場は反省として全てのものを反省の中に区別づけ、秩序づけとして包み込んでしまうが、この反省そのものは実体としての存在に対するものであるため、思惟を思惟として固定してしまうので、一切の区別を欠いた、つまり無内容なものであって、単なる直接性にすぎない形式そのもの、つまり一般性としての実体性となってしまっているのである。この両者の抽象性を越えようとして、思惟が自体的存在としての実体と一つになる場を考えるということが試みられる。実体の二つの直接性を一つにせよという時代の要求に応えようとするこのロマンティークの試みも、知的直観という直観の直接性に立っている限りで、前二者の直接性と同じ抽象性、すなわち一切の区別を持たない、無内容な実体性という抽象性に陥っているにすぎない。これはただ確信として語られているだけであり知ではない。したがって実体性の一方の極、つまり知にとっての直接性という側面を捨象した、逆に言えば、知の一般性の側面だけを抽象したものである。
 だからこれら三者の考え方は、実体性の受け取り方にはそれぞれ違いがあるが、結局真理を直接性としての実体の側面においてのみ見るという抽象的、非現実的な思惟、すなわち形式主義であり、教条論なのである。どの見方でも、まず直接的にあるものとして前提され、二重の意味で(始まりと終わり)先に置かれた実体から出発する。だからこの前提から説明される現実の多様性の中にはこの真理は入り込まない。もし真理が現実の中に入り込むと、この実体の純粋な自己同一は保てない、つまり直接的ではなくなる。しかもその実体は知と知の対象という相矛盾する直接性として姿を現している。つまりどの見方でも、この現実の中に入り込まないことになっている自体として、絶対者は現実の矛盾として、それと気づかれない内に知と関係してしまっている。絶対者は知の根拠であり、知の彼岸であるはずなのに、そのままで知における、知にとっての彼岸、目的ともなってしまっている。そこにこれらの思想の抽象性と矛盾とがあるのである。いわゆる知的直観は知としての側面を持ちながらそのまま直接性であるものを言おうとした言葉であるが、この場合の知と直観、すなわち知の一般性としての実体性と知に対しての実体性とが直接的に結び付けられているために、概念を欠いた実体的知という自己矛盾となってしまうのである。だから生きた実体は、今述べた直接性としての存在が実は直接性としては動かずに、区別を持たずに、直接的-自体的に存在するものではなく、自ら区別づけ、動くもの、すなわち自己を媒介することによって自己自身であるものでもある場合に、つまり主体でもある場合に初めて求められた通りの、本来考えられていた実体である。ヘーゲルはこのことを言い換えて、「この生きた実体は実は主観である存在なのだが、あるいは結局同じことだが、この実体は自己を措定する運動、すなわち自己が他者と成ることを自己自身と媒介する働きである限りでのみ実際に現実的であるような存在である」と言っている。
 だからここで大切なことは、真理を実体であると同時に主体でもあると考えてみたらどうか、そう考えたらこの難問に答え得るのではないか、という一つの考え方(断言)が述べられているのではない、ということである。真理を実体と考えるとき、その実体が二重の意味を持ち、どちらもそれなりの正しさを持つことそのことが指し示すのが、主体でもある実体なのである。だからこそ哲学は学でなければならないのである。絶対者が直接性としての実体であるのは、絶対者の自己措定という否定を媒介とした運動の結果なのである。だから実体は主体として純粋で単一な否定性であり、まさにそのために単一なものの二分である。先に実体が知の一般性と知に対する存在として二重の形をとり、この両者が相互に対立し、相互に無関心なものとされたのは、じつは真なるものが主体として自らをこのような二重の実体として措定したからである。実体が二重の実体として考えられ、それぞれに一方の側だけが真として主張されているのが時代の現実なのである。だからどちらの主張もでたらめなのではない。だからこそまた両者は一歩も引かない主張、断言として対立しているのである。この対立は矛盾である。この矛盾に対して一方の側だけを主張し断言することによってこの矛盾を除こうとするのが反省とロマンティークとの抽象的形式主義である。ところがそのために両者の矛盾はいよいよ尖鋭になる。今ヘーゲルが時代の現実として目にしているのはこの矛盾であり、これが時代の要求として現れたことがらなのである。この矛盾を矛盾として認識することが学としての哲学の課題だということになる。実体が同時に主体でもある、すなわち自ら区別する否定の働きでもあるからこそ実体の二重性が直接性として立てられているのである。もともと直接性として立てられるということが矛盾である。直接性は立てられるものではない。直観が知的に、すなわち認識によって得られるのではないのと同様である。
