哲学史概観 (15) アダム・スミス

 経済学という言葉の由来は古代ギリシアのオイコス(家)のノモス(法)、つまり、オエコノミクスという言葉からきている。それは奴隷を抱えた家計の処理法に過ぎなかったが、アリストテレスが『二コマコス倫理学』で示したように、ピュシスとノモスの関連を経済問題のうちに探るものであり、ポリスにおいて、徳を具現し得るような経済的交換および経済的配分の基準を見出すことであった。ソフィストが主にノモスの側面を強調したのに対し、プラトンやアリストテレスは、本性によって存在するものとしてのピュシスを強調し、そこから普遍的な正義の基準を導こうとした。この試みは、後に自然法の思想を経由しつつ、近代経済思想にも影響を与えた。
 ギリシアにおいて芽生えた自然的正義の観念はローマにおける万民法に継承され、またローマ法は『旧約聖書』の信約の観念と相まって、契約の観念を発達させた。
 トマス・アクィナスは経済における規範的な関心を示し、交換における等価性の基準を求め、公正価格の観念を生みだした。またキリスト教会はウズラ(利子授受)を禁止したが、中世の経済的発展につれて、利子を生むものとしての資本の役割も増大し、ウズラの条件的許容の問題に直面した。その関連として、勤労や財産の意味も考察されるようになった。スコラ学は神の意志としての公共善を目指していた。経済学も福祉の目標を手放すわけにはいかないというところから、今なおスコラ的な思考の枠組みの中にいるといえる。
 自然法と契約の思想は古代より連綿として近代に至っているが、とりわけホッブスに至って、国家の成立を自然状態における社会契約の結果として示すことにより、自然法および契約の近代的個人主義的世俗化に踏み出し、その後、ロックやルソーによって発展させられた。近代経済思想もその延長線上にあるといっても過言ではない。

 中世ヨーロッパの代表的な貿易網は、北海とバルト海を舞台とするハンザ同盟の商人による北欧商業と、地中海を舞台とする、北イタリア都市による東方貿易であった。イタリア商人はコンスタンチノープルやアレクサンドリアで、アラビア商人を仲介として、東方の物産、とりわけ胡椒を、南ドイツの鉱山から産出する銀を用いて買い付け、ヨーロッパに対する独占的供給者となっていた。
 ところが、15世紀後半になるとトルコ勢力が進出し、とくに1453年のコンスタンチノープルの陥落によって、地中海貿易は大きな打撃を受けた。
 それが、中世末から近代初頭にかけてのヨーロッパが、貿易を世界へ拡げていったところの大航海時代を開いた原因であった。
 ポルトガルによる東インド貿易は、ヨーロッパの貿易地図を大きく塗り替えた。ポルトガルは仲介商人を経ない海路による輸送の有利さもあって、イタリアに代わって東方の物産の供給者となった。これに対し、スペインにより開拓された新大陸貿易は、メキシコとペルーで豊富な銀山が発見されたことにより、その銀とヨーロッパの各種の工業製品との交換という、全く新しい貿易分野を生んだ。スペイン人移住者および黒人奴隷の生活用品の必要は厖大な需要を産み出した。さらに新大陸貿易は、ヨーロッパ経済を刺激し、流入した銀がインフレとなり価格革命を起こした。
 ところで、スペイン産業は新大陸からの需要にもかかわらず、その内部に脆弱な部分を抱えていたゆえに、健全な発展はしなかった。南ネーデルランドやイギリスの毛織物工業は自由な農村工業として展開したが、スペインの場合ギルド制度が強固に存在していた。新大陸向けの物資を調達する商人は、国内商品でまかなうことが出来なかった。またスペイン王室は有効な経済対策を打ち出せず、広大な領地を持ったがゆえに、絶え間ない戦争に大きな財政負担を背負い込んでいた。
 オランダのスペインからの独立と、無敵艦隊と謳われたスペイン海軍のイギリス海軍に対する敗北によって、オランダとイギリスは自由に東インドに乗り出して行けるようになった。
 中世末から近代初頭にかけてイギリスは、地理的な意味でも経済的意味でもヨーロッパ世界の周辺に位置する一小国にすぎなかった。中世のイギリスの貿易は原料を輸出して完成品を輸入する構造の下にあったが、15世紀を境にして、伝統的な羊毛輸出国から毛織物輸出国へと変貌していった。
 中世末のイギリスが外国貿易に受動的であったのとは対照的に、アムステルダムを中心とする、北ネーデルランドは仲継貿易によって活発に活動していた。オランダ商人はハンザ商人と競争しながら、オランダ興隆の基礎を築いた。オランダが優位を確保し得た要因の一つとして、オランダの造船業と海運業の発展があった。
 東インド貿易は、ポルトガルの独占下にあったが、オランダも1590年代から喜望峰からインド洋に至るルートを経て、東インドへの進出を試み、1602年には東インド貿易を独占する合同東インド会社が設立された。ポルトガルに対するオランダの優越は、もっぱらその政治的・軍事的優位によって説明されている。イギリスと比較して注目されるのは、オランダの仲継貿易に基盤をおく経済的繁栄が、オランダの産業の在り方、その性格をも規定していたことである。オランダの様々な工業部門は概ね、原料ないし半製品を輸入し完成品を輸出するという加工貿易工業(トラフィーク工業)であった。それゆえオランダは、工業の立地としても、国全体としても、農村部に対し都市部の比重が高かった。
 しかし、オランダの繁栄も18世紀には衰退した。まず、西ヨーロッパの農業生産の向上が、バルト海の穀物取引を低落させ、また、オランダ商人の仲介を経ずに、直接需要地に運ばれる傾向が出てきた。オランダの優れた造船技術もヨーロッパ全体に普及するに至った。オランダの工業は、政府による保護と有利な経済的条件に恵まれたイギリスその他の工業との競争に敗れた。

 イギリス北西部の諸州は一般に貧しく、とくにヨークシャーやランカシャーは、荒れ地や沼沢地と変わるところがなく、人口が希薄であった。それに比べ、ロンドンやノーフォークやオックスフォード州などのある南東部は、イギリス繁栄の中心地であったが、イギリスで農村工業が発達したのは、先進的な南東部ではなく、むしろ後進的な北西部であった。中世的な経済の発展が、農村工業の展開に不利に作用したことは十分に理由のあるところである。一般にヨーロッパの中世の経済は都市と農村の対立として特徴づけられるが、中世の都市は、国王ないし領主から付与された特許状によって、その地域での商工業の独占を保証された場所であった。国王たちはその代償として都市の側から租税の支払いを受けていた。職人は自由に営業することはできず、親方の下で徒弟を経て同職組合(ギルド)に加入する必要があった。ギルドは、メンバーの競争による共倒れを防ぐために、対外的な独占と対内的な平等という原則をもっていた。ギルドは特定の職種に関する製造や販売を独占し、徒弟制度と親方資格試験によってメンバーを制限したが、いったんギルドのメンバーとなった人々の間では平等な収入を保証しようとした。
 こうした特権都市が発展したイングランド南東部は、農村地帯においても共同体的性格が強く、またその基礎の上に荘園(マナー)制度が発展した地域でもある。
 中世ヨーロッパの領主による農民の支配制度である荘園制度は、単に経済的なものだけでなく、人身的なものを含み、農民の結婚や移動を制限していたし、さらの荘園内の裁判権も把握していた。しかし、しだいにこうした古典的な制度は解体し、イギリスの場合では賦役労働から貨幣地代にと変化するようになった。
 このように中世ヨーロッパの経済制度は自由な農村工業の展開を妨げるものであったが、それは都市の商人や手工業者、領主たちの世界経済の取引に積極的にかかわることを否定するものではなかった。13世紀はイギリス封建制の最盛期といわれるが、この時期はまた外国貿易が大いに発展していた時期でもある。
 ところが、国際市場を指向する領主経済が不振だった14世紀から15世紀にかけての時期には、領主は直営地を農民に貸し出し、賦役を廃止して貨幣地代が普及していった時期でもある。この背景には当時流行した黒死病による農民人口の減少が、農民の地位向上に有利に作用したという。こうした農民工業の発展の条件は、むしろ村落共同体もマナー制度も未発達な北西部の牧畜経営地帯でより有利であった。というのは、北西部の丘陵地では個々の農場は始めから囲い込まれており、穀作地も、牧草地もほとんど個人が自由に利用することができたのである。従ってこの地域での農民経営は初めから独立的であり、副業として、様々な手工業を手掛けていた。半農・半工の農民は相互に市場を通じて売買しあって、それぞれの必要を充たしていた。ここには農村市場を中心として局地的なバランスのとれた職業分化が発生し、自由な市場経済が展開していて、それが近代資本主義の原点となったのである。
 また、イギリスの農村では、すでに中世の時点で、大家族制度、自給自足の家経済、長年住み慣れた土地への愛着という農民社会特有の現象が見られないという。

 イギリスにおける農村工業の起点は、局地内の需要に答えるものであったが、その場合都市の商人はギルドの再編成であるカンパニーを作り、市場を開設して農村の生産物の独占的買い付けに乗り出すものもいた。彼らは都市を超えて活動範囲を広げ、イギリス国内で活動していた外国商人を駆逐し、生産物の輸出を増大していった。都市の商人は中世以来広く見られた、問屋制前貸人として経営を組織し、個別的な工程を担う分散した手工業者に対して、それぞれ原料や半製品、あるいは用具や資金を前貸しし、その製品を買い取ったが、商工業の立地は都市であるとの中世的原則を固守する立場に立って、都市のギルド制的な規制を農村部にまで押し広げ、農村の製造業者の自由な活動を抑圧しようとする傾向があり、そこから発生した都市の商人と農村の生産者の間の利害対立はしだいに先鋭化していった。
 近代初頭のイギリスでは、各地の農村市場に職人や商人が住みつくことにより、特権に保護されず、ギルド制をもつわけでもない、新しい市場町が姿を現した。さらに農村の生産者には、都市の商人の手を経ない新しい流通ルートが開かれた。それは行商人らの活躍である。彼らは農村の製造元から信用で製品を買い取り、方々に売りさばく役割を負っていた。
 近隣の人々の需要に答えるものとして出発した半農・半工の農民の生産者は次第により広い地域の人々の需要に答えるものとなるが、その過程は従来の局地的レベルでのバランスのとれた分業関係から、より広い範囲でのそれの再編成と見ることができる。
 農村の生産者は、販路の拡大に応じて自由に経営を拡大していき、労働者を雇用し、製造工程を分割し、またそれを組み合わせて生産性を向上していった。こうしてギルド制の規制の及ばない農村地帯において、分業に基く協業、すなわちマニファクチャー経営が生まれ、それがイギリス経済発展を推進した主体となっていった。

 イギリスでは農民的市場経済の進展にともなって古典荘園が崩れはじめ、領主の直営地は放棄され、直営地は農民保有地に組み入れられ、それにともなって農民の土地保有権も強化され、農民は自由にその保有地を世襲したり、売却、あるいは賃貸できるようになっていた。その中で領主への法的負担が名目にすぎない自由土地保有農や物価の上昇によって地代額が軽減された慣習土地保有農が実質的な独立自営農民となり、その中からヨーマンと呼ばれる富裕な農民層、農業経営者、農業資本家層が生まれてくる。
 16世紀後半になると、それまで毛織物以外は輸入に頼っていたイギリスにプロジェクト熱が起こって、外国の技術を習得したり、熟練職人の宗教上の亡命者を積極的に受け入れたりして、新しい産業の導入が盛んに行われるようになった。これらにはチューダー朝の政策意図にも支えられていた。当時ヨーロッパ列強の中にあって、政府の主要な関心は、対外的な軍事的強化と、それを支える経済の強化、すなわち国内産業の保護育成と輸出の振興に向けられていたからである。
 絶対王制の産業政策は、反面、旧来の封建的な秩序の枠内に止めるという限界をもっていた。農村に拡散した新工業は、農民の需要に支えられていたから、安手の大衆品が多くまた、非常に多様な種類の製品が多かったが、都市工業の側では輸出の拡大を建前として品質の規格化を要求した。政府はこの品質の規格化政策や、さらに、新産業に対する独占特許状を王室を支える廷臣に報酬として与えることで、廷臣をして生産者に特許料の支払いを求めさせ、それを最終的には農民への間接税として機能させた。
 また絶対王制は直接税を新たに課するには議会の同意が必要だったが、それが困難になるにつれて、王室は半ば死文化されていた封建的特権を復活させ、収入の増加をはかった。イギリスの市民革命はそうした臣民の権利を無視する王室の専制的な政治に対する、下院を中心とする議会の抵抗として口火が切られた。
 国王が大権を根拠として財政危機を背景にこれを濫用するにおよび、議会はコモン・ロウの理念をもとに、この国王の大権そのものを問題視するようになり、やがて様々な国王の大権は否定され、国民への課税権を議会の下に移すことで、国王の恣意的な権力から国民の所有権を守った。議会を支持したのは地方の農村工業の系譜をひく中産の生産者達、とりわけ毛織物工業の生産者達、および農業の中産層であるヨーマンやその上層ともいえる新興ジェントリーであり、いわば自自由と独立を誇りとする人々であった。また王党派と議会派の対立の背景には、アングリカンとピューリタンの対立も伴っていた。
 
 資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理の影響のもとに発生したとする、ウェーバーの主張に対し、北イタリア諸都市の商人の東方貿易とそれに密接な関連を持っていた、南ドイツの大財閥フッガー家などや、オランダ商人などは、むしろプロテスタンティズムとは敵対関係にあったとのウェーバーへの批判がある。しかし、ウェーバーはそれらの経済活動は、近代資本主義に独自のものではないし、その精神も厳密な意味で近代資本主義的なものではないと反論した。ウェーバーは、批判者が単純に営利活動が見られ、利潤の追求がなされれば、そこに資本主義とその精神が成立するというが、その種の営利活動は人類の歴史と共に、昔からしかも至る所で見られたとして、そうした解釈を否定した。ウェーバーが近代に独自の資本主義のメルクマールとして注目をしたのは、自由な労働組織を基礎とする、利潤の追求が合理的な計算の上で営まれる合理的経営が見られるかどうか、という点であった。ウェーバーは近代資本主義の担い手として注目したのは、しばしば貧しい境遇から成り上がっていく、産業的中間層であり、彼らの中から資本家も賃金労働者も出てくると考えた。その意味で彼は資本主義の成立を小生産者的発展説によって理解していたということができる。そうした資本主義の成立は産業資本の成立とも言い換えられる。
 前期的資本の営利追求における態度は、伝統的な人間関係による拘束が優先する仲間内での道徳と、無制限の営利追求が許された対外的道徳という二重道徳という姿をとった。それに対し、近代資本主義的な精神態度は、営利の追求を道徳外のものとするのではなく、倫理的実践の一領域として行われるものであった。
 ドイツ語のべルーフ、英語のコーリングという語は、神の召し、使命という意味と、職業という意味があり、宗教改革の流れの中で生まれた、プロテスタント諸国の独自の語なのである。従って信徒たちは自己の職業を適切に選択し、怠惰に流されずに規則正しく働き、頭を使って工夫し、隣人の必要とするものを合理的に生産し、生産物は公正な正直な条件で隣人に販売する、そうした生活を実現しようとした。そうした中で心身が鍛えられ、肉欲に由来する衝動が規制され、神の召命を規律正しく遂行することにより、自己の救いを確実なものにしようとしたのである。こうしてピューリタンの世俗内の禁欲的訓練は、その一面として合理的経営に適合する、勤勉で規律ある合理的な人間的資質を涵養するのに寄与したということができる。
 しかし、ウェーバーは近代の産業革命によって引き起こされた、現実社会のの経済の合理化、効率化の徹底した進展は、他面、それは形式的合理性にとどまり、その内部に強烈な実質的非合理性を含んでいると指摘するのを忘れなかった。
 彼の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』には「営利の最も自由な地域であるアメリカ合衆国では営利活動は、宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋に競争の感情に結びつく傾向があり、その結果スポーツの性格を帯びることさえ稀ではない。・・・将来、この鉄の檻の中に住む者は誰なのか。そして、この巨大な発展が終わる時、全く新しい予言者たちが現れるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも・・・そのどちらかでもなく・・・・一種の異常な尊大さで装飾された機械的化石と化するのか、それはまだ誰にもわからない。こうした発展の最後に現れる『末人』たちにとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。『精神のない専門人、心情のない享楽人。この無なるものは、人間性のかつて到達したことのない段階にまで登りつめたと、自惚れるだろう』と。」書かれている。

 イギリスの植民地は北アメリカ東岸とカリブ海諸島に建設されたが、ニューイングランドを中心とする北部植民地は、新しいエルサレムの建設を目指して移住したピューリタンの町であり、自営農を中核に自給自足的な経済を営んでいた。これに対し、南部では、タバコや砂糖のプランテーションが営まれた。そこでは一般的に一人の農園主とその下に数人の監督者を置き、ニ、三百人の黒人奴隷を使役するという構造をとっていた。
 新大陸での黒人奴隷は、17世紀の間に、南北アメリカには、およそ130万人が送り込まれたと推定される。
 
 1760年代のフランスにおいて宰相コルべールの重商主義政策の反動で、農業が著しい荒廃に陥り、その再建のために、ミラボーやケネーを推進者とする重農主義の運動があった。ケネーは『経済表』で、農業だけが投下された資本(地主によって農民に貸し付けられる前払い分)を上回る純生産物を生産し得るとした。工業は農産物の形態を変化させるだけで、生産を積極的になすものではないと見なされた。ケネーは、生産と分配に関する循環的構造を明らかにしようとし、古典派経済学の成立に重要な貢献をした。医者でもあったケネーは、ハーヴェイの血液循環理論から着想を得て、経済表を描き出したが、そこに経済という物質的過程を科学的に分析するという経済学の基本姿勢が定められた。
 重農主義は自然の秩序、すなわち自然法を信じていた。それは人間の理性によって合理的に説明出来るとする理神論に基く。

 <アダム・スミス>
 アダム・スミス(1723~1790)は、スコットランドのカコーディという小さな町に生まれた。父は税関吏で、スミスの生まれるニヶ月前に亡くなった。14歳の時、グラスゴー大学に入り、スコットランド学派の道徳哲学、自然神学、理神論、自由主義的経済論などを学ぶ。スコットランド学派はヒュームの印象と観念を媒介とした認識論に対抗し、そういう媒介なしでも外的世界を直観し得るとし、その正当な知識の根拠を、自然に由来する精神の能力である、我々のコモン(共通の)・センス(感覚)という常識に訴える思想であり、スコットランンド伝統の長老派教会を擁護するものであった。その後17歳から6年間、オックスフォード大学で学んだ。28歳で母校グラスゴー大学で倫理学の教授になった。倫理学の他、自然哲学、法学、経済学を講義した。1759年『道徳情操論』を出版し、かち得た名声によって、バックルー公爵の付き添い人として、41歳の時からニ年半、トゥールーズ、パリ、ジュネーヴに滞在した。その間にヴォルテールやフランス唯物論者や百科全書派、ドルバック、ディドロ、ダランベール、重農主義者ケネーなどと接触した。帰国してからは故郷のカコーディで思索を重ね、1776年『国富論』を出版した。スミスは虚弱を理由に生涯結婚しなかった。晩年はエジンバラに母や従兄弟と移り住んだ。また母校グラスゴー大学の総長に就任した。彼は二つの自著の改訂を死の直前まで怠らなかった。

 『道徳情操論』と『国富論』とは、彼が道徳哲学の講義をしていたときの、包括的な思想のそれぞれの部分であり、異なった研究対象とはいえ、両者はいずれも同じ近代資本主義社会を生きる人間を前提としていた。
 『道徳情操論』における人間解釈に影響を与えたものには二つの系譜が考えられる。一つは、ベーコンに始まり、ホッブス、ロック、ヒュームを経て、ハートリィの連想心理学を媒介にして19世紀のベンサム、J・S・ミルなどの功利主義思想につながるものであり、人間の本性を利己的なものとする立場であった。つまり、人間の本性の理解を中世以来の形而上学の伝統から切り離し、人間の心理的行動の分析に立って、その社会行動や考え方の準則ないしパターンを検出しようとするものであり、とりわけ利己心および自愛心が重要な地位を占めていた。
 他の系譜は、スコットランド学派の倫理学の系譜であり、シャフツベリーから始まり、バトラーを経て、アダム・スミスの恩師にあたるフランシス・ハチェスンにいたる利他主義的人間観である。ここでは、人間に固有の道徳的感情すなわちモラル・センスの存在を前提にし、そこから人間行動のパターンや人間関係を導き出そうとするものであった。
 そして、スミスは、この二つの系譜の倫理説に対し、近代社会に生きる人間の利己心ないし自愛心を基底としつつ、その内部に利他主義的人間観を生かすような統合を行った。
 彼は『道徳情操論』の最初に、憐憫もしくは同感の感情、すなわちモラル・センスの存在が全ての人間に具わっていることを認める。しかし、それでもなお総体として人間の本性が利己的なものの優位であることを例をあげて示す。人は疑いもなくその本性からして、まず第一に、主として彼自らのことに関心をもつものである。仮に今、中国が地震で無数の住民が死ぬという大災害の報に接しても、初めの衝撃、続く哀惜の念や無常観、憂鬱な想いが、一段落すれば、以前の日常生活に戻ってしまい、自分のささいな災禍の方が気になるのである。
 利己心も利他的心も神授のものである。だから利己的本能が何ものにも妨げられず、十分に発揮出来、しかも他を侵さない状態が理想であり、そのためには利他的本能は正義の法という形で、利己心の調整的機能としての役割を与えられる。修辞法なくしても文法さえあれば文章は成り立つように、社会は、相互的な愛着や情がなくとも、その効用の点からして存在し得るし、恩義や感謝に束縛されることがなくても、その社会は、合意の上の評価に基く便益の金銭づくの交換によって維持されるだろうと、彼は利己的本能の強烈さを強調する。
 神はいったん利己心と利他心という二つの本能を賦与して人間を創造したあとは、神はもはや人間生活に直接介入しない。全ては公平なる傍観者の同感に値するだけの行為をなすというところに、同感を得るように各人が自分の利己心を抑制を働かせるところに、社会秩序の根幹があるとされた。競争的市場はそうした秩序の具体化に他ならず、そこにおける公平なる傍観者とは競争過程を貫く標準的な価格体系だということである。価格によって規制されていく市場のの自動調整機構を発見したのがスミスの最大の貢献であり、それは社会には意図せざる形での進歩を作り出す潜在力があることを明らかにしたということである。人間は神授の利己心を出来るだけ十分に活動させることが、神の意図に合致した行為であり、利己心の自由放任が社会全体の福祉に連なることを信じていればよい。それが、人間が理性的存在である場合よりも、はるかに社会全体のためになるのである。
 このように利己心によって示される私悪が無意識の内に社会公共の福祉に連なるという思想は、神の見えざる手によって達成されるものであり、人間の理性によるものではなかった。
 ここに、人間の利己的本性に根ざす活動から様々な徳性(節約、勤勉、敏活、慎慮など)が生まれる。彼は特に慎慮を重視した。
 だがこの理神論的思想を背景にした神の見えざる手が作用するには、市民社会における経済生活が完全に自由で、独占や特権がなく、自由競争が完全に保証される状況でなくてはならない。 すなわち、それは社会の全ての階層が当てはまるのではなく、マニファクチャの興隆とともに登場した新興の製造業者、およびそれと結合した市民階級、そして賃金労働者たちで構成されるところの、社会の中庸ならびに下層階級の人々についてのみ、それは当てはまるのである。
 それに対し、社会の上層階級(大きな地主、裕福な商人)も、いうまでもなく利己心を持っているが、彼らは多くの場合、自由競争を妨げることによって自分たちの利益を守る立場にあるので、彼らの利己心は、もっぱら怠惰と浪費とに結びつくだけである。
 この社会の中層と下層とが古い特権層に対し、同一の利害を感じていたのは、1831年の選挙法改正から、1846年の穀物条例の撤廃の時期にいたるまでであって、1848年の二月革命以後は、両者が分裂し、ブルジョワジーとプロレタリアートとして対立し始める。

 スミスによると経済学ないしポリティカル・エコノミーの任務は、君主と人民とを共に富ますための方策を研究することであった。そこで富とは何かと問われなければならない。スミスに先立つ重商主義の時代では、富とは金銀の獲得と貨幣の蓄積にあるとされ、それの唯一の手段は外国貿易であった。産業革命前の時代にあっては、手工的技術と低い生産力とを前提としながら、国家を富ませるには、自国の生産物を海外に輸出し、海外からの輸入を出来るだけ抑制し、その貿易差額を金または銀で受け取り、それを保蔵することであった。当然、低い生産費と安い価格で輸出することが至上目的であり、またそのためには、賃金水準を出来るだけ低く抑え、労働時間を出来るだけ長くすること、そして四六時中人間が働かなければならないように強制することが、国家の労働政策でなければならなかった。国家は、貿易差額に資すると思われる産業部門に、保護奨励を加え、外国産業の圧力を遮断して国内市場を独占させ、一部の貿易商人に、独占的特許を与えて、それによって国際競争力を高めようとした。そして、イギリスは、その強大な海軍力を駆使して、未開地を略取して植民地に編入し、自国の産業のための原料を確保し、また自国産商品にとっての独占的マーケットを設定していった。
 18世紀のイギリスでは国内での戦争はなく、自由と民主主義を享受する市民階級の国に膨張し始めていたが、それは、外国と植民地に対する無慈悲な流血の戦争と過酷な抑圧によって支えられていたのである。
 このような保護と統制の体制維持と戦争遂行と植民地の防衛と経営のためには莫大な国費を要した。このような広範な植民地の軍事的支配の基礎の上に、強力な国家が先頭に立って築き上げた独占的な統制経済の全体系こそ、スミスが『国富論』の中で対決しようとした重商主義に他ならなかった。
 だが、この重商主義体制は、18世紀の半ばから行き詰りの徴候が見え始め、下層の人々の暴動は激しさを増し、メソディストが脅威的速さで労働者の間に広まっていった。『国富論』は、そうした危機の根源と実相を明らかにし、そこからの脱出の方向を指し示す。
 富とは、スミスにとって、もはや金銀ではなく、特権階級以外の普通の人間にとっての生活必需品と便益品である。それの多い少ないが、国が富裕であるかどうかの尺度である。それを獲得する手段は外国貿易による貿易差額ではなく、自国の労働によって不断に生産される富である。
 重農主義の経済思想家の場合も、富は生産によってもたらされるとされたが、その場合には自然が参加することによって純収入たる剰余が作り出されるとされるのに対し、スミスの場合の生産活動の主役は、年々の労働であり、苦労と骨折りとであった。
 また、労働の熟練と技巧と判断の高低上下、つまり労働生産性の優劣が、一国の生産力の大小、従ってまた富の大小、ひいては国民が貧困であるか富裕であるかを左右する原因である。
 そして、労働の生産力の最大の改善は分業によって生まれる。この分業はスミスにとって、まだ生産行程の技術的細分化・特殊化による分業ではなく、社会的分業であり、職業分化の意味である。
 労働とは苦労と骨折りであるから、それは、富の源泉であると同時に、その尺度である。あらゆる物の真実価格、すなわち、どんな物でも人がそれを獲得しようとするにあたって本当に費やすものは、それを獲得するための苦労と骨折りである。あらゆる物が、それを獲得した人にとって、またそれを売りさばいたり、他の何かと交換したりしようと思う人にとって、真にどれほどの価値があるかといえば、それによって彼自身が省くことの出来る苦労と骨折りであり、また、それによって他の人々に課することが出来る苦労と骨折りである。労働が全てのものの価値の根源であり、その尺度である。ここからスミスの労働価値論が生まれる。労働価値を商品価値の根源でもあり、その尺度でもあると説いた点は、『国富論』全体の理論の拠って立つ基盤である。
 しかし、労働は人間にとって、安楽、自由、幸福を犠牲に供することである。苦痛としての労働が不可避であるなら、できるだけその時間は短い方がいいし、もし自分の負うべき労働を他人に転嫁する場合には、それに対し賃金という形で補償が行われなくてはならない。
 ところで、生産物のうち蓄積されて再生産にあてられる資本化される部分は、主として生産的労働に従事する人々を雇用するために用いられ、消費生活に振り向けられる所得の部分は、もっぱら不生産的労働の提供者によって消費される。年々の生産物のうち、前者の割合が大きいほどその社会は蓄積が大であり、再生産は拡大していき、富裕になっていくが、後者の割合が大きいと、再生産は縮小され、富の浪費と食いつぶしが始まる。生産的労働の提供者とは物的富を直接生産する人々であり、それ以外のサービスの提供者は、それがたとえ社会的にどれほど重要で有用であっても、不生産的労働者である。
 また、大きな地主と富裕な商人の手元に流れ込む所得である地代と利潤とは、不生産的労働者を雇用するように浪費されるから、社会の中層・下層階級は、節約と勤勉と慎慮によって、経済社会の蓄積が阻害されないように努力しなければならない。スミスはその際、勤勉より人間本有のものである節約の徳性を高く評価する。
 ただし、同一量の資本でも、それがどこに投下されるかによって生産的労働を雇用する程度が異なり、その如何によっては生活の必需品と便益品としての富の大小も異なる。投資の順序としては、農業が第一であり、それに次いで製造業、最後に商業がくる。
 だが、事実においては、各国とも、資本投下について、この順序としばしば逆の方向をとった。ローマ帝国没落以後のヨーロッパ諸国において、農業よりも商業や製造業に資本を投下するような重商主義政策をとったために、富の発展は不安定で、緩慢であった。富の発展の基礎が農業におかれたアメリカの植民地の急速な進歩と対比すべきだとスミスはいう。
 富とは貨幣すなわち金と銀からなるのではなく、貨幣で買えるものからなり、貨幣はものを買う力があるからこそ価値がある。一国における貨幣量の維持や増加を監視するために、政府の注意が向けられることほど無駄なことはない。高率関税や輸入禁止などの経済政策は、外国から安く買うことが出来るものを、国内で高い生産費で生産させようとするものであり、背理である。独占商人と保護された製造業者とは、結局、社会全体の利益に対立し、消費者の利益を侵害している。消費こそが、あらゆる生産活動の唯一無二の目標であり、目的である。そして、生産者の利益は、消費者の利益を増進させるのに必要な範囲でのみ、考慮されてしかるべきものなのである。それゆえ、特権、制限を完全に撤廃されれば、簡明な自然的自由の制度がおのずから出来あがってくる。そうなれば、各人は正義の法を犯さない限りは、完全に自由に自分がやりたいようにして自分の利益を追求し、自分の勤労と資本とをもって他の誰とでも、他のどの階級とでも、競争することが出来る。
 そこで、この自然的自由の制度のもとで、元首が心を用いるべきは、個人の利己心に任せてはその目的を達せられない、国防、司法、公共的施設の維持の三つだけである。ただし、利己心がこれらの効率を高めることもある。およそ、いっさいの職務を適切に果たすには、その職務に対する報酬が、なるべく正確に、職務の性質に比例している必要がある。低すぎはそれに従事する者に自分が無能だと卑屈にさせるし、高すぎるとなおざりになったり怠けたりする。

 スミス以後、リカード、マルサス、J・S・ミル、シスモンディなどが専門科学として古典派経済学を様々な方向へ発展させた。
 リカードは、経済的に有利な選択を行う上で、比較の方法を駆使して、肥沃度の高い土地により高い地代が支払われる理由を分析する地代論および国際貿易の場において、各国が比較的に優位にある産業に特化する形での国際分業が行われる機構を分析する外国貿易論を明示した。
 古典派経済学は、実践的な課題との取り組みの中で経済学を発展させていった。リカードは地金論争において銀行券発行の縮小と金兌換を提案するあたりから、経済学の研究を始め、穀物法を廃止して安価な外国穀物を輸入することによって、地主の利益を犠牲にしつつ、低賃金の維持と高利潤の確保が可能だと論じたが、マルサスは、食糧自給の必要という政治的理由の他に、国内農業部門から発生する有効需要の重要性をも指摘して穀物法を存続させようとした。ミルも当時の政治的課題であった分配の問題に経済学がどこまで解答を与えられるか、その限界を見極めようとした。ミルに影響を与えたベンサムの功利主義は、一方で個人主義的な選択を合理化するとともに、他方では、最大多数の最大幸福という社会正義の基準を普及させた。この単純な原理によって様々な急進的な立法あるいは廃法の運動が進められた。
 しかし、幾多の革命や動乱が続いた19世紀前半にあって、ホモ・エコノミクスの自由交換がそう安易に調和に達するはずもなかった。リカードにおける実質利潤は、生活水準に固定された実質賃金を商品の実質価格から差し引いた残余として得られるわけだが、ここにすでに資本家と労働者の対抗が内包されている。また企業による機械の導入が労働者を失業に追い込むという対抗関係もある。古典派の多くの論客は分配決定のうちに、地主と資本家の、そして資本家と労働者の階級対立を読み取っていた。例えば古典派の労働供給は生活水準の実質的賃金率で無限に弾力的だと想定されていた。過剰人口が農村や家族といった共同体のうちに厖大に堆積しているということである。その中からいわゆる賃金基金に見合った分だけの雇用がなされるというわけである。このように労働者が窮乏と潜在的失業の状態にあることを前提にした上での残余としての利潤という考えは、資本家による労働者の抑圧・搾取という想念につながっていく。それに対し、利潤は消費の延期としての節欲に対する報酬だという説を唱えた者もいた。
 19世紀前半は恐慌が幾度も発生した。シスモンディは、所得・支出が生産に常に遅れること、さらには利潤追求の生産が常に拡大傾向をもつのに対し不平等分配の下では消費は縮小する場合もあることなどを指摘しながら、恐慌の必然性を説明しようとした。

 マルクスは、労働価値説を純化することを通じて、資本家の利潤もまた労働者の提供する剰余労働の搾取に他ならず、不労所得の一種なのだとした。つまり、商品の価値がそれを生産するのに必要な投入労働量によって測られるのだとすれば、労働力商品の価値とは労働者の生活質料を生産するのに必要な投入労働量だということになる。それゆえ、生存賃金による賃労働の取引はまさしく等価交換なのであり、そこに搾取の入り込む余地はない。しかし、労働者は生存賃金に見合ったものとしての必要労働を越えて、いわゆる剰余労働を資本家に提供している。これが剰余価値を生み出すことになり、剰余価値の価格形態が利潤だということになる。等価交換の外被に隠れて剰余価値の搾取がなされている、それがマルクスの資本主義批判の出発点である。
 マルクスが当初『経済学・哲学草稿』において指摘していたのは労働の疎外であった。公正観念が自由交換の場において機能しないということは、そうした通念を支える社会的紐帯が崩壊したということである。
 機械制大工場の時代に生きたマルクスは、古典派が年々の賃金資金を資本と見なすというような考えに示されるような流動資本だけでなく、不変資本、すなわち固定資本の流動資本に対する相対的増大を意味するいわゆる資本の有機的構成の高度化という、固定資本の蓄積に関する考察が見られ、また固定資本の存在によって市場経済が不均衡に見舞われる危険が生まれることを見逃さなかった。
 マルクスは史的唯物論をいうことによって、生産力の発展段階に照応する生産関係が物質的過程となって社会の下部構造を規定すると見なした。そのつながりで「人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する」ともいう。
 マルクスのなしたのは資本主義的な自由交換の場において成立するイデオロギーを分析し、その矛盾を弁証法的に批判することで、資本主義のアンチテーゼを提示することにあった。その批判は資本主義が続く限り有効であろう。経済学者は商品、貨幣あるいは資本を当たり前の実在物として受け取り、それらの機能的分析に終始するが、理論の前提となる諸概念をどう解釈するかという問題は脇に追いやられ、それら諸概念に付与されている通俗の解釈に疑いを差し挟まない。その通俗の解釈こそ資本主義正当化思想、固定観念の体系としてのイデオロギーである。マルクスは時代のイデオロギーが意味するところを暴露し再解釈しようとしたのである。ヘーゲル学徒であったマルクスは、ヘーゲルによって哲学は完成されたことを一応認め、後は実践あるのみと考えたのである。
  
 19世紀の自由主義的、個人主義的経済思想はイギリスの国益を正当化するものであるが、それに対し、ドイツに歴史主義が生まれた。それは国家は一つの有機的全体であり、個人にまで還元してはならないと、民族精神を支柱にして、法や政治や道徳によって国民的統一が確保されているのでなければ、個人の勤勉や節約もその効力を発揮できないとされた。この統一はまさに国民の歴史として形成されるのであって、その歴史を確立するために、国内工業の保護が提唱されたのである。
 19世紀を通じて労使対立あるいは近代的階級闘争がマルクス主義および無政府主義によって鼓舞されつつ次第に激化していった。これに対し、歴史学派に影響を受けたビスマルクは社会主義者鎮圧法と社会保障の充実という社会政策をもって対処しようとした。
 ウェーバーは、『社会科学および社会政策の認識の客観性』などにおいて、歴史主義批判を展開した。研究者がいかなる論題をいかなる視角から分析するかに当たって、価値判断が作用することをウェーバーは認め、むしろその自覚を通じて、人間行為の動機の理解を客観性にまで高めて、それらの理念型をつくることによって、歴史的対象を模型化しなければならないとした。つまり、不断に変転する歴史の全体を捉えることは不可能であって、ただ理念型を立てることによってそれに漸近できるだけであるという。
 ウェーバーは合理化という近代的な価値基準に焦点を合わせ、また理念型などを用いることによっていかに価値中立の立場を維持するかという近代的な方法論を採用したが、歴史の中核に道徳、習俗、宗教、倫理などに関わる価値の問題があることをも強調した。

 1870年代の初め、ジェヴォンズ、メンガーおよびワルラスがそれぞれ独立に主観的価値理論と後に呼ばれるようになった考え方を発表した。いわゆる新古典主義派経済学の誕生である。主観的価値とは消費者が財あるいは諸財の組み合わせに対して抱く効用のことに他ならない。
 効用という概念は、ベンサムの功利主義に源泉がある。それは快と苦の比較考量に基く主義であり、法などの社会制度の適否を判定するのに効用概念は用いられた。経済とは最小の努力で欲望を最大に満たすこと、快楽を極大化させることに他ならなかった。
 効用は、古典派にあってすでに財の使用価値と呼ばれていたものに相当するが、使用価値の場合は、消費の財に対する主観的評価とは別物ととしての客観的価値と見なされがちであった。それは、生命のための使用価値は人々はみな同じで、客観性があるということである。それを主観的なものとするのは、いわば贅沢品化することである。生命維持は効用ではない。
 普遍思想を交えないで人間をバラバラに扱うことで、経済学から哲学を抜いてしまう。これはディドロの相対主義と同じである。
 主観的なものとしての効用概念を樹立することによって、経済学は個人主義の方法およびイデオロギーにしっかり結びつけられた。つまり、効用を最大にするという個人の合理性に基いて経済世界を説明する、それが資本主義経済学の格率となった。それはマルクス主義経済学の根幹を支える労働価値説の打倒をねらったものである。
 効用が果たして測定可能なものであるか、つまり、基数的効用でありうるか、という疑問は当初から気付かされていた。その解決のために、いわゆる無差別曲線の道具立てによって、序数的効用の概念を提出した。換言すれば、選択順序において同位にある諸財の様々な組み合わせを無差別曲線によって示し、そのような曲線の集合によって消費者の欲求の順序付けを規定すれば、それでよいとしたのである。
 効用概念は、限界効用という概念にまで精密化されることによって、古典派に対する批判の武器となった。古典派には使用価値と交換価値との統一的理論がなかった。水の使用価値はダイヤモンドより高いのに、ダイヤモンドの交換価値は水よりも高いのである。新古典派はこの逆説を限界効用概念を用いることによって解決したという。
 彼らは価値を労働ではなく、希少性という主観的尺度で捉える。砂漠に置き去りにされた大金持ちが水と金を交換する時、最初の一杯はいくら金を出しても欲しいが、一杯追加されるごとに必要度は低くなり、最後には最低の金でしか交換しなくなる。この最後の追加分に感じる満足度を限界効用といわれるのである。




ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック