「既成宗教としてのキリスト教の性格」改稿序文 要約

 宗教の既成性という概念は近代において初めて登場し、重要なものとなってきた。そして、宗教の既成的な部分を説明するために 、人間の本性という概念を明確にしなければならないとされてきた。人間本性の多様な現れを普遍的で必然的な、二、三の一般的概念で表わそうという試みは、結局、民族、個人、習俗、習慣、など他の多様性をすべて、偶発的な事柄、偏見、誤謬と見なすようになり、このような偶発的な事柄に関わる宗教が既成宗教と言われるようになった。

 キリスト教は、あらゆる国の習俗と制度に適合しながら今日まできた。それは変容の歴史でもあった。

人間の本性という普遍的概念は、限りない変容の余地を残すものである。歴史的な場において、変容は必然的であり、人間の本性は過去一度も純粋な形で現れたことはなかった。このことは厳しく検討されねばならない。このような純粋な人間の本性というような表現は普遍的概念という意味に適用させる以外に他の意味を含んではならない。
 既成性の問題を考察するにあたって、いままでは歴史的なもの、既成的なものは、一般にそれが人間の本性という普遍的概念に合致するかどうかという観点から測られてきた。
 しかし、生きて働いている人間の本性というものは、それについての人間の概念とはあくまで別物である。したがって、概念にとって単なる変容、純然たる偶然性、余分なものであったものが、必然的なもの、生命あるもの、むしろ唯一の自然的なもの、美しいものとなるのである。
 したがって、宗教の既成性を測る上述の尺度は全く別な様相を帯びてくる。人間の本性という普遍的概念ではもはや充分ではないのである。
 意志の自由も一面的な基準にすぎなくなってくる。というのは、概念でどう規定しようが、それによって人間の習俗や性格が、またそれに関係する宗教が左右されるものではないからである。

 宗教はいまでこそ既成的になっているが、元来そうでなかった。宗教は、今から見れば異様にみえるような過去の遺産としてしか伝わっていないが、それでもなお、その要求はいまだに尊重されている。しかし、その要求が尊ばれ、怖れられるほど、その実体は掴めなくなるのである。

 既成宗教というものは、その時代の本来の在り方に適っていた宗教に対し、別な気持ちが起こって、その宗教に自己感情が含まれるようになり、自分にとって圧倒的な存在の中に自由をおくだけでなく、自由を自分自身のために要求するようになってはじめて成り立つのである。
 人間の本性についての普遍的概念は、この宗教心の特殊な多様な要求に対して、ひとつの尺度は与えられまい。

 これまで述べた事柄は、迷信や教会の圧政や欺瞞的な宗教制度から生まれ育った鈍さを弁護するものではない。どんな愚鈍な迷信でも、人間の姿をした魂のない存在にとっては、決して既成的ではない。しかし、もし迷信の中で魂がわれに帰ったときや、無頓着に迷信に従っていた人間には、既成的になってくるだろう。
 
 批評家にとっては、迷信は当然既成的である。というのも、彼が批評家である限り、人類の理想ということに固執するだろうからである。ところが、人間の本性はこうあるべきだという理想は、人間の定義とか、神の対する人間の関係などについての普遍的概念とは全く別のものである。
 悟性的人間は、感情や構想力や、宗教上の要求に悟性的に話しかけるとき、自分は真理を語ってると信じているが、それはパンを要求している子供に石を差し出すようなものなのだ。

 ある宗教において、行為、人物、記憶が聖なるものとされるとき、理性は、それらが偶然的なものにすぎず、聖なるものは永遠でなければならないと主張する。
 だからといって理性は、そのような宗教上の事柄が既成的だと証明したわけではない。なぜなら、人間は不滅と神聖とを偶然的なものに結び付けることができる、また何らかの偶然的なものに結び付けねばならないからである。
 
 ある宗教が既成的であるかどうかは、教義と掟の内容にではなく、教義の真理を証明する、掟の実行を要求するときの、その形式に関係する。どんな教義も掟も既成的となる可能性があるが、それはそれを示すには、強制の仕方による、自由の抑圧を伴うからである。

 また、普遍的に妥当する真理は、もしそれをある事柄に適用させようとすれば、特殊の事情、条件の下でという形で制限が必要になる。すなわち、どんな事情の下でも無制約な真理ではないのである。したがって、この論文の意図は、キリスト教の中に既成的教義や掟があるか否かを追求することではない。人間の本性や神の特性という普遍的概念を持ち出して、この問いに答えることはあまりに空虚なことである。

 啓蒙が投げ捨てた教義学の根本には、人間の本性の要求として認識し得るものがある。それがいかに自然であり、必然であったかは、何世紀にも渡る確信の中で死んでいった何百万もの人々の信念が証明している。

 教義学は、啓蒙には何らの根拠のない過去の遺物とされたが、啓蒙が使う普遍的概念による方法で教義学の全構造が説明されたとしても、それでもなお人間理性に反した誤謬が築き上げられたということは、一体どのように説明され得るか。
 教会史を引き合いに出せばわかるように、このような誤謬が激情と無知から、いかに単純な真理の上に塗り重ねられていったことであろうか。幾世紀にも渡って教義を規定し続けていく過程で、知識や克己や理性は必ずしも聖職者を導きはしなかった。
 また、キリスト教を受け入れる場合、真理への純粋の愛ばかりではなく、複雑な動機や世俗的な欲求も働いていたというような説明の仕方は、宗教がいかに人間の本性に適ったものであるかを示すこと、つまり人間の本性がさまざまな時代にどのような変容を遂げてきたかを示すという、主要な問題には触れられないままになっている。
 言いかえれば、このような説明の仕方では、宗教の真理を問うにあたって、諸民族や時代の習俗と性格との結び付きは考慮されなかったということになる。
 したがって、その問いに対する答えは、宗教の真理はただ迷信と欺瞞と愚事だけだった、という答えになる。
そういうものの原因が大体の場合感覚的なものにされる。
 しかし、人間の本性は宗教心という高い欲求をもたざるを得ないし、その欲求のために、組織的な信仰や、勤行、義務は全く馬鹿げたものではなかったし、不道徳が入り込めるような、不純で愚劣なものでもなかった。

 この論文の目的は、キリスト教が既成的教義をもつかどうかではなく、キリスト教が一般的に見て、既成宗教であるかどうかを考察することである。イエスが口にし、生涯を通じて示した態度の中に、キリスト教が既成的なものになる直接の誘因があるかどうかを跡付けることであり、さらに、偶然的な事柄が偶然的なままで、永遠なものと考えられたということ、しかもキリスト教は一般にこのような偶然的な事柄に基づいているのではないかということを跡付けることである。

 人間の本性それ自身の中には、われわれの意識の中にあるものよりもさらに高い存在があるということを承認すること、そしてその存在の完全性の直観を生命の生き生きした精神となそうとすること、また、この直観にそのまま、つまり他の目的と結びつけることなく、時代とか配慮とか感情などを捧げようという要求が存在する。

 偶然的なものは神聖的なものの一面にすぎない。宗教が永遠なものを一時的なものに結び付け、理性が一時的なものだけを固定して、迷信の非を鳴らすとすれば、うわべを撫でて永遠なものを看過してしまったことの罪は理性にある。

 宗教それ自体においては普遍的概念は決して適用されない。なぜなら宗教的なものは概念ではないからである。ここでは、反省から出てくるような偶然が問題ではなく、宗教それ自体の対象でありながら、偶然的なものとして存立するはずの偶然的なものであり、一時的なものでありながら高い価値を持つはずの偶然的なものであり、制限されたものでありながら聖なるものを含み、尊敬の念に値するはずの偶然的なものが問題なのである。
 

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