カント 『人倫の形而上学』 要約 (3)
第ニ節 国際法
諸国家は、相互の外的関係において見れば、もともと法的状態になく、この状態は、どちら側の国家も事態を改善しようとはせぬのであるから、たとえ実際の戦争ではないにせよ、戦争の状態であって、相互に隣り合っている諸国家はこの状態から脱するよう拘束されている。よって内政に干渉するのではなく、あくまで外的の攻撃に対して防衛し合うためのものとして、或る根源的社会契約の理念に基く国際同盟が必然的である。ただしこの結合は主権的権力を含んではならず、ただ提携(連合)だけを含まなくてはならぬ。
国家は国民に対し、いかなる権利を有することによって、彼らを戦争に送り込めるのか。
国民なるものは、国家において常に、立法に参与する成員として(単に手段としてではなく、また同時にそれ自身目的として)考えられなくてはならず、それゆえ、戦争を行うことに対してのみならず、宣戦布告に対しても、国民の代表者達を介して、国民がその自由な賛意を与えるという手続きがなくてはならず、こういう制限的条件のもとでのみ国家は国民の危険に充ちた役務を意のままに用いることを得るのである。
諸国家の自然状態においては、戦争への(敵対行為への)権利は、或る国家が或る他の国家に対して、即ち後者によって侵害されたと信ずる場合に、自身の威力によって自らの権利を追求するための許容された方法である。なぜなら、こういう権利の追求は訴訟によって行われ得ないからである。行動的侵害の他に、脅威としての侵害がある。恐るべき勢力に増大した強大国が何の行動にも出ないにせよ、単にその状態によって弱小国を侵害することがあり得る。それゆえ、これに基いて、相互に行動的接触を有する一切の諸国家の均衡の権利が成立する。
戦争は、諸国家のそういう自然状態から脱して、或る法的な状態を結成することを、依然として可能ならしめるような諸原則に従って行われなくてはならない。独立の諸国家相互の戦争は、懲罰戦争でもありえない。懲罰は命令者の服従者に対する関係においてのみ行われ、諸国家相互の関係はこういう関係ではないからである。しかしまた、殲滅戦争でもありえず、征服戦争でもありえない。国際法の理念は、自らのものを保持するための、外的自由の諸原理に従う敵対関係という概念を含むだけで、或る国家の勢力を増大させることにより他の国家にとって脅威となり得るような取得方法を含むものではない。
あらゆる防御手段が反撃として許されるが、国際法に従う国家関係において一個の人格と見なされる資格を失わせるような、永続的な平和を将来において樹立するための信頼を無にするような陰険な手段(スパイ、暗殺、虚偽情報流布など)は許されない。
戦争中には、打ち負かした敵の人民から略奪することは許されない。なぜなら、打ち負かされた人民ではなくて、この人民を統治する国家が、この人民によって戦争を行ったのだからである。
戦勝者は、敗戦者と合意して講和条約の締結に達すべく談判が行なわれる際に準拠されるべき諸条件を定めるが、それも、相手側から侵害を蒙ったと称して、そのゆえに戦勝者に帰属するとされるような、何か或る権利を盾に取ることによってではなく、この問題は不問に付したまま、戦勝者の威力に依拠して行われるのである。それゆえ、戦勝者は戦費の賠償を求め得ない。なぜなら、もしこれを求めるとすれば、戦勝者はその相手方の戦争を不正と称しなくてはならぬだろうからである。そして、たとえ戦勝者はこういう論証を考え付き得るにしても、それを用いてはならぬ。なぜなら、さもないと戦勝者はこの戦争を処罰戦争と宣言することになり、かくて今度は相手側に侮辱を与えることになるであろうからである。
言葉によるにせよ行為によるにせよ、公然と表示された意志が、それが普遍的規則とされた場合、国際間の平和状態が不可能になって、自然状態が永遠化されざるを得ないであろうような格律を示すとすれば、そういう者は不正の敵である。それによって一切の諸民族がその自由を脅かされ、そのゆえに、こういう不正に連携して対抗し、この不法者から不正な力を剥奪すべく促される。しかし、そういう連携とても、この不法者の国土を分け合って、一つの国家を消滅させるためのものであってはならない。そういうことは、一個の公共体を結成するという自己の根源的権利を喪失し得ない当該民族に対する不正である。
諸民族の自然状態一切の権利は、そこから脱して、或る法則的状態が結成されるべき状態であるから、単に暫定的であり、かくてそれは、ただ一個の普遍的な諸国家の統一においてのみ、決定的に有効となって、或る真実の平和状態を現出され得るのである。永遠平和は現実不可能な理念ではあるが、それを目標とする政治的諸原則は実現不可能ではない。
第三節 世界公民法
相互に作用的関係に入り得るところの地上の諸民族の、平和的で汎通的な共同という理性理念は、博愛的(倫理的)なものではなくて、ひとつの法的原理である。自然は全ての民族を地球という限界の内に閉じ込めたのであって、かくて、地上の住民がその上で生存し得るところの土地の占有は、ただ全体の一部分の占有であるから、一切の民族は根源的な土地の占有の法的な共同の内に、また諸民族相互の交通の意志のあることを通じ合うべき汎通的関係の内にあり、従って一切の民族はそういう交通の権利を有し、その権利は、それが一切の民族の可能的な交通の何らかの普遍的な法則を目指すところの、こられ諸民族の可能的統合に関する限り、世界公民的権利と呼ばれ得る。
植民が先住民族の住居地から遠く隔たった所で行われ、他の民族に損害を与えない場合には、植民をなす権利には疑問の余地はないが、それでも植民は力ずくではなく、契約によって行われるべきであり、それも先住民の無知につけ込んではならない。力ずくが未開の民族を開化させるためという、いわゆる善き意図も、そのために使われた不正な手段という汚点を拭い去るものではないから、そういう弁明も見せかけにすぎない。
結論
永遠平和の樹立、それはひとつの敬虔な願望に留まるにせよ、それを目指して不断に努力するという格律を想定したからといって、私達が自己を欺くことには決してならない。こういう格律は義務だからである。それに対し、私達の内なる道徳法則を欺瞞的なものと想定することは、むしろ一切の理性を喪失し、自己を自己の諸原則の点で動物類とともに自然と同じ機構にあると見なしたいという、嫌悪すべき願望を生ぜしめるであろう。
永遠平和の樹立は、単なる理性の限界内における法論の一部をなすのみならず、その全目的を成す。というのは、平和状態のみが、憲政組織の内にある状態だからである。だが、この憲政組織は、経験からではなく、理性によってア・プリオリに、人間達の法的結合の理想から取ってこられるのではなくてはならない。諸法則の支配する憲政組織という理念は、崇高な形而上学的理念であり、また最も確実な客観的実在性を有するものであり、それは事あるごとに容易に立証されるのであって、そしてまたこの理念のみが、もしそれの実現が、瞬間的にでも無政府状態を生ぜしめる革命でなく、漸次的改革によって遂行されるならば、連続的接近という形で、最高の政治的善へと、つまり永遠平和へと導きうるのである。
補遺 法論の形而上学的基礎論への註釈的覚書
[物権的債権という概念の弁明]
物権的債権の定義は「自分以外の或る人格を自分のものとして有するという人間の権利」であるが、この場合の自分のものとは、或る他人の人格に対する所有権としてのそれを意味するのではなくて(というのは、およそ人間は自分自身の所有者ですらありえず、ましてや或る他の人格の所有者ではありえないからである)、さながら或る物件についてなすかのように直接的にこの人格について、ただしこの人格の人格性を毀損することなしに私の目的のための手段として使用をなすという、用益権としての自分のものを意味するにすぎない。
だが、この目的は、使用の適法性の条件として、道徳的に必然的なものでなくてはならない。男女が自分の人格そのものを放棄し相手の人格に委ねるという形で前もって締結されねばなならない、婚姻という条件のものにおいてでなくては、男は、女をさながら物件として享楽したり、また女の方もそのために男に身を捧げることはすべきでない。この条件なくしては、互に食いつくす消費物になり下がるのみである。
[結論]
あらゆる事実は、現象における対象である。それに対し、ただ純粋理性によってのみ提示され得るもの、例えば人間達の間における或る完全な法的憲政組織のようなものは、物それ自体である。
国家的憲政組織一般の理念は、法的諸概念に従って判断する実践理性の各人民に対する絶対的命令として、神聖にして抵抗すべからざるものである。かくて、たとえ国家の国家自身による編制に欠陥があるにせよ、国家内のいかなる下位の権力も国家の立法的支配者に反対して暴力的抵抗を提起することを得ないのであって、国家に付着する欠陥は、国家それ自身に対して行う諸改革によって、漸次に排除されなくてはならない。なぜなら、もしそうでなく、専断的な選択意志に従って行動するという臣民の或る反対の格律によるとすれば、善い憲政組織そのものはただ盲目的な偶然によってしか成就され得ないからである。
第ニ部 徳論の形而上学的基礎論
序文
いかなる道徳原理も、何らかの感情を基礎としているということはなく、実は全て人の理性的素質に内在しているところのおぼろげに考えられた形而上学に他ならないのである。義務の命法やそれを自分の行為の道徳的判定に適用することについての思想は、形而上学の基礎原理にまで遡らなくてはならない。それがなければ、徳論の中にはいかなる確実性も純粋さも、人を動かす力さえも全く期待し得ないのである。
徳論への序論
[徳論の概念の論究]
義務の概念は、それ自体ですでに、法則によって自由な選択意志を強要する概念である。道徳的命法は、その定言的言明(無条件の当為)を通して、この強制を告知する。人間は自らの傾向性の抵抗を伴って不本意に道徳法則を行うにすぎないことがあり得るが、この点にこそ本来、強制の存するゆえんがある。にも拘らず人間は自由な存在であるから、義務の概念は、内からの意志の規定(動機)を目指す場合には、法則の表象のみによる自己強制以外ない。というのは、そうすることによってのみ、あの強要を選択意志の自由と結びつけることが可能になるからである。
それゆえ、自然の衝動は、義務の遂行に障碍となる力を含んでいる。人間はその力と戦い、理性によって今ただちに打ち勝てると判断しなければならない。即ち法則が為すべしと命ずることは為し得ると判断しなければならないのである。ところで、不正な敵に対抗する能力と決意とは勇気であり、、我々の内なる道徳的心情の敵に関していえば、徳である。それゆえ、一般義務論は、内に向かった自由を法則のもとにもたらす部分においては、徳論なのである。
