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zoom RSS 実存主義と時代批判(3)

<<   作成日時 : 2017/05/11 09:24   >>

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 ヤスパースの『哲学』(1932年)の第一巻『哲学的世界定位』は、対象的認識の批判の書であり、哲学と科学との批判の書である。現代は科学の時代である。この科学は意識一般という「普遍妥当の知識の場所」すなわち普遍妥当の知識の成立根拠としての意識によって営まれる。しかし、科学は、現実的には、一定の立場(視点)からの、一定の方法をもっての、一定の対象についての認識であり、したがってそれは個別的諸科学である。それゆえに唯一の総体科学、全体知は存在しない。そして、一つの科学の内容からなる世界像を唯一の世界観にまで絶対化して、それを信仰することは誤りである。しかるに、科学の支配する現代においては、かかる「科学の迷信」が存在していると彼は批判する。ヤスパースの立場からすれば、一定の科学の絶対化による信仰に基づいての実践の絶対視は、無限に開いた理性に反することになる。彼の立場からすれば、科学の限界を意識しつつ科学を媒介し、現存在や精神ないし理念を媒介し、超越者に直面する実存の意識、換言すれば、愛に基づく理性ないし哲学的信仰による無制約的決断による行為が、真の実践となるであろう。
 ヤスパースは、技術と大衆との支配する時代として、現代を捉える。彼は科学技術の時代たる現代が、第二の、新たな枢軸時代であるとは解さない。現代における科学技術の進歩が、今までのあらゆる時代と比していかに偉大であっても、この進歩が直ちに直線的に精神的道徳的進歩につながるものとは彼は見ないのである。現代はむしろ人間そのものの存在の頽落が生じている時代である。彼はすでに、『現代の精神的状況』において、時代の頽落を水平化として捉え、また「人間は、目的やまして意味たるべきものではなく、ひたすら手段たるべきものに成り切ってしまおうとしているかに見える」と言い、人は「国家の危機」を、「文化の危機」を、「人間存在そのものの危機」を見出している、と言っている。
 また彼は、技術時代である現代における人間の喪失を、『歴史の根源と目標とについて』において、次のように言っている。「技術は環境界における人間の日常生活を徹底的に変革し、労働方式や社会をして新たな軌道を採らざるを得なくした。すなわち大量生産方式が採られ、社会全体を技術的に完成された機械へと変え、全地球を挙げて単一の工場と化した。これと同時に、人間の各自の地盤からの遊離が起こったし、今も現に起こっている。人間は故郷をもたぬ地上の住民となる。人間は伝統の連続性を喪失する。精神の働きは事物の習得と、有用な機能たる訓練に成り下がる」。そして「このような変動の時代は何よりもまず破滅的である。我々は今日、正しい生活形式を発見できないままに生きている」。「したがって個人を支配しているのは、自己自身への深刻な不満か、さもなくば、捨て鉢な自己忘却かのいずれかである。その結果個人は、機械の中の機能分子となり、非人格化して無思慮にひたすら生きることだけに没頭し、過去と将来の展望を喪失して狭い現存在へと委縮し、自己に対して不誠実で、要求されるいかなる目的に対しても没個性的に役立ち得るものと化し、したがって、衷心からの疑念も向けられず、験めされず、心を動かされることのない非弁証法的な、移ろい易い見掛けの確実性に呪縛されているのである」。現代人はかくして、「自己欺瞞」に陥り、「依って立つ確たる地盤をもたず」、「不安は絶望となる」のである。
 ヤスパースにあっては、政治的自由は実存的自由に基づく。暴力の否定、相互の実存的交わりとしての話し合い、公開性などのもとに、真のデモクラシーの実現を彼は望んでいる。彼においては、平和・実践の根源は、究極においては、人間性への信頼であり、そして人間性の本質は実存の理性なのである。『原子爆弾と人間の将来』(1957年の小著と1958年の大著と、同名のものが二つある)の小著で彼は、人類共滅の可能性をもった原爆の出現という新たな出来事から話を進めている。「もはや如何なる局外者も存在しない」地球全体の危機は、「人類全体に関わる一つの状況となって いる」わけである。かかる状況において人間は「道徳的-政治的転向の理念」を要するのであり、「人間が生き続けることを欲するならば、人間は自己を変えなければならない」と彼は言い、最後に信頼すべきものとして残っているものは理性である、として、「これこそ唯一のもの、そしてまた最後のものなのである」と言う。この小著の骨格に肉付けし、そして彼の政治哲学の根底をなす理性を詳説したものが、その翌年に出た同名の大著なのである。
 彼は、「政治的なもの」を導くものは、「超政治的なもの」であり、それは理性であるとし、この理性によって、認識と道徳と法と犠牲的精神とが真たりえ、理性はそれらにおいて実現され得る、と言う。したがって彼の政治の、世界平和の、根本目標は、理性の実現であり、この実現の条件として「思考法の革命」ないし「新しい思惟様式」を必要とするのである。この革命とは、主体的真理への転換であり、転回であり、覚醒なのである。そしてこの思惟様式とは、『真理と自由と平和』の中で示されているところの、「真理は第一に内容の中にあるのではなくて、いかに内容が思惟され、挙示され、論議されるかというその仕方の中にある。この「中にある」ということは、かかる思惟様式ないし思考法の根源にあるという意味のものであって、この根源は実存の愛に基づく理性そのものである。この真理が自由を可能にし、さらに自由が平和を可能にする。
 かくしてヤスパースの自由は、「人間的理性の自由」、すなわち実存の自由である。そしてこの自由が、政治のみならず、あらゆる人間の生活を規定すべき原理なのである。かかる自由への自己変革の道としての思考法の革命とは、彼にあっては、理性的に思惟することへと、我々が転回することなのである。
 ヤスパースは、歴史における進歩を、直線的に時代を追うて進歩するものとは見ない。それは、科学技術の進歩と共に、人間の精神的進歩如何を考えに入れ、両者を一緒にしての包括的な進歩という観点に彼は立つからである。今までの歴史においては、「知識や技術的能力の面では進歩が行われ、一歩の前進は次の一歩を引き起こし、獲得された成果は同一のままに伝えられ得るし、万人の所有物となる」のであり、「それと共に個々の文化や全文化の歴史を貫いて、成果の増大という一本の線が走っているが、しかしこれは、意識一般としての、非個人的で普遍妥当的な知識と能力とに局限されている」と彼は見る。したがって「世界史はこういう範囲での、上昇線を描くは点と解され得る。・・・しかしこれは、全体の内のただ一本の線にすぎない。人間存在そのもの、人間のエートス、人間の善良さと英知とは、何らの進歩をも為さない。芸術や詩はたしかに万人に理解されるが、しかし万人を代表するものではなく、その都度一回限りの凌駕し難い高さを以て、民族や時代に結びついている」。
 科学技術の進歩の結果、「現代において歴史が初めて世界史となる」のであり、そういう意味で「我々が今まさに始めるところである」のである。彼は、「現代世界の直面する状況」の中で、「歴史的に新しい、初めて決定的となった我々の状況は、地上における人類の現実的な統一ということである」と言う。すなわち、「地球は人間にとって交通技術的に征服されたまとまった全体となり、そういう意味ではかつてのローマ帝国よりも一層小さいのである」。このような状況において、彼は、今始まったばかりの世界史を、前述のごとき史観から、人類共通の課題たる第二の枢軸時代を目指して、展望し、その史観ないし政治哲学の原理たる実存の理性から、過去の歴史を顧みつつ、現代の批判をなしているのである。

 <ハイデガー>
 晩年のフッサールやメルロ=ポンティなども、近代科学の根底に潜み、これまで隠されていた根源的経験の再発見の道を歩んだが、この点ではハイデガーも彼らと同一の思想動向に属している。ただ彼の場合、経験の底に降りてゆくことによって根源的経験を探るのではなく、むしろ人間の経験を成り立たしめているものの側に立って根源的経験への帰向の道を拓こうとしている。
 ハイデガーはもともと存在者と存在との根本的区別を哲学の基本的主題と見なしていた。彼の哲学はこの区別を徹底的に問い詰めることであったと言える。ところが彼によると、形而上学はこの区別を使用してはいるがこの区別が何に基づくかを知らない。形而上学は存在者を存在において問うが、存在者が在るというときのその「在る」ということの真の意味に向かって問うことをしなかったのである。形而上学は存在者をして存在者たらしめている根拠を問いつつ存在者の存在を「たえず現存していること」として規定したが、その「恒常的現存」は存在者をその普遍性や一般性において規定する存在者性であり、また存在者をその全体において規定している最高の神的な存在者であったのである。つまり形而上学は、存在論であると同時に神論であり、存在・神論(オント・テオロギー)の機構において存在者の存在の把握を行ってきたのである。この存在論的把握には、たしかに存在者とその存在者との区別は使用されているが、しかしこの区別が区別として成り立つ根底的な根拠そのものは知られていない。
 ハイデガーはすでに『存在と時間』の中でこの区別を存在論的差異と名づけ、それを存在者からその存在へと越え出る現存在の超越に見出そうとしていたが、1930年代の転回によって、ついに存在の思惟において、区別が区別として現成してくるその動きを存在そのものの根本動向として思惟するようになる。そしてこの区別は、存在と存在者との二重の襞として語られ、区別が区別として成り行くことは、この二重の襞が自らを展開してゆくことであるという。存在者と存在とは別々に切り離されたものではなく、互に属し合い依存し合って、動的に統一されているのである。存在は存在者を存在者として在らしめる動きであり、存在が存在者を在らしめることと存在者が在らしめられて在ることとは同一のことである。二重の襞に従って、存在者は存在の中に現れ、存在は存在者の存在として現れる。存在が自ら明るむことは存在者が存在の明るむ場所で輝き出ることである。ところが存在は間断なく輝き出るそのことでありながら、それ自体は目立たないものとして、輝き出る存在者の蔭に身を潜め、そのようにしてのみ自らを示現している。これが存在の秘密と呼ばれる存在の真理の根源的な現成の仕方なのである。存在は存在者を匿われた相から匿われない相へと運び整える動きであり、秘蔵性から非秘蔵性への間断なき立ち出でなのである。この立ち出で現れ出ることは開蔵することである。人間は存在の開蔵する動きの中に引き込まれ、秘蔵性から非秘蔵性への動きを自らの思惟として、存在者がその存在に現れるために存在を言葉にもたらす。人間の思惟は存在者を存在に到来させる発語であり、この詩作的思惟において存在者がその名を呼ばれ語において現れ来るのである。この思惟は存在の秘密を秘密として守護し、見張り、存在の現れ出ることを受容する思惟である。このように人間は、存在が言葉へとやってくるために、存在に強要されて存在の明るむ場所へ開き出でて立つ脱自的・存在(エク・システンツ)である。
 ところが輝き出ること自体は輝かないことであるので、輝き出たものの外貌に囚われ、光に気づかれなくなってくる。そうなると存在者と存在との相互に属し合う二重の襞は閉じられ、全ては存在の秘蔵性の中に蔵されてしまう。存在者と存在との区別は現成せず、存在者と存在とは分離し、存在者と存在者性の関係に置き代えられてくる。存在の輝き現れることを受け止める思惟の受容性は、存在の働きから離れて自立的なものへと変わり、存在者を対立的に眺めて存在者によって存在者を規定する態度がそこに成り立ってくる。そのように「見られたもの」と「見る働き」とだけが取り残され、主観-客観-関係と呼ばれるものの原初的発生がそこに生起してくるわけである。形而上学的思惟は存在者を見ることにおいて規定してゆく自立的思惟であり、全てを「見られたもの」として思惟するために、存在者の全体の存在根拠を特定の存在者によって代置し、これを存在として思惟せざるを得なくなるのである。プラトンに始まる存在の忘却は、かくして形而上学として生起しているのである。
 存在忘却は、存在が存在者を在らしめつつそのものとしては自らを秘蔵することに基づいて発生する。つまり形而上学の成立区域そのものが存在の命運によって支配されている。ハイデガーは、形而上学が存在の命運として生起することに、時代画定の根拠があると言い、近代歴史学による時代区分や年代測定は、そもそも歴史学自体が形而上学的思惟に基づくものである以上、却って存在忘却を表すものにすぎず、近代を近代として規定する根拠は近代の形而上学そのものの本質の中に蔵されている。
 ハイデガーによると、近世形而上学は主体性の形而上学である。もともと存在者の対象化固定は形而上学の発端から始まっていることであるが、近世形而上学は、全ての存在者を対象として自己の前に置く作用に、つまり対象を対象として成立させる主体の側に目を転じ、主体の主体性を究極的存在者つまり基体として思惟することによって主体性の形而上学として生起してきた。全てのものは「われ思惟す」の働きにおいて、作り上げられ、前に置かれ(表象され)たものとなり、もはや疑問の余地なく確実なものと見なされ、知において現存するものとなる。近世形而上学において、これら対象の成立の可能性の制約として存在論的表象作用の最初の客体となるものは主体であり、それ自身全ての対象を対象であらしめている根源的対象性として、主体の主体性は存在者の存在者性、つまり「恒常的に現存するもの」として思惟されてくるのである。このことはデカルトにおいてすでに、自我は表象されたものを表象作用に対して保証する確実性であったことにうかがえる。この確実性こそ近世形而上学における真理の規定なのである。
 ところが主体性の形而上学にとって、始めの内はまだ蔽われているが次第に露呈されてくるのは、意志への意志としての主体性の本質である。一切の知の根底に横たわる無制約的なものは、自己自身を意志する意志であり、主体性が意志として自己を貫徹することが形而上学を完結に導き、この完結した形而上学が技術なのである。このようにハイデガーは技術が形而上学であるという見解を下しているが、この洞察は表象作用がその本質において意志作用(意欲)と結びついていることを理解すればさほど異様なものではない。すでにライプニッツにおいて perceptio と appetitus とが vis の概念において統一され、この統一の中で相互に属し合っていたが、こうした知と意志との相互依属性は、ヘーゲルの意志としての精神の絶対知の形而上学において主体の主体性として思惟され始め、ヘーゲルの形而上学において形而上学の完結が開始される。そしてニーチェの権力意志の教説において、意志が究極的なものとして思惟されることによって形而上学は哲学としての最終形態に達するのである。しかし形而上学はもはや形而上学とは言えない技術において完結する。技術は、哲学としての形而上学が発する「存在者とは何か」という問いをもはや問わない。にも拘らず技術が完結した形而上学といわれるのは、技術において意志が知と結びついて、意志への意志として自己を貫徹して来るからである。
 技術の本質は人間学的規定によって表象されるものではなく、もともとテクネーの語が意味していたように技術それ自体も一つの産み出すことであり、変質したテクネーとして、存在者をその存在へと開蔵する一つの仕方であるということである。さらに、完結した形而上学としての技術において意志への意志が自己を貫徹することによって、形而上学として生起していた存在忘却がその極まりに達し、存在の空疎化が最高の危機をもたらすということである。
 通常、技術の本質を人間学的に規定するときには技術は目的への手段として、したがって人間の行為と見なされる。なぜなら人間が目的を設定してその目的に達するために手段や装置を仕上げるからである。目的のために手段を使用するとき、そこに因果性が働いている。ところが、因果性とか原因とかは、もともとプラトンとアリストテレスの思惟において、誘因を起こす様々の仕方が互いに共働することとして思惟されていた。誘因を起こすことは、いまだ現存していないものを現存へと到来させることであり、秘蔵性から非秘蔵性へと取り出すことである。「〜から〜へともたらすこと(産み出すこと)」は、匿われているものが匿われないものへと到来することであり、開蔵することである。この産出は、手仕事的な仕上げや芸術家の詩作などを意味するだけでなく、もともとフュシスの自らを開く動きも一つの産出であり、ポイエシスの語の本来の意味がそこにあった。例えば花が咲きほころぶその開花の営みは自然が自ら開き現れる自然そのものの産出に他ならない。自然も芸術も共に産出であり開蔵なのである。技術のもとの語であるテクネーは、自然のようにそれ自らの中に開蔵をもつのではなく、他のものの中に、例えば職人や芸術家の中に持つときに使われていた。近代技術もやはり一つの開蔵である。しかしそれはもとよりポイエシスの意味での開蔵ではなくむしろテクネーに由来するが、それは本来のテクネーとは全く別の仕方の開蔵である。
 例えば農夫の行為は本来は田畑を置き定め、自らと自らの行為を大地とその育む力に任せるものであったのに対し、近代農業産業は古い耕作地を挑発的な置き立てる作用に引きずり込んでしまう。技術において置き立てることは用立てることとなり、全てのものが用立てられたものとして編成されてゆく。技術によって対象は用象と化し、表象する人間に対立する意味での対象的性格さえ失われてしまうのである。用象は、存在者が用立てられたものとして自己を示す非秘蔵性に対する名称である。このように存在者が用象となり、開蔵することが用立てることとなったとき、挑発的な置き立てる作用は、あたかも存在の根源的な動きが存在者をその存在へと取り集めることであったように、ひとつの取り集めとしてまとまりを帯びてくる。技術の本質は非秘蔵性が生起する一つの仕方なのであり、その意味で形而上学の本質の現成する形而上学の根本境域から思惟されねばならないのである。
 自然認識が経験に訴えることなく概念的に表象された事象の成立の可能性を証明できるのは定義による事象の規定においてであって、定義が事象の生産を自らに含む認識の例としては数学的認識が挙げられる。例えば円の数学的定義はその円の生産(構成)の法則を自らに含んでいる。このように自然認識は理論的定義において科学的認識として完結するが、このときかつて人間自らの手によって産み出されたものの領分に限られていたテクネーの意味は変質し、我々によって仕上げられたものは、我々が存在者についてもつ知の中に根拠をもつようになる。自然科学的認識は自然の事物の合法則的な生産の認識であり、自然は合法則的作用の認識対象である場合、この自然法則は人間の理性において表象されるからである。つまり自然は人間理性によって表象された法則に従って作用する。そしてこの法則の表象に基づき、それに導かれた作用が意欲作用なのである。すでにカントは意志の意欲作用について次のように定義している。「自然の事物はいずれも法則に従って作用する。ひとり理性的存在者だけが法則の表象に従って行為する能力、または意志をもつ」。人間の意志行為はすでに自然法則を知った上で自然を意のままにしようとする。ところが以前は意志が関わるのは人間の手によって仕上げられたものにだけであったのに対し、自然認識が合法則的認識となり法則が人間理性によって表象され、自然がこの法則に従って作用することになると、自然そのものの作用が意志の作用の可能性に転化し始める。意志は自然の作用の従う制約に自らを結びつけて自然の作用を手中に収め、それを意のままに操り、さらにはそのことによって作用の制約を自ら創り出し、これまで自然そのものが自ら果たし得なかった作用をすら発生させるようになる(核分裂、遺伝子操作等々)。つまり人間が自然の作用を意のままに操舵して極度の活動性にまで自然を解放するという形で、限りなく自然に挑発してゆくことになるのである。存在者はもはや表象されたものではなく役立つものとして、ひとつの新しい秩序体系のメカニズムの中に編成され、意志は存在者の秩序の余すところなき保証のために、存在者全体の保証の計画的算定の役割を人間に要求してくる。
 意志の主体は人間ではなく意志それ自体である。存在の真理の原初的現成が現-存在としての人間を必要としたように、意志への意志もまた意志支配の担い手として意志支配の主体の役割を人間に命じ人間を意志に奉仕させる。意志の主体はもともと意志自体であり、意志は意志への意志として自己自身の主人となり一切のものを意のままにしようとする。人間はこの意志支配を根拠づけ、整え、構築し、貫徹することを意志から委託され、この委託が人間にあっては技術的思惟として働く。人間は全てを原料として用立てる技術においては最も大切な原料とされるのである。用象を確定し利用するための秩序体系のメカニズムの整備はあらゆる分野に亙って計画され、人間の知性は無制約的収支決算のためにもはや高度の本能と化してしまっている。
 全て開蔵することは、すなわち非秘蔵性の現成は両義的である。秘蔵性から非秘蔵性へと現れ出る存在の動きは、現れ出たものの蔭に自らを匿すからである。ハイデガーは技術は最高の危険であると言う。技術における開蔵がそれ自体のもつ自己偽装だけでなく、同時に他の全ての開蔵の可能性を駆逐してしまい、自らの由来を匿してしまうことによってポイエシスとしての産み出すことを命運的に塞いでしまうからである。技術はこの意味で二重の偽装をもつ。技術が最も危険であることは技術が危険のなさの見かけを装い、そのようにして深く自らの本質を匿くして全てのものを命運を失ったものとして、無歴史的なものとして硬化させる点にある。かくして存在の忘却は存在放棄として決定的様相を呈するにいたり、存在の空疎さから全てのものが区別と位階を失って等形性を帯びてくる。意志への意志の支配のもとで、大地の全ての人類の無制約的等形性は、絶対的に定立された人間の行為の無意味さを露呈する。
 この無意味さは、意志支配の高まりによって生じてくる目標喪失性と共に意志の自己偽装によって匿されている。意志の意欲作用はたしかにそのつど目標を持つが、目標は意志を規定することはできず逆に目標設定は意志に支配されて目標は意志に仕え目標表象は自由に取り換えの利くものとなる。意志支配は根本において目標としての目標を排除し無目標性をその基本的条件とするので、意志支配の高まりは同時に目標喪失性の蔓延を意味している。ところが意志は目標なしに何物をも意欲できない。目標喪失は意志の意欲作用を脅かすのである。そこで意志への意志は目標喪失性を前景に押し出すことを極度に嫌い目標喪失性を匿そうとする。このように意志は自らの本質を匿す仕方で我々の生活を支配している。意志は自らの本質を匿すので、現実に生起している技術の全体的仕組みの背後を覗くことが出来ず、今日の技術のもとでの生活は不安にさらされている。技術がひとつの開蔵としてもつ秘密の保持が、今日の不安の源泉となっているわけである。そしてその秘密として保たれているものが、目標喪失性であり無意味さであり無であるのに、この空しい無を知ることなくそこへ向かって自己を貫徹しようとすることはさらに無気味なことなのである。ここにニヒリズムの完結的な現出形態が技術の本質との関連において見出されていると言えよう。
 しかし大地の祝福を受容することは我々には閉ざされてはいない。だがそれはいかにして我々に開かれて来るものなのであろうか。言うまでもなく技術的世界に盲目的に反抗したり呪ったりすることは技術の支配に対する無力を物語ることに他ならない。ましてや技術的装置を統御する新しい技術的人間的知性の樹立を説くことはそれ自体技術に奉仕することでしかない。技術の恐ろしさは技術の所産が人間の生存を破滅に導くことになるのではなく、むしろ人間が技術の本質に対して何ら思惟することなく世界のこの転化に対して無用意であることにある。「今日の人間は思惟からの逃亡の途上にある」とハイデガーは言う。ところが存在忘却はもともと存在が自己を匿すところに由来する。技術は非秘蔵性のひとつのあり方として、一つの命運として命運であることを自ら匿している。しかし技術は、その本質の中に、技術が命運であり開蔵との配置であるということを、つまり存在忘却の由来を蔵している。技術が非秘蔵性である限りそこに存在の真理の現成する根本境域への道は塞がれてはいない。技術の本質を危険として受け止め、技術の用立てる作用が唯一の開蔵する仕方ではないことを経験すること、このことがまさに救うものの育ちゆくことに他ならないが、このことはまた形而上学にとって匿されている形而上学の本質への帰向の道として、思惟の道として語られる。技術の本質の中への瞥見は、やがて閃きとなって人間を非秘蔵性の世界へと連れ込むであろうが、それは普段の弛みない敬虔な思惟の歩みと共に近づいて来るものである。

 <マルセル>
 ナチスが強制収容所で、囚人たちが人間としてのあらゆる自尊の念を失って、自分を全く無価値のものと認めるに至らしめた、あの組織的なやり方を想起すれば、それは恐るべき終末論的なことがらであると認めざるをえない。「人間を苦しめるためには、収容所の中で彼を殺す必要などなかった。泥の中に落ち込むように、彼を足で蹴るだけで充分だった。泥の中に倒れるということが、人間として滅びることにも等しかった。起き上がる者は、もはや人間などといった者ではなく、泥で捏ね上げられた滑稽な怪物だった」。囚人相互のスパイ活動を奨励したり、互いの間に怨恨や嫌疑の念を助長することによって、彼らを人間性の根底から堕落させることが問題だったのである。ここでは人間の良心を内部から汚すことが目指された。この歴史上最も非道な集団的大罪が可能になり得たのはなぜか。その根源は形而上学と神学との深遠な領域の中に求められるべきである。実際、人間性失墜の技術が作られたのは、キリスト教が人間存在に附与した聖なる者としての性格を、根本的に否定するような状況においてであった。神が死んだとすれば、したがって、人間は神に似せて創られたという思想も滅んだとすれば、人格という理念そのものも根拠を失い、人間の尊厳はもはや否認される他はないからである。
 いかなる宣伝も、人間の意識が自由に操縦し得るものだという主張を含んでいるが、これは人間の精神が真理に対してもっている厳然たる定めを冷ややかに否認するという一種の冒涜を意味する。したがってまた、世論の操作を職務としている人々においては、真理の意味そのものが、知らず知らずのうちに失われてしまうのであり、職業的プロパガンディストが自分の真理こそ真理そのものだと常に確信していられるためには、容易ならぬ単純さが必要であろう。こういう単純さは全くの狂信者にしか見出されないだろう。狂信者は孤立していることはまずない。彼らは常に仲間の中にあり、そのお互いの間には一種の癒着状態というべきものが形成されている。それが彼らを熱狂させる絆として感じられ、一人のファナチズムが他の者のファナチズムと触れ合うことで、絶えず再燃されてゆくのである。ファナチズムの中核となる者は、抽象的な観念ではなくて、多くの場合、観念の権化と見なされた個人である。こうした事情は全て、狂信化が大衆の中で行われる現象であることを示している。
 大衆については、オルテガが次のように言っている。「今日我々が住んでいる世界の特徴は、凡庸な魂の者たちが、自分の凡庸さを承知の上で、厚かましくも凡庸の権利を主張し、この権利を至る所に押し付けるということにある。・・・大衆は、大衆に似ていない全ての者を一掃してしまう。優れた者、個性的な者、特質的な者、および選ばれた者の一切を一掃する。全ての人に似ることなく、全ての人のように考えない者は、誰彼の区別なく、抹殺される危険に身を晒すことになる。そして明らかに、この『全ての人』というものが、もはや全ての人を意味するのではない。かつては全ての人と言えば、通常、大衆と少数の専門的立場の反対意見の持ち主たちとを、完全に統一したものであった。今日では、全ての人とは単に大衆であるにすぎない」。マルセルはこのオルテガの文章を引用して、現代社会の病弊について下された最も明解な診断だと賞揚すると共に、オルテガがこの『大衆の叛逆』を書いた後になって、大衆というものがいかにプロパガンダに左右されやすく、狂信化されやすいかが明らかになってきた、と付け加える。
 大衆が狂信化されやすいのはなぜか。個人が大衆の一員になるためには、自己本来の独自性をもつ者、具体的小集団に所属する者としての、自己の実体的な実在性を、すっかり空虚にされることが必要である。今日のマス・コミはまさに、こうした原本的な実在性に一種の圧搾ローラーをかける不吉な役割を果たしている。その結果、個々人は主体的存在の中にある一切の現実的な根から切断され、外から附加されたにすぎない観念や心像をもって、この原本的な実在性とすり替える。このように自己固有の実在を空無化された者は、無意識の餓えに悩まされており、プロパガンダの与える糧によって飽かされ易く、ファナチズムの情熱によってのみ生き続けることができる。この情熱は恐怖を根底とし、自ら気づかないような不安定の感情を含んでいる。それが外に向かっては攻撃的態度となって現れるのであり、また、ファナチズムが常に、検討に附されることを拒否する傾向をもつのも、このような恐怖の存在によるのである。
 狂信化された意識は、自分自身の磁針に感応しない全てのものごとに無感覚になるものである。このような無感覚と想像力の欠如は、ある意味で病理学的現象だと言えよう。人間には通常、意識の焦点というべきものがあって、単に空間的に身近にあるばかりではなく、親密感によって結ばれている他者や諸事物との関係の内で、自己を位置づけるものである。しかし今や、こうした諸関係が解体に瀕している。そこで、おそらく人間存在の深層に横たわる原因によって、さまざまの空想的な焦点が、現実の焦点に取って代わろうとする現象が起こるのである。この空想的焦点と意識の間に作り出される関係が、意識そのものを強直痙攣させるのであり、ここには、誰が何と言おうと自分はこうと断定するのだ、という自負と、それを否認する者はことごとく絶滅しようとする決意が漲っている。この、いわばファナチズムに充電された意識は、もはや到底思考の次元に立っているなどと言うことはできない。
 このような道徳的病は、とくに抽象化の精神の持ち主の間に蔓延している。それではこの抽象化の精神とは何か。それ自体一つの方法にすぎない抽象化を、終局的なものと見間違えることが抽象化の精神である。例えば経済的諸事実のみから出発して、人間の現実の全体を解釈しようとする場合などを考えて見ることが出来よう。抽象化の精神は現代の戦争においても大きな役割を果たしている。現代の戦争は単なる利害の衝突によるものではなく、常に何らかのイデオロギーのために戦われる疑似宗教的性格をもっている。このように作り出された抽象観念は、それ自身一個の実在と見なされる。現代の我々の世界は、抽象観念が抽象観念のままで実体化する世界である。
 技術は抽象化を必要とするが、抽象化の精神はまた、技術支配の中にこの上ない培養基を見出す。技術による、人間を束縛する様々の物質的条件からの解放自体が人間を奴隷化するに至る逆転現象を指摘しなければならない。ここから技術支配が生じるのである。この観点から見るならば、技術は何よりも欲望と恐怖に奉仕するものである。したがって技術による生活の向上なるものは、つねに安楽度の増進と苦痛の軽減を基準として測られる他はない。技術化された文明の中に生きる現代人は、こうして快楽と苦痛の直接的な感覚以外の何ものも残らなくなってしまい、その生の精神的内容は貧しい空虚なものになってしまうのである。
 さらに、人間は最初機械の支配者であったが、今日では機械が生産の主役となり、人間に協力を強いることになった。こうして人間は次第に機械に似たものとならざるを得ない。人間は機械をモデルにして、いくつかの機能の束と見なされ、その効率によって測られることになる。睡眠や休息、娯楽までが、それぞれ必要な生の機能として日課表を満たすのである。この機能を軸とする世界では、病気は単なる故障であり、病院はあたかも修理工場の観を呈する。死は使用済み、廃棄処分以上の意味を持たない。こうしたことは全て、人生それ自体に対する重大な罪であり、それは人生からその聖なる性格を徹底的に奪い去ってしまうのである。
 技術はまた、自然を技術によって完成されるべき、それ自身不完全な単なる素材とみなす。こうして自然の技術的改造は時として、涜聖の行為(クローン人間等)とさえ見えてくることがあるが、さらに同じ理由によって、人間は己を、それ自体としては全く無意味なこの世界に、意味を与え得る唯一の原理と見なすに至る。
 こうした技術的メンタリティから見れば、信仰や瞑想は全くその意味を失ってしまう。なぜなら、技術はその対象を己の思いのままにすることであるが、瞑想はこの点でまったく無意味であり、信仰はまたまさしく技術とは正反対に、己を対象たる神の意志に委ねることに他ならないからである。こうした技術の倨傲との関連で、更に注目しなければならない技術の特性は、それが精神をこころみに誘い込むことである(ここでこころみ tentation というのは、「主の祈り」で「われらをこころみに引きたまわざれ」という意味で言われている)。このこころみは権力に結びついている。技術は我々に他者に対する権力を与えるが、我々は何らかの権力を与えられると、それを濫用したいというこころみを受けずには済まないのである。こうして技術支配の精神は権力意志に奉仕する危険に常に晒されている。権力意志は仮借なく人格の権利を踏みにじり、己の目的を達成するためには、いかなる手段を取ることも厭わない。今日の技術支配の文明には、このような権力意志の技術行使に対して、真に倫理的な抑制を為し得る唯一のものが欠けている。聖なるものの意識こそ恐らくそれであり、現代人がそれを再び見出すためには、一種の回心を必要とするであろう。
 以上のようなマルセルの現代文明に対する批判と、彼自身の哲学(という言い方を彼自身は好まないが)と、どのような関係があるか。マルセルはその最もまとまった文明批判の書『人間それ自らに背くもの』の冒頭において、この二つの領域を分離し得るという考えを断乎として排斥する。彼の哲学上の仕事は「抽象化の精神に対する休みなき執拗な闘い」である。その点で彼の師はベルグソンとヘーゲルであった。彼によれば哲学の唯一の方法は反省であるが、この反省は「具体的なものに拠って具体的なもののために」行使されねばならない。このような言い方は反省を知らぬ人々を驚かすであろう。実際、具体的なるものは、最初に与えられ、我々の思惟の出発点をなすものと考えられがちだが、これほど誤った考えはない。直接の所与を具体的なものとすることを斥ける点で、ベルグソンとヘーゲルは一致している。最初に与えられているものは、命名し難い一種の混沌であって、そこには仕上げの出来ていない色々の抽象的観念が、同様に何ら消化されないまま附着物を形成しているのである。それに反して、具体的なものは反省によって絶えず獲得されねばならないものである。
 ここに言う反省とは、マルセルのいわゆる二次的反省である。最初の混沌を抽象化によって概念的に整序化するのは、一次的反省である。しかし抽象概念は実在の最も本質的なものを掬い漏らす、目の粗い網にすぎない。この本質的なものは普遍的なものであるが、真に普遍的なものは一般的なものではない。ましてや大衆的なものではない。ごく少数の人々にしか解されないような創造的芸術が、それゆえに普遍性をもたないと言えるだろうか。普遍とは深さの次元で語られるべきものであり、その限りでまた、個性的なものと深く契合するのである。現代文明が陥っている抽象化の精神に対して、我々を守るものは、神の恩恵に次いでは、深い反省でしかあり得ない。この深い反省、二次的反省は、盲目の直観に助けられながら、抽象化によって失われた具体的現実の核とも言うべき、存在の神秘を回復することを使命とするのであり、それこそがまさに哲学することに他ならないのである。

 <サルトル>
 サルトルの思索はその出発点において、その時代の問題史的状況によって深く決定され、晩年に至るまで、常に自らの生きるフランスの現実そしてヨーロッパ現代の運命との対決によって貫かれていた。歴史的現実に生きてサルトルは、絶えず現実の問題を自己のものとして引き受け、発言し、行動し、そしてこれを通してまた自己の思索を鍛え直しているのである。人間性をねじ曲げるものに抗議し、人間の自由の回復を求めて戦闘的に活躍しているのである。
 彼を哲学に駆り立てたもの、それは彼の実存体験だった。それは何の理由にも支えられることなく、全くの孤独の中に投げ出され、それゆえに自己の選択と責任において生きざるを得ない、意識をもつ人間の自由の体験であり、そしてこの自由を脅かす、これまた何の存在理由をも持たずいたずらに自己同一を保って存在する量的で不透明で余計な実在するもののもつ存在についての体験である。彼の努力はこの体験に支えられて意識と意識に示される世界の実在性、そして両者の関係を問うことに向けられてるのである。彼はデカルトに多くの影響を受けているが、それは17世紀の混乱した時代に生きて、自己にとって最も確実なものの上に一切を基礎づけようと試みたデカルトの懐疑の内に、20世紀の危機と窮乏の時代に生きて、人間の主体的自由を確保せんとする自らの問題意識に共通するものを見出したからに他ならない。しかし、同時に具体的なものに対して積極的な関心を抱く彼にとって、現実に対して暫定的道徳を説いたデカルトの内面的自由は取るところではなかった。大学に進学したサルトルは、進んでマルクスの思想に接触している。しかし資本主義社会への批判においてマルクスに共感を抱きつつも、なお彼はこれに対して態度を留保した。デカルト哲学より意識の明証性の教説と意識の主体性と自由の主張を学んだ彼にとって、自分なりの基礎づけを欠いたままにマルクス主義に身を投ずることは出来なかったからであり、意識の絶対的独立性を認めないマルクスの思想に自己の要求の全面的な満足を見出すことは出来なかったからである。そして、彼の関心はここにおいて社会的政治的なものより、人間的個人的なものに転じ、ヤスパースの精神病理学やフロイトの精神分析学に向かったのである。
 ところで、意識の絶対的自由を認めながらも、実在するものの持つ重みも十分に認める彼にとって、問題は両者の関係であり、これを明らかにする固有の立場が求められねばならないが、この要求は当然観念論とリアリズムとを共に超えた立場において真の満足を見出すものである。そしてこのような立場を模索するサルトルが見出したものが、フッサールの現象学であり、意識の志向性の教説であり、ハイデガーの哲学であった。サルトルは自己の固有な関心に立って批判的にそれらを自己同化した。これによっていわばフッサールの形相的現象学とハイデガーの解釈学的現象学との中間に立って、本質直観を導くフッサールの意識と、超越との結びつきでハイデガーが基礎づける現存在の投企の活動との総合を、両者に対してより人間学的な立場で遂行することによって自己の現象学的存在論の立場を得ているのである。サルトルはまたコジェーヴを通してヘーゲル哲学に、ことにその『精神現象学』に接触したのである。ヘーゲルの問題も、主体と客体、思惟と存在、意識と世界との対立の統一であり、サルトルの問題と共通したものである。そしてコジェーヴは、このヘーゲル哲学、そして意識の経験の学としての『精神現象学』を、フッサールやハイデガーの現象学との結びつきで、しかも人間学として理解する道を示したのである。そしてサルトルは人間の超越を弁証法の論理にもとづいて開示する示唆を得たのである。もとよりこのことは、ヘーゲル哲学の立つ絶対的観念論の立場を受け入れたことを意味するものではない。しかし、ヘーゲルが主題とする主奴関係、自己疎外、不幸な意識と神の死などの展開の内に、人間的生の事実を見出し、これらを自己の問題として引き受けることによって、彼の現象学がただ単にフッサールやハイデガーの現象学に由来するものに止まらず、同時に強くヘーゲルの『精神現象学』との結びつきで、成立するものとなっていることは確かである。そればかりではない。コジェーヴは彼のヘーゲル理解をフッサールや、ハイデガーの哲学との結びつきで行ったばかりではなく、マルクスとの結びつきで行っているのである。ここに我々は1932年マルクスの『経済学哲学草稿』と共に、ヘーゲルの『イエナ体系構想 精神哲学』が公刊され、ここにあらためてヘーゲルとマルクスとの間に極めて親近したものがあることが見出されて、一方ではヘーゲルをマルクスに近づけて解釈する立場が生まれると共に、他方ではマルクスをヘーゲルに近づけて解釈し、そこに見出される人間の自己疎外とその克服の主張をもってマルクス主義の中心概念とし、客観主義=実証科学主義に傾斜しつつあったいわゆる正統派マルクス主義に対してマルクス主義の哲学的契機、そして主体的自由を強調する立場が生まれたこと、しかもこのような理解を示したレーヴィットやマルクーゼが、いずれもハイデガーの影響下に立つ学徒であったことを想起すべきである。コジェーヴもこの系譜に立つものなのである。ここにサルトルは、先に態度を留保せざるを得なかったマルクスの思想に対して自己の現象学的存在論の立場から、そしてヘーゲルの『精神現象学』を通すことによって接近し、対決する道を得たのである。ここにデカルト、フッサール、ハイデガー、ヘーゲル、マルクス、フロイトと言った思想が、サルトルの内にあっていかに結びつき、彼の哲学的思索を培うものになったかは明らかであろう。
 『存在と無』において、彼は意識に対象として現象する、意識から独立にそれ自体で存在する即自存在との拮抗関係に立って、これとの統一を目指しながら限りなく挫折する対自存在としての意識の投企を執拗に追及し、しかもこの悲劇的運命に生きることの内に、他の実在するものの存在と異なる意識的存在としての人間存在の実存的自由を見出している。我々は机があり樹が存在するという。しかも、これらはそれ自体で存在するものであるという。それらはいずれも、それであるところのものであり、それがあらぬところのものであらぬ即自存在である。しかし、存在を問いこれを意識する人間は同様な意味で存在することは出来ない。意識は常に何ものかの意識である。意識は何ものかが自己に対して存在するという仕方で存在するものである。これによって意識は対自存在である。しかも、意識が志向する何ものかは明らかにこれを志向する意識とは別のものであり、ところでこのとき、もしこの何ものかをもって存在と名づけるならば、意識はいかなる存在でもない。これによって、元々存在と言われるに相応しいものは即自存在であり、対自存在は存在と名づけられても、まことには存在する何ものでもなく、存在の他、すなわち存在の無であると言われなくてはならない。我々が存在を問い、存在において事物や状況を肯定したり否定したりすることが出来るのは意識の働きに拠るが、それは意識が存在の懐にあって無を介入させ、存在するものとの間に距離を作り出していることによるのである。対自存在は即自存在を無化するという仕方で、対象を定立する作用そのものである。それならば、、ここに意識は何ものかの意識として、何ものかとの間に、すなわち対自は即自存在との間に統一を実現させようと目指すにしても、この企ては全て失敗に終わると言わなくてはならない。なぜなら絶対に超え難い無の裂け目が両者を隔てているからである。意識は自己が志向する何ものかになることはできず、また何ものかが意識を埋めることができない。ここに即自存在との一致を求めながら、これを実現できない対自存在は、即自存在とは相違して、それがあるところのものであらず、それがあらぬところのものであるような存在として特徴づけられねばならない。何ものかについての意識は、また自己自身に対してさえも常に無を介入させ、絶えず距離を置くように存在するのである。これによって、対自存在は決して自己自身と一致し得ず、絶えず自己を脱して存在するのである。すなわち人間は単に存在するのではなく、限りなく生成するものであり、実存するものである。しかし、このことはまた人間存在の根源的な自由を示すものに他ならない。もし人間にとって自らそれであるところのものをもって人間の本質であるとすれば、人間は本質に規定されず、人間においては実存は本質に先行するのである。人間はまず実存し、ついでこれであったりあれであったりする。実存することによって自己を作り出していくのである。もとより対自存在としての意識はそれだけで実存するのではない。具体的現実的な人間は対自としての意識が身体や状況などの事実性によって支えられ、世界の中に投げ出されている限りで、この私として実存する。具体的現実的な人間は即自に付きまとわれた対自であり、存在に支えられている無である。しかし人間は無を隔てて世界に対している限りにおいて、世界より自由であり、自己の選択と決意によって世界に向かって目的を投企し、これによって状況や事物を様々に感じ、理解し、また変革していくことができるのである。


































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