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zoom RSS 言語論の歴史とヘーゲル(2)

<<   作成日時 : 2017/03/14 17:18   >>

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 デュフレンヌは言語学と論理分析との言葉の受け取り方の問題点を指摘した上で、両者が捨象した、経験において現に出会われている世界との関係をもう一度言葉の問題の中に引き入れて考えようとする。つまり言葉の問題は存在の問題、形而上学の問題なのだという所から出直そうとするのである。「経験とは世界との我々の最初の生きた関係であるが、この関係は知覚の中に生きられそして言葉の中に名づけられる。なぜなら言葉とは世界、つまり知覚と同時に存在し知覚と分離できない世界とのこの根源的な絆だからである。論理的意識を生み出す最初の意識はすでに話している意識である。これが論理語が自然語に根を置いている理由である。それはちょうど形式的思想が直観に根差すのと同じである。さて超越論的論理学であると考えられた場合の現象学は我々に勧めて、語られた言葉から語る言葉へ帰れと言う。つまり人間が語るからであると同時に世界が人間に語りかけるからこそ現に語っているその言葉に帰れというのである。しかもこのことが可能なのは、真の同盟が、生れたときからすでに、人間と世界との間に結ばれているからである」ということから出発する。
 語られた言葉として、一定の記号の体系としてのラングを前提し、このラングを媒体として存在と人間、自己と他者とが出会うという考え方が、語る言葉においてすでに出会われ、語り出している世界と、この世界において世界との出会いを語り出す人間のパロールという根源の現象としての言葉の存在論を忘却した、悪しき機能主義だというのである。語られた言葉は、この根源の凍結として、ルソーの言うような言葉の死、生命の抜け殻である、というところから出発しようとするのである。だからここでの関心は記号の体系としてのラングにあるよりも、そのような体系を生む、話すことによって人間と世界とが出会うということの現象の記述にあることになる。言葉はこの現象の表現である。表現主義とは、言葉は人間から発出したものであるということと、世界の本質を表現するのは言葉であるということとの総合である。この現象学は言葉を「科学つまり言語学の対象とはもはや考えないであろうし、科学そのものつまり論理学とさえ考えないであろうからである。我々がこれまでいろいろ考察してきた結果、我々は言葉が意味を持つということそのことと人間が言葉を使うその使い方とに注意を向けよと、つまり語っている人間と語っている言葉そのものとに注意を向けよと呼びかけられているのである」ということである。この二つのことは同じ一つのことである。根源の言葉は、在来のように、語られるもの自体、すなわち存在、自然、世界とこれに出会い、これの真実を問う人間と、その人間の思索の伝達の場、手段としての言葉という、三つの自体を前提した発想を許さないのである。これらの自体そのものが語り出る言葉そのものにおいて出会われているということが根源的なことだというのである。というのも「人間が語ることが出来るのは、世界が人間に自らを開示するからこそであるが、そのことは世界がただそこに在るものとしてではなく意味を持ったもの、すなわち語られ得るものとして自らを開示すればこそである」。この相即が生起している場が言葉だというのである。そこで人間が語るということは人間が考えるということであり、「思考を証拠立てるのは言葉であり、コギトとは語ることであり、知性とは言葉の一定の使い方であることになる」。だからまず思惟と思惟によって目指される自体的なもの(対象)とがあって、その媒介者として言葉が立てられるという考え方は、この三者の、関係を離れたそれ自体での存在を前提し、しかも同時にこの三者が一致する(同一になる)ことを要請するという本来不条理なことを前提している。たしかに思惟はその対象とのある距離を要求する。この距離は表象する(représenter)の re に表現されている。だから思惟が言葉において思惟として働いている限り、「意味するものと意味されるものとの間の必要な距離をもたらすのは言葉である。この言葉の媒介があればこそ思惟が活動できる余地が生まれるのである。しかし間もなく分かることだが、この媒介作用は分離すると同時に結合するような作用である。言葉が世界と私との間に溝を掘るとしても、言葉は同時にこの溝に橋も架ける。語が物と私との間に介入して来る。しかし語が今や意味豊かになり、意味するものとなったものの現存を修復するわけではない」。「言葉は思考を許すと同時に、自己意識を認める」。このことが我々をして言葉は道具であるという抜き難い思い込みに追い込むのである。というのも言葉は一方で私と世界との媒介そのものであり、それによって世界は私でないもの、私の名づけることの出来るものとなるし、他方で道具の機能はこの私に対して在る対象を捕まえられるようにすることにあるからである。しかも在来の言語論が躓くのは、この本来対象を対象として表すべき言葉が、不完全かつ両義的で、常に我々を欺くという信念である。だからこれまでの道具としての言語理論は、この言葉の有限性に注目して、言葉の批判によってその有効範囲を確定し、かつ言葉の道具性の純化を目指すのである。しかしこのような言葉の批判、純化は再び言葉においてしかなされ得ない。言葉の有限性は言葉において出会われ、しかもこの言葉の純化は再び言葉において試みられるより仕方がない。