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zoom RSS 実存主義の歴史(7)

<<   作成日時 : 2017/04/28 15:27   >>

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 実存主義は、マルクス主義と同じ状況から出発しながら、ドグマ化されたマルクス主義に反対して、歴史の弁証法的解釈を、あくまで人間的実存のあり方に基づいて、独自の立場から試みねばならない。実存のあり方とは、自由であり、企てであり、選択であり、超出であり、自己からの脱出である。人間のこの具体的現実的な姿を見失うと、単なる事物としての人間しか、歴史に登場してこないことになる。人間は経済的諸条件によって全面的に決定されてしまうことになるし、条件反射の総計でしかないことになる。人間は何よりもまず、一つの状況の超出によって、換言すれば、自己がそれ足らしめられたところを以て、自ら何をつくることが出来るかによって特徴づけられる。マルクスは『ユダヤ人問題』の中で、「あらゆる解放は、人間的世界を、その諸関係を、人間自身へ復帰させることである。現実の個別的人間が、個別的人間のままで、自分の経験的な生活において、自己の個人的な労働において、自己の個人的な諸関係において、類的存在となったとき初めて、人間は解放される」と言っているが、サルトルの意図は、あくまで人間を見失わない立場に立ちながら、マルクスのこの人間解放を、自己の企てとして生かそうとするところにある。『弁証法的理性批判』は、希少性、欲求、投企、実践、加工された物質、相互性、第三者、反目的性、反弁証法、実践的=惰性態、集合態、集列性、集団、融合集団、誓約集団、組織集団、友愛-同胞性、主権性、規約集団、制度集団、共同的個人、制度的個人、官僚制、構成された弁証法・・・。こうした概念を次から次へと繰り出して、歴史の骨組を再構成しようとしたものである。
 ところでこの厖大な仕事は成功したのだろうか。残念ながらそうは言い難い。今日の観点から判断するなら、はっきり失敗したと結論すべきであろう。まず、この書は未完に終わった。サルトルの死後、草稿が第二巻として出版されたが完結はしていない。もっと決定的なことは、その後の社会主義運動の破綻である。また「弁証法的理性の進行中の現実化」であり、「歴史の原動力」であるはずの階級闘争が世界的に停止したかに見えることである。だとすると、未来における歴史の全体化作用なるものについて語ることは非現実的になってくる。マルクス主義は現実の存在であることを止めて、過去の歴史を解読する知のステータスしか持ち得なくなったということになるだろう。それでは『批判』はもはや読むに値しない過去の遺物、知のゴミ箱に捨ててもよい作品なのだろうか。そうではなかろう。社会主義運動の見通しにサルトルの理論家としての不明があったことは否定できない。その不明を20世紀の多くの人間が分け持っている。そのことは認めねばならない。実際、20世紀の希望の一つであったあの十月革命が、新しい人間を作るどころか、その最終局面で全世界に示したのは、マクドナルドの店の前で行列を作るモスクワ市民の姿だった。20世紀の歴史の光景として、それは最も無残なものの一つとして我々の眼に焼き付いている。歴史はロシア革命をも社会主義建設をも、それに寄せた人間たちの希望をもそれに伴う多大な犠牲をも、すべて嘲笑い、裏切ったのである。少なくとも現時点ではそう言わねばならない。ジュネ論の最後にある「道理を持ったことの誤り」、「20世紀の孤独」ということを我々が本当に感じたのはその時であった。
 けれども、ここからは『批判』の擁護になるが、この書の価値はそもそも、その意図-野心にあったというよりも、マルクス主義を活性化させようとして作り出された歴史の解読装置にある。そしてその装置は部分的に、歴史の方向がどうであれ、世紀を越えて十分活用され得る。この中で興味深いのは実践的=惰性態という概念である。それは自由の裏側である。自由な実践が自由なものとして貫徹されず、これを吸収し、加工し、ねじ曲げ、方向づけ、その反対物にさえ転化させる物質的技術的複合体、それが実践的=惰性態だ。そこに働く法則をサルトルは反弁証法と名づけ、人間の実践と歴史を規制するもう一つの原動力をそこに見る。それは、労働の疎外を始めとしてあらゆる形の疎外を生み出す巨大な母胎なのだ。いや、そう言ってはならない。あらゆる次元での疎外を可知的なものにするために、サルトルは実践的=惰性態という構造を抽出した、と言うべきであろう。しかも我々が現実の個人として生まれてくるのは、この実践的=惰性態、例えば地縁、血縁、階級の最中においてである。人間は単なる主体でもなく自由でもなく、「先行した諸世代の実践の結晶化」である階級の中に埋め込まれた存在、社会的な存在である。彼の未来は職業も生活水準も平均寿命でさえ、予め指定されている。それによって自由や主体性が完全に否定されるわけではないが、自由や主体性はこうした社会的存在、ないしは社会的にあてがわれた他者存在を乗り越えていく運動として、ごくわずかな可能性しか残されないことになる。
 こうした人間観の変化を最もよく表しているのが、要求としての人間という概念である。『存在と無』の中でサルトルは、人間を欲望として捉えていた。欲望とは存在の欠如であり、欠如である限りにおいて存在の呼び求めだった。『批判』の中では、人間は何よりもまず欲求として捉えられている。欲求という言葉は同時に、欠乏、必要を意味し、欲望と同じく欠如のイメージにつながっているが、欲望と比較すると、物質世界に根差した言葉として用いられている。いや、「周辺物質との包括的な内在的つながり」そのものとして欲求は定義されている。ただ、現実の我々は、必ずしも欲求の人間として活動しているのではなく、実践的=惰性態を介しての他者存在の要求を内面化した人間を生きている。そういう人間をサルトルは要求としての人間と呼ぶのだ。『家の馬鹿息子』は、フローベールという一個人を例にしての、要求としての人間の可能性を探る物語だったのである。
 ところで今生きている世界の実践的=惰性態の中で、もっとも支配力を持っているのは貨幣であり、現代とはその貨幣が勝ち誇っている時代である。世界をグローバル化しつつあるのは階級的実践でもなければ社会主義運動でもなく貨幣であり、その意味では、現代ほど反弁証法という言葉が生きている時代はない。しかし他方、反弁証法はそれを乗り越える歴史の運動、「構成された弁証法」を前提としている。もしもこうした運動が完全に消滅したとすれば、反弁証法を語ることさえもはや無意味になる。希少性を克服するどころかそれを組織的に作り出し、人間を欲望のアトムとして分散化する実践的=惰性態の支配が永続することになる。しかし、サルトルは実践的=惰性態という概念を広げすぎた。何もかも一緒にしてしまった。歴史の可知性を論ずるにはこうした作業が必要だったかもしれないが、これでは実践のための出口が見えなくなるのだ。
 50年代、こうしてマルクス主義との格闘を続けているその真っ只中、サルトルはもう一つの線線で戦っていた。独立を求めてアルジェリア民族解放戦線(FLN)が反乱を開始したのは1954年11月である。フランスはただちに大量の軍隊を派遣、以後62年3月まで凄惨な植民地戦争が続いた。この植民地戦争に対してサルトルは戦争続行反対の知識人行動委員会に参加、ドゴールの独善性、反民主主義的性格を激しく攻撃する。またフランス兵士の脱走を支援する地下組織に協力する。とりわけその何人かのメンバーが捕まって軍事裁判になった60年9月、法廷宛てに書簡を送り、被告たちとの連帯を表明した。法廷で代読されたこの書簡は、右翼にも左翼にも大きな衝撃を与えた。右翼の代議士はサルトルの逮捕を要求し、共産党中央委員会はサルトルを分裂主義として激しく非難した。さらにサルトルの家にプラスティック爆弾が仕掛けられたのもこの時である。この時期のサルトルは当時の日本のマスコミにも詳しく報じられ、安保闘争下の若者にも影響を与えた。『批判』の末尾でサルトルは、アルジェリアの植民地化を例にあげながら、19世紀の植民地戦争がいかにしてイスラム教徒を肉体的に抹殺し、土地を強奪し、過剰搾取を行ってきたか、さらにこの暴力の実践がいかにして今度は構造化された暴力を作り出したかを記述していた。
 アルジェリア戦争が終わってほどなく、今度はアメリカが北ベトナムを爆撃し(64年8月)、ベトナム戦争は泥沼の様相を呈するようになった。サルトルはここでも反戦の論陣を張り、さらにラッセルが組織した「ベトナムにおけるアメリカ軍の行為を裁くための国際法廷」に議長として参加した。そしてアメリカ政府をジェノサイドについて有罪とする判決理由を書いた。彼を動かしているのは倫理意識であり、共犯の拒否である。
 1968年の5月から6月にかけての五月革命は、フランス社会に「とてつもないこと」が起こったとして、これ以後のフランスの社会と文化の風景を一変させた。サルトルは当初からこの若く新しい異議申し立ての運動に積極的に関わろうとした。学生たちの運動は体制にあてがわれた私企業の犬としての、物としての運命に対する反逆であること、彼らの暴力は抑圧的な社会に対する反対暴力であると。しかしサルトルは辛うじて彼らの後を追っている存在にすぎなくなっていた。しかもサルトルは、彼らの運動の中に含まれていた決定的な要素を見落としていた。まさしくサルトルに代表される古典的知識人のあり方、すなわち、職業的活動に伴う知識のある種の普遍性の名において、支配階級による知の特殊的使用を告発しながら、自分自身のステータスには疑問を抱かぬあり方に対する異議申し立てである。しかし、ある時期から彼はこのことに気づき、五月を自分の身に引きつけて考えるようになった。ある時期とは、左翼急進派に対する政府の弾圧が強まった69年から70年にかけてである。毛沢東派(マオイスト)との接触がそうした理解を彼に促したのだ。
 1960年代半ば、毛沢東思想はフランスの若者の間にじわじわと浸透していった。中国において文化大革命が進行していた時代である。紅衛兵が振り回していた毛沢東語録も直ちに輸入された。知的労働と肉体労働との分離の拒否、前衛エリートの拒否、大衆の実践の優位、反個人主義-集団的実践、反権威主義、イデオロギー革命など。その背景には中ソ論争があり、平和共存路線をとって西欧や第三世界の革命運動を抑えたソ連への失望があった。けれども毛派と呼ばれる固有の運動が生まれたのは五月革命の後の新左翼解体期である。レーニンにならって革命党の建設を最優先するか、毛沢東にならって大衆の実践から出発するか、こうした問いが大きな分岐点に成って、後者の考えに立つ者が中核となり、69年から70年にかけて運動を拡げて行ったのである。彼らは労働者として入り込み、サボタージュやゲリラ・スト、経営者の監禁や無賃乗車などの実力闘争の先頭に立っていた。そのため指導者は次々に逮捕され、機関誌「人民の大義」は毎号のように押収された。歴代の二人の編集長も起訴される。こうした中でサルトルは70年4月、同誌の第三代編集長を引き受けたのである。当初サルトルは自分の名前だけ貸して弾圧への防波堤の役割を務めようとしたのだろう。けれども、共同作業を続けるうちに、段々と毛派の運動に親近感を覚えて行ったようだ。しかし彼の振る舞いは古典的知識人のそれを抜け出るものではなかった。文化大革命の造反有理を思想的源泉とする毛派は、反権威主義的反逆からプロレタリア革命へ、が彼らのスローガンだった。物質的な欲求ではなく、自分の労働条件を通して抑圧を抑圧として直接的に捉える反抗-反逆、ここにサルトルは現代における自由の自覚の新たな契機を見る。反逆という現実の内にサルトルは自由の理論の確証を見る。反逆が可能であるためには、諸個人の内に、疎外された形ではあれ自由がまず存在していなければならない、と。自由をこのように説くサルトルには、50年代から60年代へと、疎外-他者化の領域を広く、深く追求し、自由の余白を狭めてきたサルトルは姿を消している。
 毛派とサルトル、またサルトルだけでなくその他のフーコーなどの知識人との共同作業が生み出した成果の一つは、日刊紙「リべラシオン」の創刊である。73年5月にサルトルを編集長として出発したこの新聞は、政治家の言説や議会の報道などは一切無視し、日常生活批判を紙面の中心に据え、有料広告を一切取らず、上下関係を廃止し、全社員を同一賃金制にするという画期的なものであった。しかし、1981年、一時休刊した時期を境に8年間の実験は清算され、紙面も組織も賃金制度も全面的に改革され、普通の新聞になった。そして2005年、ロスチャイルド財閥が「リべラシオン」紙に資本参加した。
 サルトルの政治参加には二つの側面があった。一つは権力に対する異議申し立ての側面で、これが最も激しい形で発揮されたのが、アルジェリア戦争の時期と、68年の五月革命に続く時期である。映画『サルトル、自身を語る』に印象深いシーンがある。サルトルがドゴールを批判し、「泥棒と人殺しが権力についている下劣な社会に我々は暮らしている」と語った部分で、第五共和制の三人の大統領、ドゴールとポンピドゥーとジスカール=デスタンの正装をした映像が大写しで出てくるのだ。それは、この三人が権力の座にあった22年間、彼らと真っ向から対峙して強権の行使を批判した最大の異議申し立て人がサルトルであったことを示している。もう一つは、政治的同伴者の側面である。サルトルは政党には入らなかったが、多くの場合何らかの政治組織と共にあろうとした。1952年以降、共産党とソ連に接近した。この時代彼は、共産党系の世界平和評議会が主催する世界平和大会に毎年出席し、平和共存のイデオローグとなっていく。また1953年スターリンの死後、非スターリン化のイデオローグとなっていく。1956年のハンガリー動乱に際してはソ連に異議申し立て人の側面を示しながらも、コミュニズムだけが社会主義の可能性を有する現実の運動であるとして基本的に同伴者の姿勢を変えなかった。68年はサルトルにとって一つの転回点となった。8月にはソ連軍がチェコに侵入してプラハの春を押し潰す。サルトルはこのソ連軍の介入を戦争犯罪として非難し、これ以後、ソ連と共産党から決定的に離れていく。毛派と行動を共にしていた時期のサルトルの政治参加には、同伴者の側面と異議申し立て人の側面とが入り混じっている。デモの弾圧に抗議して、パリ・コミューンの虐殺の記憶とつながるサクレ・クール寺院の占拠に加わったりしている。最晩年の5年間は、ベトナム難民や、東側の反体制活動家の支援、ソ連で殺されたアルメニア人たちのための抗議運動への参加、コルシカの独立派のために署名など、毛派とは無関係の行動にも参加している。フランス社会で何か重大な事件があるたびに発言し、立場を表明してきたサルトル。同時代のフランスの代表的な作家であるブルトンもマルローも、アラゴンもカミュも、それぞれの仕方で態度を表明してきた。しかし、サルトル以上に反体制の一貫した姿勢を取り続け、サルトル以上にインパクトを与え続けてきた作家はいなかった。

 1980年3月、サルトルの死に先立つほぼ1ヵ月前、週刊誌「ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール」に「いま、希望とは」と題された、サルトルと元毛派のベニー・レヴィの対談が掲載された。この対談には次のような背景がある。1970年代初め、サルトルは『権力と自由』という題の倫理学的著作を企てていた。それは、人間が互いに他の人間に対して行使する諸々の権力についての研究であり、国家権力と異なるこうした社会権力、フーコー流に言えば、ミクロ権力について語られ始めたのは五月革命以降のことである。サルトルはこの仕事を一人で仕上げるつもりであった。ところが1973年以来失明状態になり、読書も執筆も不可能になる。彼の知的活動は耳と口に頼らざるを得ず、友人たちに本を読んでもらい、これをもとに討論するというのが生活の中心を占めていった。その相手としてサルトルが選んだのがレヴィである。『権力と自由』は、二人の討論をもとに、二人の著者による書物として構想されるようになった。ただ、『権力と自由』は結局出版されなかった。そしてその断片、ないしはダイジェスト版と思われる「今、希望とは」だけがサルトルの死の直前に発表されたのである。
 暴力がサルトルの人格形成、思想形成にとって重要なモメントであったこと既述の通りである。1905年頃に生まれた世代とは、第一次大戦とロシア革命とを聖なる暴力として内面化した世代であり、高等師範学校時代の仲間で、暴力を拒否すべきであるとあえて口にすることの出来た者はいなかった。作品の中でも暴力は大きなテーマとなっている。1950年代の後半から、暴力は、具体的人間を構成する歴史的条件として位置づけられていく。植民地において植民者と原住民との関係を規定しているのは対象暴力(構造化された暴力)としての状況であって、両者は共にこの暴力から自由ではない。もちろん階級闘争においても同様である。さらに根本的に、希少性に支配された人間世界においては、暴力が人間の行動の構造として規定されている。これが『弁証法的理性批判』の根本的視座である。それだけではない。『批判』の中では、革命集団内部における暴力の問題が立てられている。革命運動の初期、蜂起の段階では、無定形の集団、融合集団が構成される。それは自由な共同の組織化であり、成員相互の関係は友愛-
同胞愛である。友愛-同胞愛はもちろんフランス革命が生み出した価値の一つであり、共和国の標語の一つとなったものだが、サルトルがこの言葉を記すときに念頭にあるのは、アンドレ・マルローが『希望』の中で、友愛の黙示録と呼んだもの、革命集団の自発的組織化であり、それは1944年のパリ解放時の祝祭風景と結び付けられている。集団を介して私と私の隣人が同業者として主体の<我々>を成立させる関係、それが友愛-同胞愛である。けれども、この友愛は暴力と無関係ではあり得ない。融合集団はそもそも敵対する権力への恐怖から自己の統一性を引き出していたのだが、そこにはもう一つの恐怖がある。融合集団自体が解体してしまうのではないか、という危険-恐怖である。そこで統一を維持し、強化するために各人に誓約が求められる(誓約集団への移行)。それによって各人の関係は緊密になるかもしれないが、同時に全体の権利が各人の自由に対してのしかかることになる。友愛の関係を結ぶとは、隣人と暴力の関係を結ぶことにもなる。それが否定的に行使されれば、粛清に通ずることは明らかである。サルトルがこうした探求の出発点としているのはフランス革命の恐怖政治である。しかし同時に、スターリン治下の粛清を念頭においていることは間違いない。またもしかしたら、抗独レジスタンス勢力による粛清、アルジェリア解放戦線内部の粛清をも視野に入れているのかもしれない。日本人にとっては、60年代末から70年代初頭の新左翼内部のリンチ殺人、そして72年の連合赤軍内部での粛清を考えた方が分かり易いかもしれない。状況はそれぞれ違うが、どれもサルトルの立てた図式の外にある事件ではないはずだ。
 しかし、もしも暴力がこのように、法則のごとく歴史の中に刻まれているとするならば、革命集団は、外部に対しても内部においても、暴力を避ける道はないのだろうか。友愛と暴力を切り離すことは出来ないのだろうか。『批判』のサルトルにとっては、答えはノンであろう。なぜなら、こうした歴史の暴力、暴力によってしか進展してこなかった歴史の構造を理解可能にするためにこそ彼は『批判』を書いたとも言えるからである。観念の中で友愛と暴力を切り離すことぐらいは誰にでもできる。人間関係を相互性の自由な承認として描くことは誰にでもできる。しかし、人間歴史の総体の解読となると、これはまた別のことである。「今、希望とは」のサルトルにとっても、答えはすぐに肯定とはならない。レヴィが、「友愛と恐怖との間に必然的な関連があるという考えを放棄したらどうか」と迫るのに対し、サルトルはこれに同意するようでいて、留保をつけている。「恐怖なき友愛というものをうまく定義し終えたら、いつかもう一度友愛-恐怖の関係に戻ってくる必要があるだろうが」。しかし他方、『批判』のように暴力を歴史の必然と考えたとき、「友愛にはほとんど場が残されない」とも語っている。ではどうするか。そこからサルトルは、生産関係を越えて人間たちを結びつける根本的な関係として家族関係をあげる。ここまではよい。ここまでは『批判』において、生産関係以前に人間関係を設定した視点からそう遠くはない。しかしそこからサルトルは、人間はみな同じ起源をもっている。我々すべては兄弟(同胞)なのだ、同じ母親から生まれたのだ、といったことを口走る。この生物学ないしは神話への依拠には、対談相手のレヴィから「思想は神話へ転落しかねない危険から、いかにして免れ得るのか」といった皮肉を浴びせられている。確かにそれは思想家の発言とは思われない。ボーヴォワールが「ふやけた思想」と呼んだのは、多分この辺りの発言を指してであろう。ただ、ここでサルトルが二律背反にぶつかって、立ちすくんでいる姿は確認しておきたい。友愛-恐怖を切り離すためには、集団という考え方そのものを放棄する必要があろう。グリンピースの並存のような人間関係の分散を、集列としての人間の現状を、そのまま是認しなければならないだろう。革命の観念はおろか、戦いの観念さえも蜂起しなければならない。レヴィの出してきたプラグマティックな提案(友愛-恐怖の必然性という考え方の放棄)に、簡単に首を縦に振るわけにはいかないのだ。
 この最後の対談でサルトルは確かに弱ってはいるが呆けてはいない。彼が問題を次のように立て直すとき、その発言は明晰である。「人間たちは、ないしは人間以下の存在は、共同行動の諸原則に根差した未来を持っているが、同時に、彼らの周囲には、物質性、つまりは希少性に根差した未来が描かれている」、「両立し難いと思われるので同時に生きるべく試みる必要性のある二つの人間的態度がある。第一に、人間を実現し、人間を生み出そうとする努力があり、これと異なる条件はすべて斥けられる。これは倫理的な関係だ。次に、希少性に対する闘いがある」。前後の文脈から、一方に友愛という人間の未来があり、他方に暴力という現実がある、と言い直してもよいだろう。そしてこの二つの態度を同時に生きる必要性があるからこそ、倫理は不可欠となる。しかし、どうやって、この二つの人間的態度を総合する倫理学を打ち立てるのか。レヴィの追及の前にサルトルは、悲鳴とさえ聞こえる次の言葉を残している。「暴力と友愛との真の関係が、私にはまだはっきりと分からないのだよ」。暴力と友愛を巡るサルトルの思考は、これ以上進んでいない。「今、希望とは」はこのように、彼の構想する倫理学の第一歩に止まったのである。しかし、彼はあと十年生き延びてこの対話を続けたとしたら、その倫理学は完成しただろうか。残念ながら、そうは考えられない。そしてそれでよいのだとも考える。ジュネ論の中で彼はこう書いていなかったか。「現代において倫理は不可欠であると同時に不可能である」。この場合の力点は「不可能」にある。不可能と知りながら彼は試みた。そして私たちに、第一の倫理学(『倫理学ノート』)、第二の倫理学(「決定と自由」他)、そして第三の倫理学(「今、希望とは」)を残した。いずれも試みであり、足跡である。その都度、彼はやり直し、以前の草稿を捨てて新しく試みた。そしてついに完という文字を記すことがないまま世を去った。では、こうした幻の倫理学の素描を我々はどう読んだらよいのだろうか。彼が何をやろうとしたのか、その先を構想してみるのもよいだろう。しかしむしろ、彼のぶつかった最後の二律背反の前に立ち止まってみたい。なぜならそれは、各人をそれぞれのアンガージュマンへ送り返すからだ。現代では、欧米諸国に対するテロの嵐が吹きまくり、一党独裁強権政治の中国がアメリカ民主主義に対抗する勢力として台頭し、EU,国連を始めとする、戦争回避のための連帯組織が、各国の右翼勢力によって脅かされている。1970年代末には、世界中の先進国で、古典的左翼が体制化しただけではなく、サルトルが期待をかけていた毛沢東派の運動も消滅していった。世界中で保守化、反動化が進行した。
 サルトルは『嘔吐』の中でロカンタンを通してヒューマニズムを罵倒していた。自分はアンチ・ヒューマニストでさえないとロカンタンに言わせている。彼の親しい友人だったポール・二ザンも『番犬たち』の中で、ヒューマニズムをこき下ろし、サルトルはこれに共感していた。では実存主義をヒューマニズムと規定した1945年のあの講演はどうなるのか。あれこそ戦後の彼の出発点ではなかったのか。ただ、実存主義を説明するだけならば、ヒューマニズムという言葉を持ち出す必要はなかった。にも拘らず、この言葉を口にしたくなる何か、戦中戦後の社会的空気(ドイツ占領時の拷問、強制収容所の発見)があったからか。ユマニスムという言葉なら、人間とは何かを根本から問い直すという、16世紀の人文主義の伝統につながる言葉と受け取れる。
 サルトルについてヒューマニズムという言葉を使うことへの抵抗感が消えるのは『聖ジュネ』からである。これをヒューマニズムと言うならば、これは受け入れることができる、そのように思わせる言葉がこの本の中にはあった。どんな逆境の中にあっても、どんな悪の中にあっても、意識は良きものという意識の生に対する信頼を捨てないジュネ、狂気も自殺も斥けて、どんな人生にも意味があるとして寄生虫のように人生にしがみついているジュネの姿を描いた一節だ(「人生が彼を破壊しなかったのは、彼がいつも人生に匹敵する価値のあるものは何もない、と考えていたからである」)。このヒューマニズムは、むしろヒューマニズムと呼び得る多面体の人間的思想であって、人間についての観念の変化と共に、それが様々な面を覗かせている、と考えた方がよいようだ。そこで、サルトルにとって人間とは何だったのか、この問いを率直にぶつけてみよう。
 哲学や評論の中で、また小説や芝居の登場人物の口を通して、サルトルは人間について少なからず定義を残している。ただその内容は時代によって大きく変化した。その変化は、人間と世界、人間と人間との関係についての考え方の変化でもある。前期のサルトルにおいて、人間とは自由だ。意識の自由だ。意識は、存在しないもの、不在のものを想像することができる(『想像力の問題』)。意識は、非反省的意識という絶対的な自発性として存在し得る(『自我の超越』)。意識は光に似てる。この光が事物に向かうことによって事物を存在させる。「小石を存在させるために、人間は自己を失う」(「人間と物」)。光は事物を明るみに出すことによって、それ自体は消える。人間を意識の自由と考えた場合、人間関係はどうなるか。サルトルは「共同存在」(ハイデガー)をという考え方を斥けた。我と他との関係を二つの自由な意識の出会いとして捉えた。そして、それは、見る-見られるの、まなざしの相克となる。人間とは「他人の自由に対する自由な制限」(『存在と無』)となる。
 戦争を潜り抜ける中で、彼の人間観は少しづつ変化した。第一に、人間は意識によってだけでなく行動によって定義されるようになる。あるいは、意識の自由が行動の契機として位置づけられる。人間は自らを存在させる、人間は未来に向かって身を投げ出す。人間は状況を乗り越えながら状況に意味を与える、人間は行動の選択について責任を負い、選択はアンガージュマンである・・・。「戦中日記」から『存在と無』の第四部を経て『実存主義とは何か』に至るまで、こうした人間観が新たに形成されていった。その人間観からするならば、真理の発見もまた行動である。存在は闇だ。その闇の中から真理を引き出すのは人間だ。真理を暴き出すのは人間の自由だ。したがって真理の根拠は自由だ。人間がいなければ真理は存在しない。この暴き出し(開示)は他人に向けたものだ。暴き出すことによって真理を他人への贈り物とする。したがって人間はこの暴き出しに責任がある。真理の開示はアンガージュマンである(『真理と実存』)。労働もまた行動である。労働は出発点において強制されたものとしてある。それは他人のための労働だ。到達点において労働の生産物は雇用者によって奪われる。これがマルクスの表現によれば、自己の譲渡(=他有化)と対象物の譲渡(『経済学・哲学草稿』)という二つの極だ。にも拘らずサルトルは、労働の内に自由の自覚の可能性を見る。労働する人間は材料に働きかけることによって材料を無限に変化させる可能性として自己を把握する、それが労働者にとって自由の最初のイメージだ、と(『唯物論と革命』)。
 それまでサルトル作品の主人公において、自由の経験は常に意識自体の自己把握として語られていた。ロカンタンがそうであり、オレストがそうであり、マチウがそうだった。マチウは動員の前夜、教会の尖塔を眺めながら、意識の無動機性を経験する。そしてこう呟くのだ。「おれは自由だ」。ところが『唯物論と革命』では、自由の自覚についての視点の移動、ないしは拡大があるのだ。後にサルトルはこれを労働のヒューマニズムと呼ぶことになる。戦後に見られる人間観の第二の変化は、相互主体性という考えの出現である。人間の自由は他人の自由に依拠しており、他人の自由は我々の自由に依拠している。したがって、私は他人の自由を欲しないではいられない(『実存主義とは何か』)。だが、彼はその後、相互主体性という考えを発展させなかった。相互性の考え方は、最後まで追求していくが、決して説得的ではない。
 後期(1950年代後半から)のサルトルにおいて、人間とは疎外された存在だ。我々は自由な人間としてこの世に生まれて来るのではない。例えばサルトルのようにフランス人として、ブルジョアの家庭に一人っ子として生まれてくる。一つの歴史を持った一社会のある家族に生まれるのだ。そこでは他人たちからあてがわれた役割が待ち受けている。人間を支配しているのは、人間を構成しているのは、こうした他者存在だ。存在は実存に先行する。思考を支配し、行動を支配するのも、吸血鬼のようなこうした他者存在だ。人間は無数の他者たちに住まわれている。人間の頭の中は他者たちの運動場とさえいえる。一人の人間は<彼ら>である。「我とは他者なり」(ランボー)であるどころか、「我とは他者たちなり」ということになる。『弁証法的理性批判』の中で用いられている実践的=惰性態という概念も、実は他者存在の巨大な母胎と言える。自由な実践を自由なものとして貫徹させず、これを加工し、ねじ曲げ、方向付け、その反対物に転化させる。しかも我々は生まれながらにこの実践的=惰性態(住居、家族、階級)の最中に埋め込まれた社会的な存在であり、職業も生活水準も未来の時間(平均寿命)も予め存在の中に書き込まれている。そしてこれら全てが歴史を指し示し、あたかも人間の歴史全体が、人間にとって他者存在であるかのごとくなのだ。このように後期のサルトルは、あらゆる次元で、人間の疎外-他者化を一つ一つ狩り出していった。我々自身の内に巣食う他者存在という言葉が多用され始めたのもこの時期である。
 しかし、一人の人間にとっても歴史にとっても、疎外-他者化の構造が深く掘り出されてくれば来るほど、疎外からの脱却は困難になる。運命が自由を覆いつくすかに見える。人間の自由はどうなったのか。後期サルトルにとって、自由の余白は大幅に狭められている。ジュネについてサルトルは解放を語ったが、フローベールについては語っていない。後期サルトルにとって、自由は、疎外-他者化の外部にあるものではない。生体験は全面的に条件づけられている。物質の狂気である生命(『家の馬鹿息子』)が、次第に意識の形態を取り始め、他者化を蒙っていく。その闇の中に亀裂が生じ、一条の光が出現する。そして疎外-他者化の構造に内側から反省的視点を取り始める・・・。疎外-他者化の構造は、不可逆的なものとして存在する。けれどもこうした構造に対し、反省を通して距離を置くことによって辛うじてその意味を変えることが出来る。これが後期サルトルにおける自由であって、人間はほとんど運命に近い。そこからペシミストのサルトル像を描けるかもしれない。ただ、最晩年のサルトルが、反抗-反逆による自由の自覚の可能性を語っているのは先述した通りである。
 前期から後期にかけてのこうした人間観の変化にも拘わらず、決して変わらなかった一連の言説がある。彼はポンジュの一句、「人間は人間の未来である」を何回も引用している。またパスカルの「人間は天使でもなく動物でもない」を、「人間はねずみと天使とのあいだのどこかにいる」と言い換えた。そして彼自身、人間は人間になるのだと繰り返し語っている。最後のインタビューでも執拗なくらいこのことを強調している。要するに、サルトルにとって人間とは生成であり、歴史とは疎外された人間、非人間が、物質性と動物性の中に埋もれながら、人間に辿り着こうとする運動、人間化の運動なのだ。これらのどの側面も、ヒューマニズムと言い得るものを指し示している。開示のヒューマニズム、行動のヒューマニズム、欲求のヒューマニズム、意味のヒューマニズム、生成のヒューマニズム。あるいは最後のメッセージ(「私は希望の中で死んでいく」)については希望のヒューマニズム・・・。しかし、最後になって、これらを束ねるものとして、<人間の思想>とだけ言っておきたい。命名が重要なのではない。重要なのは、人間が見失われようとしている時代に、彼が人間とは何かを問い続けて来たことだ。とりわけ人間の物化、非人間性はどこから来るのかを、人間は人間以下の存在から抜け出せるかどうかを考え続けてきたことだ。
 20世紀は戦争と革命の世紀だった。その戦争は人類の破滅を予告し、革命は崩壊し悲惨な姿をさらけだした。広島、長崎、アウシュヴィッツ、収容所列島、文化大革命、カンボジア、北朝鮮・・。20世紀はいかなる時代にもまして、人間が人間を大量に殺した時代、いかなる時代にもまして人間が人間を大量に監禁してきた時代である。人間がこれほど量として扱われた時代、人間を量として扱う技術を発展させた時代は他にはなかった。20世紀末、哲学者のレジス・ドブレは、21世紀は民族と宗教の時代になるだろうと語ったが、それが現実に最悪の形となって現れている。その背後で武器を供給し、あやつっているのは大国である。それだけではない。グローバル化と共に、様々な暴力が構造化されている。麻薬が売られ、武器が買われる。子供が売られ、臓器が売られる。こうした売買は経済のグローバル化、カネとモノの越境化によって加速され、複合化され、暴力のシステムを構成しているのではないか。人工知能、機械化によって人間が作り変えられていく可能性がある。歴史は人間を、人間だと信じている非人間に変えていくかもしれない。すでに現代は、人間についての研究は脳を研究すればよい、遺伝子を研究すればよいということになりつつある。軍事も政治も経済も文化も、システムを研究すればよいということになりつつある。哲学は科学に置き換えられ、真の哲学は神話として葬られつつあることと対照的に。























































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