フィヒテ 『エーネジデムス』書評
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1762~1814)はザクセンのランメナウ村に紐織工の長男として生まれ、幼い時から父の仕事を手伝うが、天賦の記憶力を持っており、牧師の説教をその言葉通りに復唱できた。9歳になった時、或る男爵がフィヒテの才能に感心してフィヒテを引き取って教育を受けさせた。この男爵はフィヒテが大学に入る前に不幸にも亡くなってしまったが、困窮の中でイエナ大学神学部に入り、やがてライプチヒ大学に転じて法律や哲学を学んだ。彼は家庭教師をして糊口をしのぎ、そこで四歳年上の取り立てて美しくはなかったと言われるが、自分を深く理解してくれる娘に強く惹かれ、終生続いた真の愛を育み婚約した。
28歳のフィヒテは著述家たらんとしたが成功せず、また家庭教師をせざるを得ないと考えていた矢先、或る学生にカント哲学を教えることになり、カントを読んでいる内にたちまちその思想に惹き付けられ、その研究に当面の人生の目標を見出した。以前は、理論的に正しく推理していく限り、スピノザ決定論的思想を採用せざるを得ないと考えていたが、フィヒテは元来己を貫く意志的な性格であったから、こういう思想は満足できないものであった。ところがカントの哲学は今までの哲学とは全く違った仕方で人間の意志の自由を基礎づけていた。因果必然性によって支配される決定論的世界は現象界にすぎず、その世界の根底には主観によって構成されたア・プリオリな世界があり、そして現象界には属さない自我の働きの中に、人間の意志の自由の根拠が存在していることをカントは論証していた。「人がどういう哲学を選ぶかは、その人がどういう人間かによっている」(『知識学への第一序論』)。
1791年カントを訪問したが、カントはフィヒテに特に関心を示さなかった。フィヒテはなんとかカントの知遇を得ようと、『あらゆる啓示の批判の試み』をカントに送った。フィヒテはその中で啓示の可能性を実践理性から導出しようと試みた。それは、このことは全く先天的には不可能であって、或る種の経験的条件のもとでのみ行われ得る。即ち、道徳律が意志に対し影響力を失い、人類が全く道徳的に頽廃しきっているような場合にのみ、道徳上の世界統治者である神が、感官を通じて純粋に道徳的な衝動を人間に与え、この目的を達するための特殊な顕示を通じて感覚界の内に立法者としての自己を示すであろう。この場合特別な啓示というのは、実践理性の一要請であろう。我々に知る必要があるのは神と自由と不死とだけであるから、啓示はこれら以外の内容を含むはずがない。そしてこれらの教えは、分かりやすい形で啓示の内に含まれていなければならないが、また、このような象徴的おおいが無条件の尊敬を要求するようであってはならない、とフィヒテは論じた。
カントはこの論文の一部しか目を通さなかったが、それでもその才能を知ってフィヒテに好意的になった。当時フィヒテは生活に行き詰り、意を決してカントに借金を申し込んだ。カントはそれを断ったが、その論文の出版を助けた。翌年この書は出版されたが、書店の思惑によって著者の名前を記ざずに出版され、そのためこの書の著者はカントではないのかという噂が立った。なぜなら人々はカントの三批判書の後の宗教論についての著書を待望していた時期であったからである。やがてカントはこの書の著者がフィヒテであることを発表し、フィヒテの名は一躍知られることになり、名声を得たフィヒテは結婚した。
1794年ラインホルトの後任としてイエナ大学に助教授として赴任する。そこでフィヒテは、カント、ラインホルト、シュルツェ、マイモンを研究し、知識学の基礎である自我の概念に想到、またシュルツェの『エーネジデムス』を書評し、批判哲学を弁護する。同時期、草稿『根本哲学に関する若干の省察』を書き、さらにチューリッヒのラヴァーター家で私的な講義を行い、そこで「一切の哲学の第一の諸根本命題」を述べると共に、「理論哲学」と「実践哲学」を詳しく展開する。そしてこの時の私講義の最初の部分を『知識学の概念について』として刊行し、残りの部分をイエナ大学の講義で『全知識学の基礎』として、逐次学生に配布し、1795年にかけて刊行した。さらに96年に『自然法の基礎』、98年には『道徳論の体系』を、また「知識学への第一序論」、「第二序論」を含む多くの小論を発表した。
フィヒテは充実した著述活動とは裏腹に、生活は必ずしも平穏ではなかった。イエナに着任してまもなく、フィヒテは全ての学生が他の講義に妨げられることなく聴講できるように、教会の礼拝時間は避けて、日曜の午前中の一時間を講義時間に当てたが、それでもこの行動は物議をかもし、フィヒテは公式に弁明せねばならなかった。また粗暴な学生の結社を学問の力で解散させたが、学生の一部はフィヒテに敵意をもち、そして家が襲われ、遂に引っ越さねばならなかった。
1798年、折しもフィヒテがニートハンマーと編集していた『哲学雑誌』にフィヒテの弟子が、我々の全ての確信の源泉は、経験、思弁および良心であるが、宗教を基礎づけ得るのは良心だけである。宗教は心の在り様によって基礎づけられ、神への信仰に基いて宗教が根拠づけられているのではない。よって道徳的世界統治者としての神が実在することを信じるのが義務なのではなく、ただひとえに、あたかも神の実在していることを信じているかのように行為することが義務なのだ、という主旨の論文を寄稿してきた。フィヒテはこの論文があまりに大胆過ぎるとして、この論文に注を加えて発表しようとしたが弟子がそれを拒んだので、フィヒテは新しく、確かに理論理性によって宗教を基礎づけることはできない、推論には限界がある、しかしその限界設定のもつ意義には厳然たるものがあり、この限界が為すべきであるがゆえに為すべきことを表現する。つまり道徳律に基いて義務を果たすべく行為すること自体に、神的な世界支配があるとし、あたかも神が実在しているかのように考えることは斥けつつも、或る特殊な実体として神を捉えることは不可能であり、この道徳的秩序が神的なものであるという主旨の「神の世界支配に対する我々の信仰の根拠について」という論文を書き、弟子の論文の前に置いてそれと共に掲載した。
にも拘らずフィヒテのこの論文は直ちに無神論という非難を受け、無神論論争が始まる。それは、それまでのフィヒテの性格と行動がかなりの人々の間に反感を買い、フィヒテ攻撃の絶好の機会として受け止められたことによるだろう。この問題はザクセン地方で特に取り上げられ、ザクセン政府はドレスデンの宗教局の提訴を認め、大学から『哲学雑誌』を全て没収することを命じ、ヴァイマール政府に対しては、論文の執筆者と『哲学雑誌』の刊行者の責任を問い、その処罰を求めた。ヴァイマール政府は穏便に事を治めようとしたが、フィヒテは全く妥協的態度を取らず、自己弁護の文書を書いた。自分は確かに実体としての神を認めるものではないけれど、決して無神論ではないこと、さらに自分および弟子に加えられるいかなる処罰も学問の自由に対する重大な冒とくになると主張した。しかしこの弁明の激しい調子は却って政府の態度を硬化させてしまった。やがてフィヒテに対する査問が噂され、それを受けてフィヒテは、自分に好意的な枢密顧問官に、自分は決して査問を受けないし、もしそのようなことがあれば、自分と同じ考えの大学の同僚と共に職を辞任するであろう、と手紙を書いた。そしてその手紙を見た政府はすぐさまフィヒテ以外は訓戒に留めたが、フィヒテの辞職は認めた。かつてフィヒテをイエナ大学に推挙したゲーテも「政府に対してこのような言辞を弄する者は罷免すべし」と主張した。学生たちは多くの署名を集めた請願書を提出したがいずれも無効に終わった。そしてフィヒテがイエナ大学を辞任したとき、同僚の誰ひとり彼に続く者はいなかった。
この事件は、当時のドイツの思想界を大きく揺さぶった。ヤコービは『フィヒテ公開書簡』において、ひとえに知ることに立脚する哲学を展開したフィヒテを、実体が主体化されて自我になった顛倒したスピノザ主義と呼び、自我論が無神論に到らざるを得ないと主張した。
1799年にフィヒテはベルリンに赴いた。プロシア政府はザクセン政府の『哲学雑誌』没収令を無視していたからである。それ以来フィヒテは終生ベルリンに止まった。フィヒテがベルリンに移ったとき、フリードリッヒ・シュレーゲル以外に知己もなく、シュレーゲルを通じてシュライエルマッハーやノヴァーリスなどのロマン主義者達と知り合いになったが同感はしなかったようである。この頃からフィヒテの考えに変化が現れる。実はイエナ時代の1797年に発表された「知識学の新しい叙述の試み」という未完の小論文の内にすでに思想の展開の萌芽が見られ、さらに1801年の、生前には未刊に終わった『知識学の叙述』においては、知というものが最終的なものではなく、知はその根源である絶対者から生じると説かれるようになる。つまり、フィヒテはカントに基くこれまで固持していた道徳にのみ偏った立場から、宗教と知識学との融和に努めるようになり、一種の神秘主義に傾くようになったわけである。その間に現れたシェリングの自然哲学が、フィヒテがそれを否認してシェリングとの間に激しい論争を惹き起こしたにも拘らず、フィヒテ自身にも影響がなくもなかったのもその変化の理由の一つであろう。
1800年に『人間の使命』と『閉塞された商業国家』、1801年には『最新の哲学の真の本質についての一般公衆に対する明快な報告』が出版されたが、その後は講演活動に重点を移した。この講演の中で歴史哲学を扱った『現代の特徴』が、また神との合一を説くフィヒテ後期思想の完成された立場である『浄福な生の手引き』が1806年に出版された。
1805年にフィヒテはエルランゲン大学から教授として招聘されたが、1806年にプロシアとフランスとの間に戦争が起こり、プロシアはたちまちナポレオンに屈服した。フィヒテは1806年10月にフランス軍がベルリンに迫るとの報を聞いて、ケーニヒスベルクやコペンハーゲンに逃れた。しかしテルジットの和約の履行が完了しないまではフランス軍はベルリンに駐留すると知って、やむなくベルリンに帰還した。ベルリンに帰ったフィヒテは、最悪の事態を覚悟しつつ『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行った。この講演でフィヒテが強調したのは、ドイツ国民の中に蔓延している利己心をペスタロッチのような主体的な精神の働きを重視する新しい教育によって打破し、それによって真にドイツ国民の共同体意識を目覚めさせること、そしてそのとき初めてドイツ国民は失われた独立を回復し得る、と説いたのである。
1810年にベルリン大学がプロシア政府によって新たに設立されて、フィヒテはその哲学部長に任命され、さらに初代総長に選ばれた。1812年ロシア遠征に失敗したナポレオンに対しプロシアが先頭に立って第四回対仏大同盟が結成された。フィヒテは自ら説教師として戦場に赴こうとしたが認められなかった。だが、彼の妻は篤志看護婦として傷病者の看護に当たっている間に発疹チフスに罹り一時は重態に陥っていたが、ようやく危機を脱したのもつかの間、今度は妻の看護に当たっていたフィヒテがこれに感染して亡くなってしまう。
『エーネジデムス』書評
ラインホルトの『寄与』(第一巻)は、1792年の初秋にはフィヒテの知るところとなっていた。フィヒテは93年春に、自らが批判哲学のカントの言葉やラインホルトの異論の言葉さえ越えて、その精神を継承しようとの決意を語る。
