ヘーゲルに学ぶ

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zoom RSS ハイデガー批判(1)

<<   作成日時 : 2017/03/31 09:01   >>

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 『存在と時間』が未完に終らざるを得なかったのは、主題に関することではなく、方法に関することだった。現存在からその存在を通じて時間性へという方向においては、現存在を手掛かりに、それを方法論的通路として、現存在の存在の意味を問い確かめることが出来た。だがその方向が根源的時間から存在一般を通じて現存在へと転回されるときには、もはや現存在は方法論的通路としてはその役目を果たし得ない。では転回された新しい方向を辿る手掛かりを与えてくれるものは何か。この点に関してハイデガー自身に明確な証言はない。強いてそれを指摘すれば、おそらく「言葉」であろう。『存在と時間』以後においては、言葉は「存在の住家」であるという思想に基づいて、存在の言葉からの言いかけに応ずることで新しい方法論的課題を果たそうとしたように思われる。
 『存在と時間』における、現存在の存在の意味としての時間性は、その具体化という問題設定に置かれ、生起をその根本性格とする歴史が、時間性の具体化であるとされた。しかもそのような歴史は、個人に関わる生起としての宿命と共同体や民族に関わる生起としての運命として捉えられた。そして、そのような生起と廻り合いの根源こそ、言うまでもなく存在に他ならないとされた。このようにして『存在と時間』以後においては、時間性は存在そのものに与え返され、存在は、個人と共同体の別なく、人間が存在者の世界において担う歴史的運命が、そこから生起し、そこから廻り合されてくる根源となった。
 『存在と時間』における共同体や民族に関わる生起としての運命ということと、『存在と時間』以後における歴史的運命の根源としての存在ということ、これら両者の間には、運命の概念の捉え方に関して、何と言っても異質なものが見出される。このような前者から後者への思考の深まりは、一体何に由来するのであろうか。ここでハイデガーのナチス体験を指摘するのは、必ずしも誤りではないであろう。
 ハイデガーは、1933年の夏学期と、1934年にかけての冬学期とを合わせて1ヶ年間、フライブルク大学総長に就任した。問題の総長就任講演『ドイツ大学の自己主張』は、1933年の5月27日に行われている。この1ヶ年の総長在職期間に、ハイデガーとナチスの関係は集中していると言ってよいであろう。ここでは、同じ1933年の3月の総選挙でナチスが第一党になり、ヒトラーの独裁権が確立したということを、とりあえず想起しておく必要がある。
 『ハイデガー拾遺』によれば、ハイデガーが次期総長に正式に決定したのは、1933年4月21日のことのようである。しかも、それから約2週間後の5月3日には、フライブルク地方のナチス機関紙『デル・アレマッネ』が、ハイデガーの正式のナチス入党をその紙上に発表している。この紙上では、ハイデガーは既に総長と呼ばれ、この「現代の思索の精神的指導者」の入党に、誇りと心からの敬意とを捧げると言っている。
 『ドイツ大学の自己主張』の中には、容易にナチズムと結びつく、少なくとも容易にナチズムに利用され得る思想と言葉が見られることも否定できない。この講演の中で、学生に対して知識奉仕と並べて、勤労奉仕と国防奉仕とを要求しているが、『ハイデガー拾遺』に照らしてみる時、総長在職期間中のハイデガーの基本的な思想として貫かれているように思われる。ハイデガーが大学の再生を図り、新しい気力を奮い立てて、ヒトラーが実現した「新帝国の力」に基づいて、ドイツの直面する全ての危機に立ち向かおうとしていたということ、ナチス革命こそドイツ的生存を完全に変革するということを疑わず、「総統自身が、また総統のみが、今日および将来のドイツ的現実であり、その法則である」と信じていたということ、したがって、ナチズムが理解しているような意味での知識と勤労の統一を、大学教育を通じて実現しようと意図していたということ、これらのことは否定され得ない。これらのことがその言葉通りであったとすれば、それは、総長の任にあった者として、当時の情勢から止むを得なかったことだと、弁明するだけでは済まされ得ないであろう。むしろそれは、一個のナチス党員として、総長就任講演の言葉を借りれば、「ドイツ民族の宿命をその歴史の刻印の内へと強いる、あの精神的委任の仮借なさ」を、自ら総長という己の双肩に担おうとしたこと、言い換えれば、ナチス党員としての「高い責任意識」から出たことであると、解さざるを得ないのである。
 以上のことで分かるように、当時のハイデガーは、ヒトラー=ナチスによってドイツの歴史的運命が将来に向けて輝かしく打開されるものと心底信じていたと言うべきであろう。この確信は『存在と時間』が達した根本思想、すなわち、運命ということを共同体もしくは民族に関わる生起として捉えるという思想と無縁ではない。いや、むしろ、『存在と時間』においては、時間性の問題、ひいては歴史ないしは歴史性の問題が、そのようなものとして運命を捉える方向に展開していればこそ、当時のハイデガーは、己自身の個人的宿命を賭すべきドイツ民族の直面する歴史的運命を、ヒトラー=ナチスの内に見出したと言って差し支えないであろう。その限り、当時のハイデガーとナチスの結びつきは、彼自身の根本思想に根差していたのである。
 しかしハイデガーの総長在職は、所定の1ヶ年も満たさず終わった。ハイデガーの哲学は『存在と時間』における運命概念との関係から言えば、挫折に関する思考であったのではなく、それ自身が挫折する思考そのものであったと言えるかもしれない。彼のナチス体験は、彼自身の根本思想に根差して、彼自身の真情から出たものであっただけに、その幻滅と痛恨は、それだけいっそう強く激しかったであろう。そうだとすれば、運命を共同体もしくは民族に関わる生起として捉えた『存在と時間』の立場は、まさしくここで、『存在と時間』以後の方向へとその思考を深めて行ったに違いない。その限りハイデガーのナチス体験は、時間性を存在そのものに与え返し、その存在を、人間が存在者の世界において担う歴史的運命の生起と廻り合いの根源として捉えるきっかけを与えたと言うべきであろう。
 そのような存在から我々に呼びかけてくる声を聴取し、その声に聴従しなければならないとハイデガーは言う。しかし我々が聴従すべき存在の声は、ハイデガーにおいては声なき声である。しかも他方、存在忘却が絶頂に達した時代において我々が再び存在へと立ち帰るためには、己の主体性を捨て我執を捨て、存在の光の内へと脱我的に立ち出て、そこで実存しなければならないとされたのである。

 ハイデガーらによって、ヘーゲルは近代哲学の総決算であると言われている。その意味でハイデガーは、基体の主観性がその核心であると言ったのであろう。だが、それだけであるならば、ヘーゲルが生起 Geschehen をたびたび指摘する必要はなかったであろうし、自己自身であろうとして自ら陥って行く自己外化、自己疎外をあれほどまでに語る必要はなかったであろう。なるほど近代的主観、能産的主観の意識が極めて強かったことは認めるにしても、同時にそれが包み込まれて行く全体(実体)の意識も強かったことを認めないわけには行かない。キリスト教が近代に到って真に現実になったという意識は極めて強く、そのことにおいて近代的自己確信は所を得ている。が同時に、これが全体の中に巻き込まれていることも認めない訳にはいかない。英雄は歴史を創るが、しかし英雄は同時に歴史によって葬られる、という意味のことを歴史哲学の中で語っているが、そのことを忘れるわけには行かない。ここに近代哲学の総決算であることにおいて、同時に近代の没落の予言が語られている。
 ハイデガーは「ヘーゲルの『経験』概念」の中で大体次のように言っている。緒論において、ヘーゲルは哲学という名称を用いないで学という名称を用いている。それは、近世哲学が一つの大陸に踏み入ったことを示している。この大陸とは、表象が自己と自己が表象したものとについて自己確信を持つことを意味する。自己意識の自己確実性(確信)をその無条件的な本質において知り、絶対的な知としてのこの知において存在することがそこに求められている。その意味で哲学は、自己確信の知の内での無条件的な知である。哲学は知そのものの中にその住家を見つけた。つまり哲学は学そのものである。これは哲学が現にある諸々の科学に範例をとって、これを理想的に実現したというような意味ではない。哲学が自己を無条件的に知る主観の自己確信であるという意味である。ライプニッツ以来、主観という形で存在は思惟に現象している。主観は客観に対する表象的関係の中に現成する。がそういう形ですでに自己に対し表象的に関係している。表象が客観を現前させるのは、表象が客観を主観的に再現させるからである。そしてこの再現において主観自身が自らを主観として現前するのである。この現前が、主観の自己意識という意味での知の基調である。それは現在の一つの本質的在り方である。以上のような意味で自己確信は自己の中で条件づけられた、即、無条件な自知としての主観の存在性である。主観の主観(体)存在即、主-客観関係が主観の基体性である。この基体性は無条件的な自知の中に在る。
 このような意味での無条件の自知は、主観の主体性として同時に絶対者の絶対性である。そして哲学はもと絶対的認識であるから、哲学が学であるというとき、それは、哲学が絶対者を意味し、絶対者をその絶対性において意志することを意味する。だから哲学が学であるというときの、この「である」は、哲学が学的であるという規定を述語として伴っているという意味ではない。そうではなくて、哲学が絶対的認識として現にあるという意味であり、哲学が絶対者の絶対性に帰属し、哲学という仕方でこの絶対性を実現するという意味である。こうして哲学は、対象に依存することの中に真理をもつために、対象に依存するようなことをもはや止める。知は対象に対する関係から自己を解放する。この解放によって表象が存立し、表象は自らの対象にだけ依存するようなことを止める。このように自己確信が対象的関係から自己を解放すること、これが解放である。この解放のためには、対象に真直ぐに向かう全ての関係において、それが行われねばならない。このような解放が完了するとき、表象の自己確信は確かさの中に、確信にとって確信の本質の自由に達するのである。こうして無条件の自己確信は自己自身を赦免するのである。絶対者の絶対性の全ての契機は再現という性格をもっている。それらの契機の中に絶対者の臨在が現成している。無条件の自己確信という意味での真理だけが絶対者なのである。以上のような意味での自己表象の絶対性のみが真理なのである。
 このようにしてハイデガーによれば、『精神の現象学』は絶対者の臨在を主観の自己確信という形で実現することである。それは基体を主観性(基体性)において叙述することであり、これが全ての対象性を脱して、自己確信に到達するとき完成するのである。この意味で近代的自己確信の哲学、つまり主観性の哲学が『現象学』の哲学ということになる。
 実体は主体であると説かれることによって、主体が実体を覆うのではなく、覆うことにおいて覆われる関係が、いつもそこに在る。そこに同時に実体が運命の意味をもつ生起であるということが忘れられてはならない。ここに言う生起とは理解できないものの意味である。言って見れば、そのつどの意識は何故とも知らずに、自らがそこに落ち込んでいることに気づくのである。今これをヘーゲル自身の説くところによって説明すれば次の通りである。
 「力と悟性、現象と超感覚的世界」の章でカント批判が行われている。これによれば、カントの問題は「物の内なるもの(物自体)と悟性を両極とし、現象を媒語とする推理である」ことになる。この内なるものは意識にとっては純粋の彼岸である。彼岸であるから、それについては知識は現存しない。つまりそれは空しいものである。そこに内容があると仮定しても、何も見えない(何もない)ような内容は空である。今この場合の議論の立て方を考えると次のようになる。反対Aをこちらに、この反対を反対とする他者Bをあちらに立てる。つまり、反対Aを一方の側に、他者Bと関係なく、全くそれ自身においてのものとして立てている。そこでこのことに立ち入って考えてみるならば、対立項Aは二つのものの中の一つのものではないことがわかる。もしそうだとすれば、Aは対立項ではないことになる。ただ在るところの何かにすぎないということになる。これに対しAが対立項であるとすれば、既にBとの関係においてあるはずである。これは、Bに対するという形でAが自己自身であるという意味である。Aが自己自身であることはBに対してなのである。このことは言い換えるとAが自己自身においてBという他者をもっていることを意味する。つまりAはBの対立項であるからBを自らにおいてもっている。AとBが対立項であることにおいて、Aは自らの中にAとBとを持ち合わせている。つまりAはAであって同時にAでないことにおいて初めてBの対立項であり得るのである。AはBの対立項であるというその限りで、対立項Bなのである。だからAを超越する他者として、Aに対して立てられるものBは、実はAなのである。
 そう考えると超感性的なものは、感性的なものAに対して立てられたものBとして、実は感性的なものであることがわかる。超感性的なものは感性的なもの、現象としての現象的なものである。彼岸は此岸なのである。超感性的世界は現象から由来したものに他ならない。超感性的世界は感性的世界から発生したものである。カント自身の言う所によれば、超感性的世界から由来して現象的世界があることになるけれども、実際はその逆である。それは現象的世界から由来したものである。その意味で超感性的世界は転倒された世界である。それゆえ、この転倒された世界は、自己自身において同時に他の世界をもっている。それは自己自身であると共に自己の反対の世界でもある。そういう意味で一つの統一においてある。それはこのような流動の世界において初めてそれである。言い換えれば流動的無限がそれの姿であることになる。全てのものは、このような絶対的動揺、自己運動においてあるわけである。その意味で、存在という或る様相において限定されているようなものは、むしろこの限定の反対である。このような無限の自己運動においてあること、つまり無限性は、この内なるものにおいて現れているのである。
 さて、悟性はこの転倒としての内なるものを区別項として立てるのであるから、それはその限りで悟性の対象である。転倒の無限は対象としては立てられているが、悟性自身がこの転倒の場に立っているわけではない。つまりそれは自覚的になっていない。悟性は転倒という運動において成り立つ無限の中にいながら、それをそれとして意識していない。そのことを意識の背後に廻って、それと知っているのは我々である。この限りで、この転倒の無限は悟性という意識にとっては概念的に把握されていないのである。転倒はこのとき自体的にそうなのであって、悟性にとり自覚的にそうなのではない。その意味でそれは悟性にとって生起である。それは、ちょうど父殺しであり、母の夫であることが、オイディプスにとって生起であるのと同じである。それは、そういう形でオイディプスに突然起こってきたのである。その自体が顕わになった時には、自分はその中に投げ出され、突然起こったかのようにそれに立ち向かわされているのである。そういうことが生起である。隠れていた実体は姿をとって現われてきたのである。
 表象的対象としての妻との生活は突如として、母との生活という形をとって現れてきたのである。表象的対象という、対立の世界、意識の世界、主観の場を通じて、それの否定として実体が自己を顕わにするとき、そこにいる意識は自らの絶対的無力を感ずるだけである。そのとき自分は何をしていいのかを知らない。今更のように自らの無知を、オイディプスほどの英邁を以てしても、どうすることもできないのである。そういう形で生起がそこにある。このことは、主観において、主観を通ってでなければ、それとして現れて来ない。主観(現象的世界)においてそれが否定されることにおいてでなければ、それとして自らを現さない。悟性は感性の由来するところとしての超感性的世界が、実は感性から由来し、感性的現象界に他ならないという転倒を、自ら知ることは出来ない。そうであると知らされるよい他はない。その時そのことについて、悟性は初めて自らの無知に気が付くのである。そういう形で、そのことは悟性にとって生起なのである。自分自身がその原因で引き起こしたことを、悟性は知っていないのである。
 それにも拘わらず、この生起は一つの過程であって結論ではない。今言ったような転倒の無限の中にいるということは、区別(現象と物自体)でありながら、区別であることが無媒介に廃棄されているような区別(無限)とも言うべきものである。ところで、今そういう区別のないものを区別することであるような自己自身というものを考えてみるならば、これは自らを意識している意識のことでなければならない。そうしたものは自己意識に他ならない。私は私を私自身から区別し、そうすることにおいて、私である。そのとき私は私を私から区別しながら、区別しないで私である。このあり方を意識として考えれば自己意識となる。そういうような私を意識として私は自己意識である。その限りで、自己意識としての私には、そのことは私に対して在ることになる。そういう形で自己意識は自らを知っている。さて、感性的世界と超感性的世界の対立の場に立っていた悟性にとっては、今述べたことは生起であった。が、自己意識の立場に立つときはそうではない。こうして悟性にとって生起であったものは自己意識にとっては、もはや生起ではない。がこのことは更に自己意識にとってもはや生起がないという意味ではない。そこにも生起はある。事実、自己意識の中の不幸な意識という章には、不変なもの(神)が個人の形態を得ること(受肉)はその場の意識にとって生起であるということが語られている。このように生起は過程のある限り、いつもそこにある。その場合の意識にとっては、既にあったものが、今更のようにそこに現れて来るのである。
 だが過程が終わるとき生起はなくなる。ハイデガーの言葉を使えば、解放が成就され、意識が自由の場に立って、対象的世界から解放された時、全ては諾において肯定され、和解が得られるからである。そこに絶対者の臨在が顕わになったのである。その意味で生起はなくなる。ということは生起は無限の中で消えて行くということである。生起は概念的把握に至らない意識にとってのことであり、意識にとって余所余所しいものが残っている限りのことであるから、そしてこの余所余所しいものがどこから来るか、それを把握し得ない限りのことであるから、精神が自分自身と和解したとき初めてなくなるものである。そのとき実体は全き意味で主体となる。ハイデガーの言うように、自己確信は所を得たことになる。これをハイデガーは絶対精神のゴルゴダという言葉で言い現わしている。そして「ここに絶対者は死ぬ。神は死んだ。けれどもこの言葉は、『神は存在しない』などということを言っているのでは断じてない」。絶対者は自らの死ということにおいて、その臨在を成就し、意識はそのことの承認を経て自らを肯定する。そこに解放が現に行われ、和解が得られたとハイデガーは考えているようである。神は死んだということが断じて神は存在しないということではないと、言っているとき、このことは何を意味しているのであろうか。それは、神は存在する、が死んだという形においてのみ現に在る、ということになるであろう。ということは、神が主観においてのみ神であるということである。つまり、神が死んだということにおいて他、現実とはなり得ないということである。そうい形でしか神は我々のものたり得ない。それ以外の形ではフレムトだという意味になろう。神自体は我々の対象とはなり得ないということであろう。
 絶対者の臨現が、主観においてしか現に在ることは出来ないなら、主-客観関係としての意識の場以外に、絶対的なものが現に在る場はないということになろう。絶対者は絶対者でなくなることにおいて初めてそれであるということになろう。このことを近代的主観に克ち取ることによって、そこに形而上学の伝統が生かされているという。そこにハイデガーのヘーゲル批判の結論がある。だがしかし、そこには尚これだけでは言い切れないものが残されているように思われる。というのは、そういう形でしか現に在り得ないというそのことが生起として我々に迫って来るではないか、と考えられるからである。そこにそう受け取るしかない運命が在るという問題が残っているように思われる。全てはその意味で諾であるが、その諾自体は否定と運命をもはや持たないものなのだろうか。どうして絶対精神はゴルゴダという王座なしには、生命なき孤独であろうと言わねばならないのだろうか。というそのこと自体は、どうして絶対精神にとって生起ではないのだろうか。絶対精神自身がそうした運命において自分を見出したことにならないのだろうか。絶対精神がそうした形を取るより他にないことが、絶対精神の自由であるとすれば、絶対精神は自由であって自由でないことにならないのであろうか。もしそうだとすれば、絶対精神もまた諸々の意識と同じになりはしないか。それが自由であるというそのことが、それの運命だということになりはしないであろうか。そういう形で近代的主観の自由の呑み込まれて行く生起がそこにあるとするならば、そのこと自体が近代的主観の没落を暗示してはいないであろうか。そうだとすれば「実存は自由であるより他あり得ない」というサルトルの命題と、結論を同じくすることにならないであろうか。
 これを今、我々にとっては、絶対精神はそうした形でしか捉えられない、という形で言ってみるとする。だが、もしそうだとすれば、絶対者は客観的対象となって表象化されてしまう。その場合には我々にとっての自体という性格が残っていて、絶対者が主観としてそこにいるのではないことになる。ここに同語反復でなく、他者となることにおいて自己に帰る、ということの重要な意味が現れてくる。否定を内に含む絶対肯定の立場が、そういう形で語られていることになる。それでもなお、どうしてそうなのかという問いが依然として残る。そうであることは何故なのかという問いを提出し、そのことを「実体は主観である」からと答えるならば、そこに近代的自己主張が全面に出てくる。だからこれは近代的主観において初めてそれとして所を得ることになる。だがそうであることによって、それは既に歴史的なものとして、そこに投げ出されていることになりはしないか。そうだとすれば、それは運命ではないのだろうか。更にそれはどうしてゴルゴダでなければならないのだろうか。このように問い詰め、問いを重ねて行くとき、それが全く循環していることがわかるのである。生起を脱し、運命を脱することにおいて、生起が在り、運命があることになる。ヘーゲルのように、絶対他者としての神の超越を認めないで、しかも他となって同語反復とならない立場を貫こうとするとき、当然結果はこのようになるより他はない。
 以上のような理論の循環的性格の契機を担っているものは、キリスト教的なものとギリシア的なものと近代的なものという三つのものである。ゴルゴダと運命と主観である。この三つのもののもつ歴史的所与性において論理は展開されている。三つのものは覆い覆われ、貫き貫かれる関係において循環している。その中でハイデガーによれば主観が優位を占めることになる。これの自知の優位がゴルゴダという歴史的所与において確認されたことになる。が、そう考えることによって逆に主観は運命に巻き込まれたということになるというのである。こうして主観の自知、自己実現、自己確信は所を得ることにおいて否定され、崩壊するのではないか。近代的主観の崩壊がそこに既に暗示されているのではないか。
 ヘーゲルにおける「実体の夜」の深さを見失わないことが大切である。そこに運命の問題がある。ハイデガーはどうして、この意味の実体を無視するような態度を取ったのであろうか。ハイデガーは緒論だけに拠っているように見えるが、「森の道」に明らかなように序文を念頭に置いていた。ヘーゲルが近代の宗教において主観の勝利をはっきり見た、と言っていることから考えて、ハイデガーの解釈に敬意を表するが、同時に実体の問題がもっと積極的に考えられるべきだった。なるほど「あらゆる実在であるという確信を真理に高め、自己自身を自らの世界として、また世界を自己自身として意識したとき、理性は精神である」と書かれてはいる。だがそれは同時に疎外に陥る。そこにも自然的意識と実在的知の弁証法があるからである。疎外とはこの二つのものへの分裂をいうものに他ならない。ということはそこに実体があることを意味する。疎外に陥ることにおいて、実体があるということが顕わになるのである。実体があるから疎外に陥るということがあり、疎外に陥ることにおいて、実体があるということが気づかされるのである。こう考えてくると、やはり『現象学』の中心問題は、主観を落し入れている「実体の深淵」にあると言わねばならない。深淵は啓かれるが、その度毎に新たな深淵に出会う。これが単純無限に陥るという理由から、和解を考えるか、ハイデガーのように考えるかすれば、確かに単純無限を脱することはできる。しかしそのためには、実体の夜を捨てねばならない。そこで、和解の達せられた絶対知が内容的には何ものでもなく、『現象学』のほとんどが疎外の場によって埋められているとすれば、ルカーチの言うように疎外としての過程に重点があることになる。だが、その疎外が実体の深淵と対決する主観のあり方だと考えるならば、実体をいう意味の深さが理解できよう。実体が深淵であったり、夜であったりするのは、結局、それをそうと引き受けるからに他ならない。が、そういうことにおいて実体があると気づかれているのである。どうしても自分に覆いをかけて来る実体から、逃れ得ないことに気づくのである。つまり生起があるのである。その意味で実体を引き受ける主観において初めて、実体は実体なのである。つまり実体は主観なのである。
 シュミッツが、和解の神観念は原体験ではなく、その根底に脅迫に対する体験があり、これへの反動が神観念であると言っているのは、意味が深いと言わねばならない。このことは論理的に言えば、主観のあるところに実体があるということ、言い換えれば、分裂のあるところに実体があるということを言ったことになろう。そしてこの分裂を元に帰そうとする努力が、神観念を生み出したことになろう(しかしこの後のことを結論するのは危険である)。シュミッツの論法で言えば、主観は実体の脅威にさらされていることを感じているのである。実体はこれを引き受ける場においてのみ現実に感じられているのである。そのことにおいて同時に実体の回復が求められているのである。だから主観の場から見るとき、疎外が全てであり、その意味で過程が重点である。が、主観がそうした状態にあることにおいて、実は、実体がそこにあるのだと考えるとき、中心は実体となって来るのである。スピノザとの対決、すなわち素朴的基礎的生命との対決から出発しているのだから、実体の問題が重要であるのは言うまでもない。がしかし、他方から考えると、実体がそのような形で問題になるのは、カント-フィヒテ的主観が、問題になっているからである。
 自然的意識と実在的知との対話ということも、実体の中に埋没している素朴的表象体験の中で、意識自らが自らに対して語りかけていることを、言っているものに他ならない。これを意識の分析論にように考えることは過ちである。実体と思い込むことにおいて、実体から外れてくるのである。意識は対象にそういう形でしか対し得ないという運命が語られていることに注意すべきである。この点で躓くのが、ハイデガーのいう伝統的形而上学なのである。このことを見落とすと、意識の分析論と考えることになってしまうのである。
 ハイデガーは、『精神の現象学』においては意識、精神が自らを経験し、現象することで、基体としての主観が、いつも思索の主体となっているという。つまりそれは「・・・についての学」ではなく、絶対的主観の主-客観関係をその基体性(主観性)において現わしているとする。この解釈に現れている所では『現象学』は近代的主観の哲学だということになる。この主観が自らを解放し、絶対性を得たときに、自らを全うする懐疑主義の対話は完成する。そこでことは終わったという宣告が下る。この宣告は、意識そのものが自らの死を死ぬ道、意識が絶対者の威力によって引き出された道の場で下される。それが絶対精神のゴルゴダであるという。
 ハイデガーは、意識の経験は自らを全うする懐疑主義であるという命題と、『現象学』は絶対精神のゴルゴダであるという命題が、この書の完結をその始まりに合流させるという。このことは、現象する限り『現象学』が懐疑の場であるということになる。だがしかし、そうなるのは、ハイデガーによれば絶対者が即自、対自的に我々のもとに臨在するからに他ならない。我々のもとに臨在するは絶対者の絶対性に属する。この「我々のもとに」がなければ、絶対者は孤独なものであり、現象するものの中で自ら現象することが出来ないであろう。この「立ち出でること」がなければ、絶対者は生命を持ち得ないだろう。「緒論」の中に出てくる「我々なしには・・・ない」においての、その「我々」が何であるかが規定されている。「我々」とは、懐疑的に存在者の存在に専ら注目して、これを本来的に思い見るものである。我々のもとにある限り、それは懐疑の場にあるより他ない。ということは、その時それが自然的意識においてあるということである。が自然的意識においてある限り、それは実在的(真の)知からの呼びかけ、話かけの中にある。つまり自然的意識は向きを変えさせられる。が自然的意識はそのことを嫌って、これでは抽象的になってしまうという。だから、向きを変えさせられるのは、そのつどの意識にとっては、知らぬ間に生起したのである。このことから解ることは、意識が意識として経験の場にある限り、実在的知と自然的意識の分裂の場にいるということに他ならない。これが、絶対者が我々のもとにあるということの、その在り方である。それ以外の形では現象することは出来ないのである。だから、自然的意識はそのつどに疎外されて、向きを変えさせられるのである。こうした分裂、疎外の場が経験の場であり、それがなくなることは「ことが終わった」ことなのである。だから和解が最後に来るとき、それは終わりを意味するのである。そのため、終わりは内容的には何ものでもないのである。こう見ると『現象学』はこの分裂、疎外においてのみ、絶対者がそこに現にあるということを叙述することである。それにおいて大切なのはその過程であるということになろう。
 このことは換言すれば、実体は主観であるということに他ならない。実体は、実体であるためには、主観にならねばならない。これは、実体であることが知の直接態と知にとっての直接態とを含むということを意味する。つまり、実体はそのような場において初めて、現象するということに他ならない。知の直接態(自然的意識)は知に対する直接態であることを知らされるとき、それを嫌う。そのとき自らが妨げられることを感じる。がこの妨げを通ることなしに、実体は何かであることは出来ない。そのことを通して実体が自己を回復することが起こるのである。そういう形で推理がそこに行われている。だが自然的意識にとっては、いつでもそのことはその背後に起こっている。それをそうと気がつくのは、気がつかされるのである。自らが想念に他ならないことを気づかされる。その意味でそれはいつでも無知であり、気が付いたときにはいつでも、遅すぎるのである。そうなったとき、それはもはやそのものではなく、別のものに移っているのである。こうしてそれは生起に出会わされる。このことが実体の死であり、実体が主観においてあることである。そしてこのことが無くなって、実体がそれ自体を回復したときは、「ことは終わって」いるのである。だから、実体(絶対者、精神)は常に既にそこにありながら、そこにないのである。このようなことの全体がすなわち真理なのである。真理は常に既にそこにあって、そこにないような全体である。こうして全ては常に否定に伴われている過程において、疎外の状態にあるのである。
 だから主観においてあるような実体、実在的知から語りかけられて、そのつど疎外に陥って行く自然的意識の過程を描くこと、これが『現象学』の仕事である。この限りで、経験的意識はいつでも実体の夜に出会わされている。運命、必然、威力、実体の脅威にさらされている。その時、自らを否定するものの威力におののいて、いきなり自らを否定して他者に飛び込むならば、そこに成り立つものは無限判断である。がこの無限判断を経て来ることによって初めて、弁証法的推理が生まれたことを知るべきである。これが、過程に終わるならば、全体は単純無限に陥ってしまう。そこで、これを真無限に回復することが、分裂、疎外における個を没落、否定から守ることになるのである。だから、その意味から言っても、実体がその中心にあるということが言えるであろう。結局、死んで生きること、自らを無にすることを通して自らであることが説かれた。そのような主体的な場が、精神の動いて現にある場である。その意味で、観想的な静的な場に止まるものではなく、行為的動的な場にいる。マタイ伝の「自己の生命を維持しようと思うものはそれを失い、私のために、自らの生命を失うものはそれを見つけるであろう」という精神がそういう形で生かされている。
 ここに、そういう形で主体的自己実現の近代思想と、運命に諦観するギリシア思想と、死して生きることを説くキリスト教とが合流している。その何れもがそれだけでは成り立たない。近代的主観の自己実現は自己疎外に陥ることによって、実体の夜に出会わざるを得ない。が、これが全てであるとき、無限の進歩主義に陥ってしまう。死ななければならない主観を回復するものが、キリスト教的なものである。がしかし、このキリスト教的なものは、絶対他者としての神との断絶の場に自己の有限を自覚する、あのキリスト教ではない。汎神論に転化し得るキリスト教である。そこにキリスト教が認められることにおいて否定される可能性のあることを、どうしても否めない。ハイデガーは神は死んだということが、神は存在しないということではないと強く主張する。同じようにハイデガーは神は死んだと説く狂人ニーチェが、神を信じない周りの人々とは、何の関りももたないことを主張している。
  
 精神は自ら理性として自覚し、自己の本質を純粋範疇として、全ての実在であると直観することとの真実として生成したのである。精神が今こうして意識にとっての真実として現存している。だから精神の一応の定義は、「即かつ対自的に存在する実在(本質)ではあるが、同時に己にとっては意識として現実的であり、自己自身を意識として表象する存在でもある」ということになる。
 この精神の定義には三つの規定が含まれている。すなわち一つには、即かつ対自的に存在する実在(本質)であるということであり、二つにはしかし、この実在は同時に意識として現に働いているということであり、したがって三つには、自己自身を表象しているということである。そしてこの即自かつ対自的であることが、現実性でもあれば、自己でもあり、また世界として現存することでもあるが、同時にこの現実性、自己、世界は、意識として現に働いており、この意識の対象として表象されているというのである。したがって第一の規定からすれば、精神とは感覚的確信と知覚と悟性と自己意識と理性とが、それぞれの前提から、それぞれの確信の根拠と目的としていた自体存在である。精神は実体として元々在った、全ての運動を起こさせた根源のものであることになる。在ったところの本質としての意識の本質であると共に意識にとっての実在である。この無自覚に当て込まれていたものが何であったのか、ということが意識自身にとって自覚的になった、つまり知の内容となったとき、即自かつ対自的な実在として掴まれたことになるというのである。それぞれの意識形態がそれ自体弁証法的運動の中で滅んで行ったのは、この実体の外に出て、この実体に対して立つことによって自己自身であろうとしたからである。そのつどの自然的意識の自己主張が、断言としての抽象(教条論)として崩壊したということは、その意味で意識自身の空回り(空虚な反省)であったことになる。しかし同時に意識のこの空回りは、ここに意識の自己として取り出された精神という実体の力によるものである。精神そのものがこの個別的意識の自己なのである。精神とは意識のあらゆる反省が、それを巡ってそれを根拠として動いていた場もしくは「ことそのもの」であることになる。
 そして対象意識が己の真実を概念把握することが精神としての自己に成ることである。意識の対象の問題ではない。意識自身が精神であった、いなむしろ精神という働きであったのである。精神はこれまでの意識のそれぞれの確信とは本質的に異なる在り方をするものであると考えられている。この意識という契機からすれば、精神はこれまでの意識の諸形態が当て込んでいた自体存在ではない。そんな自体存在などどこにも存在しないということが、精神の第二の規定である精神が意識として現に働いているということである。新たな真実が意識に対して存在しているのではない。意識の真実が真実在なのである。対象の真実は自らを対象として立てる主観性にある。これは主観としてそのまま実在であるようなものである。これが「我々である自我、自我である我々」と言われたことである。だから精神はあらゆる反省の根拠としての動かない場、すなわちこれまで考えられていたような単なる実体ではないことになる。そのような実体の無が精神という自己である。そこに現実性であり、人倫的世界である精神理解の重要性が現れている。個別的意識が自己の真実を精神として自覚したということは、一切の対象意識の形態がそれとしては現実性を持ち得ない抽象であって、この抽象性に生命を与えているものが対象性として現れる全体性、つまり自然とか存在とか世界とか歴史とかにおいて自己自身が主観としての実体であることを意味している。自体としての実体ではなく、このような実体を立てることにおいて、この実体を自己自身の措定したものとして否定して行く働きとして実在するのが精神であり、そしてこの働きの姿、形態が現実世界であるということになる。
 こう考えたとき初めて自然的意識と実在知とのあの弁証法における「意識の向き変え」の意味が理解できる。意識を操り人形のように向き変えさせる何かが在るのではない。その何かだと思われたのは、実は意識自身の本質であったのである。この本質を他者として対象化する所に、自然的意識の有限性があり、そのためにこの向き変えが思いもかけずに生じるように思えるのであるが、向き変えが生じてしまうと、この新たな在り方が、意識の本来あった自己として、自己の内に取り込まれる。向き変えは思いもかけずに生起するのだが、生起してしまえば、それが本来の自己として確信されていたことになる。だから精神とは実体と呼ばれたものの魂であり、死んだ実在ではなく、生きて働いているときに真の精神だということになる。この精神が動かない実在として対象化されたとき、これまでの意識の形態の出会う自体としての実体であるとされ、何らかの本質的、絶対的存在者として固定されてしまうのである。
 この生きて働いているということは、意識として存在することを意味しているのであるから、自らを対象として表象しているのだという第三の規定が意味を得て来る。自己を表象するということは、精神が個別的対象意識に対してのものという意味での対象ではないことを言おうとしているのであるが、しかも対象的な現実世界として個別的意識に対して在ることが精神の本質であることを意味している。したがってこの規定において我々にとって問題になるのは、自らを対象として表象しているような意識とは何かということである。意識や自己意識におけるような個別的なものとして、他のものあるいは他の意識に対して在るような意識ではないはずであるが、同時に表象しているという以上は、これらの意識と同じように、対象についての意識として、主観-客観-関係に立っているものでなければならない。個別的意識ではなく普遍的意識であるとはどういうことか?この意識に表象されているのが人倫的現実であり、現実世界であるとすれば、この普遍的意識とはどういう形態をとるのか?そんな意識がそもそも在るのであろうか?しかも問題はこれだけではない。というのもこれらの精神の規定は、契機として自体的なものではないのだから、同時にこれらであるようなものが精神だということになるからである。精神は元々在ったものとして、一切の存在者の根拠であるが、それ自体は何かとして在るもの(存在者)ではなく、これらの存在者という、意識の立てる諸々の形態を否定して行く働きとして現に働いている意識であり、その限りで一切の反省の運動そのものであるが、この働きは人倫的現実として、世界として、対象的自己として表象されることにおいて、精神であるのだということになる。そしてこれを自己と呼んだのだということになる。しかもこれらの規定はそのままでは相互に矛盾するように思える。自己という概念そのものが全ての矛盾の根底にある自己矛盾そのものである。
 一方では精神は、素朴な自体としてのこのものや力や範疇ではないにせよ、やはり実体として存在するもの(本質存在)である。精神は現に在るのである。世界が在るということが意識にとっての自体として受け止められている。もちろんこの実在は動かずに意識の向こう側に、あるいは背後に、あるいは根底に存在しているものではなく、現に働いているのだとされている。世界は意識の自己である。世界の中に生きているということが意識の本質である。あるいはむしろ意識が働いているということが世界が在るということだと言った方がよいであろう。しかしこのような働きとして存在するものが考えられているから精神は実在なのである。しかしこの実在を現に働いているということの根拠として表象すれば、これらはこのもの、力、範疇として動かない実体となり、精神の抽象であることになる。精神はこのような抽象ではなく、現に働いていることだと言う。その限りではものではなく、ものとしての存在を自己の在り方とする「ことそのもの」であって、精神などというものは存在しない。存在するものはこの精神が自らをものとして対象化した意識の形態だけであるということになる。普遍的意識としての現実世界などどこにもない。現実世界の中に生き、この現実を自己として確信すると共に、この現実が己の行為を通して実現されたものであることを主張し、確信するということが、個別的意識が自らを精神として自覚すると共に、精神的実在を実体として表象することでもある。したがって現に在るのは、個々の意識とこの意識が自己を見出して行く対象的存在者の全体だけだと言うことになる。現に在るのはそのような意識の表象だけである。これまでの個別的意識の形態との相違は、この個別的意識そのものが、自己の本質がこの個別性にはなく、普遍的意識としての精神にあると自覚しているということである。その意味で対象的な存在、つまり動かない現前存在としての実在はもはや認められていない。そのような意識形態は滅びたのである。この表象を固定したときに、これまでの諸々の意識形態が存在しているのだということである。
 このような視点から、精神について論じている思想家の見解の内、これらの契機(規定)の解釈とそれを経て得られた全体としての精神の理解において、三つの大きな立場の相違があり、そのそれぞれが、ヘーゲル解釈についての大きな流れになっているように思われる。一つには第一の契機の重視による精神とくに絶対精神の和解の威力を絶対視して、全ては精神という全体の内に溶かし込まれるとするものである。これはフォイエルバッハ-キルケゴール以来の伝統的解釈である。二つには第一の契機を第二、第三の契機の中に読み取ろうとする解釈である。そう考えたとき、全体としての精神は、一つには歴史、世界という人間の自己実現の場として内在化され、問題は近代的人間の自己主張とその有限性との自覚の問題となる。ここからハイデガーのような主観性に立つ形而上学の典型という見方も、また多くの実存的解釈も生まれてくる。三つには、この近代的自己実現の主張が自己疎外に陥ることによって、絶対他者に出会うそのことの問題が絶対精神の問題であり、したがって第二、第三の契機の重視そのものが、第一の契機すなわち絶対的実在に出会うことを説くのがヘーゲルの精神の意味であるとする解釈である。近代的自己主張の陥る運命そのものを語り出ることが精神の本質であり、精神の実体性つまり他者性(危険を恐れずに言えば神性)を重視すべきだということになる。こう考えれば、ヘーゲルは近代的主観性の問題を根本から問い詰めることによって、西洋哲学の形而上学としての運命を語っていることになる。ハイデガーの問題を形而上学の中で考えていたのだということになる。

 










































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