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zoom RSS 実存主義と時代批判(4)

<<   作成日時 : 2017/05/14 13:55   >>

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 ここから明らかなように対自存在としての人間は、無の只中に立つことにおいて自由である。予め自己の本質をもたないということは、人間の存在が偶然的であるということである。自己が選択した価値の真理性や決意の持続性を保証するものは何もないのである。これによって人間が自己の自由を意識するのは不安においてである。しかし不安に堪えることは重荷である。自由でしかないということは苦痛でもある。そこで人間は不安を避けようと、自己に向かって自己の自由でないことを立証し、自己の自由から眼を背けようとする。これは自己欺瞞である。自己欺瞞とは、自分が真実を誰よりもよく知っていながら、この真実を他ならぬ自分自身に対して隠蔽しようとすることである。そして人間が不安を逃れようとするのは、不安を意識すればこそであれば、不安からの逃避はそれ自身不安を意識する一つの仕方でしかなく、すなわち自分が不安であることを知りながら、この真実を自己に対して隠蔽しようとする意識の企てに他ならないからである。ところで、自己に向かって自己が自由でないことを立証しようとすることは、自己を自由でない事物や道具、すなわち即自存在として見なすことである。これによって意識や行為が何か人間の精神を構成する心理的要素によって揺るぎなく決定されていると考えたり、過去の名声にしがみつくなど、自己をある一定の状態に固定したり、自己の存在の偶然性を否定し、連続性を信じたりするのは、いずれも自己欺瞞である。また誠実な精神は、人間には果たさねばならない義務があるとか、世界には意味があり、行為が即すべき法則があると信じ、遂行しなければならない義務があると説くが、しかし役割を果たすことは周囲から目されたところを演ずることであり、世界に見出される意味や法則は自己の自由が世界に与えたものであれば、このような態度も自己欺瞞である。いずれも自己を外から捉えることによっていわば自己を自己が対象として見出す他者や事物と同じものにするからであり、対象に出発して自己を規定するものだからである。ここでは超越は物化されているのである。ここにサルトルの不安をもって自由の意識とする分析には、キルケゴールからハイデガーを貫く不安の概念の影響を見ることができる。またその自己欺瞞の分析にはフロイトの、誠実な意識の陥る相互欺瞞にはヘーゲルの、物化の概念はマルクスの影響を見ることができる。しかしヘーゲルやマルクスにおいては人間の本質が精神や類的存在として自覚され、その実現が自由と共同の調和よりなる人倫的国家や共産主義社会の内に期待されている。しかしサルトルにおいては自他の間には永遠の相克があるだけである。サルトルの弁証法には総合はない。
 さて、サルトルは自らの立つ人間観を全体的な人間観と特色づけ、これに対して近代の人間観を支えるものは分析的精神であるとした。そして、彼のブルジョア社会に対する批判は彼の自己欺瞞の分析を追うものでもある。
 およそ分析的精神の根本的要請は、複合体は必然的に単一要素の配合に帰せられるべきであるということである。また、分析された諸要素は、その本質的特性を不可変的に持ち続けることを要請される。ここに如何なる状況にも変わりなき実体的な普遍的人間性が確立される。明らかにここに示されている社会原子論や心理原子論は、社会契約説や経験論の立つ心理学や認識論などが基づくものであり、人間性の普遍性の主張は、近代の理性的人間観が基づくものである。万人は平等であると人権宣言は唱える。それは万人が等しく人間の本質を分ち持つからである。万人は兄弟であるという。しかし原子化された社会においては、この紐帯である博愛は、個々人の並存を覆い隠す外面的で感情的な関係であり、消極的な連帯にすぎない。また万人は自由であるという。そしてこの自由への障害を除去するのが国家の任務であるとされる。ブルジョアジーは、人間の間に本性上の相違があるという思想に基づくあらゆる特権を打破するために、この普遍的人間性の神話を作り上げたのである。
 今日でも分析的精神は依然としてブルジョア・デモクラシーの公認理論である。支配階級となったブルジョアは全て神聖な権利をもった人間である。彼らは上流階級に生まれ、高い地位と社会的役割を果たすために彼らは存在しているのである。この時、彼らにとって被抑圧階級は自分たちに奉仕するために存在する道具、手段にすぎない。そしてまた被抑圧者も自分が存在する権利を持っていないことをその生活の出来事の一つ一つを通して繰り返し思い知らされる。彼らは就職するがそれは彼らが誕生以来背負っている不当な生存の継続を許すためにすぎない。彼らは社会のために働くがその社会との連帯を少しも感じない。彼らの労働は物質に対し、技術を通してこれを加工するにある。そして物質の問題は分析的にしか取り扱われない。このことが彼らに分析的精神を植え付け、これによって彼らはブルジョアと同じ、万人平等の人間観を受容する。彼らはブルジョアとの境遇の違いは認めながらも、根本においては人間性の同一性を信じ、ブルジョアと同じ人間であると自らに言い聞かす。そして憲法によって選挙権が与えられ思想の自由が保証され形式上での個人の尊厳が認められる時、彼らは容易に満足するのである。この現実の自己の姿を直視しない彼らの態度が自己欺瞞であることは明らかである。しかもこのときブルジョア自身についても事態は同じである。彼らは労働者なしにはその権威を保持し得ないが、彼らは分析的精神に基づく人間観に安住することによって、この自己の現実を自覚しない。
 『存在と無』(1943年)は、人間の自己欺瞞を剔抉し、誠実な精神を批判して、状況に生きる人間の姿を呈示しながら、それゆえ何に向かって自己を投企すべきかについては語っていない。この著は終章において道徳的展望を与えつつ、その論究は未刊の著作に譲っている。ところで、雑誌『現代』を創刊した1945年のサルトルは『実存主義はヒューマニズムか』を講演しているが、ここにいかに生きるべきかの問題を巡るサルトルの最初の発言を見出すことが出来る。即自=対自を求める試みが無に阻まれて限りなく挫折する対自の悲劇に代わって、彼は行動とアンガージュマンの道徳を積極的に説いているのである。しかしこれを基礎づける論理は必ずしも明確ではない。これがために状況は無構造なものに止まり、したがって投企も恣意的たるを免れていない。ここに進んで何に向かって自己を投企すべきかが問われざるを得ず、そしてこの論究がサルトルをして意識の現象学的存在論的分析を越え、人間が状況の内に生きて自由であることを指摘するに止まらず、この状況そのものを、その構造において明らかにすることを不可避にしたのである。もとより、すでにマルクス主義への関心は、青年時代から第二次大戦の抵抗運動を通して彼のものであったが、戦後ことに強力となったフランス共産党との関係を改めて明確にすることに迫られた。ここにサルトルは主題的にマルクス主義と対決するに至った。『唯物論と革命』は、その所産である。我々は、ここに全面的に自己疎外された労働者階級の革命的実践による体制変革に全人間性の解放の道を見出したマルクスの思想が状況、超越、投企といった実存主義の範疇の中で捉え直されているのを見るのである。
 しかしなお『唯物論と革命』において、サルトルは、自らの革命の哲学がマルクス主義の思想圏に属するものとは語っていない。ところで、1860年『弁証法的理性批判』において、我々はマルクス主義の内部に転身し、これへの批判をその基礎となす唯物弁証法、ことに史的唯物論の再構成という形で遂行するサルトルの姿を見ることになる。この意図は、すでに近代の分析的精神の抽象性を批判する際すでに彼自身のものであったと言ってよい。しかし、この転進を知るにはなお、彼の体験した二つの事件を見逃すわけにはいかない。それは1948年にサルトルらが創設した人民民主連合の組織が労働者大衆の支持を得るのは至らず、翌年には解散を余儀なくされたという事件であり、また1956年のハンガリー動乱である。前者の反省は彼をして共産党の指導の下においてのみ労働者大衆が真に革命的階級として実存し得るものであることを教え、後者は彼に、すでに告発されたはずのスターリン主義がなお生き続けていることを証示し、マルクス主義における人間不在を改めて痛感させた。これによってサルトルは、自己の実存主義を真に革命の哲学として生かすためには、これをマルクス主義の内部に位置せしめる他なく、またマルクス主義がその内部に人間を再び回復するためにはマルクス主義が実存主義を自己の飛び地として持たねばならないとの自覚を得たのである。ここにおいて、彼は全体性の論理としての弁証法を成立させる原点を、世界の中に状況づけられて存在しながら、同時にこの状況づけられた一定の視点より世界に働きかけることを通して世界を少しずつ開示し、これによって世界を全体化すると共に、自己の存在を世界の中に全体化していく個人の実践に求め、かく開示される世界が諸個人の実践、労働によって創出されたものとして、そこに弁証法が知解される限りにおいて、歴史の弁証法が語られ得るとしている。
 『弁証法的理性批判』は、まだ歴史がそこにおいて主題となるような固有の領域についてはほとんど触れていない。サルトルの言葉に即すれば、全体化作用の各契機を取り扱うに止まり、全体化作用そのものを取り扱うに至っていない。この意味で個人の実践の弁証法から出発し、反弁証法を媒介し、構成される弁証法として集団の共同実践の問題にいたる展開は、決して歴史の発展過程と混同されてはならないものである。これらは、弁証法の可知性を問うという目標より要請された方法論敵通路であり、サルトルの言葉で遡行と言われる手続きで、我々の日常経験を掘り下げることによって、そこに経験を基礎づける全機構を形式的に明らかにするものにすぎない。しかし、この限り、その背後に、我々は、サルトルの歴史的現実に対する理解のいかなるものかを知ることができる。
 彼は、それ自身物質界の一部である人間が物質界に結びつく原初的関係である欲求の内に弁証法の原型を確認した後、この物質界を媒介するものとして人間関係を取り上げると共に、この人間関係を否定的に統一するものとしての人間の欲求に対して生活物資が不足しているという物質の希少性を論じ、これをもって歴史の弁証法の可知的原理であると説いている。これらの展開を通して示されるものは、次のような認識である。すなわち物が人間によって媒介されるちょうどその限度だけ人間の方も物によって媒介される。したがって弁証法において役割を果たすものは実践する人間と、これの働きを受ける物である。さらに、これによっていかなる人間関係も、それが物を媒介するといっても、物が人間に対してもつ否定性がそれ自身人間の否定性に基づくものであれば、しょせん人間諸個人の実践の結果であり、こうして人間を作り出すものは人間自身の産物である。ただし、この際物質の希少性がこの実践を媒介にしての人間と物との弁証法的循環性を制約づける。かくして人間の諸制度や諸技術、一般に諸機構は、諸個人がこの希少性の環境の中に生きて、これを乗り越えようという実践、換言すれば、希少性という否定的なものを否定する実践によって作り出されたものである、という認識である。そしてサルトルは、この基本的認識に立って、疎外の可能性を次のように基礎づけている。すなわち歴史に生きる諸個人の生活の希少性の枠によって条件づけられるとき、各人は生存するためには相互に闘わねばならず、ここに人間関係は暴力的となり、その中に生きて人間は非人間的なものとならざるを得ない。人間関係を媒介する物質性との関係で展開すれば、各個人の様々の実践を吸収することによって成立する物質の全体性は、その否定性を各個人に対して反目的性の形で差し戻す。なぜなら、各個人の実践は彼と対立する他の個人の実践を吸収した物体が媒体となって制約を受け、妨げられ、各人が実践を通して実現せんとした意味は歪曲された形で物質の中に保存されることになるからである。いわば否定の否定による肯定という形で個人の実践が生み出したものが、まさに肯定される限りにおいて、人間を疎外するものに転ずるのであり、この意味で疎外態は肯定による否定という形をとることにおいて、反弁証法と語れるのである。もとより、これによって基礎づけられるのは、あくまで疎外の可能性であって、現実性ではない。いわば原始的疎外とでも言うべきもので、歴史的な形態における疎外ではない。しかし、サルトルはこの希少性の範疇を導入してこそ、マルクス主義のいう階級社会における抑圧と搾取に基づく疎外、総じてその歴史の弁証法が正しく理解され得ると主張するのである。
 ところでサルトルによれば、人間に対して反目的性の形で否定性を返してくる物質を加工された物質と名づけ、そしてこの否定性によって逆に支配される、この意味で物化された人間存在を集合態と名づけ、共に人間の主体的実践の自己疎外において成立するものとして、実践的=惰性態に属すると語っている。資本家の所有に属する機械は加工された物質であり、その惰性的全体性によって否定的に統一された限りの社会的存在としての労働者階級は集合態に他ならない。彼らは共に抑圧された存在として階級的統一性をもちはするが、その間には連帯性の自覚はなく、相互は原子化され、分散し、集列化されている。ここにおいては、彼らの実践は受動的なものであり、貧困のために堕胎を選択する女工の決意が、すでにその境遇の上に下されている宣告を自己の真の意志に反して自己自身で自己に下し、これによってすでに彼女がそれであるところのものを実現することに他ならないように、自らが所属し、その制約を受けている階級的条件を自ら改めて作り出すものにすぎない。存在の乗り越えである投企そのものが、ここでは乗り越えられるべき当の存在によって逆に乗り越えられてしまっているのである。かくしてサルトルの実践的=惰性態、そして集合態としての人間存在の分析は、かつて自己欺瞞として剔抉された人間の疎外状況、そして今日語られる大衆社会化現象を構造的に描き出すものとなっているのである。彼は集合態のもつ惰性的かつ分散的な状態を否定して、自己の解放に向かって革命に立ち上がるところに形成される活動的な階級存在を集団と名づけ、これがためには個人の階級意識と前衛党の指導の不可欠なことを説いている。この集団による共同的実践の問題が続く構成される弁証法の主題となるのであるが、ここにサルトルが疎外克服の道に何を求めているかは自ずと明らかであろう。

 <オルテガ>
 人間の生が根本的現実であり、それ以外のあらゆるものはこの生に基礎を置き、根を下ろしている、という考え方は、オルテガ哲学の座標軸の一つである。自己の存在やものの存在について自問するという課題こそ生きることなのであり、それは、人間が常にある環境にあること、自分ではどうしてかその理由も知らずに、交換不可能な世界もしくは情況の中に投げ出され、埋没させられているのを見出す、ということに生きることは成り立っているのである。生きるということそれ自体が、自分たちの生を解釈すべく迫られていることなのだ。生きるということの第一の局面は、環境の中で各自が自分の環境と関りを持つ以外の術がないということなのだ。そしてこのことは生の第二の局面を、つまり環境とは何かを探索する以外に術はないという局面を押し付けてくる。我々の周囲に関して思想が与えるこのような構造を解釈して、我々はそれを世界または宇宙と名づける。だから、それは与えられてそこにあるのではなく、我々の確信によって構築されたものである。しかし、このような我々の確信は、必ずしも独創的なものである必要はない。生きるに際して、我々はものの中に生きるだけではなく、社会の中にもいるのだ。その社会はすでに生についての一解釈をもっているのだ。我々が現代思想と呼ぶことのできるものも我々の環境の一部を形成しているのだ。生は、この世界の中で難破者として泳がなければならないときのその主体のドラマである。
 オルテガは、現代の歴史的危機の根本的特徴を、いわゆる大衆の叛逆ということの中に見ている。それは決定的にその数を増した大衆が、我々の生きているこの世界の中での物の見方を当然我々に押し付けてしかるべきと考えていることである。オルテガは言う。「今日の特徴は、凡俗な人間が、己が凡俗であることを知りながら、凡俗であることの権利を敢然と主張し、至る所でそれを貫徹しようとするところにある」。大衆は、少数者の前で不従順なものとなってしまった。しかしこれも突如として起こったのではない。長い準備期があったのである。 すでに19世紀の前半において、現在の歴史的状況の重大性を予見できた次第で、ヘーゲルは大衆は前進すると言い、オーギュスト・コントは「革命的な時代である我々の時代は、新しい精神的な力を持たねば破局を迎えるであろう」と告げていた。そのような叛逆を可能にした三つの原理をオルテガはあげる。すなわち、デモクラシー、科学上の実験、それに産業主義である。経済的な便益や安定そして快適さや社会秩序が大衆としての人間に新たな形態を与えるのである。そして社会経済的な制約を受けないことから、自己の生への欲求を自由に拡大することが可能になり、またそこから自分が世界の中心と思うことになり、かつては導かれることに満足していた大衆が、こんどは自分で世界を支配しようと叛旗を翻し、世界の支配権を握ったのである。 
 しかしオルテガの思想を誤解しないために、重要と思われる点を示すことにしよう。大衆と少数者という概念は、社会階層の区別とは何の関係もなく、労働者の中にも「錬成された高貴な精神の持ち主もいれば、大衆的な知識人もいる」のである。オルテガによれば、現代の科学者は大衆人の原型である。科学自体が科学者を「自動的に大衆人に変えてしまうからなのである。つまり、科学者を近代人の未開人、近代の野蛮人に変えてしまうからなのである」。専門家は、自分の世界については隅々までよく知っているが、他の事については全く知らず、また知らないことを自慢にさえしている。彼は自分の限界内で満足し切っているのだ。しかし、このような満足が彼をして、自分の専門外のことまで支配してやろうとさせることに悲劇は存在する。いうなれば、自分の生のほとんどあらゆる領域にまで、大衆人として振る舞うのである。専門家の中にも大衆の叛逆という現象がみられるのだ。大衆人は過去のいかなる時代の人々より利口で知的能力をもっている。しかしそのことで彼は相手の言葉に耳を貸さない。しかしこのような大衆人の思想は、本物の思想ではない。思想をもつためには、ある幾つかの規則に従う必要がある。規範のないところに文化はない。あるのはただ野蛮さだけだ。歴史上初めて「理由を示して相手を説得することも、自分の主張を正当化することも望まない」人間のタイプが現れたのである。つまりそれは、理由をもたないという権利、オルテガの言う無法の理である。大衆人は端的にモラルを欠いていて、つまり何ものかへの恭順の念や奉仕や義務の意識に欠けているのである。 「今日のヨーロッパの生の水準は確かに過去のいかなる時代よりも高い」。しかし情況そのものは二重の傾斜を見せている。すなわち、積極的なものと消極的なもの。文化や知識が持っている積極的な価値が、もし知的暗愚を作り出すなら、すなわち大衆の叛逆を引き起こすなら、そのときは将来のことを心配しなければならない。                                                                          <ブーバー> 
 「真の対話と平和の可能性」という講演(1953年)の中で、ブーバーはこう言っている。「今日、すでに周知のものとなった人間の危機は、信頼の危機という形でもっとも明瞭にあらわれている。・・・人々は訊ねる、『誰に信頼するのか』と。しかし、その問いはすでに、この場合には許されぬ、一種の限定を含んでいる。現代の人間にますます欠如しつつあるのは、端的なる信頼そのものなのである」と。さらに彼はこう続けている。「そして、この事実と極めて密接に結びついているのが、言葉の危機である。というのは、私が真の意味で或る人に語りかけ得るのは、私の言葉が相手に真剣に受け入れられることを期待できるときだけだからである。したがって、今日の人間にとっては、祈ることが非常に困難となり、また、隣人と本当の対話を交すことが非常に困難になった。これらは、ただ一つの事態の両面である。このような存在に対する信頼の欠如、他人との腹蔵なき交わりの不能は、生活感覚が内部的に病んでいることを示している」。 
 この判断を裏付けるような一つのエピソードが、ブーバー自身によって(スウェーデンの)ラジオ放送(1962年)を通じて語られたことがある。それは前の国連事務総長ダグ・ハマーショルドについての想い出であった。 1958年、ニューヨークの国連本部で彼らが初めて会ったとき、「実際、我々二人にとって同じ一つの事柄が重要問題であることが分かったのである。すなわち、国際責任の最前線に歩哨として立つ彼と、精神の象牙の塔の孤独の中にこもる私と、その二人にとって、・・・我々二人を同じように苦しめたのは、相互の基本的な不信によって貫かれた、諸国家および諸国家群の代表者たちの疑似言語であった。彼らは変わらぬ熟練をもってお互いの肩越しに、窓から外に向かってしゃべりたてるのであった」。   
 これらの断片的な言葉によっても分かるように、ブーバーにおいては、人間の根本的な相互不信という現代の危機的様相が、単なる心理的問題、あるいは道徳的問題としてではなく、むしろ、言葉の危機として、また対話の不能として捉えられている点にその特徴がある。
 それではこのような危機は、なにゆえに、また、いかにして生じたのであろうか。
 「個人の歴史と人類の歴史とは、たとえどのような点で互いに相違するにせよ、とにかく、次の一点では一致している。すなわち、それらは『それ』の世界の絶えざる増大を意味している」(『我と汝』)とブーバーは言っている。そして、「『それ』の世界の領域と共に、この世界を経験し、使用する能力もまた増大せねばならない。・・・人々が精神生活の絶えざる進歩について語る時、大抵は、この能力の世代から世代に亙る形成のことが意味されているのである。だが、このときには、もちろん、精神に逆らう言葉の罪が犯されているのである。というのは、かの『精神生活』なるものは大抵精神の力による人間の生活に対する障害であり、せいぜい、制御され、形式を与えられて、その中に吸収されるべき素材にすぎないからである。それは障害である。というのは、経験し、使用する能力の形成は、大抵、人間が関係を結ぶ能力、つまり、それによってのみ、人間が精神の中に生き得る能力の、減退の結果だからである」(『我と汝』)。
 ここに述べられている人間が「関係を結ぶ能力」とは、つまり、前述の人間が相互に「信頼し合う能力」のことと解してよいであろう。このような能力の減退は、ブーバーによれば、「それ」の世界、つまり、対象的事物の世界を経験し、使用する能力が増大したことと不可分に関連しているというのである。ところで、すでによく知られているように、「我と汝」の巻頭に記されたブーバーの基本的な考えでは、世界に対する「われ-汝」という原関係と「われ-それ」という原関係とは、互に相容れない二者択一的なものである。前者は、「われ」の全存在を要求し、後者は、「われ」の全存在を拒否する。前者は、空間と時間を超えて成立し、後者は空間と時間の中でのみ成立するのである。しかして、上の引用の直後に、「人間に示される限りでの精神とは、『汝』に対するその人間の応答である」と述べられているところからすれば、人間がそれによってのみ「精神の中に生き得る能力」であり、また他人と「関係を結ぶ能力」であるところの、かの「信頼」こそは、まさに、「われ-汝」という関係の別名に他ならないことが分かるであろう。
 それゆえ、別の言い方をすれば、現代の人間が、ひたすら、「それ」の世界を認識し、かつ、技術的に利用することに熱中し、その反面、次第に、より本質的な「汝」との関係を忘れ去ってゆくことの内に、危機の真の根源があるということであろう。
 このようにして、「汝」との関係を喪失し、盲目的に「それ」の世界に没頭する人間に対して、いわば、現代思想は、二つの世界像を、左右の壁に描いて見せるという。「一つは宇宙である。星の渦巻きの中から小さい地球が生まれ、地上のうごめきの中から小さい人類が生まれる。そして歴史が時の流れを通って人類を運んでゆくが、それは自分が踏みにじる諸々の文化の蟻塚を、もう一度しっかりと築かせるためである。そして、この絵巻物の下には、『一切合切のことごとく』と書かれてある。他方には心が現れる。そこでは一人の紡ぎ女が紡いでおり、全ての星の運行、全ての生物の生活、全世界の歴史が一本の糸で紡がれている。それらはもはや星とも生物とも世界とも呼ばれず、感覚や表象、或いは、体験や心理状態と呼ばれている。そして、この絵巻物の下には、『一切合切のことごとく』と書かれてある。今よりのち、人間は、身震いするほど、『われ』と世界がよそよそしくなり、世界が彼を不安にするとき、右でも左でも適当に目を開けて、一つの絵を見る。そこに彼は、『われ』が世界の中に埋没していること、『われ』は元々存在しないこと、したがって、世界は『われ』に何も害を為し得ないことを見て安心する。さもなければ、彼は、世界が『われ』の中に埋没していること、世界は元々存在しないこと、したがって、世界は『われ』に何の害も加えないこと、を見て、安心する。また、他の機会に、身震いするほど『世界』と『われ』とがよそよそしくなり、『われ』が人間を不安にするならば、彼は目を開けて一つの絵を見る。どちらを見るにせよ、同じことである。空虚な『われ』が世界によって充たされるか、それとも、世界の潮がこの『われ』を押し流しているのを見て、彼は安心するのである。しかし、或る瞬間がやって来るであろう。それは近い。このとき、身震いする人間は目を開けて、両方の絵を一瞬の中に一挙に見取るであろう。そして、より深いおののきが彼を捉えることであろう」(『我と汝』)。
 ここに巧妙な比喩をもって表現されているのは、「われ-それ」という関係の網の中に捕捉され、そこからの出口を見失ってしまった人間の姿である。そこで「宇宙」と呼ばれている絵は、「われ」をも「それ」の中に還元してしまった自然科学的、あるいは唯物論的な合理主義の描く世界像であろう。これに対して、「心」と呼ばれている絵は、一切の「それ」を「われ」の意識内容に還元してしまった観念論的な、無世界的な、かつ独我論的な世界像であろう。これらの比喩のいわんとするところは、ひとたび「われ-それ」関係の中に閉じ込められた人間は、決して、その中に安定した存在を保ち得るのではなくて、むしろ、常に「われ」と「それ」、「自己」と「世界」との間の対立と不調和に悩み、この二つの極の間を動揺せざるを得ないということであろう。そして、また、最後に暗示されている来るべき「瞬間」とは、おそらく、「宇宙の中にありつつ、同時に、宇宙を包んでいる」ような逆説的存在としての人間の「安住の地」は決して、いわゆる「それ」の世界でもなく、また「われ」の次元でもなく、むしろ、「われ」と「それ」、自己と世界、主観と客観との「間」の領域にこそ求められねばならないという真理が露わにされる「時機」という意味であろう。
 では、ここで提示された現代における人間の内的分裂とその回復の問題を、ブーマーの哲学的人間学の立場から、もう少し詳しく考察してみよう。
 「現代に至って、人間学的問題はようやく熟した」(『人間とは何か』)と彼は言っている。そして、哲学の発達自身の他に、二つのファクターが人間学的問題の成熟に寄与しているという。「第一のファクターはすぐれて社会学的な性質のものである。すなわち、人間の直接的連帯生活の有する古い有機的形式の絶えざる崩壊である。ここに言う、古い有機的形式とは、量的には、その共同体によって結合されている人々が、繰り返し繰り返し顔を合わせ、相互に直接的関りを保ち得る程度より大きくてはならないし、また質的には、その共同体によって結合されている人々が繰り返し繰り返しその中に生み落され、あるいはその中ではぐくまれ、したがって、この共同体への所属を、自由意志に基づく他人との結合としてではなく、むしろ運命および生の伝統として了解しているような共同体のことである。家族、職人組合、村落-都市共同体などがこの形式に属している。そしてこれらの社会形式の絶えざる崩壊は、フランス革命による人間の政治的解放とそれに立脚する市民社会の成立とに対して支払わねばならなかった代償なのである。しかしこの崩壊と共に人間の孤独が新たに登場してきた。我々の見たように、世界の家に住んでいるという感情を、つまり宇宙論的保証を喪失した近代的人間にとっては、有機的共同体の諸形式は生の故郷を、同胞との直接的結びつきの中に安来を、完全な遺棄感から守る社会学的保証を与えていた。だが、この保証すらも次第に彼の手中から滑り落ちて行った。古い有機的形式はしばしば外形を止めていたが、しかし内部的には解体され、次第に存在意義と魂への支配力を失っていった。人間的人格を改めて他人との生命を(ふつう言われるよに)『充実させる』集団的情熱に点火することはできたが、しかし敗れた保証を再建することは出来なかった。深まる孤独は多忙な活動によってただ麻酔をかけられ、抑圧されたのみであり、ひとたび静寂の中へ、自己のその真の現実の中へ立ち返る時、人間は常に孤独の深さを知り、かつ、その孤独の中で、自己の存在の根底に直面しつつ、人間のもつ問題性の深さを知ったのであった。
 第二のファクターは精神史的、あるいはむしろ心魂史的であると言うことができよう。人間は最近一世紀以来次第に深く危機に突入してきたのであるが、この危機は過去の歴史上の危機と多くの共通点を持つにも拘わらず、或る本質的な点において独自なものである。この本質的な点とは、つまり、人間が、自分自身の行為により、あるいは自分の協力の下に生み出された新しい事物および状態に対する関りのことである。私は、現代的危機のこの独自性を仕事の背後への人間の落伍と呼びたいと思う。人間は自分自身によって生み出された世界をもはや支配することが出来ない。世界は人間よりも強力になってしまった。世界は人間から解き放たれた。世界は根本的な独立性をもって人間に対立している。そして人間は、もはや、自らの作ったゴーレムを束縛し、無害にする言葉を知らないのである。現代はこの人間の魂の衰弱と挫折とを相次いで三つの領域において体験した。第一の領域は技術である。労働する人間に奉仕するために発明された機械は、人間を自己に奉仕させた。機械はもはや道具のように、人間の腕の延長ではなく、むしろ人間が機械の延長に、機械の周辺において搬入や搬出を司る手足になったのである。第二の領域は経済である。増加する人口に必需品を供給するために、厖大なものとなった生産は、理性的な体系化には到達しなかった。そしてあたかも商品の生産や交換の営みが人間の手に負えなくなり、人間の命令から離脱するかのような事態が生じたのである。第三の領域は政治的現象である。第一次大戦において、人々が、しかも両陣営の人々が次第に深い驚きの念をもって体験したのは、自分たちが或る不可解な力に付託されてしまっているということであった。この力は人間の意志に依存しているように見えながら、しかも、繰り返し繰り返しその束縛を破り、人間によって設定された全ての目標を踏みにじり、遂には敵味方の全ての人々に壊滅をもたらしたのであった。かくて人間は、自分がデーモンの生みの親でありながら、しかもその支配者となることはできないという恐るべき事実に直面した。そして、この力と無力との共存が一体何を意味するのかという問いは、やがて、人間本質への問いに合流し、後者はそれによって、新しい、著しく実践的な意義を獲得したのであった」(『人間とは何か』1948年)。
 ここにあげられている第一のファクター、すなわち、直接的共同体の崩壊が「われ-汝」関係の滅退の別の表現であり、また、第二のファクター、すなわち「仕事の背後への人間の落伍」が、「われ-それ」関係の中で「それ」を認識し、作り出しつつ、同時に却って自分の創作物の中に埋没し、押し流されつつ「われ」の姿の別の表現であることは明らかであろう。
 しかしながら、我々は、「われ-それ」関係の中に閉じ込められた人間を、単に自己の外部にある事物(「それ」)とのみ関わりつつある「われ」と考えてはならない。人間は「身体」であり、あるいは「身体」を所有することによって、すでに、「われ」の内部に「それ」、あるいは可能的な「それ」を蔵しているからである。「われ」が自己の外部にある「それ」と関わることができるのも、じつは、「われ」の内部にすでに「それ」としての身体があるからに他ならないであろう。このような身体を通して人間は初めて外界の事物と交渉を持ち得るのである。したがって、「われ-それ」という関係は、単に人間と事物との間の関係であるに止まらず、同時に、人間の内部において、自己と言う意識と自己の身体的存在との間の関係、つまり、自己の自己に対する関係でもあるということができるのである。
 このように見れば、例えばハイデガーにおいて、人間の現存在が明確に「自己自身に関わる存在」として捉えられていることが決して偶然ではないことに気づくだろう。「ハイデガーの人間は憂慮と不安の中で自分自身の前に立つ。彼は自分自身以外の何ものの前にも立たない」とブーバーは言っている。「ハイデガーの意味における『本来的』現存在としての人間は、・・・現実に人間と共に生きている人間ではなく、むしろ、現実に人間と共に生き得ない人間、自分自身との交わりの中においてのみ現実の生活を知っている人間である。しかしながら、それは現実生活の仮象にすぎず、精神の高尚な、不吉な戯れにすぎない」と言われている。
 ところで、このような「それ」としての身体的存在は、一面において事物の中の一事物として、客観的な「認識の対象」ともなり得るが、その反面、常に対象化され得ない、主体的な「衝動」としての性格を止めている。つまり、「それ」としての身体自身が二つの面に分裂しているのである。これについて、ブーバーは次のように述べている。「現代人においては、精神の領域と衝動の領域が未だかつてないほどに分裂している。彼は、衝動から分離された精神が不毛で無力な隠遁状態に陥りかけているのを不安の中に感ずると共に、精神によって抑圧され、精神から追放された衝動が彼の魂を崩壊させようとしているのを恐怖に感じている。彼の大きな関心は、両者の統一、統一感および統一の実現に到達することであり、深刻に自分自身に拘泥しつつ、その道を訊ね求めている。彼は衝動の解放の中にこそ、その道は見出されると信じ、ひとたび衝動が解放されるならば、自分の精神が衝動の働きを指導するであろうと期待している。だが、これは迷いである。なぜなら、ここで精神と呼ばれているものは、確かに、衝動の眼前に理念と価値とを掲げることはできるであろうが、しかし、それらを衝動に信じ込ませることは、もはやできないからである」と言っている。この文中における「精神」を「われ-(対象的な)それ」の関係、また「衝動」を「われ-(衝動的な)それ」の関係として考えれば、「精神」と「衝動」との分裂が、結局、人間の内部における「われ-それ」関係の二つの面への分裂であることを容易に理解し得るであろう。そして、現代人は、「われ」に内在する身体的な「それ」に関わるこの分裂をいかにしても克服し、統一に達することが出来ないでいるというのである。言い換えれば、現代人は自己(ひいては他人)の身体的存在を「汝」ではなく、「それ」とみなす限り、或る免れ難い矛盾と分裂に陥ってしまっているということである。「現代人の典型的人間は、他人に対する関係においても、また、彼の魂自身においても、病んでいる」とブーバーは断定している。
 最後に、宗教の次元から見た現代の特徴をブーバーはどのように捉えているだろうか。
 彼が『神の蝕』(1953年)であげているのは、「信仰の主観化」という現象である。この現象は「祈り」において最も明瞭となる。真の祈りの唯一の前提は、全人格をもってする、神の現臨への準備である。それは腹蔵なき自発性とも呼び得るだろう。しかるに、現代人においては、祈る者の集中力ばかりでなく、この自発性そのものが脅かされている。つまり、「<自分が>祈っている」という意識が、それを妨げるのである。この傾倒することについての、傾倒する者の主観的意識、この祈りの行為の中に参加しない「われ」の余剰は、自己の行為を対象化することによって、この瞬間の力を奪い、また、自発性を奪うのである。「祈りの場に居合わせない者はいかなる神の現臨をも知らない」。
 このようにして、ブーバーが「神の蝕」と呼ぶ現象が現代の宗教的特徴となる。この言葉は、我々が肉眼をもって太陽を見得るように、精神の眼をもって神を見得るということ、また、太陽と地球とのあいだに月が介在し得るように、我々の実存と神とのあいだにも何かが介入し得るという大きな前提に基づいている。我々はこのような前提を証明し得ないが、しかし、信仰によって経験し得るのである。
 ブーバーによれば、人間は「下から」発生した存在であると共に、また、「上から」派遣された存在である。これが人間のもつ二重性である。上から派遣されたものとしての人間は、他の存在者に対向して存在する。下から発生したものとしての人間は、他の存在者と並んで存在している。第一のあり方は、「われ-汝」関係の中に実現され、第二のあり方は、「われ-それ」関係の中に実現される。しかし、この第一のあり方を通して飲み、我々は他の存在者の側面にではなく、彼自身に出会うのである。我々が神と関わり得るのも、第一の「われ-汝」関係を通してだけである。なぜなら、神はいかなる客観的側面をも有しないからである。「我々の時代においては、巨大に膨張した『われ-それ』関係が、ほとんど争う余地のない尊大さを以て、支配者であり、統治者であると僭称している。一切を所有し、一切を産出し、一切を上手にやりこなすが、しかし『汝』を語り得ず、他者と真に出会う能力をもたぬ、この関係の『われ』こそが、時代の主人である。自己の周囲に一切の『それ』を伴った、この全能の『われ』は、もちろん、神も、また、いかなる真の、・・・絶対者をも承認しない。この『われ』が、人間と神とのあいだに立ち入り、天の光を覆い隠すのである』(『神の蝕』)。
 このような状態に現代は置かれている。それでは、来るべき次の時代はどうであろうか。人間の歴史において最も重要なことは、その時までは見ることの出来ない力によって、そのつど、転換が生ずるということである。時の流れの深みにおいては、未だ名づけられぬものが動いている。明日には、地上の王たちの頭上を超えて、天から、合図が送られるかもしれない。「神の光の蝕は神の光の消失ではない。明日にも、光を妨げる者は退いてしまうかもしれない」とブーバーは結んでいる。
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              








































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