フィヒテは1793年の秋にシュルツェの『エーネジデムス』を読み、強い衝撃を受けた。フィヒテは、これによって、カントやラインホルトの体系がまだ学の状態にないこと、自分自身の体系もその根底から揺るがされたことを認め、新たに立て直すことの必要性を痛感した。その年の12月の草稿「根本哲学についての我が省察」において、観念論の根本問題を次のように問い直す。「『ラインホルトは何らかのことを考え得るということから、何らかのものが存在しているに違いないことを推論する』。この何らかのものとは、我々の精神の事実に他ならない。いかにして彼の思想は精神の行為と合致するか?いかにしてそうした合致は示され得るか?それが問題なのだ。なぜなら、彼の哲学の対象は、物自体ではなく、事物の表象作用だからである。この表象作用の外部の物については問題ではない。さて、いかにして合致は可能なのか?エーネジデムスによって手がかりをつかむことはできるのか?根本哲学において構成はできないのか、思想を説明し、証明する内的直観を与えることはできないのか?それさえしていたなら、エーネジデムスは論駁されたであろうに。」
ラインホルトにあっては、直観は、対象に関連する表象だとされた。しかし直観だけでは何も認識されない。なぜなら、直観によっては対象が表象されるだけで、表象されたものとして表象されるのではないからである。従って、直観が認識の構成要素になるのは、対象を表象されたものにする表象が認識に属する限りである。このように認識の構造をラインホルトは語りはするが、それぞれの構成要素が事実として説明されているだけで、第一のものから構成される、というようにはなっていなかった。これに対しフィヒテは、主観や客観を可能にする根拠を内的直観に求め、直観による自我の自己措定、という考えに想到する。自我論の成立した現場はこうである。「第一の命題は自我の命題である。しかしこの命題はあらかじめ表象の概念を前提するのか?自我は表象される。しかし同様に意識律も自我の命題を前提する。いつでもどこでも私は循環に出会う。意識も同じように説明されなければならないであろう。いかにしてこの案件は解消され得るか?もともと根本哲学の命運がそれにかかっている」。こう記した欄外に、「定立・我在り、即ち、我在るがゆえに我在り、かつ我であるところのものである。我は端的に我によって存在する。反定立もしくは要請・自我には非我が対立する」と書き込んだのである。こうして93年の暮れにフィヒテは意識律に代わる観念論の新たな「第一原則」を見出した。
こうしてフィヒテは1794年2月の『一般文芸新聞』に『エーネジデムス』書評を発表する。
既述のシュルツェのラインホルト批判には次の四つの論点があった。第一に、意識律よりも矛盾律が優先すること。第ニに、意識律の内の「関係する」とか「区別する」とかいう意味が曖昧であること。第三に、意識律で表わされた意識の特性は特殊な意識のあり方に基くにすぎず、それゆえ意識律は経験的な綜合判断でしかなく、普遍妥当性をもたないこと。第四に、表象の原因として表象能力の存在を容認するのは、独断的であると。
フィヒテはこれらの内、第一の論点以外の全ての論点を受け入れる。その中でとりわけ第三の論点はラインホルトとフィヒテの立場の違いに関わるものとして、注目される。まず、フィヒテは、シュルツェが意識律を意識の特定のあり方にしか当てはまらない経験的な綜合判断と見た点を容認する。しかしそこからシュルツェは、意識律で表わされるのとは別な経験的な意識のあり方を認めていき、結局、絶対確実な根本命題なるものは一般に成り立たないと考える。それに対しフィヒテは、むしろ意識律が経験的な事実を表わすにすぎないからこそ、その根底に、それ自身経験的でないような別な根本命題が存在すべきであり、そこから逆に意識律を説明すべきだと説く。「意識律は単なる事実とは別のものに基かざるを得ない」。意識律の根底に存在するその根本命題とは、「自我は自我にとって、自我があるところものであり、自我が存在するがゆえに存在する」という自己意識を表わした命題である。このような自己意識のあり方をフィヒテは「事行」と名づける。
このフィヒテ独特の用語は、物自体の認識を拒否したことで、「思惟と存在の同一」という主題を疑ったカントから、物自体自身を拒否することで、あらためてこの主題に迫ろうと無理を背負いこみ、あえてその無理を貫き通したフィヒテの苦渋の表現である。物自体に帰せられるべき問題を、自我の哲学という、内なる世界に背負い込み、にも拘らず、物自体に終始つきまつわられ、そのこと自身が示す矛盾的性格を負いながら、この主題に迫ろうとしたそのことにおいて、そこから最も重要な問題が出てくることになった。そしてこのことがなければヘーゲル哲学もありえなかったことは明らかである。
とはいえ、この用語をフィヒテ自身はそれほど度々使っているわけではない。後になればなるほど、この用語は影をひそめてしまう。
さて事行(Tathandlung)は「自我は自我である」(Ich bin Ich.)と同じ意味をもつといわれる。この Ich bin Ich. は Ich bin.(自我は在る)と同じだといわれる。このことを、よく知られているように、フィヒテは同一律 A ist A を手がかりに取り出している。このことは同一律から「自我は自我である」を引き出したという意味ではなく、逆に、後者が前者の根底にあるという意味においてである。同一律はAが存在するかどうかということには関係ない。
では、この必然的関係は何によってそうと判断されているのであろうか。それはもちろん「自我」によってである。そうだとすれば、この必然的関係は自我に与えられているのでなければならない。しかもそれは、端的にそれ以外の何の根拠もなく、判断されているのでなければならない。ということは、それが「自我」自身によって、「自我」に与えられているのでなければならないということである。この必然的関係は、同一のAに関しての二つの措定を、一つは未知の措定、もう一つはこの措定のもとで行われる措定という、二つの措定の間の関連をいうものであるから、この関連が自我に与えられているとすれば、Aは当然「自我」の内にあり、「自我」によって措定されていることになる。
そこでこの必然的関係を媒介として、「Aは、判断する自我に対して端的にあり、自我一般の内に措定されているということによってのみ在る」ということができる。このことは更に言い換えると「自我の内には自己自身と同一な或るものが、常に全く同一な或るものがある」ということになる。これを簡単に言い表わせば「自我=自我」となる。そこで、以上のような理由により A =A.の根底には自我が在るといえる。こうして全ての措定の根底には、「自我がある」があることになる。これは、それ以上何等の根拠にもよらず、それ自身端的に措定されたもの、自己自身に基くものといえる。これは「人間精神の或る行動の根拠」もしくは、人間精神の純粋な性格である。
以上の意味において、自我の自己自身による措定は、自我の「働き」である。自我は自己自身を措定する。この自己自身による単なる措定によって、自我は「存在する」。その意味で、今言ったようにそれは Handlungであると同時に Handlung によって生み出されたものである。「働き」と「働き」によって生み出されたものは、言い換えると Handlung と Tatsache は、同じである。だから Ich bin. は Tathandlung である。 Ich bin Ich. において主語である Ich は、端的に措定された自我であり、述語 Ich は存在する自我である。これら両者が等しいという判断によって表現されるということは、自我は、自らを措定したのだから、ある、ということである。これは逆の方から言っても同じである。そこで「その存在が、自己自身を、存在するものとして措定するという、単にその点に在るところものは、絶対的主観としての自我である」ことになる。存在するがままに自らを措定し、自らを措定するがままに存在するものが、主観、意識としての自我、言い換えると事行であることになる。このことは、自我は自我と対してある。自我は私にとってのみあるが、私にとって私は必然的である、とも言い表わせよう。
以上のことから、意識の事実という自己同一的なものにおいて、同時に措定するものと措定されるものが区別されていること、この区別において、しかも両者が同一であることである。この事行は、自我の在り方として、同一律を媒介として導かれたものであるから、当然、同一律を肯定し前提している。だが逆に、この事行が同一律の基礎になっているのだから、事行は同一律に従いながらも、同一律を超え、その前提となるものである。事行である自我において、同一であることと同一として自らを措定することとは、同時に成り立つ。だからそれは、ただ同一であるというより以上のことを、言っていることになる。在ることが自らを措定することであり、自らを措定することが在ることであるという形になる。このことは、常にすでに自らを超えることにおいて、自らと同一であるといっていることになる。
フィヒテ自身は、意識としての自我の同一性を語り、そのことを事行という概念で表現しているだけのことのように思える。従って、その場合、同一律の同一性とこの自我の同一性の違いを、必ずしもはっきり自覚していたとは思われない。実質的には、そういうことを語りながら、それがもつ意味を根本的には自覚していなかったのは、自我において措定されているものに「実在範疇」が帰せられていることからもわかる。この「実在」という概念が普通もっている意味から事行にことを連想するのは不可能である。フィヒテの「実在」と呼んでいるものが、事行という自己否定(超越)を内在させる在り方と、どういう形で一つになり得るか、それがフィヒテにおいては無造作に結び付けられ、その扱いは形式的である。
さて、このような自己意識の在り方をフィヒテは「事行」と名付けたが、これに対してラインホルトの言う「意識」(主観ー表象ー客観)は自己意識ではなく、対象意識でしかない。フィヒテは対象意識の根底にはつねに自己意識があることを指摘しているわけである。これはカントの一切の表象に伴い、かつ多様な表象を統一し、つねに同一な自発的作用であるところの「私は考える」という表象、即ち超越論的統覚としての自己意識を継承したものであろう。
ただし、フィヒテの自己意識の捉え方はカントのそれと同じではなく、カントが認めなかった知的直観をフィヒテは人間の認識能力として認め、それによって自己意識は与えられるとした。カントにおける超越論的統覚と呼ばれる自己意識は、それ自身実在的意味はもっていない。カントは言う。「統覚の綜合的根源的統一において私が意識するところの私自身とは、私が私に現れるがままのもの(現象)でもなければ、私自体があるがままのもの(物自体)でもない。むしろ私は、「私は存在する」ことを意識している。このような表象は思考であり、直観ではない・・・これによって私の存在はすでに与えられているわけだが、しかし私が自分の存在を規定する仕方は・・・まだ与えられていない。そのためには・・・時間を根底とする自己直観を必要とする。この自己直観は感性的直観であって、規定されるものの受動性に属する。ところで私がこのような直観以外に別な直観をもたないとすれば、私は自己の存在を自己活動的存在者の存在として規定するわけにはいかない」。カントにとって、およそ或るものを規定するためには感性的直観が必要であり、そこでは或るものは規定される限り受動的であり、自己活動的ではないのである。
それに対してフィヒテは一歩踏み込んで「私は存在する」ことを「自己活動的存在者」として「規定」し得ると考える。それは、彼が感性的直観とは別な直観、「知的直観」を容認するからである。というのは「自我」は物体のように他から規定され認識されるものではなく、二重の意味で自己関係的なものとみなされるからである。一方で「自我は、自我があるところのものであり、自我が存在するがゆえに存在する」、即ち自己産出的なものである。他方で、そのことが同時に「自己にとってある」、即ち自己認識的なものである。それゆえ、認識の素材を与えるものを一般に直観と呼ぶのならば、自我に関する認識素材を与える直観の源は自我以外の物にあるのではなく、自我にある。自我はそのような自己に発する直観、知的直観をもっている。ただし、自己活動的な「自我」という概念がカントに全くなかったわけではない。カントは『人倫の形而上学の基礎』(第三章第三節)において、「人間は、単なる現象から合成されたところの性質が即ち彼自身の主体の性質であるということだけでは満足できずに、この性質を超えてその根底に存する何か別の或るもの、即ち彼の「私」なるものを、この「私」がそれ自体としてどのような性質のものにもせよ、想定せずにはいられないのである。・・・・人間は、自分自身が実際に一種の能力をもっていることを知っている、彼はこの能力によって、自分を他の一切の物から、それどころか対象によって触発される限りの自分自身からも区別する、その能力とは即ち理性である。・・・理性は、理念と呼ばれる理性概念によって純粋な自発性を顕示し、こうしておよそ感性が悟性に供給する一切のものを遥かに超出するのである。」と述べていた。ただし現象の根底にあるこの「私」(自我)はカントにおいては行為の主体であり、認識の主体ではなかった。フィヒテはそれを行為の主体であると同時に認識の主体でもあるものと解したのである。
このように対象的意識の根底に自己産出的であると同時に自己認識的な主体を容認することで、シュルツェの第四の論点に答えることができるようになる。「表象の原因」として「表象能力」の存在を認めるのは、カントの批判の精神に反した独断論だというシュルツェの批判に対して、フィヒテは上述の根本命題における「自我」を「表象能力」と言い換えて、次のように答える。「表象能力は表象能力にとってまた表象能力によって存在する」。つまりラインホルトにおいて表象能力と表象との関係とされたことが、いまや産出し認識する自我と産出され認識される自我との関係に置き換えられる。そうであれば、表象能力と表象の関係は、シュルツェが想定したような対象の次元における異なったものの間の因果関係ではなく、自我が自己と結ぶ関係、即ち自己関係(それをフィヒテはここで「循環」と呼ぶ)と見られねばならない。その限り、対象的な物の因果関係に固執し、それ以外の現象に関する言説を空虚な独断論と非難するシュルツェの批判は的外れとなる。
これによって表象能力に対する疑問に答えられたとしても、しかし、表象が外的なものとしての物自体の作用の結果だという点に関する疑念(それはヤコービの根本的疑問でもあった)については払拭できたのだろうか。知的直観は自我自身の存在は確認し得るとしても、自我の外にある対象についても確認し得るのであろうか。その点をフィヒテは懐疑論者との論争の鍵と見るが、ここでは自我に「対立するもの」としての「絶対的客観」ないし「非我(Nicht Ich)」という概念を提示するに留めている。ただしこの非我は知覚され得ない根源的客観である。この非我も経験的に与えられるものとしては、意識されない。しかしそれは物自体ではない。フィヒテはむしろカントとラインホルトが物自体に対して十分に強く反論してこなかった点を不満に思う。というのは表象能力から独立に物を考えることは、人間本性には全く不可能であるからである。非我は物自体ではなく、「自我にとってある」もの、「自我との関係」によって規定されるものなのである。
かくて経験的意識の根底に一方では自我の自己関係があると共に、他方で自我と非我との対立関係があることになる。ここにシュルツェの第ニの論点で問われた、「関係する」と「区別する」の意味が明確化されたことになる。フィヒテによれば、「関係する」は同一性の命題(同一律)によって規定され、「区別する」は反立の命題(矛盾律)によって規定される。この二つの根本命題の対立関係は、理由律に基く第三根本命題によって綜合される。
なおシュルツェは、表象の客観に対する関係と主観に対する関係とでは関係の意味が異なるのに、それをラインホルトが見逃したと批判した。そのことはフィヒテも認める。そこでフィヒテは一方で客観と表象の関係を原因と結果の関係とみなし、他方で主観と表象の関係を実体と属性の関係と呼んだ方がよいと言う。
最後に、第一の論点、つまり矛盾律の意識律に対する優位については、フィヒテはラインホルトに与する。意識律自身が矛盾律に従っているとしても、矛盾律は思考の規則でしかなく実在性をもたない。それゆえ矛盾律は意識律に優位とは言えない。しかしフィヒテはシュルツェの果たし得なかった矛盾律の実在的妥当性の根拠づけを『全知識学の基礎』で第ニ根本命題を導出する際に行おうとする。それは論理学の原則と哲学の原則との関係の問題でもあった。ちなみに、フィヒテは『エーネデジムス』書評と同時期に書いた草稿『根本哲学に関する若干の省察』において、論理学と根本哲学との「循環」を次のように示唆している。「根本哲学はそれ自身その形式からして一般論理学の下にあると同時に、一般論理学も根本哲学の下にある。そこには循環がある」。それは、「A=A」即ち同一律と「自我は存在する」との循環である。
フィヒテは、主客間の区別の成立そのものの解明を試みた。経験において、物と認識すべき知性とは不可分に結ばれている。前者を捨象すれば知性自体(観念論)が得られ、後者を捨象すれば物自体(独断論、実在論)が得られる。観念論と実在論とは、知の知の問題であり、知、即ち経験の問題ではない。経験そのもの、通常の意識においては、ただ客体のみが存在し、概念は存在しない。概念は対象に消失し、それと一体化している。観念論と実在論との対立は、経験の説明根拠をめぐる根本原理に関する争いであるが、両体系は互に反駁できない。フィヒテは両原理のこの不可通約性を基にして、この対立を、自由と必然との世界観の対立として知識論的に規定する。
フィヒテが自覚的に観念論を選んだとき、真理概念としての対応説は否定され、主客間の認識論的区別は知性内の区別に置き換えられる。知性の内には二重の系列がある。存在することと見ること、実在的なものと観念的なものとの系列である。この二重のものの不可分性に知性の本質が成り立つ。知性は綜合的である。ここで綜合的とは知の実在性即ち、知性内に投影された対応説的な真理性を指す。こうした前提の下に知識学の根本命題が示される。書評においてフィヒテは述べる。「ラインホルトによって切り拓かれた道をさらに遡行してもし将来次のことが発見されるならば、即ち、(1)直接的に最も確実なる我ありが、また自我にとってのみ妥当すること。(2)全ての非我はただ自我に対してのみ存在すること。(3)非我はその存在のあらゆる規定を、ア・プリオリに、ただ自我への関係を通じてのみ得るということ。(4)そのア・プリオリの認識が可能である限りにおいて、しかし、こうしたあらゆる規定が、非我一般への関係の単なる制約を通じて、端的に必然的に生じること。もしこれらのことが発見されるならば、そこから次のことが生じてこよう。即ち、(5)物自体は、それが自我と対立しない非我とみなされる限り、自己矛盾すること。即ち非我は対他存在であって自体存在ではない。(6)物はそれ自体、あらゆる思惟可能の知的自我、即ち、同一律と矛盾律に従って思考する存在者によって考えられるべきであるがままに、そのようになっていること。(7)それゆえ論理的知性は、有限な知性に考え得るあらゆる知性にとって同時に実在的でもあること。(8)この知性以外には何もないこと」。
即ち、ここでは「我あり」の明証的真理(1)を基に、自我と非我との対応説的真理が成り立ち(3,4,6)そこのなお同一律、矛盾律の斉合説的真理性が(6,7)成立して、それが全体として観念論を成す(2,5,8)という構想が語られているのである。論理的知性が実在的である、つまり綜合的である、ということは、分析性が純粋な分析性としてではなく、綜合性へと非形式化されることを意味する。この考えはあながちカントから逸脱していない。むしろ「ア・プリオリな綜合判断」という考え方そのものに内在する矛盾が露呈し、弁証法の論理が芽生えている。
同一律の形式性をフィヒテは、A=Aという形式においても、Aの定立それ自体は綜合的であるという点から突き崩す。A=Aはまず「Aが定立されていれば、Aは定立されている」に置き換えられる。ところが、「定立ー被定立」の関係は自我によってのみ可能である。「それゆえA=Aという命題は、根源的にただ自我にとってのみ妥当する」即ち自我の自己定立、自我=自我に還元される。自我の定立においては自我は能動的である。「それが定立されているが故に定立されているのではなく、それ自身が定立するものであるが故に定立されている」つまり、Aの定立とは、Aの全内容を「A」という否定的統一の内に綜合する意識作用のことであるとして、「・・・・である」を「・・・・を立てる」へと他動詞化し、しかもそれを「定立ー被定立」という意識の志向性における内在的関係に基礎づけたのである。
『知識学の概念について』
すでにラインホルトはカントの存在論を拡張し、その基礎としての意識律の形式的特性について反省し、それは、自己自身によって規定され、普遍的、実在的でなければならず、それによって意識律とその下の諸命題は学的体系を成し得ると述べていた。フィヒテも基本的にはこれらの点を認めるが、しかし今では「意識」の「事実」ではなく「自我」の「事行」が存在論(形而上学)の基礎をなすべきである。そこであらためて自我の根本命題がいかにして形而上学の出発点をなし、またいかなる意味で自己自身によって規定され、普遍的、実在的であるかを示す必要があった。それによってシュルツェの疑問に対し一層説得的に答え得るはずである。フィヒテは知識学への導入部としての『知識学の概念について』で、まず個別科学との関係で知識学の形而上学としての特性を吟味し、次に知識学内部での根本命題をめぐる種々の循環に関して知識学の方法論的特性を考察している。
まず、「知識学(Wissenschaftslehre)」とは「学一般の学」、つまり個別科学一般を根拠づける学を意味する。フィヒテによれば、一般に学というものは何であれ、確実な内容をもった或る命題をもとに、それに等しい内容の諸命題を次々につらねるという体系的形式を具えていなければならない。だが個別科学の根本命題の内容が何に基き、その体系的形式がいかなる条件において成立するかは、知識学においてしか解明できない。知識学の根本命題は自己の内部で基礎づけられ、しかも自己自身のうちで、自己自身のゆえに、自己自身によって確実でなければならない。それは一切の知に伴い、一切の知のうちに含まれ、一切の知がそれを前提にしている。ただし知識学の根本命題が自己自身によって根拠づけられているということは、意識律の場合のように被定義語と定義語とが同一の事実の諸契機をなすという事情によるのではなく、命題の内容とその形式とが別のものではないことによる。即ち内容と形式は相互に規定し合っている。形式はその内容にのみ当てはまり、内容はその形式にのみ当てはまる。具体的に言えば、ここで形式というのは、絶対確実なものに等しいという形式であり、それが当てはまる内容とは同一性という形式をもった何ものかであり、それはフィヒテにおいては、自我は自我であるという同一性の形式で存在するところのもの、自我の存在に他ならない。この自我の存在を命題形式で表現したものが、知識学の第一根本命題である。それは形式に関しても内容に関しても絶対的に端的に自己自身によって規定されている。さらに、形式は自己自身によって規定されるが、内容は他によって制限されている第ニ根本命題と、逆に内容は自己自身によって規定されるが、形式は他によって制限されている第三根本命題がある。この三つの根本命題から全ての諸命題が体系的形式に則って導出され、かくて知識学が一個の体系として成立することになる。
しかしさらに重要なのは、このような知識学の自己完結的体系が学的叙述として実際にいかに遂行可能かという問題である。その点に関してフィヒテは三つの問題を提出する。第一に、根本命題に基く知の体系が唯一のものであり、永遠にそれ以外の知はありえないのかという問題である。第ニに、知識学の体系自身、人間のひとつの知の営みであるが、フィヒテの根本的立場は知や表象ではなく行為であるから、従って、知識学の知の営みが行為の基盤の上でいかにして位置づけられるかという問題が生じる。第三に、シュルツェが強調したように、知識学はそれ自身論理学の規則に従っており、論理学も一切の個別科学の体系的形式を究明する学であり、そこで論理学と知識学の関係はいかなるものかという問題が出てくる。これらの問題についてフィヒテはそれぞれ或る循環が生じることを指摘する。循環とは、これから証明されるべきものをすでに真と認めてしまっていること、つまり論理学的には先決問題論証の虚偽に相当するものである。知性自体の必然的な働き方が、意識の形式に取り入れられるべきだとすれば、その働き方は、すでにそれとして知られていなければならない。従ってこの形式に、すでに取り入れられていなければならない。これは、意識の外にあるものがすでにその内にあったのだということを意味する。外が内であり、内が外であるような関係が、フィヒテにおいて成り立っていて、それが避けられ得ないものと自覚されている。事行である自我は現にあってないものである。同一律の主体でありながら、それを超えることにおいて初めて事行は事行である。いつでも超えて外に出ようとする自らにおいて、自らが維持されるのである。外に出ることが、同時に、内に還ることになる。フィヒテが無神論だといわれたのは決して偶然ではなく、それだけの理由がある。自我が有限な精神であるという自覚において、常に自らを超え出ないではいられない。しかもなお超え出ることにおいて自らに出会わざるを得ない。そういう意味で自我は有限である。この循環的性格は、自我が同時に有限であることにおいて成り立つ。フィヒテは、有限な精神の場で考えることを捨てなかったのだから、その限りで、無神論ではなかったといえる。だがそれが今言った循環になっていることを考えると、キリスト教的には、無神論と言われる理由が全くないとは言えない。フィヒテは無神論論争に巻き込まれる前から、自分は無神論ではないとわざわざ断っている。それはおそらく絶対的自我と自我と非我という関係の中に、全存在を包み込むことに、自らも無神論的なものを感じとっていたからだといえよう。
さて第一に、根本命題が唯一のものかどうかが問題になっている時に、「根本命題に基く体系は唯一のものである」という命題で答えたとすると、この命題は、問われている当の根本命題の妥当性をすでに前提してしまっている、という循環を引き起す。これは知識学が唯一の完成された体系か否かに関して出てくる問題である。フィヒテによれば、一般に体系というのは、根本命題から他の一切の命題が導出されると共に、逆に他の一切の命題が根本命題に行き着く、つまり根本命題が他の一切の命題の全ての出発点であると同時に到達点でもあるような、円環構造をなしているものである。そして知識学以外の学は根本命題に還ってこないので不完全であるが、知識学だけがそのような円環構造をなし、完全な体系だと考えられる。しかし仮にそうだとしても、知識学の根本命題に基くのではないような別な体系が未来永劫にわたって出てこないかどうかが、問われ得る。
その場合、やはりそういう別の体系はあり得ない。というのは、知識学のみが唯一の体系だと言ったとする。その時、「知識学の体系は唯一のものである」という命題自身が、「人間の体系の一つの構成部分」であるはずである。従って、その命題自身、根本命題に基く唯一の人間知の体系によって「証明される」ものである。つまり目下唯一の妥当性が問題になっている当の体系をすでに前提にしてのみ、「知識学の体系は唯一のものである」という命題を確実なものとして述べ得ることになる。ここには明らかに先決問題論証の虚偽、循環がある。しかしそこから今度は、別の根本命題があり得ると言ったとする。その根本命題は知識学のそれとは全く対立するものである。従って、その根本命題からは、先の場合とは対立する命題、即ち「人間知は唯一の体系であるのではない」という命題が出てくるだろう。そうだとすると、およそ体系的に確実な知は存在せず、全ては相対的に制約された知でしかないということになる。
従って、一方で「知識学の体系は唯一のものである」という命題を語るとすれば、それは循環に陥り、他方で別の根本命題があると認めれば、そこには確実な体系知は生じない。この内前者の場合は、恐らくラッセルが問題にした「それ自身の要素である集合」ないし自己引照的言明に関するパラドックスに相当するものであろう。そうだとすれば、この循環は、「知識学の体系は唯一のものである」という命題は知識学の体系における命題群とは、階型を異にするとみなすことで解決するかもしれない。そうなると、知識学が唯一の体系であるという答えも、そうでないという答えもあり得ることになる。ただしラッセルの記述理論は、現代では同じ英米分析哲学者であるストローソンやオースティンによって欠陥のある理論として否定されているが。しかしフィヒテ自身はこの問題に対していわば帰謬法でもって対処し、別の体系を否認することによって、知識学の体系の唯一の正統性を主張する。フィヒテによると、もしも知識学の根本命題が「自我は自我である」とすれば、別の体系の根本命題はこれとは全く対立する「自我は自我でない」ということになる。しかしこの命題は矛盾律に反しており、成り立たない。それゆえ、「自我は自我である」という命題に基く知識学の体系のみが唯一認められる。
第一の循環は体系知とそれに言及する知との間の、従って知と知との間の循環であったと言えるが、第ニの循環はこれと異なる。それは知と非知的な行為との間の循環である。フィヒテによれば、知識学の対象は人間精神の行為であり、それは学から独立にあるもの、表象以上のものである。この行為は思考されなければならないわけではない。知識学はこの非学的行為を反省と抽象によって、意識に高め上げ、思考され、言葉において捉えられる命題で表現しようとする。だが反省はそれ自身人間精神の行為の一種である。ただし知識学の対象が、人間精神の必然的行為であるのに対して、知識学の立場である反省という行為は自由の行為である。しかも反省という行為は行為一般の系列において他の多くの行為によって媒介されて初めて生じるものと解される。例えば行為Dは行為Cなしには、行為Cは行為Bなしには、行為Bは行為Aなしには生じ得ないが、行為Aは他の行為なしに端的に成立するとする。その際、行為Aの学的反省はAと全く別のDという行為によって行われるとすると、このDはA,B,Cという他の行為を経て初めて成立するにも拘らず、Dを先取りしないと、Aの学的反省が行われない。かくして人間精神の行為が知識学の命題で表現されるとなると、人間精神の行為は、「そのようなものとしてすでに知られていなければならない。従ってそれはこの意識の形式ですでに受け入れられているのでなければならない」。これから初めて知られるべきものを、すでに知っていなければならない。その限り、ここには「循環」がある。
これはプラトンにおける、探究の対象が何であるか知っていなければ探究できない、さもないとそれは名前も顔も知らない人を探すようなものである、しかしそれを知っているならばすでに答えは出ているのだから探究の必要はない、という探究のパラドックス以来哲学史上よく知られている循環であり、ディルタイやハイデガーが問題にした解釈学的循環に相当するものであろう。それに対しフィヒテはハイデガーと同様に対処する。即ち、形式論理学的な矛盾であるとみなしてそれを免れようとするのではなく、むしろ循環の中に入っていって、それを徐々に解決すべきだと考える。それは、対象に対する当初は漠然とした理解を出発点として受け入れつつ、それを一層明確なものへと仕上げるという仕方である。人間精神の様々な試みを、盲目的な手探りで探し回ることで、ぼんやりとした明るみから、明るい真昼の光のもとにたどり着く。かくして人間精神の行為は反省によって捉えられ言語化され、「真理感覚」に導かれながら、当初理論的自我として解明され、しかる後に実践的自我において行為そのものの全容が解明されることになるだろう。
第三の循環はこれと関連して、論理学の原則と知識学の命題との間の循環である。知識学の立場は反省と抽象による学的知の営みであるが、その際、反省は論理学の原則に従って行われる。ここに論理学の原則と知識学との間の循環がある。この循環も第ニの循環の場合と同じように、まず暫定的に論理学の原則の妥当性を認め、それを用いて人間精神の行為を反省し、その結果得られた哲学的知(根本命題)の内に、前提された論理学の原則と同じ内容を認めることができるならば、論理学の原則を根拠づけたことになる。ただし、この論証は、厳密に言うと、なお決定的ではない。というのは「正しくない導出」をしたのにも拘らず、結果的に前提と結果が一致することもありうるからである。それゆえ、論証の蓋然性を高めることはできるが、決して「確実性」にはいたらない。そこで蓋然性を高めるために幾度も命題系列を考え直したり、逆に「結果から原理へ戻る」という仕方で再検討することになる。知識学においては常に改善の努力が必要であり、人は無謬性を要求してはならない。
ともあれ、このような論理学の基礎づけにより、知識学の根本命題は、ラインホルトの意識律が論理学に対して実在的であったように、実在的であることとなろう。言い換えれば、フィヒテはこの点に関するシュルツェの疑問に対して、それに対応しながら、つまり論理学の優位性を一応暫定的に容認しながら、最終的にラインホルトの立場を擁護したことになろう。
以上、個別科学と知識学(形而上学)との関係、また知識学の体系知に関する三つの循環(知と知の間の循環、知と非知的な行為との間の循環、論理学と知識学との間の循環)とその解決によって、フィヒテは知識学そのものの形式的特性を正当化したことになる。知識学は自己自身によって根拠づけられた根本命題と体系的形式によって、普遍的で実在的な唯一の円環的体系を成し得る。しかしそれ自身は表象という派生的な立場であるがゆえに、体系全体との関連で種々の循環を免れることはできず、暫定的な知の事後的な根拠づけという方法を取らざるを得ない。そこで次にそのような形式的特性を具えた知識学が『全知識学の基礎』において内容的にいかに成し遂げられたかを知る必要がある。
28歳のフィヒテは著述家たらんとしたが成功せず、また家庭教師をせざるを得ないと考えていた矢先、或る学生にカント哲学を教えることになり、カントを読んでいる内にたちまちその思想に惹き付けられ、その研究に当面の人生の目標を見出した。以前は、理論的に正しく推理していく限り、スピノザ決定論的思想を採用せざるを得ないと考えていたが、フィヒテは元来己を貫く意志的な性格であったから、こういう思想は満足できないものであった。ところがカントの哲学は今までの哲学とは全く違った仕方で人間の意志の自由を基礎づけていた。因果必然性によって支配される決定論的世界は現象界にすぎず、その世界の根底には主観によって構成されたア・プリオリな世界があり、そして現象界には属さない自我の働きの中に、人間の意志の自由の根拠が存在していることをカントは論証していた。「人がどういう哲学を選ぶかは、その人がどういう人間かによっている」(『知識学への第一序論』)。
1791年カントを訪問したが、カントはフィヒテに特に関心を示さなかった。フィヒテはなんとかカントの知遇を得ようと、『あらゆる啓示の批判の試み』をカントに送った。フィヒテはその中で啓示の可能性を実践理性から導出しようと試みた。それは、このことは全く先天的には不可能であって、或る種の経験的条件のもとでのみ行われ得る。即ち、道徳律が意志に対し影響力を失い、人類が全く道徳的に頽廃しきっているような場合にのみ、道徳上の世界統治者である神が、感官を通じて純粋に道徳的な衝動を人間に与え、この目的を達するための特殊な顕示を通じて感覚界の内に立法者としての自己を示すであろう。この場合特別な啓示というのは、実践理性の一要請であろう。我々に知る必要があるのは神と自由と不死とだけであるから、啓示はこれら以外の内容を含むはずがない。そしてこれらの教えは、分かりやすい形で啓示の内に含まれていなければならないが、また、このような象徴的おおいが無条件の尊敬を要求するようであってはならない、とフィヒテは論じた。
カントはこの論文の一部しか目を通さなかったが、それでもその才能を知ってフィヒテに好意的になった。当時フィヒテは生活に行き詰り、意を決してカントに借金を申し込んだ。カントはそれを断ったが、その論文の出版を助けた。翌年この書は出版されたが、書店の思惑によって著者の名前を記ざずに出版され、そのためこの書の著者はカントではないのかという噂が立った。なぜなら人々はカントの三批判書の後の宗教論についての著書を待望していた時期であったからである。やがてカントはこの書の著者がフィヒテであることを発表し、フィヒテの名は一躍知られることになり、名声を得たフィヒテは結婚した。
1794年ラインホルトの後任としてイエナ大学に助教授として赴任する。そこでフィヒテは、カント、ラインホルト、シュルツェ、マイモンを研究し、知識学の基礎である自我の概念に想到、またシュルツェの『エーネジデムス』を書評し、批判哲学を弁護する。同時期、草稿『根本哲学に関する若干の省察』を書き、さらにチューリッヒのラヴァーター家で私的な講義を行い、そこで「一切の哲学の第一の諸根本命題」を述べると共に、「理論哲学」と「実践哲学」を詳しく展開する。そしてこの時の私講義の最初の部分を『知識学の概念について』として刊行し、残りの部分をイエナ大学の講義で『全知識学の基礎』として、逐次学生に配布し、1795年にかけて刊行した。さらに96年に『自然法の基礎』、98年には『道徳論の体系』を、また「知識学への第一序論」、「第二序論」を含む多くの小論を発表した。
フィヒテは充実した著述活動とは裏腹に、生活は必ずしも平穏ではなかった。イエナに着任してまもなく、フィヒテは全ての学生が他の講義に妨げられることなく聴講できるように、教会の礼拝時間は避けて、日曜の午前中の一時間を講義時間に当てたが、それでもこの行動は物議をかもし、フィヒテは公式に弁明せねばならなかった。また粗暴な学生の結社を学問の力で解散させたが、学生の一部はフィヒテに敵意をもち、そして家が襲われ、遂に引っ越さねばならなかった。
1798年、折しもフィヒテがニートハンマーと編集していた『哲学雑誌』にフィヒテの弟子が、我々の全ての確信の源泉は、経験、思弁および良心であるが、宗教を基礎づけ得るのは良心だけである。宗教は心の在り様によって基礎づけられ、神への信仰に基いて宗教が根拠づけられているのではない。よって道徳的世界統治者としての神が実在することを信じるのが義務なのではなく、ただひとえに、あたかも神の実在していることを信じているかのように行為することが義務なのだ、という主旨の論文を寄稿してきた。フィヒテはこの論文があまりに大胆過ぎるとして、この論文に注を加えて発表しようとしたが弟子がそれを拒んだので、フィヒテは新しく、確かに理論理性によって宗教を基礎づけることはできない、推論には限界がある、しかしその限界設定のもつ意義には厳然たるものがあり、この限界が為すべきであるがゆえに為すべきことを表現する。つまり道徳律に基いて義務を果たすべく行為すること自体に、神的な世界支配があるとし、あたかも神が実在しているかのように考えることは斥けつつも、或る特殊な実体として神を捉えることは不可能であり、この道徳的秩序が神的なものであるという主旨の「神の世界支配に対する我々の信仰の根拠について」という論文を書き、弟子の論文の前に置いてそれと共に掲載した。
にも拘らずフィヒテのこの論文は直ちに無神論という非難を受け、無神論論争が始まる。それは、それまでのフィヒテの性格と行動がかなりの人々の間に反感を買い、フィヒテ攻撃の絶好の機会として受け止められたことによるだろう。この問題はザクセン地方で特に取り上げられ、ザクセン政府はドレスデンの宗教局の提訴を認め、大学から『哲学雑誌』を全て没収することを命じ、ヴァイマール政府に対しては、論文の執筆者と『哲学雑誌』の刊行者の責任を問い、その処罰を求めた。ヴァイマール政府は穏便に事を治めようとしたが、フィヒテは全く妥協的態度を取らず、自己弁護の文書を書いた。自分は確かに実体としての神を認めるものではないけれど、決して無神論ではないこと、さらに自分および弟子に加えられるいかなる処罰も学問の自由に対する重大な冒とくになると主張した。しかしこの弁明の激しい調子は却って政府の態度を硬化させてしまった。やがてフィヒテに対する査問が噂され、それを受けてフィヒテは、自分に好意的な枢密顧問官に、自分は決して査問を受けないし、もしそのようなことがあれば、自分と同じ考えの大学の同僚と共に職を辞任するであろう、と手紙を書いた。そしてその手紙を見た政府はすぐさまフィヒテ以外は訓戒に留めたが、フィヒテの辞職は認めた。かつてフィヒテをイエナ大学に推挙したゲーテも「政府に対してこのような言辞を弄する者は罷免すべし」と主張した。学生たちは多くの署名を集めた請願書を提出したがいずれも無効に終わった。そしてフィヒテがイエナ大学を辞任したとき、同僚の誰ひとり彼に続く者はいなかった。
この事件は、当時のドイツの思想界を大きく揺さぶった。ヤコービは『フィヒテ公開書簡』において、ひとえに知ることに立脚する哲学を展開したフィヒテを、実体が主体化されて自我になった顛倒したスピノザ主義と呼び、自我論が無神論に到らざるを得ないと主張した。
1799年にフィヒテはベルリンに赴いた。プロシア政府はザクセン政府の『哲学雑誌』没収令を無視していたからである。それ以来フィヒテは終生ベルリンに止まった。フィヒテがベルリンに移ったとき、フリードリッヒ・シュレーゲル以外に知己もなく、シュレーゲルを通じてシュライエルマッハーやノヴァーリスなどのロマン主義者達と知り合いになったが同感はしなかったようである。この頃からフィヒテの考えに変化が現れる。実はイエナ時代の1797年に発表された「知識学の新しい叙述の試み」という未完の小論文の内にすでに思想の展開の萌芽が見られ、さらに1801年の、生前には未刊に終わった『知識学の叙述』においては、知というものが最終的なものではなく、知はその根源である絶対者から生じると説かれるようになる。つまり、フィヒテはカントに基くこれまで固持していた道徳にのみ偏った立場から、宗教と知識学との融和に努めるようになり、一種の神秘主義に傾くようになったわけである。その間に現れたシェリングの自然哲学が、フィヒテがそれを否認してシェリングとの間に激しい論争を惹き起こしたにも拘らず、フィヒテ自身にも影響がなくもなかったのもその変化の理由の一つであろう。
1800年に『人間の使命』と『閉塞された商業国家』、1801年には『最新の哲学の真の本質についての一般公衆に対する明快な報告』が出版されたが、その後は講演活動に重点を移した。この講演の中で歴史哲学を扱った『現代の特徴』が、また神との合一を説くフィヒテ後期思想の完成された立場である『浄福な生の手引き』が1806年に出版された。
1805年にフィヒテはエルランゲン大学から教授として招聘されたが、1806年にプロシアとフランスとの間に戦争が起こり、プロシアはたちまちナポレオンに屈服した。フィヒテは1806年10月にフランス軍がベルリンに迫るとの報を聞いて、ケーニヒスベルクやコペンハーゲンに逃れた。しかしテルジットの和約の履行が完了しないまではフランス軍はベルリンに駐留すると知って、やむなくベルリンに帰還した。ベルリンに帰ったフィヒテは、最悪の事態を覚悟しつつ『ドイツ国民に告ぐ』という講演を行った。この講演でフィヒテが強調したのは、ドイツ国民の中に蔓延している利己心をペスタロッチのような主体的な精神の働きを重視する新しい教育によって打破し、それによって真にドイツ国民の共同体意識を目覚めさせること、そしてそのとき初めてドイツ国民は失われた独立を回復し得る、と説いたのである。
1810年にベルリン大学がプロシア政府によって新たに設立されて、フィヒテはその哲学部長に任命され、さらに初代総長に選ばれた。1812年ロシア遠征に失敗したナポレオンに対しプロシアが先頭に立って第四回対仏大同盟が結成された。フィヒテは自ら説教師として戦場に赴こうとしたが認められなかった。だが、彼の妻は篤志看護婦として傷病者の看護に当たっている間に発疹チフスに罹り一時は重態に陥っていたが、ようやく危機を脱したのもつかの間、今度は妻の看護に当たっていたフィヒテがこれに感染して亡くなってしまう。
『エーネジデムス』書評
ラインホルトの『寄与』(第一巻)は、1792年の初秋にはフィヒテの知るところとなっていた。フィヒテは93年春に、自らが批判哲学のカントの言葉やラインホルトの異論の言葉さえ越えて、その精神を継承しようとの決意を語る。
フィヒテは1793年の秋にシュルツェの『エーネジデムス』を読み、強い衝撃を受けた。フィヒテは、これによって、カントやラインホルトの体系がまだ学の状態にないこと、自分自身の体系もその根底から揺るがされたことを認め、新たに立て直すことの必要性を痛感した。その年の12月の草稿「根本哲学についての我が省察」において、観念論の根本問題を次のように問い直す。「『ラインホルトは何らかのことを考え得るということから、何らかのものが存在しているに違いないことを推論する』。この何らかのものとは、我々の精神の事実に他ならない。いかにして彼の思想は精神の行為と合致するか?いかにしてそうした合致は示され得るか?それが問題なのだ。なぜなら、彼の哲学の対象は、物自体ではなく、事物の表象作用だからである。この表象作用の外部の物については問題ではない。さて、いかにして合致は可能なのか?エーネジデムスによって手がかりをつかむことはできるのか?根本哲学において構成はできないのか、思想を説明し、証明する内的直観を与えることはできないのか?それさえしていたなら、エーネジデムスは論駁されたであろうに。」
ラインホルトにあっては、直観は、対象に関連する表象だとされた。しかし直観だけでは何も認識されない。なぜなら、直観によっては対象が表象されるだけで、表象されたものとして表象されるのではないからである。従って、直観が認識の構成要素になるのは、対象を表象されたものにする表象が認識に属する限りである。このように認識の構造をラインホルトは語りはするが、それぞれの構成要素が事実として説明されているだけで、第一のものから構成される、というようにはなっていなかった。これに対しフィヒテは、主観や客観を可能にする根拠を内的直観に求め、直観による自我の自己措定、という考えに想到する。自我論の成立した現場はこうである。「第一の命題は自我の命題である。しかしこの命題はあらかじめ表象の概念を前提するのか?自我は表象される。しかし同様に意識律も自我の命題を前提する。いつでもどこでも私は循環に出会う。意識も同じように説明されなければならないであろう。いかにしてこの案件は解消され得るか?もともと根本哲学の命運がそれにかかっている」。こう記した欄外に、「定立・我在り、即ち、我在るがゆえに我在り、かつ我であるところのものである。我は端的に我によって存在する。反定立もしくは要請・自我には非我が対立する」と書き込んだのである。こうして93年の暮れにフィヒテは意識律に代わる観念論の新たな「第一原則」を見出した。
こうしてフィヒテは1794年2月の『一般文芸新聞』に『エーネジデムス』書評を発表する。
既述のシュルツェのラインホルト批判には次の四つの論点があった。第一に、意識律よりも矛盾律が優先すること。第ニに、意識律の内の「関係する」とか「区別する」とかいう意味が曖昧であること。第三に、意識律で表わされた意識の特性は特殊な意識のあり方に基くにすぎず、それゆえ意識律は経験的な綜合判断でしかなく、普遍妥当性をもたないこと。第四に、表象の原因として表象能力の存在を容認するのは、独断的であると。
フィヒテはこれらの内、第一の論点以外の全ての論点を受け入れる。その中でとりわけ第三の論点はラインホルトとフィヒテの立場の違いに関わるものとして、注目される。まず、フィヒテは、シュルツェが意識律を意識の特定のあり方にしか当てはまらない経験的な綜合判断と見た点を容認する。しかしそこからシュルツェは、意識律で表わされるのとは別な経験的な意識のあり方を認めていき、結局、絶対確実な根本命題なるものは一般に成り立たないと考える。それに対しフィヒテは、むしろ意識律が経験的な事実を表わすにすぎないからこそ、その根底に、それ自身経験的でないような別な根本命題が存在すべきであり、そこから逆に意識律を説明すべきだと説く。「意識律は単なる事実とは別のものに基かざるを得ない」。意識律の根底に存在するその根本命題とは、「自我は自我にとって、自我があるところものであり、自我が存在するがゆえに存在する」という自己意識を表わした命題である。このような自己意識のあり方をフィヒテは「事行」と名づける。
このフィヒテ独特の用語は、物自体の認識を拒否したことで、「思惟と存在の同一」という主題を疑ったカントから、物自体自身を拒否することで、あらためてこの主題に迫ろうと無理を背負いこみ、あえてその無理を貫き通したフィヒテの苦渋の表現である。物自体に帰せられるべき問題を、自我の哲学という、内なる世界に背負い込み、にも拘らず、物自体に終始つきまつわられ、そのこと自身が示す矛盾的性格を負いながら、この主題に迫ろうとしたそのことにおいて、そこから最も重要な問題が出てくることになった。そしてこのことがなければヘーゲル哲学もありえなかったことは明らかである。
とはいえ、この用語をフィヒテ自身はそれほど度々使っているわけではない。後になればなるほど、この用語は影をひそめてしまう。
さて事行(Tathandlung)は「自我は自我である」(Ich bin Ich.)と同じ意味をもつといわれる。この Ich bin Ich. は Ich bin.(自我は在る)と同じだといわれる。このことを、よく知られているように、フィヒテは同一律 A ist A を手がかりに取り出している。このことは同一律から「自我は自我である」を引き出したという意味ではなく、逆に、後者が前者の根底にあるという意味においてである。同一律はAが存在するかどうかということには関係ない。
では、この必然的関係は何によってそうと判断されているのであろうか。それはもちろん「自我」によってである。そうだとすれば、この必然的関係は自我に与えられているのでなければならない。しかもそれは、端的にそれ以外の何の根拠もなく、判断されているのでなければならない。ということは、それが「自我」自身によって、「自我」に与えられているのでなければならないということである。この必然的関係は、同一のAに関しての二つの措定を、一つは未知の措定、もう一つはこの措定のもとで行われる措定という、二つの措定の間の関連をいうものであるから、この関連が自我に与えられているとすれば、Aは当然「自我」の内にあり、「自我」によって措定されていることになる。
そこでこの必然的関係を媒介として、「Aは、判断する自我に対して端的にあり、自我一般の内に措定されているということによってのみ在る」ということができる。このことは更に言い換えると「自我の内には自己自身と同一な或るものが、常に全く同一な或るものがある」ということになる。これを簡単に言い表わせば「自我=自我」となる。そこで、以上のような理由により A =A.の根底には自我が在るといえる。こうして全ての措定の根底には、「自我がある」があることになる。これは、それ以上何等の根拠にもよらず、それ自身端的に措定されたもの、自己自身に基くものといえる。これは「人間精神の或る行動の根拠」もしくは、人間精神の純粋な性格である。
以上の意味において、自我の自己自身による措定は、自我の「働き」である。自我は自己自身を措定する。この自己自身による単なる措定によって、自我は「存在する」。その意味で、今言ったようにそれは Handlungであると同時に Handlung によって生み出されたものである。「働き」と「働き」によって生み出されたものは、言い換えると Handlung と Tatsache は、同じである。だから Ich bin. は Tathandlung である。 Ich bin Ich. において主語である Ich は、端的に措定された自我であり、述語 Ich は存在する自我である。これら両者が等しいという判断によって表現されるということは、自我は、自らを措定したのだから、ある、ということである。これは逆の方から言っても同じである。そこで「その存在が、自己自身を、存在するものとして措定するという、単にその点に在るところものは、絶対的主観としての自我である」ことになる。存在するがままに自らを措定し、自らを措定するがままに存在するものが、主観、意識としての自我、言い換えると事行であることになる。このことは、自我は自我と対してある。自我は私にとってのみあるが、私にとって私は必然的である、とも言い表わせよう。
以上のことから、意識の事実という自己同一的なものにおいて、同時に措定するものと措定されるものが区別されていること、この区別において、しかも両者が同一であることである。この事行は、自我の在り方として、同一律を媒介として導かれたものであるから、当然、同一律を肯定し前提している。だが逆に、この事行が同一律の基礎になっているのだから、事行は同一律に従いながらも、同一律を超え、その前提となるものである。事行である自我において、同一であることと同一として自らを措定することとは、同時に成り立つ。だからそれは、ただ同一であるというより以上のことを、言っていることになる。在ることが自らを措定することであり、自らを措定することが在ることであるという形になる。このことは、常にすでに自らを超えることにおいて、自らと同一であるといっていることになる。
フィヒテ自身は、意識としての自我の同一性を語り、そのことを事行という概念で表現しているだけのことのように思える。従って、その場合、同一律の同一性とこの自我の同一性の違いを、必ずしもはっきり自覚していたとは思われない。実質的には、そういうことを語りながら、それがもつ意味を根本的には自覚していなかったのは、自我において措定されているものに「実在範疇」が帰せられていることからもわかる。この「実在」という概念が普通もっている意味から事行にことを連想するのは不可能である。フィヒテの「実在」と呼んでいるものが、事行という自己否定(超越)を内在させる在り方と、どういう形で一つになり得るか、それがフィヒテにおいては無造作に結び付けられ、その扱いは形式的である。
さて、このような自己意識の在り方をフィヒテは「事行」と名付けたが、これに対してラインホルトの言う「意識」(主観ー表象ー客観)は自己意識ではなく、対象意識でしかない。フィヒテは対象意識の根底にはつねに自己意識があることを指摘しているわけである。これはカントの一切の表象に伴い、かつ多様な表象を統一し、つねに同一な自発的作用であるところの「私は考える」という表象、即ち超越論的統覚としての自己意識を継承したものであろう。
ただし、フィヒテの自己意識の捉え方はカントのそれと同じではなく、カントが認めなかった知的直観をフィヒテは人間の認識能力として認め、それによって自己意識は与えられるとした。カントにおける超越論的統覚と呼ばれる自己意識は、それ自身実在的意味はもっていない。カントは言う。「統覚の綜合的根源的統一において私が意識するところの私自身とは、私が私に現れるがままのもの(現象)でもなければ、私自体があるがままのもの(物自体)でもない。むしろ私は、「私は存在する」ことを意識している。このような表象は思考であり、直観ではない・・・これによって私の存在はすでに与えられているわけだが、しかし私が自分の存在を規定する仕方は・・・まだ与えられていない。そのためには・・・時間を根底とする自己直観を必要とする。この自己直観は感性的直観であって、規定されるものの受動性に属する。ところで私がこのような直観以外に別な直観をもたないとすれば、私は自己の存在を自己活動的存在者の存在として規定するわけにはいかない」。カントにとって、およそ或るものを規定するためには感性的直観が必要であり、そこでは或るものは規定される限り受動的であり、自己活動的ではないのである。
それに対してフィヒテは一歩踏み込んで「私は存在する」ことを「自己活動的存在者」として「規定」し得ると考える。それは、彼が感性的直観とは別な直観、「知的直観」を容認するからである。というのは「自我」は物体のように他から規定され認識されるものではなく、二重の意味で自己関係的なものとみなされるからである。一方で「自我は、自我があるところのものであり、自我が存在するがゆえに存在する」、即ち自己産出的なものである。他方で、そのことが同時に「自己にとってある」、即ち自己認識的なものである。それゆえ、認識の素材を与えるものを一般に直観と呼ぶのならば、自我に関する認識素材を与える直観の源は自我以外の物にあるのではなく、自我にある。自我はそのような自己に発する直観、知的直観をもっている。ただし、自己活動的な「自我」という概念がカントに全くなかったわけではない。カントは『人倫の形而上学の基礎』(第三章第三節)において、「人間は、単なる現象から合成されたところの性質が即ち彼自身の主体の性質であるということだけでは満足できずに、この性質を超えてその根底に存する何か別の或るもの、即ち彼の「私」なるものを、この「私」がそれ自体としてどのような性質のものにもせよ、想定せずにはいられないのである。・・・・人間は、自分自身が実際に一種の能力をもっていることを知っている、彼はこの能力によって、自分を他の一切の物から、それどころか対象によって触発される限りの自分自身からも区別する、その能力とは即ち理性である。・・・理性は、理念と呼ばれる理性概念によって純粋な自発性を顕示し、こうしておよそ感性が悟性に供給する一切のものを遥かに超出するのである。」と述べていた。ただし現象の根底にあるこの「私」(自我)はカントにおいては行為の主体であり、認識の主体ではなかった。フィヒテはそれを行為の主体であると同時に認識の主体でもあるものと解したのである。
このように対象的意識の根底に自己産出的であると同時に自己認識的な主体を容認することで、シュルツェの第四の論点に答えることができるようになる。「表象の原因」として「表象能力」の存在を認めるのは、カントの批判の精神に反した独断論だというシュルツェの批判に対して、フィヒテは上述の根本命題における「自我」を「表象能力」と言い換えて、次のように答える。「表象能力は表象能力にとってまた表象能力によって存在する」。つまりラインホルトにおいて表象能力と表象との関係とされたことが、いまや産出し認識する自我と産出され認識される自我との関係に置き換えられる。そうであれば、表象能力と表象の関係は、シュルツェが想定したような対象の次元における異なったものの間の因果関係ではなく、自我が自己と結ぶ関係、即ち自己関係(それをフィヒテはここで「循環」と呼ぶ)と見られねばならない。その限り、対象的な物の因果関係に固執し、それ以外の現象に関する言説を空虚な独断論と非難するシュルツェの批判は的外れとなる。
これによって表象能力に対する疑問に答えられたとしても、しかし、表象が外的なものとしての物自体の作用の結果だという点に関する疑念(それはヤコービの根本的疑問でもあった)については払拭できたのだろうか。知的直観は自我自身の存在は確認し得るとしても、自我の外にある対象についても確認し得るのであろうか。その点をフィヒテは懐疑論者との論争の鍵と見るが、ここでは自我に「対立するもの」としての「絶対的客観」ないし「非我(Nicht Ich)」という概念を提示するに留めている。ただしこの非我は知覚され得ない根源的客観である。この非我も経験的に与えられるものとしては、意識されない。しかしそれは物自体ではない。フィヒテはむしろカントとラインホルトが物自体に対して十分に強く反論してこなかった点を不満に思う。というのは表象能力から独立に物を考えることは、人間本性には全く不可能であるからである。非我は物自体ではなく、「自我にとってある」もの、「自我との関係」によって規定されるものなのである。
かくて経験的意識の根底に一方では自我の自己関係があると共に、他方で自我と非我との対立関係があることになる。ここにシュルツェの第ニの論点で問われた、「関係する」と「区別する」の意味が明確化されたことになる。フィヒテによれば、「関係する」は同一性の命題(同一律)によって規定され、「区別する」は反立の命題(矛盾律)によって規定される。この二つの根本命題の対立関係は、理由律に基く第三根本命題によって綜合される。
なおシュルツェは、表象の客観に対する関係と主観に対する関係とでは関係の意味が異なるのに、それをラインホルトが見逃したと批判した。そのことはフィヒテも認める。そこでフィヒテは一方で客観と表象の関係を原因と結果の関係とみなし、他方で主観と表象の関係を実体と属性の関係と呼んだ方がよいと言う。
最後に、第一の論点、つまり矛盾律の意識律に対する優位については、フィヒテはラインホルトに与する。意識律自身が矛盾律に従っているとしても、矛盾律は思考の規則でしかなく実在性をもたない。それゆえ矛盾律は意識律に優位とは言えない。しかしフィヒテはシュルツェの果たし得なかった矛盾律の実在的妥当性の根拠づけを『全知識学の基礎』で第ニ根本命題を導出する際に行おうとする。それは論理学の原則と哲学の原則との関係の問題でもあった。ちなみに、フィヒテは『エーネデジムス』書評と同時期に書いた草稿『根本哲学に関する若干の省察』において、論理学と根本哲学との「循環」を次のように示唆している。「根本哲学はそれ自身その形式からして一般論理学の下にあると同時に、一般論理学も根本哲学の下にある。そこには循環がある」。それは、「A=A」即ち同一律と「自我は存在する」との循環である。
フィヒテは、主客間の区別の成立そのものの解明を試みた。経験において、物と認識すべき知性とは不可分に結ばれている。前者を捨象すれば知性自体(観念論)が得られ、後者を捨象すれば物自体(独断論、実在論)が得られる。観念論と実在論とは、知の知の問題であり、知、即ち経験の問題ではない。経験そのもの、通常の意識においては、ただ客体のみが存在し、概念は存在しない。概念は対象に消失し、それと一体化している。観念論と実在論との対立は、経験の説明根拠をめぐる根本原理に関する争いであるが、両体系は互に反駁できない。フィヒテは両原理のこの不可通約性を基にして、この対立を、自由と必然との世界観の対立として知識論的に規定する。
フィヒテが自覚的に観念論を選んだとき、真理概念としての対応説は否定され、主客間の認識論的区別は知性内の区別に置き換えられる。知性の内には二重の系列がある。存在することと見ること、実在的なものと観念的なものとの系列である。この二重のものの不可分性に知性の本質が成り立つ。知性は綜合的である。ここで綜合的とは知の実在性即ち、知性内に投影された対応説的な真理性を指す。こうした前提の下に知識学の根本命題が示される。書評においてフィヒテは述べる。「ラインホルトによって切り拓かれた道をさらに遡行してもし将来次のことが発見されるならば、即ち、(1)直接的に最も確実なる我ありが、また自我にとってのみ妥当すること。(2)全ての非我はただ自我に対してのみ存在すること。(3)非我はその存在のあらゆる規定を、ア・プリオリに、ただ自我への関係を通じてのみ得るということ。(4)そのア・プリオリの認識が可能である限りにおいて、しかし、こうしたあらゆる規定が、非我一般への関係の単なる制約を通じて、端的に必然的に生じること。もしこれらのことが発見されるならば、そこから次のことが生じてこよう。即ち、(5)物自体は、それが自我と対立しない非我とみなされる限り、自己矛盾すること。即ち非我は対他存在であって自体存在ではない。(6)物はそれ自体、あらゆる思惟可能の知的自我、即ち、同一律と矛盾律に従って思考する存在者によって考えられるべきであるがままに、そのようになっていること。(7)それゆえ論理的知性は、有限な知性に考え得るあらゆる知性にとって同時に実在的でもあること。(8)この知性以外には何もないこと」。
即ち、ここでは「我あり」の明証的真理(1)を基に、自我と非我との対応説的真理が成り立ち(3,4,6)そこのなお同一律、矛盾律の斉合説的真理性が(6,7)成立して、それが全体として観念論を成す(2,5,8)という構想が語られているのである。論理的知性が実在的である、つまり綜合的である、ということは、分析性が純粋な分析性としてではなく、綜合性へと非形式化されることを意味する。この考えはあながちカントから逸脱していない。むしろ「ア・プリオリな綜合判断」という考え方そのものに内在する矛盾が露呈し、弁証法の論理が芽生えている。
同一律の形式性をフィヒテは、A=Aという形式においても、Aの定立それ自体は綜合的であるという点から突き崩す。A=Aはまず「Aが定立されていれば、Aは定立されている」に置き換えられる。ところが、「定立ー被定立」の関係は自我によってのみ可能である。「それゆえA=Aという命題は、根源的にただ自我にとってのみ妥当する」即ち自我の自己定立、自我=自我に還元される。自我の定立においては自我は能動的である。「それが定立されているが故に定立されているのではなく、それ自身が定立するものであるが故に定立されている」つまり、Aの定立とは、Aの全内容を「A」という否定的統一の内に綜合する意識作用のことであるとして、「・・・・である」を「・・・・を立てる」へと他動詞化し、しかもそれを「定立ー被定立」という意識の志向性における内在的関係に基礎づけたのである。
『知識学の概念について』
すでにラインホルトはカントの存在論を拡張し、その基礎としての意識律の形式的特性について反省し、それは、自己自身によって規定され、普遍的、実在的でなければならず、それによって意識律とその下の諸命題は学的体系を成し得ると述べていた。フィヒテも基本的にはこれらの点を認めるが、しかし今では「意識」の「事実」ではなく「自我」の「事行」が存在論(形而上学)の基礎をなすべきである。そこであらためて自我の根本命題がいかにして形而上学の出発点をなし、またいかなる意味で自己自身によって規定され、普遍的、実在的であるかを示す必要があった。それによってシュルツェの疑問に対し一層説得的に答え得るはずである。フィヒテは知識学への導入部としての『知識学の概念について』で、まず個別科学との関係で知識学の形而上学としての特性を吟味し、次に知識学内部での根本命題をめぐる種々の循環に関して知識学の方法論的特性を考察している。
まず、「知識学(Wissenschaftslehre)」とは「学一般の学」、つまり個別科学一般を根拠づける学を意味する。フィヒテによれば、一般に学というものは何であれ、確実な内容をもった或る命題をもとに、それに等しい内容の諸命題を次々につらねるという体系的形式を具えていなければならない。だが個別科学の根本命題の内容が何に基き、その体系的形式がいかなる条件において成立するかは、知識学においてしか解明できない。知識学の根本命題は自己の内部で基礎づけられ、しかも自己自身のうちで、自己自身のゆえに、自己自身によって確実でなければならない。それは一切の知に伴い、一切の知のうちに含まれ、一切の知がそれを前提にしている。ただし知識学の根本命題が自己自身によって根拠づけられているということは、意識律の場合のように被定義語と定義語とが同一の事実の諸契機をなすという事情によるのではなく、命題の内容とその形式とが別のものではないことによる。即ち内容と形式は相互に規定し合っている。形式はその内容にのみ当てはまり、内容はその形式にのみ当てはまる。具体的に言えば、ここで形式というのは、絶対確実なものに等しいという形式であり、それが当てはまる内容とは同一性という形式をもった何ものかであり、それはフィヒテにおいては、自我は自我であるという同一性の形式で存在するところのもの、自我の存在に他ならない。この自我の存在を命題形式で表現したものが、知識学の第一根本命題である。それは形式に関しても内容に関しても絶対的に端的に自己自身によって規定されている。さらに、形式は自己自身によって規定されるが、内容は他によって制限されている第ニ根本命題と、逆に内容は自己自身によって規定されるが、形式は他によって制限されている第三根本命題がある。この三つの根本命題から全ての諸命題が体系的形式に則って導出され、かくて知識学が一個の体系として成立することになる。
しかしさらに重要なのは、このような知識学の自己完結的体系が学的叙述として実際にいかに遂行可能かという問題である。その点に関してフィヒテは三つの問題を提出する。第一に、根本命題に基く知の体系が唯一のものであり、永遠にそれ以外の知はありえないのかという問題である。第ニに、知識学の体系自身、人間のひとつの知の営みであるが、フィヒテの根本的立場は知や表象ではなく行為であるから、従って、知識学の知の営みが行為の基盤の上でいかにして位置づけられるかという問題が生じる。第三に、シュルツェが強調したように、知識学はそれ自身論理学の規則に従っており、論理学も一切の個別科学の体系的形式を究明する学であり、そこで論理学と知識学の関係はいかなるものかという問題が出てくる。これらの問題についてフィヒテはそれぞれ或る循環が生じることを指摘する。循環とは、これから証明されるべきものをすでに真と認めてしまっていること、つまり論理学的には先決問題論証の虚偽に相当するものである。知性自体の必然的な働き方が、意識の形式に取り入れられるべきだとすれば、その働き方は、すでにそれとして知られていなければならない。従ってこの形式に、すでに取り入れられていなければならない。これは、意識の外にあるものがすでにその内にあったのだということを意味する。外が内であり、内が外であるような関係が、フィヒテにおいて成り立っていて、それが避けられ得ないものと自覚されている。事行である自我は現にあってないものである。同一律の主体でありながら、それを超えることにおいて初めて事行は事行である。いつでも超えて外に出ようとする自らにおいて、自らが維持されるのである。外に出ることが、同時に、内に還ることになる。フィヒテが無神論だといわれたのは決して偶然ではなく、それだけの理由がある。自我が有限な精神であるという自覚において、常に自らを超え出ないではいられない。しかもなお超え出ることにおいて自らに出会わざるを得ない。そういう意味で自我は有限である。この循環的性格は、自我が同時に有限であることにおいて成り立つ。フィヒテは、有限な精神の場で考えることを捨てなかったのだから、その限りで、無神論ではなかったといえる。だがそれが今言った循環になっていることを考えると、キリスト教的には、無神論と言われる理由が全くないとは言えない。フィヒテは無神論論争に巻き込まれる前から、自分は無神論ではないとわざわざ断っている。それはおそらく絶対的自我と自我と非我という関係の中に、全存在を包み込むことに、自らも無神論的なものを感じとっていたからだといえよう。
さて第一に、根本命題が唯一のものかどうかが問題になっている時に、「根本命題に基く体系は唯一のものである」という命題で答えたとすると、この命題は、問われている当の根本命題の妥当性をすでに前提してしまっている、という循環を引き起す。これは知識学が唯一の完成された体系か否かに関して出てくる問題である。フィヒテによれば、一般に体系というのは、根本命題から他の一切の命題が導出されると共に、逆に他の一切の命題が根本命題に行き着く、つまり根本命題が他の一切の命題の全ての出発点であると同時に到達点でもあるような、円環構造をなしているものである。そして知識学以外の学は根本命題に還ってこないので不完全であるが、知識学だけがそのような円環構造をなし、完全な体系だと考えられる。しかし仮にそうだとしても、知識学の根本命題に基くのではないような別な体系が未来永劫にわたって出てこないかどうかが、問われ得る。
その場合、やはりそういう別の体系はあり得ない。というのは、知識学のみが唯一の体系だと言ったとする。その時、「知識学の体系は唯一のものである」という命題自身が、「人間の体系の一つの構成部分」であるはずである。従って、その命題自身、根本命題に基く唯一の人間知の体系によって「証明される」ものである。つまり目下唯一の妥当性が問題になっている当の体系をすでに前提にしてのみ、「知識学の体系は唯一のものである」という命題を確実なものとして述べ得ることになる。ここには明らかに先決問題論証の虚偽、循環がある。しかしそこから今度は、別の根本命題があり得ると言ったとする。その根本命題は知識学のそれとは全く対立するものである。従って、その根本命題からは、先の場合とは対立する命題、即ち「人間知は唯一の体系であるのではない」という命題が出てくるだろう。そうだとすると、およそ体系的に確実な知は存在せず、全ては相対的に制約された知でしかないということになる。
従って、一方で「知識学の体系は唯一のものである」という命題を語るとすれば、それは循環に陥り、他方で別の根本命題があると認めれば、そこには確実な体系知は生じない。この内前者の場合は、恐らくラッセルが問題にした「それ自身の要素である集合」ないし自己引照的言明に関するパラドックスに相当するものであろう。そうだとすれば、この循環は、「知識学の体系は唯一のものである」という命題は知識学の体系における命題群とは、階型を異にするとみなすことで解決するかもしれない。そうなると、知識学が唯一の体系であるという答えも、そうでないという答えもあり得ることになる。ただしラッセルの記述理論は、現代では同じ英米分析哲学者であるストローソンやオースティンによって欠陥のある理論として否定されているが。しかしフィヒテ自身はこの問題に対していわば帰謬法でもって対処し、別の体系を否認することによって、知識学の体系の唯一の正統性を主張する。フィヒテによると、もしも知識学の根本命題が「自我は自我である」とすれば、別の体系の根本命題はこれとは全く対立する「自我は自我でない」ということになる。しかしこの命題は矛盾律に反しており、成り立たない。それゆえ、「自我は自我である」という命題に基く知識学の体系のみが唯一認められる。
第一の循環は体系知とそれに言及する知との間の、従って知と知との間の循環であったと言えるが、第ニの循環はこれと異なる。それは知と非知的な行為との間の循環である。フィヒテによれば、知識学の対象は人間精神の行為であり、それは学から独立にあるもの、表象以上のものである。この行為は思考されなければならないわけではない。知識学はこの非学的行為を反省と抽象によって、意識に高め上げ、思考され、言葉において捉えられる命題で表現しようとする。だが反省はそれ自身人間精神の行為の一種である。ただし知識学の対象が、人間精神の必然的行為であるのに対して、知識学の立場である反省という行為は自由の行為である。しかも反省という行為は行為一般の系列において他の多くの行為によって媒介されて初めて生じるものと解される。例えば行為Dは行為Cなしには、行為Cは行為Bなしには、行為Bは行為Aなしには生じ得ないが、行為Aは他の行為なしに端的に成立するとする。その際、行為Aの学的反省はAと全く別のDという行為によって行われるとすると、このDはA,B,Cという他の行為を経て初めて成立するにも拘らず、Dを先取りしないと、Aの学的反省が行われない。かくして人間精神の行為が知識学の命題で表現されるとなると、人間精神の行為は、「そのようなものとしてすでに知られていなければならない。従ってそれはこの意識の形式ですでに受け入れられているのでなければならない」。これから初めて知られるべきものを、すでに知っていなければならない。その限り、ここには「循環」がある。
これはプラトンにおける、探究の対象が何であるか知っていなければ探究できない、さもないとそれは名前も顔も知らない人を探すようなものである、しかしそれを知っているならばすでに答えは出ているのだから探究の必要はない、という探究のパラドックス以来哲学史上よく知られている循環であり、ディルタイやハイデガーが問題にした解釈学的循環に相当するものであろう。それに対しフィヒテはハイデガーと同様に対処する。即ち、形式論理学的な矛盾であるとみなしてそれを免れようとするのではなく、むしろ循環の中に入っていって、それを徐々に解決すべきだと考える。それは、対象に対する当初は漠然とした理解を出発点として受け入れつつ、それを一層明確なものへと仕上げるという仕方である。人間精神の様々な試みを、盲目的な手探りで探し回ることで、ぼんやりとした明るみから、明るい真昼の光のもとにたどり着く。かくして人間精神の行為は反省によって捉えられ言語化され、「真理感覚」に導かれながら、当初理論的自我として解明され、しかる後に実践的自我において行為そのものの全容が解明されることになるだろう。
第三の循環はこれと関連して、論理学の原則と知識学の命題との間の循環である。知識学の立場は反省と抽象による学的知の営みであるが、その際、反省は論理学の原則に従って行われる。ここに論理学の原則と知識学との間の循環がある。この循環も第ニの循環の場合と同じように、まず暫定的に論理学の原則の妥当性を認め、それを用いて人間精神の行為を反省し、その結果得られた哲学的知(根本命題)の内に、前提された論理学の原則と同じ内容を認めることができるならば、論理学の原則を根拠づけたことになる。ただし、この論証は、厳密に言うと、なお決定的ではない。というのは「正しくない導出」をしたのにも拘らず、結果的に前提と結果が一致することもありうるからである。それゆえ、論証の蓋然性を高めることはできるが、決して「確実性」にはいたらない。そこで蓋然性を高めるために幾度も命題系列を考え直したり、逆に「結果から原理へ戻る」という仕方で再検討することになる。知識学においては常に改善の努力が必要であり、人は無謬性を要求してはならない。
ともあれ、このような論理学の基礎づけにより、知識学の根本命題は、ラインホルトの意識律が論理学に対して実在的であったように、実在的であることとなろう。言い換えれば、フィヒテはこの点に関するシュルツェの疑問に対して、それに対応しながら、つまり論理学の優位性を一応暫定的に容認しながら、最終的にラインホルトの立場を擁護したことになろう。
以上、個別科学と知識学(形而上学)との関係、また知識学の体系知に関する三つの循環(知と知の間の循環、知と非知的な行為との間の循環、論理学と知識学との間の循環)とその解決によって、フィヒテは知識学そのものの形式的特性を正当化したことになる。知識学は自己自身によって根拠づけられた根本命題と体系的形式によって、普遍的で実在的な唯一の円環的体系を成し得る。しかしそれ自身は表象という派生的な立場であるがゆえに、体系全体との関連で種々の循環を免れることはできず、暫定的な知の事後的な根拠づけという方法を取らざるを得ない。そこで次にそのような形式的特性を具えた知識学が『全知識学の基礎』において内容的にいかに成し遂げられたかを知る必要がある。
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