「言葉を批判するのに言葉に訴えることが出来るとすれば、それは、言葉がその根源から見て実は道具ではないからである」。たとえ言葉に道具性が在るということが言えるとしても、その場合の言葉の道具性は普通の道具、つまり大工道具などの道具性とは全く異質である。普通の道具とはいわばそれ自体としては死んだ物であって、自ら道具として働くのではないが、言葉は自ら自己自身のために道具として働くのである。「いずれにせよ、言葉にまで達しないものも、逆に言葉を超えたものも、言葉から出発して初めて認知できるのである」。言葉が設定される以前の間主観性の水準は前人間的水準であるとさえ言われている。だから「言葉は理性の約束(保証)である。言葉の力量は意味に客観性を与え、コミュニケーションを通じて真の共同体を実現することにあるのだが、この共同体は精神と目的との共同体である」。したがって「知性とはこのロゴス(言葉の力量)を意識していることであって道具を操作することではない。なぜなら言葉は、本来のコミュニケーションのために用いられる場合には、つまり言葉が誰かに何かをさせるためにだけ利用されるのではなく、何かを知られ理解されるように提示(示現)する場合には、もはや一つの道具ではないからである」。「お望みなら言葉は一つの道具であるとしてもよい。ただしこの道具は己自身のために考えるのである」。このようなロゴスとしての言葉は、詩人や哲人の言葉であって記号体系としての言葉ではない。「詩は根源の言葉であり、本当のものと考えられた言葉である。・・・この言葉が本当のものであるのは、この言葉がそうとしか言い表しようのない或る意味を担っているからである。つまり語っているのは世界そのものなのである。この意味で、また言語学が探し出してきて言い立てるであろういろいろな理由(根拠)とは全く関係なしに、記号は恣意的なものではないのである」。
 色々な関連から彼の道具としての言葉の批判を引用したが、要するに彼の言いたいことは、確かに記号の体系として、言語学や論理分析において対象とされる言語(ラング)が現に在り、これが道具性を備え、思考の規則として自体的な論理と形式とにおいて扱われ得るものではあるが、このような観点から捉えられた言葉は、根源的な自ら語り出る言葉ではなく、その言葉から生じた語られた言語にのみ固執する抽象であり、そのために解決不可能なアポリアに直面するのだということであり、むしろ問題はこのような思惟の道具として表れる言葉が、本来は思惟と共に存在しており、思惟と言葉とを切り離して問題にすることはできず、しかも言葉が思惟を可能にし、したがって思惟の対象を開示するのだという現象から出発するべきであるということである。そうして初めて道具としての記号の体系という通俗的な言語理解を乗り越えて、根源の言葉への理解の道が開けるということ、そしてこの改めて開かれた道において存在あるいは世界が開示されてくるということ、これらのことである。ここにはルソーの言葉の起源論を介して、プラトン以来の存在の問題と同一のレベルで論じられるべき言葉の問題が再び主題になってくる。
 メルロ=ポンティも、先に引用した論文集『シーニュ』の序の中で、同じような立場から言葉の問題を考えている。「言葉は思考の手段ないしは符号とされるとき破壊される」。それはそう考えたとき、「個々の言葉が我々の内部にどれほど深く喰い込んでいるものか、また、考えるや否や話をしたいという欲求や情念、自分に向かって話しかける必要が感じられてくるということ、また個々の言葉は様々な思考を呼び起こす力(以後取り除くことの出来ない思考の様々な拡がりを据え付ける力)を備えており、我々自身自分でも出来るとは知らなかった答えを口先に用意させ、サルトルの言うように、我々自身の思考を我々に教えるということ、これらを理解する道が閉ざされてしまう」。「思考とパロールとはお互いに相手を当て込んでいる。両者は絶えず相手と入れ替わる」。「思考は全てパロールからやってきて、パロールへと帰る。パロールは全ての思考の中に生まれ、思考の中に終わる」。「思考というものと言語というものとがあるのではない」。さらに『知覚の現象学』では、こう言っている。「事物の命名は、認識の後になってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである」。「語自体が意味を身に帯びており、それを対象に当てはめることによって私は対象を捉えたことを意識するのである」。「名前は対象の本質であって、対象の色や形と同じ資格で、対象自体に宿っているのである」。「かくして語は、対象および意味の単なる標識であるどころか、事物の中に住み込み、意味を運搬するものでなければならない。したがって言葉は、言葉を語る者にとって、すでに出来上がっている思想を翻訳するものではなく、それを完成するものである」。
 これが言葉の真実としての「言葉の中の思惟」ということである。ここに道具=記号の体系としての言葉という解釈に対する最もラディカルな反論が見られる。このような考え方が、在来の言語理解に対する最も強力で、最も一般的な反論であり、また現代の哲学的言語論に共通な出発点であると言えよう。ここではこの問題意識からメルロ=ポンティが自ら「言語の現象学」として提示している考え方を見ておくことにしよう。彼はまずフッサールの言語論が前期と後期とで変わっていることに触れ、前期にはライプニッツ流の一つの形相学および一つの普遍文法という、記号の体系としての言葉の理論を構想していたが、後期には言葉は思惟の身体である、思惟が私的な現象であることを乗り越えて、間主観的価値を獲得し、理念的存在を獲得するようになるための操作であると考えるようになったとし、その後期の思想を踏み台にして、ラングからパロールへの還帰を『知覚の現象学』における身体的志向性の一つの顕著なケースとして分析する。