フィヒテ 『自然法の基礎』 (4)
国法論第二篇 民事立法について
第十八節 民事契約もしくは財産契約の精神について
(1)各人に認められた自由が及ぶ範囲は、客体に対する当人の所有権が及ぶ範囲と一致し、それ以上には出ない。私が何かを私の目的に服させていることは、根源的権利の概念に従うなら、あらゆる所有の第一の根拠である。ではどのような目的に服させるのであろうか。この問いは民事契約を締結する際、当事者各人に提起される。民事契約は、規定されていると共に規定を与えるものでもなければならないからである。
(2)あらゆる自由な活動の最高にして普遍的な目的は、生きることができる、という目的である。誰もがこの目的をもっている。それゆえ、自由が一般的に保証されるなら、この目的も保証される。この目的が達成されなければ、自由は、ひいては人格の持続は、およそ不可能となる。
(3)個人には一定の客体の領分が一定の使用のために独占的に認められている。けれども、この使用の最終目的は生きることができるということである。この目的の達成は保証されている。これが財産契約の精神である。あらゆる理性的な国家体制の原則は、各人は自分の労働によって生きることができるべきである、というものである。各人は自分の市民としての所有物を、全ての公民が各自のものによって生きることができる限りでのみ、またそのことを条件としてのみ、占有する。公民が生きることができなくなる限りで、それは各人の所有物であることをやめ、困窮した人たちの所有となる。執行権力は、これについても、国家管理の他の全ての部門と同様に、責任を負っており、民事契約を一緒に結んだ貧者達は、支援を受ける絶対的な強制権を有している。
(4)万人はまた必然的に各人が生活するに必要なだけの労働を自分の領分でしているかどうかを監督する権利をもっており、共通な権利や共通な要件のために制定された国家権力にその権利を委ねる。
(5)各人は、自分に認められた自由と権益によって生きることができるようにするために自分の可能なこと全てを行う、と万人に対して約束し、公共体は全個人の名において、このようにしてもなお生活することができない人には支援することを約束せねばならない。
第十九節 所有について確立された諸原則の完全な適用
(1)我々の身体は有機的に組織された自然産物であり、身体における有機的組織化は、とだえることなしに進展する。
(2)国家持続の条件は、十分なだけの生計手段が現存しているということである。有機組織化の促進は国家の礎石である。
大地は感覚界における人類の共通の支えであり、空間中で人間が存続するための条件、ひいては人間の全感性的生存の条件である。ことさら塊として見られた地球は、こうした占有の可能な対象では決してない。なぜなら、地球は、実体としては、或る人間の可能な排他的目的にはおよそ服することはできないものであって、或る事物がどのように用いられるかを述べることができないまま、その事物の使用から他の全ての人を締め出すことは、権利に反している。
地面とそれに施される加工は、カントも言うように、質料と形相(素材と形態)の関係ではなく、実体と偶有性の関係としてとらえるべきで、偶有性に対する権利は実体に対する権利を基礎づけない。(フィヒテは『仏革命論』では、造形(形態賦与)が土地所有を基礎づけるとし、ヘーゲルは『法哲学』第五十二節でそれを批判したが、本書を踏まえての議論ではない)
さて、所有の単なる形式、所有の単なるしるし、国家において有用で目的に適ったあらゆるものを表示するものが存在すべきである。ただし、そうしたものはそれ自身ではいささかも合目的性を備えていてはならない。さもなければ、国家はそれを公共的な使用のために請求する権利をもつだろう。そうしたものは貨幣と呼ばれる。貨幣はあらゆる事物の価値の国家それ自身によって権威づけられたしるしである。
租税の納付の後に残るものは、国家契約に従えば、純粋な財産である。だが国家は、同じ契約に従って、公民が必要とするものを彼らに分配するよう各人に強要する権利を有しているので、各人はそのために貨幣を保持する。それは国家といえどもそれに口をはさむ権利をもたないような、絶対的な純粋財産である。私が占有している貨幣は、同時に、私が私の全ての市民的義務を果たしてしまっていることのしるしである。私はこの点については国家の監督を全面的に免れている。自分の貨幣を私的に使用するために行った備蓄、総じて、自分で使用するために購入したもの全ては絶対的財産である。
