フィヒテ 『自然法の基礎』 (1)

 自然法論の基礎 第一巻
 フィヒテは元々、自我と非我の統一が未完で、常にすでに成立しているはずの自我の統一を無限の努力による要請にすり替えざるを得なかったゆえに、理論と実践の統一の達成の方法も不明のままでしかなかった、という理由で『基礎』には満足していなかった。結局フィヒテは、『基礎』を継続して完成させることを断念し、『自然法の基礎』第一巻を刊行した後すぐに知識学の改定に着手する。二つの序論を持つ『知識学の新叙述の試み』がそれである。しかしこれもまた未完に終わった。だが1796年から99年にかけての講義『新たな方法による知識学』は、知識学を最後まで遂行したものである。『新叙述』にせよ、『新方法』にせよ、『基礎』より新しい手法や着想をフィヒテはつかんだという自信があった。その一つが『自然法の基礎』で初めて展開された相互人格性の理論である。それは、実働(Wirkung 実効的働き)能力のある身体をもつ自我が他者からの「促し」によって初めて現実的な自己意識に達し、かつ自由による自由の制限を通じて他者と相互承認を得るというものである。この着想によって、自己意識の条件が汲み尽され、自我統一を正当に主張でき、また他者と共存して生きてゆく実践的世界が開かれたのである。
 フィヒテは『新方法』の中で、法論は、超越論的観点に立ち、理論と実践との中間に位置する、と特徴づけた。法論は、倫理学と同様に、理性一般を対象とし、経験的個体としての人間は考察の外に置かれ、また法論は、世界がどのように見出されるべきかを考察される限り、理論的である。また、理性目的が道徳界で達成されるべきであるならば、実働する諸力の闘争を断ち切り、制限するような法的世界がすでになければならない。従って法的世界は道徳界が可能になるための前提である。だが法的世界はまた実践的でもある。それは、自然がそれ自身によってあるのと違い、また道徳性のように自己制限によるものでもなく、外的手段によってそうであるからである。従って法的世界は、感性界ないし自然と道徳界ないし叡知界とを媒介する位置にある。人間は実働によってこうした合法的体制を産み出すが、この実働性(Wirksamkeit 実効性 身体を具えた個体としての自我が感覚界で実際に身体を動かして或る結果を産み出すこと)は自然と自由とが一体になった実働である。
 カント哲学の完成を課題として引き受けたフィヒテにとって、法論は理論理性と実践理性との統一の遂行に決定的であろう。実際、促しと自由の自己制限は、そこにおいて認識と行為が一つになるところとして、この課題の解決の本質に関わっているのである。
 
 序論
 [実のある哲学的学問と形式的哲学との区別]
 (一)理性の特徴は、行為するものと行為を受けるものとが同一である、という点にある。自分の経験的・個別的自我を捨象し得る人は、理性という概念を「自我」という言葉の中に納めている。或る人間に対して現に在るものは、彼の中に現にある。人間の中には、自己自身に向かう行為に従わないものは一つもない。彼が直観するものは、彼が自己自身の中で直観するものであり、しかも自分の行為だけである。だから、自我とは自己自身に向かう行為以外の何ものでもない。ただし、この行為はその中に力を内包している基体というような「行為するもの」ではない。知識学の特質は物自体としての自我を哲学の根底に置くことではなく、逆に自我の必然的な行為様式から全ての基体を導出することにある。知識学に反対論を唱える人は知識学の前提となっているカントさえ把握していない。
 (二)人間のかような内的行為は、必然的に起こるか、それとも自由に起こるかどちらかである。表象との関係で言えば、必然的行為によって、必然性の感情に伴われた表象、つまり感覚的知覚を始めとする経験が生じ、自由な行為からは想像が生じる。
 (三)人間は、自己自身を存在するとして措定する限り、即ち自己自身を意識する限り、存在する。自我であれ、非我であれ、全ての存在は、意識の特定の変様である。だから意識がなければいかなる存在もない。これに反対する人は、自我の基体を想定するが、それでは自我は一個の自我でありながら自我ではないことになる。従って、人間という概念から生じてくる必然的な行為は、自己意識の可能性を制約しているような行為に限られる。彼は自己自身によるその措定作用に帰属するもの全てを必然的に行い、それらはいずれもこの措定作用を通じて表現される行為の圏内に存している。
 (四)人間は、行為するときには自己の行為を意識しない。なぜなら、彼自身がその行為そのものであり、それ以外の何ものでもないからである。しかし、彼の意識するものは、意識するものの外に客体として、行為の外部に存するはずである。つまり行為とは反対のものであるはずである。自我は、この行為の中で、しかもこの行為によってのみ、自分に対して発生するものだけを意識する。そしてこれが意識の客体、即ち物である。また、存在とか物とかは人間との関係においてのみ語られ得るのだから、これ以外のものは存在しない。
 (五)自由な行為ではなく必然的行為の内でこのように発生するものは、それ自体、必然的現象である。つまり、自我はこの発生するものを表現することにおいて自己が強制されていると感ずる。そうした場合、我々は「その客体は実在性をもつ」と言う。全ての実在性の基準は、或るものが、それが表現されるその通りに表現されねばならないという感情である。我々が生きているなら、私が本当に在るなら、あれこれのものが在る、というのが物の実在性についての我々の確信である。
 (六)そうした客体に差異が在るなら、それは自我の行為様式の差異によってのみ生じる。いかなる客体も、自我に対して在る通りに、自我に対して規定された仕方で生成している。自我は、自ら行為する通りに、規定された仕方で行為するからである。客体を反省し、その上で客体を発生させる行為様式を客体から区別するなら、この行為は、所与のものを単に概念的に把握する働きになる。こういう行為様式は概念と呼ばれる。
 (七)概念と客体は一にしてまさに同じものであり、ただ異なる側面から見られたものに他ならない。即ち、自我の行為そのものを、行為の形相(何かがそもそも在るということ)の面から見れば概念であり、質料(そのものがしかじかのものであること)的な、内容の面から見れば、つまり何が生起するかに注目して、それが生起するということを捨象すれば、それは客体である。
 (八)行為から発生するものに先立って、行為そのものや特定の行為様式を知覚することはできない。通常の意識にとっては、客体だけが存在し、概念は存在しない。概念は客体の中に消失して、客体と合体している。換言すれば、我々は、経験しているときは、経験の対象に没入し、その中でいわば我を忘れ、つまり自分の精神の働きを知覚していない。これに対し、行為それ自身の中に、また行為している間に、行為の内に発生するものを見出し、また行為そのものを見出すような超越論的意識は、経験ないし通常の意識が成り立つための条件を求める。ところで意識は物ではなく、働きであるから、超越論的認識は通常の意識が働いているその現場でしか為され得ない。
 (九)可能な規定を自分の精神の中で産み出し、他人が我々に示すそのそれぞれのやり方で自分の精神を任意に行為させるには、自由に、またいかなる思考の必然性も現存していないところで、それを行うのが最もたやすい。このやり方は、理性の根源的な行為様式を他人から聴いてそれを任意に模倣することであり、こうした行為様式に意味と実在性を与える唯一のものである必然性が消失してしまった後で行われる。このやり方からは客体を欠いた概念、空虚な形式的哲学が生じる。これに対し、精神が現実的に行為しているときに、つまり、精神がかくかくの特定の仕方で行為しなければならない、という状態にあるときに、その精神を行為するとして注目すること、これは最も難しい。後者のやり方によってのみ、哲学者は自分の精神の実のある思考の傍観者になるのである。
 形式的哲学者は、あれこれものを思考し、このように思考することの中で自己自身を観察し、こうして、自分がそれを思考することができたという理由に基いて、自分が思考することのできたものの全系列を真理として立てる。けれども、彼の観察の客体は、何らの方向をもとらずに、幸運をあてにして自由に操作する当人自身であるか、それとも、外から自分に与えられた目標に従って自由に操作する当人自身であるかのいずれかである。これに対し、真の哲学者は、理性をその根源的で必然的な操作において観察しなければならない。これによって、彼の自我とその自我に対して在るもの全てが、現に在るようになる。こうした哲学を導入し、単に形式的な哲学的思考を廃絶することこそ、カントの目的であった。しかしカントの体系への誤解は、この体系を従来の形式的哲学とは異なるが、やはり形式的哲学と見なしたカント学派や、既にカントによって主要な点では除去されているにも拘らず哲学にそもそも欠けているものを洞察して懐疑論を主張したマイモンやシュルツェなどがあった。
 知識学には精神的行為の極めて異なった二つの系列がある。哲学者が観察する自我の系列と、哲学者の観察の系列である。知識学に対立する哲学にあっては、思考の系列は一つしかない。それは哲学者の思想の系列である。そこでは素材そのものは思考するとして(als denkend)は導入されないのである。これに対し、知識学の中では哲学者は、自ら現実に活動し、そのときに自分自身を観察する。つまり、観察される自我とは哲学者自身の自我である。ただし、観察する哲学者の自我が全能力を備えた現実的で具体的な個体としての自我であるのに対し、観察される自我(根源的自我)は最初は自我性という単なる空虚な形式であるにすぎず、そこから個体的自我へと自己構成するのでなければならない。自我のこの自己構成は知識学の様々な手法に応じて種々あるが、典型的な手法は、自己意識が可能であるためには、しかじかの条件がなければならない、しかしこの条件が可能であるためには更に別の条件がなければならない、以下同様というように、哲学者が既に知っている自我と知の法則に従って条件の系列を遡及するやり方である。この過程をたどる中で、自我に様々な性質(直観能力、身体など)が必然的なものとして帰せられるようになる。その際哲学者は、現実的な自我であり、かつ現実的な自我を知っている者として、構成がどのような結末に到らなければならないかを知っているわけだが、自己構成する自我になんら介助(Zutun)することなしに、その過程を傍観ないし注視しなければならない。ただし、構成がそのつどの局面で予想された結果に達しない(観察者の系列と観察される自我の系列とが一致しない)ときには、課題を立て直すなり、構成の方向を変えるなりして、過程を調整する場合もある。以上の方法論を最も明確に活用したのは1796年から99年にかけての講義『新たな方法による知識学』である。なお、自己構成する自我とそれを観察する哲学者という構図による方法論は、シェリングの『超越論的観念論の体系』やヘーゲルの『精神現象学』に多大な影響を与えた。

 [実のある哲学的学問としての自然法論は何を行うべきか]
 (一)一定の限定された概念が根源的に理性によって存在する、しかも理性の内に含まれている。このことは、我々が人間である限り、我々によって一定の限定された仕方で必然的に行為がなされる、という意味に他ならない。哲学者はこの特定の行為について、それが自己意識の条件であることを示し、その形式に従って記述し、その概念の必然性の証明を行わねばならない。
 (二)人間は、自己を個体として措定するのでなければ、つまり何人かの人間の内の一人として措定しなければ、自己意識を備えた人間として自己を措定することはできない。この措定作用における行為様式が、権利ないし法の概念となる。それは純粋理性の根源的概念でもある。私は私を理性的だとして、つまり自由だとして措定する。しかし私は私の自由の全てを私に帰するのではなく、他者にも自由を残しておくことで、私自身を制限する。権利の概念は自由な存在者の間の必然的な相互関係についての概念である。
 (三)自由の概念の中には、さしあたりは、我々の可能な実働性(Wirksamkeit)の概念、つまり実際に働いたなら生じるであろうと予想される結果の概念、予期された目的の概念を構想する、という絶対的自発性による能力しか含まれていない。カントやフィヒテにとって、自由とは、超越論的意味で解されるときには、新しい状態ないし系列を絶対に開始する能力であるが、自由に行為するとは、恣意的ではなく、その後の一連の経過が自由による因果系列をなすように行為することである。そのためには行為の目的を予め構想しなければならない。だかそのように構想することは先行のものによって規定されるのではなく、先立つ原因がない絶対的自発性によってなされる。そして人間は、この単なる絶対的自発性の能力だけをお互いに必然的に帰属させ合うのである。
 だが、一人の理性的個体、つまり人格が自分自身を自由として見出すためには、彼の活動の思考から彼の外の世界の中に何かが帰結するということが必要である。つまり、この個体の実働性の概念には、その概念によって思考された対象が経験の中で対応することが必要なのである。その意味での自由は、相互に影響し合っている諸人格にとっては、彼ら全ての実働性が一定の限界内に収まり、世界は彼らの自由の領分として彼らの間で分配される、という条件があるときに限り可能であろう。しかし彼らは自由だとして措定されているのだから、そうした限界は自由の外部に存することはできない。なぜなら、もし外部にあるなら自由でなくなるからである。だから限界は全ての人が自由それ自身によって自分に対して措定しなければならない。即ち万人が自分と交互作用し合う人の自由を妨げてはならない、ということを自分に対して法則としなければならない。
 (四)これによって、我々は権利ないし法の概念の全客観を、つまり自由な人間の共同性を獲得したことになる。だが、この共同性の思想はいまだ現実とはなっていない。この概念が実践的概念として考えられる場合には、それはもっぱら技術的に実践的である。というのは、そうした共同体が樹立されるべきであるということは、この概念によっては決して言われていないからである。
 (五)汝と相互作用し合う全ての人格の自由の概念によって汝の自由を制限せよ、という権利規則は、汝の意志の格律を汝に対する普遍的法則として行為せよ、という自己自身との完全な一致を最終的使命とする人倫の原則によって、良心に対して新たに認可される。かといって権利規則はそれだけで成り立ち、人倫の原則から導出されるものではない。人倫法則は形式的であるが、我々は自分のことを、どうしても自然が結び付けた人との社会的交わりの中で考えざるを得ないのである。我々は、良心において、そうあるべき通りに、私の知によって、私の自由を制限するようにと拘束されているが、この道徳的義務づけは法論では話題にならない。つまり、法論の領域では、各人は他人と社会の中で生きよう、という任意の決意によって拘束されているにすぎない。
 
 [本書の法論とカントの法論との関係について]
 権利というものは、我々が用いることも用いないでいることもできるものである。従って権利は単に許容するだけの法則から帰結し、こういう法則は一定の領域に制限されるということから生じる。だから無制約的に命じる人倫法則から許容の法則がどのように導出できるかは全く判らない。
 カントによれば、平和あるいは適法な状態は、人間が創り出さねばならないものであり、人を強制して望ましい安全を実現する権利がある、とされるが、こうした主張は我々の理論と完全に一致する。また国家の結成は根源的で、どうしても締結する必要がある契約に基いてのみ可能であること、人民は執行権を行使するのではなく、委任しなければならないこと、それゆえ直接民主制は権利に反した体制であること、これらのカントの諸命題の基礎づけも我々と一致する。

 第一部 権利の概念の演繹

 第一部と第二部でなされるのは、権利ないし法の概念が偶然的・恣意的でなく、人間が共同生活を営む限り、人間の概念に含まれ、ゆえに、それは概念の実在性と適用可能性をもち、適用可能であることを人間の概念からア・プリオリに論証することである。或る概念が実在性と適用可能性を有するとは、我々の世界が当の概念によって或る観点で規定される、という意味である。こうした概念は、我々が客体を思考する際に用いる諸概念や、客体の一定の徴標も含まれる。それは、我々がその概念によって、客体を思考するからである。だから、或る概念の実在性を探究するとは、いかにしてまたどのような仕方でその概念によって客体が規定されるかを探究するという意味である。
 さて、第一部の演繹は、人間もしくは自己意識の可能性の条件の探究という、知識学の根本課題の解決の一環として果たされる。その際採られる手法は、この可能性の条件を遡及することによって権利概念に達するというものである。
 1795/96年冬学期の『講義録断片』に、次のようなここでの手法を記した覚書がある。「自然法の分析の講義は、必然的に次のようになる。(1)人間の規定。とりわけ、個体としての、経験的に規定された人間の概念。(2)人間の実効的働きかけ。即ち人間は、人間として自己に、a、b、c 等々を帰属させねばならないだろう、ということの証示。(3)理性的存在者が自己に a を帰属させることができるためには、その他のものをも帰属させねばならないことの論証」。(2)で言う a, b, c ・・・が人間の規定であり、(3)で言うように、それらは互に他を要求するので、二つの部の五つの定理はいずれも、人間は自己に a を帰属することができるためには、同時に自己に b を帰属させねばならない、という形をとる。 a, b, c に該当するのが、自己措定と感覚的世界における「自由な実働性」(第一定理)、「他の人間」による促し(第二定理)、他者との「権利関係」あるいは相互承認(第三定理)、「物質的身体」(第四定理)、他者から影響を受ける能力(第五定理)などである。
 さらにフィヒテは言う。「自我には自己内還帰以上のものは何も属していない」。「外に向かう活動によって、世界などの様々な事物の概念が発生する」のに対し、「自己内に還帰する活動が自我の本質であり、これによって自我の概念が発生する」。「人間において自然は自己に還り、自己自身を直観し、考察する。自然は人間においていわば自己をニ重化し、単なる存在から抜け出て、存在と意識とを合一したものとなる」。植物、動物、人間などにおいては、活動がそこへと還るべき自己は、当の活動をいわば宿す基体としてすでに前提されている。ところが自我性の場合にはそうした自己は前提されるわけにはいかない。なぜならそれでは自我は物のように考えられてしまい、自我の自己意識は説明不能になるからである。しかしそうなると、純粋な自己内還帰の活動としての自己意識、即ち基体を抜きにした「行為そのものへの行為」はどのようにして可能なのかが、大きな難問となる。というのも、これでは活動がそこへと還るべき自己がないので、「私が私自身に向けて行為することができるためには、それに先だってやはり行為するものが前提されなければならない、すでに現存していなければならない」、と論難されるからである。自我の措定に対しては措定されるものが前提されねばならない。しかし、措定するものを前提すれば、自我は物になってしまう。自己意識の可能性をめぐるこの問題を正面きって取り上げ、措定と前提との相互連関の論理を構築しながら厳密に答えようとしたのが『新方法』である。本書の第一部第一節から第二部第六節までの行論も、この問いに対する解答を試みる中で、感覚界、他者、身体、法概念などを導出している。

 第一節 第一定理

 人間は、自己自身を措定することができるためには、自己に自由な実働性を帰属させなくてはならない。

 証明
 (1)人間が自己を人間として措定すべきであるならば、彼はその最終的根拠が全く自己自身の内にあるような活動を自己に帰さなくてはならない(この両命題は交互関係にある命題である)。
 自己内に還帰する活動一般(自我性、主観性)が人間の特徴である。自己自身を措定する働きとは、自己自身について反省することである。あらゆる反省は、この作用の客体をめざすが、人間は、自己自身を客体にすべきである。さもなければ、自己を人間として措定することにはならず、これは前提に反する。
 ここで立てられた人間は、有限なものである。有限な人間は、限局されたもの以外には何も反省できない。反省と客体は交互関係にあるから、自己内還帰する客体も、別な対立した客体によって、限局されねばならない。
 (2)人間は、世界を直観する際の自分の活動を、それとして措定することができない。こうした活動は、概念によっては、当の直観するものに還帰しない。むしろそれは、この直観に対立する世界を客観にする。(直観する働きは、後になると人間によって彼自身によって帰せられ、意識されるようになる。人間は、自己を直観するものとして措定し得るからである。のみならず、超越論的観点からすれば、直観の働きでさえ、自己内に還帰する自我に他ならず、世界とは、自己の根源的な制限において直観された自我に他ならない。自我は、自己に何かを帰するためには、既にそれだけで存在していなければならない。しかし、自我はどのようにしてそれだけで現に存在し得るか、ということは世界の直観からは説明できず、むしろ世界の直観それ自身が、我々の捜し求める自我によって初めて可能になる)。
 (3)ところで人間は、我々が求める活動を、それを限局する世界に対し反措定でき、またその活動を産出できる。そしてそうした活動が自己意識の可能性の唯一の条件であるから、それは必然的に起こらねばならない。
 自我の活動は、外へ向かうときは客体を直観する働きであり、客体に拘束されている。しかし、同じ活動が同時に自我の中に還帰し、目的についての概念を産出しようとする。そしてこの概念を介して実働性として外なる客体へと向かう。そのときにはこの活動は、客体の拘束性を廃棄し、客体を目的概念に合わせて変更ないし形成する、つまり客体を規定する。こうしてこの活動は、規定されていると同時に規定しもする。
 こうした活動を媒介するなら、求められていた自己意識は可能になる。この活動は、その根拠を人間自身の内にもち、そうでないものとの対立を媒介として、それとして措定されるべきものである。こうして実践的自我は、反省に対する自我であり、自己自身によって措定され、また反省の中で自己によって措定されるべき自我である。
 従って、自己意識が想定されるならば、同様にこうした活動とそれの措定とが必然的に措定される。そして、これら二つの概念は同一である。

 系
 (1)実践的自我は根源的自己意識である。また、人間は意欲においてのみ直接に自己を知覚し、世界をも知覚する。表象する働きそれ自身は、むろん意欲と交互作用しはするが、それでも偶然的なものとして措定される。自己を意識している自我を演繹しようとする他の全ての試みが挫折してきたのは、演繹しようとするものを前提せざるを得なかったからである。自我はあらゆる表象に先立って現に存在しなければならない。自我は自我に対して現に存在するのである。
 (2)私が意欲できるには、自分が意欲するものを表象しなければならない。単なる知性だけでも、単なる実践的能力だけでも、それだけでは可能ではないから、人間にはならない。知性と実践的能力とが合一して初めて人間を完成し、それを一個の全体とする。
 (3)直観の働きも意欲も、自我の前にあるわけでも後にあるわけでもなく、それ自身が自我である。この両者は、自我が自己自身を措定する限りでのみ、生起し、逆に、自我は、直観作用と意欲とが生起する限りで、また両者が生起するということをこのように措定する限りで、自己自身を措定する。自我は能力をもつ何ものかではない。自我はそもそも能力ではない。自我は行為しつつ在るのである。自我それ自身は、その行為によって客体を作り出す。自我の行為の形式が、それ自身、客体の全てである。その行為様式が必然的に客体になるものは一個の自我であり、また逆に、自我それ自身はその単なる行為様式が客体になるようなものに他ならない。自我がその全能力をあげて行為するならば、自我は自己自身にとって客体である。これに対し、自我がその能力の一部をもって行為するならば、自我は、自己の外に在るとされる何かを客体としてもつことになる。

 第二節 第一定理からの結論
 本節とその系の内容はいわゆる外界の存在証明である。デカルト以来、それは、自我の存在確実性から出発し、そうした立場から行われてきたが、それではどうしても自我の存在確実性に及ばない。そこに外界を否定する独我論の登場する根拠があった。これに対しフィヒテは、上述の『新方法』の仕方で、自我ないし人間を規定する過程において外界の存在を証明しようとする。自我が自我として存在し得るには、外界が同時に存在しなければならない、というように、外界を自己意識の可能性の制約の一部として導出することで、両者の確実性の程度は同じとなる。

 人間は、自由に実働するという自己の能力をこのように措定することによって、自己の外に感覚界を措定し、規定する。

 (1)人間は感覚界を措定する。絶対に自己活動的なものだけが、自我に属するとして措定される。この領域の外部は、外部であるというそのことによって、自我の活動によって産出されないものとして、措定される。それは自我の領域から締め出され、また自我はそれの領域から締め出される。こうして客体の体系が生じる。それは実践的自我から独立して現に存在する世界である。また実践的自我も、この世界から独立して同様に現存在する。

 系
 (1)超越論哲学者は、存在する全てのものは或る自我に対してのみ存在し得る、また或る自我に対して存在すると考えられるものは全て自我によってのみ存在し得る、と想定せざるを得ない。常識は反対に、この両者に独立した実在を賦与し、自分が存在しなくとも世界はいつでも存在するであろう、と主張する。常識は超越論哲学者の主張を考慮できないが、超越論哲学者は常識の観点に立つことができるし、常識の言い分も、超越論哲学者の主張を前提にしてのみそれが説明され得る。我々は、我々の外に世界が存在するという我々の信念を演繹しなくてはならない。その演繹が今ここで、自己意識の可能性から行われており、その信念がこの自己意識の制約として証明されている。
 (2)我々の外に感覚界が現に存在するという信念の演繹から、この信念が、我々の実践的能力が理論的能力から区別され、理論的能力に対置される範囲まで及んでいるということが帰結する。なぜなら、根拠づけられたものは根拠以上には及ばないからであり、特定の思考様式の根拠が知られるならば、それの範囲も直ちに知られるからである。だからこそ、ロックなども、我々の外なる世界の実在性を、それが我々に及ぼす実効的働きかけ(感覚など)から証明してきたのである。もとよりこうした証明は、証明されるべきものを前提にしているが、常識にはぴったり合ったものである。
 また、この信念を制約している理論的能力と実践的能力との区別を行わず、ひたすら表象作用の活動にだけ注目し、この活動だけを説明しようとするならば、我々の外に物が現存しているということについて必然的な疑いが生じる(デカルトの方法的懐疑)が、超越論的観念論者は、実践的活動と理論的活動とを同時に活動一般として包括するから、これによって必然的に、自我にとっての客体の全体系は自我それ自身によって産出されるという結果に行きつく。だが、超越論的観念論者は二つのものを包括するがゆえに、またこの両者を分けたり、常識がどうしても立たざるを得ない観点を示すこともできなければならない。バークレーのような物の非存在と精神を物自体とする独断論的観念論者は、論理的活動だけに注目して、この活動をそれ自身によって根拠づけようとするが、捨てたはずの実践的活動に差し迫られると、彼らは即座に自分の信念を忘れ、常識に戻る。懐疑や思い込まれた確信を自分の行為にまで拡張するような観念論者はいたためしがないし、存在することもできない。さもなければ、およそ行為することなどできず、行為できなければ生きていくことすらできないからである。

 自由な活動を上述のように措定することによって、同時に、感覚界が規定される。つまり、感覚界は一定の不変で普遍的な徴表を伴って措定される。
 第一に、人間の実働性の概念は、絶対的自由によって構想されている。従って、実働性とは反対のものとしての感覚界の客体は、確固として措定され、固定され、不変的に規定されている。自我は限りなく規定可能である。客体の方は、一挙に最終的に規定されている。自我は行為することにおいてそれであるのに、客体は存在することにおいてそれである。自我はやむなく生成し、持続するものは何もないが、客体は、ひとたび存在するや永久に存在する。
 第二に、実働性の概念は、無限に異なるあり方をすることができるが、それは客体の内で発揮される実働性に関わるから、客体は、無限に変化し得る概念に従って、無限に可変的でなければならない。
 第三に、人間は、同時に表象しながら自己を措定するのでなければ、自己を実働的に措定し得ない。特定の客体をそのつど表象しなくては自己を措定できない。また特定の実働が関わってきた客体を措定しなければ、その実働を完了した実働として措定できない。即ち、客体は実働性を廃棄するものと措定され、実働性の方は客体と共存すべきなのだから、ここには抗争が発生する。この抗争は、構想力が両者の間を浮動すること(これにより時間が発生する)によってしか調停されない。だから、客体に向けられる実働性は時間の中で継起的に起こる。
 それ自体としては因果性の純粋概念に矛盾する時間表象は、物へと向かう我々自身の実働性の表象から因果性の概念に転移されるにすぎない。例えば、三角形の概念からはその中にある三つの角の概念が帰結する。そして三角形は概念においては、時間に従ってあり、継起的である。三つの角に先立って。しかし自然においては、あるいは客観的には、三つの角と三角形は同時的である。そして理性概念における原因と結果もまた、同時的であり、交互的である。この理性概念は、主語に対する述語の関係、全体に対する部分の関係から取ってこられたものであり、客観的に、つまり概念の外にあるような産出とか発生とかをおよそ含んでいない。しかしそうなると、自然の中にあるものは全て同時的であり、我々が継起と呼ぶものは単なる現象にすぎないということになる。すると、因果性の概念は生成原理、発生原理としては消滅してしまう。ではこれらの言葉がどうやって言語に入り込むようになったのか。また我々はなぜ因果性の概念もつのか。直観したり判断したりすることしかできないような未開民族の言語には、そうした原因とか結果とかいった言葉は入ってこないだろう。しかし、彼らにとってどんな原因も生ける存在者の人格的力であり、どんな結果もその所業である。そして、我々もこうした力について生き生きした根本経験がなければ、我々は原因と結果についていささかの表象ももたないことになろう。
 ところで、同一の客体に対して実働がなされ、現在の瞬間における実働性が先行の瞬間によって制約されるならば、各瞬間ごとの客体の状態も、先行する全ての瞬間の状態に制約されていると見なされる。こうして、客体は不断に変えられていくにも拘らず、自己同一を維持し得る。即ち、客体の内で多様を結合するために、構想力は基体を産み出すが、この基体は、つまり不断に排除し合う諸々の偶有性(素材)を支える土台は、同じものであり続ける。だから、我々は我々自身を、ただ物の形式を変えるとしてだけ措定するのであって、決して物の素材を変えるとして措定しない。我々には物を産み出したり根絶したりする能力はないことも意識する。

 第三節 第二定理

 本節と次節で、私の外に他我が存在することと、我々が相互承認し合うことが自己意識の可能性の条件として論証され、承認に基く或るタイプの交互作用を描き出して、それを法ないし権利関係であるとする。フィヒテは『学者の使命』第ニ講で、哲学が学問ないし知識学となることができる前に答えるべき、しかしこれまで全く触れられなかったという問いを二つ指摘する。第一は、なぜ人は物体界の一部を自分の身体と呼ぶか、またこの自我と対立しているのに、どのようにして自分の身体を自分の自我に属すると見なすようになるか、という問いである。第二の問いは、他我は自分の純粋自己意識の中に直接的には全く与えられていないのに、どのようにして他我を想定し、承認するようになるか、という問いである。この第二の問いに第二節と第三節で答えて、個体性と相互人格性を演繹し、法ないし権利の概念と法関係の必然性を基礎づける。ついで第一の人間の身体性の問いについて第四節と第五節で答え、これによって法概念の適用可能性を基礎づける。

 人間は、感覚界における自由な実働性を自分自身に帰属させることができるためには、それを他人にも帰属させねばならない。従って、自己の外に他人をも想定しなければならない。

 証明
 (1)第一節でなされた証明によれば、人間は客体を措定する(対象を知覚し概念的に把握する)には、自己に実働性を帰さねばならない(行為することによって初めて可能になる)が、そのためには、この実働性は向かうべき客体を措定していなくてはならない。だが、客体を措定する働きは、ある先行の時点において、つまり目的概念の構想において、措定されなくてはならない。従って、概念的把握の働きは実働性の措定によって制約され、あらゆる実働性は彼の先行の目的ないし客体の概念的把握によって制約されている。 こうして、意識のどの瞬間も先行の瞬間によって制約されており、意識の可能性を説明しようとする際には既に当の意識が現実的であると前提されていることになる。意識は循環によってしか説明されない。
 (2)この無限背進による自己意識の説明不可能性は、主体の実働性が客体と同一の瞬間に総合されており、主体の実働性はそれ自身、知覚され概念把握された客体であり、その客体は主体のこの実働性に他ならず、それゆえ両者は同一である、と想定できれば解決される。確かに自己意識が生じるべきである以上、この想定は必然的であり、これが自己意識の絶対的制約である。
 (3)この綜合によって樹立されるものは客体である、とされるが、客体の性格は、主体がそれを捉える際に主体の自由な活動が妨げられたとして措定される、ということである。また、この客体は主体の実働性である、とされる。しかるに、実働性の性格は、主体の活動が絶対に自由であり、自己自身を規定する、という点にある。この両者の性格が失われず合一されるべきである。
 それは、主体は自己規定するようにと規定されているということ、実働するようにと決意せよという促し(Aufforderung)が主体に課せられている、と我々が考えることによってなされ得る。
 要求されているものが客体である限り、それは感覚、しかも外的感覚の内に与えられていなければならない。内的感覚は外的感覚の再生によって生じるからである。しかも、要求は、行為するようにという主体への単なる促しとしてしか把握されないし、これ以外の仕方では把握され得なかった。またもしそのように把握されなかったならば、そもそも把握されなかったであろう。
 主体が促しを把握するなら、主体は自分の自由な実働性の概念を、外から与えられたものとしてもつ。しかしそれは、将来の瞬間に在るべきものとしての実働性の概念を得るのである。現在の瞬間に在るものとしての実働性では矛盾となるからである。
 (4)人間は自分の実働性を実現すべきである。人に向けられたこの促しは、実働性の概念の中に含まれている。人はその概念を把握するや、その実働性を実現する。だが主体は、実際に行為することも行為しないことも、その実現の仕方として選択し得る。なぜなら、実働性の概念の中には、主体は可能な行為の領域において、唯一つの行為を自由な自己規定によって選択すべきである、ということが含まれるからであり、また逆に、実働性の概念を、主体は、要求されただけのものとして捉えることも可能だからである。
 私は、実働せよ、という促しに対し、特定の仕方で行為するもしくは行為しないという形で応答するが、この呼びかけと応答は必然的に自由な交互実働性として結びついている。これに対し、我々が物に対して働きかける場合には、抵抗を受けることがあっても、主体に対する働きかけが返ってくるとは限らない。
 促しという自由な実働とそれに呼応する実働との交互実働性は、人間の自己意識の必然的条件として、いまや要請されるのである。主体は、この条件があれば、自己を自由に実働する存在者として措定し得るし、また措定しなくてはならない。主体は、自己をそうしたものとして措定するなら、感覚界を措定し、これに自己自身を反措定することができるし、またそうしなくてはならない。こうして今や、人間精神の全ての営みの主要課題は解決されていることになり、人間精神の法則に従って支障なく進んでいくことができるのである。
 (5)自己意識が現れるや否や、この促しという実効的働きかけ(実働性)が現れる。それゆえ、この働きかけは必然的な事実である。この実効的働きかけは、感覚されたものである限り、自我の制限であり、主体はそれを自我の制限として措定しなくてはならない。ところで、限局するものなくしては限局もない。それゆえ、主体はこうした制限を措定するや、同時に、自己の外なる何かをこの制限の限定根拠として措定していたはずである。
 しかし、この実効的働きかけは限定されたものである。そして、この実効的働きかけを限定されたものとして措定することによって、実効的働きかけの限定された、特定の根拠が措定されるのである。それはどのような根拠でなくてはならないか。
 促しが実働の質料であり、その促しが差し向けられる人間の自由な実働性がその実働の究極目的である。因果性の概念の場合なら、働きの結果は原因によって規定され、必然的に強いられるが、人間の場合には、その促しに従って行為するよう自己自身を規定すべきであるに留まる。だが、人間は、このように自己規定すべきなら、その促しを理解しなければならず、そして、促す側からすれば、促される側の理解の可能性を前提にしている。さもないと、その促しには目的がないことになる。だから、促す側も、理性と自由についての概念をもつ能力をもつような、即ち人間でなければならない。
 理性的原因だけによって説明され得るのはどんな結果か、という問いに、それは、それについての概念がそれに先行していなければならないような結果である、とする答えは、確かに正しいが、前もって構想された概念に従ってのみ可能な結果とは何か、という問いには、不十分であり、答えられない。いかなる結果も、結果という形で現存してしまえば、そこに含まれる多様なものは概念の統一におさまるものである。ところでこれはカントが反省的判断力と呼んだものによって、観察者が多様なものに持ち込んだ統一であるが、その多様なものの概念は結果に先立って悟性によって、いま現実に秩序づける通りに、彼が考えている統一の概念のもとで秩序づけられていた、ということを彼に保証するのは誰か。してみると、一段と高次の根拠を挙げなければならない。さもなければ、理性的原因へと推論することはそもそも無根拠であることになる。
 理性的原因である他の人間は、それが確かにこうしたものであるや否や、自分の活動によって実現されるべき所産についての概念を構想し、行為するときにはこの概念に従って自らを方向づけ、たえずこの概念に言うなれば注目している。この概念が目的の概念と呼ばれるものである。
 ところで、人間は、自分の実働性の客体について認識していなければ、この実働性についての概念を捉えることはできない。人間が自己を活動へと規定することができるためには、彼はこの活動を、妨げられたとして、外なる客体を措定していなければならないからである。だから、人間の働きかけの確実な基準は何かといえば、それは働きかけがその客体の認識を条件にしてのみ可能である、と答えられる。ところで、自然によってではなく、認識だけによって可能なのは、認識それ自身だけである。働きかけの目的が、認識を産出するという目的でしかありえないのであれば、促しに呼応する主体の働きかけという結果の理性的原因が必然的に想定されねばならない。
 行為が認識を意図するものとして把握されないとすれば、認識が意図されるという想定だけが必然的である。即ち、これ以外の行為目的は全く考えられず、行為それ自身も決して把握され得ない。例えば、自然は我々にあれこれの学説を与える、と言う場合、それは、自然の出来事はこれ以外にもまだ別の目的をもっている、と言うことではなく、人が何かを欲し、自分の自由な考察をこの目的に向けるならば、数あるもののうち自然の出来事からも学ぶことができるであろう、ということなのである。
 今述べてきたような事例がここに出現している。我々に対する実効的働きかけの原因が、何よりもまず、我々はその原因をこうした認識を意図するものとして認識すべきである、という目的をもつものでないならば、その原因はおよそいかなる目的をも持たないことになる。従って、我々の外なる人間がこうした原因として措定されねばならない。

 系
 (1)人間は、人間達の間でのみひとりの人間となる。そして人間はひとりの人間として以外には存在し得ないから、そもそも人間が存在すべきであるなら、幾人か存在しなくてはならない。これは人間の概念から厳密に論証され得る真理である。人間の概念は決して個人の概念ではなく、類の概念なのである。自由な自己活動への促しは教育と呼ばれ、全ての個体は人間へと教育されねばならない。さもなければ人間にならないであろう。この点について、誰もが疑問に思うのは、全人類の最初の一組は誰が教育したのか、ということであるが、それは、人間ではない理性的存在者であった、ということ以外考えられない。ある聖霊が世話をした、という尊重に値する古文書は総じてこのうえもなく深遠で崇高な智慧を含んでおり、あらゆる哲学は最終的にはやはり、それが確立した結果へと戻って行かなければならないものである。
 (2)概念によって、また概念に従って自由に交互実働し合うことだけが、つまり認識を与えたり、受け入れたりすることだけが、人間というものに特有な性格であり、この性格によってのみ、どの人格も自己を人間として主張するのである。
 ひとりの人間が存在するなら、必然的にまたひとつの世界が存在し、しかも我々の世界がそうであるように、理性を欠いた客体と理性的存在者(人間および神)とを含むような世界として規定されて存在する。こうして、客体の実在性の根拠についての問いが答えられた。世界の実在性は、自己意識の条件である。我々が自分に賦与しているのと同等の実在性をそれに帰さなければならないような、我々の外なる何ものかを措定しなければ、我々は自己自身を措定できない。あらゆる理性を捨象した後に残るとされる実在性について問うことは矛盾している。そのように問う人自身がやはり理性を具えており、理性的根拠に駆り立てられて問い、理性的な答えを欲しているからであり、従って、理性を捨象していないからである。我々は、我々の理性の圏外に出てゆくことはできないのである。我々が理性の圏内に閉じ込められたままであるならば、哲学は、我々がこのことを弁え、この圏外に出ているなどと妄想すべきではない、ということだけを達成しようとするのだ、とするのは、事柄そのものに反したよけいな心配である。
 
 
 

 



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