『知覚の現象学』においてはこう言っている。「私自身の身体を外面的空間の中で動かすためには、その両者を私の心に表象することは不必要で、両者が私にとって存在し、私の周りに拡がった或る行動領野を形成していればそれで十分であった。それと同じように、私が語を知っていてそれを発音するためには、その語を私の心に表象する必要はなく、その語の分節的および音声的本質を私の身体の可能な使用法の一つ、転調の一つとして所有すればそれで十分なのだ」。ここに彼が言葉を身体的志向性の一つの顕著なケースであるという意味が表れている。メルロ=ポンティが知覚に視点を据え、知覚の主体としての身体に手掛かりを求めるのは、身体に独自な潜在能力を付与することなのであるが、それは真の哲学とは世界を見ることを学び直すことであるという出発点から見つけ出された、この学び直しの可能性としての身体を考えているからであり、この身体性の一つの特徴的な在り方としての言葉を問題にしているのである。したがってここでの問題は、理論的主体としての認識主観とその対象としての客観とその出会い(認識)において媒介的な表れ方をする記号の体系としての言葉という、普通の受け取り方の背後にあっていわば忘れられてしまっている根源の現象としての所作的意味としての世界の由来であるような言葉である。この意味で言語の起源という問題は、切実な問題なのである。
 メルロ=ポンティの分析によれば、フッサールの前期と後期との言葉の扱い方の相違は、ソシュールのラングとパロールとの区別に対応している。それは思惟の対象としての言語と私のものとしての言葉との並置である。しかしそんなことは不可能である。というのもこうして区別した途端に、この両者を交流させるような一つの弁証法がすぐさま作動するからである。両者は同じ一つの言葉の二つの側面を抽象して、自体的対象として措定したものであるから、それぞれを対象として確定しようとすれば、直ちに一方が他方を指し示すということになるからである。どちらもそれ自体としては固定できない。そこでここではこの両者を同時に視点の中に取り入れた二重の考察が必要になる。一つは言語の生成の中に一つの意義を見出し、それを一つの動態における均衡として考えるということ。もう一つは共時態というのは通時態に対する一つの横断面でしかないのだから、そこに実現されている体系は、決して完全に顕在化したものではなく、いつも潜在的または潜伏的な変化を含んでいるものであって、透明な一つの構成的意識のまなざしのもとで完全に顕在化され得るような、絶対的に一義的な諸意味などは決して作られないということである。こう考えたとき我々は、あの言葉の動的な弁証法的働きとして、現に生きて体験されている言葉、つまり「言葉-現象」を現象として問題にすることができ、そのときパロールにおける根源としての言葉は、偶然の中での論理、方向付けられながらもそれでいて絶えず偶然事を同化していく体系、一つの意義をもつ一つの全体性への偶然事の組み入れ、受肉した論理であることになる。つまり言葉とは思惟の定着のために単なる手段だとか、あるいはまた思惟の外皮や着物ではなく、思惟が表現を求め得るのは、ただ言葉がそれ自体で一つの了解可能なテキストとなっており、言葉が自分に相応しい意味作用の力を所有しているからに他ならない。何としても語や言葉は、対象または思惟を指示する一つの仕方であることを止めて、それ自体、この思惟の感性的世界への現前とならねばならない。思惟の着物ではなくて、思惟の徴表または思惟の身体にならねばならないのである。
 このように全体性として捉えられた言葉は、もはや科学の対象となる客観的な記号の体系ではあり得ない。記号は本来弁別的なものであって、それぞれに固有の意味を担ったものではないからである。むしろ受肉した論理としての言葉における記号の働きは、諸記号を一つ一つ考察している場合にはいつも猶予状態に置かれたままでいる一つの意味に向かって、その諸記号が総体として暗示を行うからであって、その意味は、諸記号の中には決して含まれていないにも拘わらず、私はそれに向かって諸記号を超えて行くという点にある。つまり記号のそれぞれは、別々に取り上げれば曖昧で平凡なものであって、ただそれらを結び合わせることによってのみ、意味が生じるのである。話す者にとっても、聞き手にとっても、言語は出来合いの意味作用のための記号化や解読のテクニックとは全く別なものなのである。この意味作用に直接触れることなく接合して行く言語のこうした遠隔的な働き、意味作用を語に変えることも意識の沈黙を破ることも決してしないくせに決定的な仕方で意味を志向するこうした雄弁さ、これは身体的志向性の一つの顕著なケースである。ここにパロールが身体的所作と比較されて取り出されたが、これは意味するものと意味されるものとの関係について独特の視点を与える。つまり自分の周囲の諸対象に対する私の身体的志向は、暗黙のものであって、私の身体についても環境についても、いかなる主題化、いかなる表象をも想定していない。同様に、意味がパロールを生気づけるのも、あたかも世界が私の身体を生気づけるのと同じようにしてであり、つまり私の志向の前で自己を展開して見せることなしに私の志向を喚起する一種の無言の現前によってなのである。このことは次のような三つのことを意味している。a)パロールの意味はカント的な意味での理念であること。b)したがって表現というものは決して全面的なものではないということ。したがって表現の中にはいつも沈黙といったものがあること。つまり意味されるものによる意味するものの乗り越えこそ表現の根本的事実であり、この乗り越えを可能にすることこそ意味するものの力量そのものだということ。