哲学史概観 (2) アリストテレス

 <論理学> 十七歳から三十七歳まで、アカデメイアに学んだアリストテレス(前384~322)は、プラトンから当然、強い影響を受けたけれど、イデア論に対しては、これを批判した。
 アリストテレスは、広い意味での「あるもの」(存在)すべてを、(1)基体(ヒュポケイメノン)のもとに述語付けられるかどうか、(2)基体の中に(基体に依存して)存在するかどうかという、この二つの観点から分類しようとする考え方が、一貫して強く働いていて、彼が繰り返し説く「カテゴリア」(範疇)の区別ということも、基本的にはこの考え方に基づいている。
「カテゴリア」というギリシア語は、「カテゴリオ」、すなわち「述語する」という動詞に基づく。述語の品詞は一定しない。
 カテゴリアの区別というのは、命題の構成要素となる単語を、あらゆる品詞に留意しつつ分類して、十の範疇に区別したものであるが、存在そのものは全ての範疇を貫くので超越範疇と呼ばれた。
 
 ところで、カテゴリアとは命題における述語のことであるから、カテゴリアの形態とは述語の形態のことである。そして、述語とは、命題の繋辞(である)と結びつくので、「ある(存在)」の形態と考えられる。これはギリシア語を初めとして、印欧語族には共通の現象で、英語でも「This is a box」「This is three meters」「This is standing」というように、すべて存在を表わす動詞to beが述語を形成する一半を担う。そこで、述語すなわちカテゴリアの諸形態は存在の諸形態と言われる。
 カテゴリアとしての実体とは、命題の主語が指し示す基体、すなわち主語において自らの命題的自己呈示を果たす基体ではなく、「そのような基体が何であるか」という問いにおいて求められ、答えの命題において述語となって出て来る名詞、いわゆる「である」存在のことに他ならない。
 またアリストテレスの範疇は、問いかけの答えとして、問いの構造分節がその分類や種別になっている。
(1)実体(何であるかに応じるもの)(2)量(いかほどに応じるもの)(3)質(どのようにに応じるもの)(4)関係(に対して応じるもの)(5)場所(どこに応じるもの)(6)時間(いつに応じるもの)(7)状態(位置)(どう置かれているかに応じるもの)(8)持前(何をそなえてるかに応じるもの)(9)能動(すること)(10)受動(されること)
 だから単純に、範疇を文法や存在の側に傾けて解釈することは、アリストテレスの真意を損なうことになる。

 しかし、『形而上学』第五巻第八章において、「実体は主語となって述語とはならない」という規定がある。それは範疇表に、つまり述語の表に、実体があるということに矛盾するのではないかと問わねばならない。
 そこでアリストテレスは、それについて次のような解決を見出している。
 「実体」は、『カテゴリー論(範疇論)』では、「この特定の人間」(例えばソクラテス)というような個物を示す「第一実体」と、「人間(一般)」というような普遍(特に、類に対する種概念)を示す「第二実体」とに分けられている。
 これらの諸範疇の中で、「第一実体」以外は、存在分類の二つの観点からすると、(1)「第一実体」を基体(主語)としてそのもとに述語付けられるか、あるいは、(2)「第一実体」を基体としてそれに依存して存在するかどうかのどちらかである。
 例えば、(1)の例として、人間である・健康である等々はソクラテスという基体に述語付けられる。(2)の例として、「健康である等」の性質的分量的な属性は、常に特定の人物(ソクラテス)や物体に依存して存在し、それだけ単独に存在することはできない。
 このように「もし第一実体が存在しなければ、それ以外のものは存在できない」と言われるほど、アリストテレス哲学の中で、第一実体は重要なものになるのである。
 これに対し、第二実体(人間、動物などの、類・種概念)は、それが第一実体の何であるかを説明するということで、『カテゴリー論』の中では実体扱いされているが、しかしその場合でも、これこれ様の、という形容詞・性質的なものを示す、と注意されている。
 この考えは上述のように『形而上学』に至って、明確に全ての普遍は実体ではないと断言される。その理由は実体は決して他のものの述語にならないはずなのに、普遍は常に述語になるからである等々。

