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タイトル 日 時
ハイデガー批判(1)
 『存在と時間』が未完に終らざるを得なかったのは、主題に関することではなく、方法に関することだった。現存在からその存在を通じて時間性へという方向においては、現存在を手掛かりに、それを方法論的通路として、現存在の存在の意味を問い確かめることが出来た。だがその方向が根源的時間から存在一般を通じて現存在へと転回されるときには、もはや現存在は方法論的通路としてはその役目を果たし得ない。では転回された新しい方向を辿る手掛かりを与えてくれるものは何か。この点に関してハイデガー自身に明確な証言はない。強いてそ... ...続きを見る

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2017/03/31 09:01
ニーチェとヘーゲル(2)
 生起を脱し、運命を脱することにおいて、生起が在り、運命がある。ヘーゲルのように、絶対他者としての神の超越を認めないで、しかも他となって同語反復とならない立場を貫こうとするとき、全くそれは循環的でしかない。その循環的性格の契機を担っているものは、キリスト教的なものとギリシア的なものと近代的なものという三つのものである。ゴルゴダと運命と主観である。この三つのものの歴史的所与において絶対精神を捉える論理は展開されている。三つのものは互に覆い覆われ、貫き貫かれる関係において循環している。しかし、近代的... ...続きを見る

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2017/03/24 16:57
ニーチェとヘーゲル(1)
 「ヘーゲルからニーチェへ」これは言うまでもなくK・レーヴィットが19世紀ドイツ精神史を描くに際して付けた書物の標題である。そしてこの際、レーヴィットは「これらの諸研究は、現代の光芒の中で忘却された挿話的出来事の画期的意義を明らかにするために、ヘーゲルの完成とニーチェの新たな始元との間の決定的な転換期を示そうとするものである」と語っている。ここに見られる、ヘーゲルがカントに始まるドイツ観念論の哲学運動を完結することで、近代形而上学を完成させたとすれば、ニーチェはヨーロッパ形而上学の伝統を否定する... ...続きを見る

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2017/03/21 14:29
言語論の歴史とヘーゲル(3)
 言葉にはならないものは、言葉において、それとして語られてしまっている。だから言葉が世界をあらしめるとか、言葉が先ずあるという言い方に惑わされてはならない。ヘーゲルの考え方も、表面的には、言葉が世界を生むのであり、初めに言葉ありき、なのであって、ユダヤ-キリスト教的な発想と深い関りがあることは言うまでもない。しかしこのように考えたときには、言葉にはならない自体というものが前提され、それが言葉において啓示として示現すると考えられれば、そのような自体を第一のものとして、真実のものとして、そこからそこ... ...続きを見る

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2017/03/19 14:07
言語論の歴史とヘーゲル(2)
 デュフレンヌは言語学と論理分析との言葉の受け取り方の問題点を指摘した上で、両者が捨象した、経験において現に出会われている世界との関係をもう一度言葉の問題の中に引き入れて考えようとする。つまり言葉の問題は存在の問題、形而上学の問題なのだという所から出直そうとするのである。「経験とは世界との我々の最初の生きた関係であるが、この関係は知覚の中に生きられそして言葉の中に名づけられる。なぜなら言葉とは世界、つまり知覚と同時に存在し知覚と分離できない世界とのこの根源的な絆だからである。論理的意識を生み出す... ...続きを見る

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2017/03/14 17:18
言語論の歴史とヘーゲル(1)
 現代の言語論には様々な立場があるが、その底流には共通の問題意識があるように思われる。それはプラトン、アリストテレス以来の、言葉は道具であり記号であるという考え方に対する反対または疑問であり、さらにこのような言葉理解の背景であり根底である形而上学的確定、思い込みへの反省である。言葉の問題が形而上学的な問いとしての存在の問題として主題的に、自覚的に扱われるのである。この言葉の道具性に目を据えて、ロックにせよ、デカルトにせよ、ライプニッツにせよ、言葉を記号の体系として論じている。その場合には、経験と... ...続きを見る

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2017/03/10 10:56
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(4)
 「さてこの学の叙述は現象する知だけを対象とするものであるから、・・・真の知へと迫る自然的意識が歩む道であると考えられる。つまり魂が自らの本性に従って予め定めておいた駅々として自らの数々の形態を遍歴して行く道であると考えられる。この道を行くのは、魂が自己自身を完全に経験して、おのれの本性の姿を知るに至ることによって、自ら純化されて精神となるためである」。このヘーゲルの説明から直ちに我々にとっての問題が生じてくる。それは意識と自然的意識と実在(真)知との関係である。常識的には、意識が自然的意識と実... ...続きを見る

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2017/03/06 15:26
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(3)
 求められた学としての哲学は、万人の悟性に理解できるものとして、絶対者を概念において現存するものとして示さねばならないとしたら、一体絶対者をどのように考えたらよいか。学はただ概念自身の生命によってのみ己を組織することを許され、したがって学的認識はむしろ対象の生命に身を捧げること、つまり対象の内的必然性を目の前に据えまた言い表すことを要求するわけだが、この要求はいかにして応えられるのか?  この問題についてヘーゲルは、「真なるものすなわち絶対者は実体であると同時に主体でもある」ということを理解し... ...続きを見る

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2017/03/04 14:02
ヘーゲルにおける精神と言葉の問題(2)
 ヘーゲルは言葉を哲学の対象そのものとして論じてはいないが、同時に哲学の核心に触れるところでは常に言葉を問題にしているということは既に述べた。ヘーゲルの言語論は彼の哲学的関心、つまり「哲学の必要」と切り離しては考えることはできない。ジモンもボダマーも、それぞれの主張に聞くべきところは多々あるとしても、結局のところ予め出来上がったヘーゲル哲学の本質を前提し、しかもそれに対する方法的反省を行っていないということが問題であった。したがって我々としては、ヘーゲル哲学がいかなる問題意識から出発し、この問題... ...続きを見る

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2017/03/01 10:12

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ヘーゲルに学ぶ 2017年3月のブログ記事/BIGLOBEウェブリブログ
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