c)表現行為は自分の思想を他人に伝達するためにだけ訴えかける二次的な操作といったものではなく、そうしないでは無言のままでしか私たちに現前しないところの意味を、私たちが収得し獲得していく操作なのだということ。このような意味で、言葉はパロールとしての表現行為なのであり、そこに見られることは、思想伝達の道具としての記号ではなく、常にこの記号において意味を意識化し、同時に記号をその意味の表現の場すなわち身体性として乗り越えて行く言葉すなわちパロールの力量である。言葉とは一つの所作であり、その意味するところとは一つの世界なのである。メルロ=ポンティはこれを沈澱作用と呼んで「真理とは沈澱作用の別名であり、沈澱作用とは、それ自身、私たちの現在への一切の現在の現前のことである」と言っている。これは「真理の場は、いずれにせよ依然としてあの予料とそれと相称的な追遂行とにあるはずであって、前者を通じて既得の各パロールまたは各真理が認識の領野を開くわけだし、後者を通じて私たちは、その認識の生成またはその他者との交渉を締めくくり、それらを一つの新しい視点にまで収縮するわけである」ということである。
 このように考えられた時、道具としての記号の体系という言語理解に対する疑問、批判、ないし反論として問題にされる言語理解は以下のような基盤に立っているということになる。一つには、思惟と言葉との相即ということ、二つには、思惟と存在との相即ということ。したがって根本的には、物事が在り、世界が在り、これらを自己の対象として問う自我または意識が在り、したがって真理が存在し、この真理が問われる、というような一切の哲学上の問題の手前に、あるいはむしろこの問題と同時に、言葉が存在し、言葉の問題が語り出ているということである。パロールに重点が置かれ、言葉の経験(ハイデガーの言う意味で)が根本の問題として提起されて、言葉が言葉することとして、言葉が存在の家であると言われ、なにびとも沈黙することはない。これが我々の第一の論拠であると言われるのも、全てこの点に注目した上でのことである。我々が言葉の問題に出会い、言葉を言葉として、つまり特定の学問的研究の対象として考究しようとするその時、我々はその問題と共に、存在の問題、認識の問題、我と汝、自我と他者の問題、要するに一切の哲学の問題に出会っているのだということが、根本の問題であることに気づく。その時我々は言葉を主題にすることにおいて、これらの問題に出会うという形で、同時にこれらの問題があればこそ言葉の問題が主題として志向されていることに気づく。道具としての記号の体系という考え方は、この弁証法的な言葉の在り方の一面的固定つまり抽象であることが自覚されてくる。これは一面的抽象であるから、言葉の真実を言い当てる、つまりハイデガー流の言葉の経験ではないが、だからと言ってでたらめなのではない。そこに難しい問題があることになる。ヘーゲルは抽象的思惟の陥る弁証法を意識の経験として捉えることによって、具体的思惟に立とうとした。そしてそこに彼の言語理解が生まれているのだと思われる。以上の予備的な言葉の問題の整理を念頭に置くことによって、ヘーゲルにおける記号としての言葉の問題はどのように理解されるであろうか。

 ヘーゲルが記号としての言葉を主として論じているのは、『エンチュクロぺディー』の「精神哲学」の「主観的精神」C「心理学、精神」においてである。ただしこれらはすでに、1803/04年の『イエナ体系構想T・精神哲学』においても、『プロぺドイティク』においても、細かい相違はあるが、基本的には同一の考え方が述べられている。ここでは『エンチュクロぺディー』を中心にして他のものを適宜参照しながら考察することにする。
 さて『エンチュクロぺディー』では、ヘーゲルはこの心理学を更に二分して「理論的精神」と「実践的精神」とに分け、「理論的精神」を更に三分して、(α)直観(β)表象(γ)思惟とし、この(β)表象を更に三分して、1想起(内化) 2構想力 3記憶として叙述する際に、2構想力 3記憶という「精神の活動」に即して、記号一般および記号としての言葉を論じている。多くの論者がこの箇所を手掛かりにして、ヘーゲルにおける言葉の問題を解釈し、批判しているから、我々もまずこのテキストに従ってヘーゲルの考えを見究め、それと共に諸家の見解をも検討したいと思う。
 まず明らかにされなければならないのは、ここでヘーゲルが「心理学 精神」として考えている「ことがら」である。というのも論を展開する内に明らかになるように、ヘーゲルの言語論の理解の鍵は、言葉のこの位置づけとその概念とにあり、これらの理解の適否、深浅によってヘーゲル哲学全体の理解の適否、深浅も決まるからである。なお精神の概念はここでの記号としての言葉の理解に必要な限りでの暫定的なものである。やがて明らかになるが、このヘーゲルの言語理解は具体的な意識の経験を通して概念把握されなければならない。そしてこの意識の経験の道程を経て、初めて我々自身に「精神」と呼ばれているものが何であるかが明らかになり、ここに言葉の位置づけとして提出された問題に対する答えが得られることになる。
 ここでヘーゲルが考えていることを明らかにするためには、まずこの『エンチュクロぺディー』という書物における「心理学 精神」の位置づけと、その背景になっているこれらの語の概念を明確にしておかねばならない。この書物は前述のように、必ずしもヘーゲルの哲学の体系とは言えないのであって、当時の常識に従って(これはフランス百科全書派やP・ベールなどの諸学の集大成という考え方のことであるが)構想されているのだから、心理学の位置づけそのものが心理学の概念を「体系上の位置づけ」として示しているわけではない、という批判も予想される。しかしヘーゲル自身が「緒論」でに述べているように、「ことがらの本性上理論的関連が根底におかれねばならず」、したがって「単なる知識の集積」ではなく、「概念の必然的展開」に従って配列されているのだから、我々にとってもヘーゲルがここで何を考えているのかを知るためには、この書物での位置づけは重要な意味を持っている。
