ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(4)

<<   作成日時 : 2017/03/06 15:26   >>

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 「さてこの学の叙述は現象する知だけを対象とするものであるから、・・・真の知へと迫る自然的意識が歩む道であると考えられる。つまり魂が自らの本性に従って予め定めておいた駅々として自らの数々の形態を遍歴して行く道であると考えられる。この道を行くのは、魂が自己自身を完全に経験して、おのれの本性の姿を知るに至ることによって、自ら純化されて精神となるためである」。このヘーゲルの説明から直ちに我々にとっての問題が生じてくる。それは意識と自然的意識と実在(真)知との関係である。常識的には、意識が自然的意識と実在知とを比較して、自然的意識の真ならざることを知って実在知を真と認識し、自ら学としての真の現実的認識に至るのだと考えられる。つまり悟性の有限性を知ることを通して理性的な真知に至るのだと考えているように見える。悟性を包み遙か高みからこの悟性に有限性と限界とを宣告する理性の立場を取ったとき、意識は実在知として絶対者を認識し、自ら精神になったのだと思い込む。しかしこれは今まで述べてきたことから不可能なことである。自然的意識自身が自己自身において己が実在知でないことに気づく形で、実在知が語り出ているのだと考えられねばならない。悟性が自ら理性に成るのでなければならない。そうでないと悟性は悟性として自らの限界を知ることにはならない。しかも理性は、自ら悟性とは別のものとなり、その結果自らに対して独立に存在する悟性を認めたことになり、したがって悟性である自然的意識とその対象とはそのまま残ることになる。理性界と悟性界とが在るということこそ、分裂として一切の問題の始まりであったのである。このことを理解することがこの弁証法の運動を理解することである。ヘーゲルはこの自然的意識と実在知との間に生起してくる意識の経験の弁証法を通して、このことを明らかにしようとしているのである。
 したがって意識と自然的意識と実在知とは三つの別のもの、すなわちそれぞれに独立のものであると考えることはできない。そう考えることが既に悟性としての自然的意識に立つことである。だからこのことを事柄に即して考えるためには、先にも触れたように、ヘーゲルが意識と知とを同義に使っているのだということと、意識そのものの独自の在り方とが考慮されねばならない。このことを前提して言えば、ここにあげた三つの知の形態は共に同一の意識の在り方を示しているのである。三つの別のものが関係しているのではなく、同一の意識が同時にこの三者であることになる。したがって意識は自ら自然的意識としての態度を取ることにおいて自己自身の真実、つまり意識は対自的に(自覚的に)己の概念であるということに突き当たる。そのことにおいて実在知すなわち自己自身の真実を自覚した意識が生成している。つまり自然的意識が自己自身の真実としての実在知となることを意味している。
 つまり自然的意識はそのままでむしろ自らが実在知だと思い込んでいるのだが、それが自らの思い込みに反して実在知ではなかったということを思い知らされるという形で、自らの真理を失うという否定的な道すなわち懐疑いなむしろ絶望の道を歩むことになる。こうして自然的意識は自らの知が失われることによって純粋の無に陥るのだと思い込む。これが自然的意識の限界である。自然的意識の最も尖鋭な形態がニヒリズムなのである。ところが真実には、ここに現れた無は自然的意識の前提した思い込みの無であって、規定された無すなわち一定の内容を持った無である。自然的意識としての意識にとっての無である。こうして自然的意識のこの否定的な動きは無に終わるのではなく、意識にとって先の思い込みの無として新たな意識の形態、すなわち新たな知が生じていることになる。この運動は意識自身において起こるのであって、意識の外から意識が受ける暴力ではないのである。自然的意識はこのことに気づかずに、つまり意識が自らこの否定的運動へと陥るのだとは考えず、まるで身に覚えのない、測り難い(認識し難い)もの、すなわち自然的意識の外に、それはどこにあり何であるかはわからないが、その外にあるものからこの無へと追い込まれたのだと思い込むのである。だから自然的意識はこの意識自身に起こる運動に現れる意識の形態を、そのつどそのつど自然的意識として固定して表象することによって、自らの思い込みの無に突き当たって滅びるのである。
 自然的意識としての意識の在り方は必然的な契機である。が同時に意識は自らの自然的意識としての在り方に気づく。つまり自ら自己自身の概念としての実在知でもある。このことをヘーゲルは「意識は自己の尺度を自己自身において持つ」と言っている。この「自己自身において」の理解が自然的意識と実在知との弁証法的運動を把握する鍵である。自然的意識は自己の思い込みの無が、意識としての自己の在り方に由来することに気づかない。思いもかけず自己の知が真理ではないことに気づくのである。その限りでは自然的意識には尺度はないと自然的意識は思い込む。しかしこのような在り方をする意識そのものは、自己が自然的意識としての態度を取ったということ、つまり意識自身の態度が無に突き当たるのだということを知っている。この無が単なる無ではないことを知っている。つまり意識している。その限りでは自然的意識の陥るこの否定的運動を動かす力は意識自身にあることになる。これが「自己自身において」の意味である。だから自然的意識と実在知という二つの意識形態を比べる意識(学的意識)があるのではない。意識であることそのことが自然的意識として現れるのであり、しかも自然的意識自身が自然的意識として滅びることが、自然的意識すなわち意識の真実としての実在知として現象する知となるのである。したがってこの問題は意識自身の本性の問題であることになる。意識の構造を明らかにすることが問題の中心になる。
 意識は或るものを自分と区別するがそれと同時にこのものと関係している。つまり意識は自己の対象として自己の外に自体存在を立てる。その限りでは意識と対象とは相対立する区別されたものである。ところでこの対象は同時に意識に対して立つものとして、意識との関係の中にある自体でもあることになる。だからもともと意識は単一な自体存在として一つの自然物のように単一態において存在しているのではない。一方自体そのものも対象的自体としてのものと意識という知の形態の一項としてのものと、二重の在り方をしているのである。ここに意識の独特の在り方が現れている。絶対者が精神としての自己意識であるということはこの意識の構造に根差したことであると共に、意識がこのような構造を持つことが絶対者は精神であることを指し示すのである。まず意識があって、その意識が矛盾した二重構造をしているから絶対者が精神であると考えられるというのではない。そう考えてしまったら、一切は意識のこととして、そもそも意識がそこにおいて自らこのような構造を持っていることを知る自体としての絶対者は問題にできなくなってしまう。ということは意識は意識ではないことになってしまう。
 自然的意識はこの意識の構造を次のように考える。まず意識とは区別されたそれ自体としての対象があって、これが実在であり真理であるとする。それに対して意識にとっての存在をこの自体存在の知であるとする。だから自然的意識はこの知が対象と一致するかどうかを吟味することによって、知の真理が確立できる、すなわち真理が知られるのだと考えているのである。そしてこの知と真との一致を確証できるのは、この前提から言って、自体的実在としての真であるから、自然的意識は自らの知を意識の外に在る真に照らして測るのだと考える。ところが先の意識の在り方からすぐ分かることだが、ここで尺度とされる真は意識にとっての対象となっているものすなわち知の主観としての意識がこの知の対象として立てたものであるから、この真はそのまま意識にとっての真である。自体的実在は意識にとっての自体に他ならない。ところが意識にとっての自体としての真とは、自然的意識としての意識が自らの知を名づけたものである。自然的意識は自らの知が対象と一致するかどうかを吟味しようとして対象が尺度であると考えたのであるが、もともと尺度たるこの対象は意識にとっての対象であり、したがって目指された自体の知は意識にとっての知であることになる。だから自然的意識は自分ではそれと気づかないで尺度を自分自身に持っている。したがって探求は意識の自己自身との比較であることになる。というもの知もこの知の対象である真も共に意識の中のことだからである。
 意識は自らを知と知にとっての真とに分け、この両者を比較しているのである。だからこの構造を自然的意識のように固定して考えず、事態に即して考えれば次のようになる。(ところでこれから繰り返し出てくることだが、このように自然的意識がそれと気づかずに自ら展開しているこの「ことがらの概念」を事態に即して論じる場合に、ヘーゲルは「我々にとっては」と表現する。気をつけねばならないのは、このときここでの意識の行っていることの他に、我々なる絶対的認識者が居るわけではない、ということである。そう考えるのは自然的意識のすることである。この<我々>は自然的意識には分からないことであるが、しかも意識は必然的に自然的意識の態度を取るのであるから、ここでヘーゲルの所論を聴いている我々もいつの間にか「我々」と「意識の行う運動」とを固定して比べてしまう。こうして「我々にとっては」ということが分からなくなってしまうのである。この「我々」が意識自身にとって意識の真実であることに気づかれてくるのは、自己意識が意識の意識としての真の在り方であることが明らかになったときである。そのとき意識は己を「我々である自我、自我である我々」として自覚し、この我々としての自己で在ろうとし、この自己を実現しようとする。そのとき意識は精神として理解されていることになるが、この精神の最後の形態としての絶対知において求められた「我々」が「現実」になっていると考えられている。だからこの「我々」を言葉の問題として理解することがこの研究の目的である)。
 さて我々にとっては、知を概念と呼び自体すなわち真を対象と呼ぶとすれば、吟味するとは概念が対象と一致するかどうかを見ることである。しかし逆に、この対象の自体を概念と呼びこれに対して対象という語で対象としての対象、すなわち他者にとって在るものを呼ぶとすれば、吟味するとは対象がその概念に一致するかどうかを見ることになるが、これはどちらも同じことである。どちらも意識の中で意識の立てた区別であって、言葉にすぎない区別だからである。大切なことは概念と対象、他者にとっての存在と自体存在という二つの契機が、我々の探る知自身の中で生じるということを、しっかり定めておくことである。つまり意識は自らが対象を意識しているということを知っている、つまり対象についての知としての自己を意識しており、この両者はどちらも意識にとってのことであるから意識自身が両者を比較するのである。
 このように比較する時、両者が一致しないならば、自然的意識からすれば意識は自らの知を変えて自分を対象と一致するようにせねばならないように思われる。だが知が変わる時には実際には知にとっての対象自身も変わるのである。なぜならば現存する知は本質的には対象についての知であったからである。つまり知と共に対象も別の対象となるのである。したがって意識から見ると初め意識にとって自体であったものは自体ではないのだということ、つまり<意識にとって自体>であったのだということになる。だから意識がその対象において自らの知と対象とが一致しないことに気が付く時には、対象自身もそのままで在り続けてはいないのである。
 このような弁証法的運動は、意識にとって新しい真の対象がそこから生れて来る限りで意識が自分自身において、自らの知と自らの対象に関して行う運動であり、本来は経験と呼ばれるものである。ここにヘーゲルの考えていた自然的意識と実在知との弁証法が意識の経験の問題であることがはっきりと説明されている。自然的意識はそれ自体として、意識の外に意識に対して在る真を、己の知によって捉えるのだと思っていた。しかしこの知を吟味していくと、自然的意識自身がこの真としての自体を自らにおいて対象として立てたもの、すなわち自らの知以外の何ものでもなかったことに出会って滅びる。そして自己の知の無を知ることによって全く別の対象に目を向けていく。こうして次々と新しい対象の無に出会うだけで、自己の意識としての本質に気づくことはない。自然的意識は自らの意識である本質に気づかずに自ら向きを変える。この向きを変えるのだということは、自然的意識には分からない。いわば自然的意識の背後で起こっているのである。というのも自然的意識は、そのつどそのつど対象とその対象の知と認識とを前提して、この思い込みから脱け出ることが出来ないからである。対象が変わるからこれらの前提から生れるそれらの関係も変わる。こうして様々な意識の形態が生じ、次々と意識は動いていくが、それは空しい反省の流動でしかないことになる。この空しい自然的意識の運動を見ている我々から言えば、意識はもはや最初に思い込まれていた自体と知とがそのままではないことに気づく。というのも、最初に立てた対象とその知とが、共に、もはやもとの対象と知ではないことを意識しているからである。自らの立っていた場が意識にとってのこととなる、つまり自覚的になる。こうして意識は自らを変え、それと共に対象も変わり、意識が自らについて行う意識の経験の道程が叙述される。これをヘーゲルは現象する知の叙述と呼び、この知として現れる意識の経験の叙述が学としての哲学であると考えるのである。だからこそ学の展開は常に自然的意識と共に歩むのである。学が学として知となるのは自然的意識においてである。もちろん自然的意識はそのつどこの学としての知の生成を固定して、自体存在としての新しい対象だと思い込むのであるから、この自体存在すなわち我々にとっての存在という契機は対象として在るにすぎないのである。しかも自然的意識自身が自己の概念と対象とを比較することによって意識にとってこの運動の必然性が生じていることを「見ている」我々にとっては、自然的意識としての態度を取る意識自身の知の運動、すなわち自己意識となり精神となる意識の経験としての学が生成していることになるのである。これが緒論に解かれる自然的意識と実在知との対話としての意識の行う弁証法的経験であるが、このことと言葉とはどのような関係にあるのか。
 以上のように意識は自然的意識として、計量し比較考量する悟性であるが、今述べたこの意識自身の経験を通してこの悟性的固定は流動し運動する。「こうして悟性的であることは一つの生成であり、そしてこの生成として悟性的であることは理性的であることである」。悟性という反省がこの運動において否定性として自己自身の真実を経験することは、悟性自身の否定の必然性として現れてくる。しかも悟性自身は、自然的意識として、そのつどこの必然性の運動を固定してしまうからこの必然性が見えない。しかもこの悟性の否定性においてこの必然性が立ち現われているのである。この必然性が理性だというのである。換言すれば「理性は目的に適った働きである」ということになる。目的は直接的なもの、静止しているもの、動かないものでありながら、自ら動かすものである。だから目的は主体である。つまり目的は自己に対してあることすなわち純粋否定性である。結果が始まりと同じであるのは始まりが目的であるからこそである。だからこそ意識は精神の直接の定在なのである。ところで「言葉は直接的自己としての精神の定在である」と言われている。『精神の現象学』が意識の経験において自己展開する現実的知の体系であるのならば、この意識の経験が言葉において、言葉と共に生起していることは、このことからも伺えよう。ヘーゲルは序文で、論証的(形式的)思惟の命題の持つ問題と関連させて言葉の問題に触れているが、そこで論証的(形式的)思惟の行うことは、今述べてきた自然的意識としての意識の行う経験である。この思惟自身の陥る必然的運動が「意識の向き変え」と呼ばれたのである。したがって言葉の問題がこの意識の経験の弁証法的運動と共に、この運動を起こさせ、またこの運動において自己を実現する精神の核心であることが分かると共に、それが悟性の働きの問題と一つであることも見て取れよう。ヘーゲル自身はこの問題について概念把握する思惟と計量し比較考量する態度との対立を示すために、この比較考量する思惟の二つの面を取り上げて論じている。一方は受け取った内容に対して否定の態度をとる空虚な自我への反省としての自己の知についての自惚れ=空しさであり、これは内容の空しさを透見することにおいて自己の知の空に突き当たる単に否定的なものである。他方は今述べた否定的態度にあってこの比較考量する思惟そのものを自己すなわち基盤としての主観=基体であると表象し、内容がこの基体の属性および述語として関係するのだと考える。このような比較考量する思惟が経験するのが、自然的意識と実在知との弁証法である。これをそれでは概念把握する思惟はどう考えるのか、それが問題である。思弁的命題としての概念把握する思惟を言葉との関連から概観しておこう。
 先の悟性的思惟の形式的命題の空しさを自覚した上で、実体的知を主張するロマンティークによって、絶対的なものを主観として考えようとする要求のため、神は永遠なものであるとか、道徳的世界秩序であるとか、愛であるとかいう命題が使われた。この命題は空しい命題形式ではなく内実を言い表すために立てられている。ところがこの命題における主語(主観)は、いきなり主語として固定されて措定されているため、自己自身への反照すなわち主観としての運動としては考えられていない。したがって判断形式としての命題の体をなしていない。これは断言であって命題ではない。だからこの語(神)はそれだけでは意味のない無意味な響きであり、ただの名にすぎない。しかもこれを命題という形式から分析すれば、命題の主語は無内容であり、主語の内容は述語にあることになる。しかも主語は固定されたものとして自ら述語に成るのではないから、無内容な語に止まるだけである。論証的思惟が空しい命題の中で空回りするのはそのためである。したがって求められた思弁的命題とはこのような空しい主語ではなく、自ら主観(体)として述語となるような主語を含んだ命題である。その意味で弁証法的運動の場は純粋概念なのである。そこで「神は存在である」という命題が選ばれることになる。この命題を思弁的命題として理解することが求められていることである。さてこの命題では、述語は存在であるから実体的な意味を持っている。だからこの述語は主語にとって意識の側で付け加えた単なる判断の形式ではない。ということは主語は実体としてこの存在の中に溶け込んでしまっている。したがって主語が自ら述語となって自己を規定しているのであるから、主語は同時に主観(体)としての命題の内実となり、単なる空しい語ではないことになる。先の論証的(形式的)、自然的意識における知と真との比較のように、主語が動かずに静止する点にあるのではなく、真としての主語は知の真として述語の中に動き入り、述語において自己自身であることになる。ところが「自然的意識としての思惟は主語から述語への移行において進んで行く代わりに、むしろ妨害されるように感じる。というのはそのとき主語が失われるからである」。この思弁的命題を命題という形式(主語-述語-関係)から眺める論証的思惟は、このような運動において命題という形式が損なわれるのだと考えて、そこで立ち止まってしまうのである。つまり自然的意識は真とその知とが自己の思い込んでいた通りではないことに気づき、懐疑に陥る。自己の知の確信が無内容であって、空虚な反省としての形式だけが知として存在するように思えるからである。「思惟は述語自身が基体(主語)として、存在そのものとして、実在(本質)として言い表されているのだから、そしてこの実在が主語の本性を汲み尽くしているのだから、主語がそのまま述語の中にも在ることに気づく。そこで思惟は述語において自己の内に入って行って論証的(形式的)思惟という自由な位置を取る代わりに、内容の中になお沈潜している」。この空虚な形式において捉えられるはずの内容、すなわち基体としての主語は意識の確信の内容として、この形式の外に根底として置かれ、そこに己の真実が在ると思い込まれている。自然的意識はこの形式と内容との分離において自己の転倒に気づく。そのとき意識の経験の道が始まっていることになる。「それゆえこの運動は徹頭徹尾それ自身において主観(基体)であるような一つの内容を持っている。だから根底にある主語として振る舞い、自らの意味が述語として付け加わってくるような内容は全く現れない。命題はそのままではただ一つの空しい形式である。感覚的に直観され表象された自己を除けば、ただの主語を、空しい概念を欠いた一を表しているようなものとしては、とにかく名としての名しかない」。こうしてあらゆる命題形式を単なる反省の業として退けようとする実体的知の断言が再び力を得てくる。しかもこの実体的知の内容それ自体が空しい命題形式の空虚な名としての主語としてしか言い表せ得ないのである。だからこのような意識の行う経験がこの命題において自然的意識の主語(真)の固定から起こり、そしてこの主語の述語への移行が自然的意識における知の崩壊として、自然的意識の死すなわち絶望という形をとることによって、意識は自己の真実を知る(実在知)という弁証法的運動は、いきなりこの命題という形式を廃棄(止揚)することによって直接的な仕方で起こるというだけではいけないのである。
 主語が自ら動いて述語として存在するというこの命題の運動そのものが問題の核心である。だから求められた内実としての真は命題の運動の中に言い表されている。命題形式そのものが現象する知の定在の場である。「この反対運動が言い表されなければならない。この動きが前に言った内に潜む妨害であるということだけではなく、概念が自己に帰るということも述べられねばならない。この運動を言い表すことだけが叙述である」。つまり命題としての判断が媒語を介して推理となることである。この推理において言い表されるものが学としての哲学の叙述である。これがヘーゲルの求めた思弁的命題の意味である。だから意識の経験としての学の歩む道程は思弁的命題としての概念の運動であるが、この概念の運動の場は言葉である。言葉は空しい名として固定されると同時に、主語を内実とする述語として、定在する概念でもある。思弁的命題の問題は同時に言葉の問題である。こうして言葉は自然的意識が命題の主語として直接に立てる空虚な名として、意識の運動の否定的な契機の中に現れているが、同時にこの空虚な名として固定される主語が述語において自己自身である、つまり概念であるものとして、同時に意識の経験という学の叙述のエレメントでもあり、学が現存する場は概念なのであるから、同時に学が学として、つまり絶対者が精神として自己を語り出るのは言葉においてなのである。この思惟の経験の歴史の独特な点は次のことにある。つまりこの経験が同時に言葉に関して、言葉と共になされる。もっと厳密に言えば、思惟が自己の内容をこの真の内容として表明しようと試みる言表形式(命題)と共にこの経験がなされるということである。ここに精神の哲学としてのヘーゲル哲学における言葉の問題の根がある。意識の経験の起こる場は言葉である。しかもこの経験は単純なものではなく、弁証法的運動として矛盾を契機としている。このことは同時に、意識が常に既に我々に属するということを意味しているが、この我々の要求が言葉性であると考えられているのであるから、言葉の問題もいきなり直接的に一義的な定義は下せない。その場にいるそのつどの自然的意識にはことがらそのものは見えないのであるから、この自然的意識にとっては自らの陥る矛盾が言葉の問題に根ざしているのだということは透見できない。言葉の問題の必然性は、意識の経験の道程と共に忍耐強く歩み行くのでなければならない。学の叙述そのものの道程に従って精神の生成が論じられ、そこに共に語り出される言葉の問題を概念把握することが課題になるが、このことを通じて我々には二つの中心テーマが与えられたことになる。一方では我々である精神を意識の経験を通じて概念把握することであり、他方ではこの精神の自覚の過程が言葉において生じていることを明らかにすることである。そしてさらにこの二つの中心テーマが相互に相手を指し示すことによって、精神が言葉であり、言葉は精神であるということを明らかにすることによって、哲学が学でなければならないというヘーゲルの時代の要求に対する解答を概念把握することである。































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