 普遍者としての実体として種と類のようなものがある。これらの内どちらが実体性により近いかと言えば、プラトンならより普遍的なものとして類を持ってくるであろうが、アリストテレスは「しかし第二実体のうちでは種の方が類よりいっそう多く実体である。なぜなら種の方が第一実体により近いからである。というのは、人がそもそも第一実体が何であるかを示そうとするとき、類(動物)より種(人間)のほうが、いっそうよくその実体に固有のものを示すことになろう。」(『カテゴリー論』第五章)
 アリストテレスにおいては、普遍者が述語として普遍的に指し示す広さが、つまり、外延の豊かさが、内包を貧しくしてゆくにつれて、その普遍者は実体性を失うものとされ、実体性の究極は規定されつくした個的存在にあるとされる。種が類より実体性があるとするのは、種の規定が類を多く上回るからである。

『命題論』は伝達論であり、伝達が正しい形で行われるために、文法に則った命題を作る必要がある。どんな語も「ある」や「あらぬ」が付加されてなければ、真偽のほどは未定である。
 彼は言語の自然発生説を執らず、人為説を執る。名辞は自然に出来たのではなく、象徴となったとき出来たのである。それは約束によって意味をもつ音声になったということである。動物の音節を持たない声も何かを明らかにしはするが、しかしそれは名辞ではない。
 文章と命題の違いは、文章が、祈祷文などがそうであるように、単語の有意味的な組み合わせであり、真偽をいつも語るとは限らないものであるのに対し、命題は主語となる事物について、その主語とは異なる他の事を肯定ないし否定する言表であり、必ず真偽を語る文章のことである。
 命題文は肯定と否定の二つしかなく、単純命題は、甲について乙を肯定するか、甲から乙を否定するかどちらかである。複合命題は単純命題の組み合わせに過ぎず、単純命題は時の区別に従って、甲について乙が帰属するかどうかを意味する。言いかえれば甲が乙を属性として含むかどうか、甲が述語として乙を含むかどうかを意味し、それは結局、甲が乙であるか否かということである。
 アリストテレスの『論理学』は存在論的論理学として、存在が経験的世界の存在者の構造に結び付くか否かを問うものである。つまり甲を主語とし、乙を述語とする命題が肯定的に立てられ、それが真であるのは、甲という存在者の存在構造において乙が構成要素として認められるからである。肯定命題が成立するのは、存在構造において命題の主語と述語の帰属関係がすでに成立しているからに他ならない。
 アリストテレスは矛盾対当と反対対当を厳密に区別する。矛盾対当とは全称肯定命題(全ての人間は白い)と特称否定命題(或る人間は白くない)との対立関係、または全称否定命題(全ての人間は白くない)と特称肯定命題(或る人間は白い)との対立関係である。矛盾とは、両命題のどちらかが真であれば、他は必然的に偽となる関係である。これに対し、反対対当は、全称肯定命題と全称否定命題との対立である。これら二つの命題は同時に真であることはできないが、これらに対立する命題は、同一のものについては同時に真であり得る。例えば、「全ての人間は白くあるのではない」と「或る人間は白い」という場合のように。矛盾対当と反対対当の差は明らかである。前者は全称・特称の関係が否定を媒介するものであるが、後者は全称同士の関係が否定を媒介する。

 『分析論前書』は論証の中核をなす三段論法(推論)についての学問的反省である。三段論法とは、大前提、小前提、結論という段階を踏む三つの命題からなり、概念、判断、推論という三者が、それの不可欠な要素である。『カテゴリー論』が主として述語概念としての範疇論で、つまり、そこで概念が扱われ、『命題論』では伝達形態としての命題、すなわち二つ以上の概念の結合としての判断を対象とし、その次の順序として、二つ以上の判断からなる推論をここで扱うわけである。
 アリストテレスは、推論を形成する前提が結論の一切を決定する事を重視して、前提される命題の、量、質、様相の面を考察した。すなわち、前提が述べるところは、量としては、普遍的(全称判断)か、部分的(特称判断)か、無限的(不定判断あるいは単称判断)である。質としては、「何かを何かについて肯定するか否定するか」が決定要素である。この質と量を組み合わせると、全称肯定、全称否定、特称肯定、特称否定の四つの命題ができる。様相としては、実然様相(端的、確然)、必然様相、可能様相(蓋然)の三つに分類する。
 『分析論後書』は認識と証明の必要条件について考察している。ここで学問的認識の三条件として、必然性、永遠性、普遍性が重要視される。学問的論証はいずれもみな人間の内に予め存在する認識から生まれ(ア・プリオリ)るが、その基本的前提(出発点)を、公理、定義、仮説の三つに区別している。公理とは、それがなくてはいかなる思考も不可能であるような原理(例えば排中律)であり、定義とは、名辞の意味についての約束、取り決めであり、仮説とは、名辞に対応する或る事物が存在するという約束、取り決めである。このようにして成立する学問的知識の対象となるものは、必然的な事物でなければならない。そして学問的知識とは事物の普遍的なつながりと、普遍的な属性を明らかにすることでなければならない。
 アリストテレスにとって認識はつねに普遍への精神の還元であるとされていた。個物は認識されずに、ただ実践の対象となるものにすぎないが、しかし、個物に関する経験が普遍認識への入り口であるとした。

 論証の代わりに弁証論(ディアレクティケー)を使うところの蓋然的推論、歴史的現実において対話や討論の経験を介して行われる推論を『トピカ』でアリストテレスは研究している。弁証論には、批判的吟味と説得の論理としての修辞学の両面がなくてはならない。現在まで修辞学は哲学にとってさほど重要視されなかった。ソクラテスが対決した相手が修辞学を武器にしたソフィストであったから当然であった。しかし、唯一の答えを要求する論証よりも、寛容の精神と説得の技術を使うことで、多元的な価値観相互の現実的調整に修辞学は有効であろう。  『トピカ』とは「トポス」に関する考察である。トポスとは場所を意味するが、拡がりよりも限定された場面であり、何かがその上に生起している所である。それゆえ、修辞学の術語としては、弁証論の成立する手がかりとなる命題と規則であり、弁証的立証を組み立てる形成作業である。或る命題が、ひとつの契機となって、他の命題が立てられるとき、この転回点となる場がトポスなのである。
 また、真実の前提から出発して行われる推論を論証と言い、通念から出発して行われる推論を弁証論と言う。
他の前提によらず、それ自身によって確信を得る主張(公理のようなもの)が真実であり、原理的なものであり、それが論証の前提である。通念とは、全ての人か、大多数か、あるいは知者たちによってか、最も評判の高い人によって是認されていることである。見せかけだけの通念から出発した推論は論争的推論である。弁証論的推論とは、ある程度の知的合意に基づく妥当性を持つ命題によるものであり、学問的に確証された大前提、小前提に基づく推論である論証から区別する。弁証論的推論は、論証できない個々の原理をいかに認識し解釈するかということに有効である。
 定義に不可欠な類は、人間が勝手に分類してはならない。定義は約束事ではなく、ロゴスによる存在秩序の解明でなくてはならない。ただ類はそれが存在秩序の中で内包度や外延度の上下動である限りは、人間による主観的分類が許されるが、それは定義にはならない。
 弁証的な命題とは、通念が問いの形で出されたものである。すなわち、吟味なのである。それは、我々が、ある問題に対する態度決定に対して、それに関する諸々の通説を吟味することで、我々の考察能力を高め、事象の解明に役立つ。
 『トピカ』の後に『詭弁反駁論』が『オルガノン』の最後としてあるが、これは誤謬推理とそれに対する反論の仕方の論理である。
 
 このように、アリストテレスの論理学は、存在の分析と密接な関係にあることがわかる。彼は、主観の命題構成と客観的な現実存在の本質構造が並行するものと信じている。認識の真偽は事物の存在を意識が事物をあるがままに捉えているか否か、ということに見ている。アリストテレスの存在解明とは、存在に合わせて言語を明確化することである。したがって、彼の形而上学は言葉の真の意味で存在の論理として、存在論なのである。
 存在としての存在を考察する存在論では、付帯的な存在は省かれ、自体的存在を対象としなくてはならない。それは、真としての存在と偽としての非存在である。真というのは、現実において基体と属性とが結合されている場合は、それを命題において、基体を主語とし、属性を述語にして、主語と述語を肯定的に結び付けて語り、現実において基体と属性とが分離されている場合は、主語と述語とを分離して配分する判断のことである。そして偽なる非存在とは、これとは正反対にすることである。
 命題の肯定否定がそのまま存在として捉えられるのである。このような命題の操作がどうして存在と関わリ得るのかといえば、上述にふれたように印欧語に共通の特徴に由来する。
 命題において、SがPであるというその「である」という言葉は、英語ではS is P と言うが、その is(繋辞) は、この場合、肯定判断をあらわす述語であり、特にSの存在を肯定する動詞ではないにもかかわらず、同じSの存在を肯定する Here is S、あるいは、S is here という is(存在)と文法的には全く同形である。したがって、SがPであるという時のその「である」は、日本語のように、ここにS「がある」という存在指示と形の上での区別がないということである。
 言い換えれば「SはPである」という判断は「PとしてSが存在する」と言うことであり、命題の真としての存在、偽としての非存在とは、そのまま存在という問題が、命題の肯定、否定という問題の中に含まれると言うことである。

 <イデア論批判>
 このようなアリストテレスの立場から見れば、イデア論が重大な難点をもつのは当然である。
 イデアとは普遍に他ならず、しかもイデア論では、普遍であるところのイデアが、感覚的、経験的個物から超越して、純粋にそれ自体であり、模範、範型(パラデイグマ)であることが強調される。
 これはカテゴリアの混同であり、普遍であるはずのイデアに再び個物の資格を与え、述語的な存在であるものを、主語的存在と考える誤りをおかすことである。
 例えば、美そのものは美しい。ソクラテスは定義を求めることによって、普遍を感覚的個物から区別する途を開いたが、それを超越しなかった。アリストテレスはソクラテスの業績を事物の本質(それが何であるか)を探求したことにおいた。
ある行為がどのような構造をもてば徳と言われるか、言いかえれば行為が徳であるゆえんの徳性そのものが何であるかを知ることが問題とされ、そのために個々の有徳の行為を枚挙し、そこから帰納法によって普遍的なものの規定を取り出す必要があった。だがプラトンは「そのような本質としての形相(エイドス)を普遍者として認識論的に捉えるにとどまらず、存在論的根拠としての原型とし、質料的な事物がこれにあずかることによって具体的な存在者が形成されるとしたが、これは空論である」(『形而上学』第1巻第9章)
 プラトンはソクラテスを存在論に結び付け、イデアと感覚的事物との存在論的関係を築こうとしたが、アリストテレスはソクラテスを論理的なものに結び付け、ソクラテスの目的は普遍者の構成にあるとした。だから、プラトンが普遍者を事物の外におくのに対し、アリストテレスは普遍者を事物の中におく。すなわち普遍者は事物を内から規定する種の原理だと考えたのである。
 だから、アリストテレスの『論理学』は、プラトンのイデア論の超越性を言語と類種関係とによって事物の方に向けさせ、ソクラテスの定義的本質に戻そうとするものでもある。それがソクラテスとも違うのは、徳や美の理念と定義とを関係づけるだけでなく、種概念一般と定義を関係させ、一つの論理的な宇宙論を試みたという点にある。

 イデア論がそれを固執するなら、それは実体であるから、イデアをこの宇宙にある感覚的事物と、何ら本質的に異なった性格のものであると主張する権利はないはずである。
 強いてそう主張するなら、イデアとは、永遠化された感覚物であり、感覚的事物に言葉の上だけで「そのもの」を付け加えて、「善そのもの」や「美そのもの」を主張するだけのことにすぎない。そもそも、イデアが「模範・範型」であるとか、他のものがイデアを「分有する」とかいうことは、内容空虚な陳述であり、イデアと経験的個物との関係を説明したことにはならない。要するに、イデア説が内的に矛盾している点は、個物を直接的な普遍としながら、普遍を数的に一としていること、イデアを個別的存在としながら、反面には分有しうるもの、したがって普遍的なものとしていることである。だからイデアは全く定義できないものである。というのは定義は言葉によって可能なのであるが、言葉はその本性から言って、普遍であり、他の諸対象にも属し、個物を規定する述語はその個物に特有のものではないから、絶対の個物は定義も導出もできないのである。それらはせいぜい、「詩的な比喩」である。

 イデア論は、認識と存在と価値の諸領域を統一的に把握するための原理だったから、それを批判し、斥けたアリストテレスは、また違った形で、この問題に取り組まなければならなかった。
 哲学とは、知ることを求める営みであるが、我々が物事を知ったと考えるのは、アリストテレスが繰り返し説くように、その事象を成り立たしめている原理、原因(なぜ、何によって、という問いに答えるもの)を知ったときである。
 その原因に「形相または本質因」「素材因」「運動変化の始動因」「目的因」の四原因があり、知るには、この四つの局面すべてを満たさねばならないとされる。
 『形而上学』A巻(第1巻)三章以下では、タレス以来自分に至る先行哲学者たちの考えを吟味して、彼らの求めていたものは結局、この四原因のどれかに帰着し、その範囲を逸脱するものではないとされた。ソクラテス以前は「素材因」を、プラトンは「形相因」を原理として求めていた。しかし、彼らはそのことを自覚していなかったから、不正確な把握しかできなかった。特にプラトンのイデアと感覚的事物の結び付きが、外的、偶然的なものにされた点にアリストテレスは不満をぶつけた。
 しかし、プラトンもイデアと感覚的事物の関係のアポリアに自覚がなかったわけではなく、それは『パルメニデス』で提出した「第三の人間」問題として示されてはいる。
「Aは人間である」と「Bは人間である」という命題で結局「AはBである」となる難点を避けるために、A、Bを第一の人間、述語の「人間」を第二の人間(イデア)とすると、AとBは異なる人間であることになるが、また、この第二の人間が「人間(第二の人間)は人間である」ということになるから、再び第二の人間と述語の人間を異なったものと考えて、述語の人間を第三の人間とすることになり、それは第四の人間・・・というように無限に続くというのが「第三の人間」問題である。
 このアポリアを回避するためにプラトンは、個物はイデアの似像として個物の実在をあくまで認めず、アリストテレスは、「~について」の本質の述語付け(人間は人間である)と、「~において」の付帯的述語付け(人間は白い)に分け、それらを同時に認めないことで解決しようとした。
 しかし、アリストテレスは本質的述語付けを「人間は人間である」ということだけでなく「ソクラテスは人間である」
ということも含めた。つまり、ソクラテスは白くないことは可能だが、ソクラテスは人間ではないことはありえないからである。するとソクラテス=人間となって、始めのA=Bと同じアポリアに陥る。
 そこでアリストテレスは、主語となり得るが述語とはなり得ない個々の事物を第一実体、主語にも述語にもなるような類や種などを第二実体と区別したのである。そうすることで、第一実体としてのソクラテスと、第二実体としての人間を分けられ、第三の人間のアポリアを一応、避けることができた。しかし、真の解決は『形而上学』Z6の「各々のものは、その何であるか(本質)と同一である」という考え方まで待つ必要があった。

 「全ての理性的なもの(種差)は人間(種)である」とは神もそうであるから言えない。「全ての可死的なものは人間である」も動物もそうであるから言えない。これは「類の種がこの種に特有の種差の述語とはなり得ない」ということである。したがって「種は種差の述語にはならない」
 また、動物という類に人間と神という種がなかったら、「動物という類の特有の種差として理性がある」とは言えなくなる。したがって「類は種差の述語にはならない」
 だから、類としての存在は、種差の述語にはならない。つまり「種差は存在している」とは言えないから、「存在は類ではない」ということで、第三の人間のアポリアを解決できるとした。

 「存在は類ではない」ということは、つまり、アリストテレスは存在をイデアではなく、多義的に考えたということである。存在が(イデアではなく)多義的であるならば、全ての「存在者」はなぜ、同じように「存在する」と言われるのか。そこでアリストテレスが考えたのが「プロス・ヘン」(一つのものとの関係において)という考えである。全てのあるものは、ある一つの原理(アルケー)との関係においてあり、一つは実体であるがゆえに、他の一つは実体の属性であるがゆえに、また他の一つは実体への生成過程にあるがゆえにそうである。つまり、存在を統一する一つのものとは実体なのである。
 
 イデアは感覚的事物に内在する実体ではないから、事物の認識に何も役に立たず、事物の運動の原因にもならず、また事物の存在するのにも役に立たない。たとえイデアが原因とされても、それは例えば、白そのものがあるものと混合されてこのものを白いものにするという意味での原因にすぎない。
 アリストテレスは、形相は個物の中にしかないと考えた。個物は必ず質料(素材)と形相が結びついたものである。質料にも他の質料と結びつきながらもそれ自体変わらない、第一質料があるはずで、それを彼は、「水、空気、火、土」の四元素においた。
 プラトンにおいては、アリストテレスのように質料といったものを考えず、感覚的事物はすべてそれ自体あるものでなく、生成消滅を繰り返す存在にすぎなかったが、このように個物に実在性を認めない点に、アリストテレスが、イデア論を拒否した理由であったのである。
 プラトンのイデアは、アリストテレスによって、「素材」と対概念をなすところの、そして「素材」と結びついて現実の事物を構成するところの、アリストテレス独自の「形相」(エイドス)概念へと置き換えられることになった。

 この形相と素材という静止的な分析概念に、「現実」(エネルゲイア、エンテレケイア)と「可能」(デュナミス)という、動的な分析概念が組み合わされ、アリストテレスの事物把握の骨格ができる。素材は可能態であり、形相は現実態である。(石や木材は家の可能態にとどまり、大工の手により家の形相を与えられて現実化される)
 プラトンはイデアを静止したものと考えたが、アリストテレスにおいてはイデアは生成によって永遠に創り出されるものであり、永遠のエネルゲイア、現実性のうちにある活動であり、目標であると考えた。

純粋な形相とは、質量を持たない本質であり、純粋な概念である。しかし、この純粋さは質料によって妨げられ、限定されている存在の世界には見いだせない。限定されている存在、個別的実体は、すべて質料と形相の合成されたもの、シュノロンである。質料は多様、偶然の原因であり、個物は質料を含む程度に応じて認識し得ないものになり、それが学を限界付ける。だから、質料と形相の関係は固定されたものではなく、関係によっては質料が形相になる。魂は肉体に対しては形相であるが、形相の形相である理性(ヌース)に対しては質料である。存在全体は、純粋な質料(第一質料)を最底辺とし、純粋な形相(神的な精神)を頂点とする、一つの段階をなし、その中間は、質料から形相への移行過程にあるものである。

 この可能態と現実態とに対応させて、無限(ト・アペイロン)も可能的無限と現実的無限に分けた。前者はヘーゲルのいう悪無限(無限累進)であり、後者は確定的に自存するテロス(目的、終局)、すなわち真無限である。もし、現実的無限の存在を認めると「全体と部分の一致」という矛盾に陥るので、アリストテレスはそれを否定した。「ト・アペイロン」も、時間、空間、数などはみな可能的無限であるとした。
 アリストテレスの後継者を自認するトマスは、新プラトン主義の「一者、ト・へン」的な「純粋現実態」という現実的無限の存在を認め神とし、数学者カントールも神を現実的無限として、無限集合論を構築した。
 
 <自然学>
 この可能態と現実態いう概念が最もよく実感をもって適用される得るのは、自然(ピュシス)においてであろう。アリストテレスにとって自然とは「自己の中に内在する或る一つの初め(原理)から出発して、連続的に動きながら、あるひとつの終わり(目的、テロス)へと到達するもの」である。

 アリストテレスは自然学の方法としてまず、我々がよく知り、より明らかであるもの、すなわち我々が経験する知覚から出発せねばならないとする。知覚は現象と人間が最初に遭遇する場であり、始めはそれを足場にしながら、それを脱して行く。そして知覚において最初に与えられるものは漠然としたかたまりとしての印象である。これを分析するというところに、普遍から特殊への途があり、それは、帰納の出発点となる個が確保される限りにおいて、むしろ帰納への途であり、しかし、普遍から特殊化へという限りにおいては演繹と方向を同じくする。

 自然とは、自然的存在者における運動と静止との原因である。運動をおこす力としての自然とは、自然物をまさに自然物たらしめているものである。自然学はその合成者としての自然的存在者の質料と形相の両者を対象とする。数学は、形相のみを対象とするが、それ自体として質料から離れて存在しない。
 「運動」というのはギリシア語でキーネーシスと言われ、これは自然の経過すなわち場所の移動、成立、消滅、成長と衰退、質の変化と、一切の動きを表わす言葉であった。従って自然はキーネーシスに収斂する現象であると言えよう。それゆえアリストテレスの自然論は、運動論の形で理解されなければならない。
 運動とは、可能的に何物かであるものが、あくまでその当の可能態としての資格において完全に現実化されているあり方のことである。絵具はそれ自体は現実態であるが、絵としては可能性であるにすぎず、一たん作画が始まると、絵具の可能性は現実化され、完成すれば作画という可能性自体の現実態というあり方は終わる。運動とは、そこに至るまでの過程において、可能性そのものが現実化されている状態に達していることである。
 
 プラトンは空間をコーラという概念で呼び、これを無規定的な広がりとしたが、それは質料も含むものである。この力動的な場所に何らかの形が関係するとき、個物が成立すると言う。アリストテレスは空間をトポスすなわち場として考えた。舞台のような生きている場と区別される広がりそのものとしての空間をプラトンと違って追求しなかった。
 時間について、アリストテレスは、とらえどころがないもの、それは物があるようにはないものと考える。けれども時間は、事物の変化なしには、ありえない。時間の経過の意識は、何らかの変化の知覚、変化の識別によるからである。このように「時間は運動ではないが、運動なしには存在するものではない」。
 ところで、我々が時間を認めるのは、運動について、それの生起する以前とそれの終わった以後を識別しながら、限定する時である。だから「時間とは前と後とに関しての運動の数である」。
 そして「今」は、その数の単位のようなものである。時間を線で表わすとすれば、「今は点に対応する」。しかし、「今」は時間の部分ではなく、時間の限定として数であり、時間そのものではなく、これに付帯するものである。
アリストテレスは、「今」をこのように、運動と意識の接点と見ることによって、時間を数として意識の側に組み入れるとともに、また、時間を事象の運動変化に即するものとして事物の側にも関係づけるのに成功した。

 もし霊魂が存在しないとしたら、果たして時間は存在するのであろうか。なぜなら数える主体がいなければ、数えられ得る何ものかの存在することも不可能であるからして、従って数も存在することは不可能であろう。というのは、数は、すでに数えられたものか、或いは数えられ得るものか、である。もし霊魂を除いて他に何も本性上数える能力がないとすれば、霊魂が存在しない限り、時間の存在は不可能であろう。そしてただ、時間の基体たる運動のみが時間なしの存在可能であろう。

 アリストテレスは言う。大きさのうち、一方向に分割できるものが線であり、二方向にできるものが面であり、三方向にできるものが物体であり、それら以外に他の大きさは存在しない。そうやって全宇宙も万物も三によって限られている。我々は二つを両方と言うが、すべてとは言わない。三つのものについてはじめてすべてと言う。
 アリストテレスは自然には大きな目的の体系があると予想する。「自然物には偶然的ではなく、一定の目的性が認められる。その存立や生成の目的は美の領域に属することである」自然は、美を目的として運動するように存在者を支配する力である。神話は擬人的合目的性として人間の営みを自然現象に強いるが、自体的合目的性から真の目的性への考察は神学を生む。『自然学』は、それゆえ、神話からの脱却であり、神学としての『形而上学』への序論である。
 自然が目的論的に構成されているということは、目的を意識する知性に対してのみ、自然の構造が示される、ということに他ならず、それをもつ人間が自然の中で独特の位置づけを要求するとされる。目的を真に理解するものは神にまで及ぶ生命を与えられているので、そのような生命の自己開示としてのプシュケー(霊魂)の自己展開は、究極的には人間を幸福にすると言われる。
 霊魂論はそういう人間の理性の考察でもあるために、倫理学や形而上学と密接な関係がある自然学と言うことになる。「プシュケーとは、可能的に生命をもつ自然的物体の第一の完全現実態である」眠っていて何も働かせていなくても、生命あるものとしての自然物はプシュケーという第一の現実態を持っているのである。
 アリストテレスは「プシュケーが感覚を持つなら、また想像と欲求を持つ」と言って、想像力が感覚による表象の後に随伴する現象と考える。「想像は感覚ではない」感覚は判断ではないが想像は判断の一種である。想像は感覚像の持続や想起としての記憶、知覚しなくても意識に乗せる力としての想像、真偽の判定という判断への傾向、残留すると感覚に似たものになるから、刺激的になり、行動を誘うという意味で理性に代わる計画性というような、理性の営みにつながる。
 ひとが理性と呼ぶところの霊魂は、それが一切を包括し得るために、いかなる形相も受け容れる純粋可能性でなければならない。それゆえ、理性は思惟している或る形相と一つになる前は、現実態にあるもののいずれにも属しはしない。それゆえ、理性が身体に混合されている、というのは道理に合わない。
  
 <形而上学>
 もしこのような自然物が存在の全てを尽くすのであれば、自然学が学問として第一のものということになるが、「しかしもし何か不動の実体があるなら、それを扱う学問の方が、第一哲学であることになろう」と言う。そして、そのような不動の実体はある。むしろ、なければならない。それを扱う「第一哲学」は、対象が動きを持たない神的な実体であるから、自然学から区別されて「神学」(テオロギケー)と呼ばれ、これが一般に言われている「形而上学」に相当する。
 全て他のものに動きを与えるものは、(1)自分が動かされ動くことで他を動かすか(2)自分は不動のままで他を動かすかの、どちらかでなければならない。自然物は全て(1)に属す。しかし、自然の運動の連鎖が地上から宇宙へとさらにその外へと無限に遡及すべきでないならば、この連鎖の究極に、全宇宙の動きを最後的に保証する原因として、もはや自らは動かず動かされずして他を動かすような、不動なる第一動者、(2)に当たるものがなければならない。
 自然界における動きは、素材(可能)から形相(現実)へと向かう動きであった。より多く形相を得れば、それはより多く現実態となる。この動きの極限にある不動の第一動者は、もはや一切の素材、可能的要素を持たない純粋の形相であり、現実態そのものである。完全な現実態として、それは他の全てがそれへと向かい希求するところの、最高の目的因であり、そしてまさに、そのことによって、この第一動者は自分自身が不動のまま他の全てを動かすのである。「それは、愛されるというかたちで動かす」
 これがアリストテレスの「神」である。彼はこの神のあり方を、我々人間がほんの時たまにしかあずかることのできない至福の状態としての観想(テオーリアー)であると語り、純粋の知性・思惟(ヌース)の現実態としての、永遠にして最善の生であると語る。その知性・思惟の働きは、ただ自分自身にのみ向かう「知の知」「思惟の思惟」であるとされる。
 
 <倫理学>
 『形而上学』において語られた観想の生は、『二コマコス倫理学』において、全人間生活の目的となるべき最高の幸福であるとして、強調的に語られた。このような「知性・思惟の徳(卓越性)に従った現実活動態」が自足的であるのに比べて、正義・勇気・節制などの徳性に従った生活は、それぞれの徳を実現するための外的条件を必要とするから、より低位に位置づけられた。
 しかし、実際生活で実行される善には、プラトンのような善そのもの、善のイデアという、宇宙における善は少しも役に立たないと考えた。彼は倫理を純粋に叡知的なものと見ない。むしろ自然的なものが精神化されたものが倫理だとした。徳を知識と理解しないで、自然的本能が正常に完成されたものとした。人間は生まれつき社会的動物であるというのが、彼の国家論の根本前提をなしている。理論だけでは、我々を行動に駆り立てる動機はない。それは判断を下すだけである。倫理の本質的要素は欲求や衝動というパトス的な契機である。これらは「思慮・実践知」によって指導されて初めて真の徳となる。思慮に支配されている正しい欲求が正しい行為を作りだす。我々は知を発達させることによってではなく、練習と習慣によって善を習得する。
 全ての行為は目的を持っている。しかし、あらゆる目的そのものがまた他の目的の手段であるから、それ自身のために追及される最高善がなくてはならない。人はそれを幸福と呼ぶ。人間の幸福は、人間特有の性質に関し、それを完全な自己満足を伴う完全な現実態へと高める行為のうちにある。人間に特有のものは魂の理性的活動であり、それが幸福である。

「観想(理論)」の領域と「行為(思慮・実践知)」の領域は厳密に区別される。だから「知ある人」必ずしも「思慮ある人」ではなく、「思慮ある人」必ずしも「知ある人」ではない。『二コマコス倫理学』の倫理的価値の探求は、「知性・思惟の徳」ではなく、「「思慮・実践知」の領域内でなされるものであり、この意味での「徳」は、「中庸において成立する行為選択の状態」という控えめな規定を与えられながら、さまざまな性格・品性(エートス)に関する考察がなされている。

 アリストテレスによれば、徳も幸福も、個人だけでは得られない。真に人間的な生活は、共同体のうちでのみ可能である。従って国家は、個人よりも家族よりも優れたものである。国家は単一体ではなく、それは本質的に諸個人や諸共同体からなる複合体である。また、一人であろうと、幾人かであろうと、徳が統治する国家が最良な国家である。


 

 


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