 そこで位置づけから言うと、この「精神哲学」は、「論理学」、「自然哲学」の後に置かれて、全体の完結の位置に立っている。論理学の仕事は、概念の思弁的運動としての根源分割(判断)という否定性を通して自己を実現する概念と理念との叙述である。「このように自分の即自有(即自存在)から出発して、自分の差別とその差別の止揚とを媒介として自己を自己自身と連結する概念、これが現実化された概念、すなわち自分の諸規定の被措定有を自分の向自有(対自存在)の中に含んでいる概念である。そしてこれが理念である」。そして理念が自らを被措定有として向自有としているとき、理念は直観であり、「この直観する理念が自然である」。つまり理念は一切を自己の向自有として持つ総体性であるが、この総体性を直接的理念として、自己の映現として、自己から自由に解放(外化)して、自己に対して立てるとき、それが自然と呼ばれるのである。そして今度はこの外化された自己の向自有を内化して、自己自身の概念として把握する過程が自然哲学の内容となり、その結果「自然の最後の自己外存在は止揚され、自然の中に単に自体的(即自的)に存在しているにすぎなかった概念は、今や向自的(対自的)となったのである。自然はこうしてその真理へ、すなわち概念が持っている主体性へ移行したのであり、このような主体性の客観性はそれ自体個別性の直接性が止揚されたものであり、具体的な普遍性なのであって、これはすなわち概念が措定されたということであり、このような概念は己に相応しい実在性すなわち概念を己の定在として持っている。これが精神である」。
 したがってここで精神と呼ばれるのは自然の真理として、自然の絶対的に第一のものであり、「精神の本質は形式的に自由であり、自己同一性としての概念の絶対的否定性である」。だから精神は論理学の理念であり、この理念の客観および主観が概念なのであり、この主観と客観との同一性が絶対的否定性なのである。そしてこれから展開されるのは、このように自然の真理として、自己同一を回復した概念が自己を実現する過程、つまり概念把握する過程であり、それが精神哲学の内容をなす。そしてその第一の段階が、具体的精神が自己を規定して認識する過程である。この精神の概念であるものが精神にとって生成して来るとき、つまり精神にとって自己の存在が自己のもとにあるとき、言い換えれば、精神が自由であるとき、精神は主観的精神である。主観的精神としての精神は、概念と実在との不一致に由来する有限性に立っている。このような有限性は実は精神自身が自らに対して措定する制限であるが、精神がこのような態度を取るのは、この制限を止揚することによって、精神の本質としての自由を我がものとして知るためである。
 この主観的精神の自己確信の生成の過程の最後に登場するのが、「自己の中で自己を規定する精神であり、自己に対して在る主観(体)であり、心理学の対象である」。だから心理学における精神の自己「知は・・・対象としての内容に関係するのではなく、主観的でもなければ客観的でもない実体的な総体に関係する。それゆえ精神は自己自身の存在からのみ出発し、自己自身の規定にだけ関係する」。この精神の自己規定は、対象としての意識である。つまり意識としての精神は、自我と自我の他者(意識にとっての対象)との同一性を自体的に(つまり自己意識の自己確信としてのみ)確信しているにすぎないので、精神はこの同一性を対自的に措定するのである。これでヘーゲルが心理学として精神が行う自己把握の道程をどのように位置づけていたかはほぼ明らかであろう。「心理学は精神そのものの能力あるいは普遍的な働き方、つまり直観、表象、想起等、欲望等を考察する」のである。だから経験心理学のように、これらの能力を孤立的、自体的に存立するものとして扱うのでもないし、これらの能力に対して自体的に存在している精神自体を取り扱うのでもない。そのような取り扱い方は「抽象的な悟性形而上学としての心霊術および経験的心理学であるとして退けられた」。直観、表象等の規定性において、精神が自己を自己と媒介する場として、心理学が考えられているのである。
 ところで主観的精神であるということは二つの契機を備えている。一方では自己に対する絶対的外としての自体、つまり自然と呼ばれるようなものは、自己を離れた自体ではなく、自己の存在の形式すなわち対他存在という形式にすぎないのであって、自体的に在るのはこの形式において自己と等しい実在、すなわち精神なのだということである。しかし他方この存在の形式が自己の対他存在であるということは、精神が自らを他者として意識することを意味している。つまりこの場での精神の存在形式は意識であることになる。この意識の様々な形態(直観、表象、想起、欲望等)において、自己を精神として認識しようとすること、その行程が心理学と呼ばれているのである。だから心理学の対象は自然的存在としての人間の存在様式の問題ではない。観察と実験とによって考察される対象ではないのである。というのも観察され実験されるものは、このような方法によって処理される自体として意識の外で在ると考えられているのであるが、ここではこのような対象そのものが自らの対象としての自己を定立することによって、自己を意識している否定的統一であると定義されているからである。