 直観、直接性は知すなわち措定の根源であり基盤であるはずのものである。しかもこの基盤、根源は措定され、知を通して、知において知られる。これが問題の根である。つまり否定を媒介として回復された直接性がここで主張され、断言されている実体の真理なのである。このように自己を回復する相等性、あるいは他在において自己自身へと復帰(反照)すること(根源的な統一そのもの、すなわち直接的な統一そのものではない)こそ真なるものなのである」。この真理、これをヘーゲルは絶対者と呼んでおり、現実的なものであると考えているわけだが、この真理を認識し表現するのが哲学の仕事であると考えているのである。したがって「哲学とは今や自己確信の知の内部での無制約な知である。哲学は知そのものに完全に精通してしまった。この哲学の本質は知の無制約な自己知によって獲得されている。哲学は学そのものである」と言うことも一応はできよう。哲学は学であるから自己確信すなわち知の一般性でなければならない。シェリングなどの同一、無差別の主張はそれなりに正しい。しかし同時にこの自己確信は知として、知に対しての直接性として反省(ここでは自己自身への反省すなわち反照となり、反省哲学におけるような自己の他者における比較考量とそのまま同じではない)を通して自己確信としての知となっているのである。自己確信は自己確信のままで、一切の運動の根底にあり続ける基体(ヒュポケイメノン)なのではない。だから追い払っても追い払ってもこの自己確信を突き崩す実体が迫ってくるのである。だから実体性が知の一般性であると同時に知にとっての存在であるということが、すなわちこの実体性そのものが知の無制約な自己知としての確信として知そのものであり、自己意識なのである。だから真理すなわち絶対者は自体的なものとしての実体でありながら、そのまま知としての主体でもあるのである。
 この点から言えばノヴァーリスのように、神の生命と神の認識とを愛の自己自身との戯れだと言ってもよい。ここには上の絶対者すなわち実体が主体でもあることが感づかれているが、そのことが愛という一つの語としてしか理解されていないために直接性に止まり、自己を自覚していない。自体的には神の生命は自己自身との濁りない相等性であり統一であるが、この自体は抽象的な普遍性であって、知の自己知として自分に対してあるという自体の本性が、したがって反省を通じて自己を表現する形式の自己運動が無視されている。これは自己確信としての知とは言えない。ところが今述べた通り、本来実在にとっては形式が実在と共に本質的であるのだから、実在を単に実在すなわち実体、あるいは神的なものの純粋自己直観としてのみ理解し表現するのではなく、同時に形式として、しかも展開した形式の完全な充実の中に在るものとしても理解されねばならないのである。こうして初めて実在は現実的なものとして理解され表現されるのである。だからこそ真理は全体なのであり、バッカス祭りの陶酔なのである。そしてこの有機的全体のリズムとしての論理的必然性すなわち概念に内在するリズムに注意を集中することが、概念の努力を身に引き受けることとしての学にとって最も大切なこととなる。つまり絶対者については、絶対者は本質的に結果であり、終わりに至って初めて自ら真に在る通りのものとなるのであると言われなければならない。そしてこの点にこそ現実的なものである、主体である、つまり自己自身となるという絶対者の本性がある。自己確信は先にそれ自体として在るのではなく、知の努力の結果、すなわち自己実現として初めて現に在るのであり、この自己実現が主体の働きである。したがって自己自身への反照という媒介は対自的に存在する自我という純粋否定性の契機の仕事であり、この反省としての自我は絶対者の積極的な契機と考えられねばならない。
 この媒介としての反省は真理を生成として示すのではあるが、また同時にこの媒介によって、真理の生成の過程とその結果との対立をも止揚する。というのもこの生成も単一な生成であって、結果として現れる単一な真理の形式と同一なものであるのだからである。生成とはむしろこの単一態へ帰ってきていることに他ならないのである。なぜならこの主体としての自己実現は知の自己確信の実現として自己確信そのものなのだから、この結果が知に対しての存在としてあるのではなく、知の一般性としてあることになるからである。ここに反省を媒介として現実的絶対者の知が目指されていることがはっきり出ている。そしてここに反省と実体的生とを契機として共に生かすことによって時代の要求に応えた学としての哲学が、自らを表現する場を得た、とヘーゲルは考えたのである。したがってまた真理は全体であると言っても、この全体が絶対者の自己自身への反照以外の所に在るわけでもないし、またこの全体はこの反省がそこへと曲がり帰って行く何ものか(これが普通の反省の前提)なのではない。この全体は反省がそのつど己にとっての存在としての実体を立てることにおいて、この実体が実体の一契機として反省によって抽象されたものであることを自ら示すことによって姿を現す絶対者そのものであって、そのこと以外に全体というもの、絶対者というものが存在しているわけではない。多くの通俗のヘーゲル理解はこの点で躓いているのである。実体的生も反省もロマンティークも、このような抽象的自体としての絶対者、つまり反省の外であり反省の限界である全体を自体として立てることによって、むしろこの全体に突き当たって滅びるのである。その必然性を必然性として見透すことそのことが知としての学であり、この学において絶対者がこの反省による一切のものの流動という「ことがら」として自己を示した姿をヘーゲルは全体すなわち真理と呼んでいるのである。この全体はまた生とも呼ばれる。「だから精神のこの直接態は変容した実在性であり、自己に対して自ら単一であり、直接態そのものであるような反照、自己自身への反照であるような存在である」ということも同じことを言っているのである。
