カント 『判断力批判』 要約 (1)

 序文 
 判断力は、悟性と理性とをつなぐ中間項をなす。純粋理性は、我々がア・プリオリな原理に従って判断する能力である。判断力もまた一個の認識能力として、やはりア・プリオリな原理に従って判断することを要求する。とはいえ判断力のかかる原理は、ア・プリオリな概念から導出せられたものであってはならない。ア・プリオリな概念は悟性に属するものであり、判断力は、かかる概念の適用にだけに関するものだからである。だから判断力は、自ら自分の概念を提示しなければならない。しかしそれは判断力が自分の判断を適合させ得るような客観的規則ではない。もしそうなら判断力が判断に際しかかる規則に適合するかどうかのために、別な判断力が必要になるからである。
 ところで原理に関するこの困惑は、自然或は芸術における美と崇高とに関する判定において生じる。美学的判定が、それ自体では物の認識に少しも寄与しないにせよ、しかしかかる判定はこの判断力という認識能力にのみ属し、またこの能力が何らかのア・プリオリな原理に従って快・不快の感情に直接に関係するものとして明示する。とはいえこの原理は、欲求能力の規定根拠となり得るものと混同されてはならない。欲求能力のア・プリオリな原理は、理性の概念の内に存するからである。だから自然の論理的判定におけるア・プリオリな原理は世界において存在するものを認識しまた実践理性にとっても有利な展望を開きはするが、しかしこの原理は、快・不快の感情と直接に関係するものではない。ところがこの関係こそ、まさに判断力の原理における謎なのである。そしてこの謎こそ、批判においてこの能力のために特に一部門を設けざるを得なくするのである。

 序論
 
 自然概念は、その対象を直観において表示しはするが、しかしこれを物自体としてではなく単なる現象として示すにすぎず、自由概念は、その対象において物自体を示しはするが、しかしこれを直観において表示するものではない。従って両者とも、物自体としての対象に関しては理論的認識を与えることができない。物自体は恐らく超感性的なものであろう。
 自然概念の領域は感性的なものであり、自由概念の領域は超感性的なものである。感性的世界は超感性的世界に対して何ら影響を及ぼし得ないにせよ、超感性的世界は感性的世界に対して影響を及ぼすように定められている。従って自然は、その形式の合目的性が自由の法則に従って自然において実現されるべき目的の可能と少なくとも一致調和する、と考えられ得ねばならない。してみると自然の根底に存する超感性的なものと、自由概念が実践的なものとして含んでいるものとの統一の根拠が必ず存しなければならない。

 およそ一切の心的能力は認識能力、快・不快の感情および欲求能力の三つの能力に還元され得る。そして悟性と理性の間に判断力が介在しているように、認識能力と欲求能力との間には快・不快の感情が介在している。また判断力は、悟性および理性と全く同様に、それ自体だけでア・プリオリな原理を含んでいる。そして欲求能力には必然的に快もしくは不快が結びついているから、判断力は自然概念の領域から、自由概念の領域への移行をなすだろう。これは同じ判断力が、論理的使用において悟性から理性への移行を可能ならしめるのと全く同様である。

 判断力一般は、特殊を普遍のもとに含まれているものとして考える能力である。もし普遍(規則、原理、法則)が与えられていれば、判断力は特殊をこの普遍のもとに包摂する。そしてこの場合の判断力は、規定的判断力である。しかし特殊だけが与えられていて、判断力がこの特殊に対して普遍を見出すことになると、この場合の判断力は単なる反省的判断力である。
 ところが自然の形式は極めて多様であり、また超越論的な普遍的自然概念には極めて多数の変容があると言っても過言ではない。これらの形式や変容は、悟性がア・プリオリに与えるところの、もっぱら自然一般を可能ならしめる普遍的自然法則によっては結局規定されずに残されてしまう。してみるとこの多様な形式や多数の変容に対してもやはり法則がなければならない。そこでこれらの特殊的自然法則は、あたかも或る悟性が我々の認識能力に鑑みてかかる特殊的自然法則に従う経験の体系を可能ならしめるために予め与えておいたものであるかのような統一に従って、考察されねばならない、ということである。だからといって我々は、かかる悟性を実際に存在するものとして想定してはならないだろう。このような統一の理念は、我々の反省的判断力にのみ、原理の用をなすにすぎないからである。
 ところで或る対象の概念は、それが同時にその対象の現実性の根拠を含む限りにおいて目的と呼ばれる。また或る物が、目的に従ってのみ可能であるような性質と合致すれば、この合致はその物の形式の合目的性と呼ばれる。だから反省的判断力の原理は、経験的自然法則一般に従う自然におけるものに形式に関するものとして、多様性をもつ自然の合目的性である。

 自然における対象が、この自然の合目的性という原理のもとに統摂されていると考えられる限り、これらの対象は全く可能的認識一般の対象という純粋概念であり、従って経験的なものを少しも含んでいないから、自然の合目的性の原理は超越論的原理である。
 自然の合目的性という概念が超越論的原理に属しているということは、反省的判断力の格律から十分に看取せられ得る。
 自然の合目的性という概念の演繹が正しいこと、またこの概念を超越論的な認識原理として必然的に想定せざるを得ないことを確認するためには、我々が当面する課題、即ち無限に多様な経験的法則を含む自然によって与えられた知覚を、完全な連関を保つ一個の経験に仕立てるという課題の重大さを思い見るだけでよい。この課題は、すでに我々の悟性の内にア・プリオリに存する。悟性は普遍的自然法則を所有すると同時に、なお自然の特殊的規則に従う或る種の秩序を必要とする。しかもかかる規則は、悟性には経験的にしか知られ得ないものであり、偶然的な規則である。これらの規則がないと、可能的一般における普遍的類比から特殊的類比へ進むことができないだろう。
 自然は我々の認識能力に対する合目的性の原理に従ってその普遍的法則を特殊化する。換言すれば、知覚の提供する特殊に対して普遍を見出し、更にまたその差異に対して再び原理の統一による結合を見出すことを必然的な仕事とするところの人間悟性に適合するために、その普遍的法則を特殊化するのである。

 表象において、全く認識の構成要素になり得ない主観的なものとして、快もしくは不快がある。また合目的性も、表象における主観的なものであるが、これも決して認識の構成要素になり得ない。対象が合目的と呼ばれるのは、対象の表象が快の感情と直接に結びついているからである。そしてかかる表象が即ち合目的性の美学的表象なのである。
 直観の対象の形式をただ捕捉するだけで、この捕捉に快が結びついているなら、その場合の表象は主観にのみ関係する。そしてその快が表現するのは、客観と我々の認識能力、即ち反省的判断力においていわば自由に遊ぶところの悟性および構想力との適合であり、また客観の単なる主観的形式的合目的性に他ならない。対象の形式を構想力の中へ捕捉することは、反省的判断力が、たとえ意図せずともこれらの形式を、直観を概念に関係せしめる能力と比較するのでなければ生じ得ないからである。ところでかかる比較において構想力が、与えられた表象によって悟性と意図せずに調和し、快の感情が喚起せられるならば、その対象は反省的判断力にとって合目的なものと判断されねばならない。この判断が客観の合目的性に関する美学的判断である。そしてこの判断は、対象に関して現に在るところの概念に基くものではなく、また対象に関するいかなる概念をも与えるものではない。或る対象の形式が、この形式に対する単なる反省において、かかる客観の表象によって生じる快の根拠と見なされるならば、その客観の表象には快もまた必然的に結びついていると判断されるのである。従ってこの快は、主観だけに妥当するのではなく、およそ判断者一般に例外なく妥当する。そうするとこの対象は美と呼ばれ、またかかる快によって判断する能力は趣味と呼ばれるのである。
 概念にかかわりなく対象の形式に対する反省において快を感じる人は、その判断が経験的であるにせよ、全ての人の同意を要求して然るべきである。この快の根拠は、反省的判断力の普遍的条件、即ち対象と認識能力相互の関係との合目的調和に存するからである。
 しかし物の形式に対する反省から生じた快の感受は、反省的判断力に関係する客観の合目的性を、主観における自然概念に従って表示するばかりではなく、逆に対象の形式に従って、それどころかその非形式に従ってすら、対象に関する主観の合目的性を自由概念によって表示するのである。だから美学的判断は、趣味判断として美に関係するばかりでなく、精神的感情から生じた判断として崇高にも関係する。
 
 対象の概念が与えられている場合、認識のためにこの概念を使用する判断力の仕事は、この概念を現示すること、即ち対象の概念にこれに対応する直観を与えることである。そしてそのことは我々にとって目的であるような概念を実現する場合には、我々自身の構想力によって行われるだろう。或はまた自然の技巧においてなら(有機体のように)、自然によって行われるだろう。そしてこの場合、物の形式における自然の合目的性が表象されるばかりでなく、自然のかかる所産そのものが自然目的として表象されるのである。自然美は形式的(単なる主観的)合目的性の概念の現示、自然目的は実在的(客観的)合目的性の概念の現示である。我々は前者を趣味によって、即ち美学的に、快の感情を介して判定し、また後者を悟性および理性によって判定するのである。
 美学的判断力とは、形式的合目的性を快・不快の感情によって判定する能力のことであり、目的論的判断力とは、自然の実在的合目的性を悟性および理性によって判定する能力のことである。

 判断力は、自然概念と自由概念とを媒介するところの自然の合目的性という概念を与える。そしてこの媒介的概念が、純粋理論理性から純粋実践理性への移行を、また自然概念に従うところの合法則性から自由概念に従うところの究極目的への移行を可能ならしめる。
 悟性は、自ら自然にア・プリオリな法則を与え得ることによって、自然が現象としてのみ我々に認識せられるものであることを証明する。また現象としての自然の根底に存する超感性的基体を指示するが、しかしその基体がどのようなものかということに関しては未規定のままにしておく。次に判断力は、自然を判定するためのア・プリオリな原理によって、可能な限りの特殊的自然法則に従い、自然の超感性的基体を知性的能力によって規定せられ得るものにする。最後に理性は、そのア・プリオリな実践的法則によって、この同じ超感性的基体に規定を与える。
 悟性はア・プリオリな構成的原理を含むところの認識能力である。判断力は快・不快の感情に対するが、概念や感覚には関わりがない。これらのものは欲求能力の理性による規定に関係し、またそれによって直接に実践的たり得るようなものだからである。最後に欲求能力に対しては理性がある。理性は、快が何に由来するにせよ、快による媒介をまたずに実践的であり、また上級能力として欲求能力に究極目的を規定する。そしてこの究極目的は同時に、客観に関する知性的適意を伴うのである。また判断力における自然の合目的性の概念は、まだ自然概念に属しているが、しかし単に認識能力の統整的原理としてのみこれに属するにすぎない。尤も或る種の自然もしくは芸術の対象に関する美学的判断は、この概念を成立せしめる機縁を与えるものであり、従って快・不快の感情に関しては構成的原理である。更に認識能力の間の調和は、かかる快の感情の根拠を含んでいる。そしてこれらの認識能力の自由な遊びにおける自発性が、自然の合目的性の概念をして、自然概念の領域と自由概念の領域とを媒介する中間項として両領域を統合するに好適なものたらしめる。この自発性は同時に、道徳的感情に対する心の感受性を促進するからである。

 第一部 美学的判断力の批判

 第一篇 美学的判断力の分析論

 第一章 美の分析論

 趣味判断の第一様式「性質」

 美の判別には、悟性ではなく、構想力によって表象を主観と快・不快の感情とに関係させるから、趣味判断は認識判断ではなく、判断の規定根拠が主観的なものでしかありえないところの美学的判断である。
 我々が対象の実在に結びつけるところの適意(気に入ること)は関心と呼ばれる。このような適意は欲求能力と関係する。しかし美を判別するにあたって我々が知りたいのは、対象の実在について全く無関心であるとしても、この対象の単なる表象が適意を伴うのかどうかということである。或る対象を美であると言い得るための要件は、我々が自分自身の内にあるこの表象から自分で作り出すところのものであり、この対象の実在を拠り所にすることではない。だから美に関する判断に少しでも関心が混じるならば、その美学的判断は甚だしく不公平になり、決して純粋な趣味判断とはいえないのである。
 感官的印象は情意的傾向を、理性の原則は意志を、また直観において反省された形式は判断力を、それぞれ規定する。しかし快いものは全て快適であるとしたら、これらのものは快の感情に与える効果に関する限り、皆同じになってしまうだろう。この効果が我々の状態の感覚における快適に他ならないからである。すると我々の心的諸能力の一切の働きは、結局この場合、感覚的満足という実践的なものに帰着し合一せざるを得ないから、物の価値の評価基準はその物が我々に与える感覚的満足ということになり、その満足へ到達する仕方は重要でなくなってしまう。
 快・不快の感情の規定が感覚と呼ばれる場合と、事物の感官による表象を感覚と呼ばれる場合とは、全く異なるのである。前者の表象は主観だけに関係し、後者の表象は客観に関係する。しかし上述の説明においては、感覚という語を感官の客観的表象の意味に解している。そこで誤解を避けるために、常に主観的なもの絶対に対象の表象にならぬものは、感情と名付ける。草原の緑は、感官の対象の知覚としては客観的表象に属する。しかしこの緑色が快適であるということは主観的感情に属する。
 理性を介し、単なる概念によって快いものが善である。そして手段としてのみ快いようなものを或ることにために善(有用なもの)であると言い、またそれ自体で快いものをそれ自体善であると言う。後の二つはいずれも目的の概念を含んでいる。従って理性と意欲の関係を含み、対象或は行為の現実的存在に関する適意、即ち関心を含んでいる。
 対象を善と認めるには対象の概念をもたねばならないが、対象を美と認めるにはそれは必要ない。美に関する適意は、対象に対する反省によって生じ、そしてその反省が何らかの概念に到るのである。だから適意はその点でも快適なものと区別される。
 快適は善と同じものとされ、感覚的満足はそれ自体善であるなどと誤って言われることがある。快適はその性質上、対象を感官に対する関係においてのみ表象する。しかし快適なものを意志の対象として善と呼ぶためには、まず目的の概念によって理性の原理のもとに置かねばならない。だかそうなると、感覚的満足を与えるものは善であると言う場合と、適意に対する関係が全く違ってくる。
 生活を快適ならしめるものの最大量を最高の善とするのは理性に反している。ひたすら快適、すなわち享楽するためにのみ生きているような人の存在が、それ自体何らかの価値を有するなどということは、断じて理性の納得し得ることではない。人間は享楽を度外視して、完全に自由な状態において彼の為すところの行状によってのみ、一個の人格的実在としての彼の現実的存在に絶対的価値を与えるのである。
 快適と善にはこのように甚だしい差異があるにも拘らず、両者とも対象に対する関心と結びついているという点で一致する。
 快適と善とはいずれも欲求能力と関係し、その限りにおいて快適は感覚的刺戟による適意を伴うし、また善は純粋な実践的適意を伴うのである。そしてこの実践的適意は、対象の表象だけでなく、主観と対象の実在との統合の表象によっても規定される。だから対象だけでなく、対象の実在もまた快いのである。これに対し趣味判断は、単なる観想的判断であり、対象の現実的存在にかかわりなく、対象の性質を快・不快の感情に引き当てるだけの判断である。
 だから快適、美および善の三者は、表象と快・不快の感情とのそれぞれ相異なる関係を表示する。即ちその適意はそれぞれ情意的傾向、恩恵および尊敬に関係する。そして恩恵こそ唯一の自由な適意なのである。およそ関心は必要を前提し、或はこれを産出する。だから関心は自由な同意の規定根拠ではない。

 趣味判断の第二様式「量」
 
 対象に関する適意が一切の関心にかかわりのないものであることを意識する限り、その適意には全ての人に対する適意の根拠、即ち普遍性が含まれる。だから美について語る場合、あたかも美が対象そのものの性質であり、またその判断は対象の概念によってその対象を認識するところの論理的判断であるかのように言うだろう。しかしこの場合は、あくまで美学的判断であり、対象の表象と判断する主観との関係を含むにすぎない。
 だから快適なものに関しては、各人が各様の趣味をもっているという原則が当てはまるのである。しかしもしその物が、或る人にだけ快いものなら、それを美と呼んではならない。美に関する趣味判断が確立しようとするところのもの、或は要求するところものは、普遍的規則なのである。
 対象の概念に基かない普遍性は、論理的普遍性でなく、美学的普遍性であり、そこから論理的不変妥当性を推及することはできない。この普遍性は判断の客観的量を含むのではなく、主観的量を含むにすぎない。
 趣味判断は全て単称的(個別的)判断である。趣味判断そのものは全ての人の同意、即ち普遍的賛成を期待するわけにはいかない。このことをなし得るのは、理由を提示し得る論理的ー全称的判断だけだからである。だから普遍的賛成は一個の理念である。
 もし趣味判断において、与えられた対象に関する快の方が対象の判定より前にあり、この判断において対象の表象に認められるのは、全ての人が普遍的にこの快に共感することとするなら、自己矛盾に陥る。だから趣味判断の主観的条件としてこの判断の根底に存し、対象に関する快を必然的に生ぜしめるのは、与えられた表象によって生じた心的状態に、全ての人が普遍的に与かり得るということである。しかし全ての人が普遍的に関与し得るのは、認識と認識に属する限りの表象だけである。実際、表象はその限りにおいてのみ客観的であり得る。だからこの心的状態は、我々の表象力が与えられた表象を認識一般に関係せしめるかぎり、我々の表象力相互の関係において見出される心的状態以外のものではあり得ない。
 そこでこの表象が認識能力(構想力と悟性)の活動を触発すると、それは或る一定の概念が認識能力を制限して特殊な認識規則に従わせるということがないから、この二つの認識能力は共に自由に遊ぶのである。
だからこの心的状態は、我々の表象力が与えられた表象に関して、認識一般のために自由な遊びをしているという感情の状態であり、こういう心的状態こそ、全ての人が普遍的に関与し得るところのものなのである。対象の規定としての認識は、与えられた表象がこの規定に合致する限りにおいて、全ての人に例外なく妥当する唯一の表象の仕方だからである。

 趣味判断の第三様式ー趣味判断において考察される目的の「関係」

 欲求能力が概念だけによって規定せられる限り、換言すれば目的の表象に従って行為するように規定せられる限り、このような欲求能力は意志と言える。しかし或る対象、心的状態或は行為は、必ずしも目的が前提されない場合でも、合目的と言い得る。なぜなら、これらの物の根底に、目的に従う原因性を想定しさえすれば、その可能を説明し理解し得るからである。だから合目的性は目的がなくとも成立し得る。我々はこの合目的性という形式の原因を意志の内に置かなくても、合目的性をかかる意志から導出することによって、その可能を十分に説明し得るからである。
 もし目的が適意の根拠なら、目的は快の対象に関する判断の規定根拠として常に関心を伴うから、趣味判断の根底には、主観的目的も、客観的目的も、また善の概念をもおくことはできない。趣味判断は、我々の表象能力が或る種の表象によって規定される限りにおいて、これらの表象能力相互の関係だけに関するのである。だから趣味判断の規定根拠は、一切の目的にかかわりのない合目的性以外の何ものでもない。するとそれはかかる対象の表象における合目的性という単なる形式に他ならないということになる。
 対象が表象によって与えられる場合に、主観の構想力と悟性という認識能力の調和的遊びにおける単なる合目的性の意識が即ち快そのものなのである。この意識は、感覚が主観の認識能力に生気を与える場合に主観の活動を規定する根拠を含み、また認識一般に関する内的原因性を含むが、しかし一定の認識に限定されているわけではない。この合目的性の意識は、美学的判断における表象の主観的合目的性という単なる形式を含むにすぎない。またこの場合の快は、決して実践的快ではない。この快は表象そのものの状態と構想力と悟性の調和的活動とを、それ以上の意図をもたずに保持する原因性を含んでいる。
 趣味判断は、いかなる経験的適意も判断の規定根拠に混入していない場合にのみ純粋である。ところが或るものを美であると断定する判断に、感覚的刺激や感動が関与するとなると、必ず経験的適意が判断の規定根拠に混入するのである。感動は、快適が瞬間的に阻止されると、生の力がいっそう強烈に溢出するために生じる感覚であるが、決して美に属するものではない。ところが崇高となると、これには感動の感情が結びついている。
 善が前提するような客観的合目的性は、多様なものを一定の目的に関係させることによってのみ認識できる。客観的合目的性は、外的ー客観的合目的性(有用性)か、内的ー客観的合目的性(完全性)か、どちらかである。一般に目的とは、その概念が対象そのものを可能ならしめる根拠と見なされ得るようなものである。だから或る物における客観的合目的性を思いみるためには、それよりも前に「それは本来どのような物であるか」という概念が来るのである。そしてこの物に含まれている多様なものとかかる概念との一致を、その物の質的完全性という。それに対し量的完全性とは単なる総体性という量概念にすぎず、かかる概念にあっては、「この物は本来何であるか」ということは、前もって考えられているわけであり、ただこの物に必要な一切のものが完備されいるかどうかということが問題になる。
 ところで著名な哲学者達ですら、完全性と美とを同一視してきた経緯がある。そこで美は完全性の概念の中へ解消されてしまうものであるかどうかを考察することは重要な問題になってくるが、或る物に含まれている多様なものと一者との一致は、それ自体では客観的合目的性を認識せしめるものではない。この場合には「この物は本来何であるか」という目的としてのかかる一者は度外視されるので、直観する者の心意識には、表象の主観的合目的性しか残っていないからである。とはいえこの場合我々は客観を目的の概念によって考えているわけではないから、この主観的合目的性は客観の完全性を表示するものではないのである。だから形式的、主観的合目的性としての美によっては、対象の完全性、換言すれば、同じく形式的と称せられはするがしかしまた同時に客観的であるような合目的性は決して考えられるものではないのである。そこで美の概念と善の概念とを区別するに当たって、あたかも両者は論理的形式に関して異なるものであり、従って前者は完全性の混雑した概念にすぎないし後者はその明瞭な概念であるが、しかしその他の点ではないようについても起源についても同一であるかのように考えるならば、このような区別はおよそ無意味である。
 存在の目的を自分自身の内にもつところの人間だけが、理性によって自分の目的を自ら規定し得る。換言すれば、目的を外的知覚から得てこなければならない場合でも、それを普遍的目的と突き合わせて、この普遍的目的を美学的に判定し得るのは人間だけである。だから人間だけが美の理想をもつことができる。

 趣味判断の第四様式ー対象に関する適意の「様相」

 認識としての表象は快と結びつくことが少なくとも可能である。また快適なものは現実的に我々の内に快を生ぜしめる。しかし美は適意に対して必然的な関係をもつ。この必然性は、美学的判断において考えられる必然性であって、範例的必然性としか言えないような必然性である。美学的判断は、客観的判断でも、認識判断でも、経験的判断でもない。従ってこのような必然性は無条件的に妥当する必然性でもなければ、経験の普遍性から推論せられ得るものでもない。
 趣味判断は全ての人に同意を要求する。なぜなら同意に対する根拠が一切の人に共通に存するからである。
趣味判断は、概念によってではないが、にも拘らず普遍妥当的に規定するような感情、即ち共通的感情と言い得るような原理をもたねばならない。
 共通感は経験に基くものではなく、趣味判断に範例的妥当性を与えるものとして観念的規範である。我々はこの観念的規範の前提のもとに、この規範に合致する判断と、この判断において表現された適意とを、全ての人に対して規則たらしめる権利をもつのである。この原理は、確かに単なる主観的原理にすぎないが、しかし主観的ー普遍的原理である。
 上述の分析から導出された結論に従うと、一切は趣味という概念に帰着するということが判明する。しかるに趣味は、対象を自発的な産出的構想力の自由な合法則性に関して判定する能力であるということである。

 第ニ章 崇高の分析論

 美と崇高は、それ自体で快いという点で一致し、また両者の前提する判断が感性的判断でも論理的ー規定的判断でもなく、反省的判断であるという点でも一致している。だから両者に属する適意は、快適なものの場合におけるような感覚に依存するのでも、善に関する適意の場合におけるような一定の概念に依存するのでもない。にも拘らずこの適意は概念に関係すると同時に、対象の表示或は表示の能力とも結びつくのである。そこで直観が与えられている場合には、表示の能力即ち構想力は悟性概念の能力と調和するか、さもなければ悟性概念を促進するものとしての理性概念の能力と調和すると見なされるのである。だから美と崇高に関する判断はいずれも個別的判断であり、また両者の要求するのは快の感情であって対象の認識ではないにせよ、全ての主観に対して普遍妥当性をもつと標榜するわけである。
 だが両者の間に著しい差異があることも明白である。自然における美は対象の形式に関し、その旨とするところは限定にあるが、崇高は形式をもたない対象にも見出され、無限定性の全体が考えの中で付け加えられる。そこで美は不定な悟性概念の表示と見なされるが、崇高は不定な理性概念の表示と見なされるわけである。だから適意は、美の場合は性質の表象と結びつくが、崇高の場合は量の表象と結びつくのである。美は、生を促進する感情を直接に伴い、従ってまた感覚的刺激や構想力の自由な遊びと一致し得る。これに対し崇高の感情は、間接的にしか生じないような快である。つまりこの快は、生の諸力が瞬間的に阻止された直後のより強力な溢出という感情によって産出される。このような快は感動であり、構想力の遊びではなく厳粛な営みのように見える。だからこそ崇高は、感覚的刺戟とは一致せず、心意識はむしろ対象に反発するものであり、感嘆或は尊敬の念を含むものである。
 しかし両者の最も重要な差異はまさに次の点にある。自然美は、その形式に関して合目的性を伴うが、自然物における崇高は、その形式に関し、我々の判断力にとっては目的に反し、また我々の表示能力にとっては不適切であり、更にまた構想力にとっては強圧的であるように見える。だからこそますます崇高と判断される。
 本来崇高は感性的形式に含まれるものではなく、理性理念に関するものである。およそ理念に完全に適合するような表現は不可能であるにせよ、しかし理念はまさにかかる不適合が感性的に表現せられ得ることによって喚起せられ、我々の心意識に現前するのである。我々は、自然における対象そのものを崇高と呼ぶことはできない。しかしこの自然の光景を見て、それ自身崇高であるような感情に相応しい心的状態をもつためには、我々の心意識をすでにさまざまな理念で充たしておかねばならない。即ちその場合に心意識は感性を捨てて、いっそう高い合目的性を含むような理念を事とするように鼓舞されるのである。
 自存的な自然美は、我々に自然の技巧を開き顕わす。この技巧は、自然を法則によって組立られた体系として提示するが、この法則の原理は、判断力を現象に適用するに必要な合目的性の原理に他ならない。そこで現象は、単なる無目的な機械的組織としての自然に属するばかりではなく、類比によって技術と見なされた自然にも属することになるのである。だから反省的判断力は、我々の理論的認識を拡張するものではないが、しかし単なる機械的組織としての自然の概念を拡張して、技術としての自然の概念に到らしめる。そしてこのことがまた我々を、この自然形式の可能に関する研究に誘うのである。
しかし自然における崇高なものは、法則に適合するような自然現象ではない。一般に崇高の概念は自然そのものにおける合目的なものを表示するのではなくて、我々の観照を自然における或る種の対象に適用し得るような場合に何らかの合目的性を表示するにすぎないにせよ、しかしまたこうして自然に全くかかわりのない合目的性が我々自身の内に存することを感知せしめる、ということである。自然の美の根拠は我々の外にあるが、崇高の根拠は我々の内に、即ち心意に求めねばならない。従って我々の心意が、自然の表象の中へ崇高性を持込むのである。
 美学的、反省的判断力による判断としては、崇高に関する適意は美に関する適意と全く同様に考えなばならない。だから崇高に関する適意は、量に関しては普遍妥当的であり、性質に関しては無関心であり、関係に関しては主観的合目的性を有し、また様相に関しては必然的である、ということになる。だからこの点について、方法は美の分析論と異なるところがないと言っていい。しかし前章では、美学的判断は対象の形式を旨としたので、性質の考察から始めたが、しかし本章では、崇高の無形式性に鑑み、量から始める。
 美に関する趣味は平静な観照の心意識を前提とする。しかし崇高の感情は心的動揺即ち感動を伴っているが、それでもこの感動は快なのであるから、主観的ー合目的なものと見なされねばならない。すると構想力はこの感動を認識能力に関係させるか、それとも欲求能力に関係させるか、いずれかである。しかしこの二通りの関係のいずれにおいても、与えられた表象の合目的性はこれらの能力に関してのみそれぞれ判定されることになる。前者の合目的性は、構想力の数学的調和として、また後者の合目的性は構想力の力学的調和としてそれぞれ対象に帰せられる。

A 数学的崇高について

 崇高とは、それと比較すれば他の一切のものは全て小であるようなものである。我々の構想力には無限に進展しようとする努力があり、また我々の理性には絶対的全体性を実在的理念と見なし、かかる全体性に達し得ようとする要求がある。だからこそ感覚界における事物を量的に判定する我々の能力は到底理念に適合し得るものではないということ自体が、超感性的能力に対する感情を我々の内に喚起するのである。そして判断力がかかる感情を目安にして対象に適用されると、このような適用こそ絶対的に大であり、これに比すれば他の一切の適用は全て小であるということになる。だから感官の対象そのものが、絶対に大なのではなく、反省的判断力による精神状態が崇高と呼ばれるのである。

 崇高の理念には自然における事物の量的判定が必要である。そこでかかる量的判定について

 代数学における数概念による量的判定は数学的判定であるが、目測による直観における量的判定は美学的判定である。量の数学的判定にとっては、数の威力は無限であるから最大量というものは存在しない。しかし数の美学的判定にとっては、心意識が量を直観において捕捉し得る限り、その量を絶対的に表示するから、最大量は存在する。この最大量が絶対的尺度として判定されれば、この最大量は崇高の理念を伴い、感動を産出する。
 およそ量の表象には総括作用を必要とする。感覚界における無限なものは、超感性的な心的能力とその理念であるところの可想的存在とによってのみ、量の純粋な知性的判定において一つの概念のもとに完全に総括される。実際かかる無限なものは、数概念による数学的判定においては、到底完全に考えられ得るものではない。ところで超感性的直観における無限なものを、その可想的基体において与えられたものとして考え得るような能力は、すでに感性の一切の尺度を越えている。そして数学的判定の能力との一切の比較を絶して大である。この能力は、理論的関係において認識能力に資するものではないが、実践的関係においては感性の制限を超出し得ることを自ら感知しているところの心意識を拡張するのである。
 だから崇高と言われる自然は、自然における現象の内でその直観が現象の無限性という理念を伴うような現象にのみ存する。しかしかかる理念には我々の構想力が最大の努力を払っても到達し得ない。ところで自然の基本的尺度は自然の絶対的全体性である。この絶対的全体性は、現象としての自然にあっては、総括された無限に他ならない。しかし無限に到る進行の絶対的全体性というものは不可能であるから、かかる意味での基本的尺度は、自己矛盾する概念である。だから自然的対象の量は、自然に関する我々の概念を伴って超感性的基体に到らざるを得ない。そしてこの超感性的基体は、感官の一切の尺度以上に大であり、従ってまた対象そのものでなく、その場合の我々の心的状態を崇高と判定せしめるのである。
 それだから美学的判断力は、美の判定においては、自由に遊ぶ構想力を悟性に関係させて悟性概念と調和するし、また或る物を崇高と判定する場合には、同じ構想力を理性に関係させて理性概念(それがどのようなものあるかは不定であるが)と主観的に合致させ、或る種の心的状態を産出するのである。かかる心的状態は、一定の実践的理念が感情に与えた影響によって生じたものであり、この心的状態が理念に適合し、理性と調和するのである。

 崇高なものの判定における適意の「性質」について

 崇高なものに対する感情は、美学的な量的判定における構想力が、理性による量的判定に適合し得ないゆえの不快の感情であるが、しかしまた、理性理念の実現に努力することが我々にとって法則である限り、最大の感性的能力さえこの理念に適合し得ないという判断が、却ってこの理念との一致を生ぜしめる結果になったことの快の感情でもある。感官の対象としての自然は、理性理念に比べれば全て小であると判定することが、我々の理性の法則であり、本分に属する事柄なのであり、この超感性的本分の感情を我々の内に喚起するところのものが、この理性的法則と一致するのである。だから超感性的なものの理性理念にとっては、超絶的なものは、むしろ合法則的であり、改めて構想力の努力を喚起するのである。そこで単なる感性に対しては反発的であったところの超絶的なものは、それと全く同じ程度に牽引的となるのである。しかしこの場合でも判断は、依然として美学的判断なのである。かかる判断は、対象の概念を根拠とするのではなくて、構想力と理性の主観的な遊びを、両者の対照によって却って調和的なものとして表示するにすぎないからである。崇高の判定においては構想力と理性とが、両者の相反によって、この両者の心的能力の主観的合目的性を産出する。換言すれば、我々は純粋な自発的理性を具有しているという感情、即ち量を判定する一種の能力を産出するのである。そしてこの能力の優れた特色は、感性的対象の量を表示する場合には無際限であるとさえ思われるような構想力ではもはや不十分であるということが明らかにされたときに、初めて直観的に顕示されるのである。
 或る空間の測定は、同時にその空間を描くことであり、従って構想力における客観的運動であって、前進を意味する。これに対し、多くのものを直観における単一なものに総括すること、従ってまた継続的に捕捉されたものを瞬間的に総括することは背進である。この背進は、構想力の前進における時間的条件を廃して同時的存在を直観的に表示することに他ならない。だからこの総括は、構想力の主観的運動であり、時間的継起は、内感および直観の条件であるから、構想力はこれによって内感に強制を加えることになる。そしてこの強制は、構想力が一つの直観の中へ総括するところの量が大であればあるほど、ますます顕著にならざるを得ない。このような場合に、量を判定するための尺度を捕捉するにはかなりの時間を要するから、この尺度を一個の直観の中へ取り入れようとする努力は、一種の表象の仕方になる。この表象の仕方は、主観的には目的に反するが、客観的には量の測定にとって必要であり、従ってまた合目的である。そこで構想力によって主観に加えられる強制そのものが、心意識の全体的規定にとっては合目的なものと判定されるわけである。

 B 自然における力学的崇高について

 力学的崇高とは、美学的判断においては威力と見なされながら、その威力が我々に対しては全く強制力をもたない場合の崇高である。美学的判断力にとって、自然は、恐怖の対象と考えられる限りにおいてのみ威力と見なされ、力学的崇高と見なされる。自然の威力の不可抗性は、自然的存在者としての我々人間には無力を思い知らせはするが、人間は自然のかかる強制力に屈服せざるを得ないにしても、しかし一個の人格としての我々の内にある人間性は、そのためにいささかも抑損されることがない。自然は、我々の内に恐怖の念を喚起するから美学的判断において崇高と判定されるのではなく、我々の生命財産等が屈従するところの自然の強大な威力すら、我々と我々の人格性とに対する強制力と見なさないような力を我々の内に喚起するからこそ崇高と判定されるのである。
 戦争ですら、秩序を保ちまた国民法の神聖を認め尊重し遂行されるなら、何かしら崇高なものを具えている。しかし長期の平和は、商人気質こそ旺盛にするが、それと共に卑しい利己心をはびこらせて、国民の心意を低劣にするのが一般である。

 自然における崇高なものに関する判断の「様相」について

 自然における崇高性について判断し得るためには、美的判断力だけでなく、その根底に存する構想力と理性という認識能力もまた美の場合よりも高度に開発されている必要がある。心意識が崇高の感情と調和するためには、その心意識は理念を感受し得るものでなければならない。自然が理念に適合し得ないというところにこそ、またかかる理念が前提され、更にまた自然を理念の図式として用いる構想力が緊張するところにのみ、感情に対して威嚇的なものが同時に我々の心を惹き付けるものになるという事情の真因が見出されるからである。この威嚇的なものは、理性が感性に加える強制力である。そして理性がこのことをなすのは、感性を拡張して自分の実践的領域に適合させ、また感性をして無限なものを望見させるために他ならない。
 ところで自然の崇高に関する判断は、その根底を人間の自然的本性の内にもっている。崇高に関する我々の判断に、他の人達の判断が同調する必然性の根拠はまさにここにある。我々は、崇高と判断するところのものに対して無感動な人を、あの人は感情をもたないと言うが、この場合、判断力は構想力を理念の能力としての理性に関係させるから、崇高の感情を、およそ人間には道徳的感情が具わっているという前提のもとにおいてのみ要求するのである。
 美的判断力のかかる「様相」、即ちこの判断が要求するところの「必然性」こそ、判断力批判にとって最も主要な判断形式である。必然性というこの「様相」こそ、美学的判断がア・プリオリな原理を具えていることを明らかにし、この判断を経験的心理学の域から脱せしめるものだからである。
 
 総注

 快の感情について言えば、対象は快適であるか、美であるか、崇高であるか、さもなければ絶対的善であるか、この四者の内のいずれかに属する。
 快適は、たとえそれが何に由来し、またその表象がいかに異なっていても、欲望の動機としては全て一様である。だから快適が我々の心意識に及ぼす影響を判定する場合、問題になるのは同時的或は継時的な感覚的刺戟の総量だけであり、従ってまた快適な感覚の全量に他ならない。だから快適は「量」によってしか説明できない。また快適は、心を開発するものではなく、単なる享楽に属する。これに対し美は、対象の或る種の「性質」を必要とする。 そしてこの「性質」もやはり説明せられ得るし、また概念に還元されもする(美そのものは美学的判断においては概念に還元されないにせよ)。また美は、我々の心を開発する。美は、同時に快の感情における合目的性に注意を払わねばならないことを我々に教えるからである。次に崇高にとって本質的なものは「関係」に他ならない。自然の表象における感性的なものが超感性的な可能的使用に堪えるということは、「関係」においてしか判定されないからである。最後に絶対的善は、それが我々の内に喚起するところの道徳的感情を目安として主観的に判定されるならば、絶対的に強制する法則の表象によって主観の心的諸力を規定し得るものとして、特にア・プリオリな概念に基く必然性という「様相」によって他の三者からも区別される。この必然性は、全ての人に対して同意を要求するばかりでなく、またこれを命令する。従ってそれ自体としては確かに純粋な知性的判断に属し、美学的判断に属するのではない。また単なる反省的判断においてではなく規定的判断において自由に帰せられるものであって、自然に帰せられるのではない。しかし主観がかかる絶対的善という理念によって規定され得るということ、しかもその主観が感性において障害を感じながらも、それと同時にこれらの障害を克服することによって感性に対する優越を彼の内的状態の変容として、換言すれば道徳的感情として感得し得るということは、次の点で美学的判断力とその形式的条件とに類似している。即ち、かかる道徳的感情は、義務に基く行為の合法則性を同時に美学的なものとして、換言すれば崇高なものとして、或は美しいものとしてすら表示するに役立ち、しかもその場合自分自身の純粋性を失うものではない、ということである。このようなことは、道徳的感情を快適なものの感情と単に自然的に結び付けようとしたところで、決して生じ得るものではない。
 

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