ヘーゲルに学ぶ

アクセスカウンタ

zoom RSS 言語論の歴史とヘーゲル(1)

<<   作成日時 : 2017/03/10 10:56   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 現代の言語論には様々な立場があるが、その底流には共通の問題意識があるように思われる。それはプラトン、アリストテレス以来の、言葉は道具であり記号であるという考え方に対する反対または疑問であり、さらにこのような言葉理解の背景であり根底である形而上学的確定、思い込みへの反省である。言葉の問題が形而上学的な問いとしての存在の問題として主題的に、自覚的に扱われるのである。この言葉の道具性に目を据えて、ロックにせよ、デカルトにせよ、ライプニッツにせよ、言葉を記号の体系として論じている。その場合には、経験と思想との伝達および表現のための手段としての言葉という言語解釈が根底にあるわけだが、この根底に置かれた確信に対して疑問が投げかけられているのである。しかしこのような疑問は決して言葉の記号性格を根本的に否定するのではない。言葉が記号であるにしても、この記号によって記号づけられるもの、すなわち実体と呼ばれたり、主観と呼ばれたり、あるいは多義的に使用されるロゴスと呼ばれたりするものの前提(これが形而上学的確信)から説明され得ないということ、つまり記号づけられるものは常に既に記号としての言葉において出会われている、という根源的事態に注目することから考え直すべきだということである。思惟と存在との一致または相即という問題の根底には言葉が記号として、表現形式として、ロゴスとして存在しているということが、このような関心の根源なのである。そこで問題は、ヘーゲルにおいてこのような伝統的な言葉の受け取り方、すなわち記号としての言葉がどう位置づけられているか、ということである。ヘーゲルも言葉を記号として論じている。しかしヘーゲルにおける言葉の記号性の意味が問題である。この点については、まず伝統的な言葉の理解を明らかにし、このような考え方の批判はどのような意味でなされ、どのような解決が目指されているのかを概観して、その成果を踏まえてヘーゲルの場合の記号としての言葉の考え方を、ヘーゲルに即して明らかにしなければならない。
 
 プラトンの『クラテュロス』は「名(オノマ)の正しさ」という副題のもとに、言葉の起源と機能とを、つまり言葉の本質を論じたものである。ここに模倣による命名から発生した道具という言葉の解釈の原型を見ることが出来ると共に、その後現在に至るまで論争の中心問題となる諸問題の芽が現れている。へルモゲネースとクラテュロスとソクラテスとが名(ここでは言葉が事物の名に還元されており、そのこと自体がその後の言葉の受け取り方を決定づけ、ヘーゲルの考え方とも関連してくる)とは何かについて議論をするのであるが、言葉の起源について、ヘルモゲネースは約束から生じたとし、自体的-普遍的な意味を持たない、いわばその場限りの取り決めによる符丁であるから、正しい言葉の使用など問題にならないと主張する。これに反対してクラテュロスは言葉は自然に生じたもので、およそ名指されるものは、名として常にいつでも自体的なものを言い当てているのだとする。この両者の言い分を通して、ソクラテス-プラトンは、名(言葉)が人間の間の約束事として自然的事物そのものではないが、同時に単なる符丁ではなく普遍的な拘束力を備えたもの、すなわち形相的なものでもあるということを論証しようとしている。
 これが『パイドロス』においては「霊魂に刻み込まれた言葉」としての形相的な、ロゴスとしての言葉と、人間の発明によって論争の恣意的な道具となる「文字」としての言葉の対立を生み出す根源であると考えられているのである。レーヴィットがヘーゲルの言語理解であるとして批判しているのはこのことである。したがってここで問題になっていることは、言葉の起源をめぐって、言葉の機能と成り立ちはどうなっているのか、一言で言って言葉とは何かということである。言葉に起源について約束説と自然説とが対立しているのは、実は言葉の成り立ちと機能との考察が不徹底、一面的であるためであり、ソクラテス-プラトンの議論もこの二点に集中しており、そこに現れる矛盾を真正面から問題にしようとしたものである。感覚が外的事物を写し取り、言葉がこの感覚を表すという素朴な信念の孕む矛盾と問題性とが中心問題である。だからこそ全編の大部分が、冗談とも本気とも付きかねる、模倣に起源を持つ語源の詮索に当てられているのだと考えるべきであろう。そう考えたときこの議論は、見かけほど滑稽ではないことが分かるだろう。近代的な記号論がこのような神話的、形而上学的な言葉の扱い方を批判するのは、すでに近代科学的な前提、すなわち実証的な方法論に立つことによって、このような問題設定の外に立っているからである。この三人の議論を通じて主張される言葉の共通の理解(これがプラトンの言語理解に通じる)は以下のようにまとめることが出来よう。
 1)名は標しであって、事物の本質を教え区別する一種の道具である。(言葉の機能)
 2)最初の名=基本語は事物を声によって模倣したものである。(言葉の起源)
 3)名は事物の表現であり、これは約束に基づいている。(約束)
 4)この名を最初に作ったのは人間=命名者であり、その人は立法者であった。(自然的なものではないが単なる恣意的な作り事ではない)
 5)名は字母から成り、字母の組み合わせで音節ができ、音節の結合が名詞と動詞とを作り、名詞と動詞とから文が構成される。(言葉の成り立ち)