 心理学の概念は本来の思弁的概念の成立する場である。したがってここで問題になる精神は、主体として一切が自己自身の規定態であること、つまり一切が理性的であることを確信している。精神にとっての絶対他者は存在しない。これが出発点である。しかも精神が有限であるというのは、この一切は理性的であるという知が自らの知として前提されているためである。つまりこの知の形式が、表象(感情、直観、欲求、意志等)されている限りにおいて、知性はこの表象に代えて概念を置くのである。精神は一切が精神の自己であるという確信に立っている。しかも精神は自己を自己の外に見出す(形式において)。したがって精神は未だ自己の確信と一致していない。これから始まる精神の歩みは、この自己確信と見つけ出された自己との矛盾、つまり自己の知の形式とその内容との矛盾を、この形式自身において媒介し認識することなのであり、そのことが絶対的否定性であると言われているのである。というのも理性が知において完全に顕れていないために、この知が確信に止まっているからである。心として、意識として、自然的、自体的なものおよび対象とされていたものが、主観としての精神自身のものであるということが主張されるだけで、知になっていない直接性だというのである。この自己確信に真実としての概念把握の過程、それが心理学である。だからこの心理学においては形式としての直観、表象、想起等が考察されるのである。したがってここでの精神が生み出すもの、すなわち精神が自らの被規定態として差し当たり見出すこれらの形式は、自体的に存在するものであると共に、自由という点から精神自身のものであるという規定のもとに考察される。
 つまり精神は以上のような二重の規定を持つことによって、自体的に在るものによれば、何かを自らの中に存在するものとして見出すことであり、精神自身のものによれば、何かを精神自身のものとして措定することである。これが主観的精神の有限性としての諸形式であり、意識という形態の一般的規定である。この精神の二重の運動は、前者が理論的精神、後者が実践的精神と呼ばれて区別されているが、本来この場での精神が二重の規定態にあるために主観的精神であるとされるのだから、この二つの規定をそれぞれの独立の、自体的な在り方、すなわち常識的に精神の受動態と能動態とに分けてはならない。この二重の規定態は、どちらも形式として、精神の自己認識すなわち精神の自由、つまり絶対主体たることの実現の契機であり、自体的なものではない。だからこそ主観的精神の展開の結果生じる、自由な精神の中ではこの二重の一面性は廃棄されるのである。このような精神の形式の固定化は悟性のすることである。大切なことは、精神の自己表現としての心理学的諸規定において、精神が自己を精神として知るのだということである。諸規定は精神を離れて存在しないと同時に精神は自己の表現としてのこの諸規定を離れて自体として在るのではない。
 これは我々の研究にとっても重要なことである。というのもボダマーも指摘している通り、しばしば主張される言語理解、すなわち我と汝との対話による相互了解を成立させる場としての言葉を主張する人々は、ヘーゲルがこの箇所で「精神の所産は理論的精神においては言葉である」と言っていることを論拠にして、「ヘーゲルは言葉を理論的知性の生み出したものとしてのみ理解し、そのために言葉の持つ実践的地平を曖昧にしてしまった」と考えるからである。デアボラーフのように考えた場合には、言葉は自己意識の他者に対する存在(対他存在)という一つのものになってしまい、このものにおいて相互承認が成立するとされることになる。そうなると言葉は、精神が自らを外化するための道具、手段になって、それ自体に在る何ものかであることになってしまう。このようなヘーゲル批判は、先に現代の言語理解として述べた語る言葉に立って、ヘーゲルの言語理解がこれを否定し、平板化する立場であって、表象、観念の記号化に言葉の本質を見ているとするのであるが、この立場は一方ではヘーゲルの理論的精神の所産という言葉をそれだけ取り出して固定するという誤りを犯していると同時に、他方でこの誤りを惹き起こしくる前提が、プラトン以来の形而上学的固定であることも示している。ヘーゲルを批判することにおいて、自らの立っている前提が伝統的な言語理解に立脚していることを忘れているのである。つまりこの私としての我という自体とこの私の他者としての汝という自体と、さらにこの二つの自体の融合の場としての言葉という三つの自体が考えらえていることになる。これはヘーゲルがこの精神の在り方を受動、能動という形で考えてはならないというそのことに気が付かずに落ち込んでいることに他ならない。このデアボラーフの解釈はヘーゲルの言語論の解釈としては最も常識的であり、また非ヘーゲル的でもあるから、ここでデアボラーフの主張を中心として、その考え方の問題点を整理しておきたい。