 さて実体が本質的には主体であり、真理は全体であるというこのことは、「絶対的なものを精神であると言い表す考えの中に表現されている」とヘーゲルは言う。したがって求められた学としての哲学は、絶対者を精神と考えることによって時代の要求に応えることになる。そこで我々に残された問題は、絶対者が精神であるとはどういうことか、精神とは何か、なぜ絶対者を精神と考えることが時代の要求に応えることになるのか、ということである。真理は全体であり、この真理は絶対者として精神であると言う。つまり全体として姿を現した真理は精神なのである。したがってここに言われる精神も何かそのような存在者がそれ自体としてあって、いろいろ検討した結果、本当の<もの>は単なる自然物ではなく、それとは異質の、もっと優れた<もの>としての精神なのだと考えるならば、これはロマンティークと実体的生との主張する知としての一般性という実体の一面的姿になってしまう。だからここに言う精神をそのようなものであると考えることは許されない。精神とは何なのか、一つの絶対的存在者なのか、あるいはそのような存在者としては決して存在することのない<もの>なのか、これはヘーゲル理解を決定づける中心問題である。絶対者を精神として理解することによって、分裂がどのように超えられるのか、分裂からの和解がどういう意味を持つのかはこの研究の結果として明らかになるであろう。
 ヘーゲルはこの「絶対者は精神である」ということは、「最も崇高な概念であって、近代とこの近代の宗教とに帰属するものである」と言っているが、ここに考えられている近代は、『歴史哲学』での考え方からしても、キリスト教的-ゲルマン的時代を指して言われていることは明らかである。すると直ちにヘーゲル哲学はキリスト教哲学であるのか否か、というしばしば争われる問題が考えられねばならないように思われてくる。とにかくロマンティークは啓蒙的、近代的機械論に反対して、キリスト教的な真理の回復を主張することから強い共感も呼び、時代を動かす思想ともなったのであるが、ヘーゲルはこのロマンティークを超えることから自らの哲学を形成して行ったのであるから、単純に彼の思想をキリスト教思想であると言い切ることもできない。事実『信仰と知』において「新しい時代の宗教の基盤となっている感情は<神が死んだ>ということである」と言っている。果たしてヘーゲルがキリスト教をそのまま肯定していたのか、つまり真の知を信という直観の確信に見て、ただこの直観に内容を与える、つまりこの直観を知という形式を持ったものにしようとしたにすぎないのか、あるいは『精神の現象学』の「絶対知」の項に見られるように、信は表象であって未だ学以前の、つまり知以前の段階とのみ見ており、ヘーゲルにおける知は信仰という境位とは境位を異にするものなのか、というヘーゲル解釈上、ヘーゲル学派なるものが形成されて以来争われてきた問題がここで取り上げられねばならないように思える。
 確かにキリスト教を抜きにして彼の精神の哲学は考え得ないが、そのことが直ちに彼の哲学をキリスト教の伝統の中に解消する論拠になるわけではない。特にロゴスとしての神は、精神と言葉の問題とは切り離し難い中心的な問題の一つでもあり、K・レーヴィットを始め多くの論者のように、結局は「言葉の問題」はキリスト教的ロゴス論に解消されるという理解もそれなりの論拠を持つように思われる。逆に言えばヘーゲルにおける絶対者がキリスト教的三位一体の神の概念から得られた精神として立てられているということを通して、ヘーゲルにおける言葉の問題がヘーゲル哲学全体の理解にとっての鍵になることが予感されるのである。
 先の解釈から「精神的なものだけが現実的なものである」ということになる。絶対者である真理は、主体でもある実体であると考えて初めて、現に在る、内実を伴った実在なのだ、つまり形式において自己を実現した内容なのだ、ということがヘーゲルの考えの根本にあることなのだが、このことが示しているのは絶対者は精神であるということだというのである。ヘーゲルは、精神的なものという概念の含む三つの契機を説明することによって、そのことを示そうとしている。
 第一に精神的なものは実在すなわち自体的に在るものである。精神的なものとは存在という直接性としての実体的なものを言い表す語である。時代精神と言われ、キリスト教の精神と言われる場合に、この精神は時代やキリスト教の様々な姿、つまり文化または社会の形態を寄せ集め、その共通項を抽象して思い描かれた観念ではない。むしろこれら様々な文化形態、社会形態を生んだのがこの精神である。その時代、その宗教の精神がその時代、その宗教特有の形態を生むのである。つまり実体としての精神の現れがその時代特有の精神的形態を生むのだと考えられているのである。或る時代を一定の時代として、一つの姿、つまり一つの形式を備えた時代として、時代精神という語によって理解できるものたらしめているのが、自体的実在としての精神だというのである。ここで再び注意しておきたい。ヘーゲルがそう考えたというのではない。そう考えられている、そういう理解があって精神という語が一般に使われているということを言っているのである。だからこれは断言や主張ではないのである。
