カント 『単なる理性の限界内における宗教』 要約 (1)
第一版 序文
道徳は、自由な人間の概念にその基礎をもつから、その義務の認識も人間を超えた存在者の理念を必要としないし、、義務の履行も理性による無条件的な道徳的法則以外の動機を必要としない。道徳的法則は、その法則に従う格律の普遍的合法則性という単なる形式によって道徳に義務付け、道徳はいかなる実質的規定根拠をも必要としない。一切の目的をも捨象できる道徳はそれゆえに、全く宗教を必要とせず、純粋な実践理性によって自分自身に充足している。
それでも道徳は、この格律の必然的結果としての目的に対して、ある必然的関係をもつ。即ち我々の行為から何が結果するのか、我々は何を目指して行動するのかという問題は理性にとって無関心ではあり得ないのである。と言うのも、その目的によってのみ、自由に基く合目的性と、自然の合目的性との結合に、客観的に実践的な実在性が与えられるからである。その目的は、それを目的たらしめることがすでに道徳的諸原則を前提するような目的である。それは、道徳から生じるものとして、我々が目的をいかにもつべきかという一切の目的の形式的条件(義務)と、この条件と一致する一切の条件づけられたもの(義務の履行に相応した幸福)との結合としての最高善の理念である。この理念の存在によってのみ、我々は全ての行動のために全体的な意味で理性によって是認され得る究極目的を得たいという人間固有の自然的要求を満たす。人間の能力ではこの世界での幸福を幸福であるに値することと一致させて実現するには不十分だからである。だから更にこの最高善が可能であるために、最高善の両要素を合一し得る全能な存在者を我々は想定せざるを得ないのである。
こうして道徳は宗教へと到り、それによって宗教は人間の外にある道徳的立法者の理念にまで拡張するが、この立法者の意志の内に世界創造の究極的目的は存するのであって、これは同時に人間の究極的目的であり得るし、またそうであるべきなのである。
だが最も神聖で崇高なものですらも、人間がそれの理念を自らの使用にあてると、卑小化されてしまう。それに対する尊敬が自由であるという点でのみ真に敬われ得るものが、強制的法則によって威信が与えられるにすぎないような形式に順応させられ、各人の公の批判に自ら進んで身をさらしているものが、権力をもつ批判に、つまり検閲に、屈服しなければならないのである。
学問の領野では、聖書神学に対し、哲学的神学が対立している。この哲学的神学は、それが単なる理性の限界内に留まっていさえすれば、そして聖書神学の公の教えを改変しようとするのでなければ、十分な自由をもつはずである。
第ニ版 序文
啓示は純粋な理性宗教を含めるが、後者は前者の歴史的なものを含めない。しかし歴史的体系としての啓示を道徳的概念に単に断片的に当て合ってみて、この体系が純粋な理性体系に還元され得ないかどうかを吟味することは意味がある。なぜなら道徳的ー実践的意図における理性体系との関係においてのみ生じる本来的宗教にとっては、それで十分ではないか、と思われるからである。これが当たっているならば、理性と聖書との間には単に協調性だけではなく、一致も見出され得るし、従って、道徳的概念の手引きによって一方に従う者は他方とも合致することになる。この合一の試みは、哲学的な宗教研究者に十分その権利が与えられた仕事である。
第一篇 善の原理と並んで悪の原理が内在することについて、もしくは人間本性の内にある根本悪について
世界が最初の善なる楽園から転落し悪い状態にあるというのは歴史とともに古く、むしろ歴史以前の神話の昔からの歎きであるが、逆に世界は悪しき状態からより善い状態へと進行はしている、少なくともそういう素質が人間本性にはあるというセネカからルソーに至る道徳学者の思いやりある仮説も存在する。
ところで或る人間が悪と呼ばれるのは、その人間が悪しき(法則に反した)行為をなすからではなくて、その行為がその人間の悪しき格律を推定させるような性質を具えているからである。さて、人は確かに法則に反した行為を経験的に認めることもできようが、だがその格律を他人はおろか自分にさえ観察できるとは限らない。従ってこの行為者が悪人だという判断を、確実に経験に基けることはできない。それゆえ、或る人間を悪と呼ぶには、ただ一つの意識的な悪しき行為から、その根底にある悪しき格律が、さらに主観の内に普遍的に存しているところの、それ自身また格律である個々の道徳的に悪しき格律の全てのものの根拠が、ア・プリオリに推論されなければならない。
ところで通常人間本性ということで理解されていることは、行為に先立つ人間の自由一般の使用の主観的根拠にすぎず、この根拠がどこに存していようとそれは問題ではない。この主観的根拠は、また自由の働きでなければならない。そうでなければ、道徳法則に関しての人間の選択意志の使用は人間の責任に帰せられなくなり、善悪は道徳的なものとは言えなくなるからである。従って、悪の根拠は、選択意志を傾向性によって規定する客体の内にではなく、つまり自然衝動の内にではなく、選択意志が自らの自由を使用するために自己自身に設ける規則の内にのみ、即ち格律の内にのみ、存するのである。そしてその格律の外には自由な選択根拠をも挙げるべきでなく、また挙げることはできないから、人は最初の格律の採用の主観的根拠を求めようとすれば、その系列を無限遡行させられるだけである。だからこの格律を採用する最初の根拠は、経験の内に与えられ得るような事実ではあり得ない。また人間の内の善悪が生得的(性格的)であるというのは、善悪が出生と同時に人間の内に存在すると表象されるという、単にそうした意味においてであって、出生がまさしく善悪の原因であるという意味においてではない。
注
人間は生来道徳的に善であるか悪であるか、というこの選言的対立がそもそも間違いなのではないかと問うことも人はでき得る。しかしそもそも道徳説において極めて重要な点は、道徳的中間物を、行為においても、人間の性格においても、できる限りこれを容認しない、ということにある。というのは、こうした曖昧性の下では、一切の格律がその決定性と堅固さを失う危険に晒されるからである。
善が在るとき、それの対立は非善である。この非善は、善の根拠の単なる欠如の結果か、或は善の反対の積極的根拠の結果(悪)かのいずれかである。だが我々の内には動機がある。従って選択意志と動機との一致の欠如は、ただ選択意志の実在的に対立した規定の、即ち選択意志の反抗の結果としてのみ、つまり悪しき選択意志によってのみ、可能である。行為の道徳性もそれに基いて判定されねばならないところの悪しき心術と善き心術(格律の内的原理)との間には、それゆえ、いかなる中間も存在しない。道徳的に無関心な行為とは、単に自然法則から結果する行為であろうが、こうした行為は何ら事実といえるものではなく、この行為に関しては、命令も、禁止も、許可(法的権限)も生ぜず、それらが必要ともならないから、こうした行為は自由の法則としての道徳法則とは全く何の関係もない。しかし、もし法則が或る人の選択意志をその法則に関係する行為に関して規定していないときは、この法則に対立した或る動機がその人の選択意志に影響を及ぼしていなければならない。そしてこのことは、人間がこの動機を自らの格律の内に採用することによってのみ生じるのであるから、彼の心術は道徳的法則に決して無関心ではないのである。即ち善でも悪でもないということは決してないのである。
ところでまた、人間は、或る部分では道徳的に善であり、他の部分では同時に悪である、ということもあり得ない。道徳的法則は義務一般の尊守にとって唯一の法則であり、普遍的なのであるから、この場合に、関係付けられた格律は普遍的であって、しかも同時に特殊な一格律であるにすぎなくなるが、これは矛盾だからである。
人間本性の内にある善への根源的素質について
人間の内にある動物性の素質は、自然的であって理性を必要としない自愛である。これには、自己保存、種族維持、共同生活を求める衝動の三様の素質がある。これらの素質には外から自然の粗野としての悪徳が混入することがある。
また動物であると同時に理性的存在者としての人間性の素質は、自然的であるが、他人との比較においてのみ自分を幸福であるか否かを判断する自愛である。しかも根本的には単に平等という価値を与える傾向性が生じるが、これには人との優劣の不断の懸念が結びついていて、自己の安全のための予防手段として、ここから次第に、他人を超えた優越性を獲得しようという不当な欲望(対抗心、競争心)が発生し、更に他人への敵意という最大の悪徳が混入することがある。自然はもともとこういう競争(これ自体としては相互愛を斥けるものではない)を、単に文化へ向かわせる動機として使用するつもりであったであろうから、この悪徳は、文化の悪徳とも呼ばれるが、この悪徳が最大の度をもって、嫉妬、忘恩、他人の不幸を喜ぶ気持ち等々の、人間性を超えたときは、悪魔的悪徳と名付けられよう。
最後に、理性的であると同時に引責能力のある存在者としての人間の人格性の素質は、それだけで選択的意志の十分な動機であるところの道徳的法則に対する尊敬の感受性である。道徳的法則に対する単なる尊敬の感情はそれだけではなお自然的素質の目的とはならず、それが選択的意志の動機である限りにおいてのみ、そうした目的を形成する。このことは自由な選択意志がこの感情を格律に採用することによってのみ可能となるのであるから、この意志の性質は善き性格である。この可能はいかなる悪も混入しない素質が我々の本性に存しなければならないが、道徳的法則の理念だけは、人格性の素質と呼ばれるには相応しくない。この理念は全く知性的に見られた人間性の理念として人格性そのものなのである。だが我々がこの尊敬を動機として格律に採用することと、この採用の主観的根拠とは、人格性への付加であり、人格性のための素質という名に値するように思われる。
人間本性の内にある悪への性癖について
性癖とはただ或る享楽へ向かわせる素因であり、主体が或る享楽を経験した場合に、その享楽への傾向性を生み出すのが性癖である。性癖と、欲求対象の熟知を前提にする傾向性との間には、本能があるが、これはまだ人がその概念をもっていない何かを為したり享受したりするところの感覚的欲求である。
悪の性癖には、格律尊守に際しての心情の弱さ、人間本性の脆さの段階があり、次に道徳的動機と非道徳的動機とを混合する性癖である不純(不正直)の段階があり、最後に悪しき格律を採用する性癖、即ち人間本性もしくは人間の心情の悪性(歪み、腐敗)の段階がある。悪性は心情の倒錯と呼ぶこともできる。これは自由な選択意志の動機に関してその道徳的秩序を転倒するからである。もっともそれでも適法な行為は成立し得るが、転倒によって思考法はその道徳的心術に関わる根を腐らせ、ゆえにその人間は悪とされるのである。
ところで行儀のよい人間と道徳的に善い人間の間の、行為と法則との一致に関して差異はないと見なしてかまわないが、法則を精神に従って尊奉していない前者のこの一致は単に偶然にすぎず、ゆえにその善悪によって人格の全道徳的価値が評価さるべき格律が所詮反法則的であり、従って人間はその行為が純粋に善である場合にもなお悪であり得るのである。
全て性癖は、自然的存在者としての、或は道徳的存在者としての人間の選択的意志に属するが、悪への性癖は、選択意志の道徳的能力にのみ付着し得るから、前者はおよそ道徳的悪への性癖など存在しない。本源的悪とは、最高の格律が選択意志の内に採用される際のその自由の使用に適用されるものであり、悪徳は、行為そのものがその格律に適ってなされる際の自由の使用である。本源的悪は悪徳の形式的根拠でもあり、悪徳が可感的であり経験的であって、時間の内に与えられ、しばしば回避され得るにしても、本源的悪は英知的所行であり、一切の時間的制約を受けず単に理性によって認識されるが、罪責はどこまでも残り、その性癖は根絶されない。根絶されるには最高の格律が善の格律でなければならないが、この最高の格律はその性癖そのものにあっては悪と想定されるからである。悪が我々自身の所行にも拘らず、なぜ我々の内においてそれが最高の確立を腐敗させたかについて、我々はそれ以上その原因を示すことができないからである。
人間は生来悪である
人間が悪であるとは、道徳的法則を意識しながらもその時々の違反を自らの格律に採用しているということであって、人間が生来悪であるとは、このことが類としての人間に経験的に見られるというほどの意味である。それには我々の国際状態を観察すればよいのであって、そこでは文明化された諸国民が互いに粗野な自然状態の関係にあり、国際同盟に基礎をおく永遠平和を希求することが、単なる夢物語として一般に嘲笑されることを知るだけでよい。
ところで悪の根拠は、人間の感性とこの感性から発現する自然的傾向性の内におかれることはできない。これらの傾向性は悪とは無関係である。また理性が道徳的法則から生じる拘束性から自由であるかのように、理性の腐敗の内におかれることもできない。それは自己矛盾であり、不可能なことだからである。悪の根拠は、自由な経験的ではない選択意志と、動機としての道徳的法則との関係にかかわるのであるから、悪が自由の(責務と引責能力との)法則に従って可能である限りにおいて、この悪の概念からア・プリオリに認識されるのではなければならない。
人間が悪であるのは、ただ彼が動機を格律として採用する際に、その動機の道徳的秩序を転倒することにのみよるのである。人間は道徳的法則を自愛の法則と共に格律の内に採用するが、それらが並存することは自己矛盾を来し不可能であるから、一方が他方と従属関係になければならないと認めて、そこで彼は、自愛の動機とその傾向性を最高の条件として、選択意志の普遍的格律であるべき道徳的法則の尊守の条件とするのである。
もし理性が、幸福という名のもとで、この転倒がなされた場合には経験的性格は善であっても、英知的性格はやはり悪なのである。だがそれにしても、この性癖は自由に行為する存在者としての人間の内に見出されるのであるから、これに打ち克つことが可能でなければならない。それゆえ人間の本性の悪性は、悪を悪として自らの格律の内に動機として採用する悪魔的心術というより、心情の倒錯、即ち悪しき心情というべきである。
故意の罪責(欺瞞)は、自分自身の心術そのものに関して自らを欺き、悪しき結果が生じさえしなければ自らの心術に関して不安を懐かず、むしろ法則の前で自らが正しいと居直るような、人間の心情の一種の奸悪をその性格として所有する。この自分自身を煙に巻く不誠実は、我々の内に真正の道徳的心情の基礎を据えることを妨げるものであって、それは更に外部にも拡げられ、他人に対する虚偽や欺瞞ともなる。これは悪意と呼ばれるべきでないにしても、少なくとも卑劣と呼ばれるに値し、人間本性の根本悪の内に存する。
人間本性の内にある悪の根源について
根源とは、或る結果がその最初の原因から、即ちそれがまた同種の或る他の原因の結果でないところの原因から、源を発することである。根源は、単に結果の現存在が注目されるだけの理性的根源か、或は結果の生起が注目され、従って結果は出来事としてその時間内における原因に関係付けられるところの時間的根源とが考えられる。結果が、自由の法則に従ってその原因に関係付けられる際には、結果を生ぜしめる選択意志の規定は、時間内におけるその規定根拠とではなく、単に理性的表象内におけるその規定根拠と結びついたものとして考えられ、何か或る先行状態から導出されることはできない。それゆえ、自由な行為そのものについてその時間的根源を求めるのは矛盾したことである。
それぞれの悪しき行為は、それの理性的根源が求められる場合、あたかも人間が無責の状態から直接その行為に陥ったかのように見られねばならない。なぜなら、彼の以前の態度がどのようであったにせよ、また彼に影響を及ぼす自然的原因がどのようなものであるにせよ、つまりそれらの原因が彼の内に見出されるか外に見出されるかに関係なく、彼の行為はなおやはり自由であって、なんらこれらの原因によって規定されず、従ってその行為は常に彼の選択意志の根源的使用として判定され得るし、また判定されねばならないからである。
ところで聖書は、悪の根源を一つの歴史物語の内に明示するが、そこでは事柄の本性に関して(時間的条件を顧慮しないで)最初のものと考えられねばならないものが、時間に関して最初のものとして現れるのである。この物語によれば、悪は根底にある悪への性癖からはじまるのではない。と言うのは、もしそうした性癖からはじまるとしたら、悪のはじまりは自由から発現するのではないことになるからである。そうではなくて、悪は神的命令としての道徳的法則への違反としての罪からはじまる。だが悪への全ての性癖に先立つ人間の状態は、無責と呼ばれる。道徳的法則は、まず禁止として登場した。そして人間は、この法則を、これのみが無条件に善であり、またこれに従うのにいかなる懸念も生じないような十分な動機として素直にこれに従う代りに、単に条件付きで、即ち法則がそれによって侵害されない限り善でありうるような他の動機をも探し廻り、行為が意識的に自由から発現すると考えられる場合に、義務からではなくて、せいぜい他の様々な意図に対する顧慮からして、義務の法則に従うことをその格律としたのである。人間はこれと共に、他のいかなる動機の影響をも拒斥するところの命令の峻厳さを疑い始め、次いで命令に対する服従に理屈をつけて、それを単に自愛の原理の下に、手段として条件づけられた服従に引き下げ始めたのであって、ここからしてついには法則からの動機を凌ぐ感性的衝動の優越が行為の格律の内に採用され、かくして罪が犯されたのである。
しかし悪はただ道徳的悪からのみ発現し得たのであるが、しかも根源的素質は善への素質であり、それゆえ我々にとっては、道徳的悪がそこから我々の内に初めて入ってきたと理解され得るような根拠は全く存しないのである。この悪の初めの不可解性を聖書は人間の内にではなく霊の内におき、人間は単に誘惑によって悪に堕ちたとされ、従って根底から腐敗しているのではなく、誘惑する霊とは違って、即ち肉の誘惑がそのものの罪責を緩和するのに酌量されることのできない存在者とは違って、なお改善の能力があるものとされる。
総注 善への根源的素質がその力を回復することについて
我々の内にある善への根源的素質を回復することは、善への失われた動機を獲得することではない。なぜならこの動機は決して失われることはないからである。ゆえにこの回復は、道徳的法則の純粋性の回復に他ならない。だから根源的な善は、自らの義務を尊守することにおける格律の神聖性である。自らの義務の尊守において熟練の域に達した堅固な志操は、徳とも呼ばれるが、しかし或る人が道徳的に何かを義務として認めるときはこの義務そのものの表象以外にはいかなる他の動機をももはや必要としなくなるという事態は、格律の基礎が不純である限りは漸次的な改革によっては実現され得ないのであって、それは人間における心術の革命(心術の神聖性という格律への移行)によって実現されねばならない。そして自らの選択意志の最高の格律として採用した原理がかかる純粋性とその堅固さとをもつ場合、自らが悪い者から善い者への堪えざる前進の善い途上にある、と期待することができる。このことは心情の英知的根拠を見通す者、それゆえ、この前進の無限性がそれにとっては単一性であるところの者、即ち神、にとっては、現実に善い(神に適った)人間であるということに他ならない。上述のことから、人間の道徳的陶冶は、道徳的慣行の改善からではなく、思考法の変革と性格の確立から始めなければならない、ということが帰結する。そして道徳的法則が、我々が今まさにより善き人間であるべきであると命じるならば、そこから不可避的に、我々はそうであることができるものでもなければならない、ということが帰結する。
さて、自己改善のこの要求に対して、生来道徳を論ずるのに怠惰な理性が、自然的無能力を口実として、あらゆる種類の不純な宗教理念を提供する。しかし人は、全ての宗教を、恩恵を求める宗教と、道徳的宗教に分けることができる。前者に関しては、人間は、より善い人間になることを特に必要としなくても、神がきっと彼を永遠に幸福にしてくれるであろうと好い気になっているか、またそうしたことがあり得ないと思われる場合は、神はきっと彼をより善い人間になすことができ、その際彼は自分ではそれを乞うこと以上に何もする必要はない、と好い気になっているか、そのいずれかである。乞うということは、一切を照覧する者に向かって願うということに他ならないから、本来は何事もなされなかったことになろう。それが単なる願望で達成されるならば、人間は誰でも善であることになるであろうから。だから道徳的宗教(キリスト教)に関しては、人間は誰でもより善き人間になるために自らの力の限りを尽くさねばならず、そして自らの生徳的な才能を埋もらせなかった場合にのみ(ルカ伝19-12)、つまり善への根源的素質をより善い人間になるために利用した場合にのみ、自らの能力の内にないものが一層高次の協力によって補足されるであろうと望むことができる、というのがその原則である。しかもその協力がどこに存するかを人間が知ることは、必ずしも絶対に必要ではない。
第二篇 人間の支配をめぐる善の原理と悪の原理の戦いについて
人間がなしうる最初の真の善は、傾向性の内にではなくて転倒された格律の内に、従って自由そのものの内に求められるべき悪から離脱することである。傾向性は、それに対立する善き格律の遂行を妨げるだけであるが、本来の悪は、傾向性が法則違反へと誘うとき、これに対して人が抵抗を意欲しないということに存するのであって、この心術が本来は真の敵なのである。傾向性は原則一般の敵対者にすぎず、その限りでは道徳性のかの高尚な原理は、諸原則によって主体を制御するための訓練として有益である。
自然的傾向性は、それ自体として見られれば、善であり、拒斥され得ないものである。それを根絶しようと欲することは無益であるばかりか、有害であるといえよう。人がなさねばならないのは、傾向性の馴養だけであって、このことによって傾向性は互いに他を傷つけ合うことはなく、幸福と名付けられる全体の内で調和にもたらされ得ることができる。だがこれを遂行する理性は、怜悧と呼ばれる。道徳的に反法則的なものだけがそれ自身として悪であり、絶対に拒斥されるべきものであり、根絶されなければならない。ところでこれを教える理性のみが、ひとり知恵の名に値する。この知恵と比較すれば、悪徳は愚かさとも名付けられることができるが、しかしそれは理性が悪徳を軽蔑し、それを単に憎むだけでなく、それに対抗する十分な力強さを自分の内に感じる場合に限られるのである。
第一章 人間支配への善の原理の権利主張について
善の原理の人格化された理念
世界を神意の対象となし創造の目的となすことができる唯一のものは、全き道徳的完全性を具えた人間性(理性的世界存在者一般)であって、幸福はこの完全性を最高の条件とし、そこから最高存在者の意志のままに直接結果する。このひとり神の意に適う人間は「永遠の昔から神の内にある」。この人間の理念は神の本質から発し、その限りでこのものはなんら被造物ではなく、神のひとり子である。
ところで、道徳的完全性のこの理想にまで我々を高めるというのは、人間の普遍的義務であって、その理念そのものがまた、我々に義務へ向かう力を与えるのであるが、この理念の創始者は我々ではなく、理念の方が人間の内に座を占めたのである。すなわち、かの原型は天から我々のもとへ降り来ったのであり、それが人間性を採用したのである。そして世界の最善を促進するためにこの者が最大の苦悩を引き受け、神の子が自らを低下させたのである。そしてこの神の子に対する実践的信仰において、人間は神意に適うようになると希望することができる。
この理念の客観的実在性
我々はこの理念に適うべきであり、適い得るのでなければならない。だがそもそも合法則性という単なる理念が、選択意志にとって利益から取り出されるあらゆる動機より強力な動機であるということがいかにして可能かは、理性によって洞察されることも、経験の実例によって証明されることもできない。それと言うのも、前者に関しては、法則は無条件的に命じ、後者に関しては、たとえこの法則に無条件に服従した人間がこれまで決して存在しなかったにしても、このような人間が存在する客観的必然性はいささかも減少せず、自明のことだからである。それゆえ、道徳的に神意に適った人間の理念を我々の模範とするには、なんら経験の実例を必要としない。この理念は、そうした模範としてすでに我々の理性の内に存するのである。
しかし、人が外的経験から一般に内的な道徳的心術の証拠を期待できまた要求できる限りにおいて、理念に一致する人間の実例を与えることもまた可能でなければならない。
さて、真に神的な心術をもつこのような人間が、或る時にいわば天から地上に降り来たり、教えと行状と苦悩とを通じて神意に適った人間の実例を、外的経験から人が望み得る限りにおいてその身に即して与えたとしても、我々はやはり彼が自然的に生み出された人間以外の者であると想定する原因をもたないであろう。なぜなら、自然的に生み出された人間も、やはり自らこうした実例を我が身に即して与えなければならないと感ずるからであり、また実践的意図においては、超自然的に生み出された人間という前提は、我々には何ら利益をもたらさないからである。むしろこのような神聖なる者を人間本性のあらゆる脆さを超えて高めることは、この者の理念を我々に実践的に適用させるには却って妨げになろう。なぜなら、神の子が人間と同様の自然的傾向性をもつ限りでは、人間的であると考えられるが、それにしても後で獲得されたのではなく生得的な意志の純粋性が彼にいかなる法則違反を示さない限りでは、超人間的と考えられるから、この者と他の人間とでは無限に距離が大きくなり、もはや自然的人間に対して実例として相応しくないことになるからである。
我々は、感性的なものから超感性的なものへの上昇については、図式化する(或る概念を何か感性的なものとの類比で理解する)ことはできるが、前者に属するものからの類比によってそのものが後者にも属さねばならないと推理する(こうしてその概念を拡張する)ことは全くできない。このような推理は、我々が或る概念を理解するためにはその概念に或る図式を適用することが必要であるということから、その図式がまた必然的に対象そのものに述語として属さねばならないという結論を引き出そうとするものであるが、こうした推理は一切の類比に反して為されることになるからである。
この理念の実在性に対する種々の困難とその解決
第一の困難は、欠陥のある善から一層善い善へと無限に進む所行は、因果関係の概念において不可避的に時間的に制限され、常に神聖な法則にとっては不十分なものと見なさざるを得ないという点にあるが、善への無限の努力は、それが起因する超感性的な心術のゆえに、人心を察知する者の純粋な知性的直観においては、所行に関しても完結した全体と判定されるものと考えることができる。そしてそうすれば人間は、常に欠陥があるにも拘らず、一般に神意に適うことを期待できる。
第二の困難は、善においてたえず前進する心術の現実性と持続性との保証、すなわち道徳的幸福の問題である。この保証は、神的な慈悲と関連する。かかる心術の不変性がしっかり保証されていさえすれば、たえざる「神の国への努力」は、自分がこの国をすでに所有しているのを知っているのも同然であろう。こうした願望に対する不安は、「恐れおののきながら自らの至福を得る」とするのが効果的である。我々は測り知れないが望ましい幸福な未来への見通しか、或は測り知れない悲惨への見通しをもつ。つまり両者は人間にとって、人間が判断し得るところに従っての、至福な、或は至福ならざる永遠性への見通しである。これらの表象は、一方においては善を安定させ堅固にするのに、他方においては悪を妨げるための良心を覚醒させるために、従って動機として役立つに十分な力をもっている。それゆえ人が意識している善き純粋な心情、即ち我々を支配する善き霊は、たとえ間接的でしかないとしても、自らの持続性と堅固さとに対する信頼を伴っており、我々の過失がその持続性について我々に不安を懐かせる差異は、それは慰藉者なのである。この持続性に関しての確信は、人間にあっては可能でもなければ、我々の洞察する限りでは、道徳的に有効でもない。なぜなら我々はこの信頼を、我々の心術が不変であるとの直接的意識に基付けることができないからで、それは我々はこの不変性を見抜くことができず、結局はただ行状に示された心術の結果からこの不変性を推論せざるを得ないからであるが、ところでこの推論は、善いもしくは悪い心術の現象としての知覚からのみ引き出されたのであるから、とくにそのものの強さを確実に認識させることは決してなく、このことは生の真近な終わりが予見されるにあたって人が自らの心術を改善したと思う場合などはとくにそうである。そのときには、もはやいかなる行状も我々の道徳的価値の判決を基礎付けるために与えられていないから、その心術の真正さについてのかの経験的証明は全く欠けており、そして慰藉のないことが彼の道徳的状態に下される理性的判定の不可避の結果なのである。だが人間の本性は、この生の限界を超えた一切の眺望が暗黒であるところで、それが凶暴な絶望にならないように、自ずからにして配慮しているのである。
第三の困難は、人間は所詮悪から始まったのであって、心情の変革の後でも、それ以前の罪責を消し去ることは不可能であろうという困難である。人は今後善い行状を続けることで以前の罪を帳消しにすることもできない。なぜなら、いかなる時でも、能力の内にある全ての善をなすことが人の義務だからである。この罪は、普遍的心術を考察することのない人間の法廷と違い、心術と格律一般とにおける悪として、法則毀損の、従って罪責の無限性を伴うから、人は誰でも無限の罰と神の国からの追放とを覚悟しなければならないことになろう。
問題は、罰が回心後の改善された人の心術にまで及び得るのかということである。しかし最高の義は満たされねばならず、この義の前では、罰せられる者は決して罰を逃れることはできないから、回心の前にあっても後にあっても、罰は必然的なのであり、罰は回心の状態そのものにおいて神の知恵に適って執行されるものと考えられねばならないであろう。それゆえ、我々が知らねばならないのは、回心後にその責任があるものと見なし、その罰がこの回心の状態の内にすでに道徳的回心の概念を通じて含まれていると考えることができるかどうか、ということである。回心とは悪を出て善に入ることであり、罪の(従ってまた罪へと誘う限りでの一切の傾向性の)主体が義のために生きるために死滅するのである。しかも知性的規定としての回心の内には、中間時によって分けられる二つの道徳的作用が含まれているのではなく、回心はただ一つの作用であって、悪の廃棄は善への進入を生じさせる善い心術によってのみ可能であり、またその逆でもあるからである。それゆえ、善の原理は、よい心術の採用の内にも悪い心術の廃棄にの内にも同じように含まれており、後者に正当に伴う苦痛は全く前者から発現する。腐敗した心術を脱して善い心術に入ることは、古い人間の死滅、肉の磔刑として、それ自身すでに犠牲であり、生の禍いの長い系列に踏む込むことであり、新しい人間はこれを神の子の心術において、即ち単に善のためにのみ引き受けるのであるが、しかもこれはもともと他の人間には、即ち古い人間には罰として帰属したものなのである。それゆえ、新しい人間は自然的にはまさに同一の罰せられるべき人間であり、かかる人間として道徳的法廷の前で、従ってまた彼自身の前で裁かれねばならない。それにしても彼は、その新しい心術においては道徳的に別人であり、この審判者の前でその新しい心術が所行を弁護するのであって、彼が自らの内に採用した神の子のように純粋な子の心術が、或は、我々が子の理念を人格化すれば、この神の子自身が、信ずる全ての人間の代わりに罪責を担い、救済者としては苦悩と死とによって最高の義を充足させ、弁護者としては彼らが義とされて審判者の前に立つのを期待できるようにさせるのである。違うところと言えば、新しい人間が古い人間を死ぬことでたえず生に引き受けねばならないのかの苦悩が、人類のこの代表者においてはただ一回限りの死として表わされるという点だけである。
ここには回心以前の罪を帳消しにする以上の恩恵がある。それはただ恩寵に基く判決であって、これは我々にとってはただ改善された心術の理念の内にのみ存するが、しかしひとり神のみが知るところの贖罪に基くものである。
第二章 人間支配への悪の原理の権利主張と、両原理の間の戦いについて
新約聖書はこの英知的な道徳的関係を物語の形式で述べているのであって、そこでは天国と地獄などの人間内の原理が、人間外にある人格として表象されていて、互にその力を人間の告発者として、或は弁護者として、それぞれの要求をいわば最高の審判者の前で法的権利によって承認させようとしているのである。
創世記における悪しき存在者に対しなぜ神はこの反逆者に抗して力を行使しなかったのか、そしてその意図を発端において亡ぼさなかったのか、という疑問が生じるかもしれない。しかし理性的存在者に対する最高の知恵の支配と統治は、理性的存在者の自由の原理に従ってなされるのであって、彼らに及ぶべき善悪は、これを彼ら自身の責任に帰すべきなのである。こうしてここに善の国に反抗して悪の国が建てられ、アダムから自然に系統をひく全人類はこの国に帰服したが、それは彼ら自身の同意によるのであって、この世の財に眩惑されたからである。しかし奴隷根性を揺り動かす道徳的自由論によって自覚された革命の機が熟した時代に、突如として一個の人格が現れたのであって、そしてこの人格は、その教えと実例に関して、自らを真の人間ではあるが、その根源的無責性のゆえに他の人類の最初の祖先を通じての悪の原理と結んだ約束に捉われなかった。このことによって、現世の統治者は脅威に感じ、彼を迫害しあげくの果てに最も恥ずべき死にまで至らしめたが、諸々の原理が力を有する国は、自然の国ではなく自由の国であるから、この死は善の原理の示現であった。なぜならこの死が天の子の自由と地の子の隷属とを最も鮮明に対照して見せるからである。善の原理は、ところで、単に或る特定の時にだけでなく、人類の原初から目には見えない仕方で天から人間性の内へと降り来ったのであって、それはれっきとして人間性の内にその最初の住居をもっている。こうして善の原理は、或る現実的な人間の内にその他全ての実例として現れたのであるから、「こうして彼は自分の国に来たが、彼の民は彼を受け入れなかった。しかし彼を受け入れた者、すなわち彼の名を信ずる者には、神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ伝1-11)
もし人がこの表象方式から、その神秘的な覆いを剥ぐならば、この表象方式(その精神及び理性的意味)があらゆる世界とあらゆる時代に実践的に妥当し拘束力をもったものであることは、容易に認められるのである。
だから理性の教える最も神聖なものと調和する意味を聖書の内に求める努力は、単に許されているとされるだけでなく、むしろ義務であるとされねばならないのである。
総注
教義や典礼にではなく、一切の義務を神的命令として尊守しようとする内なる心術に置かれる道徳的宗教が樹立されるべきならば、歴史がその宗教の創始に結びつける一切の奇蹟は、奇蹟信仰一般を結局は自らに無用なものとしなければならない。人が「徴と奇蹟とを見なければ信じない」ならば、これは道徳的不信仰の極みを示すものだからである。しかしそれらについての知識や信仰や告白がそれだけで神意を適わしめることができるということを、宗教的信条をするのでさえなければ、我々はそれらの奇蹟を価値あらしめることができるし、それどころかまた、その外皮をも、つまりおのおのの魂に消し難く保存されていて何らの奇蹟をも必要としないところのものにその信仰の基礎がある教えを、公に行わせるのに役立った外皮をも、やはり尊崇することができるのである。
しかし、奇蹟一般に関して言うと、理性的人間は奇蹟の信仰を捨てようと思っているわけではないにしても、これに実践的な力を得させようとは思わない。理論の上では信じはするが、実生活の事柄にあってはこれを認めない。賢明な政府は、昔は奇蹟が生じたであろうという考えをいつも認めたばかりか、公の教義学の内で合法として採用しさえしたが、しかし新しい奇蹟を許すことはなかった。もし奇蹟とは何かと問われるならば、奇蹟とは世界の内の出来事であって、その原因の作用法則が我々に全く知られていないし、知られないままに留まらざるを得ないものである、というふうに説明しておけばよい。
第三篇 悪の原理に対する善の原理の勝利と地上における神の国の建設
人間の自然のままの本性は自足的で穏やかであるが、一たび人間関係の中に置かれると、敵意ある諸傾向が彼の中に生じ、彼の根源的には善である素質を荒廃させる危険が生まれる。そこでもし、悪の防止と善の促進を目的とする社会の建設に何の手段も見いだせないなら、個人が悪の支配からの脱出にいくら努力しても悪には勝てない。だからこそ個人に指令する道徳的法則の他に、この理念の指令に従う人間の結合である、倫理的社会の建設が成就されるべきである。そしてこれらの法則が公である場合は、倫理的=公民的(法的=公民的に対して)社会、或は倫理的公共体と言われる。
第一部 地上における神の国の建設による善の原理の勝利という哲学的表象
倫理的自然状態について
既存の法的=公民的社会、即ち政治的公共体においては、全ての政治的公民はそのままで、各人が自分自身に法則を与える、自由を本質とする倫理的自然状態の内にある。 従って倫理的目的に向かう体制を強制によって実現しようとすることは、倫理的体制とは正反対なものを生じさせるし、自らの政治的体制をも不安定にしてしまうだろう。それゆえ、他の公民との更に高い倫理的合一に至ろうと欲するか、倫理的自然状態のままでよいとするかは各人の自由である。ただし倫理的公共体がなお公の法則に基づいて体制を組む限りにおける制限は、国民として引き受けねばならない。しかし徳の義務は全人類に関わるゆえに、理想的な全ての人間によるところの倫理的公共体そのものから見ると、この倫理的公共体は一特殊社会と呼ばれ得るものであって、他の特殊社会との関係では倫理的自然状態の内にある。
人間は倫理的公共体の成員となるために倫理的自然状態から脱却すべきである
法的自然状態が各人の戦いの状態であるように、倫理的自然状態も各自の悪による不断の交戦状態であって、その道徳的素質を腐敗させる。そして各人が善き意志をもつ場合ですらも、彼らを合一する原理が欠けているので、あたかも彼らは悪の道具であるかのように、彼らの不一致によって善という共同体的目的から遠ざかり、互に他を再び悪に委ねる危険に陥れる。ところで更に、外的にして公な法則の下にない社会では、各人の権利について自らが審判者であろうとするが、このため各人は権力を振るうだけで、安全の保障は誰も人から受けず誰にも与えず、つまり各人は互いに武装してなければならない戦争状態にあるから、人は政治的=公民的状態に入るためにはこの状態を早く脱すべきである。
さて、人類は客観的に理性の理念において、共同体的善としての最高善を促進する義務があるが、これは個人の努力だけでは実現されず、各人が同一の目的を、つまり善い心術をもつ人間の体系を目指す一全体に合一されることを要求するのであって、最高の人倫的善はこの体系においてのみ成り立つ。だが徳の法則に従う普遍的共和国としてのこの全体に理念は、一切の道徳的法則とは全く異なった理念であり、それを我々はどういうものか知ることはできない。ここで人は、この義務が更に高い道徳的存在者の力によってその成就が可能である、ということを予測するであろう。
倫理的公共体の概念は倫理的法則の下にある神の民という概念である
一切の法の原理は、各人の自由をそれが或る普遍的法則に従って他の各人の自由と両立し得るという条件の下に制約するところにあるから、政治的公共体においての立法はその全成員が立法者でなければならないが、内的な道徳性を目標にする倫理的公共体は、その倫理的法則の、法則に合った義務は自由な徳でなくてはならないから、人間の手になる公の法則の下に立つことはできない。従って倫理的公共体の立法者は、各人の心術の奥底を見抜き、人心を察知する者でなければならず、それは道徳的な世界支配者としての神の概念である。それゆえ、倫理的公共体は神的命令の下にあって徳の法則に従う民としてのみ、考えることができるのである。
神の民という理念は(人間が設備するものとしては)教会という形式の内でしか実現され得ない
道徳的な神の民の建設は、それゆえ神にのみ期待され得る業であるが、だからと言って人間は摂理に任せきりでよいともされない。人間はむしろ一切が自分達にかかっているかのように振るわなければならない。その条件の下でのみ、神の知恵が彼の善意の努力を完成してくれると希望してよいのである。善い心術をもつ全ての人の望みは、それゆえ、「神の国の来らんことを、神の意志が地上で行われんことを」である。だがこのことが生じるためには、彼らは何を設備すべきであろうか。
神的にして道徳的な立法の下にある倫理的公共体は教会であるが、それが可能な経験の対象でない限り、見えざる教会と呼ばれる。これは神による直接的な道徳的な世界統治の下における全ての公正な人間の合一という理念であって、人間によって建設さるべき一切の教会の原型として役立つ理念である。見える教会は、人間がこの理念と一致する全体を目指してつくる現実の合一である。
ところで人間がなしあたう限りの神の国を地上に表わすところの真の見える教会の資格は次の通りである。
教会の普遍性、単一性。いかなる分派分裂もない原則の上に築かれること。教会の純粋性。道徳的動機より以外のいかなる動機にもよらない合一。迷信や狂信の妄想から純化していること。自由の原理の下での関係。教会員相互の内的関係も、教会と政治的権力との外的関係も、共に自由国家の内にある。つまり教権制度でもなければ、各人の頭次第で他人のそれとは相違し得る特殊な霊感によるところの一種の民主政治としての照明結社でもない。教会の様相。その構成法に関しての不変性。そのためには確固とした諸原則を教会の目的の理念の内にア・プリオリに含んでいなければならない。
道徳は、自由な人間の概念にその基礎をもつから、その義務の認識も人間を超えた存在者の理念を必要としないし、、義務の履行も理性による無条件的な道徳的法則以外の動機を必要としない。道徳的法則は、その法則に従う格律の普遍的合法則性という単なる形式によって道徳に義務付け、道徳はいかなる実質的規定根拠をも必要としない。一切の目的をも捨象できる道徳はそれゆえに、全く宗教を必要とせず、純粋な実践理性によって自分自身に充足している。
それでも道徳は、この格律の必然的結果としての目的に対して、ある必然的関係をもつ。即ち我々の行為から何が結果するのか、我々は何を目指して行動するのかという問題は理性にとって無関心ではあり得ないのである。と言うのも、その目的によってのみ、自由に基く合目的性と、自然の合目的性との結合に、客観的に実践的な実在性が与えられるからである。その目的は、それを目的たらしめることがすでに道徳的諸原則を前提するような目的である。それは、道徳から生じるものとして、我々が目的をいかにもつべきかという一切の目的の形式的条件(義務)と、この条件と一致する一切の条件づけられたもの(義務の履行に相応した幸福)との結合としての最高善の理念である。この理念の存在によってのみ、我々は全ての行動のために全体的な意味で理性によって是認され得る究極目的を得たいという人間固有の自然的要求を満たす。人間の能力ではこの世界での幸福を幸福であるに値することと一致させて実現するには不十分だからである。だから更にこの最高善が可能であるために、最高善の両要素を合一し得る全能な存在者を我々は想定せざるを得ないのである。
こうして道徳は宗教へと到り、それによって宗教は人間の外にある道徳的立法者の理念にまで拡張するが、この立法者の意志の内に世界創造の究極的目的は存するのであって、これは同時に人間の究極的目的であり得るし、またそうであるべきなのである。
だが最も神聖で崇高なものですらも、人間がそれの理念を自らの使用にあてると、卑小化されてしまう。それに対する尊敬が自由であるという点でのみ真に敬われ得るものが、強制的法則によって威信が与えられるにすぎないような形式に順応させられ、各人の公の批判に自ら進んで身をさらしているものが、権力をもつ批判に、つまり検閲に、屈服しなければならないのである。
学問の領野では、聖書神学に対し、哲学的神学が対立している。この哲学的神学は、それが単なる理性の限界内に留まっていさえすれば、そして聖書神学の公の教えを改変しようとするのでなければ、十分な自由をもつはずである。
第ニ版 序文
啓示は純粋な理性宗教を含めるが、後者は前者の歴史的なものを含めない。しかし歴史的体系としての啓示を道徳的概念に単に断片的に当て合ってみて、この体系が純粋な理性体系に還元され得ないかどうかを吟味することは意味がある。なぜなら道徳的ー実践的意図における理性体系との関係においてのみ生じる本来的宗教にとっては、それで十分ではないか、と思われるからである。これが当たっているならば、理性と聖書との間には単に協調性だけではなく、一致も見出され得るし、従って、道徳的概念の手引きによって一方に従う者は他方とも合致することになる。この合一の試みは、哲学的な宗教研究者に十分その権利が与えられた仕事である。
第一篇 善の原理と並んで悪の原理が内在することについて、もしくは人間本性の内にある根本悪について
世界が最初の善なる楽園から転落し悪い状態にあるというのは歴史とともに古く、むしろ歴史以前の神話の昔からの歎きであるが、逆に世界は悪しき状態からより善い状態へと進行はしている、少なくともそういう素質が人間本性にはあるというセネカからルソーに至る道徳学者の思いやりある仮説も存在する。
ところで或る人間が悪と呼ばれるのは、その人間が悪しき(法則に反した)行為をなすからではなくて、その行為がその人間の悪しき格律を推定させるような性質を具えているからである。さて、人は確かに法則に反した行為を経験的に認めることもできようが、だがその格律を他人はおろか自分にさえ観察できるとは限らない。従ってこの行為者が悪人だという判断を、確実に経験に基けることはできない。それゆえ、或る人間を悪と呼ぶには、ただ一つの意識的な悪しき行為から、その根底にある悪しき格律が、さらに主観の内に普遍的に存しているところの、それ自身また格律である個々の道徳的に悪しき格律の全てのものの根拠が、ア・プリオリに推論されなければならない。
ところで通常人間本性ということで理解されていることは、行為に先立つ人間の自由一般の使用の主観的根拠にすぎず、この根拠がどこに存していようとそれは問題ではない。この主観的根拠は、また自由の働きでなければならない。そうでなければ、道徳法則に関しての人間の選択意志の使用は人間の責任に帰せられなくなり、善悪は道徳的なものとは言えなくなるからである。従って、悪の根拠は、選択意志を傾向性によって規定する客体の内にではなく、つまり自然衝動の内にではなく、選択意志が自らの自由を使用するために自己自身に設ける規則の内にのみ、即ち格律の内にのみ、存するのである。そしてその格律の外には自由な選択根拠をも挙げるべきでなく、また挙げることはできないから、人は最初の格律の採用の主観的根拠を求めようとすれば、その系列を無限遡行させられるだけである。だからこの格律を採用する最初の根拠は、経験の内に与えられ得るような事実ではあり得ない。また人間の内の善悪が生得的(性格的)であるというのは、善悪が出生と同時に人間の内に存在すると表象されるという、単にそうした意味においてであって、出生がまさしく善悪の原因であるという意味においてではない。
注
人間は生来道徳的に善であるか悪であるか、というこの選言的対立がそもそも間違いなのではないかと問うことも人はでき得る。しかしそもそも道徳説において極めて重要な点は、道徳的中間物を、行為においても、人間の性格においても、できる限りこれを容認しない、ということにある。というのは、こうした曖昧性の下では、一切の格律がその決定性と堅固さを失う危険に晒されるからである。
善が在るとき、それの対立は非善である。この非善は、善の根拠の単なる欠如の結果か、或は善の反対の積極的根拠の結果(悪)かのいずれかである。だが我々の内には動機がある。従って選択意志と動機との一致の欠如は、ただ選択意志の実在的に対立した規定の、即ち選択意志の反抗の結果としてのみ、つまり悪しき選択意志によってのみ、可能である。行為の道徳性もそれに基いて判定されねばならないところの悪しき心術と善き心術(格律の内的原理)との間には、それゆえ、いかなる中間も存在しない。道徳的に無関心な行為とは、単に自然法則から結果する行為であろうが、こうした行為は何ら事実といえるものではなく、この行為に関しては、命令も、禁止も、許可(法的権限)も生ぜず、それらが必要ともならないから、こうした行為は自由の法則としての道徳法則とは全く何の関係もない。しかし、もし法則が或る人の選択意志をその法則に関係する行為に関して規定していないときは、この法則に対立した或る動機がその人の選択意志に影響を及ぼしていなければならない。そしてこのことは、人間がこの動機を自らの格律の内に採用することによってのみ生じるのであるから、彼の心術は道徳的法則に決して無関心ではないのである。即ち善でも悪でもないということは決してないのである。
ところでまた、人間は、或る部分では道徳的に善であり、他の部分では同時に悪である、ということもあり得ない。道徳的法則は義務一般の尊守にとって唯一の法則であり、普遍的なのであるから、この場合に、関係付けられた格律は普遍的であって、しかも同時に特殊な一格律であるにすぎなくなるが、これは矛盾だからである。
人間本性の内にある善への根源的素質について
人間の内にある動物性の素質は、自然的であって理性を必要としない自愛である。これには、自己保存、種族維持、共同生活を求める衝動の三様の素質がある。これらの素質には外から自然の粗野としての悪徳が混入することがある。
また動物であると同時に理性的存在者としての人間性の素質は、自然的であるが、他人との比較においてのみ自分を幸福であるか否かを判断する自愛である。しかも根本的には単に平等という価値を与える傾向性が生じるが、これには人との優劣の不断の懸念が結びついていて、自己の安全のための予防手段として、ここから次第に、他人を超えた優越性を獲得しようという不当な欲望(対抗心、競争心)が発生し、更に他人への敵意という最大の悪徳が混入することがある。自然はもともとこういう競争(これ自体としては相互愛を斥けるものではない)を、単に文化へ向かわせる動機として使用するつもりであったであろうから、この悪徳は、文化の悪徳とも呼ばれるが、この悪徳が最大の度をもって、嫉妬、忘恩、他人の不幸を喜ぶ気持ち等々の、人間性を超えたときは、悪魔的悪徳と名付けられよう。
最後に、理性的であると同時に引責能力のある存在者としての人間の人格性の素質は、それだけで選択的意志の十分な動機であるところの道徳的法則に対する尊敬の感受性である。道徳的法則に対する単なる尊敬の感情はそれだけではなお自然的素質の目的とはならず、それが選択的意志の動機である限りにおいてのみ、そうした目的を形成する。このことは自由な選択意志がこの感情を格律に採用することによってのみ可能となるのであるから、この意志の性質は善き性格である。この可能はいかなる悪も混入しない素質が我々の本性に存しなければならないが、道徳的法則の理念だけは、人格性の素質と呼ばれるには相応しくない。この理念は全く知性的に見られた人間性の理念として人格性そのものなのである。だが我々がこの尊敬を動機として格律に採用することと、この採用の主観的根拠とは、人格性への付加であり、人格性のための素質という名に値するように思われる。
人間本性の内にある悪への性癖について
性癖とはただ或る享楽へ向かわせる素因であり、主体が或る享楽を経験した場合に、その享楽への傾向性を生み出すのが性癖である。性癖と、欲求対象の熟知を前提にする傾向性との間には、本能があるが、これはまだ人がその概念をもっていない何かを為したり享受したりするところの感覚的欲求である。
悪の性癖には、格律尊守に際しての心情の弱さ、人間本性の脆さの段階があり、次に道徳的動機と非道徳的動機とを混合する性癖である不純(不正直)の段階があり、最後に悪しき格律を採用する性癖、即ち人間本性もしくは人間の心情の悪性(歪み、腐敗)の段階がある。悪性は心情の倒錯と呼ぶこともできる。これは自由な選択意志の動機に関してその道徳的秩序を転倒するからである。もっともそれでも適法な行為は成立し得るが、転倒によって思考法はその道徳的心術に関わる根を腐らせ、ゆえにその人間は悪とされるのである。
ところで行儀のよい人間と道徳的に善い人間の間の、行為と法則との一致に関して差異はないと見なしてかまわないが、法則を精神に従って尊奉していない前者のこの一致は単に偶然にすぎず、ゆえにその善悪によって人格の全道徳的価値が評価さるべき格律が所詮反法則的であり、従って人間はその行為が純粋に善である場合にもなお悪であり得るのである。
全て性癖は、自然的存在者としての、或は道徳的存在者としての人間の選択的意志に属するが、悪への性癖は、選択意志の道徳的能力にのみ付着し得るから、前者はおよそ道徳的悪への性癖など存在しない。本源的悪とは、最高の格律が選択意志の内に採用される際のその自由の使用に適用されるものであり、悪徳は、行為そのものがその格律に適ってなされる際の自由の使用である。本源的悪は悪徳の形式的根拠でもあり、悪徳が可感的であり経験的であって、時間の内に与えられ、しばしば回避され得るにしても、本源的悪は英知的所行であり、一切の時間的制約を受けず単に理性によって認識されるが、罪責はどこまでも残り、その性癖は根絶されない。根絶されるには最高の格律が善の格律でなければならないが、この最高の格律はその性癖そのものにあっては悪と想定されるからである。悪が我々自身の所行にも拘らず、なぜ我々の内においてそれが最高の確立を腐敗させたかについて、我々はそれ以上その原因を示すことができないからである。
人間は生来悪である
人間が悪であるとは、道徳的法則を意識しながらもその時々の違反を自らの格律に採用しているということであって、人間が生来悪であるとは、このことが類としての人間に経験的に見られるというほどの意味である。それには我々の国際状態を観察すればよいのであって、そこでは文明化された諸国民が互いに粗野な自然状態の関係にあり、国際同盟に基礎をおく永遠平和を希求することが、単なる夢物語として一般に嘲笑されることを知るだけでよい。
ところで悪の根拠は、人間の感性とこの感性から発現する自然的傾向性の内におかれることはできない。これらの傾向性は悪とは無関係である。また理性が道徳的法則から生じる拘束性から自由であるかのように、理性の腐敗の内におかれることもできない。それは自己矛盾であり、不可能なことだからである。悪の根拠は、自由な経験的ではない選択意志と、動機としての道徳的法則との関係にかかわるのであるから、悪が自由の(責務と引責能力との)法則に従って可能である限りにおいて、この悪の概念からア・プリオリに認識されるのではなければならない。
人間が悪であるのは、ただ彼が動機を格律として採用する際に、その動機の道徳的秩序を転倒することにのみよるのである。人間は道徳的法則を自愛の法則と共に格律の内に採用するが、それらが並存することは自己矛盾を来し不可能であるから、一方が他方と従属関係になければならないと認めて、そこで彼は、自愛の動機とその傾向性を最高の条件として、選択意志の普遍的格律であるべき道徳的法則の尊守の条件とするのである。
もし理性が、幸福という名のもとで、この転倒がなされた場合には経験的性格は善であっても、英知的性格はやはり悪なのである。だがそれにしても、この性癖は自由に行為する存在者としての人間の内に見出されるのであるから、これに打ち克つことが可能でなければならない。それゆえ人間の本性の悪性は、悪を悪として自らの格律の内に動機として採用する悪魔的心術というより、心情の倒錯、即ち悪しき心情というべきである。
故意の罪責(欺瞞)は、自分自身の心術そのものに関して自らを欺き、悪しき結果が生じさえしなければ自らの心術に関して不安を懐かず、むしろ法則の前で自らが正しいと居直るような、人間の心情の一種の奸悪をその性格として所有する。この自分自身を煙に巻く不誠実は、我々の内に真正の道徳的心情の基礎を据えることを妨げるものであって、それは更に外部にも拡げられ、他人に対する虚偽や欺瞞ともなる。これは悪意と呼ばれるべきでないにしても、少なくとも卑劣と呼ばれるに値し、人間本性の根本悪の内に存する。
人間本性の内にある悪の根源について
根源とは、或る結果がその最初の原因から、即ちそれがまた同種の或る他の原因の結果でないところの原因から、源を発することである。根源は、単に結果の現存在が注目されるだけの理性的根源か、或は結果の生起が注目され、従って結果は出来事としてその時間内における原因に関係付けられるところの時間的根源とが考えられる。結果が、自由の法則に従ってその原因に関係付けられる際には、結果を生ぜしめる選択意志の規定は、時間内におけるその規定根拠とではなく、単に理性的表象内におけるその規定根拠と結びついたものとして考えられ、何か或る先行状態から導出されることはできない。それゆえ、自由な行為そのものについてその時間的根源を求めるのは矛盾したことである。
それぞれの悪しき行為は、それの理性的根源が求められる場合、あたかも人間が無責の状態から直接その行為に陥ったかのように見られねばならない。なぜなら、彼の以前の態度がどのようであったにせよ、また彼に影響を及ぼす自然的原因がどのようなものであるにせよ、つまりそれらの原因が彼の内に見出されるか外に見出されるかに関係なく、彼の行為はなおやはり自由であって、なんらこれらの原因によって規定されず、従ってその行為は常に彼の選択意志の根源的使用として判定され得るし、また判定されねばならないからである。
ところで聖書は、悪の根源を一つの歴史物語の内に明示するが、そこでは事柄の本性に関して(時間的条件を顧慮しないで)最初のものと考えられねばならないものが、時間に関して最初のものとして現れるのである。この物語によれば、悪は根底にある悪への性癖からはじまるのではない。と言うのは、もしそうした性癖からはじまるとしたら、悪のはじまりは自由から発現するのではないことになるからである。そうではなくて、悪は神的命令としての道徳的法則への違反としての罪からはじまる。だが悪への全ての性癖に先立つ人間の状態は、無責と呼ばれる。道徳的法則は、まず禁止として登場した。そして人間は、この法則を、これのみが無条件に善であり、またこれに従うのにいかなる懸念も生じないような十分な動機として素直にこれに従う代りに、単に条件付きで、即ち法則がそれによって侵害されない限り善でありうるような他の動機をも探し廻り、行為が意識的に自由から発現すると考えられる場合に、義務からではなくて、せいぜい他の様々な意図に対する顧慮からして、義務の法則に従うことをその格律としたのである。人間はこれと共に、他のいかなる動機の影響をも拒斥するところの命令の峻厳さを疑い始め、次いで命令に対する服従に理屈をつけて、それを単に自愛の原理の下に、手段として条件づけられた服従に引き下げ始めたのであって、ここからしてついには法則からの動機を凌ぐ感性的衝動の優越が行為の格律の内に採用され、かくして罪が犯されたのである。
しかし悪はただ道徳的悪からのみ発現し得たのであるが、しかも根源的素質は善への素質であり、それゆえ我々にとっては、道徳的悪がそこから我々の内に初めて入ってきたと理解され得るような根拠は全く存しないのである。この悪の初めの不可解性を聖書は人間の内にではなく霊の内におき、人間は単に誘惑によって悪に堕ちたとされ、従って根底から腐敗しているのではなく、誘惑する霊とは違って、即ち肉の誘惑がそのものの罪責を緩和するのに酌量されることのできない存在者とは違って、なお改善の能力があるものとされる。
総注 善への根源的素質がその力を回復することについて
我々の内にある善への根源的素質を回復することは、善への失われた動機を獲得することではない。なぜならこの動機は決して失われることはないからである。ゆえにこの回復は、道徳的法則の純粋性の回復に他ならない。だから根源的な善は、自らの義務を尊守することにおける格律の神聖性である。自らの義務の尊守において熟練の域に達した堅固な志操は、徳とも呼ばれるが、しかし或る人が道徳的に何かを義務として認めるときはこの義務そのものの表象以外にはいかなる他の動機をももはや必要としなくなるという事態は、格律の基礎が不純である限りは漸次的な改革によっては実現され得ないのであって、それは人間における心術の革命(心術の神聖性という格律への移行)によって実現されねばならない。そして自らの選択意志の最高の格律として採用した原理がかかる純粋性とその堅固さとをもつ場合、自らが悪い者から善い者への堪えざる前進の善い途上にある、と期待することができる。このことは心情の英知的根拠を見通す者、それゆえ、この前進の無限性がそれにとっては単一性であるところの者、即ち神、にとっては、現実に善い(神に適った)人間であるということに他ならない。上述のことから、人間の道徳的陶冶は、道徳的慣行の改善からではなく、思考法の変革と性格の確立から始めなければならない、ということが帰結する。そして道徳的法則が、我々が今まさにより善き人間であるべきであると命じるならば、そこから不可避的に、我々はそうであることができるものでもなければならない、ということが帰結する。
さて、自己改善のこの要求に対して、生来道徳を論ずるのに怠惰な理性が、自然的無能力を口実として、あらゆる種類の不純な宗教理念を提供する。しかし人は、全ての宗教を、恩恵を求める宗教と、道徳的宗教に分けることができる。前者に関しては、人間は、より善い人間になることを特に必要としなくても、神がきっと彼を永遠に幸福にしてくれるであろうと好い気になっているか、またそうしたことがあり得ないと思われる場合は、神はきっと彼をより善い人間になすことができ、その際彼は自分ではそれを乞うこと以上に何もする必要はない、と好い気になっているか、そのいずれかである。乞うということは、一切を照覧する者に向かって願うということに他ならないから、本来は何事もなされなかったことになろう。それが単なる願望で達成されるならば、人間は誰でも善であることになるであろうから。だから道徳的宗教(キリスト教)に関しては、人間は誰でもより善き人間になるために自らの力の限りを尽くさねばならず、そして自らの生徳的な才能を埋もらせなかった場合にのみ(ルカ伝19-12)、つまり善への根源的素質をより善い人間になるために利用した場合にのみ、自らの能力の内にないものが一層高次の協力によって補足されるであろうと望むことができる、というのがその原則である。しかもその協力がどこに存するかを人間が知ることは、必ずしも絶対に必要ではない。
第二篇 人間の支配をめぐる善の原理と悪の原理の戦いについて
人間がなしうる最初の真の善は、傾向性の内にではなくて転倒された格律の内に、従って自由そのものの内に求められるべき悪から離脱することである。傾向性は、それに対立する善き格律の遂行を妨げるだけであるが、本来の悪は、傾向性が法則違反へと誘うとき、これに対して人が抵抗を意欲しないということに存するのであって、この心術が本来は真の敵なのである。傾向性は原則一般の敵対者にすぎず、その限りでは道徳性のかの高尚な原理は、諸原則によって主体を制御するための訓練として有益である。
自然的傾向性は、それ自体として見られれば、善であり、拒斥され得ないものである。それを根絶しようと欲することは無益であるばかりか、有害であるといえよう。人がなさねばならないのは、傾向性の馴養だけであって、このことによって傾向性は互いに他を傷つけ合うことはなく、幸福と名付けられる全体の内で調和にもたらされ得ることができる。だがこれを遂行する理性は、怜悧と呼ばれる。道徳的に反法則的なものだけがそれ自身として悪であり、絶対に拒斥されるべきものであり、根絶されなければならない。ところでこれを教える理性のみが、ひとり知恵の名に値する。この知恵と比較すれば、悪徳は愚かさとも名付けられることができるが、しかしそれは理性が悪徳を軽蔑し、それを単に憎むだけでなく、それに対抗する十分な力強さを自分の内に感じる場合に限られるのである。
第一章 人間支配への善の原理の権利主張について
善の原理の人格化された理念
世界を神意の対象となし創造の目的となすことができる唯一のものは、全き道徳的完全性を具えた人間性(理性的世界存在者一般)であって、幸福はこの完全性を最高の条件とし、そこから最高存在者の意志のままに直接結果する。このひとり神の意に適う人間は「永遠の昔から神の内にある」。この人間の理念は神の本質から発し、その限りでこのものはなんら被造物ではなく、神のひとり子である。
ところで、道徳的完全性のこの理想にまで我々を高めるというのは、人間の普遍的義務であって、その理念そのものがまた、我々に義務へ向かう力を与えるのであるが、この理念の創始者は我々ではなく、理念の方が人間の内に座を占めたのである。すなわち、かの原型は天から我々のもとへ降り来ったのであり、それが人間性を採用したのである。そして世界の最善を促進するためにこの者が最大の苦悩を引き受け、神の子が自らを低下させたのである。そしてこの神の子に対する実践的信仰において、人間は神意に適うようになると希望することができる。
この理念の客観的実在性
我々はこの理念に適うべきであり、適い得るのでなければならない。だがそもそも合法則性という単なる理念が、選択意志にとって利益から取り出されるあらゆる動機より強力な動機であるということがいかにして可能かは、理性によって洞察されることも、経験の実例によって証明されることもできない。それと言うのも、前者に関しては、法則は無条件的に命じ、後者に関しては、たとえこの法則に無条件に服従した人間がこれまで決して存在しなかったにしても、このような人間が存在する客観的必然性はいささかも減少せず、自明のことだからである。それゆえ、道徳的に神意に適った人間の理念を我々の模範とするには、なんら経験の実例を必要としない。この理念は、そうした模範としてすでに我々の理性の内に存するのである。
しかし、人が外的経験から一般に内的な道徳的心術の証拠を期待できまた要求できる限りにおいて、理念に一致する人間の実例を与えることもまた可能でなければならない。
さて、真に神的な心術をもつこのような人間が、或る時にいわば天から地上に降り来たり、教えと行状と苦悩とを通じて神意に適った人間の実例を、外的経験から人が望み得る限りにおいてその身に即して与えたとしても、我々はやはり彼が自然的に生み出された人間以外の者であると想定する原因をもたないであろう。なぜなら、自然的に生み出された人間も、やはり自らこうした実例を我が身に即して与えなければならないと感ずるからであり、また実践的意図においては、超自然的に生み出された人間という前提は、我々には何ら利益をもたらさないからである。むしろこのような神聖なる者を人間本性のあらゆる脆さを超えて高めることは、この者の理念を我々に実践的に適用させるには却って妨げになろう。なぜなら、神の子が人間と同様の自然的傾向性をもつ限りでは、人間的であると考えられるが、それにしても後で獲得されたのではなく生得的な意志の純粋性が彼にいかなる法則違反を示さない限りでは、超人間的と考えられるから、この者と他の人間とでは無限に距離が大きくなり、もはや自然的人間に対して実例として相応しくないことになるからである。
我々は、感性的なものから超感性的なものへの上昇については、図式化する(或る概念を何か感性的なものとの類比で理解する)ことはできるが、前者に属するものからの類比によってそのものが後者にも属さねばならないと推理する(こうしてその概念を拡張する)ことは全くできない。このような推理は、我々が或る概念を理解するためにはその概念に或る図式を適用することが必要であるということから、その図式がまた必然的に対象そのものに述語として属さねばならないという結論を引き出そうとするものであるが、こうした推理は一切の類比に反して為されることになるからである。
この理念の実在性に対する種々の困難とその解決
第一の困難は、欠陥のある善から一層善い善へと無限に進む所行は、因果関係の概念において不可避的に時間的に制限され、常に神聖な法則にとっては不十分なものと見なさざるを得ないという点にあるが、善への無限の努力は、それが起因する超感性的な心術のゆえに、人心を察知する者の純粋な知性的直観においては、所行に関しても完結した全体と判定されるものと考えることができる。そしてそうすれば人間は、常に欠陥があるにも拘らず、一般に神意に適うことを期待できる。
第二の困難は、善においてたえず前進する心術の現実性と持続性との保証、すなわち道徳的幸福の問題である。この保証は、神的な慈悲と関連する。かかる心術の不変性がしっかり保証されていさえすれば、たえざる「神の国への努力」は、自分がこの国をすでに所有しているのを知っているのも同然であろう。こうした願望に対する不安は、「恐れおののきながら自らの至福を得る」とするのが効果的である。我々は測り知れないが望ましい幸福な未来への見通しか、或は測り知れない悲惨への見通しをもつ。つまり両者は人間にとって、人間が判断し得るところに従っての、至福な、或は至福ならざる永遠性への見通しである。これらの表象は、一方においては善を安定させ堅固にするのに、他方においては悪を妨げるための良心を覚醒させるために、従って動機として役立つに十分な力をもっている。それゆえ人が意識している善き純粋な心情、即ち我々を支配する善き霊は、たとえ間接的でしかないとしても、自らの持続性と堅固さとに対する信頼を伴っており、我々の過失がその持続性について我々に不安を懐かせる差異は、それは慰藉者なのである。この持続性に関しての確信は、人間にあっては可能でもなければ、我々の洞察する限りでは、道徳的に有効でもない。なぜなら我々はこの信頼を、我々の心術が不変であるとの直接的意識に基付けることができないからで、それは我々はこの不変性を見抜くことができず、結局はただ行状に示された心術の結果からこの不変性を推論せざるを得ないからであるが、ところでこの推論は、善いもしくは悪い心術の現象としての知覚からのみ引き出されたのであるから、とくにそのものの強さを確実に認識させることは決してなく、このことは生の真近な終わりが予見されるにあたって人が自らの心術を改善したと思う場合などはとくにそうである。そのときには、もはやいかなる行状も我々の道徳的価値の判決を基礎付けるために与えられていないから、その心術の真正さについてのかの経験的証明は全く欠けており、そして慰藉のないことが彼の道徳的状態に下される理性的判定の不可避の結果なのである。だが人間の本性は、この生の限界を超えた一切の眺望が暗黒であるところで、それが凶暴な絶望にならないように、自ずからにして配慮しているのである。
第三の困難は、人間は所詮悪から始まったのであって、心情の変革の後でも、それ以前の罪責を消し去ることは不可能であろうという困難である。人は今後善い行状を続けることで以前の罪を帳消しにすることもできない。なぜなら、いかなる時でも、能力の内にある全ての善をなすことが人の義務だからである。この罪は、普遍的心術を考察することのない人間の法廷と違い、心術と格律一般とにおける悪として、法則毀損の、従って罪責の無限性を伴うから、人は誰でも無限の罰と神の国からの追放とを覚悟しなければならないことになろう。
問題は、罰が回心後の改善された人の心術にまで及び得るのかということである。しかし最高の義は満たされねばならず、この義の前では、罰せられる者は決して罰を逃れることはできないから、回心の前にあっても後にあっても、罰は必然的なのであり、罰は回心の状態そのものにおいて神の知恵に適って執行されるものと考えられねばならないであろう。それゆえ、我々が知らねばならないのは、回心後にその責任があるものと見なし、その罰がこの回心の状態の内にすでに道徳的回心の概念を通じて含まれていると考えることができるかどうか、ということである。回心とは悪を出て善に入ることであり、罪の(従ってまた罪へと誘う限りでの一切の傾向性の)主体が義のために生きるために死滅するのである。しかも知性的規定としての回心の内には、中間時によって分けられる二つの道徳的作用が含まれているのではなく、回心はただ一つの作用であって、悪の廃棄は善への進入を生じさせる善い心術によってのみ可能であり、またその逆でもあるからである。それゆえ、善の原理は、よい心術の採用の内にも悪い心術の廃棄にの内にも同じように含まれており、後者に正当に伴う苦痛は全く前者から発現する。腐敗した心術を脱して善い心術に入ることは、古い人間の死滅、肉の磔刑として、それ自身すでに犠牲であり、生の禍いの長い系列に踏む込むことであり、新しい人間はこれを神の子の心術において、即ち単に善のためにのみ引き受けるのであるが、しかもこれはもともと他の人間には、即ち古い人間には罰として帰属したものなのである。それゆえ、新しい人間は自然的にはまさに同一の罰せられるべき人間であり、かかる人間として道徳的法廷の前で、従ってまた彼自身の前で裁かれねばならない。それにしても彼は、その新しい心術においては道徳的に別人であり、この審判者の前でその新しい心術が所行を弁護するのであって、彼が自らの内に採用した神の子のように純粋な子の心術が、或は、我々が子の理念を人格化すれば、この神の子自身が、信ずる全ての人間の代わりに罪責を担い、救済者としては苦悩と死とによって最高の義を充足させ、弁護者としては彼らが義とされて審判者の前に立つのを期待できるようにさせるのである。違うところと言えば、新しい人間が古い人間を死ぬことでたえず生に引き受けねばならないのかの苦悩が、人類のこの代表者においてはただ一回限りの死として表わされるという点だけである。
ここには回心以前の罪を帳消しにする以上の恩恵がある。それはただ恩寵に基く判決であって、これは我々にとってはただ改善された心術の理念の内にのみ存するが、しかしひとり神のみが知るところの贖罪に基くものである。
第二章 人間支配への悪の原理の権利主張と、両原理の間の戦いについて
新約聖書はこの英知的な道徳的関係を物語の形式で述べているのであって、そこでは天国と地獄などの人間内の原理が、人間外にある人格として表象されていて、互にその力を人間の告発者として、或は弁護者として、それぞれの要求をいわば最高の審判者の前で法的権利によって承認させようとしているのである。
創世記における悪しき存在者に対しなぜ神はこの反逆者に抗して力を行使しなかったのか、そしてその意図を発端において亡ぼさなかったのか、という疑問が生じるかもしれない。しかし理性的存在者に対する最高の知恵の支配と統治は、理性的存在者の自由の原理に従ってなされるのであって、彼らに及ぶべき善悪は、これを彼ら自身の責任に帰すべきなのである。こうしてここに善の国に反抗して悪の国が建てられ、アダムから自然に系統をひく全人類はこの国に帰服したが、それは彼ら自身の同意によるのであって、この世の財に眩惑されたからである。しかし奴隷根性を揺り動かす道徳的自由論によって自覚された革命の機が熟した時代に、突如として一個の人格が現れたのであって、そしてこの人格は、その教えと実例に関して、自らを真の人間ではあるが、その根源的無責性のゆえに他の人類の最初の祖先を通じての悪の原理と結んだ約束に捉われなかった。このことによって、現世の統治者は脅威に感じ、彼を迫害しあげくの果てに最も恥ずべき死にまで至らしめたが、諸々の原理が力を有する国は、自然の国ではなく自由の国であるから、この死は善の原理の示現であった。なぜならこの死が天の子の自由と地の子の隷属とを最も鮮明に対照して見せるからである。善の原理は、ところで、単に或る特定の時にだけでなく、人類の原初から目には見えない仕方で天から人間性の内へと降り来ったのであって、それはれっきとして人間性の内にその最初の住居をもっている。こうして善の原理は、或る現実的な人間の内にその他全ての実例として現れたのであるから、「こうして彼は自分の国に来たが、彼の民は彼を受け入れなかった。しかし彼を受け入れた者、すなわち彼の名を信ずる者には、神の子となる力を与えたのである。」(ヨハネ伝1-11)
もし人がこの表象方式から、その神秘的な覆いを剥ぐならば、この表象方式(その精神及び理性的意味)があらゆる世界とあらゆる時代に実践的に妥当し拘束力をもったものであることは、容易に認められるのである。
だから理性の教える最も神聖なものと調和する意味を聖書の内に求める努力は、単に許されているとされるだけでなく、むしろ義務であるとされねばならないのである。
総注
教義や典礼にではなく、一切の義務を神的命令として尊守しようとする内なる心術に置かれる道徳的宗教が樹立されるべきならば、歴史がその宗教の創始に結びつける一切の奇蹟は、奇蹟信仰一般を結局は自らに無用なものとしなければならない。人が「徴と奇蹟とを見なければ信じない」ならば、これは道徳的不信仰の極みを示すものだからである。しかしそれらについての知識や信仰や告白がそれだけで神意を適わしめることができるということを、宗教的信条をするのでさえなければ、我々はそれらの奇蹟を価値あらしめることができるし、それどころかまた、その外皮をも、つまりおのおのの魂に消し難く保存されていて何らの奇蹟をも必要としないところのものにその信仰の基礎がある教えを、公に行わせるのに役立った外皮をも、やはり尊崇することができるのである。
しかし、奇蹟一般に関して言うと、理性的人間は奇蹟の信仰を捨てようと思っているわけではないにしても、これに実践的な力を得させようとは思わない。理論の上では信じはするが、実生活の事柄にあってはこれを認めない。賢明な政府は、昔は奇蹟が生じたであろうという考えをいつも認めたばかりか、公の教義学の内で合法として採用しさえしたが、しかし新しい奇蹟を許すことはなかった。もし奇蹟とは何かと問われるならば、奇蹟とは世界の内の出来事であって、その原因の作用法則が我々に全く知られていないし、知られないままに留まらざるを得ないものである、というふうに説明しておけばよい。
第三篇 悪の原理に対する善の原理の勝利と地上における神の国の建設
人間の自然のままの本性は自足的で穏やかであるが、一たび人間関係の中に置かれると、敵意ある諸傾向が彼の中に生じ、彼の根源的には善である素質を荒廃させる危険が生まれる。そこでもし、悪の防止と善の促進を目的とする社会の建設に何の手段も見いだせないなら、個人が悪の支配からの脱出にいくら努力しても悪には勝てない。だからこそ個人に指令する道徳的法則の他に、この理念の指令に従う人間の結合である、倫理的社会の建設が成就されるべきである。そしてこれらの法則が公である場合は、倫理的=公民的(法的=公民的に対して)社会、或は倫理的公共体と言われる。
第一部 地上における神の国の建設による善の原理の勝利という哲学的表象
倫理的自然状態について
既存の法的=公民的社会、即ち政治的公共体においては、全ての政治的公民はそのままで、各人が自分自身に法則を与える、自由を本質とする倫理的自然状態の内にある。 従って倫理的目的に向かう体制を強制によって実現しようとすることは、倫理的体制とは正反対なものを生じさせるし、自らの政治的体制をも不安定にしてしまうだろう。それゆえ、他の公民との更に高い倫理的合一に至ろうと欲するか、倫理的自然状態のままでよいとするかは各人の自由である。ただし倫理的公共体がなお公の法則に基づいて体制を組む限りにおける制限は、国民として引き受けねばならない。しかし徳の義務は全人類に関わるゆえに、理想的な全ての人間によるところの倫理的公共体そのものから見ると、この倫理的公共体は一特殊社会と呼ばれ得るものであって、他の特殊社会との関係では倫理的自然状態の内にある。
人間は倫理的公共体の成員となるために倫理的自然状態から脱却すべきである
法的自然状態が各人の戦いの状態であるように、倫理的自然状態も各自の悪による不断の交戦状態であって、その道徳的素質を腐敗させる。そして各人が善き意志をもつ場合ですらも、彼らを合一する原理が欠けているので、あたかも彼らは悪の道具であるかのように、彼らの不一致によって善という共同体的目的から遠ざかり、互に他を再び悪に委ねる危険に陥れる。ところで更に、外的にして公な法則の下にない社会では、各人の権利について自らが審判者であろうとするが、このため各人は権力を振るうだけで、安全の保障は誰も人から受けず誰にも与えず、つまり各人は互いに武装してなければならない戦争状態にあるから、人は政治的=公民的状態に入るためにはこの状態を早く脱すべきである。
さて、人類は客観的に理性の理念において、共同体的善としての最高善を促進する義務があるが、これは個人の努力だけでは実現されず、各人が同一の目的を、つまり善い心術をもつ人間の体系を目指す一全体に合一されることを要求するのであって、最高の人倫的善はこの体系においてのみ成り立つ。だが徳の法則に従う普遍的共和国としてのこの全体に理念は、一切の道徳的法則とは全く異なった理念であり、それを我々はどういうものか知ることはできない。ここで人は、この義務が更に高い道徳的存在者の力によってその成就が可能である、ということを予測するであろう。
倫理的公共体の概念は倫理的法則の下にある神の民という概念である
一切の法の原理は、各人の自由をそれが或る普遍的法則に従って他の各人の自由と両立し得るという条件の下に制約するところにあるから、政治的公共体においての立法はその全成員が立法者でなければならないが、内的な道徳性を目標にする倫理的公共体は、その倫理的法則の、法則に合った義務は自由な徳でなくてはならないから、人間の手になる公の法則の下に立つことはできない。従って倫理的公共体の立法者は、各人の心術の奥底を見抜き、人心を察知する者でなければならず、それは道徳的な世界支配者としての神の概念である。それゆえ、倫理的公共体は神的命令の下にあって徳の法則に従う民としてのみ、考えることができるのである。
神の民という理念は(人間が設備するものとしては)教会という形式の内でしか実現され得ない
道徳的な神の民の建設は、それゆえ神にのみ期待され得る業であるが、だからと言って人間は摂理に任せきりでよいともされない。人間はむしろ一切が自分達にかかっているかのように振るわなければならない。その条件の下でのみ、神の知恵が彼の善意の努力を完成してくれると希望してよいのである。善い心術をもつ全ての人の望みは、それゆえ、「神の国の来らんことを、神の意志が地上で行われんことを」である。だがこのことが生じるためには、彼らは何を設備すべきであろうか。
神的にして道徳的な立法の下にある倫理的公共体は教会であるが、それが可能な経験の対象でない限り、見えざる教会と呼ばれる。これは神による直接的な道徳的な世界統治の下における全ての公正な人間の合一という理念であって、人間によって建設さるべき一切の教会の原型として役立つ理念である。見える教会は、人間がこの理念と一致する全体を目指してつくる現実の合一である。
ところで人間がなしあたう限りの神の国を地上に表わすところの真の見える教会の資格は次の通りである。
教会の普遍性、単一性。いかなる分派分裂もない原則の上に築かれること。教会の純粋性。道徳的動機より以外のいかなる動機にもよらない合一。迷信や狂信の妄想から純化していること。自由の原理の下での関係。教会員相互の内的関係も、教会と政治的権力との外的関係も、共に自由国家の内にある。つまり教権制度でもなければ、各人の頭次第で他人のそれとは相違し得る特殊な霊感によるところの一種の民主政治としての照明結社でもない。教会の様相。その構成法に関しての不変性。そのためには確固とした諸原則を教会の目的の理念の内にア・プリオリに含んでいなければならない。
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