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zoom RSS ハイデガー批判(3)

<<   作成日時 : 2017/04/06 16:47   >>

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 次にこのザインとエクシステンツ(実存) Existenz との関係について見ておかねばならない。エクシステンツとは何か。それは一言で言えば、ザインを捉えた現存在 Dasein、またはザインの形態をとった現存在などともいうことが出来る。ハイデガー自身次のように定義している。「現存在がその存在に対してあれやこれやの態度をとることができ、また常に何らかの仕方で態度をとっている当の存在そのものを我々は実存と呼ぶ」。現存在とはハイデガーにおいては言うまでもなく現実の中にいる人間の存在である。いわゆる世の中にあること(世界-内-存在)である。ザインとは上述のように、根元的統一の状態または態度そのものであった。それゆえにこの対立、分裂のないザインの状態を現存在が、その中に捉えたものがエクシステンツである。言い換えると現存在が、こういう主客未分の根元的統一態としてのザインの在り方をとった状態である。すなわちザインとエクシステンツとは同じものの別の表現だと言うことができる。
 周知のようにハイデガーは人間がこの世にある在り方に、本来的な在り方と非本来的な在り方との二つの相を分析している。非本来的な在り方とは、いわゆる「ひと」 das Man としての現存在である。これに対して本来的な在り方とは、不安をもつことの出来る現存在の在り方であり、そういう実存である。「ひと」は言うまでもなく自分が本来、不安を持つものであるにも拘わらず、それを押し隠す現存在である。世の中にある自分を支えてくれる支柱が何もなく、人間がいわゆる無の上にある存在であるにもかかわらず、マンはそのことに気づかない。またはそのことを押し隠して過ごす。マンの性格はおしゃべりに時を過ごし好奇心を充たすことと流行を追いかけまわすことの中にあるとされる。マンはそういう仕方で現実の不安を、すなわち自分自身を誤魔化して過ごす人間である。そういう点で自分を失い自分の個性を失くした所のものである。マンは中性化した、平均化された現存在である。だからマンは誰ででもあり特定の誰でもないものである。ということはマンこそ近代的人間を意味するということである。後に幾らか詳しく述べるように、マンとは主観と客観との対立、分裂した近代的人間に他ならない。近代末期における日常的な人間の姿である。最も直接的には、マンは第一次世界大戦後のヨーロッパを風靡したアメリカ的人間のタイプを表すものであるが、それはまた第二次大戦後の世界に氾濫するアメリカ的人間でもある。それはアメリカニズムの典型である。さらに言い換えると今日のマスコミ的自由主義、民主主義の人間でもある。
 これに対して本来的な実存とは、不安を知ることの出来るものであり、自分の根底、世の中の根底が無であることを知っているものである。言い換えると自分自身の死を必然的に担うところの死への存在である。したがって自分が有限性であり、時間性であるところのものである。この意味で、このザインに定位するものとしての実存は、近代的な対立、分裂の人間、近代的合理性の人間としてのマンという現存在とは真正面から対立する形態である。実存(本来的実存)は、いわばマンの克服の形態なのである。マンの世界こそ、ハイデガーが世界の夜の時代とか、世界像の時代として描く時代の人間像に他ならない。
 ここでサルトルの実存について一言しておく必要を感じる。そのことはハイデガーの実存の意味を明らかにすることにもなるからである。結論から先に言えば、サルトルの実存はハイデガー的意味における実存ではないと言わねばならない。したがってサルトルの哲学は実存哲学ではないのは勿論、ハイデガー的意味では実存主義でもないと思われる。
 サルトルの実存主義は、たしかに従来の本質とか、永遠とか言うもののみを問題にしてきた伝統的な哲学に対して現実存在を強調する。本質にしても、現象または現実存在の中にある本質でなければならない。その限り確かにそれは現実性の哲学である。その点で現象学の大きな影響を受け、現象学の系統と領域に属するものであることはサルトルの繰り返して強調する通りである(『存在と無』T.緒論を参照)。しかしその現実存在は現存在ではあっても、またハイデガーの実存(開存としての実存)ではない。だからサルトルの思想が実存主義と言われるとき、それは現存在主義という意味である。Existenz と Dasein との区別がフランス語にないためもあろうが、サルトルは二つを区別せず、二つを一つにして existence としたために誤解されて、サルトルの現存在の思想が実存主義と呼ばれることになっているのではないかと思われる。
 サルトルの実存が単なる現存在にすぎないものであり、本来的な実存ではなく、死への存在としての有限性を本来的にもつところの実存ではないことは、次のことから決定的に明らかである。その典拠は『存在と無』、Tの第一部「無の問題」である。すなわち、サルトルの無の性格から証明されるのである。サルトルは、そこで無について、諸家の説を批判している。特にヘーゲルの無とハイデガーの無とを批判する。この場合、サルトルの無の批判の眼目は、無が存在論的なものではないということである。ヘーゲルの無も、ハイデガーの無も、存在論的に見られた無だと彼は言う。これに対してサルトルの無とは判断の無であり、いわば判断における否定としての無でしかない。