 ところで第二に精神は或る態度を取るもの、つまり他者に関わるものであり、自己に対する他者を持つことによって初めて自己であるという意味で、無媒介に自体存在するものではなく、限定されて在ることであり、他者を自己の規定の根拠として持つという意味で他者において自己自身であることすなわち他在であり、自己に対して在ることである、とヘーゲルは言う。じつはヘーゲルにおける絶対者=精神の考え方にあってこの契機が最も重要なものであり、それだけに最も理解しにくいものであるが、次のようなことを言っているのだと考えられる。時代の精神がその時代特有の精神的所産である特定、特有の文化形態を生むのであるが、この文化形態は他の文化形態、その他の存在と区別された一定のものとして知られる。つまりそれぞれ個々の文化形態が他のものとの区別において知られることを通して、そこに時代の精神が読み取られているのである。特有の形態、つまり一定の形式の内に在る文化的所産、これは第一の契機からみればそのまま精神そのものなのではなく、精神の所産としての精神の他者である。しかし時代の精神が特定の時代を生み育て養うものであることが知られるのは、この特定の形式における精神的所産
としての精神の他者においてである。この精神の他者以外に精神そのものがどこかに在るわけではない。
 ところで常識はこの精神を現に在る特定の存在からの抽象と考える。つまりこの形態を見ており比べている意識に対して在るものすなわち特有の文化形態という精神的なものから出発して、この精神的なもののエッセンスとしての精神を意識が自己の知に対するものとして取り出したものであると考える。それはそれなりに無理からぬことではある。というのも今も言ったように、精神自体などこの特定の形態を他にしてはどこにもないのであるから。つまり時代の精神を問題にしているそのことが、すでにその時代特有の文化形態の中で、その形態と向き合った所で考えられているのだからである。時代の精神を問題にするときには常に既に個々の、特定の文化形態が精神の産物として知られてしまっているのである。そこで知の対象と考えられているものは、予め精神的なものとして知られてしまっている。だからこそそのエッセンスを抽象してその精神を取り出すことが出来るのである。だから常識はこのことだけに注目して、この具体的形態からそのエッセンスとしての精神を抽出することによって、時代の精神という抽象的観念が知られるのだと思い込んでしまうのである。
 しかし第一の契機からしてことがらは逆になっている。常識は自ら前提した文化的所産を生み出す精神という第一の契機を忘れているのである。特定の形態において示された多様から一般者としての時代精神を抽象するためには、既に常に精神一般は、分かったものとして前提されている。つまり第一の契機が暗黙の中に先取りされているのである。ここの文化形態をそのものとして直観させたのは暗黙の中に先取りされた実在としての精神である。精神が自らをこのような特定なものとして生み出したのだと考えられていたのである。つまり自体としての精神が自らを限定し、一定の文化形態として存在するものとなり、意識にとっての存在となるのである。こうして精神は他在となり、この他在において特定の時代の精神として知られる。そのときこの精神は自ら自己を時代の精神たらしめたことになる。精神は自らに対しており、自らを知った、他のものとは異なる、区別づけられた独立の存在となっているのである。だからここで大切なことは、第一の契機と一つにしてこの第二の契機を考えることである。
 実在としての精神が自ら第二の契機において、この精神を問題にし知ろうとしている意識に対して現れているのである。ここでは絶対者が精神として自己であり、自ら運動するものであると考えられているわけだが、そのことは同時に意識が知として絶対者を認識しようとすることとの相即において考えられているのである。この意識の問題を除いてしまったら、絶対者が精神である、つまり主体であるなどということは神秘的断言以外の何ものでもないことになろう。また逆に絶対者の問題が意識を離れては存在しないという一面にだけ目を据えて、結局問題は意識の分裂、つまり自己に対して在る自体的自己にあるとして、一切の実在の流動化のみを見るのは、己の前提に矛盾している。つまりこのような意識が自らの権威と基体性とにおいて確立しようとした知は、実在としての自体の知であったのであり、その自体の流動性に直面して、自らの有限性と無限としての自体との分裂を嘆いていることの意味を反省しない空虚な反省であることになろう。一切の流動化を生んだのは自らの立てた権威としての悟性的反省である。なぜこの反省は自らをも反省しないのか。もともと反省が分裂に陥るのは、自体という反省の外を立て、その自体を自己に対して在るもの(知という対象)たらしめようとするからである。分裂を生むのは反省自らによる。この自体そのものを反省は反省しない。だから実体性を立てながら、実体性を欠いた、単なる否定性に落ち込んでしまうのである。動かない、生命を持たない実体、すなわち存在自体としての実体ではなく、自ら主体でもある実体であるからこそ、精神は自己自身の他在において自己自身を示すことができるのである。そしてそのことは同時に知の主観としての意識に対して存在するものとして、初めて精神は自らを精神として示すのだということでもある。
 この第一の契機と第二の契機とを通して、精神の第三の契機は明らかである。第二の契機において自らを特定のもの、一定の形態を持ったものとして示し、意識によって知られる精神は、この特定の精神的形態をとって現れた自体存在、すなわち実体としての精神(第一の契機)である。意識が勝手に思い描いた抽象物、思考物なのではない。精神が自らを現したのである。そうなったとき権威と尺度としての反省も、もはや実在としての自体を対象として立てるこの関係の一方の極、すなわち主観-客観-関係の一項に止まってはいない。意識自身の在り方も変わるのである。このことこそ常識にとって最も分かりにくいことであると共に、精神の何たるかを概念把握する鍵ともなる。大切なことは反省によって一切が流動するそのことにおいて、自体としての実体すなわち直接性が現に見られてしまっている、あるいは既に見られてしまっていた、ということである。このような意味で、精神は個別と普遍との統一なのである。ここに第一の契機と第二の契機とが同時に止揚されて含まれたものとして存在している。そしてこれが真の精神としての人倫性に求められるのである。この人倫的なものとしての精神を自覚してその実現を求めたのが、近代市民社会とその宗教特にプロテスタンティズムであると考えられ、この人倫的なものの自己実現が悟性という主観性の反省によって分裂してしまったことが時代の問題として今自覚されているのである。だからこのような精神的なものは、自己外存在において自己の内に止まるものであり、即かつ対自的に存在するのである。つまりこのようなものが初めて知一般としての実体と知にとっての実体という二重の実体性を同時に兼ね備えたもの、すなわち生きた実体であるということになる。だから絶対者を精神として言い表すことが時代の要求に応えることになるのであり、また「このように展開して自らを精神であると知る精神が学なのである。学とは精神の現実性であり、精神が精神という自らの場(エレメント)において建てる王国である」とも言われる。
 こうして絶対者を精神として表現するときに、我々にとって最も重要なのは、第二の契機である他在であることと、対自存在であることとである。絶対者を単に自体存在としての実体としてのみ考えないで、主体すなわち対自存在でもあると考えることが、絶対者を精神であるとする主張の根底であるのだから、精神が精神として意味を持つのはこの第二の契機においてであると言っても過言ではない。そしてまたこの契機についての理解の相違がヘーゲル哲学全体の理解の相違対立にも現れているのである。
 さてこのことは、絶対者は精神的実体であるが、この実体自身が自ら対自的に(自覚的に)精神的実体であることに成らねばならないということを意味している。つまりこのことが単に断言に止まらず、知の形態をとったとき、はじめて第二の契機は真に契機として精神自身において知られるのである。これは精神自身が対象とならねばならない、ということを意味している。精神は意識にとっての対象とならねばならない、すなわちあらゆる関係を離れた自体存在ではなく、対他存在として関係の中に居る自体であるという形態を取るのでなければならない(もちろん直接的な対象であると同時に第三の契機によって止揚された、自己自身に反照した対象としてではあるが)。対象となるとは、主観(知の主体)としての意識にとって、すなわち知にとって(ヘーゲルは意識と知とを同義語に使っている)、そこから知の得られてくる知の素材となるということである。つまり精神は対象となることにおいて一つの精神的なものとして表象され、知はこの表象を分析することによって、この素材の共通的一般者としての基体すなわち実在としての精神の知を形成するのである。「なるほどこの分析はそれ自身よく知られた、固定した、静止した規定であるような思想に行き着くだけのことであるが、しかしこのように分けられたもの、この非現実的なものこそは本質的契機なのである。なぜならば具体的なものは自ら分裂し非現実的なものになるからこそ動くものなのだから。分けるという働きは、悟性すなわち最も不思議で偉大な、あるいはむしろ絶対的な威力であるこの悟性の力であり仕事である」。こうしてみると、絶対者が精神であるという場合の第二の契機とは、絶対者が自ら反省としての意識の働きである悟性において、自己自身この意識の対象となるということを指して言われており、しかもこのことこそ、そこの考え方を支える根底であるとヘーゲルは考えていることは明らかである。