 デアボラーフによれば、ヘーゲルは言葉を『エンチュクロぺディー』では記号機能から、『精神の現象学』では命題形式(述語づけによる陳述形式)から解釈しているが、このような言語理解に立ったために、へーゲルは「言葉の本質規定である二つの契機」を見落としたのだと言う。その二つの契機とは、一つには、言葉は陳述と同時に伝達であるという意味で、単に何か意味を持ったことを陳述する(これが述語づけによる命題形式をとる)だけでなく、同時に相手に向かって語りかけて何らかの感情を惹起することでもあり、したがって言葉においては常にその語りかけを聴き取る相手(汝)が前提されているのだということ。たとえはっきりとした形ではなくても、例えば自問自答の場合のように具体的な相手に語りかけていない場合でもそうなのだということ。もう一つは、「言葉すなわち対話はこの場合ただ単に認識の意味を媒介しているだけではなく、行為の意味をも媒介しているのである以上、一つの活動しているもの、働いているものなのだ」ということである。これは明らかにフンボルトやヘルダーの前提に立った批判であり、前述の現代的言語論との関連から考えられている。言葉は単なる記号ではないというのである。言葉を対話と言い換えて、根源的な自己表現としての実践的側面を見落として、あるいは無視して、「実践的意識のこの媒介の付託を、個的な自己性の相互承認ということで尽きているとする」ことによって、「汝問題への回路」の可能性を閉じてしまったのである。したがって「ヘーゲルは言葉をあまりにも学的命題形式に固定してしまったために、言葉に備わる意味開示の働きについて、この学的形式以外の在り方を正当に評価しなくなってしまった」のである。ヘーゲルの言語理解は、死んだ、それ自体として独立に存在する物としての記号性格に帰着するというのである。そしてここにフォイエルバッハのヘーゲル批判の正当性があるとデアボラーフは考えている。つまりヘーゲルのように考えてしまうと、この具体的に生きて他者と出会うことにおいて相互了解の中に生きるということ、一言で言えば、対話において生きているこの私が自己意識という抽象的普遍性の中に失われてしまうと考えるのである。前述で扱ったルソー以来の「表現する言葉」という立場からの批判であると言えよう。しかも問題なのは、このような表現主義の立場そのものが記号の問題を生むのだということを忘れていることである。自己が在り、他者が在り、相互の間に対話が在るというそのことを支えている問題、つまり言葉による意味の世界の開示そのものが成り立っている場についての反省が欠如しているために、このような常識的な理解で満足しているのである。
 このようなヘーゲルの言語理解の通俗的批判は以上に尽きるように思われる。このことから既に見てとれることかと思われるが、むしろこの批判は、ヘーゲルの言語理解そのものに根差すと言うよりも、ヘーゲルの「学」の考え方、つまりここでの問題に限って言えば、自己と他者との出会いということ、あるいはヘーゲルの精神の考え方の理解にあると言えよう。そのことに思い至らないために、自らも前提している言葉の記号性格が分からないのである。デアボラーフは明らかに、自体的に実在する自己と自体的に実在する汝とが、言葉という媒介を通して相互に了解し合うということが具体的現実であると確信している。ヘーゲルはこの確信が思い込みにすぎない「感覚的確信」であって、それ自体が自己の主張そのものの矛盾に突き当たって崩れることを問題にしているのである。デアボラーフの理解は精神という何かがあると考え、しかも具体的なもの、つまり我、汝等々がこの抽象的精神の中に溶かし込まれてしまうのだと考えているのである。これはむしろヘーゲルの思索そのものの無理解に根ざしている。むしろここでの事態は逆になっている。我と汝とが言葉において相互了解を得るということが具体的現実であるという確信が確信として主張されるためには、常に既に我と汝とその出会いと言葉が予想されている。言葉がまずあることが我と汝とをそれぞれに可能にし、しかも同時に両者の出会いを可能にしている。このことの成り立っている場が、ここでの主題としての「心理学 精神」なのである。このような言葉の起源の問題が、精神の自己把握の問題として考えられているのである。常に既に自己を精神として知っている主体としての意識が、自己を概念把握する形式、すなわち認識する形式として生み出すのが、言葉であると考えられているのであり、この言葉形式において、我も汝もその出会いも、有限な形式として措定されているのである。この思弁的思惟の行程を抽象して固定するからこのような批判が生まれる。これらの批判は前述のように思弁的命題について行けない計量する思惟に固執しているのである。つまりこの考え方はヘーゲルの思索そのものに根差したものとは言えないのである。それがここでの理論的精神の所産としての言葉ということに関しても現れているのだと考えるべきであろう。というのも、ここではヘーゲル自身が非難していること、つまり理論的精神と実践的精神との分離ということが非難されているのだからである。
 さてそれでは、この理論的精神の所産としての言葉はどう考えられているのか。まずはっきりさせておくべきことは、理論的精神と実践的精神という二つの精神が在るのではない、あるいは同一の精神の二つの在り方として並存しているのではないということであった。言葉が精神から生れ出たということを含めて、「精神の諸々の生産は、内容が自体的に存在するものであると共に、自由という点から精神自身のものであるという理性規定によっている。したがって精神がその始まりにおいて規定されているため、この規定性は存在するものという規定性と精神自身のものという二重の規定性である」。この二重の規定性を「精神の直接的規定として扱い、精神自身のものとして措定する」行程が理論的精神とされているのである。したがって主観的精神が自らを解放して、この規定態が知自身のものとして措定されたときには、「知は意志であり、実践的精神である」ということになる。理論的であることそのことの真実が実践的であることである。どちらも主観的精神一般の領域内にある。主観的精神は、意識と心との統一として、存在する実在態であるが、このような実在態として、精神の生み出すものは、形式的(内面から言えば観念的世界であり、内容のための普遍性という形式である)であり、この形式的所産が理論の面から見られたときに言葉だと言うのである。つまり精神が自らを精神として知るために、自らを措定して、自らの存在の形式として表出したものが(もちろんこれは精神自身に他ならないから、何ものかとして存在するのではない)、記号としての言葉であると考えられているのである。この言葉の産出は、精神が知性として展開する行程として、(α)直観、(β)表象(@想起 A構想力 B記憶)、(γ)思惟の三段階に亙って叙述されている。我々もこの工程の中からヘーゲルにおける記号としての言葉の意味を読み取らねばならない。