 まず言葉の起源についてプラトンは、神々が名を立てたとか外国語から習ったとか、あまり古くからあって我々に考察できないとかいう説明を、利口なやり方ではあるが、事柄の説明にはならないデウス・エクス・マキナであるとして退けてから、一見変なことのように思えるが、名=言葉の起源は事物の模倣にあるとするしか説明のしようがないと言う。なぜならそうでないと、同じ事物について様々な名があり、そこに体を表す正しい名と、体を表さない間違った名とが存在する理由が分からなくなる。へルモゲネースの約束説とクラテュロスの自然説とはこの事実に突き当たって、相互に矛盾しながら同時に自己の一面性を露呈するのである。言葉が自然に存在するものではないということが議論の前提である。しかもそれは単なる人間の側だけの約束事ではなく、人間が自然的事物の本質を表現し区別するために発明した、事物の表現であると考える以外に、納得できる説明はないということである。ここでは現に生きて働いている言葉、つまり道具としての言葉の機能がまずあって、そこから言葉の起源の説明が推理されている。だからこの言葉を発明した人は類まれな弁証家であったのだろうと言われる。ここに前提されている事態は、名が感覚的な対象をかたどっているのは、名がこの感覚的なものに由来しているからであるとはもはや確信できなくなったということである。そのために自然説と約束説とは相互に相譲らず、しかも相手を問答によって言い負かすことができず、相対立したまま相互の確信を断言し合っているだけなのである。プラトン-ソクラテスがここで試みる言葉の起源論が一つの想定として提出されるのは、この相容れない主張の中で、それが主張として対話において考究されねばならないからである。弁証法が成り立つためには、言葉に真理を言い当てる力すなわち永遠で普遍的な意味がなければならないからである。プラトンのいわゆる弁証法とイデア論とはこの言語理解と一つの所で考えられねばならない。弁証法が登場するのはいつでも言葉の価値に疑問が出されるときである。そしてこのことは『パイドロス』において、言葉を単なる標し、技術としての文字(これは自体的なものとされると真理の忘却を誘うものとしての悪しき弁論術の道具となる)と霊魂に書き込まれた言葉(これは文字以前のロゴスそのものであり、このロゴスに支えられたとき文字は想起の薬として肯定的な意味を持つ)とき分かれて論じていることに通じる。
 言葉の道具性は言葉の二重性格に支えられており、しかもこの二重性格におけるしるし(記号)の優位に注目することによって見つけ出されているのである。その意味では「第7書簡」などの言葉の軽視も、このイデア論および想起説に起因していると言えよう。「したがって結果として次のように言わざるを得ない。つまりプラトンによるイデアの発見は、言葉を使いまた濫用することによってその独自な技術を発展させたソフィストの理論家たちより遙かに根源的に、言葉本来の本質を覆い隠している」というガダマーの評価も出てくることになる。しかしだからと言って、言葉が各人の、その場その時の、相対的な約束事であるのではない。もしそうだとすると、正しい名も間違った名もない、つまり命題の真偽を論じることも出来なくなってしまう。したがってこの作られた標し、道具としての言葉は、万人に共通な、一定の、正しい言い回しであることになる。プラトンはそのことをオノマトウルゴスと言って立法者に擬えているのである。『パイドロス』におけるエジプトのテウト神(文字の発明者)に対するテーバイ王タモスの言葉はそれを見事に語っている。事物の本性に真似るという限りで、真似方の巧拙、当不当、すなわち学び方の良し悪しがあり、正しい言葉も不当な言葉も存在するが、本来模倣である限り、人間の側で勝手に作ったものではない。したがって約束事ではあっても我々の従うべき一種の社会的規範としての法があることになる。この法に則ってまず字母による事物の本性による表現があり、この字母の組み合わせとしての音節が生じ、この音節の結合によって名が成立するとするのである。ここにはっきりと名指されるものとしての事物の本質が予想され、これが自体としての普遍的なものとして、名の正しさの基準であると考えられているのである。名は体を表すべきものなのである。正しい名とはこの要請を実現したものだということになる。そしてこの言葉と存在との一致と言葉と存在との対立という矛盾した事態が分有理論によってイデア論へと深まって行くのである。霊魂に書き込まれた言葉においてイデアの想起が成立している時、初めて記号としての文字は生命を持つのである。このロゴスの自己表出という言語理解が言葉の記号性格を支える形而上学的前提であり、この前提についての思弁がイデアの想起として形を得ているのである。だからこのようなイデア論またはロゴス論が確立した時、言葉は数のようによく定義された、したがって予め分かってしまっている一つの存在の単なる記号となるのである。しかも問題はこの音節の結合の場合に、必ずしも模倣の原則が守られずに、音の響き、語呂の良さなどから、字母の省略挿入などがなされ、習慣化されて、本来の模倣が隠れ表面から消失してしまっている場合がある。これが文字という自己完結的な技術に成り下がった恣意的記号としての言葉である。このことから我々は、それぞれの名が正しく名指されるものを表しているかどうかを検討しなければならないということになり、例の語源の詮索が始まる。しかもこれは必ずしも一義的には決定できない場合が多い。だから現に在る言葉にはそのまま模倣としての起源を辿れずに、単なる約束にすぎないかのように見える場合が多いのである。ここに道具としての言葉の理解とこの理解の孕む様々な問題がはっきり示されていると言えよう。
 この考え方から更に記号としての言葉をもっとはっきりした形で考えているのがアリストテレスである。『命題論』では、名称を定義して、「名称は約束によって意味をもつ音声で、時を含まない、そして音声のどの部分も分離されたものとしては意味を持たない」とし、「音声の内にある様態は霊魂の内にある様態の象徴であり、書かれたものは音声の内にある様態の象徴である」としている。
 この考え方によれば、言葉は名称を最小単位とし、更に音節、字母にまで分割した場合には、特定の意味を表現する記号としての言葉ではないということ(言葉<ロゴス>は必然的に名辞から成り立たねばならない。しかし言葉は意味を持った音声である)と、記号として使用される言葉は心の中に在るもの(表象)を表現=象徴するために、取り決めによって承認されて初めて、言葉として機能するのだということが重点になる。これは専ら心理学(アリストテレスでは霊魂論)を前提した上での定義であって、言葉自体というような何かとして問題になるものではない。言葉は記号の体系として記号の論理的関係、つまり「命題論」の対象としてのみ問題にされている。つまり言葉の役割は真理認識のための道具を我々に提供することである。その言葉の本来は、心の働きの表現としての音声が第一の記号であり、文字はこの音声の記号として、記号の記号であるのだということである。ここにはプラトンにおけるような言葉の起源の詮索は問題になっていない。ここに事物の本質に対応した道具としての言葉という考え方と並んで、もう一つの言葉の受け取り方、つまり表象、観念の表出としての記号である言葉が関心の中心になってくる。もちろん観念、表象との対応という限りでの道具性格がないわけではないが、むしろその表出である記号の体系をいかにしたら一義的に、確定できるかという論理学的、命題(判断)論的関心から、言葉の問題が捉えられていると言えよう。彼は恩師プラトンがロゴスの働きと本性とを説明する目的で構築したあの創造の形而上学を棄てた。彼はあれこれ難しいことは言わないで、ただ言葉を人間に共通に与えられている、したがって有効なものとして使うことにしたのである。そのことからロゴスを自然的な性格を持ったものとは認めず、その起源を一種の約定に求めるということも起こって来る。しかし実は先に上げた霊魂の中に在る様態の象徴であるということ自体にプラトン的な言葉の起源の問題が同時に含まれてもいる。しかしアリストテレスはその概念規定を不精確にしたまま、記号の関係の一義的確定、すなわち論証の正しさの保証となる命題の論理にのみ関心を集中して行くのである。したがって言葉のないところに初めて言葉を作り出した立法家というような想定は何一つ語られずに、いきなり記号としての言葉が定義づけられている。そしてこの定義こそその後の記号としての言葉の受け取り方を決定づけたのものである。プラトンの言葉の起源(存在と言葉との関係)と言葉の機能(道具性)、それにこのアリストテレスの記号としての言葉の定義、これでほぼその後の言語論の原理が決定されたと言えよう。これがつまりはアリストテレスの哲学は本質的に命題と推理との理論、すなわち論証の理論であるが、これに対してプラトンの哲学は本質的に命名の理論であったということを通して現れて来る言葉の二つの古典的、伝統的解釈になったと言えよう。しかもこの両者にあって一見したところ大きな相違であるように見える、論証と命名との対決は(この対決がその後様々な形で現れるのであるが)、根本的な対立相違ではない。アリストテレス流の考え方は、プラトン流の考え方の派生理論、様々な問題の反省によって複雑になった理論であると言えよう。
 このギリシア的な考え方とはある意味では対立している聖書に解かれる言葉の起源論を見ておきたい。言葉の起源についてはプラトンと対立しているが(これはヘーゲルとの関係では重要である)、その後歴史的に現に働いている言葉の考え方に大差はないと考えられる。「創世記」第二章によれば、6日間の天地創造の後、神は人間をまず土から造り、その後で「人がひとりであるのは良くない。彼のためにふさわしい助け手を造ろう」(18節)と言って鳥獣を造り、「人のところへ連れて来て、彼がそれにどんな名をつけるかを見られた。人がすべて生き物に与える名は、その名となるのであった」(19節)とし、更にその人の肋骨からひとりの女を造って与えたが、これに対しても人が「男から取ったものだから、これを女と名づけよう」(23節)と言ったことによるとして、人の命名に由来するとしている。この聖書の考え方からすれば、生きとし生けるものの名称、ということは聖書の記述にある通り、「人の助け手」の名であり、これは元来の自然一般が人にとって無関心であったのに対して、人の生存を助け喜ばせるもの、人がただ一人生きず、他者(これが助け手である)と共に生きて行く場合の意志、思想の表現としての名であり、その意味で社会的関係の表れとしての言葉と考えることができる。だからこれを言葉と言い直してよかろう。言葉の起源は人間の自由に由来し、しかも言葉はその言葉によって名指されるものが人間のために与えられた事物であるということの証し、標しであることになる。ここにはプラトンのように自体的な事物からの模倣または表現としての言葉でもなく、またアリストテレスのように単なる象徴としての記号でもなく、言葉が事物を事物として決定する、つまり言葉が事物の本質である、という言葉の優位、言葉の威力が説かれている。しかも言葉の優位とは言葉が単なる記号、象徴ではなく、言葉が事物の何であるかを決定するということと同時に、ここでは人間のためのもの、人間の所有するものであるということの標しであると考えられることによって、人間の優位が考えられる。つまり事物に対する言葉の優位を通して人間の優位が説かれている。だからここでの言葉の考え方に即して言えば、自然そのものではないにしても、つまり少なくとも人間が直接必要とするものを造るのは神であるとしても、そのものを何とするか、つまり人間にとっての意味を決定するのは人間の自由に発現する言葉によるということになる。もと事物の名づけ主として、人間においては言葉を通して事物の真理を決定し、この真理と名において一つであったのだということになる。しかしその後自らこの力を、バベルの塔を築くことによって神に反逆したために失い、あるいは神の怒りとしての罰によって奪われ、人々の「言葉は乱され、互に言葉が通じなくなった」(第11章7節)のである。本来事物と一つであり、全ての人に共通であった言葉、すなわち自己分裂のない、自己同一の中にあった人間が、その時以来自己分裂に陥り、言葉は複数になり、事物と一つではなくなってしまった。言葉における人間の支配の力が失われると共に、人々は相互の間の理解をも失ったのである。言葉が通じないということは、言葉が真実なのではなく、真実を隠したり顕したりするものとなるということと同時に、言葉が特定の集団の符丁になるということをも意味している。むしろ言葉は現に在るような姿、つまり事物の相対的な象徴にまで堕ち、人間同士、ひいては人間の言葉と神の言との分裂も起こり、真理は人間から失われたことになる。言葉は不完全な媒介物、しかも不可欠な媒介物となる。そこに預言者の仕事が考えられ、ロゴスの受肉としてのイエス・キリストの意味も考えられるようになる。さらに「創世記」に見えるように、「光あれ」という神のロゴスが光を生むという、万物の創造の根源に神的ロゴスを見る考え方とも通じて行く。人間のロゴスが万物の本質を決定する威力であるのもこの神的由来による。まことに人間は神の似姿なのである。しかし人間はこの恩恵を自ら神への反逆によって失ってしまった。だから言葉の起源についてはともかく、結果として現に働いている人間の言葉が、真理の痕跡を留めたものとしての象徴、符丁であると考えられていることには変わりがない。言葉はそのままでは、不完全で、不自由な意志、思想の伝達の道具である。
 これら古典的な言葉の解釈に立ってまとまった言語論を展開しているのは、ロックである。近代的な分析的悟性による認識の媒介物としての言葉の一つの典型と言えよう。
 ロックは、『人間悟性論』第二巻、第三部の第一章から第二章にかけて、記号および思想伝達の道具としての言語論を展開している。伝統的な言語論の一つの典型として、このロックの考え方が良い手掛かりとなろう。
 ロックは聖書的伝統に従って、人間が社会的集団生活において相互の意志伝達の道具としての言葉を持ち、この言葉(分節した音声=十分に耳で聴き分けられる音)を形成する器官を本性上持っているのだという。しかし相互の意思伝達の道具としての言葉が機能するためには、この分節した音声だけでは十分ではなく、更にこの音を内的な観念の記号として使用することができるのでなければならないと言い、この記号が本来自分自身の胸の中にあって目に見えず、他人からは隠されていて表に表されない思想を伝達する道具になるのだとする。こうして、思想伝達を仕事とする観念の記号である言葉は、個々の事物に対応している限りでは無数の名となり、煩雑極まりないから、大変不便であるために、これらの個々の事物からの抽象として、一般名辞すなわち名称を形成するという。ここに初めて本来(自然によって、ロックにおいては神によってに等しい)この目的(思想の伝達すなわち人間の共同生活のために)に最も適合した言葉が、人間の懐く観念の記号として人間に使用されるようになった経緯が明らかになると言う。いろいろ細かい問題はあるが、ロックが繰り返し強調することは、言葉の使用は観念の可感的な標しであり、この言葉の代弁する観念は、言葉固有の直接的意味であるということであり、この言葉の意味は、人間が使用する場合に、専らその人の懐く観念に限られ、この観念以外のものの記号ではあり得ないということである。したがってロック的には、感覚を通して得られる外的事物の印象から生じた内的観念の感覚化が言葉であり、本来外的事物との関連が前提されながら、このことは背後に退いて、むしろ他者には感覚できない内面の表出=感覚化と言う面に重点が置かれている。更に重要なことは、このように考えたとき、外的事物が実体として前提され、更にこの実体に対応する観念が存在し、この観念に対応する言葉があると考えられることによって、言葉が語られる以前にすでに実体に対応する観念が、言葉なしに考えられていることになるという点である。未だ言葉がなかったときに、すでに実体と観念とがそれとは名指されずに在ったのだということになる。しかもこのことが主張されているのは、これらの関係が言葉において知られてしまっている現在なのである。現に言葉において実体を問題にし、観念を抱いているこの人間が言っていることである。このことが次に問題になって来ると同時に、ヘーゲルの記号としての言葉の考え方を理解する上で忘れることのできない問題である。ここに至って、プラトンにあっては自然的事物を模倣として自然的事物に対応して考えられているという意味で、聖書的には人間の住む世界の事物の本質を決定するという意味で、世界との関連で考えられていた言葉が、内の外化として、観念または思想の伝達の道具としての記号から考えられることになった。
 以上のように、言葉の解釈は、ギリシア、ユダヤ、近代において必ずしも同一ではない。考えようによっては根本的対立があるとも言える。というのも、プラトンではあくまでも事物の本質の人間の側での模倣として、事物の本質(イデアに通じる)から考えられているのに、聖書では、人間のために作られたものとしての動物、女の本質を人間が決定する、つまり言葉が世界の本質を決定するという意味では、人間の側にその決定権が任されている。言葉は世界を生み、人間がこの世界を支配する威力となる。ところがアリストテレスでは、魂の状態の象徴として直接的に事物と対応して考えられておらず、ロックに至っては専ら観念の対応物としてのみ考えられているからである。しかしそれらの問題は問題として、重要でもあるし、ヘーゲルの言葉の理解において再び問題になることであるが、今ここでの関心は、これらの解釈が全て、何らかの意味で、象徴または記号としての言葉とこの記号によって人間の相互了解、すなわち思想伝達の道具としての言葉を理解しているということである。これらの言葉の理解に共通なことは、現に生きて働いている人間の言葉は記号であり、思想伝達の道具である、ということである。言葉はそのようなものとして、一つの独立の存在、すなわち第二の自然としての一つのものであったり、人間固有の神的能力として自然的に存在するものであったりする。そこから言葉を言葉として、一つの自然的研究の対象、しかもあらゆる学問研究の予備的研究の対象であるとする見方も生じてくるのである。ここに表れている言語理解、特にその機能については、次のような前提があり、これが伝統的な考え方の共通点であると考えて良いようである。
 1)言葉は記号、象徴として、記号によって指し示されるもの(事物または観念)を前提し、それとの関係において初めて言葉として機能する。つまり記号、象徴として、言葉は事物または表象、観念を意味として感覚的な形態(音声、文字)で表現している。
 2)それは人間が社会的存在として相互了解を得、思想の伝達をするための道具であり、しかもこの道具はその集団内の約束に基づく。つまりロックにはっきり表れているように、言葉が道具であるということは、言葉がそのために存在する自体すなわち真実がまずあって、この真実を真実として言い表す命題とするために、いろいろ不便欠点はあっても、とにかく最も便利で客観的に有効な媒体であるということである。したがって言葉は正しい認識を行うために、予備的な研究によってその機能と限界とを一義的に決定しておく必要がある。大工が仕事の前にその道具を調べる時にするように、語義の吟味が必要だというのである。 
 3)したがってここに前提されることは、それ自体としての自然の事物または表象があり、これを己のものとして知るということは、同時に他者に対してこの自体を表明して共通の場に置くことであるという確信である。自体と自体の知と知の一般性の場としての言葉すなわち記号という道具、という三つの自体の前提があり、その相互の関係が問題として考えられているのである。
 これはヘーゲルの「絶対者は精神である」と考える場合の「実体性」の扱い方を想い出させる。ここにヘーゲルの精神の問題と言葉の問題との本質連関が暗示されていると言えよう。しかし我々はこの問題に立ち入る前になお予備的な検討をしておかなければならない。つまりこのような言語理解に対しては、様々な立場から批判がなされ、新たな解決が試みられているので、次においてこの批判の考え方とその主張とを検討しておかなければならない。

 ルソーはその『言語起源論』で、パロールとラングとを区別して、パロールが言葉の本来の起源であり、このパロールからラング(国語すなわち文法形式の整った記号の体系)が生じるのだとする。ここに初めて生きて語られる言葉の、記号としての体系としての言葉に対する独自性と優位性とが自覚されてくる。ロック流の本性上人間は言葉に適した器官すなわち発声器官と聴覚とを持つのだという考え方を、ルソーはそれは人間だけの問題ではないとして退けている。ロックのような考え方では言葉の起源の説明はつかない。むしろ自体は逆であって、記号としての言葉は本源からの二次的な派生物であるというのである。というのももし意志や身体的欲求を他人に伝達するために言葉が必要だと言うのならば、原初的には身振りによる言葉つまり符丁で十分なはずである。もともと身振りや顔つき、眼つきなど、あるいは唸り声など分節していない音声で相互の意志は十分通じ合うのであって、改めて約束による言語を作る必要はないはずである。だから欲求が最初の身振りを指示したのであり、情念が最初の声を発せしめたのだと言う。したがって言葉は心的な欲求すなわち情念から発生したのである。情念とは愛であり、憎しみであり、憐みであり、怒りであるのだから、決して観念や思想ではない。このことは言葉が或る外的事物をいわば写し取るために発明されたのではなく、心情が自らほとばしり出て発語したのだという意味に解せられる。言葉の発生は外的事物とそれに対する内的反応という前提以前の、あるいはそのような認識とは異質な人間心情の表出だというのである。
主観-客観-関係を前提した認識の問題から見られた言葉(記号の体系)は本源的-本来的な言葉ではないというのである。ここでルソーはプラトンの模倣による言葉の発生という考え方に賛成して、約束による十分に分節化された記号としての言葉は、本来歌、詩として表出されたこの言葉とは全く異質なものだと言う。つまり十分分節した記号として体系化された言語は感情に代えるに観念を以てし、このような言語はもはや心に語りかけるのではなくむしろ理性に語りかける。そのためにアクセントが消え、音節化が進み、言語はより正確に、より明確にはなるが、より単調に、鈍重に、冷たくなる。言葉は語らなくなる。言葉は一様な、情報交換の媒体としての形式に堕ちる。しかもこのような言葉の文字による表記は話す術から生じたのではない。言語を固定するはずのものだと考えられる文字表記(エクリチュール)こそ言語を変質させる当のものである。エクリチュールは語を変化させはしないが、その精髄を変化させてしまう。つまりエクリチュールは表現に代えるに正確さを以てするのである。話すときには感情を表し、書くときには観念を表す。書く場合には全ての語を一般に共通の意味で受け取らねばならないが、話す人は調子を変えて意味を変化させ、己の意のままに意味を決定する。明晰であることには大して重点を置かず、語の力に意を託す。
 ここに記号であり思想の伝達の道具であるという言葉の解釈に対する不信の気持ちがはっきり語られている。言葉は本来自己表現であって、情報交換というような、一定の客観的な思想を媒介するべく発明された手段ではないということ、これがその後の言語論の方向を決定づける一つの新しい見方である。そしてそのことと共に、言葉の分裂、つまりパロールとエクリチュール、表現と記号形式との分裂が現実の問題となる。ルソーも記号の体系としての言葉が現に存在し働いていることを認めるのであるが、そのような言語は、本来の言葉とは異質なもので、もはや人々を心情において一つに結び合わせる力ではないと言う。このような言語はもはや語らない。つまり自己を表現しない。だから言葉とは言えない。むしろ記号としての言葉において、人間は自己喪失、自己疎外に陥るのである。ルソー流に言えば、観念において孤立した人間が記号という道具によって相互了解を図るこの疑似言葉を強調するのは、根源的な心情の表現である言葉を生み出した感情が失われてしまったからである。だからこそ観念が重要な意味を持つのである。ここに近代的な、もはや自己を語らない、自己を表現しない人間、一切が情報交換に還元されて、その記号という一様性において自己喪失したアトム的近代人の姿をルソーは見ている。ここにも言葉の問題が実は存在の受け取り方、人間の在り方の問題と一つであることが示されている。更に先取りして言えば、ヘーゲルの言語理解もこの点においては、ルソーと同じ自覚に立って考えられている。文字に対する発語される言葉(ロゴス)の優位、記号が自己喪失、自己分裂の根であるということが共通の問題である。記号を必要とするのは人々が自己を失い、したがって本来の言葉を失ったからなのである。旧約聖書の言語観が形を変えて現れていると言えよう。ロックに代表される考え方はむしろこの関係を逆に考えた結果の誤りだということになる。このルソーの考え方は後にカントの超越論哲学の根源に言葉の問題を見つけることによって、ハーマンやヘルダーの言語論を生む。ヘルダーの生成したものとしての言葉の優先にしても、主観性と客観性、意識されたものと意識されないもの、個人性と普遍性の媒介のエレメントとしての言葉という、このロマンティークに共通な要求にしても、全ての原型はこのルソーに現れている。この流れに立って一つのまとまった言語論を完成したのはフンボルトである。彼は言葉が対象の客体性の可能性の根拠であって、その対象の表現ないし写しではないと考える。したがって言葉を一つの対象として扱うことは許されないことになる。むしろ逆に言葉は発生的に考察されねばならない。つまり出来上がった文法体系からではなく、このような文法体系を生み出す精神の永遠に繰り返される仕事から理解すべきだと言う。これは例の、言葉はエルゴンではなくエネルゲイアであるという命題の意味である。これらの人々の考え方相互に色々の相違もあるが、いずれにせよルソーの流れに立って、ここに主張されていることは、思想の伝達の道具という支配的な言語理解に対するアンチテーゼである。ヘーゲルの言語理解も歴史的にはこの流れに立っているが、これとそのまま同じではない。というのもすでに述べたヘーゲルのロマンティーク批判は、ロマンティークはそれが直接の対決の相手と考えていた悟性的反省と同じ教条論であり、断言にすぎないという点にあるのだからである。ガダマーは、フンボルトのこの態度を、人間の世界-内-存在の根源的言葉性として、解釈学的経験の言葉性に引き付けて解釈しているが、このような解釈は、後に述べるように、現代的な言語理解の一つの典型になって行く。ヘーゲルの場合には、このことがそのままで実体=主体という概念と自己との問題に読み込まれ、客観的精神の問題になっていく。
 このような批判または問題意識に立脚して、言葉の本質についての議論がなされているが、そこには三つの異なる立場からの解釈があるように見える。一つは言語学の方面からのもの、一つは記号論理、言語哲学の立場からのもの、もう一つは現象学的な言語論である。
 ミケル・デュフレンヌはこの話し言葉(パロール)の優位という現象学的な考え方に立って、現代の言語学、言語分析の考え方の問題点を指摘すると共に、現象学的な言語論を展開している。ここでは彼の所論に従いながら言語学および言語分析の立場の問題点をはっきりさせながら、更に現象学的な立場からする言葉の問題の所在を検討することによって、伝統的な記号論、道具論の批判としての論点の整理をしておきたい。もちろん我々の主題は、ヘーゲルにおける言葉の問題であるが、ヘーゲルの言葉の理解がルソーに始まる表現としての言葉という語る言葉に根を置いたものであると思われるにも拘わらず、多くの論者がヘーゲルの言語論は伝統的な記号論であるとして非難しているからである。事実ヘーゲルの場合、同時に言葉は記号または標しであるとも考えられており、先にも触れたアリストテレス以来の伝統に直接連なるものでもある。ヘーゲルが『エンチュクロぺディー』の中で記号論を展開しているため、このような解釈が生じるのであるから、ヘーゲルの記号論としての言葉の解釈のためにも、記号論批判の論点を知っておく必要がある。
 ソシュールは、伝統的な言語理論の含む矛盾と非科学性とに対する反省から、科学の名に値する言語学を確立するためにラングとパロールとを峻別することから出発した。この区別によれば、パロールとは社会的約束として確立した記号の体系を道具として現に語っている個人の行為であり、そこにはこの記号による意味づけとしての思想の伝達ということが含まれている。だからこのパロールの受け取り方には、ロックの意味としての観念に対応した記号による思想の伝達の道具という考え方が含まれている。一方ソシュールはこのパロールとはっきり対象として明別されるラングを立て、これを個人個人においてパロールの能力の使用を確立するために、社会集団によって採択されている、必要な約定のたぐいの全体であると定義する。このパロールとラングとの区別によれば、伝統的な意味に対応した記号とその記号による意志、思想の伝達という、様々な矛盾と相対性とを持ち込ませる問題を排除できる。なぜなら言葉の問題が矛盾を含み、一義的な形、すなわち形式としての首尾一貫性を持ち得ないのは、この言葉によって指示されるもの(事物、観念、表象)が、言葉の外に在るということによって、言葉の有限性と相対性とが生じ、同時にこの言葉を介してのみ人間相互の思想の伝達が行われるという限りで、思想そのものが相対的、両義的になるからである。言葉は自体的事物、観念を予想し、自体的事物、観念は逆に言葉を前提する。この連鎖が断ち切れないために、どうしても言葉を言葉から理解することが出来なくなり、本来不合理である、根拠づけられていない前提から出発せざるを得ないことになって、形而上学的想定が入り込むというのである。そのために、自体的存在であるイデアとか創造するロゴスとか実体および第一性質、第二性質などという、本来言葉の問題に持ち込むべきでない問題が持ち込まれ、言葉の理論の科学性は失われてしまうというのである。ソシュールはこれらの問題が言葉の問題として存在することは認めた上で、パロールとラングとを区別することによってこの困難を回避しようとする。それは、一つには、ラングが言語学固有の対象であるとすることによって、今述べた様々な形而上学的、存在論的な問題を含んだパロールを、ラングに従属させることが出来るからである。
 意味を担った話される言葉を捨象して、体系的全体(国語)における相互指示、関連としての記号の機能だけを問題にするという意味で、ラングを固有の対象とすることは、意味論に対して構文論に重点を置くことを意味する。そう考えた場合に、言葉はあの「それはどういう意味か」「この言葉は何を言おうとしているのか」「意味するものと意味されるものとの一致を確証するものは何か」という果てしない意味対応の追求という不毛な議論を排除できることになる。ラングとしての言葉の研究は、約束によって確定された記号の体系であり、この小郷に対応する自体的なものを持ち込まないで記号相互の関係を確定すること、つまり音韻の体系を確定することに尽きる。ソシュールの言語学は、事実音韻論に終わっている。だからソシュールのような言語学的立場からすれば、言葉は記号の体系であるが、この記号はそれだけでは何らの意味も示さない、意味との対応から切り離された記号相互の関係と差異とを表すだけのものである。いわば言葉は言葉以外のどんな情報も与えず、言葉を通じて我々は記号のやりとりをするだけで、その際に伝えられるべき意味が全く存在しないということになる。ここに伝統的な言語論に深く染み付いていた目的論からの解放の可能性が考えられているのである。というのもこの区別に立つならば、言語は端的に与えられている、実証的な探求方法で処理できる対象であると見なすことができるからである。しかしこのような区別は、言葉を合理的に処理できる科学的対象とはするが、同時にその言葉をパロールとラングという、その起源を確定できないし、その根源としての存在の問題との関連での言葉、すなわち古典的な言葉の問題には答え得ない二つのものに分裂させてしまう。つまり言葉は全体としては問題にできない、何か謎めいたものになってしまう。しかもこの謎めいた言葉、生きて働いている言葉は、パロールにおいて現に語られ、理解され、意味を背負ったものとして存在している。パロールと峻別されたはずのラングはパロールにおいて道具として働いているのであり、すでにパロールとの関連において受け取られているのである。言葉を一義的に、つまり合理的に処理できる科学の対象とするという試みそのものが、言葉を謎として指し示す結果になっている。このように言葉の問題を合理化することそのことが、言葉の哲学的な問題性を逆に顕わに示して来るのである。ラングはパロールに突き当たって、パロールにおいて初めてパロールをパロールとして成立させる約束の強制として意識されてくる。この考え方では言葉の持つ存在論的意味には答え得ないで、むしろこの存在論的意味を根源として指し示す結果になる。そのようなものを捨てたところから出発しながら、その問題に結果として出会うからである。しかもこの区別はこのような問題に直面するから思い付かれるのである。結局は意味論すなわち目的論に突き当たらざるを得ない。ということはパロールの優位というあのルソーの考えが再び問題として迫って来ることになる。ソシュール自身にもこの問題は自覚されていた。そのことは結局のところ、言葉を道具としての記号の体系であると考えるという抜き難い発想に根差していると言うべきであろう。言葉の道具性を対象から外すことによって、純粋記号の体系としてのラングが得られるとしながら、この記号の体系は現にパロールにおいて道具性を回復し機能していることになる。道具と記号という考え方を二つに分けて、それぞれの一義性を得ようとしただけのことである。だから逆にこの両者は相互に予想し合い、それぞれを前提することにもなり、言葉本来の問題性に突き当たってしまうのである。
 このような考え方を逆の方向、つまり言葉の道具性に立脚し、この道具性の純粋性、客観性、論理性を目指しながら、結果としては同じ問題性に突き当たるのが言語分析、論理計算の考え方である。このような論理実証主義、言語分析によって、伝統的な言葉の解釈の曖昧さと不合理とを除去して、客観的な、一義的な命題を確定できるような、数学的な記号体系としての人工言語、メタ言語は、デカルト、ライプニッツ以来、強く主張されてきた。現在では現代形式論理学という枠の中で様々な立場から論じられている。ここにはラッセルの言語主義の誤謬にせよ、ウィトゲンシュタインの「意味を問うな、用法を問え」という格率にせよ、言葉が言葉を離れた形而上学的自体と対応して考えられる日常の言葉の理解からの脱却が求められている。普通には、言葉が道具であるとされるのは、自体的な事物、観念、表象があって、これをいかに正しく、歪めずに、しかも一義的に他者に伝達するかという問題が前提され、そのためには言葉はどうあるべきかが論じられる。ところが今反省されていることは、日常使用されている言葉はこの目的には不都合な曖昧さ、つまり論理的不整合を持っている。この曖昧さを除去して、数式化され、公式化されるもの、すなわち記号が、求められている道具たる本質に適合した言葉、すなわち人工言語だということである。だからこの場合にも、まずもって事実あるいは真実の認識とその知としての思想の伝達という問題があり、その手段、道具としての言葉という前提があった上で、一応この問題に答えるために手段としての言葉の一義性を確定しておこうというのである。というのも「哲学において我々は、我々の慣用語法についての理由(根拠)を明らかにしようなどとは欲しないのであるが、それはまさにいかなる理由(根拠)も我々を満足させないからである。我々が必要とし、また提供しなければならないのは、専ら我々の慣用語法の記述である。文法は自律的であって実在(現実)に指図されているのではない」と考えるからである。差し当たりは、言葉は恣意的な(事物、真実との対応を前提しない)取り決めによって確定された記号の論理的な形式としていかに決定され、関係づけられるかを決定することが目指され、命題はこの約束である論理形式による論理計算となり、個々の名辞はそれによって名指される「もの」(ウィトゲンシュタインの力説する意味と感覚との峻別もこのことを明示するためである)と切り離された記号であり、「記号は述語や命題関数に相当する項を意味するか、それともそれが論理的な取り扱い方を可能にする演算子である場合には、変項間の関係を意味するからである」。このいわゆる命題論理学で考えられている記号は、計算上の一要素にすぎないことになる。だからこそ命題を単位として考えることもでき、存在記号の導入によって述語論理学を考える場合でも、この前提は変わらないのである。
 だからここに言われる記号は、プラトンやアリストテレスが考えたような標しとしての記号ではない。しるしであるとはイデアやエイドスの符丁としての、これらを予想し、基準として作られたものである。その限りで記号の意味を持っているが、ここでの記号はこのような対応を持たない。だから記号を決定する基準は記号の外にはない。そのことによって記号の純粋性すなわち形式性が保たれるというのである。だから純粋数式に直せる計算の規則が得られるのである。いわば現に語られ使用されている日常の言葉の含む両義性または多義性に根ざす概念の曖昧さを払拭して、その多義的概念をそれぞれの記号に翻訳して、論理的に一義的な命題に直し、その記号間の関係だけを表す項となった概念のしるしの体系が求められていることになる。しかしこのような要求が出てきたのは、思想の伝達の道具であるという従来の理解に立ってのことである。言葉を道具としての記号であるとする点では少しも変わっていない。言葉は事物の本質を決定する威力ではない。そのような言葉の起源論は関心の外にあることになっている。しかし実はこのような言葉の理解があって、しかもこの理解に基づく言葉の問題性、すなわち建前通りに言葉が事柄や事物の真実を伝えないという自覚に突き当たって考えられたことである。常に既に思想伝達の道具という言語理解が前提され、肯定されているのである。このような一義的文法体系を確立しようとする努力は、常に既に正しい認識すなわち客観的認識を得るための予備的作業なのである。この道具が本来の認識の道具としての機能を十分に果たさないことに対する反省と不信とにこの考えは立っている。その限りでは、この方法は結局のところ記号の体系としての言葉と事実または真実との対応ということは、暗黙の中に先取りされ、前提されていることになる。本来伝統的な言語理解の批判と整合化とを目指しながら、結果としては言葉のパラドックスに躓いているだけだということに成る。言葉の道具性そのものに対する反省は存在しないと言わざるを得ない。何も言葉は道具ではないと言うのではない。言葉が道具であるとはどういうことかという反省がなければ言葉の問題は根本から考えられたことにはならないというのである。
 いずれにせよこれらの考え方は、従来の言語理解の限界と矛盾とを自覚して、その解決を目指しながら、結局は道具としての言葉に突き当たり、そこに立ち止まってしまうことになる。本来の意味での言葉の哲学的な問題に答え得ないと言わざるを得ない。言葉が道具であるということ、そのことに既に一定の存在了解が先取りされており、しかも同時に言葉においてこの了解が思索されているという事態こそ言葉の問題の根源であるのに、その「こと」について無自覚である。このことが弁証法的不条理を孕んでいるからといって、それに目をつぶって良いわけではない。
 この道具としての言葉という考え方そのものに根差す様々な問題とその限界とを強く批判しているのが、フッサールを基盤として言葉を問題にしているデュフレンヌやメルロ=ポンティなどの現象学的な立場の人々である。この人々において、本来の言葉の問題は哲学的な根本問題の一つになっていると言えよう。










































































月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
言語論の歴史とヘーゲル(1) ヘーゲルに学ぶ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる