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zoom RSS 実存主義の歴史(6)

<<   作成日時 : 2017/04/26 14:13   >>

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 1939年1月、ドイツはポーランドに侵入、これに対して英仏は宣戦を布告し、第二次大戦が勃発した。しかし、40年5月10日、ドイツ軍がベルギー、オランダなどの中立国に侵入するまでは、両軍の間に戦闘らしい戦闘はなく、フランス軍はマジノ線、ドイツ軍はジークフリート線を動かず、にらみ合い状態が続いた。この戦闘なき戦争の時期、これが<奇妙な戦争>と呼ばれる時期である。サルトルは9月2日、動員されてまずナンシー近郊に向かい、ついで10日後にアルザス地方に移送された。片目の視力のない彼は、戦闘能力なしと判断されたのだろう。気象観測班に配属される。1日に2、3回の気象観測が主な仕事だった。その後、本格的に戦闘が始まるまでの9ヵ月近く、サルトルは、時には1日13時間もペンを握って、小説『自由への道』の執筆、こまめに手紙や日記を書いた。
 戦中日記『奇妙な戦争』は、原書で600頁、紛失したノートも含めれば2000頁を超える。これだけの量の日記がわずか9ヵ月近くの内に書かれた。フランスの軍隊がいかにたるんだ軍隊だったとしても、一兵卒がこれだけの量の日記を書き得るには、よほどの情熱が必要だったはずである。量だけではない。思考の緊密度においても驚くべきものがある。日記の4分の1ぐらいは日々の生活の出来事と戦友との会話にあてられているが、残りは読書ノートであり、やがて『存在と無』に結実する思索の展開であり、自己反省の記述である。大戦の勃発は、ヒトラーは戦争を始めないと断言していたサルトルにとって不意打ちだった。総動員令の布告と共に、汽車に押し込められたときも、彼はこの戦争をどう考えたらよいのか、思考の備えが出来ていない。9月14日からの第一ノートには、この時期の心の混乱がまず語られている。しかし、時と共に彼の思考にも流れが出来て行く。一方に戦争とは何か、という観察者的な問いがあり、他方、この戦争にどういう態度を取るべきか、という倫理的な問いがある。
 1939年のこのフランス軍隊内には、戦闘意欲がほとんど見られなかった。そもそも彼らは何のため戦うのかほとんど自覚がない。サルトルは、自分はもはや戦争の中にいる、という事実状態から出発する。この状態で戦争を拒否する唯一の道は脱走だが、それは全人生を台無しにしかねないから斥ける。彼は確かに平和主義者であったが、それを主張して投獄されるほど徹底したものではなかった。ではどうするか。彼は戦争内存在と化している自分をなんとか正当化しようとする。戦争を「自分の運命を補完する冒険」と考えたり、「偉大な人間の生涯」の試練と考えたり。ストア主義に倣って、外から強制された状況に耐えながら、なんとかこれを受け入れつつ精神の内部で克服しようとする。同時期に書かれた『きけわだつみのこえ』も同様な発想をする手紙が何通かあった。
 しかし彼は他方、このストア的忍耐に疑問も持っていた。戦争を積極的に引き受けるべきではないかと。そういう方向へ彼を引っ張っていくのが、ハイデガー的思考である。といって悪ければハイデガーから借用した一連の用語である。戦争は冒険ではなく、世界に対して存在する仕方である。戦争は偶然であるが人間の<世界内存在>になっている。戦争は非人間的な状況ではなく人間的状況である。戦争は<人間現実>の一様態であり戦争とは私である。戦争の拒否は戦争を<本来性>として生きることを妨げる・・・。第一次大戦後の20年は、各人を<戦争へ向けての存在>として構成していった。しかしこの存在を自分たちはしっかり思考しないまま、<非本来的に>すごしてきた。<本来性>には、歴史を受け身に蒙るのではなく、歴史の中で自分を選ぶことによってしか到達できない・・・。こうしてサルトルは、「戦争は私に歴史性を発見させた」と書くのである(1939年10月21日)。彼は繰り返し本来的であらねばならない、と書き、本来性と非本来性とを区別して見せる。しかし、何が本来的であるかは結局のところ第一義を出ていない。いまある状況を積極的に引き受けること、これが定義であり、これから先には進んでいない。しかしむしろ本来性をめぐっての思考の足踏みに、ハイデガーからの悪しき影響を感じる。本来性にしても歴史性にしても、戦争に動員されて、戦争内存在として生きるより他に道がない兵士の自己正当化に使われているのではないかと。いやそれだけではない。この時期のハイデガーのナチズムへの加担を知ってか知らずか、彼はハイデガー的思考の危険を感じ取ってもいる。「私自身、現在の考え方の中に、かすかなファシズムの気配がないわけではないことを認める(歴史性、世界内存在、人間をその時代に縛りつけるあらゆるもの、人間をその土地に、その状況に根付かせるあらゆるもの)」(1939年12月20日)。しかし、彼はそれを「タルト(思考の全体)の甘さを引き立てるための一つまみの塩」とみなす。ここですでに読み取れることだが、サルトルのアンガージュマンの思想は状況を積極的に引き受ける、という本来性の考え方の中に宿されている。しかし彼が残した著作の中から本来性に関する言説を集めると、どこにも通じていくことのない袋小路となっているという印象を否めない。
 『存在と無』は1943年、まだドイツ軍の占領が続く中で、ひっそりと出版された。その当時、反響はほとんどなかったという。彼はこの本を構想したのは1939年になってから、したがって構想から刊行までわずか4年というスピードで書かれたことになる。哲学作品を書くときは早く、文学作品は時間をかけて、というのが言葉と取り組むときの彼のスタイルで、それは文体の違いに表れている。文学作品の方が文章の密度がはるかに濃く、一つ一つの言葉に影があるのだ。『存在と無』は四部構成である。第一部では意識の根源的な働きとされる否定、無化について。第二部ではこうした意識(対自)と事物(即自)との関わりについて。第三部では自分の意識と他人の意識との関わりについて。そして第四部では、人間活動の全てが「持つ」「為す」「在る」の三つに集約され、こうした存在論を根拠とする実存的な精神分析の展望が描き出されている。この本全体は、意識の自由の存在論的な証明である。
 面白いポイントとして、第一部第二章で自己欺瞞的行為の例として次のように挙げられている。ある女性が初めてのデートにやってくる。彼女は男の性的な意図を十分知っている。しかし彼女は相手の賛美の言葉から性的な下心を取り去り、相手の態度の慎み深い点しか見ようとしない。露骨な欲情は彼女に嫌悪を抱かせる。しかし尊敬だけの尊敬には魅力を感じない。彼女は男の欲情が、賛美、尊敬へと乗り越えていく限りにおいてしかそれを認めようとしない。もし男が彼女の手を握ったとしたらどうなるか。手を握られたままにしておくと同意することになる。手を引っ込めると魅惑のひとときの調和を破ることになる。決断の瞬間を先に延ばさなければならない。そこで彼女は手をそのままにしているが、手をそのままにしていることに気づかずに話を続ける・・・。全ての女性が手をそのままにしているわけではないし、たとえそうしていたとしても、サルトルの解釈が唯一の解釈であるとは限らない。男人間がこの言葉を真に受けて行動に移るのは危険なことである。しかしそれは、私たち全ての内にある自己欺瞞の構造、事実性(欲情)であると同時に超越(賛美、尊敬)であるという人間存在の二面性をよく理解させてくれる。
 それだけではない。この例に納得した後で次のような一節を読むと、なぜ「自己欺瞞」という一章が第一部「無の問題」の中におかれているか、『存在と無』の構成について合点がいくのである。「彼女は相手の行為を、それがあるところのものでしかあらぬように、言い換えれば、即自存在の仕方で存在させることによって、その武装を解除した。けれども彼女は、<それがあるところのものであらぬもの>として捉える限りにおいて、言い換えれば、男の欲情の超越を認知する限りにおいて、男の欲情を楽しむことを自分に許す。最後に彼女は、彼女自身の身体の現存を(おそらくは悩ましいまでに)深く感じながらも、彼女自身の身体であらぬものとして自己を実感する」。つまり、このような自己欺瞞が可能であるためには、「それがあらぬところのものであり、同時にそれがあるところのものであらぬ」(欲情を欲情として認めずにこれを楽しみ、同時に、手を握られながらもこれに気が付かない)という意識の存在が前提とされる、というところから初めて第二部「対自存在」への移行が可能となる。「自己欺瞞」の分析は、意識の存在をテーマ化するための導入部の役割を果たしているのである。それだけでなく、自己欺瞞についての分析は、やがて無意識の存在を否定するための強力な武器になるのである。
 また、サルトルの思想を人間解放の思想として捉えるなら、次の二点も、決してどうでもよい箇所ではない。対他存在とは他人にとって現れる存在で、例えば私が鈍いやつとして他人の眼に現れるなら、これが私の対他存在となる。対他存在とは他者の内に住まう存在ではなく、私の存在の一部、私という人間現実のもう一つの次元なのだ。それは私の外部存在であるが私の存在であり、私はこれを私のものとして引き受けざるをえなくなる。ところで、こうした対他存在を私の内に作り出すのは、『存在と無』においては、他人のまなざしである。そもそも他人とはサルトルにとっては、私にまなざしを向けているもののことなのだ。驚くべきことは、サルトルがここで、まなざしを向けられていること自体を疎外-他有化として捉えていることである。他人のまなざしの出現によって、私が他人の評価に委ねられる。それだけでなく、それまで私が私のまなざしによって構成し、所有していた世界に全面的変化が生じる。それに対して、まなざしによって奪われたものはまなざしによって取り戻す。私は私を女好きとみなす男を、もてないがゆえの僻みと、相手に対他存在を貼り付けてやればよいのだ。サルトルはこうした取り戻しの二つの典型を記述している。第一の態度が、愛、言語、マゾヒズム、第二の態度が、無関心、性的欲望、サディズムなどである。だが、まなざしを向け直したからと言って、解決の道があるわけではない。ロカンタンが「ろくでなし」というレッテルを相手に貼ることができたのも相手が肖像画だったからである。相手がまなざしを投げ返して来る限り、またこちら側で眺める通りの対他存在に同意せぬ限り、両者のまなざしの相克は持続する。
 同じ頃書かれた戯曲『出口なし』は、こうしたまなざしのドラマを主題化したものである。地獄とおぼしき死者の世界で、お互いのまなざしの前でうち捨てられた三人の罪人が責苦を加え合っている。彼らのいる部屋には鏡がなく、自分で自分の姿を見ることが出来ない。全身を他人の視線にさらされたきり、しかも死者であるがゆえに自分の行為をもう修正できないのだ。このように、『存在と無』の時期のサルトルにとって、人間関係は(さらには階級関係も)まなざしを介した他有化の相克として捉えられている。このような相克を乗り越える、開放や救済の倫理の可能性については、小さな注の中でちらりと触れているが、それを論として展開することはなかった。それよりも人間を社会的、歴史的存在として捉えながら、同時に対他存在、他有化の概念を拡大する方向へ向かったのである。
 サルトルはこの本の中で、一貫して、対自という無が、即自という充実によっていかに自己を満たそうとするかを語る。「我々の人生のかなりの部分は、いろいろな穴をふさぎ、いろいろな空虚を満たし、象徴的に充実を実現し確立するために過ごされる」。しかもサルトルはここで、コンプレックスやリビドーを人間の根源的な欲望と考えるフロイト理論を吹っ飛ばそうとして<穴ぼこ論>を持ち出しているのだ。無意識を認めない立場から出発したサルトルにとって、時代の知としてのフロイトの精神分析をどのように乗り越えるかは、哲学的に大きな課題だった。『自我の超越』の中で提出された<非反省的意識>という概念、『存在と無』の中での<自己欺瞞>の分析、いずれも人間存在における無意識を否定するための理論的装置でもある。しかし、サルトルは、フロイトの「経験的精神分析」を全体として斥けているわけでは決してない。サルトルの根本的な批判は次の一点である。すなわち、フロイト派がコンプレックスの根拠と考えるリビドーや権力意志は、全ての人間に共通する一般的な特徴ではない。コンプレックスなるものは究極の選択であって、それを説明するためにリビドーとか権力意志をもってくる必要はない。たしかに人によってはリビドーや権力意志の存在が見出せる場合もあるが、それは他有化された自己の存在の回復の試みだったり、他人を介しての自己の救済であったり、それ自体が根本的選択なのだ。このように、サルトルが提唱する実存的精神分析の最終項は、何らかの所与ではなく、常に選択ということになる。自由で意識的な決定ということになる。無意識的な闇の中に埋もれている一つの所与を発見しようとするフロイト派の精神分析とは違うのである。
 それでは、一体何をもってその人の根本的選択とみなすのか。それが分析の最終項であるとどこで言えるのか。この問いに対する答えは第四部全体に亙って展開されている欲望論の中に見出される。我々の経験的な欲望は全て三つのカテゴリーに分類される。「持つ欲望」、「為す欲望」、「在る欲望」だ。そして最終的に、行為の欲望は所有(我有化)に、所有の欲望は存在の欲望に還元され得る。つまり人間は根源的に存在欲望であり、人間の根源的な選択は存在の獲得ということになる。したがって、一人の人間の様々な行為は直接に、あるいは所有を介して、この存在への欲望に関連づけて解明されねばならない。それが実存的精神分析のなすべきことであり、この点で個々の経験的な欲望を対象とする心理学と区別され、また、存在欲望自体を対象とする存在論とも区別される。
 『存在と無』の最後の30頁で彼は、事物の対象的意味の解読を試みる。それは人間が事物に与えた意味でなく、人間が事物の内に自分を投影した意味でもなく、かといって事物それ自体の存在から引き出される意味でもなく、いわば対自(意識)と即自(事物)との出会いから生ずるような事物の対象的意味があることを証明しようとする。ロカンタンがマロニエの木の根を前にした同じ場面で、事物の微笑について語っていたが、公園の微笑、木々の微笑、あの謎の数行を記したとき、『嘔吐』の著者はすでにこの事物の対象的意味を念頭に置いていたのである。ねばねばしたものが嫌悪を引き起こすのは、ねばつきという物質的性質自体の対象的意味として、いやらしさがすでにあるからだ。この意識と事物との相互乗り入れ、これはサルトルと同じくフッサールに多くを負うているメルロー=ポンティが別のコンテクストの中で語ったものでもある。『知覚の現象学』の終わり近く、彼は、ほら穴を例にして、人間の出現と同時にそれがどのようにして対象的意味を帯びるかを鮮やかに描き出している。それにしても、なぜ事物の対象的意味を語るのか。それは実存的精神分析の成否に関わるからだ。存在欲望は万人に共通の抽象的構造だが、個々人の根本的選択の方向は異なる。こうした個人の自由な選択の意味と独自性を明らかにするためには、対象-事物に予め意味が備わっていなくてはならない。トマトの赤、柔らかさ、酸味、丸さ、こういったものの対象的意味があって初めてトマトの好きな人間と嫌いな人間の違いを明らかにし得るだろう。言い換えれば、こうした普遍的象徴体系が確立されて初めて実存的精神分析は現実のものとなるのである。
 『存在と無』の結論部でサルトルは、存在論の限界を示し、存在論の次に為すべき仕事として二つの可能性を語っている。一つは形而上学であり、もう一つは倫理学である。形而上学とは彼によれば「具体的独自的な全体としてこれこれの世界を誕生せしめる個別的な過程についての研究」である。その中心テーマは「存在から出発して対自が出現するのは、何ゆえであるか?」という対自の起源ということになる。しかしサルトルは形而上学が扱うべき主題を幾つか概観しただけで彼自身は第二の可能性である倫理学と取り組むことを予告する。人間は何を為そうとその根源的選択は存在欲望という意味づけを蒙るのか。自由を自由として欲し、存在欲望に回収されない自由の行為というものはあり得ないのか。彼はノートを残しただけで倫理学を完成させるには至らなかった。けれども『聖ジュネ』は、それに応える実存的精神分析の適用であると同時に、倫理学的な記述そのものでもある。
 1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギーに侵入し、英仏両軍と全面戦争が開始された。6月17日、フランス政府はあっけなく戦闘停止を命じ、ペタン内閣によって21日停戦協定が結ばれる。以後フランス国内はドイツ軍が直接管理する占領地域と、ヴィシーに首都を移したペタン政府の治める非占領地域とに分割された。サルトルは、6月21日、皮肉なことに35歳の誕生日にロレーヌ州パドゥーで捕まった。2ヵ月後、ドイツ領内のトライヤー近郊の収容所に移され、ここで7ヵ月の捕虜生活を送った。同じ収容所にいたぺラン神父らとの親交の中で、この年のクリスマスのためにサルトルが書いたのが、戯曲『バリオナ』である。上演は大成功だったという。ほどなくサルトルは、ぺラン神父ににせの書類を作ってもらい、民間人と見せかけて脱走した。41年3月のことである。
 ドイツ占領下のパリに戻って、サルトルは抵抗運動を組織することを企て、「社会主義と自由」という知識人のグループを作ったが、共産党からも、ドゴール派からも連携を断られ、計画は挫折する。地下運動のプロからすると、知識人グループは、およそ無能でだらしない連中に見えたのかもしれない。彼はしぶしぶ運動を放棄し、行動の別の形態として書きかけの戯曲に意地になってしがみついた。アンガージュマンは、状況の引き受けというその意味の輪郭は残したまま、書くことの中に延長され、拡大された。
 4年間の占領の体験は、アンガージュマンを有効性だけではなく、倫理の次元で捉える視点をサルトルの内に築いていった。このことは、アンガージュマンが必ずしも歴史の方向と一致するものとしては考えられなかったこととも関連する。実際『シチュアシオンV』に収められている占領下パリについての文章を突き合わせてみると、彼にとっての占領体験は、次の二つに要約され得る。第一は、歴史から締め出されたという状況感覚である。彼らは歴史の主体ではなく対象と化していた。戦争は歴史の中に巻き込んだが、占領は歴史の外へ押し出したのである。しかし他方、拷問という現実があった。しかもそれは、「もし自分が拷問されたらどうなるか」という問いとして、各人の意識に食い込んでいた。
 本来拷問は政治の一つの手段だが、サルトルは拷問の内に当事者同士の意識の葛藤を見る。もしも拷問する人間が情報を引き出すなら、拷問するのは正しいということになり、彼は自らの行為を正当化し得るだろう。争われるのはどちらが人間として正しいか、という人間の資格である。政治はむしろ口実に転化する。サルトルはそこに、他とは比較し得ない悪を見るのである。けれども悪の体験は、他方では人間的なものの再確認ともなった。拷問に耐えて、人間の資格を巡る戦いに勝った多くの抵抗者がいたからである。では彼らの沈黙-抵抗の根拠は何だったか。それは歴史の方向ではあり得なかった。歴史はフランス人の手から離れたところにあった。歴史はそのとき、占領軍の側に、対独協力者の側にあった。だとすると拷問の犠牲者たちは、口を割らない理由を自分の倫理観から引き出してこなければならない。彼らは絶対的な無償性の中で、無から出発した人間を創造する、とサルトルが書くとき、彼はこの倫理の誕生を語っているのである。
 1945年10月、サルトルは月刊誌「レ・タン・モデルヌ」を創刊する。この創刊号の巻頭におかれたサルトルの創刊の辞は、事実上、最初のアンガージュマン宣言である。この文章は芸術至上主義、リアリズムの理論、全体は部分の総和であるとする分析精神の代表者プルーストへの批判に多くの頁をさいている。このブルジョア思想の指導原理である分析精神に対抗して、彼は人間はグリンピースの缶詰の一粒のように、世界の中に他者と機械的に並存しているのではなく、それぞれ分解できない全体的人間である。だから、作家は時代の中に、状況の中にすでに巻き込まれていて、そこでは言葉も沈黙も全て意味を持ってしまうから、逃れる術がない以上、時代と一つになり、時代に対して意志的に責任を引き受けるべきであるとする。
 
 1945年秋、サルトルはフランスの知的世界の中心にいた。彼を一躍有名にしたのは、45年10月25日に行われた講演会「実存主義はヒューマニズムか」である。それまで実存主義は、風俗用語としてジャーナリズムの間を飛び交っていた。しかしサルトルは「私の哲学は実存哲学であって、実存主義とは何か、私は知らない」と言い、レッテル貼りを拒否していたが、この講演では、実存主義という言葉を積極的に引き受け、しかも、これをヒューマニズムとして意味づけている。彼は実存主義を定義して次のように言う。人間は無神論の立場に立つ限り、予め人間の本質を定める者は誰もいない。物を作る職人はその物の概念(本質)をもとにして現実の物(実存)を作る。つまり本質が実存に先立つ。しかし、人間はまず現実に存在する(実存する)。人間の本質が何かを定めるのは人間自身なのだ。したがって、実存は本質に先立つ。人間は偶然に、不条理に実存する。だから人間は自由であり、主体的である。では1945年の実存主義は、その後どのように展開したか。第一に小説と戯曲、第二に評伝という二つの方向でそれを追求してみたい。前者においては自由はいかにして実現され得るか、後者においては自由の裏面としての疎外-他者化をいかに乗り越えるかが問われる。
 長編小説『自由への道』の主題は、高校教師マチウと彼を取り巻く人物の真の自由の探求である。またこの小説ではまなざしに大きな役割が与えられている。まなざしには二つの役割がある。マチウが自分を裁くそのまなざしは明晰性の証しであり、自由の根拠でもある。また他人のまなざしはこれを向けられる者にとって意識の障害になり、それが真の自由を求める変身のきっかけになる。マチウは他方、行為の夢に憑りつかれている。自分を拘束する行為の内にこそ真の自由があるのではないか。第三部『魂の中の死』でマチウは敗走するフランス軍兵士として登場する。一発の弾丸も撃つ機会がなかったことに敗北の責任を感じている。ついにこの夢を実現する機会がやってきた。フランス軍の退去を援護するしんがり部隊に加わって、銃をとって撃ちまくる。ドイツ兵を殺すたびに、自分の行為が世界に刻印されるのを感じる。数時間後彼は、「俺は純粋だ、力に溢れている、自由だ」というモノログを残して小説の舞台から消える。
 『自由への道』を未完にしたまま、サルトルは戯曲を次々に発表している。これらの戯曲はどれもサルトルの基本的テーマを軸に構成されている。第一に、選択-自由のテーマがある。登場人物が全て死者に設定されている『出口なし』を除いて、主要人物が舞台の上で重大な選択を行うのだ。
 例えば古代ギリシアの悲劇を下敷きにした『蠅』のオレストだ。叔父のエジストが母親のクリテムネストルと共謀して父親のアガメムノンを殺し王位を奪い取った後、オレストは幼くしてアルゴスの街を追放されていた。成人して彼は故郷の街にやってくるが、かつての王子であることを誰も気づかない。彼はこの街に残って父親のアガメムノンの復讐をするのだろうか。それとも何もしないでこの街を去るのであろうか。また『悪魔と神』の主人公、16世紀ドイツの武将ゲッツは貴族の母親と下男とのあいだに生まれた私生児だ。彼は自尊心が強く、残酷で、最初はあらゆる者を裏切り、悪を実現することによって神と対抗しようとする。彼は包囲したヴォルムスの街の住民を全て虐殺しようとする。善なる神を追い詰めようというのだ。ゲッツは本当にやるのだろうか。しかして、オレストは街に残り、エジストとクリテムレストルを殺して父親の復讐を果たす。ゲッツは包囲を解いて、今度は地上に善の王国を建設しようとする。なぜか。幾つかの動機は示唆されている。オレストの場合は妹のエレクトルと出会ったことが大きい。エレクトルからはこの街を去れと言われたにも拘わらず、またジュピター神の反対にも拘わらず、彼はアルゴスに残る道を選ぶのだ。ゲッツの場合は、悪魔の化身のような破戒僧ハインリッヒから、この世で不可能なのは悪ではなく善である、と吹き込まれたことから、今度は、農民に土地を与え、愛の共同体を築いて善を実現する方向に向かう。しかし、決意するのはこの瞬間のゲッツの自由なのだ。
 他に色々なテーマがあるが、ここでは「共にあること」というテーマに絞ってみよう。共にあるというテーマの原型は、最初の戯曲『バリオナ』の内に見出される。この芝居はローマ帝国の圧政下にあるユダヤの寒村が舞台で、青年村長のバリオナは、人頭税の引き上げに抵抗するために、これ以後子供を作らぬよう村民に誓わせる。そのとき妻のサラが妊娠したことを告げるのだが、バリオナの決意は変わらない。キリスト降誕の夜の話だ。メシア誕生の報が伝えられると、村民もサラもバリオナを捨ててベツレヘムに向かう。バリオナはキリストの殺害を思い立って、先回りして馬小屋に忍び込む。殺すか、殺さぬか。バリオナは、マリアもキリストも見ないが、父親ヨセフの眼を見て思い止まる。息子を見ているまなざしの中に、父親となった男の希望を読み取ったからである。これまた決定的な選択の瞬間である。しかしここでは次に来るもう一つの選択を見よう。ローマ人がキリストの命を狙いに来るという報がもたらされると、村民たちは絶望からバリオナのところに再び戻ってくる。その村民たちを叱咤して、バリオナはキリストを落ちのびさせる戦いの先頭に立つのだ。バリオナは孤独である。彼は村人たちとは違って赤子がメシアであると本当には信じきれないからである。また彼は村民たちから一度は捨てられたからだ。しかし、最後に彼は、村民たちと袂を分かたない。上述のように、『バリオナ』は捕虜収容所の中で、クリスマスの夜に上演された。ドイツの占領に対し「神を信ずるものも神を信じないものも」(アラゴン)連帯したという状況は、当然、戯曲の中にも反映されている。ただ孤独な主人公が大衆ないしは集団と、どのように結びつくかつかないかは、この戯曲の宗教色とは関係なく、具体的な自由の実現を追求するサルトル劇全体の重要なテーマなのだ。
 『蠅』のオレストの場合は、父親の復讐を果たした後、次のような演説をして街を去っていく。私は王国の権利を取り戻すためにやってきた。私はお前たちを愛しており、殺人を犯したのはお前たちのためだ。我々は血で結ばれている。しかし血まみれのまま王座に座る気はない・・・。アルゴスの市民の間に生きる場を持ちたい、というのがこの街に止まった動機の一つだったのに、今彼は市民と共にあることを拒否するという矛盾。しかし、ボヘミアンの王子が最後に王座についたなら、芝居が喜劇になったであろう。王座の権利を持つ者が当然のごとく王座に復帰する、それはロカンタンを創り出したサルトルの芝居としてはあり得ないことだ。バリオナが指導者としてあり続けるのは、それまで村民と共にあり続けたからである。また、対独抵抗運動のグループ「社会主義と自由」の組織を諦め、自分自身で行動を起こせないでいたサルトルが、作中人物にだけレジスタンス行動を示唆するような選択をさせることは出来なかっただろう。『バリオナ』の場合は逆に、レジスタンスが何を意味するかの厳しい現実認識をまだ欠いていた時期に書かれたからこそ、共に戦うという結末を持ってこれたのだ。『悪魔と神』の最後も、ゲッツの「共にある」の意志の表明で終わっている。彼は暴力を拒否したために、愛の共同体を破壊された。いったんは森の中に隠遁をするが、農民隊長の求めに応じ、農民の軍隊の指揮をとることを受け入れる。ゲッツはそれまで神だけを相手にして、悪人として次に善人として存在しようとした。しかし今神は死に人間しか存在しない。人間の中の人間でいること、これが彼の最後の選択だ。存在の倫理を脱して初めて行為の倫理を体現する人物がサルトルの想像世界に出現したことを告げている。孤独な人間がいかにして大衆-集団と結びつき得るか。アンガージュマンの形をこういう問いによってサルトルが提出し続けたのにはそれなりの理由がある。ブルジョアの若者にとっての政治行動とは、この時代、どの党に入るかという選択しかなかったからである。このようなあり方を同伴者のアンガージュマンと呼ぶならば、ごく例外的な時期を除いて、サルトルはおおむね政治的同伴者であり続けたのである。
 劇作品と並行して、40年代後半から、サルトルは長大な評論を次々と発表している。彼の評伝はいずれも哲学と文学を総合する文章表現の世界を作り出していて、中でもジュネ論と、フローベール論とは20世紀が生みだした最高の文学評論の一つであろう。ジャン・ジュネは1910年生れ、生後半年で児童養護施設の前に捨てられ、すぐに農家に里子として引き取られた。感化院と軍隊と監獄の生活を繰り返し、その間に泥棒と乞食と売春をしながら放浪している。これがものを書き始める以前の30歳ぐらいまでのジュネの前半生だ。サルトルのジュネ論は、こういう泥棒少年がいかにして天才詩人として誕生したかを明らかにしようとする。サルトルが依拠したのは、全てが自伝的と言ってよいジュネの作品群である。言うまでもなく、作家は多かれ少なかれ嘘をつく。だが、どんな嘘の言葉も必ず真実を表している、というのが文学の逆説であり、また20世紀の重要な発見の一つでもある。要は言葉をどのように読み解くかだ。サルトルが駆使するのは実存的精神分析の方法である。存在の意図と行為の意図、この二つの方向でジュネの根源的選択を追求する。
 サルトルが、詩人誕生の出発点に置いたのは、一つの他人の声である。ある日、盗みの現場を押さえられたジュネに「お前は泥棒だ!」という眼もくらむ言葉が飛んで来る。それは社会の宣告である。幼いジュネ(主観的意識-対自存在)は大人たちの言葉を信じ切っているから、泥棒というこの客観的レッテル(対他存在)を優先させる。それがジュネの疎外-他者化の根源である。ジュネはどうやってこの疎外を脱するか。試行錯誤の結果、泥棒という存在を付与されながらその存在が自分の眼で捉えられない以上、俺は泥棒になろうと決意するのだ。現に自分がそうであるとされている存在になろうと意欲すること、この矛盾した根源的選択を、サルトルはジュネが9歳から14歳の間に起こったと位置づける。そして、サルトルは18歳のジュネの意識を内側から再構成しながら、詩人がどのように誕生するかを語っている。サルトルは彼が詩を書き始める前に、想像の世界に生きる審美者の時期を経ていると想定する。悪とはなされるものではなく、想像されるものであることに気づいた時、ジュネは審美者となる。この想像界の住人が、ある押し込み強盗との出会いから共に危険を冒すようになる(職業的能動性の誕生)。また彼自身の老化が男性化=少年愛を伴う(性的能動性の誕生)。こうした能動性によって彼は夢想に対して反省的視点をとるようになる。そのとき一つの啓示がやってくる。なぜ想像界の中にいる人物を現実化しないのか。自分の夢想を他人に押し付け、自分のイマージュの毒を正統派に感染させてはどうか。こうしてジュネは『死刑囚』という詩を書き、次に『花のノートルダム』という散文を書く。こうして書くという労働によって芸術家としての自由を獲得したジュネの姿をサルトルは描き出す。またサルトルはこの時期の政治的状況からくる自分の孤独をジュネの孤独に重ね合わせる。その共感の根本に、負けるが勝ちの倫理観がある。若きサルトルは自分の作品が存命中に陽の目を見ることはないだろうと考えていた。しかしいつか栄光に輝く日が来ると信じていた。人生の敗北は芸術の勝利によって償われるだろうと。ロカンタンも、誰もが負けるのであって、勝つと思っているのはろくでなしだけだと書いていた。ジュネは性交が強姦であることを欲する。括約筋が精一杯抵抗し、この抵抗が敗北を喫する時、彼を犯す他者の本性に同一化して悪の存在を最大限享受する、つまり勝利するという解釈。あるいはジュネが悪を選び、しかもこの選択が失敗することを望むという、徹底的に負けることへの賭けがジュネの詩人の栄光を生みだすという解釈。サルトルはさらに、1936年モスクワ裁判で死刑の宣告を受けたブハーリンとジュネを比較する。二人は共に、自分を裁く者たちの原理を受け入れ、裏切り者、有罪者という対他存在を引き受けた。そのことの内にわずかな主体性、自由を垣間見た。違いはブハーリンが卑下しつつ裏切りを認めたのに対して、ジュネは裏切り、悪を誇りにしている。またブハーリンは客観的な裏切りを認めながらも自分の選んだ政治路線は主観的には道理があったことに固執するのに対し、ジュネは最初から誤りを選び、この選択を自分の主観性にしている。そして誤ることを選び続けていることだ。こうしたジュネの生き方の内にサルトルは負けるが勝ちの倫理を読み込んでいる。『聖ジュネ』を書いた後のサルトルは、マルクス主義との格闘の時代が始まる。その間に彼自身の思想に大きな変化が生じていく。そしてほぼ20年後に、今度はフローベールを対象とした『家の馬鹿息子』が出版された(1971/72年)。
 「今日、一人の人間について何を知り得るか」、まさにこの問いが『家の馬鹿息子』の最初に提出された問いである。サルトルはこの本を書くのに晩年の十年を費やしている。そしてギュスターヴ・フローベールがいかにして作家となったか。とりわけ、いかにして『ボヴァリー夫人』を書く作家になったか、を明らかにしようとした。費やした頁数は、完成された部分だけでもジュネ論の四倍、2800頁に及んでいる。しかもその約半分の頁数をフローベールの両親の個人史と本人の乳幼児期のことに費やしている。フローベール家は代々獣医だった。ところがギュスターヴの父親は外科医となり、当然のように医師の娘と結婚した。母親は貴族の血を引いているが、生れたときに母を失くし、10歳の時に父を失くしている。その彼女が暗い少女時代を送ったことは想像に難くない。家族論の観点から重要なことは、父親は当時ブルジョアジーにおいて見られた夫婦中心の家族ではなく、田舎の封建的な家中心の家族を作ったということである。こうした夫婦の次男としてギュスターヴが生まれた。未来の大作家は二歳年下の妹よりも読み書きが遅れていた。言語の遅れだけでなく、放心、信じやすさ、馬鹿正直といった対人的態度に見られる受動性は母親に由来する。乳幼児期の彼を構成したのが母親だとすれば、四歳以後のギュスターヴを構成したのは父親である。この父子関係についての想像をサルトルに許すのは、13歳から17歳までに書かれた初期作品で、これらの作品群の解読から父親に対する怨恨という仮説を立てる。父親は外科医的な視線でこの知恵遅れの子供を監視して、魂の底まで貫き、また父親は劣等生の次男よりも長男を愛していることを公然と示したからである。もう少し成長すれば、両親のイデオロギー、父親の科学主義と母親の宗教心を内面化していくだろう。そしてこの家族の背後には一社会の歴史がある。1821年にフランス社会のこの家族の次男に生まれるということは、それだけで巨大な運命を負わされた人間ということになる。さらに、第二巻では学校存在としてのギュスターヴが取り上げられる。この中で彼はさらに他有化を深めていくだろう。彼に残された自由の余地はほとんどないように思われる。事実、フローベールは、作家になってからも受動的活動性を保ち続けた人間として描き出されている。
 ジュネ論からフローベール論へ、一つの大きな転換がある。『家の馬鹿息子』には『聖ジュネ』にはなかった知の装置が嵌め込まれているのだ。その一つが、素質形成-人格形成という対をなす概念である。ほぼ9歳までが素質形成、それ以降が人格形成の時期と想定される。素質形成は、身と心が分化し難く人格の基礎をつくっていく段階で、この段階の生体験は家族の構成を内面化していくだけの受動的な存在である。人格形成とは、生体験が少しづつ自己意識に目覚め、外部からの条件付けを投企によって乗り越え、逆に自己に統合していく運動である。だから、ジュネ論は、ジュネの人格形成から出発したこと、ジュネがアウトローであり脱階級的存在であったことから、実存的精神分析の方法だけで切り抜けている。ところが根源的選択を重視する実存的精神分析に依っては、素質構成の内部に入っていくことはできない。振り返って見ると、サルトルが残した著作の中で最も量の多いのは評伝ということになる。評伝を書くことに彼は最大の情熱を傾けたのだ。彼は哲学と文学の両方の道を歩きながら、同時に真理を探究し、人間を全体において表現するという、哲学と文学のそれぞれの野心を統合するものとして評伝を発見したのだ。

 1957年サルトルは、後に『方法の問題』と題される長大な論文をポーランドの雑誌に発表した。そこで彼は、もし一個の真理が存在するなら、それは全体化作用となったはずであり、そうあるべきだとして、それを歴史的真理としてたえず進行中のものとした。実証主義者のように、一つならぬ歴史と真理があるなら、矛盾とその総合的乗り越えが全て意味と現実性を失うことは明白である。そこで彼は、私の探求の目的は、自然科学の実証主義的理性が我々が人間学を押し進めて行く内に見出す理性と同じものか、すなわち弁証法的理性というものが存在するかどうかと問うことだとした。そして、哲学を上昇階級の自己意識と定義し、一つの時代には一つの哲学史しかないと主張する。最も十全な哲学的総計はヘーゲル哲学である。そこでは知が高められて、最高の尊厳性にまで到達するという。しかし観念の体系によっては同化されない実存がある。「哲学者は観念の宮殿を建設し、埴生の宿に住まっている」とはキルケゴールの言葉であるが、彼こそ現実と知がお互いに通訳不可能であることを示した最初の人であった。人間を変えるものは観念ではない。苦役を重ねることが必要である。かくてマルクスはキルケゴールに対してもヘーゲルに対しても正しかった。なぜなら彼は前者とともに人間実存の特殊性を確認するからであり、また後者とともに具体的人間をその客観的現実性の中で捉えるからである。このような条件のもとでは、観念論に対する観念論者の異議申し立てである実存主義が全ての効用性を失い、ヘーゲル哲学を超えて生き延びることは出来なかったことは当然であろうと。そして現代における哲学とはマルクス主義であると宣言した。この哲学を生み出した歴史的、社会的契機が乗り越えられない限り、マルクス主義は我々の時代の乗り越えられない哲学であると。しかしマルクス主義は停滞してしまった。この哲学が世界を変えようと願い、哲学の現実化を目指し、実践的でありまた実践的であろうと願うまさにそのために、その内部で理論と実践が分裂した。理論と実践の分裂はその結果として、実践を原理を欠いた経験主義に変え、理論を純粋で凝結した知に変えてしまった。マルクス主義は今硬化症に陥っていて、知が貧困化している。マルクス主義には具体的な真理を発見する方法が欠けている。社会学や精神分析学をマルクス主義の中に統合していかねばならない。実存主義はこの統合のために必要な諸原則を持っていると。そしてフランス革命やフローベールを例に出しながら、マルクス主義哲学の内部に、構造的・歴史的人間学を組み込む可能性を示して見せた。
 こうした変貌を彼に促したのは、歴史上の諸事件であり、彼自身のマルクス主義との格闘だった。時代は1950年代初頭に遡る。朝鮮戦争とそれに続く東西の緊張が高まる中で、多くの知識人は東か西かの選択を迫られていた。その少し前、中間的な左翼の統一を夢見て革命的民主連合(RDR)の結成に参加しながら二年足らずで挫折したサルトルにとって、第三の道を選ぶことはもはや問題になり得なかった。冷戦を「どちらも卑しい二つの怪物の愚かな決闘」(「カミュに答える」)と見なすなら、全ての政治行動は不可能になる。しかしアメリカを選ぶことは出来ない。今現にあるこのソ連、この中国を選ぶか、あるいは沈黙を自己に課すかで、「レ・タン・モデルヌ」誌を共に担ってきたメルロー=ポンティはすでに沈黙を選び、サルトルにもこれを求めていた。二人の死後に公刊された53年の『往復書簡』の中でサルトルは、哲学の名において政治から身を退くことを選んだこの友人を強く非難している。「我々は何よりもまず(哲学者ではなく)人間なのだ」と。
 52年春、彼は「コミュニストと平和」第一部と第二部を発表し、選択を明らかにした。ソビエトの平和政策を擁護し、ソビエトは地上に社会主義を実現する可能性のある最初の国であると希望を語った。と同時に、大衆を階級に統一するのは党であり、党がなければプロレタリアートは大衆に退化する。行動も実現も不可能になるとして、前衛政党の指導者の必要性を主張した。言うまでもなくそれは共産党を側面から支援する発言となる。この論文に対してはすぐに、メルロー=ポンティからウルトラ・ボルシェヴィキという痛罵が飛んできた(『弁証法の冒険』)。またこれを背景に、ソ連の強制収容所や歴史に対する姿勢についてのカミュとの論争が起こった。また次の年にはサルトルの党概念を「スターリン主義に通じるもの」として批判したトロツキスト系のクロード・ルフォールとの論争が行われる。こうした一連の論争に導かれ、54年、サルトルは「コミュニストと平和」第三部を発表し、ここでは、現代の労働者運動の沈滞の理由を解き明かそうとして、二月革命(1848年)以降のフランスの階級闘争の歴史に踏み込んでいる。
 56年10月末から11月にかけて、ハンガリー動乱が起こった。この事件は、社会主義国が他の社会主義国に侵入して多数の市民を虐殺したということで、共産党内外の左翼の人間にとっては、戦後最大の衝撃的事件として受け止められた。これに対してサルトルは、21名の作家と連名でソビエトに対する抗議文を発表した。さらに「エクスプレス」誌のインタビューに答え、ソ連軍の介入を犯罪と弾劾し、ソビエト政府ならびにフランス共産党との絶縁を表明した。ところが、その二ヵ月後に発表された論文「スターリンの亡霊」では少しニュアンスが変わっている。この文章で彼はスターリン主義(一国社会主義と官僚制的統制)について詳しい分析をしているが、スターリン主義を社会主義運動の必然、ないしは偏向とする説を退け、内外の情勢によって強いられた迂回であると主張した。必然としないことによって社会主義運動を救い出し、偏向と見なさぬことによってソビエトを救い出そうとしたのだ。それはいったいどうしてか。評価の基準は現実の社会主義運動であり、道徳的観点ではなくソ連をどう評価するかという政治的立場に立つことこそがハンガリー動乱を判断する最善の手段である、と彼は考える。それはよいとしよう。しかし何をもってして、ソ連が現実の社会主義運動であると断定し得るのか。ここで意見が分かれるはずだ。ハンガリーへの武力介入にも拘わらずソビエトを選び続けるのは一種の賭けだった。ただこうした選択には、1952年以来の彼自身の選択の正当性を確認する、という意味合いもあったかもしれない。後に彼はこのときの選択が誤りだったことを認めている。もっともこの時期に、サルトルが歴史の進行について楽観的だったということはある。50年代末、世界各地で非植民地化の動きが進行していた。当時フランスは、アルジェリア戦争の真っ只中にあった。しかし、モロッコとチュニジアはすでに独立を獲得しており、サハラ以南の黒いアフリカでも旧植民地が次々に独立に向かっていた。そしてその多くが社会主義を志向していた。他方カリブ海ではキューバ革命が成功し、カストロとゲバラの革命運動が新しいスタイルを作り出していた。中国とソ連との不一致がちらりと垣間見られていたが、社会主義の未来は大きく開いているように見えた。それが50年代末の世界である。『方法の問題』から『弁証法的理性批判』へとサルトルを導いたのはこうしたオプティミズムであり、にもかかわらず理論だけが遅れている、マルクス主義の知は空白なままであるという焦りであり、この空白を埋めねば、という使命感であったと思われる。
 『弁証法的理性批判』は、800頁の大型本である。サルトルはこの本を、覚醒剤をかじりながら、数時間ぶっ通しに、読み返しもせずに書きなぐっていたというが、結局は未完成のまま投げ出してしまった。いったいこの本は何を目指したものなのか。サルトル自身の言葉で示せば、マルクスが史的唯物論の法則として存在と知の両者の内に保持させようとした弁証法的理性を基礎づけること、となる。それはどういうことか。問題は歴史の法則だ。歴史は偶然なのか。それとも一定の法則のもとに動いているのか。また法則があるとすればそれを我々は認識することが出来るのか。マルクスの史的唯物論はこの問いに対するもっとも体系的な解答だった。彼は歴史的実践とこの実践についての認識の内に法則性があることを指摘し、そこから奴隷制、封建制、資本制という歴史の流れを説明し、資本制崩壊の必然性を説いた。では、こうした史的唯物論の真理を基礎づけるとはどういうことなのか。マルクスは、物質的生産力と生産関係を軸にして歴史を解読しようとした。生産力が一定の段階に達すると生産関係と矛盾し、支配階級と被支配階級との抗争が起きるというのだ。すなわち階級闘争史観である。サルトルはマルクスのこの説明体系を全面的に受け入れながら、その中に彼の人間観を組み込もうとする。この場合の人間観とは、他者論-人間疎外論といってよいかもしれない。何ゆえ人間による人間の抑圧、支配、抗争、闘争が起きるのか。何ゆえ歴史は暴力の歴史でしかあり得なかったのか。これを他者存在という概念を導入することによって可知的にしようとする。『批判』とは、他者性を媒介にした史的唯物論の再構成なのだ。この再構成は、徹底して抽象化のレベルで行われている。現実の歴史(とりわけフランス革命とスターリン統治下のソ連)に依拠しながらも、サルトルの狙いは、歴史の全体化作用なるものを、個人、集団、歴史という順序で、そこに働いているはずの弁証法的理性の運動として掴み出す。彼はまず個人的実践が既にその全体化と否定作用によって弁証法的構造をもつものであることを明らかにする。個人的実践は、歴史的弁証法の唯一の具体的な基礎である。この段階における弁証法は、構成する弁証法として特徴づけられる。しかし人間に相互性という人間関係が成立するためには、主体的実践が自己を疎外して、惰性的実践とならないわけにはいかない。単なる集合としての社会的存在は、階級的存在も含めて、この惰性的実践に属する。そこでは人間は、自己外-事物内-存在でしかない。この段階は、個人的実践の「構成する弁証法」に対して、反-弁証法として特徴づけられる。しかし真の共同体としての集団的実践を実現するためには、惰性的実践を否定して、自由と必然性とがもはや一つになるような「構成される弁証法」に到達しなければならない。更に集団から歴史へ移行することで、弁証法的理性の全体化は、一つの真理へいっそう近づくことができる。
































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