1800年の体系断片 要約

 生の多数性は対立していて、この多数性の一部は(それも生であるからそれ自体無限の多数性であるが)、統一という在り方でのみ存在し、関係するしかない。部分は多数性における単一性を示し、互いに関係し、結合されている。よって、この多数性のそれ以外の部分は(やはりこれも無限の多数性であるが)、対立という在り方でのみ存在し、上述の第一の部分(関係・統一)からの分離としてのみ存在する。従って逆に言えば第一の部分はそれ以外の部分からの分離によってのみ存在し得る。第一の部分はひとつの組織体、ひとつの個体と呼ばれる。

 カントは幸福と道徳の二律背反を解決、すなわち統一するために要請としての神の存在を把握したが、生も同じような二律背反の統一として把握せねばならない。しかし、それは要請という非存在でなく、存在でなくてはならない。統一、合一は存在すべきであり、合一と存在は同義である。

 生における統一は、多数性が内部で生きている。生全体がひとつであるとともに、生の部分もひとつのものである。しかも、その統一は概念による統一であってはならない。
 ただ客体について、死の領域にあるものについてだけ全体は部分と絶対的に対立する。

 生は全体と部分の同一性としての一者であるから、生が多数性、つまり有機体としての分肢をもつことは、生の外部における区分ではなく、生そのものにおける、その統一(単一性)に対立する区分である。

 死の領域にある絶対的対立も生の領域ではそうではない。有機体などの生において、それが一個の全体であるということと、つまり一者であるということと、それが諸部分、つまり多数性であるということは、生自身に内在する対立、矛盾にすぎない。

 生における二つの契機、単一性と多数性は互いに対立、緊張関係を保つことで存立しているが、それは生がそれ自身のそれ自身による統一<である>ということに基づくからである。つまり全体も統一<である>ことによって、この存在においてノミナリズムは否定される。

 生が一個の個体として全体から抽出され立てられると、必然的にそれに対立する存在、すなわち他の諸個体や環境がそこから分離される。しかし、個体としての生と分離された他の諸個体や環境全体との関係と、個体内部における全体と部分の関係は同じ形式をもつ。関係は合一を含意するから、よってこの場合の個体は外界と合一することができる。
 個体である限り、生は他方、この排除されるもの、外界と関係を結ぶことができるものとして、自己の個体性を失う可能性、また自己から排除されたものと結合し得る可能性をもつ。

全体が優位化して個体に入り込めば、個体が自己喪失する。個体が優位化して全体に入り込めば、全体は無限の個体に解体する。個体が自己存立性を持つと同時に個体が関係によって全体に帰一する全体帰一性を持つことによって個体の概念は形成される。

 個体の概念は外部にある無限の多様性への対立と結合を同時に含んでいる矛盾であり、全体と部分が同じ形式で存在し、それは全体と個の調和でもある。。個体主義と全体主義が生という特異な存在様相において統一されている。
 人間は自分の内部を貫いて、自分を成り立たせているあらゆる契機とは違うものであり、また自分の外部にある個的生命の無限性とも違うものであり、それらの限り個的生命である。しかしまた、人間は、これらすべての契機とひとつであり、自分の外部にある生の無限性とひとつである限りにおいてのみ個的生命である。

 不可分の、分割されない全体を仮定し、それを固定する場合、個的生命をその全体的生命の外化、または表現として、考えることができる。個的生命の多様性は、まさにこのような外化が措定されるからこそ、措定される。しかも無限なものとして措定されるのである。
 ところが反省は、その多様性を、静止した、独立して存立するもの、固定した点として、個体として固定化してしまう。しかし、この反省の行為といえども全く生を離れたものではありえない。生は生に対立するものをも包み込むからである。すなわち、生は、客体として客体を措定させざるを得ない。まさに生きているものを客体にしてしまわざるを得ない運命がある。

 われわれが、ある生きているものを前提し、しかもわれわれを観察者として前提するならば、われわれの限定された生の外部の措定された生は、無限の多様性、無限の対立、無限の関係をもつ無限の生である。この生は、多数性としては諸有機体、諸個体の無限の多数性であり、単一性としては分割され統一された唯一の組織された全体であり、それがすなわち自然である。

自然が措定されることによって、生は自分の内の対立を外化する。自然は生の措定である。なぜなら反省は生の中に関係(統一)と分離、個別者と普遍者、被限定者と無限定者という概念を持ち込んで、こういう措定によって生を自然としてしまったからである。
 われわれ観察者を前提するということは、主観と客観の対立を前提とするということにほかならないが、対象としての自然の、単一性と多数性等々の対立は、実はその主観と客観の対立に根差しているのである。しかし、、対立の認識は合一のための条件である。対立の成立が必然であったように、その認識も必然である。

 自然は、それ自体、生ではない。たとえ最も価値のある仕方で扱われたとしても、反省から出てきた生である。したがって、自然を観察し考察する生(観察主体)は、自分自身と無限な生の間にいつも存在するひとつの矛盾や対立を感じる。言いかえれば、理性はこのような対象の措定と観察の一面性を知るのである。

 反省によって措定された諸対立は、反省の自己認識による自己否定が行われたとき解消する。自然がそもそも生の反省による措定であった限りで、この反省の自己否定は、否定の否定として、統一の回復である。
 この思惟する生は、形態、死すべきもの、移ろいやすいもの、無限の自己対立しているもの、無限に自己敵対しているもの、そういう中から、生あるものを蘇らせる。これは、分裂した多様性として死せるものでも、互いに殺し合うものでもない。それは関係(統一)であるが、思惟された関係としての統一ではなく、全生、全能、無限の生である。
 そして、この生が神と呼ばれるものである。この生はもはや、思惟するものでも、観察するものでもない。なぜなら、その対象は(たとえ対象と言い得たとしても)死せるものを内に含む反省されたものではないからである。

有限なる生は無限なる生へ高揚する可能性を持っている。そして有限なものが、無限なものによって制約されている以上、このような高揚は必然的でもある。有限な生は即自的には無限な生というマクロコスモスを示現するミクロコスモスである。
 有限な生の内なる無限者は、外化されて外なるものになり、有限と無限の対立が生じるが、今や、この有限者は、有限の生として、無限の生へ高揚し、そこに一と多、主観と客観の対立は解消する。この無限の生を、抽象的な多数性の抽象的統一との対立において、精神と呼ぶことができる。
 山とそれを見る目は、主観と客観である。しかし、人間と神、精神と精神の間には、このような客観性の断絶はない。同じものが同じものを知るのである。

 生は、単に合一、関係としてのみならず、同時に、対立ともみなされなければならない以上、生には常に統一から対立への転落の可能性が含まれている。客体性を解消する完全化の営みは、より完全な統一への漸進的、段階的な営みにならざるを得ない。そこには、完全な合一に至るさまざまな歴史的形態があるだろう。

 生の客体化が、生にとって運命であるのは、生そのものに反省を生み出す可能性があるからである。しかし、その反省自身にとっては、生の把握は不可能である。

 もし私が、生は対立と関係(統一)の結合だと言うとしよう。すると、この結合自身が再び、反省によって遊離化されて、この結合は非結合に対立するではないか、と反論を受けることになる。したがって私は、生は「結合と非結合との結合」である、と言わねばならない。そうなるとまた反論されて、さらには生は、「結合と非結合との結合」と「結合と非結合との結合」の結合である、とさえ言わねばならなくなろう。
 しかし、この休みなき進行(悪無限)は、次のことを注意すれば解決される。「結合と非結合との結合」と呼ばれたものが、措定されたものでも、悟性的なものでも、反省されたものでもなく、それが反省それ自身の性格だということ、それは反省の外にある存在だということである。

 生きている全体においては、死や対立や悟性が同時に措定されている。すなわち、生きている多様なものとして、また、生きているものとして自らを全体として措定し得るところの多様なものとして、それらは措定されている。これによって多様なものは同時にひとつの部分である。つまり、多様なものにとっては死んだものが存在し、またそれ自体が他の部分にとっては死んだものなのである。
 生きているものは部分存在であるが、これは宗教において止揚される。限定された生は自らを無限なものへと高める。有限なものは、それ自体、生であるという限りにおいてのみ、有限なものは無限な生へと自らを高めていくことができる。
 それゆえに哲学は宗教が現れれば手を引かねばならない。というのは哲学は思惟であり、したがって、一方では非思惟との対立を、他方では思惟する者と思惟されるものとの対立を有するからである。哲学は、すべての有限なものにおいて、有限性を示さねばならない。そして、理性によって、この有限なものの総合を要求しなければならない。特に哲学自身が無限であることによって生じてくる錯覚を認識しなければならない。このようにして、哲学は真の無限なものを自分の領域外に措定しなければならない。

 宗教は無限なものを反省によって生み出された存在、また客観的、主観的な存在として措定するのではない。

 宗教の有限なものから無限なるものへの高揚は必然的であるが、しかし、人類の一定の本性が対立と統一のいかなる段階に留まっているかは、無限定の本性という点では偶然的である。最も完全な完成は、その生が可能な限り分裂、分離されていない国民、すなわち幸福な国民において可能であろう。

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