だから絶対者が精神であることは、絶対者が意識にとっての実在であるという契機を必然的に持っているということ、言い換えると、自体は常に既に意識にとっての自体であるということを、自体の側から考えようとする(なぜなら本来自体は自体として、或るものに対してのものとはされていないのであって、この意識においてもこのような自体であることには変わりがないからである)のだということは明らかである。なぜなら「精神は自己自身が絶対的分裂状態にあると知る場合にのみ自らの真理を得ている。精神がこの威力であるのは、否定的なものから目を背けるような肯定的なものであるからではない。・・・そうではなく精神は否定的なものに目を据えて、この否定的なものにあくまで関わって行くからこそそういう威力なのである。このようにあくまでも否定的なものに関わって行くことが、否定的なものを存在へと向き返させる魔力なのである。この魔力は前に主体と呼ばれたものと同じものである」とヘーゲル自身がはっきり語っているからである。思惟としての思惟である純粋自我すなわち純粋否定性に立つ反省は、一切の自体を流動化する否定的契機ではあるが、同時に精神としての絶対者の本質的契機として、積極的に、しかも他の契機と並ぶ一つの契機であるというよりも、精神が精神であることとして、絶対的契機であると考えられてさえいる。ヘーゲルの精神の哲学を理解するとはこの魔力すなわち否定性としての悟性の働きを真に理解することに尽きると言っても過言ではない。例えば『法哲学』では精神的なものの始まりを意志として立て、この意志の契機の一つとして、自我の純粋反省である悟性の自由をあげて次のように言っている。「人間は自己自身の純粋な思惟であって、思惟するものとしてのみ人間は己に普遍性を与える力なのである。すなわちあらゆる特殊性、あらゆる規定された在り方を消す力なのである。この否定的な自由あるいは悟性の自由は一面的である。しかしこの一面的なものはそれ自身の内にいつも一つの本質的な規定を含んでいる、それゆえ捨て去ってはいけない」。しかもこれが特殊性としての主観性として、古代と近代との区別の分岐点と中心点とをなし、これが世界の新しい形態の一般的、現実的な原理となったと言い、これが近代的な純粋自己確信としての自我の同一性であるとして、そこに近代的自由の実現とその矛盾との問題(近代市民社会、愛、ロマンティーク、個などの問題、さらには道徳性、良心など)を見ている。ヘーゲルにおいて最も中心となるのはこの近代的自己確信であるが、それが同時に分裂、矛盾として問題になることがヘーゲルの考えていたいわゆる弁証法なのである。
 そこで我々の差し当たっての課題は、この純粋否定性としての悟性の働きを積極的、肯定的に理解するとはどういうことかをもっと立ち入って理解することである。
 ヘーゲルは悟性の働きを二つの面から論じている。一方は今述べた思惟のエネルギー、純粋自我のエネルギーとしての否定的なものの威力である。もう一方の側面は、定在の悟性と呼ばれている。最初の側面が、実体の自己意識の側面からみられたものであるのに対して、この場合には、悟性の意味が存在としての実体の規定から考えられた場合であると言う。したがってヘーゲルがここで考えているのは、主体でもある実体として、精神である絶対者が自ら精神として自己を示すのは、この二重の意味での悟性の働きによるということである。なぜこの悟性の働きは二重なのか。実体が知としての直接性すなわち自己意識と考えられると同時に、知に対しての存在という直接性とも考えられているということに対応しているのである。先に示したように、実体がこのような二重の形で直接性として立てられて固定され、その結果相容れない断言、主張として対立矛盾することが、問いを呼び覚まし、哲学の課題としての問うに値するものとして迫ってきているのであるが、この事態を概念把握して、ことがらの真実を認識することが、今問題になっている悟性の二重の働きということがらなのである。つまり先に実体の二重性としてヘーゲルが特に注意を促したことは、実体の問題そのものに悟性が関わっている、いやむしろ実体の問題は悟性そのものの問題であり、悟性そのものの矛盾の問題であると同時に、悟性における実体の自己実現であるということである。このことを明らかにすることが、ヘーゲルの言う、具体的現実的知としての思弁的認識の仕事であり、またそこにヘーゲルにおける言葉の問題を考える上での糸口が掴めるであろう。否定的な威力としての悟性において考えられている言葉は、常識的な、記号としての、思惟の道具としての言葉である。言葉は悟性の魔力として、一切の具体的なものを一般者にしてしまう否定の力であり、この一般者において一切を固定して承認するという否定的なものである。しかし同時にこの否定的なものにおいて初めて具体的なものは具体的なものとして自己自身となるのであるから、この言葉以外に、言葉によって指示されるような自体がどこかに在るわけではない。そうなれば言葉は記号、思惟の道具であるだけではない。記号であり道具であることにおいて、言葉は精神の定在として、悟性の存在すなわち主観-客観-関係を在らしめているものである。ヘーゲルにおける言葉の問題はこのことを考え抜くことによって初めて理解される。先にジモンとボダマーとの研究について、それぞれ一面的であると言ったのも、このことの理解が浅いからである。一面的であってでたらめではないのも、この悟性を一面的に捉えているからである。
 このように実体性が二重の意味を持ち、その結果悟性の働きが二つの側面に現れるのは精神の直接的定在(これを叙述するのが『精神の現象学』の仕事である)としての意識であり、この意識は二つの契機、すなわち知とこの知にとって否定的な対象性とを持っている。意識は常に意識に対して在るものについての意識である。が同時に意識は、この或るものについての意識である己自身を意識してもいる。意識は本来自己の他者についての意識としての自己意識なのである。そしてこのことは同時に、対象性としての、意識にとっての他者である自体が、自己意識としての同一性において自己と等しくなった、つまりもはや意識にとっての他者ではなく意識自身としての意識内容そのものであり自体であることをも意味する。だから意識が自己意識として自己相等性すなわち直接的同一性であるのは、自己の他者すなわち自己にとっての否定性である対象性の知という否定的なエレメントを介してのことである。そして自体もまたこの対象性という否定的なエレメントを介して初めて自体としての直接的同一性であり、分裂からの統一は回復される。だからこのことは、意識は自己の他者において自己に対して否定的に関わることによって自己と等しいということを意味すると同時に、意識にとっての他者は自己に等しい自己意識の同一性によって、この同一性が知となる、すなわち意識の形態を取るときの必然的契機であることを意味する。つまり意識の他者は自体として立てられる意識に対する否定者であることにおいて、意識の自己同一の中に止揚される形で、自体としての否定性を失って、意識の知の内容すなわち意識にとっての他者ではなく、意識の内での自体として自己に対して否定的な態度を取ることになる。意識に対する他者であるという、自体存在としての自己の積極的(肯定的)定立は、意識において知とその知の内容という二つの契機に分裂することによって、自己の積極的定立を否定して、自己自身に対して否定的なものすなわち主体として働くことになる。意識とその対象とが共に、自らに否定を宿して運動することになる。こうして悟性の二重の働きは意識のこのような構造によって現に働いているものであり、知の働きとして内容の内在的自己であるが、この知の働きは詭計である。というのも、この知は何かを知として固定するのではなく、全くの流動だからである。ヘーゲルは緒論においてこの意識の経験を自然的意識と実在知との弁証法として論じている。今問題にしている序文においても、自然的意識および意識の経験について語られてはいるが、この点だけを論じた緒論の方が、この意識の弁証法における悟性の働きを理解するには適当であるから、しばらくそこに語られる自然的意識と実在知とについての所論に聴くことにする。
 常識的には真理は認識を介して知られると考えられている。自体としての真理とこの真理についての意識との間にあって、両者をつなげ、意識の真理についての知を成立させるものとしてのこの認識という媒体は意識の側に属し、意識が積極的に自体に当てはめて行く道具と考えられたり、あるいは逆に意識が受動的に自体から射して来る光を受け取る手段であると考えられたりするのが普通である。ところが実際に自体の認識として主張される知の内容は、個々の意識相互においても、同一の意識のそのつどの状態によっても異なる。この認識は一義的に一般的なことを意識に教えるのではなく、相互に対立し矛盾する多様な内容を示す。つまり真理の認識として主張される知の内容は必ずしも一般的、絶対的に確定されておらず、一義的に現れてはいない。認識の内容は固定的ではない。そこでカントなどの認識批判のように、この認識の媒体をもう一度反省して、この多様の中で何が真に絶対者の認識として与えられるのか、あるいは掴まれるのか、あるいは意識はどの範囲までなら一義的に、必然的に自体としての真理の認識を主張し得るのかを、予め認識自身を反省して確定しておくべきだという考えが出てくる。媒体の純粋性を出発点に固定しようとする目論見が生まれてくる。近代科学の精神に支えられたこの形式主義は、形式と内容との分離の可能性を前提し、まず方法的に確立された、すなわち反省によって確かめられた純粋な形式性に立つことが正しい認識の可能性の条件であるとするのである。
 一見もっともなこの認識批判、すなわち認識についての不信、不安の念はしかし理屈に合わないことである。なぜならもともとこの媒体を介して以外には意識にとって自体としての真理は知られないのであるから、この媒体を反省によって精密に検討し一義的に決定してみても、たとえそれが理想的に成し遂げられたとしても、結局この媒体を介して知られる自体としての真理は、この反省による媒体の批判の以前と同じものになるからである。認識の内容は、形式と無関係に与えられねばならないからである。形式の純粋を言うことが、内容すなわち認識の不純を言うことになる。この手段はそのままその目的とは反対のものを生み出すのである。だからこの一見大変もっともな、一見大変学的で純粋な態度と思えるこの考え方自身が疑われて(批判されて)しかるべきであるのに、それがなされていない。