 先の主観的精神の規定から言って、知性はまず理論的精神として、自らが規定されていることを見出す、つまり知性は自らを直接的に存在する理性として見出すが、この知性は自らがこの直接的理性であるという知でもあるのだから、この直接性が自己自身の知であることを確信している。したがって「知性の働きは理性を見つけるという空しい形式に係る。知性の目的は自らの概念が自己に対してのものであること、すなわち自らの概念が自立的に理性であること、そうなることと一緒に、内容が知性にとって理性的になることである。この働きが認識である」。だからここでの認識すなわち理論的態度と呼ばれているのは、先の知性が規定された直接性であるという仮象を反駁すること、つまりこの直接性が知性自身の知性自身による措定として自己媒介されることが、知性の目的であり、このような目的を目指した働きが認識であるからである。この認識の行程は、最初から最後まで、知性の自己認識である。認識の対象が、意識の場合のように、認識する知性の外に在るのではない。ただ最初は知性の自己認識が即自的に理性であるものとして前提されているために、そのような直接性の中に己を見つけ出すという否定性による媒介を経ていない。この理性の媒介によってこの直接性が知性の自己知の内容として認識されるとき、最初の直接性という仮象は、自己と媒介された知として、理性的になり、知性の確信は実現されるのである。この過程全体が認識と呼ばれているのである。ここで使われる認識という言葉が誤解を生むのである。常識的には、認識するものと認識されるものとは自体的存在として前提されている。つまり主観と客観との外的関係から認識を理解しようとするのであるから、この場合にもこの前提に当てはめて理解しようとする。しかしここでは先の心理学の位置づけから言ってこれは許されない。主観と客観との分離の生じる根源が主観的精神なのだからである。しかもこの根源が主観的精神自体にとっての自己となるためには、この精神は、意識として、主観-客観-関係という認識モデル、つまり反省形式において自己を対象化しなければならない。そこに理論的精神のとる陳述命題の形式が介在してくることになる。この反省形式が認識の問題なのである。精神の自己確信が媒介された知であるということ、つまり確信の内容が、直接的信念、直観ではなく、概念としての知であるということが求められていることであるが、そのことが認識と呼ばれているのである。この悟性的反省の契機と共に言葉が記号的性格において掴まれているのである。言葉が記号なのではない。言葉の記号的性格が概念把握の成立する契機なのである。言葉というものが自体的に在るのではない。言葉は精神の生んだものであり、精神の自己の一契機である。しかし同時にこの言葉は精神の存在形式、対象形式としての存在でもある。この規定から見られたとき、言葉は精神の記号(標し)であることになる。だから認識という概念は知性そのものとして、理性の確信として示される。「知性の現実性は認識そのものである」。つまり「知性が認識を実現する、認識の概念を自覚的に措定する」というそのことが考えられており、その契機が直観、表象、想起などであるとされているのである。
 この知性の自己認識の直観による媒介は、まず精神が自己を心として、意識として感じるという単一な規定態にあることを言い表している。「精神がその感情の中に自己の表象の素材を持っているということは極めて普遍的なことである」。つまり「感情の素材はむしろ前もって精神に内在するものと考えられているのである」。普通にはこれが逆に考えられて、主観と客観とに分けられてた判断を根源的なものと考え、この客観という自体的な、外的もしくは内的な対象から感情の素材が導き出されるが、これは意識を前提した立場であって、じつは言葉の問題が、「事物が先か、言葉が先か」というあの抜き差しならぬ水掛け論になるのも、この前提からの必然の帰結である。ものがまずあって、それにレッテルを貼るように言葉が付け加わると考えれば、その言葉の付け加わる前のもの自体がどうして知られたのかという問いが立てられ、これについては答えようがない。なぜなら言葉のない所では名がないのだから、ものであるとさえ言えない。そこで考えを変えて、いやそういう具体的なもの(名のあるもの)のことを言っているのではないと主張される。つまり「生の、あるがままの素朴な世界」と直接触れることは出来ないのであって、この自体は混沌としたカオスのようなもので名が無く、それ自体「無意味な世界」であって、これに秩序を与え、区別と関係との整ったコスモスとするのが言葉であり、そういう意味で言葉が世界を生むのである、と言われる。これは中々うまく出来た話で、気を付けないと誤魔化される。しかしよく考えてみると、その言葉以前の「混沌としたカオスのようなそれ自体無意味な世界」は、それとしてどうして知られたのか、この世界と言葉の生んだ世界とが「異なる世界」であるということは、その違い(区別)が分かる以上、言葉を前提してしまっている。





























































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