しかし我々は、実践理性の概念の中に存在する何かあるものを目的としなければならない。従って法が含んでいるような選択意志の形式的な規定根拠の他に更に実質的な規定根拠を、即ち感性的衝動に由来する目的に対抗できるような目的をもつべきである。そのことこそそれ自身において義務であるところの目的の概念である。しかし、この概念についての学説は、法論には属さないで、倫理学に属するであろう。そしてこの倫理学のみが道徳法則に従う自己強制を自分の概念の中にそなえているのである。
だから、倫理学は純粋実践理性の諸目的の体系として定義され得る。他人は私を強制して、私の目的でないあることをさせることはできるが、私がそれを私の目的にするようにと強制はできない。私はそれを自ら目的にすることなしには、いかなる目的ももつことはできない。
[同時に義務でもあるところの目的の概念の論究]
倫理学は、人間が自分に対して立てるような目的から始めて、その後で人間が選ぶべき格律、即ち人間の義務を自由に指示するということはできない。というのは、この場合に選ばれる格律の根拠は経験的であって、それ(定言的当為)として純粋理性の内にのみその根源をもつような、いかなる義務の概念も与えないであろうからである。それゆえ、倫理学においては、義務の概念が人を目的へと導き、我々が自分自身に対して立てるべき目的に関する格律を道徳的原則に従って基礎づけなくてはならないであろう。
あらゆる倫理的責務に徳の概念が対応しているが、だからといって必ずしもあらゆる倫理的義務が徳義務であるわけではない。道徳的意志の規定の形式性に関わる義務がそれである。ただ同時に義務であるところの目的のみが徳義務と呼ばれる。それゆえ、徳義務は数多く(さまざまの徳もまた)存在するが、これに対して倫理的義務についてはただ一つの、しかもあらゆる行為に妥当する有徳な心情が考えられるだけである。
[同時に義務でもあるところの目的を考える根拠について]
目的とは、自由な選択意志の対象であって、それを表象することが選択意志を或る行為へと規定するゆえんであり、そうすることによってかかる目的が実現されるのである。何か目的をもつということは、行為する主体の自由の作用であって、自然の働きではない。しかし、目的を規定するこの作用は、手段を命ずるのではなく、目的そのものを命ずる実践的原理であるから、それは純粋実践理性の定言命法であり、従って義務概念を目的一般の概念と結びつけるところの命法なのである。
ところで、このような目的とそれに対応する定言命法とは存在している。自由な行為が存在しているのであるから、その行為が向けられる対象としての目的も存在しているはずだからである。しかし、これらの目的の中には、同時に義務であるところの目的もまた若干存在しているはずである。もしそれが全く存在しないとすれば、いかなる行為も無目的ではありえないのであるから、あらゆる目的は、実践理性にとっては常にただ他の目的のための手段としてのみ妥当することになり、定言命法などというものは不可能になってしまうであろうからである。このことはあらゆる人倫の学を廃棄してしまうことである。
それゆえ、ここでは人間が自分の目的としなければならない、自由な選択意志のその法則のもとにおける対象が問題なのである。それは純粋実践理性の中にア・プリオリに与えられる諸原理に基く、道徳的目的論と呼ばれなくてはならない。
[同時に義務でもあるところの目的とはなにか]
それは、自己の完成、他人の幸福である。それを逆に、自己の幸福と他人の完成とを、同一人格の義務であるような目的とすることはできない。各人が自ら意欲するものは、義務の概念には属さない。だから、人が自分自身の幸福を全力を挙げて推進すべく義務付けられているというのは自己矛盾である。また、或る他人の人格としての完成とは、まさに本人自身が自分の義務についての考えに従って自ら目的を立てることができるという点にこそ存するのであるから、本人以外の他に誰にもできないことを私がなすべきであると要求することは矛盾である。
[これら二つの概念の解明]
それを自分の目的とすること自体が義務である自己の完成は、自然から受け取ったものの内ではなく、自己の所為の結果の内に置かれるべきである。そうでなければ、完成は義務ではないことになる。それゆえ、完成は、人間の能力の開拓である。そしてこの能力の中では、悟性が最上のものである。それは悟性が概念の能力であり、従ってまた義務にかかわる概念の能力だからである。しかし完成はまた、あらゆる義務一般を全うするという人間の意志(道徳的心構え)の開拓でもある。人間の意志の開拓を高揚して最も純粋な徳の心情(そこでは法則が同時に彼の義務に適った行為の動機になる)にまで向上させること、そして義務からしてその法則に従うこと、このことこそ内的なる道徳的ー実践的完成なのである。それは、人間の内なる自己立法的意志が法則に従って行為するように能力に働きかける結果の感情であるから、道徳感情と呼ばれる。それはいわば特殊な感官(道徳感覚)である。
幸福、即ち自分の状態に満足すること、その存続を確信する限りで憧れ、そして求めるということは、人間の本性にとって避け難いことである。しかし、まさにその理由でそれは同時に義務であるところの目的ではないのである。それゆえ、私の目的として促進することが義務であるような幸福が問題になるとすれば、それは、他人の幸福でなければならない。何を幸福とするかの判断は、他人自身に委ねられているが、私がそれを認められない事柄について、他人がそれを私から要求する権利がないとしたら、私もそれを拒否できる。
不快なこと、苦痛や欠乏は、自分の義務への違反へと導く大きな誘惑である。裕福、強壮、健康及び一般に幸せなどはそうした影響力に対抗するものであって、それらは、この主体から、道徳性を保持するという目的の、同時に義務を促進する上での障碍を取り除く手段として許される。
[倫理学は、行為に対して法則を与えるのではなく、ただ行為の格律に対して法則を与えるだけである]
定言命法における義務の形式的原理「汝の行為の格律が普遍的法則となりうるように行為せよ」は、倫理学において、汝自身の意志の法則として考えられているのであって、他人の意志でもまたあり得るような意志一般の法則としては考えられていない。もしそうなら、その法則は、法の義務を与えることになろうが、それは倫理学に属するものではない。
同時に義務であるところの目的の概念は、倫理学特有の概念であって、それのみが誰でもが持っている主観的目的を、誰でもが自分の目的となすべき客観的目的に従属させる限りで、行為の格律に対する法則を基礎づけるところのものである。いかなる自由な行為も、行為する者が選択意志の実質としての目的を顧慮しなければ可能ではないから、同時に義務であるところの目的がある以上は、行為の格律は、目的に対する手段として、ただ普遍的立法を成し得るという資格の条件を含んでいなくてはならないことになる。これに対して、同時に義務であるところの目的は、このような格律を持つことを法則となし得るが、格律そのものにとっては、普遍的立法に一致するという単なる可能性だけですでに十分なのである。
というのは、行為の格律は、意のままであることができ、行為の形式的原理としての普遍的立法を成し得るという条件のもとにのみ制約されるからである。
[倫理的義務は広い責務に属するが、法の義務は狭い責務に属する]
広い義務は、行為の格律に例外を許す意味ではなく、普遍的な隣人愛を親孝行によって表わすように、或る義務の格律を他の義務の格律によって、制限するのを許すことを意味するのである。このことで徳の実践のための領域が拡大されるのである。道徳的意図の強さのみが本来、徳と呼ばれ、道徳的強さの欠如は、悪徳というより不徳である。義務に反する行為は違反といい、原則にまでなってしまった故意の違反は、悪徳である。
他人は法則に適った行為を私から要求できるが、しかし、この法則が同時に行為への動機をも含むように私に要求できない。「義務からして、義務に適った行為をなせ」という普遍的な倫理的命令についても、事情はまさに同様である。法則それ自身を動機とするような、法則への尊敬という、このような心情を自らの内に培い、それを鼓舞することは功績に価する。というのは、人間はそうすることによって人間性の、或はまた人間の道徳法則を自己の目的とするのであり、そしてこれによって自分の義務概念を、負い目の概念を越えて拡大するからである。
これらの義務には、その倫理的報酬、即ち道徳的快感という主観的原理が存在するが、それは自己満足を超えている。他人の幸福を自分の幸福とするような自然な目的を促進することは、甘美な功績と呼ぶことができよう。しかし、他人のための真の幸いを、当の他人が認めない、忘恩の徒に対しても、なお促進するという辛い功績は、一般にこのような反応をもたず、ただ自己満足だけを作り出す。この場合の功績は一層大きいものがあるであろう。
[広い義務としての徳の義務の究明]
あらゆる能力一般を、理性によって掲げられた目的の促進のために開拓するという自然的完成は、自分の自然本性の粗野な素質を変え、自らを人間性に価するものにするための義務である。この義務は単に倫理的であり、広い責務に属しているが、人々の置かれたさまざまな状況により、人がそのために自分の才能を開拓しなけければならない仕事の種類を極めて気紛れなものにしているのである。それゆえ、ここでは行為に対する理性のいかなる法則も存在しないで、ただ行為の格律に対する法則のみが存在するのである。そしてその格律は、「汝が出会うことのあり得るあらゆる目的に対して役立つように、それらの目的の内でいずれが一度でも汝の目的となりうるか疑わしいにしても、汝の情意及び身体の諸力を開拓せよ。」である。
また、自分の行為の価値を、ただ適法性という見地からばかりでなく、心情という道徳性の見地からも評価するというこの義務もまた広い責務にのみ属する。法則は、このような人間の心意そのものの内に宿る内的行為を命ずるのではなく、ただ義務という観念がそれだけであらゆる義務に適った行為への十分な動機であるように、全力を挙げて志向せよという行為の格律のみを命ずるのである。
自己自身の幸福を犠牲にして、他人の幸福を促進するということは、それが普遍的な法則になった場合、それ自体において矛盾する格律になるから、この義務は単に広い義務である。法則は、ただ格律にのみ妥当するのであって、一定の行為に対しては妥当しない。
他人の道徳的幸せもまた他人の幸福に属する。これを促進することは、我々の義務であるが、消極的義務にすぎない。他人が良心の呵責に苦しめられないように防いでやることは、当人の事柄であるとはいえ、そこにはやはり私の広い意味での責務がある。
[徳の義務とは何か]
徳とは、人間が自分の義務を励行する際の格律の強さである。あらゆる強さは、それが克服することのできる障碍を通してのみ知られる。しかし、徳においては、これらの障碍に当たるものは、道徳的意図と衝突することもあり得る自然の傾向性である。そして、人間は自分の格律にこのような障碍を置いて妨害するものであるから、徳とは、ただ単に自己抑制であるばかりではなく、なぜなら、その場合には自然の傾向性が他の傾向性を抑制しようとすることもあるから、内的な自由の原理による、従って自由の形式的な法則に従って自分の義務を単に表象することによっての強制なのである。
また倫理的義務の道徳的能力は徳と呼ばれ、このような法則に対する尊敬の心情から由来する行為は、たとえ法則が法の義務を表明している場合でも、徳の行為と呼ぶことができる。というのは、人間の法を神聖に保つように命ずるものは、徳論だからである。
徳の義務は、格律の実質、即ち同時に義務として考えられるところの目的に向かう。それゆえ、法に適った目的の異なるに従って多くの異なった義務が存在するが、それらが徳の義務である。
徳論の最高原理は、「諸目的を持つということが普遍的法則であり得るような格律に従って行為せよ」である。この原理によれば、人間は、自分をも含むところの人間一般を自分の目的とすることが、それ自体としての人間の義務なのである。
この徳論の原則は、定言命法であるから、いかなる証明も許さないが、しかし純粋実践理性からの演繹は、これを許すのである。純粋実践理性は、諸目的一般の能力であるから、人間の目的であり得るものについてこの理性が無関心であることは矛盾である。なぜなら、その場合、その理性は行為への格律を規定することもなく、その結果として、いかなる実践理性でもないであろうからである。
[法論の最高原理は分析的であったが、徳論のそれは綜合的である]
外からの強制は、それが普遍的法則に適合する外なる自由を妨げるものに対抗する防御である限り、諸目的と共存できるということは、矛盾律に照らして明らかである。そこで我々は自由の概念を透見するために、自由の概念を超え出る必要はないから、最高の法の原理は分析命題なのである。
これに対し、徳論の原理は、外なる自由の概念を超え出て、その概念に更に義務としての目的を結びつけるから、この原理は綜合的である。このような義務の概念の拡張は、およそ法が度外視する諸目的が純粋実践理性によって立てられるという点を本質としており、またその点で法の義務を超えて高められるのである。この目的は我々が現に持っているものではなく、持つべきものであり、その意味では、純粋実践理性が自らの内に持っているところのものである。人間は道徳的強さとしての徳へと義務づけられている。その能力は、その自由のゆえに前提することができ、またしなくてはならないにせよ、やはりこの能力は、強さとして、まさに道徳的動機が我々の内なる純粋理性の尊厳の省察によって、同時にまた訓練を通じて、高められるという仕方で、獲得されなければならないものである。
[義務概念一般に対する情意の感受性の感性的基礎概念]
道徳的感情、良心、隣人愛及び自己自身に対する尊敬は、義務概念に対する感受性の主観的条件として道徳性の根底にあり、自然的な情意の素質である。これらの素質を所有することが義務とは見なされ得ないのは、各人がすでにそれらを所有しており、各人が義務付けられるのもそれらの力によることだからである。これらの素質の意識は、道徳法則の情意への影響として、道徳法則を意識することの結果でのみあり得るのである。
道徳的感情とは、純粋実践理性及びその法則によって選択意志が動かされることに対して自由な選択意志がもつ感受性であり、また我々の行為と義務の法則との一致或は矛盾を意識するということからのみ生じる快・不快に対する感受性である。あらゆる責務の意識は、この感情を根底に置いており、そうすることによって、義務概念に宿る強要を自覚するに到るものだからである。
非良心的ということは、良心の欠如ではなく、良心の判断を気にかけないという性癖である。
愛は感覚の事柄であって、意欲のそれではないから、愛するという義務は実在しない。しかし、好意は、行動であるから、義務の法則のもとへ置くことができる。だが、人は利己的でない好意をも愛と呼ぶ。しかし、あらゆる義務は強要であり、たとえそれが法則による自己強制であっても、そこからは愛は生まれないのである。親切を施すことは義務である。この義務を遂行し全うする人は、結局のところ相手を実際には愛しているという結果になっている。
自尊の感情とは、人間の内なる法則が人間から不可避的に自己自身の本質に対する尊敬を強要することである。そして、この特殊な感情は、或る種の義務、即ち自己自身への義務と両立し得る或る種の行為の根拠である。とはいえ、人間は自己に対する尊敬の義務を持っている、ともいえない。というのは、人間は、自ら義務一般を考えることができるためだけにも、自己自身の内における法則に対する尊敬をもたなくてはならないからである。
[純粋な徳論を取り扱う場合の人倫の形而上学の一般的原則]
一つの義務に対しては、唯一の義務付けの根拠だけを見出すことができる。というのは、あらゆる道徳的証明は、哲学的証明であるから、ただ概念からの理性認識を媒介としてのみ行われ得るのであって、数学のような概念の構成によって行われ得るものではないからである。後者は、同一の命題について数多くの証明を許すが、それはア・プリオリの直観においては、一つの客体の性質について、すべてが同一の原理に帰着するような数多くの規定があり得るからである。
また、徳と悪徳との区別は、或る格律を尊奉する度合いの内に求めることはできない。それは、その格律の特殊な質(法則との関係)において求められなくてはならない。換言すれば、徳を二つの悪徳の中間に置くという、アリストテレスの称賛されている原則は誤りである。全て過度なるものは悪徳に変えられん、ものには節度があり、中道を行くのが正しい、とかいう古典的な言い回しは、浅薄な知恵を含んでいるにすぎない。悪徳としての貪欲が、徳としての倹約と区別されるのは、後者があまりに広範囲に及んでいるという点にあるのではなく、全く他の原理(格律)をもっているということ、つまり家政の目的を、自分の財産を享受することの中にではなく、むしろそれを断念してただそれを所有することの中に置くという点においてである。両者の格律は別であって、必然的に矛盾するのである。
最後に、倫理的義務は、法則を全うするという人間に与えられた能力に従って評価されてはならない。逆に、道徳的能力は、定言的に命ずる法則に従って評価されなくてはならない。つまり、我々人間が現にいかにあるかについてもっている経験的な知識によってではなく、人間が人間性の理念にふさわしくいかにあるべきであるかについての合理的知識によって評価されなくてはならないのである。
[徳一般について]
徳とは、意志の道徳的強さを意味する。しかし、このような強さは、全てを法則に適って進んで行うという神聖な存在にも当然帰属し得るから、むしろ徳とは、自分の義務を尊奉することの内に存する人間の意志の道徳的強さである、と言わねばならない。そして、義務は、法則を実行する強制力そのものにまで自らを構成する限りでの、人間自身の立法的理性による道徳的強要なのである。その理性は、それ自身として義務ではなく、或はまた理性を持つということも義務ではない。さもなければ、義務のための義務付けが必要になるからである。むしろ、理性は命令する。そして道徳的な強制を通して、自分の命令に付随するのである。しかし、強制は抗い難いものであるから、そのためには強さが必要である。そして、その強さの度合いを、我々はただ、人間が自分の傾向性によって自らに作り出す障碍の大きさによってのみ測ることができるのである。悪徳は、法則に背く心情の輩であるから、今や人間がそれと闘わなくてはならない怪物である。そえゆえ、この道徳的強さもまた、勇敢として、人間の最大にして唯一の、真なる武勲を形作るのである。そしてまた、それは本来の、即ち実践的な知恵とも呼ばれる。なぜなら、それは、地上における人間存在の究極目的を、自分の究極目的とするものだからである。このような道徳的強さを所有しているときにのみ、人間は自由であり、健全であり、豊かであり、王者である。そして偶然や運命によって損なわれ得ない。なぜなら、人間は自己自身を所有しており、有徳なる者が自分の徳を失うことはありえ得ないからである。
道徳的に完成した人間性の理想に該当するあらゆる称賛は、人間が現にあり、かつあった、そして多分未来においてあるであろう反証の実例をもってしても、その実践的な実在性をいささかも失うことはあり得ない。そして、単なる経験認識に由来するところの人間学は、無条件的に立法する理性によって立てられる人間規範学にいささかの損害をも与えることはありえないのである。しかも、いかに徳がときおり功績あるものと言われ、報償に価するものであり得ようとも、それはやはりそれ自身として、自己自身の目的であるというのと同様に、自己自身の報償としても看なされなくてはならないのである。
それゆえ、徳は、全き完成の姿において観られるならば、人間が徳を所有するというのではなく、むしろあたかも徳が人間を所有するかのように、表象される。
[徳論を法論から区別する原理について]
人倫の学一般の上位区分の基礎ともなっているこの区分は、法論と徳論に共通する自由の概念が、外なる自由の義務と、内なる自由の義務という区分を必然的ならしめるということ、(そしてその内で後者のみが倫理的である)に根拠をもっている。しかし、内なる自由のためには、二つの事柄が必要とされる。自らを制御する心と自分自身を支配すること、即ち克己である。この二つの状態における性情は高貴であるが、逆の場合は卑賎で奴隷的な根性である。
[徳にはまず克己が必要とされる]
激情は、反省に先立ち、反省そのものを不可能にしてしまう限りでの感情に属している。それはただ不徳であるにすぎず、いわば何か子供っぽい、弱々しいものにすぎない。それは、最善の意志ともよく両立し得るものであり、しかもこの激情はすぐにおさまるのである。従って、激情への性癖は、煩悩ほどには悪徳と密接に結び付かない。これに対し、煩悩は、永続する傾向性となった感性的欲望である。安んじて煩悩に耽っていると、いつの間にか居直るための反省が生じ、情意が煩悩に基く原則を立てることを認めるようになる。そして傾向性が違法なものに堕する場合には、煩悩に基く原則について企み、それを深く根差したものとし、そうすることによって、故意に、悪を自分の格律の中に取り入れさせるのである。この場合にこそ、それは悪にふさわしい悪、即ち本来の悪である。
それゆえ、徳は、内なる自由に基くものである限り、人間に対する克己という命令を含み、この肯定的命令が、自分の感情や傾向性によって支配されるな、という禁止令(非情の義務)に付け加わるのである。
[徳には(強さと看なされる)非情が必然的に前提される]
非情は、選択意志の対象に関する主観的無関心を意味するかに解され、悪評が高かった。それは弱さと見なされてきたのである。このような誤解は、無関心とは区別されるべき無激情を、道徳的非情と名付けることによって、予防することができる。というのは、感性的印象に由来する感情が道徳的感情に及ぼす影響を失うのは、法則に対する尊敬が総じてこれらの感情を力において凌ぐことによってだけだからである。善に対する生き生きした共感さえも激情にまでたかぶらせ、或はむしろ激情にまで堕落させるのは、熱病患者の見せかけの強さにすぎない。この種の激情は熱狂と呼ばれ、人が自ら徳を実行するために推称するのを常とする節制の意味もまたそれとの関連において考えられているのである。徳の真の強さは、情意が徳の法則を実行しようという慎重にして確固たる決意に安んじている状態である。それは道徳的生活における健康の状態である。それに対し、激情は、たとえそれが善の表象によって刺戟される場合ですら、瞬間的にきらめく現象にすぎず、それは後に倦怠を残すものである。
道徳的格律は、技術的格律とは異なり、習慣に基かない。というのは、格律を習慣に基けるということは、自分の意志を規定する自然的性質に属するものとするからである。むしろ、格律の実行が習慣にでもなることがあろうものなら、主体は、そうすることによって、自分の格律の採用にあたって自由を失うことになるであろう。しかし、この自由こそ義務に由来する行為の性格なのである。
第一篇 倫理学原理論
第一部 自己自身に対する義務一般について
序論
[自己自身に対する義務の概念は(一見したところ)矛盾を含んでいる]
義務付ける私と義務付けられる私とが同一の意味、即ち受動的でありながら、同時に能動的であるような意味において解せられるならば、自己自身に対する義務は矛盾を含んでいる。にも拘らず自己自身に対する人間の義務は存在する。
[この見せかけの二律背反の解明]
人間は、義務を意識するとき、自分がこの義務の主体として、感性的及び理性的存在として、二重の性質を具えていることを認める。いかなる感覚でもこの理性的存在には到達しない。それは、自由という性質が理性の内なる立法的意志に及ぼす影響を通じて明らかにされる場である道徳的ー実践的関係においてのみ認められるのである。
ところで、人間は理性的な自然存在(現象人)である限りは、自分の理性が原因になって感性界における行為へと規定され得る。その場合まだ責務という概念は考慮されていない。しかし、人格性という面から見ると、即ち内なる自由を具えた存在(英知人)として考えられると、自分自身に対する責任を負うことのできる存在として見られる。そこで、二重の意味において観られた人間は、人間の概念が同一の意味で考えられているわけではないから、自己矛盾に陥ることはなく、自己自身に対する義務を認めることができるのである。
[自己自身に対する義務の区分の原理について]
この区分は義務を負う主体に関してではなく、義務の客体に関してのみ、行うことができる。義務付けられる主体も、義務付ける主体も人間以外のものではあり得ない。経験によっても、理性的推論によっても、肉体と区別された霊魂について我々は十分に知ることはできないから、それを人間を義務付ける実体の差異として考え、義務を肉体に関するものと、霊魂に関するものとに区別することなどは、およそ考えられないのである。
(1)従って、自己自身に対する義務をその形式的な事柄と実質的な事柄に分ける客観的区分のみがあることになる。それらの内で一方は制限的(自己自身に対する消極的義務)であり、他方は拡張的(自己自身に対する積極的義務)である。前者は、人間に自分の本性の目的に関して逆らって行為することを禁じており、道徳的自己保存のみを目指すが、後者は、選択意志の或る種の対象を自分の目的とするよう命じており、自分自身の完成を目指しているのである。これらの義務は両者とも、不作為義務(例えば苦痛に耐えよ、快楽を捨てよ)か、作為義務(許された力を用いよ)かであるが、いずれにしても徳の義務として徳に属するのである。前者は、自分の外官ならびに内官の対象としての人間の道徳的健全さに属しており、自分の本性をその受容性としての完全性において保持しようとするものである。後者は、あらゆる目的を遂行するのに、それが獲得されるものである限り、十分な能力を所有するところに成り立ち、そして自己自身の能動的完成としての開拓に属するところの道徳的裕福に属しているのである。自己自身に対する義務の第一の原則は、自然に順応して生きよ、即ち汝を汝の本性の完成の内に保持せよ、という格言の内に宿っており、第ニの原則は、単なる自然が汝を創造した以上に、汝を完全なものにせよ、という命題の内に宿っている。
(2)人間の自己自身に対する義務の主観的区分が存在する。その区分に従って、義務の主体は動物的(自然的)であると同時に道徳的でもある存在として見るか、或は単に道徳的な存在としてのみ見るのである。
人間の動物性に関しては、自然の衝動は、自然がそれを通して自己自身の保存を意図する衝動、種族の保存を意図する衝動、快適としてなおただ動物的な生の享受のための能力の保存を意図する衝動の三つであるが、この場合の悪徳は、自殺、性愛について行われる不自然な使用、そして自分の力を合目的的に使用するための能力を弱める暴飲暴食である。
しかし、道徳的存在としての自己自身に対する人間の義務に関していえば、それは、人間の意志の格律が、彼の人格の内に宿る人間性の尊厳と一致するという形式的な事柄において成り立っている。それゆえ、人間が、道徳的存在であるという特典、即ち原理に従って行為するという特典、換言すれば、内なる自由を自ら放棄し、そうすることによって自らを単なる傾向性の遊戯の対象とし、そして遂に物件にしてしまってはならない、という禁止において成り立っていることになる。この義務に対する悪徳は、虚言、貪欲、誤れる謙遜(卑屈)である。これらの悪徳は、道徳的存在としての彼ら人間の性格、即ち人間の生まれながらの尊厳である内なる自由に真っ向から(すでに形式からして)矛盾するところの原則を取り入れている。換言すれば、これらの悪徳は、いかなる原則も同様にまたいかなる性格ももたないこと、即ち自ら品位を落として、自分を軽蔑の対象とすることをもって、己の原則としているのである。これらの悪徳に対立する徳は、名誉愛(内的名誉、正しい自重)と呼ぶことができよう。これは、極めて卑しいものであり得る名誉欲とは雲泥の差のある心構えである。
第一巻 自己自身に対する完全義務について
第一章 動物的存在としての自己自身に対する人間の義務
動物性として人間の自己自身の対する、最も重要というわけではないが、最初のものとしての義務は、動物的本性を具えた自己の保存である。この義務に反する行為は、自殺と、自分を不具にする実質的毀損と、自分の諸力を肉体的に(それによって間接的には道徳的にもまた)使用する能力を(永久に或は暫くの間)自ら奪うという形式的毀損に分かれる。この章では、ただ消極的義務についてのみ、従って不作為のみが問題となるのであるから、義務条項は、自己自身に対する義務に対抗するものとして措定されている悪徳に対して向けられていなければならないであろう。
[自殺について]
自殺は犯罪である。このことは、神を含めた他者への義務違反としてみることができるかもしれないが、ここで問題になるのは、自分自身に対する義務の毀損についてだけである。即ち、たとえ私が他者を全て無視しても、なお人格であるというだけですでに、自分の生命を保持する義務があり、しかもこの点にこそ自己自身に対する一つの義務を承認しなければならないのではないか、が問題なのである。
人間が自分を侮辱できるというのは、不合理であるかに見える。そこで、ストア学徒は、自分が人生においてもはや何の役にも立たないという理由で、進んで人生から、煩わしい禍に悩まされることなく、心安らかに立ち去ることを、賢者であるという自分の人格のあり方の特権と見なしたのである。しかし、死を恐れず、人生よりももっと高く評価できる何かを知っているという、この勇気、この心の強さは、自ら生命を奪わないほどの一層偉大な動因でなければならなかったはずであろう。
人間は生きている限り、人格であることを免れることはできない。そこで人間が、あらゆる責務を免れている権能があるというのは矛盾である。自己自身の人格性の主体を絶滅するというのは、道徳性そのものを、この世から根絶するというのに等しい。また、殉教や祖国のための殉死は英雄的行為かどうかという決議論的問題もある。
[情欲について]
生命への愛が自然によって人格を保持するように定められているように、性への愛は、種族を保持するように自然によって定められている。即ち両者はそれぞれ自然目的である。そこで問題は、種族維持の目的を目指すことなしに、単に動物的快感にその能力を使用する権能があるか、またそうすることが自己自身に対する義務に逆らって行為することにならないか、ということである。この感性的衝動は、むしろ肉欲の享受を遠ざける好感の愛とも好意の愛とも違う、煩悩に属す、情欲(肉欲)とも呼ばれ、それによって作り出される悪徳は淫乱といわれるが、これに関する徳は、貞淑と呼ばれる。情欲が不自然だといわれるのは、人間が現実の対象によってではなく、対象を想像することによって、それゆえ目的に反して自ら対象を作り上げることによって、それへと駆り立てられるという場合においてである。というのは、この場合、情欲は自然の目的に反する欲望を惹き起こすからである。自らを全く動物的な傾向性にゆだねてしまう情欲は、人間を、享楽され得る、しかしその点で自然に反する物件、嘔吐を催させるような対象にしてしまい、自己自身に対するあらゆる尊敬を奪ってしまう。
[嗜好品或はまた飲食物を使用する場合の不節制による自己麻酔について]
この種の不節制の悪徳は、それによって招く損害や病気からは評価されない。もしそうなら、それを阻むべきものは、健在と心持ちのよさ(幸福)の原理ということになるが、このような原理では怜悧の規則を基礎付けられても、決して義務を基礎付けることはできない。この場合の不節制は、嗜好品の濫用であって、これにより嗜好品を知性的に利用するという能力が阻まれ、或は涸らされてしまうのである。
諸国家は、相互の外的関係において見れば、もともと法的状態になく、この状態は、どちら側の国家も事態を改善しようとはせぬのであるから、たとえ実際の戦争ではないにせよ、戦争の状態であって、相互に隣り合っている諸国家はこの状態から脱するよう拘束されている。よって内政に干渉するのではなく、あくまで外的の攻撃に対して防衛し合うためのものとして、或る根源的社会契約の理念に基く国際同盟が必然的である。ただしこの結合は主権的権力を含んではならず、ただ提携(連合)だけを含まなくてはならぬ。
国家は国民に対し、いかなる権利を有することによって、彼らを戦争に送り込めるのか。
国民なるものは、国家において常に、立法に参与する成員として(単に手段としてではなく、また同時にそれ自身目的として)考えられなくてはならず、それゆえ、戦争を行うことに対してのみならず、宣戦布告に対しても、国民の代表者達を介して、国民がその自由な賛意を与えるという手続きがなくてはならず、こういう制限的条件のもとでのみ国家は国民の危険に充ちた役務を意のままに用いることを得るのである。
諸国家の自然状態においては、戦争への(敵対行為への)権利は、或る国家が或る他の国家に対して、即ち後者によって侵害されたと信ずる場合に、自身の威力によって自らの権利を追求するための許容された方法である。なぜなら、こういう権利の追求は訴訟によって行われ得ないからである。行動的侵害の他に、脅威としての侵害がある。恐るべき勢力に増大した強大国が何の行動にも出ないにせよ、単にその状態によって弱小国を侵害することがあり得る。それゆえ、これに基いて、相互に行動的接触を有する一切の諸国家の均衡の権利が成立する。
戦争は、諸国家のそういう自然状態から脱して、或る法的な状態を結成することを、依然として可能ならしめるような諸原則に従って行われなくてはならない。独立の諸国家相互の戦争は、懲罰戦争でもありえない。懲罰は命令者の服従者に対する関係においてのみ行われ、諸国家相互の関係はこういう関係ではないからである。しかしまた、殲滅戦争でもありえず、征服戦争でもありえない。国際法の理念は、自らのものを保持するための、外的自由の諸原理に従う敵対関係という概念を含むだけで、或る国家の勢力を増大させることにより他の国家にとって脅威となり得るような取得方法を含むものではない。
あらゆる防御手段が反撃として許されるが、国際法に従う国家関係において一個の人格と見なされる資格を失わせるような、永続的な平和を将来において樹立するための信頼を無にするような陰険な手段(スパイ、暗殺、虚偽情報流布など)は許されない。
戦争中には、打ち負かした敵の人民から略奪することは許されない。なぜなら、打ち負かされた人民ではなくて、この人民を統治する国家が、この人民によって戦争を行ったのだからである。
戦勝者は、敗戦者と合意して講和条約の締結に達すべく談判が行なわれる際に準拠されるべき諸条件を定めるが、それも、相手側から侵害を蒙ったと称して、そのゆえに戦勝者に帰属するとされるような、何か或る権利を盾に取ることによってではなく、この問題は不問に付したまま、戦勝者の威力に依拠して行われるのである。それゆえ、戦勝者は戦費の賠償を求め得ない。なぜなら、もしこれを求めるとすれば、戦勝者はその相手方の戦争を不正と称しなくてはならぬだろうからである。そして、たとえ戦勝者はこういう論証を考え付き得るにしても、それを用いてはならぬ。なぜなら、さもないと戦勝者はこの戦争を処罰戦争と宣言することになり、かくて今度は相手側に侮辱を与えることになるであろうからである。
言葉によるにせよ行為によるにせよ、公然と表示された意志が、それが普遍的規則とされた場合、国際間の平和状態が不可能になって、自然状態が永遠化されざるを得ないであろうような格律を示すとすれば、そういう者は不正の敵である。それによって一切の諸民族がその自由を脅かされ、そのゆえに、こういう不正に連携して対抗し、この不法者から不正な力を剥奪すべく促される。しかし、そういう連携とても、この不法者の国土を分け合って、一つの国家を消滅させるためのものであってはならない。そういうことは、一個の公共体を結成するという自己の根源的権利を喪失し得ない当該民族に対する不正である。
諸民族の自然状態一切の権利は、そこから脱して、或る法則的状態が結成されるべき状態であるから、単に暫定的であり、かくてそれは、ただ一個の普遍的な諸国家の統一においてのみ、決定的に有効となって、或る真実の平和状態を現出され得るのである。永遠平和は現実不可能な理念ではあるが、それを目標とする政治的諸原則は実現不可能ではない。
第三節 世界公民法
相互に作用的関係に入り得るところの地上の諸民族の、平和的で汎通的な共同という理性理念は、博愛的(倫理的)なものではなくて、ひとつの法的原理である。自然は全ての民族を地球という限界の内に閉じ込めたのであって、かくて、地上の住民がその上で生存し得るところの土地の占有は、ただ全体の一部分の占有であるから、一切の民族は根源的な土地の占有の法的な共同の内に、また諸民族相互の交通の意志のあることを通じ合うべき汎通的関係の内にあり、従って一切の民族はそういう交通の権利を有し、その権利は、それが一切の民族の可能的な交通の何らかの普遍的な法則を目指すところの、こられ諸民族の可能的統合に関する限り、世界公民的権利と呼ばれ得る。
植民が先住民族の住居地から遠く隔たった所で行われ、他の民族に損害を与えない場合には、植民をなす権利には疑問の余地はないが、それでも植民は力ずくではなく、契約によって行われるべきであり、それも先住民の無知につけ込んではならない。力ずくが未開の民族を開化させるためという、いわゆる善き意図も、そのために使われた不正な手段という汚点を拭い去るものではないから、そういう弁明も見せかけにすぎない。
結論
永遠平和の樹立、それはひとつの敬虔な願望に留まるにせよ、それを目指して不断に努力するという格律を想定したからといって、私達が自己を欺くことには決してならない。こういう格律は義務だからである。それに対し、私達の内なる道徳法則を欺瞞的なものと想定することは、むしろ一切の理性を喪失し、自己を自己の諸原則の点で動物類とともに自然と同じ機構にあると見なしたいという、嫌悪すべき願望を生ぜしめるであろう。
永遠平和の樹立は、単なる理性の限界内における法論の一部をなすのみならず、その全目的を成す。というのは、平和状態のみが、憲政組織の内にある状態だからである。だが、この憲政組織は、経験からではなく、理性によってア・プリオリに、人間達の法的結合の理想から取ってこられるのではなくてはならない。諸法則の支配する憲政組織という理念は、崇高な形而上学的理念であり、また最も確実な客観的実在性を有するものであり、それは事あるごとに容易に立証されるのであって、そしてまたこの理念のみが、もしそれの実現が、瞬間的にでも無政府状態を生ぜしめる革命でなく、漸次的改革によって遂行されるならば、連続的接近という形で、最高の政治的善へと、つまり永遠平和へと導きうるのである。
補遺 法論の形而上学的基礎論への註釈的覚書
[物権的債権という概念の弁明]
物権的債権の定義は「自分以外の或る人格を自分のものとして有するという人間の権利」であるが、この場合の自分のものとは、或る他人の人格に対する所有権としてのそれを意味するのではなくて(というのは、およそ人間は自分自身の所有者ですらありえず、ましてや或る他の人格の所有者ではありえないからである)、さながら或る物件についてなすかのように直接的にこの人格について、ただしこの人格の人格性を毀損することなしに私の目的のための手段として使用をなすという、用益権としての自分のものを意味するにすぎない。
だが、この目的は、使用の適法性の条件として、道徳的に必然的なものでなくてはならない。男女が自分の人格そのものを放棄し相手の人格に委ねるという形で前もって締結されねばなならない、婚姻という条件のものにおいてでなくては、男は、女をさながら物件として享楽したり、また女の方もそのために男に身を捧げることはすべきでない。この条件なくしては、互に食いつくす消費物になり下がるのみである。
[結論]
あらゆる事実は、現象における対象である。それに対し、ただ純粋理性によってのみ提示され得るもの、例えば人間達の間における或る完全な法的憲政組織のようなものは、物それ自体である。
国家的憲政組織一般の理念は、法的諸概念に従って判断する実践理性の各人民に対する絶対的命令として、神聖にして抵抗すべからざるものである。かくて、たとえ国家の国家自身による編制に欠陥があるにせよ、国家内のいかなる下位の権力も国家の立法的支配者に反対して暴力的抵抗を提起することを得ないのであって、国家に付着する欠陥は、国家それ自身に対して行う諸改革によって、漸次に排除されなくてはならない。なぜなら、もしそうでなく、専断的な選択意志に従って行動するという臣民の或る反対の格律によるとすれば、善い憲政組織そのものはただ盲目的な偶然によってしか成就され得ないからである。
第ニ部 徳論の形而上学的基礎論
序文
いかなる道徳原理も、何らかの感情を基礎としているということはなく、実は全て人の理性的素質に内在しているところのおぼろげに考えられた形而上学に他ならないのである。義務の命法やそれを自分の行為の道徳的判定に適用することについての思想は、形而上学の基礎原理にまで遡らなくてはならない。それがなければ、徳論の中にはいかなる確実性も純粋さも、人を動かす力さえも全く期待し得ないのである。
徳論への序論
[徳論の概念の論究]
義務の概念は、それ自体ですでに、法則によって自由な選択意志を強要する概念である。道徳的命法は、その定言的言明(無条件の当為)を通して、この強制を告知する。人間は自らの傾向性の抵抗を伴って不本意に道徳法則を行うにすぎないことがあり得るが、この点にこそ本来、強制の存するゆえんがある。にも拘らず人間は自由な存在であるから、義務の概念は、内からの意志の規定(動機)を目指す場合には、法則の表象のみによる自己強制以外ない。というのは、そうすることによってのみ、あの強要を選択意志の自由と結びつけることが可能になるからである。
それゆえ、自然の衝動は、義務の遂行に障碍となる力を含んでいる。人間はその力と戦い、理性によって今ただちに打ち勝てると判断しなければならない。即ち法則が為すべしと命ずることは為し得ると判断しなければならないのである。ところで、不正な敵に対抗する能力と決意とは勇気であり、、我々の内なる道徳的心情の敵に関していえば、徳である。それゆえ、一般義務論は、内に向かった自由を法則のもとにもたらす部分においては、徳論なのである。
しかし我々は、実践理性の概念の中に存在する何かあるものを目的としなければならない。従って法が含んでいるような選択意志の形式的な規定根拠の他に更に実質的な規定根拠を、即ち感性的衝動に由来する目的に対抗できるような目的をもつべきである。そのことこそそれ自身において義務であるところの目的の概念である。しかし、この概念についての学説は、法論には属さないで、倫理学に属するであろう。そしてこの倫理学のみが道徳法則に従う自己強制を自分の概念の中にそなえているのである。
だから、倫理学は純粋実践理性の諸目的の体系として定義され得る。他人は私を強制して、私の目的でないあることをさせることはできるが、私がそれを私の目的にするようにと強制はできない。私はそれを自ら目的にすることなしには、いかなる目的ももつことはできない。
[同時に義務でもあるところの目的の概念の論究]
倫理学は、人間が自分に対して立てるような目的から始めて、その後で人間が選ぶべき格律、即ち人間の義務を自由に指示するということはできない。というのは、この場合に選ばれる格律の根拠は経験的であって、それ(定言的当為)として純粋理性の内にのみその根源をもつような、いかなる義務の概念も与えないであろうからである。それゆえ、倫理学においては、義務の概念が人を目的へと導き、我々が自分自身に対して立てるべき目的に関する格律を道徳的原則に従って基礎づけなくてはならないであろう。
あらゆる倫理的責務に徳の概念が対応しているが、だからといって必ずしもあらゆる倫理的義務が徳義務であるわけではない。道徳的意志の規定の形式性に関わる義務がそれである。ただ同時に義務であるところの目的のみが徳義務と呼ばれる。それゆえ、徳義務は数多く(さまざまの徳もまた)存在するが、これに対して倫理的義務についてはただ一つの、しかもあらゆる行為に妥当する有徳な心情が考えられるだけである。
[同時に義務でもあるところの目的を考える根拠について]
目的とは、自由な選択意志の対象であって、それを表象することが選択意志を或る行為へと規定するゆえんであり、そうすることによってかかる目的が実現されるのである。何か目的をもつということは、行為する主体の自由の作用であって、自然の働きではない。しかし、目的を規定するこの作用は、手段を命ずるのではなく、目的そのものを命ずる実践的原理であるから、それは純粋実践理性の定言命法であり、従って義務概念を目的一般の概念と結びつけるところの命法なのである。
ところで、このような目的とそれに対応する定言命法とは存在している。自由な行為が存在しているのであるから、その行為が向けられる対象としての目的も存在しているはずだからである。しかし、これらの目的の中には、同時に義務であるところの目的もまた若干存在しているはずである。もしそれが全く存在しないとすれば、いかなる行為も無目的ではありえないのであるから、あらゆる目的は、実践理性にとっては常にただ他の目的のための手段としてのみ妥当することになり、定言命法などというものは不可能になってしまうであろうからである。このことはあらゆる人倫の学を廃棄してしまうことである。
それゆえ、ここでは人間が自分の目的としなければならない、自由な選択意志のその法則のもとにおける対象が問題なのである。それは純粋実践理性の中にア・プリオリに与えられる諸原理に基く、道徳的目的論と呼ばれなくてはならない。
[同時に義務でもあるところの目的とはなにか]
それは、自己の完成、他人の幸福である。それを逆に、自己の幸福と他人の完成とを、同一人格の義務であるような目的とすることはできない。各人が自ら意欲するものは、義務の概念には属さない。だから、人が自分自身の幸福を全力を挙げて推進すべく義務付けられているというのは自己矛盾である。また、或る他人の人格としての完成とは、まさに本人自身が自分の義務についての考えに従って自ら目的を立てることができるという点にこそ存するのであるから、本人以外の他に誰にもできないことを私がなすべきであると要求することは矛盾である。
[これら二つの概念の解明]
それを自分の目的とすること自体が義務である自己の完成は、自然から受け取ったものの内ではなく、自己の所為の結果の内に置かれるべきである。そうでなければ、完成は義務ではないことになる。それゆえ、完成は、人間の能力の開拓である。そしてこの能力の中では、悟性が最上のものである。それは悟性が概念の能力であり、従ってまた義務にかかわる概念の能力だからである。しかし完成はまた、あらゆる義務一般を全うするという人間の意志(道徳的心構え)の開拓でもある。人間の意志の開拓を高揚して最も純粋な徳の心情(そこでは法則が同時に彼の義務に適った行為の動機になる)にまで向上させること、そして義務からしてその法則に従うこと、このことこそ内的なる道徳的ー実践的完成なのである。それは、人間の内なる自己立法的意志が法則に従って行為するように能力に働きかける結果の感情であるから、道徳感情と呼ばれる。それはいわば特殊な感官(道徳感覚)である。
幸福、即ち自分の状態に満足すること、その存続を確信する限りで憧れ、そして求めるということは、人間の本性にとって避け難いことである。しかし、まさにその理由でそれは同時に義務であるところの目的ではないのである。それゆえ、私の目的として促進することが義務であるような幸福が問題になるとすれば、それは、他人の幸福でなければならない。何を幸福とするかの判断は、他人自身に委ねられているが、私がそれを認められない事柄について、他人がそれを私から要求する権利がないとしたら、私もそれを拒否できる。
不快なこと、苦痛や欠乏は、自分の義務への違反へと導く大きな誘惑である。裕福、強壮、健康及び一般に幸せなどはそうした影響力に対抗するものであって、それらは、この主体から、道徳性を保持するという目的の、同時に義務を促進する上での障碍を取り除く手段として許される。
[倫理学は、行為に対して法則を与えるのではなく、ただ行為の格律に対して法則を与えるだけである]
定言命法における義務の形式的原理「汝の行為の格律が普遍的法則となりうるように行為せよ」は、倫理学において、汝自身の意志の法則として考えられているのであって、他人の意志でもまたあり得るような意志一般の法則としては考えられていない。もしそうなら、その法則は、法の義務を与えることになろうが、それは倫理学に属するものではない。
同時に義務であるところの目的の概念は、倫理学特有の概念であって、それのみが誰でもが持っている主観的目的を、誰でもが自分の目的となすべき客観的目的に従属させる限りで、行為の格律に対する法則を基礎づけるところのものである。いかなる自由な行為も、行為する者が選択意志の実質としての目的を顧慮しなければ可能ではないから、同時に義務であるところの目的がある以上は、行為の格律は、目的に対する手段として、ただ普遍的立法を成し得るという資格の条件を含んでいなくてはならないことになる。これに対して、同時に義務であるところの目的は、このような格律を持つことを法則となし得るが、格律そのものにとっては、普遍的立法に一致するという単なる可能性だけですでに十分なのである。
というのは、行為の格律は、意のままであることができ、行為の形式的原理としての普遍的立法を成し得るという条件のもとにのみ制約されるからである。
[倫理的義務は広い責務に属するが、法の義務は狭い責務に属する]
広い義務は、行為の格律に例外を許す意味ではなく、普遍的な隣人愛を親孝行によって表わすように、或る義務の格律を他の義務の格律によって、制限するのを許すことを意味するのである。このことで徳の実践のための領域が拡大されるのである。道徳的意図の強さのみが本来、徳と呼ばれ、道徳的強さの欠如は、悪徳というより不徳である。義務に反する行為は違反といい、原則にまでなってしまった故意の違反は、悪徳である。
他人は法則に適った行為を私から要求できるが、しかし、この法則が同時に行為への動機をも含むように私に要求できない。「義務からして、義務に適った行為をなせ」という普遍的な倫理的命令についても、事情はまさに同様である。法則それ自身を動機とするような、法則への尊敬という、このような心情を自らの内に培い、それを鼓舞することは功績に価する。というのは、人間はそうすることによって人間性の、或はまた人間の道徳法則を自己の目的とするのであり、そしてこれによって自分の義務概念を、負い目の概念を越えて拡大するからである。
これらの義務には、その倫理的報酬、即ち道徳的快感という主観的原理が存在するが、それは自己満足を超えている。他人の幸福を自分の幸福とするような自然な目的を促進することは、甘美な功績と呼ぶことができよう。しかし、他人のための真の幸いを、当の他人が認めない、忘恩の徒に対しても、なお促進するという辛い功績は、一般にこのような反応をもたず、ただ自己満足だけを作り出す。この場合の功績は一層大きいものがあるであろう。
[広い義務としての徳の義務の究明]
あらゆる能力一般を、理性によって掲げられた目的の促進のために開拓するという自然的完成は、自分の自然本性の粗野な素質を変え、自らを人間性に価するものにするための義務である。この義務は単に倫理的であり、広い責務に属しているが、人々の置かれたさまざまな状況により、人がそのために自分の才能を開拓しなけければならない仕事の種類を極めて気紛れなものにしているのである。それゆえ、ここでは行為に対する理性のいかなる法則も存在しないで、ただ行為の格律に対する法則のみが存在するのである。そしてその格律は、「汝が出会うことのあり得るあらゆる目的に対して役立つように、それらの目的の内でいずれが一度でも汝の目的となりうるか疑わしいにしても、汝の情意及び身体の諸力を開拓せよ。」である。
また、自分の行為の価値を、ただ適法性という見地からばかりでなく、心情という道徳性の見地からも評価するというこの義務もまた広い責務にのみ属する。法則は、このような人間の心意そのものの内に宿る内的行為を命ずるのではなく、ただ義務という観念がそれだけであらゆる義務に適った行為への十分な動機であるように、全力を挙げて志向せよという行為の格律のみを命ずるのである。
自己自身の幸福を犠牲にして、他人の幸福を促進するということは、それが普遍的な法則になった場合、それ自体において矛盾する格律になるから、この義務は単に広い義務である。法則は、ただ格律にのみ妥当するのであって、一定の行為に対しては妥当しない。
他人の道徳的幸せもまた他人の幸福に属する。これを促進することは、我々の義務であるが、消極的義務にすぎない。他人が良心の呵責に苦しめられないように防いでやることは、当人の事柄であるとはいえ、そこにはやはり私の広い意味での責務がある。
[徳の義務とは何か]
徳とは、人間が自分の義務を励行する際の格律の強さである。あらゆる強さは、それが克服することのできる障碍を通してのみ知られる。しかし、徳においては、これらの障碍に当たるものは、道徳的意図と衝突することもあり得る自然の傾向性である。そして、人間は自分の格律にこのような障碍を置いて妨害するものであるから、徳とは、ただ単に自己抑制であるばかりではなく、なぜなら、その場合には自然の傾向性が他の傾向性を抑制しようとすることもあるから、内的な自由の原理による、従って自由の形式的な法則に従って自分の義務を単に表象することによっての強制なのである。
また倫理的義務の道徳的能力は徳と呼ばれ、このような法則に対する尊敬の心情から由来する行為は、たとえ法則が法の義務を表明している場合でも、徳の行為と呼ぶことができる。というのは、人間の法を神聖に保つように命ずるものは、徳論だからである。
徳の義務は、格律の実質、即ち同時に義務として考えられるところの目的に向かう。それゆえ、法に適った目的の異なるに従って多くの異なった義務が存在するが、それらが徳の義務である。
徳論の最高原理は、「諸目的を持つということが普遍的法則であり得るような格律に従って行為せよ」である。この原理によれば、人間は、自分をも含むところの人間一般を自分の目的とすることが、それ自体としての人間の義務なのである。
この徳論の原則は、定言命法であるから、いかなる証明も許さないが、しかし純粋実践理性からの演繹は、これを許すのである。純粋実践理性は、諸目的一般の能力であるから、人間の目的であり得るものについてこの理性が無関心であることは矛盾である。なぜなら、その場合、その理性は行為への格律を規定することもなく、その結果として、いかなる実践理性でもないであろうからである。
[法論の最高原理は分析的であったが、徳論のそれは綜合的である]
外からの強制は、それが普遍的法則に適合する外なる自由を妨げるものに対抗する防御である限り、諸目的と共存できるということは、矛盾律に照らして明らかである。そこで我々は自由の概念を透見するために、自由の概念を超え出る必要はないから、最高の法の原理は分析命題なのである。
これに対し、徳論の原理は、外なる自由の概念を超え出て、その概念に更に義務としての目的を結びつけるから、この原理は綜合的である。このような義務の概念の拡張は、およそ法が度外視する諸目的が純粋実践理性によって立てられるという点を本質としており、またその点で法の義務を超えて高められるのである。この目的は我々が現に持っているものではなく、持つべきものであり、その意味では、純粋実践理性が自らの内に持っているところのものである。人間は道徳的強さとしての徳へと義務づけられている。その能力は、その自由のゆえに前提することができ、またしなくてはならないにせよ、やはりこの能力は、強さとして、まさに道徳的動機が我々の内なる純粋理性の尊厳の省察によって、同時にまた訓練を通じて、高められるという仕方で、獲得されなければならないものである。
[義務概念一般に対する情意の感受性の感性的基礎概念]
道徳的感情、良心、隣人愛及び自己自身に対する尊敬は、義務概念に対する感受性の主観的条件として道徳性の根底にあり、自然的な情意の素質である。これらの素質を所有することが義務とは見なされ得ないのは、各人がすでにそれらを所有しており、各人が義務付けられるのもそれらの力によることだからである。これらの素質の意識は、道徳法則の情意への影響として、道徳法則を意識することの結果でのみあり得るのである。
道徳的感情とは、純粋実践理性及びその法則によって選択意志が動かされることに対して自由な選択意志がもつ感受性であり、また我々の行為と義務の法則との一致或は矛盾を意識するということからのみ生じる快・不快に対する感受性である。あらゆる責務の意識は、この感情を根底に置いており、そうすることによって、義務概念に宿る強要を自覚するに到るものだからである。
非良心的ということは、良心の欠如ではなく、良心の判断を気にかけないという性癖である。
愛は感覚の事柄であって、意欲のそれではないから、愛するという義務は実在しない。しかし、好意は、行動であるから、義務の法則のもとへ置くことができる。だが、人は利己的でない好意をも愛と呼ぶ。しかし、あらゆる義務は強要であり、たとえそれが法則による自己強制であっても、そこからは愛は生まれないのである。親切を施すことは義務である。この義務を遂行し全うする人は、結局のところ相手を実際には愛しているという結果になっている。
自尊の感情とは、人間の内なる法則が人間から不可避的に自己自身の本質に対する尊敬を強要することである。そして、この特殊な感情は、或る種の義務、即ち自己自身への義務と両立し得る或る種の行為の根拠である。とはいえ、人間は自己に対する尊敬の義務を持っている、ともいえない。というのは、人間は、自ら義務一般を考えることができるためだけにも、自己自身の内における法則に対する尊敬をもたなくてはならないからである。
[純粋な徳論を取り扱う場合の人倫の形而上学の一般的原則]
一つの義務に対しては、唯一の義務付けの根拠だけを見出すことができる。というのは、あらゆる道徳的証明は、哲学的証明であるから、ただ概念からの理性認識を媒介としてのみ行われ得るのであって、数学のような概念の構成によって行われ得るものではないからである。後者は、同一の命題について数多くの証明を許すが、それはア・プリオリの直観においては、一つの客体の性質について、すべてが同一の原理に帰着するような数多くの規定があり得るからである。
また、徳と悪徳との区別は、或る格律を尊奉する度合いの内に求めることはできない。それは、その格律の特殊な質(法則との関係)において求められなくてはならない。換言すれば、徳を二つの悪徳の中間に置くという、アリストテレスの称賛されている原則は誤りである。全て過度なるものは悪徳に変えられん、ものには節度があり、中道を行くのが正しい、とかいう古典的な言い回しは、浅薄な知恵を含んでいるにすぎない。悪徳としての貪欲が、徳としての倹約と区別されるのは、後者があまりに広範囲に及んでいるという点にあるのではなく、全く他の原理(格律)をもっているということ、つまり家政の目的を、自分の財産を享受することの中にではなく、むしろそれを断念してただそれを所有することの中に置くという点においてである。両者の格律は別であって、必然的に矛盾するのである。
最後に、倫理的義務は、法則を全うするという人間に与えられた能力に従って評価されてはならない。逆に、道徳的能力は、定言的に命ずる法則に従って評価されなくてはならない。つまり、我々人間が現にいかにあるかについてもっている経験的な知識によってではなく、人間が人間性の理念にふさわしくいかにあるべきであるかについての合理的知識によって評価されなくてはならないのである。
[徳一般について]
徳とは、意志の道徳的強さを意味する。しかし、このような強さは、全てを法則に適って進んで行うという神聖な存在にも当然帰属し得るから、むしろ徳とは、自分の義務を尊奉することの内に存する人間の意志の道徳的強さである、と言わねばならない。そして、義務は、法則を実行する強制力そのものにまで自らを構成する限りでの、人間自身の立法的理性による道徳的強要なのである。その理性は、それ自身として義務ではなく、或はまた理性を持つということも義務ではない。さもなければ、義務のための義務付けが必要になるからである。むしろ、理性は命令する。そして道徳的な強制を通して、自分の命令に付随するのである。しかし、強制は抗い難いものであるから、そのためには強さが必要である。そして、その強さの度合いを、我々はただ、人間が自分の傾向性によって自らに作り出す障碍の大きさによってのみ測ることができるのである。悪徳は、法則に背く心情の輩であるから、今や人間がそれと闘わなくてはならない怪物である。そえゆえ、この道徳的強さもまた、勇敢として、人間の最大にして唯一の、真なる武勲を形作るのである。そしてまた、それは本来の、即ち実践的な知恵とも呼ばれる。なぜなら、それは、地上における人間存在の究極目的を、自分の究極目的とするものだからである。このような道徳的強さを所有しているときにのみ、人間は自由であり、健全であり、豊かであり、王者である。そして偶然や運命によって損なわれ得ない。なぜなら、人間は自己自身を所有しており、有徳なる者が自分の徳を失うことはありえ得ないからである。
道徳的に完成した人間性の理想に該当するあらゆる称賛は、人間が現にあり、かつあった、そして多分未来においてあるであろう反証の実例をもってしても、その実践的な実在性をいささかも失うことはあり得ない。そして、単なる経験認識に由来するところの人間学は、無条件的に立法する理性によって立てられる人間規範学にいささかの損害をも与えることはありえないのである。しかも、いかに徳がときおり功績あるものと言われ、報償に価するものであり得ようとも、それはやはりそれ自身として、自己自身の目的であるというのと同様に、自己自身の報償としても看なされなくてはならないのである。
それゆえ、徳は、全き完成の姿において観られるならば、人間が徳を所有するというのではなく、むしろあたかも徳が人間を所有するかのように、表象される。
[徳論を法論から区別する原理について]
人倫の学一般の上位区分の基礎ともなっているこの区分は、法論と徳論に共通する自由の概念が、外なる自由の義務と、内なる自由の義務という区分を必然的ならしめるということ、(そしてその内で後者のみが倫理的である)に根拠をもっている。しかし、内なる自由のためには、二つの事柄が必要とされる。自らを制御する心と自分自身を支配すること、即ち克己である。この二つの状態における性情は高貴であるが、逆の場合は卑賎で奴隷的な根性である。
[徳にはまず克己が必要とされる]
激情は、反省に先立ち、反省そのものを不可能にしてしまう限りでの感情に属している。それはただ不徳であるにすぎず、いわば何か子供っぽい、弱々しいものにすぎない。それは、最善の意志ともよく両立し得るものであり、しかもこの激情はすぐにおさまるのである。従って、激情への性癖は、煩悩ほどには悪徳と密接に結び付かない。これに対し、煩悩は、永続する傾向性となった感性的欲望である。安んじて煩悩に耽っていると、いつの間にか居直るための反省が生じ、情意が煩悩に基く原則を立てることを認めるようになる。そして傾向性が違法なものに堕する場合には、煩悩に基く原則について企み、それを深く根差したものとし、そうすることによって、故意に、悪を自分の格律の中に取り入れさせるのである。この場合にこそ、それは悪にふさわしい悪、即ち本来の悪である。
それゆえ、徳は、内なる自由に基くものである限り、人間に対する克己という命令を含み、この肯定的命令が、自分の感情や傾向性によって支配されるな、という禁止令(非情の義務)に付け加わるのである。
[徳には(強さと看なされる)非情が必然的に前提される]
非情は、選択意志の対象に関する主観的無関心を意味するかに解され、悪評が高かった。それは弱さと見なされてきたのである。このような誤解は、無関心とは区別されるべき無激情を、道徳的非情と名付けることによって、予防することができる。というのは、感性的印象に由来する感情が道徳的感情に及ぼす影響を失うのは、法則に対する尊敬が総じてこれらの感情を力において凌ぐことによってだけだからである。善に対する生き生きした共感さえも激情にまでたかぶらせ、或はむしろ激情にまで堕落させるのは、熱病患者の見せかけの強さにすぎない。この種の激情は熱狂と呼ばれ、人が自ら徳を実行するために推称するのを常とする節制の意味もまたそれとの関連において考えられているのである。徳の真の強さは、情意が徳の法則を実行しようという慎重にして確固たる決意に安んじている状態である。それは道徳的生活における健康の状態である。それに対し、激情は、たとえそれが善の表象によって刺戟される場合ですら、瞬間的にきらめく現象にすぎず、それは後に倦怠を残すものである。
道徳的格律は、技術的格律とは異なり、習慣に基かない。というのは、格律を習慣に基けるということは、自分の意志を規定する自然的性質に属するものとするからである。むしろ、格律の実行が習慣にでもなることがあろうものなら、主体は、そうすることによって、自分の格律の採用にあたって自由を失うことになるであろう。しかし、この自由こそ義務に由来する行為の性格なのである。
第一篇 倫理学原理論
第一部 自己自身に対する義務一般について
序論
[自己自身に対する義務の概念は(一見したところ)矛盾を含んでいる]
義務付ける私と義務付けられる私とが同一の意味、即ち受動的でありながら、同時に能動的であるような意味において解せられるならば、自己自身に対する義務は矛盾を含んでいる。にも拘らず自己自身に対する人間の義務は存在する。
[この見せかけの二律背反の解明]
人間は、義務を意識するとき、自分がこの義務の主体として、感性的及び理性的存在として、二重の性質を具えていることを認める。いかなる感覚でもこの理性的存在には到達しない。それは、自由という性質が理性の内なる立法的意志に及ぼす影響を通じて明らかにされる場である道徳的ー実践的関係においてのみ認められるのである。
ところで、人間は理性的な自然存在(現象人)である限りは、自分の理性が原因になって感性界における行為へと規定され得る。その場合まだ責務という概念は考慮されていない。しかし、人格性という面から見ると、即ち内なる自由を具えた存在(英知人)として考えられると、自分自身に対する責任を負うことのできる存在として見られる。そこで、二重の意味において観られた人間は、人間の概念が同一の意味で考えられているわけではないから、自己矛盾に陥ることはなく、自己自身に対する義務を認めることができるのである。
[自己自身に対する義務の区分の原理について]
この区分は義務を負う主体に関してではなく、義務の客体に関してのみ、行うことができる。義務付けられる主体も、義務付ける主体も人間以外のものではあり得ない。経験によっても、理性的推論によっても、肉体と区別された霊魂について我々は十分に知ることはできないから、それを人間を義務付ける実体の差異として考え、義務を肉体に関するものと、霊魂に関するものとに区別することなどは、およそ考えられないのである。
(1)従って、自己自身に対する義務をその形式的な事柄と実質的な事柄に分ける客観的区分のみがあることになる。それらの内で一方は制限的(自己自身に対する消極的義務)であり、他方は拡張的(自己自身に対する積極的義務)である。前者は、人間に自分の本性の目的に関して逆らって行為することを禁じており、道徳的自己保存のみを目指すが、後者は、選択意志の或る種の対象を自分の目的とするよう命じており、自分自身の完成を目指しているのである。これらの義務は両者とも、不作為義務(例えば苦痛に耐えよ、快楽を捨てよ)か、作為義務(許された力を用いよ)かであるが、いずれにしても徳の義務として徳に属するのである。前者は、自分の外官ならびに内官の対象としての人間の道徳的健全さに属しており、自分の本性をその受容性としての完全性において保持しようとするものである。後者は、あらゆる目的を遂行するのに、それが獲得されるものである限り、十分な能力を所有するところに成り立ち、そして自己自身の能動的完成としての開拓に属するところの道徳的裕福に属しているのである。自己自身に対する義務の第一の原則は、自然に順応して生きよ、即ち汝を汝の本性の完成の内に保持せよ、という格言の内に宿っており、第ニの原則は、単なる自然が汝を創造した以上に、汝を完全なものにせよ、という命題の内に宿っている。
(2)人間の自己自身に対する義務の主観的区分が存在する。その区分に従って、義務の主体は動物的(自然的)であると同時に道徳的でもある存在として見るか、或は単に道徳的な存在としてのみ見るのである。
人間の動物性に関しては、自然の衝動は、自然がそれを通して自己自身の保存を意図する衝動、種族の保存を意図する衝動、快適としてなおただ動物的な生の享受のための能力の保存を意図する衝動の三つであるが、この場合の悪徳は、自殺、性愛について行われる不自然な使用、そして自分の力を合目的的に使用するための能力を弱める暴飲暴食である。
しかし、道徳的存在としての自己自身に対する人間の義務に関していえば、それは、人間の意志の格律が、彼の人格の内に宿る人間性の尊厳と一致するという形式的な事柄において成り立っている。それゆえ、人間が、道徳的存在であるという特典、即ち原理に従って行為するという特典、換言すれば、内なる自由を自ら放棄し、そうすることによって自らを単なる傾向性の遊戯の対象とし、そして遂に物件にしてしまってはならない、という禁止において成り立っていることになる。この義務に対する悪徳は、虚言、貪欲、誤れる謙遜(卑屈)である。これらの悪徳は、道徳的存在としての彼ら人間の性格、即ち人間の生まれながらの尊厳である内なる自由に真っ向から(すでに形式からして)矛盾するところの原則を取り入れている。換言すれば、これらの悪徳は、いかなる原則も同様にまたいかなる性格ももたないこと、即ち自ら品位を落として、自分を軽蔑の対象とすることをもって、己の原則としているのである。これらの悪徳に対立する徳は、名誉愛(内的名誉、正しい自重)と呼ぶことができよう。これは、極めて卑しいものであり得る名誉欲とは雲泥の差のある心構えである。
第一巻 自己自身に対する完全義務について
第一章 動物的存在としての自己自身に対する人間の義務
動物性として人間の自己自身の対する、最も重要というわけではないが、最初のものとしての義務は、動物的本性を具えた自己の保存である。この義務に反する行為は、自殺と、自分を不具にする実質的毀損と、自分の諸力を肉体的に(それによって間接的には道徳的にもまた)使用する能力を(永久に或は暫くの間)自ら奪うという形式的毀損に分かれる。この章では、ただ消極的義務についてのみ、従って不作為のみが問題となるのであるから、義務条項は、自己自身に対する義務に対抗するものとして措定されている悪徳に対して向けられていなければならないであろう。
[自殺について]
自殺は犯罪である。このことは、神を含めた他者への義務違反としてみることができるかもしれないが、ここで問題になるのは、自分自身に対する義務の毀損についてだけである。即ち、たとえ私が他者を全て無視しても、なお人格であるというだけですでに、自分の生命を保持する義務があり、しかもこの点にこそ自己自身に対する一つの義務を承認しなければならないのではないか、が問題なのである。
人間が自分を侮辱できるというのは、不合理であるかに見える。そこで、ストア学徒は、自分が人生においてもはや何の役にも立たないという理由で、進んで人生から、煩わしい禍に悩まされることなく、心安らかに立ち去ることを、賢者であるという自分の人格のあり方の特権と見なしたのである。しかし、死を恐れず、人生よりももっと高く評価できる何かを知っているという、この勇気、この心の強さは、自ら生命を奪わないほどの一層偉大な動因でなければならなかったはずであろう。
人間は生きている限り、人格であることを免れることはできない。そこで人間が、あらゆる責務を免れている権能があるというのは矛盾である。自己自身の人格性の主体を絶滅するというのは、道徳性そのものを、この世から根絶するというのに等しい。また、殉教や祖国のための殉死は英雄的行為かどうかという決議論的問題もある。
[情欲について]
生命への愛が自然によって人格を保持するように定められているように、性への愛は、種族を保持するように自然によって定められている。即ち両者はそれぞれ自然目的である。そこで問題は、種族維持の目的を目指すことなしに、単に動物的快感にその能力を使用する権能があるか、またそうすることが自己自身に対する義務に逆らって行為することにならないか、ということである。この感性的衝動は、むしろ肉欲の享受を遠ざける好感の愛とも好意の愛とも違う、煩悩に属す、情欲(肉欲)とも呼ばれ、それによって作り出される悪徳は淫乱といわれるが、これに関する徳は、貞淑と呼ばれる。情欲が不自然だといわれるのは、人間が現実の対象によってではなく、対象を想像することによって、それゆえ目的に反して自ら対象を作り上げることによって、それへと駆り立てられるという場合においてである。というのは、この場合、情欲は自然の目的に反する欲望を惹き起こすからである。自らを全く動物的な傾向性にゆだねてしまう情欲は、人間を、享楽され得る、しかしその点で自然に反する物件、嘔吐を催させるような対象にしてしまい、自己自身に対するあらゆる尊敬を奪ってしまう。
[嗜好品或はまた飲食物を使用する場合の不節制による自己麻酔について]
この種の不節制の悪徳は、それによって招く損害や病気からは評価されない。もしそうなら、それを阻むべきものは、健在と心持ちのよさ(幸福)の原理ということになるが、このような原理では怜悧の規則を基礎付けられても、決して義務を基礎付けることはできない。この場合の不節制は、嗜好品の濫用であって、これにより嗜好品を知性的に利用するという能力が阻まれ、或は涸らされてしまうのである。
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