 しかし、このサルトルの無の規定は、単に無だけの問題に止まらない。むしろ彼の全哲学の性格を物語るものである。その無が判断の否定でしかないと言うことは、彼の哲学が根本的に知識の立場のものだということを、この面から証明している。すなわち、サルトルの哲学が、したがってまた彼の実存が、やはりフランス的主知主義の地盤の上にあるものだということが、そこから分かるのである。同時にまたその点からして次のことも明かである。サルトルの実存主義が無神論の立場に立つものであるかに関わらず、その実存主義の性格そのものが、その無神論そのものが、フランス・カトリックの性格を抜け出ていないものだということである(サルトルにおいても、ハイデガー的な投企ということが言われる。人間は自分の在り方を自由に投企するのであり、その自由な投企に先立って何ものもないとされる。しかし無が存在論的な無ではなく単に判断における無にすぎないとすれば、自由な投企に先立って何ものもないと言うことも、原理的には言い得ないのではないか)。
 ところで、サルトルのいわゆる実存が、このような合理主義に立つということは、ハイデガー的に言えば、それが依然として表象的思惟の立場に立つことを意味する。それはやはりデカルトのコギト以来の近代主観主義の立場に立つことであり、近代的対立観に立つことである。したがって実存ということを中心の問題とするにしても、根本的にはザイエンデス(存在者)の立場に立つものと言わねばならない。それゆえにまたサルトルのいわゆる実存主義が、こういう対立観に立つ近代ニヒリズムであり、それを最も極端に代表するものであることは否定できないであろう。むしろそういう現代ニヒリズムをサルトルの実存主義が体現しているところが、ニヒリズムを根本のムードとしている現代人にアッピールするのではないか。「実存主義はヒューマニズムである」とは、彼の言葉であり、彼の著書の名前である。それに対しハイデガーは「ヒューマニズムを越えて」と主張した。だがサルトルもハイデガーを批判して次のように言う。「憎悪を前提にした哲学からは何も生まれない」。
 ところでハイデガーは後期にはエクシステンツという言葉を使わないで、専らエクーシステンツ Ek-sistenz(開存)という言葉に代えられている。彼はエクシステンツとエクーシステンツとを区別する。エクシステンツという言い方を極力避けるのである。「開存は内容的にはザインの真理への超出である。ザインの光の中に立つことである。実存はこれに反してイデーとしての単なる可能性と区別された現実性を意味する。開存とは人間が存在の真理の賜物の中にあるところのものの規定をいう」。これはサルトルの実存と区別するために呼ぶようになったと言えるかもしれない。
 ハイデガーは前期の実存以来、それはザインの学であり、基礎的存在論であった。彼は後期の開存から前の実存を見直して一般的に次のように言っている。「人間がザインの光としての現 Da を 配慮(ゾルゲ)の中に取り入れるものである点で、人間は開存するものとして現存在であることができる。しかし現存在そのものは、あくまでも投げられた現存在として存在する。すなわち現存在は贈ることによって賜れたものとしてのザインの投げの中で存在する」。
 またこの意味で、実存が『存在と時間』において脱我とか、自分を踏み越えるということによって表現されたことは、そのまま開存についても言うことが出来るだろう。脱我のその自分とははっきり言えば、近代的対立の中にある自分であろう。それは主体性の全くの否定である。しかし、その自分の外に立つことは、すなわち主体の脱却は、そういう没主体性としての主体性であり、その意味で自分に帰ることでもある。そういう意味で、それは脱我であり、また恍惚でもある。すなわち、このときの自分は現実の自分が奪われて、ただ全く統一態としてのザインの中にある自分なのである。それがすなわち実存であるが、開存では、その点が特に強調されている。また自分を踏み越えること、すなわち世の中からの超越が、そのまま世の中への超越であると言われるときにも、同じ意味を持っている。自分の外へというときの自分は非本来的な現存在としての自分であるが、そこにあるものこそ、同時にザインの中にある自分なのである。
 また後期のハイデガーは自同性の獲得とか、差異の調停とかと言う。このこともザインとか、実存または開存の真理の別の表現と見てよい。差別の中に、または近代的対立の中に、根元の同一性が出現することであり、またそこに思惟と存在との相依相属、同族性、等根元性を回復し、獲得することが、自同性の獲得だと言ってよいだろう。また根元的同一性が、その同一性自身の他者である差異または分離の状態の中に存在するものだということ、言い換えると、同一性が差異を自分の中に不即不離のものとして調停していることが、差異の調停である。更に言い換えると、差別そのものが同一性そのものの差別(区別)として、差別がそのまま同一性自身に還元されて、調停、仲裁されていることだと言い表すこともできる。
 自同性の獲得を、有と思惟との相依相属とし、パルメニデス的同一とみるのは正しい。しかしこのとき有と思惟とが、それぞれ自同性の獲得の二契機であって、二つのいずれも、それ自身は真理ではなく、自同性の獲得において弁証法的に統一されるときに、初めて真理だと見るのは正しくないであろう。ハイデガーにおいては、ザインも思惟も同じものの別名であろう。思惟も、それが表象的思惟でなく、詩人的思惟である限り、ザインを思惟という面から見たものにすぎない。だから思惟も自同性の獲得と、違ったものではない。すなわち、存在と思惟とは根元的自同性を存在と思惟という、それぞれの個有性から見たものである。これに対して自同性の獲得は、差別の中の自同性の獲得であり、差別の中への自同性の出現である。
 したがって、また自同性の獲得を仏教の無に基づく実践によって否定的に把握される弁証法的事態と見る解釈は無理である。今言うように、自同性の獲得は根元的同一性そのものの獲得または出現として、同一性それ自身は、むしろ弁証法的世界を越えたところに初めてあり得るものである。
 ハイデガー自身、周知のように、前期の思想と後期の思想とに根本的な変化はなく、後期のそれは、すでに前期の『存在と時間』の中に予定されてあったものの遂行にすぎないことを言っている。同時にまた、存在そのものを見る立場の転向 Kehre であることをも自認している。確かに『存在と時間』には第二部の構成も予告されており、第一部の現行の部分(1.現存在の準備的基礎分析、2.現存在と時間)に続いて、「3.時間と存在」が予定されているのである。また、今見たように実存と開存も異なったものではない。実際、開存はサルトルの実存と区別するためにとられた応急手段だったとも見られる。しかし同時に、開存はまた実存の遂行という意味をももつ。その点では、また異なった意味を含んできているとも言えよう。もちろん共に現存在のザインに対する在り方であり、いわば現存在のとるザインの形態ではある。けれども開存とはザインの光の中に端的に立つことだと言われている。実存ももちろん結局はそれであることは否定できない。ただ実存の場合には、それがあくまでも現存在であることが強調されている。それゆえにザインは、そこでは実存にとっては、差し当たっては、あくまでも無(二ヒツ)として現れる他ない。少なくとも現存在を襲うことによって、現存在の日常性を否定し、転倒する無を通してザインがザインとして現成する。これに対して開存においては、ザインそのものが端的に開示される。そこではザインは無として現れるのではなく、ザインはそのままザインである。そしてザインの中に端的に立った形態が開存である。いわば実存の中には、それがザインの把握に到る過程が表現されているのに対して、開存においては、結果の真理が端的に物語られる。この意味では開存はやはり実存を前提するものと言わねばならない。
 実存はあくまでも、まず有限的な現存在としての実存の立場に踏み止まる。これは現実的な人間の姿である。しかしそこに有限者を襲う無を通して、根元的統一態としてのザインを掴む。だがその場合にはザインはもはや無そのものではない。無は対立の立場から、あるいは現存在そのものの立場から見られたものだからである。これに対して、そこでは既に無はいわば総合、統一の立場から見られているのである。そこでは無は無そのものではない。そこにはもはや無はなく、あるものはザインだけである。そしてこのとき、そこにあるものは開存である。だからこの点から言っても開存は実存と異なるものと見なければならない。開存は、こういう実存の過程を全て止揚して含んでいると言ってよい。そうして、ただザインの光の中に立つ面からのみ表現されている。その意味で、それは開存である。
 ザインの根本的な性格は以上で一応明らかに出来たはずである。ところでハイデガーは進んでザインと歴史との関係を説く。彼によれば存在そのものが歴史なのである。
 彼はアナクシマンドロスの断片を西洋の思惟の最も古い箴言として挙げ、そこにザインの原始的、根源的形態が語られているとして立ち入って論じている。またパルメニデスやヘラクレイトスを賛美している。ハイデガーは原始ギリシアにザインの典型を見出し、それ以後のヨーロッパ、とくに近代ヨーロッパ的な存在の歪曲に対置する。
 ハイデガーによれば、ザインの原型は原始ギリシアのフュシス physis である。フュシスは精神またはロゴスと対立する自然 Natur ではない。フュシスを自然と訳したのはローマ以後である。それが自然となるときには、すでに精神Geist と対立的に見られている。そうではなくて、原始のフュシスは精神と自然との分裂のない根元の統一態そのものである。その意味で、フュシスは原自然 Urnatur である。しかし、それは単に超時間的なもの、永遠なものではない。それは「諸々の時間よりも以前のもの」であり「最も古い時間」である。原自然として、それ自身いわばクロノスであり、「時間的なもの」そのものなのである。それはニーチェのいうディオニュソス的自然の世界だと言うことも出来よう。ハイデガー自身は自分のフュシスをディオニュソス的自然と見ることを好まないようである(それはディオニュソス的自然が原始の自然として、それ自身には、まだ精神またはロゴスとの対立はないにしても、一方では、それは東洋的自然として、ヨーロッパ的原理である精神またはロゴスとの対立を含んでいると見られるからである。それゆえにハイデガーは、むしろディオニュソス的自然よりも後期の原始自然(フュシス)に範をとり、ひたすらアナクシマンドロス、パルメニデス、ヘラクレイトスに定位する。そこでは、自然と精神とはフュシスとして、全く統一していると見られるからである)。つまりハイデガーによれば、このような根本的統一態としてのザインにおいては、存在の歪曲はなく、ここでは「窮乏の時代」(合理性に基づく対立観によるザインの歪曲の時代)は救われる。
 そこで次にハイデガーはザインそのものの歴史を語る。ということは換言すればザインそのものが歴史だということになる。「ザインの底知れぬ、しかもなお閉ざされたままの本質が・・・無を、我々に送り来る」という。そうして、歴史は「存在の賜物である」と言われる。また、「存在の忘却」と言い、そこから「故郷の喪失」が生じ、世界の夜の時代、世界像の時代が生ずるという。ハイデガーは一般にザインの歴史をザインの自己忘却の結果としている。また彼は「存在のエポへ Epoche(停止、時代)」ということを言う。すなわち存在はそれ自身エポへであり、エポへを持つというのである。「存在が自分の本質の真理を光らせつつ自分の許に引きこもることを、我々は存在のエポへと呼ぶことができる」。そうして、その意味を次のように説明している。「存在のエポへということから、存在の Geschick(歴史、賜物、運命)のエポへ的本質が由来する。本来の世界史は、この存在のゲシックの中にある。存在が彼の運命において自分の許に引きこもるその都度に突如として、また思いがけずに世界が生起 geschehen する。世界歴史のそれぞれのエポックは迷誤のエポックである。また「形而上学は存在そのものの歴史のエポへである」とも言っている。
 それでは、このザインの自己忘却はなぜ起こるであろうか。またなぜ存在は自分の許に引きこもるのであろうか。ザインがそれ自身、根源的統一態であるのに、なぜザインは存在忘却をするのか。ハイデガーによれば、それは本来ザイン自身が自分自身を「隠蔽する」ものであり、「神々が姿を隠したこと」のためだと言う。ハイデガーはヘラクレイトスのザインを解釈して、「ザインは、それ自身、自分を隠すことを好む」と言っている。またハイデガーはザインの性格を規定して隠しつつ守ることだとも、言っている。
 ハイデガーにはこれ以上立ち入った答えはないようである。しかし存在忘却が起こるのはザインが本来自分自身を隠蔽するからだと言うとき、我々はまた更に、それではなぜにザインは自分自身を隠蔽するのかと聞かなくてはならないであろう。ハイデガーの答えは答えになっていないようにも思われる。
 けれどもハイデガーの答えは答えになっていないようで実は明解な回答を与えているとも言えるようである。、ザインは対立、分裂以前の根元的統一態であった。ということはザインが統一態として、分裂の契機を、それ自身含んでいるということである。したがってザインそれ自身が統一であって、分裂である。統一はそのまま分裂である。それゆえに統一であるザインは分裂とならざるを得ない。事実、原始ギリシアのフュシスは、やがて現実的にロゴスと対立することになり、自然と精神との対立となる。ここに歴史が始まるのである。というよりも、存在そのものが、それ自身歴史であり、歴史のエポックなのである。世界の歴史は存在の歴史として、それ自身、迷誤の歴史、迷誤のエポックに他ならない。ハイデガーは、このザインの根本的性格を根元的に把握していて、それをただ象徴的に語っているのではあるまいか。
 次にザインが以上のような根元的統一態である以上我々もまたこれを「聖なるもの」と呼ぶことが出来るであろう。実際それは「宗教的なもの」であると言わねばならない。もっともそれをすぐに神と言ってよいかどうかは問題である。ハイデガー自身は、自分の哲学が無神論ではないことを言っているが、また有神論でもないと言っている。それかと言って無関心的態度でもないことを言っている。ザインの立場が有神論ではないことは勿論である。有神論だとすればキリスト教に定位することになるからである。キリスト教は彼によればギリシア精神を継承するものとして対立観に立つものであり、彼はニーチェと共に、キリスト教はプラトニズムの大衆版だと見ている。その点からいえば、むしろ無神論である。しかし無神論は一方から言えば、それ自身対立観に立つものであり、ニヒリズムである。ところが根源的統一観に立つザインの哲学は本来ニヒリズムの超克でなければならない。だからザインの哲学は無神論であることもできない。同時にまたそれは無関心的態度でもあり得ない。無関心的態度そのものがまだ対立観を出ていないからである。こうしてそれはこれらの三つの何れでもないが、ザインが根元的統一態として聖なるものである限り、一種の宗教的なものであることは否定できない。だがザインを直ちに聖なるものそのものと見てよいかは問題である。ハイデガー自身は、ザインから更に聖なるものに達し、聖なるものから更に神にまで達するというような言い方をしている。その点から見るとザインと聖なるものと神とは違ったものとされる。そこにはキリスト教の三位一体のようなものが考えられているようでもある。そうだとすると三位一体の中におけるザインの位置と性格は明らかであろう。原型としてキリスト像が考えられているのではないか。それも神的性格を取り去ったキリスト像である。しかしその神にしてもハイデガーの場合、それがキリスト教的な神でないことは言うまでもないであろう。
 そこでこういうザインについてハイデガーは色々の表現を用いる。「存在の真理」だとか、「存在の光」とかとして、存在そのものの姿を描く。また「存在の賜物」とか、「存在の投げ」とか、「存在の声」とか、「存在の開け」とか、とも言う。存在そのものが歴史であることを意味づけるための言葉である。また「存在の畏敬」とか、「存在の癒し」とか、「存在の家」とか、「存在の牧人」などと言うこともある。歴史の存在に対する関係を表す言葉と見ることが出来るであろう。例えば、世界の夜の中にある人間は、存在の「癒しなきもの」 das Heil-lose であるが、存在そのものは「癒し (das Heil)をもたらすもの」、すなわち「聖なるもの」 das heilige だとして、歴史と存在とが語源的にも関係づけられている。「存在の家」とは存在の言葉を意味する。すなわちそれは存在そのものが自分を表現していることである。したがってこの存在の表現に参与することの出来るものは、表象的思惟ではなくて、ただ詩人的思惟だけである。その意味で存在そのものと現存在との関係が在来の哲学とは違った形でつけられている。
 最後に、いわゆる予言者としてのハイデガーについて一言しておかねばならない。ハイデガーは『森の道』の中の「アナクシマンドロスの箴言」の節の始めに、ヨーロッパの歴史を描き、それが夕の国として世界の夜の時代にあることを言い、新しい夜明けの時代、全く別の世紀の夜明けを予言している。また彼は存在の終末観を語る。存在の終末観とは、存在の歴史の始めをなす存在が、存在の歴史の終末に現れるということである。存在が自らを隠蔽するものであり、そこから迷誤の歴史としての世界歴史が始まっていた以上、いつかは存在が自らを露出し、いつかその本来の姿を現して、存在のもう一つの別の歴史が訪れるという考えである。すなわち歴史の発端であったものが歴史の終末に現れて、隠蔽されてきた存在の歴史に決別を告げるというのである。このことは存在そのものが歴史的なものとして、それ自らにおいて終末論であることである。この意味でハイデガーは終末論の上に立って、現在の世界の夜が終末に達したとき、そこにあらためて存在の光が射し出て、彼のいわゆる聖なるものの白日が明け行くことになるというのである。その点で、終末論的存在史を描くハイデガーは、同時に存在史の未来を告げる予言者であるとも言われる。
 
 ハイデガーにおけるザイン(存在)とニヒツ(無)とエクシステンツ(実存)またはエクーシステンツ(開存)との関係は、これをニーチェの哲学で言えば、力への意志と永劫回帰と超人との関係だと言ってよいだろう。ハイデガーは周知のように、『森の道』の中でニーチェを取り上げ、「ニーチェの『神は死んだ』という言葉」と題して立ち入った考察をしている。ハイデガーはニーチェの哲学をプラトンに始まるヨーロッパの形而上学の最後のものとし、自分のザインの哲学を、その後に来る新しい哲学として置いている。
 ハイデガーはニーチェの哲学を見るとき、二つの点を区別する。ハイデガーによるとニーチェは専ら価値の観点、すなわち生の観点から考える。価値の観点からのみ考えるから、自分の立場をニヒリズムの克服と見ることができた。しかしニーチェは存在の立場を捉えていない。存在の立場から見ればニーチェの力への意志の哲学、すなわち新しい価値の定立の主張は、まだ一つの転換された形而上学にすぎない。それは近代的な主体性の立場の徹底であって、ハイデガーの言うような本来的な存在を捉え得ないニヒリズムである。ニーチェのニヒリズムの克服は、むしろニヒリズムの完成でしかない。繰り返して言うように、形而上学とはハイデガーによれば表象としての思惟(合理的思惟)に基づき、そのためにザイン(存在)そのものを捉えるのではなく、ザイエンデス(存在者)を基体として捉え、存在の存在者との存在論的差別を忘却したところから生じたものである。あるいは存在者の全体を存在そのものと考えるところから生ずるものである。存在者を基体として立てるために、そういう存在者に対しては当然に主体の対立が生じる。そこには対立観、分裂観は必至である。すなわち、こういう対立の根拠である形而上学的実体(存在者)を原理として立てるものをハイデガーは一般的に形而上学と呼ぶ。
 ハイデガーによれば、力への意志はデカルトのコギト以来の近世的主体性に基づく、それの最も尖端的な形態である。既述のように、元々存在者の存在を意味する subjectum という語はギリシア語の hypokeimenon のラテン訳であって、sub(下に)+jectum(投げおかれたもの)であり、すなわち基体であった。ところが近世になると、人間が全ての存在者の subjectum となるから、基体は主体(Subjektität)となり、さらに主観(Subjektivität)となる。「存在者(subjectum)は自分を、しかも ergo cogito という形で、それ自身に、現在化<呈示>する。この自己現在化、すなわちこの表象は存在者の subjectum としての存在である。…主体の主観性は・・・co-gitatio(cogitatio)であり、con-scientia であり、das Ge-wissen であり、conscience である。ところが、co-gitatio は、それ自身においてすでに意志することである。主体に主体性とともに、それの本質として意志が現れ出てくる。近世的形而上学は主体性の形而上学として存在者の存在を意志の意味において思惟する者ものである」。こうして主体または主観が中心となり、それが基体にとって代わるとともに、客観の面も主観に対する対象となる。今や客観主義も主観主義の他面にすぎない。ハイデガーはこのようにして主観が世界の中心となり、基体となるとともに、世界の原型(根元的統一態)の失われ、世界が像になったところの世界像の時代になり、世界の夜の時代になったことを言っている。
 このように人間が全ての存在するものの主体となり、主観となり、しかも意志となったが、意志は意志として元々自分を越えて意志するものである。だがこれを他面から言えば、意志することは、より強くなろうとする意志である。しかしより強くということは、より多くの力ということを意味する。この意味で力への意志ということは元来、意志への意志ということと同じだとハイデガーは言う。しかも意志への意志としての力への意志は命令するものであり、支配しようとするものであるから、それは意志として人間があらゆる存在するものから自分を引き離し、全てのものを支配しようとして立ち上がったことを意味する。それは大地の支配であり、その最も具象化された形態が超人である。この意味でハイデガーは力への意志というニーチェの哲学を近世的主観性の形而上学の最尖端と見、従来の形而上学の最後の段階と規定しているのである。
 たしかに意志への意志が意志という主体的なものとして、それが一応、近代的主体性であることは認められる。そこに一方から言えば、むしろニーチェの鋭い現実感があり、また歴史感覚があるのではないか。このような近代的原理としての力への意志を、どこまでも元にすることは、近代の実体をそれ自体として捉えることである。それは、ニーチェの優れた近代感覚なのである。しかしそれよりも問題はむしろ次の点にある。ニーチェにあっては、その意志への意志は、力への意志がただ意志のみとなる時点で現れるものと言ってよい。まさにその点で、そこではもはや意志の意味をもたなくなるということである。それはただ全くの意志への意志として、却って意志そのものの否定を意味しているということである。この意味でそれが全く現実的なもの、歴史的なものであるというその故に、却って歴史を超えるものとなるのである。次にまた、これを他面から言えば、意志を原理としたことが既に従来のヨーロッパの原理であり、殊に近世の原理である意識の原理(合理性、知性)に対する対決を意味するのではないか、ということである。というのは、そのことは精神の原理に対するその自然性を意味するということである。それはショーペンハウエルに定位するニーチェの根本性格といってよい。その意味で、意志への意志はハイデガーの言うように、単なる近世的主観性を意味するというよりは、むしろそれ自身、近世的主観性に対する対決と超克を表すと見ることができるのである。要するに意志への意志という表現こそ、ニーチェの哲学の一つの根本性格をなしていると言うことが出来るのではあるまいか。
 ニーチェにとっての最大の問題は、超人がどうして生まれ得るかという点にあると言ってよい。力への意志がいかにして超人という形態を取り得るかということである。しかしこのためには永劫回帰がいかなるものであるか、ということが根本的に把握されることが必要である。あるいは、それは超人が永劫回帰をいかに始末し、いかなる形で自分の中に取り入れるかという問題だと言ってもよい。これを一層、端的に言えば、ニーチェは「ニヒリズムの徹底がニヒリズムの超克だ」と言うが、それはどういうことを意味するか、またそれはどうして可能であるかということである。ニヒリズムの徹底は、それ自身ニヒリズムであって、ニヒリズム超克ではないのではないか。この問題こそ、ニーチェの哲学の急所であろう。
 要点だけを前もって言っておくとすれば、この三要石は、二つの面に要約せられると思う。一つは力への意志→超人の面である。もう一つは永劫回帰の面である。前の面は、いわば主体的な途である。人間の本質としての力への意志が歴史、文化の世界において展開する、いわば力そのものの過程である。すなわち、それは受動的ニヒリズムの形態、能動的ニヒリズムの形態(神の殺害者、最も醜い人間)を経て、超人(自己の完全な超克者)となる。これに対して永劫回帰は、能動的ニヒリズムの、したがって超人の内容をなすものである。その裏側だといってもよい。永劫回帰の解釈には、いろいろの議論があるが、一言でいえば、次のように言ってよいかと思う。それは人間存在、生存の無意味というショーペンハウエル傾倒時代以来のニーチェの根本感情、根本思想の集約的表現だということである。その意味で、両面は究極的には一つのものであり、一つのものの両面である。
 ニーチェは近代ヨーロッパのニヒリズムの正体を暴き出す。この場合まず、いわゆる弱者のペシミズムと強者のペシミズム、受動的ニヒリズムと能動的ニヒリズムが区別される。このことは『ツァラトゥストラ』のラクダとライオンと子供の比喩によっても描かれる。ラクダが古い世界の忍従的精神(受動的ニヒリズム)を、ライオンは能動的ニヒリズムを、そして子供はニヒリズムの超克を意味する。ここの最大の問題点は次の点にある。すなわち能動的ニヒリズムがどうしてニヒリズムの超克になり得るか、またライオンはどうして子供になり得るか。あるいは子供の性格がいかなるものであるか。
 ところでニヒリズムになり切ることこそ、世の中が全くニヒリズムであることを徹底的に開示することである。それは人間存在の真理の開示である。ライオンの能動的ニヒリズムは、ラクダの忍従的精神がニヒリズムの現実を諾々として甘受するのに対して、このニヒリズムを打ち壊し引き裂く。しかもニヒリズムの威力はライオンよりもさらに強大である。ライオンの暴力をもってしても、それは如何ともすることが出来ない。そこでライオンの能動的ニヒリズムが、さらに能動的ニヒリズムを突き進めることによって、徹底的にニヒリズムそのものとなり切る。しかしこのときニヒリズムになり切るとはどういうことか。それはまたどうして可能かが問題である。だが、それは既述のように、力への意志の展開において、それが無への意志そのものだけとなり、すなわち意志への意志がただあるだけだと言うことである。そうすると、そこにはもはやニヒリズムと張り合い、対立するものがないから、もはやニヒリズムもない。そこにあるものはニヒリズムだけだから、それはもはやニヒリズムではないと言ってもよい。この意味で、徹底的にニヒリズムになり切ることはライオンのニヒリズムが自分自身を引き裂くことである。すなわちニヒリズムの徹底はそのままニヒリズムの超克であり、能動的ニヒリズムはそのままそれの超克である。これが前の比喩によれば子供であり、そこにはただ子供の戯れがあるにすぎない。
 だからそこにはニヒリズムは無くなってはいない。それどころか、そこにあるものこそ、まさにニヒリズムなのである。そしてこれこそニーチェにとって生存の真理でなければならない。それゆえにハイデガーがニーチェのニヒリズムの超克について、それこそニヒリズムだと見、ニーチェの「いわゆるニヒリズムの超克こそ、むしろニヒリズムの完成だ」というのは、当然であるとともに、また問題である。ニーチェにおいては、近代的主体性の徹底こそ、はじめて近代的主体性の中におけるそれの否定ではないか。しかもそこにニーチェ的な特異の存在が掴まれているのである。価値の観点から問題を押し進め、近代的主体性に基づいて進むとき、そこに初めて根本的な存在の立場が打ち出されるのではなかろうか。
 ニーチェにとっては、近代的主体性のどうにも始末し得ないものとして重くのしかかっているニヒリズムこそ本当は運命そのものであり、それはすなわち永劫回帰である。それは最も恐ろしいニヒリズムの形態である。しかし力への意志が全く意志への意志となることは、すなわち永劫回帰、運命とまともに相対し、いわばそれに成り切ることである。言い換えると、このことは運命を人間存在に不可避なものとして、それを回避しないばかりか、むしろそれを愛することである。すなわち運命の愛である。そしてこのとき、この主体的な意志への意志は超人に他ならない。つまり超人とは運命との対決ではなく、それと合一した状態の人間だと言ってよい。ここでは永劫回帰と超人とは同じ一つのものの両面である。永劫回帰は内容であり、人間存在の無という真理の象徴であり、超人はその主体的な面である。
 ニーチェは自然と精神の根元的統一態をディオニュソス的自然と見る。精神と自然の対立の超克は、ニーチェにあっては、むしろ単に自然である。こういう原始自然こそ、精神と自然との対立の主体を全く否定された絶対の統一体だからである。しかし一方からいえば、これが単に自然である限り、ハイデガーから言えば、そこに却って対立の一方としての自然という側面が残るように見えるのではないか。同時に他面から言えば、逆に自然が単に自然であって、その中に精神の契機を全く含まないところが、ハイデガーからいて不十分な点と見えるのではないか。それは単に東洋的なものに見え、そこには西洋的な要素は一切欠けているように見えるかもしれない。
 次にニーチェ自身の根本的な点についてみると、ここにさらに次の問題がある。それは今言う永劫回帰と一つのものとまでになった超人の性格が、まだ運命の愛と呼ばれることは、そこになお愛する主体が残っているのではないか、ということである。そのことは、ただ比喩だというよりも以上の意味をもつのではないか。言い換えると、意志への意志は、そういうものとしてまだ単に意志であり、それゆえに主体的なものではないのか。そうだとすれば、そこではまだニヒリズムの徹底がニヒリズムの超克だというところまで行っていないのではないかが問題になり得る。けれども、これはむしろヨーロッパ思想そのものの性格であって、このソクラテス以来のヨーロッパ的合理性の立場を超えて、ディオニュソス的肯定の立場に立ち、ヨーロッパ的性格を超えるかのように見えるニーチェにしても、なお超え得なかった、その限界ではないかと思われる。それは精神を原理とするヨーロッパ的存在性格を抜け出たところに新しい宗教の立場を打ち出し、新しい文化を打ち立てようとしたニーチェにも付きまとうギリシア的、キリスト教的性格ではないであろうか。しかしこの点からみれば、今も言うように、ニーチェよりさらに一歩手前にあるとみられるハイデガーについては、なおさら同一の批判をなすことが出来るであろう。
 
 『ヒューマニズム論』の中で、ハイデガーが次のように言っている箇所がある。「だが、いわゆる私的実存は、それもすでに本質的な、すなわち自由な人間ではない。それも単に大衆的なものの否認を頑固に主張するだけである。それは、あくまでも大衆からの離反であろうとし、大衆からの単なる隠退であるにすぎない。しかし、その私的実存こそ自分の意志に反して、それが大衆性への隷属であることを立証している」。この私的実存というのがサルトルに当っていることは、前後の議論からみて明らかである。私的実存がマンでしかないことが辛辣に皮肉られている。しかし同時に、私的実存というのがキリスト教的実存をも暗示しているところがあるように思われる。そこでは単に大衆としてのマンよりも以上のものが意味せられているように見えるからである。近代的対立観を克服しようとして、キリスト教に基づいて根元的統一観を回復しようとすることそのことが、反面から言えば、まだ近代的対立観と対決するものとして、やはりまだ対立観を越えることの出来ないことを意味するとも見られるのである。もっともそのことも結局は、根元的統一態の原理そのものの性格によることはもちろんである。ハイデガーから言えば、問題は存在者としての神に基づくか、存在そのものに基づくかにある。
 これに対してハイデガー自身は、この近代的ヒューマニズムを克服しようとしたのである。カントに代表される個人の人格の完成を目指す古典的ヒューマニズムはもちろん、英米系自由主義的ヒューマニズムの超克が彼の問題であった。それのみならずマルクス主義も近代主義と見るのである。それが彼の実存哲学の提唱であり、また実存的ヒューマニズムの主張となった。ハイデガーの実存的ヒューマニズムとは徹底した個人主義ではあるが決して人格主義ではなく、英米系自由主義に対決するものとして社会の面を契機として含んでいるものである。ところが、この場合、我々は彼がナチズムと結びついたことについて考えて見なければならない。そのとき、彼の哲学の意味が具体的に照らし出されるからである。
 ナチズムやファシズムもまた、近代社会の矛盾の超克を信条として起こったものである。ここで近代社会と言っているものは、経済学的には金融資本主義ということである。そして、近代社会の超克として立ったナチズムやファシズムが、それ自身、実は金融資本主義の中に根拠をもつものであって、それの他面であり、現象形態であったことは否定できない。ところで近代社会の矛盾とは、当面の問題から言えば、古典的自由主義、英米系自由主義をも含めて近代的ヒューマニズムのもつ矛盾ということである。この点にハイデガーの実存哲学、実存的ヒューマニズムのナチに結びつく可能性がある。ハイデガーがギリシア古代のフュシスに定位するのに対して、ナチはドイツ中世に定位する中世主義であった。共に近代合理主義、近代的分裂観、近代的ニヒリズム、近代的ヒューマニズムの超克を志したが、その基準として、一方は古代をとり、他方は中世をとった。しかしこのときハイデガーの哲学の弱点が暴露されるのである。近代の超克という点では一致するにしても、その基準となるものの本質は違うはずである。ところがハイデガーは、その点をはっきり見定めることが出来なかった。しかも問題は、その相手の本質を見定めることの出来なかった理由が、単にハイデガー個人にあるというよりは、彼の哲学そのものの中にあるということである。ということは、彼の哲学の究極の原理であるザインそのものの中に問題があるということである(ハイデガーの哲学の方法が現象学であり、解釈学であるということにも、もちろん責任がある。一般に、方法は内容そのものの形式だからである。すなわち、この事物をありのままに見るという方法の限界がここに露呈しているのである)。そのことは、それが宗教にすぎないということと関連する。一言で言うと、ザインまたはフュシスが単に主体的態度であって、明確な社会的内容を持たないものであり、したがって具体的な社会的規定をなし得ないものだということによる。すなわち、単に抽象的な主体的態度であるために、相手を単に気分またはムードから捉える。ナチの動機と定位するものとに対して、必然的な社会的根拠に基づくのではなしに、気分的に同調することになる。そこから相手に対する大変な誤解が生ずるのである。しかも、この主体的態度ということこそは、ハイデガーの哲学の本質をなすものであるから、一定の社会観に対して必然的な根拠を打ち出すことは絶対に不可能である。むしろ、この点がザインの哲学の長所であるが、しかし今言う意味で、社会観としては、そこに致命的な短所を持つ。
 ハイデガーは上述のように、いわゆる私的実存に対して、それが大衆からの隠退であることが、却って大衆への隷属であると言っているが、同様の批判は、今このハイデガーのザインそのものに向けられることにならないであろうか。社会的な具体的なものに入り込んで、そこからそれの超克の形態を打ち出すのでなしに、ザインにおけるような全くの主体的な超越観に立つことになれば、現実的には却って他愛ない楽天主義になるからである。 
 こういう点から見ると、予言者ハイデガーということも、相当に割引してみなければならないことにならざるを得ない。近代ニヒリズムに対して、根元的統一態としてのザインの立場を対決して、そこに新しい文化を打ち立てようとするのは一つの行き方ではある。しかし、その新しい文化の原理なるものが、単に抽象的な主体的態度であることは、今言う問題を含む。すると、以前に問題にしておいた点についても、言うことが出来る。ザインが本来、自分を隠蔽するという性格を持つものである以上、ザインに基づいて新しい文化が仮に打ち立てられたとしても、それが何時また、突如として、思いがけずに、その姿を隠し、再び世界の夜の時代がやってこないとは保証出来ないのではないかということである。それは極めてはかない予言といわねばならない。

 













































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