この考え方は何かをしかも多くの何かを真理として前提しており、この考え方の疑念や結論はこの前提に基づいている。疑うことができるのは既に分かってしまっているからである。この前提はまず認識を道具と媒体として表象している。このことは同時に意識とこの認識との区別をも前提していることを意味している。さらには絶対者と認識とがそれぞれ独立に、自体的に存在するのだとも前提しているのである。自体的なものについての三つのもの(意識と認識と絶対者=対象)が相互に独立に、しかも同時に相互に本質連関するものとして前提されている。しかもこのような前提に立つ意識の反省の立場は、この反省という権威に照らして承認されたもの以外は、何ものも独断的には前提しないと公言し、そこに自らの学的な権威と純粋性とを主張しているのである。だから厳密な学的態度を取ろうとするほど用心深い、誠実な反省を主張するのなら、当然自らの立てたこれらの表象すなわち前提をも反省してしかるべきなのである。したがってこのような空しい反省に心を煩わす必要はない。「しかし(このしかしこそヘーゲルの考えをロマンティークの直接知と決定的に対決させる絶対的なしかしである)学は登場してくるというそのことの中でそれ自体一つの現象なのである」。だから反省という空しい知が学にとって何ものでもないと断言したり、このような知よりももっとましな知があるという予感に訴えることもできないのである。このような知的直観、直接知に訴えるフィヒテやシェリングの知の予感や断言には反省の空しい知が反対して、やはり自己の存在を主張し、学は何ものでもないと断言するために、相共に断言という無内容な知として学たり得ないことを自ら示すからである。
 だからこの学として登場してくる現象する知の叙述だけが企てられるべきであるということになる。反省は先程の諸々の前提から、固定的なものの関係、すなわち絶対者、認識、客観的なもの、主観的なものという語を自明なものとして、これら相互に無関心な独立的な存在(自体)とこれら相互の必然的な関係とを確定しようとして空しい努力をしているのであるが、ヘーゲルは現象してくる知にとってこのような思い込みは、意識が学的立場に至り着く経験を積む上での必然的契機であるということを示そうとするのである。これらの前提に立つ意識の真実を認識した意識の在り方を、真の知または実在知と呼んでいる。だから反省も知の予感も断言も全てここに論じられる自然的意識として自己の真実に気づいていない空虚な形式主義、教条主義に陥っているのである。したがってここに説かれる自然的意識とは哲学の必要を生み出すあの分裂の根源に在るとともに、この分裂に固執している意識そのものの態度を言い表した語である。自然的意識は学を自称する様々な体系の中の一つの立場を指すものではない。意識が必然的に自然的意識としての態度を取るものであるから、様々な知の主張、知の断言が対立し、相互に相容れない立場となっているのである。だからまたヘーゲルがここで説こうとしていることは、自己の立場の主張ではない。自然的意識として意識はそのつど固定に拠って自己の立場を立てる。しかしそのこと自身が流動することによってこの立場は崩れる。この運動を貫いて存在している知が実在知なのである。したがってこの自然的意識と実在知との意識における弁証法的対話が、ヘーゲルの求めた内在批判としての学的方法の根となるのである。そのことを可能にしているのが悟性の二重の働きであったことになる。必然性としての否定の偉大な威力である悟性は、そのつど自然的意識として固定に陥る意識を意識たらしめているものである。意識はそのつどそのつどの立場の説明しかしない。意識がそのつど自然的意識として弁証法的運動に陥るのは、悟性が必然的契機だからである。だからハイデガーのように、ヘーゲルが近代的自己確信という、基体性としての主観(体)を予め確信していて、そこから哲学思索していることが、主観が自己意識として自己同一であると同時に自己に関係する意識であるという、意識固有の弁証法的な在り方に根差す否定性としての悟性の必然性を見ていた、とするのは一面的である。あるいは強引にすぎるように思われる。自然的意識はもともと人間の在り方に根差した悟性的人間の在り方を指している。だからこれは自然的であり必然的なのである。この必然性を最も先鋭に捉えてそこに立とうとしたのが近代的主観であり、その限りでは、つまり自然的意識としての悟性としては、最も自己本来の姿を自覚したものである。その意味ではヘーゲルはこの自己確信を肯定している。しかしこの自己確信は抽象的である、つまり分裂している。この立場は自己の確信に矛盾している。だからこそこの近代的自己確信は同時に自己疎外が最も尖鋭に現れた場としても捉えられるのである。









































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