民事契約に従うならば、国家は、一切の絶対財産を保護し、めいめいにその安全を保証してやる責務がある。
しかし、国家のあらゆる監督を越え出ているものをどうやって保護すべきであろうか。国家はそれを無規定的に、つまり一般的に保護するしかない。そのためには、そうした無規定的なものに何か規定的なものが結び付けられねばならない。この規定されたものは、全ての絶対的財産の総括として設定される。私の絶対的財産は私の家屋によって規定される。私の家屋は総じて、国家から直接に保護と保証を受けており、このことのよって、その中にあるものは全てまた間接的に保護されている。だが、国家は家の中に何があるかを知らないし、知るべきでもない。だから、個々の対象そのものは、私自身がこれを保護し、私自身が絶対的に支配する。家の鍵は国家権力と私的権力との境目である。
家の中で起こることは私事であり、大目に見ることができる。公共の場で起こることは公共の悪事であり、そこでは被害者が私的に大目に見たからといって罪が許されるわけではない。身体と財の相互安全に関しては、暗黙の契約が成り立っている。信義誠実に基いて締結されるこの契約を破る者は、破廉恥であり、その者はそれ以後は一切の信頼を受けるに値しない者となる。
市民の名誉とは、人々がその市民について、彼には信義誠実がある、という意見を抱くことである。国家には、市民は互に信じ合うべきである、と命じる権利も権力もない。というのも、国家それ自身が全般的不信に基いて建設されたからであり、国家それ自身もまた信じられておらず、また信じるわけにはいかない。これは我々が国家の全構成を通じて立証してきたことである。
公民めいめいの身体の自由と絶対的不可侵性は、公民契約において公然と保証されるわけではなく、人格性と合わせて同時に絶えず前提される。契約の全ての可能性と契約の対象となっている全てのものは、この自由と不可侵性に基いている。誰もができる限り、息災でいられる権利を有している。犯罪被害者の訴えんとする意志は、個人であり、臣民であると見なされた全ての公民の全般意志によって、規定され、宣言され、保証される。国家の共通意志によってそうされるわけではない。国家はここでは裁き、判決し、訴えを聞きとどけるのであって、欲したり、要求したり、訴えたりするわけではない。いかなる私人も、国家にその義務を果たすよう求める権利を有している。各人はその案件を届け出る権利を、また国家が訴えないならば、国家それ自身を訴える権利をもつ。
総じて公権力のこの部門での国家は、自国の市民の死とその死に方を気にかけるよう義務づけられている。死亡は公的現象である。医師は国家の監督を受けねばならない。犯罪において、攻撃されたものの生命を保全することは、加害者にとっての関心事になる。なぜなら、攻撃された者が生きている限り、加害者には赦される可能性があるからである。彼が死んでしまうと、加害者は公衆とその代理者の手に落ちることになるが、公衆は自分自身の安全のために加害者を赦すことはできない。
自己防衛の権利は、助けを求める叫びによって行われる。このことは絶対に必要であり、自己防衛の権利の専らの条件である。人は叫び声をあげることによって、公衆が彼の無罪を証言できる状況に身をおくことになる。
また、緊急権について、それが現れるのは次のような場合だとされる。即ち、単なる自然的因果性によって、二人の内の一方だけが、しかも他方の破滅によってしか我が身を救えなくなるような状況に追い込まれている場合、また二人の内一方が犠牲にならなければ二人とも滅びてしまう場合がそれである。この問題はキケロが提起して以来、しばしば倫理学と自然法論で論じられてきたものである。これは、いかにして幾多の自由な存在者が自由な存在者として共存できるか、という法論の問いである。様式が問われるのだから、共存一般の可能性は前提される。この可能性がなくなれば、問いそのものもなくなってしまう。そして今の場合このことが成り立っている。従って、私自身を保全するために他者の生命を犠牲にする積極的権利は存在しない。しかしまた、そのようにすることは権利に反しているわけでもない。なぜなら、ここではそもそも権利はもはや問題にならないからである。自然はこの二人に対し、二人とも生きるという権能を取り消してしまっている。それゆえ、どちらが生き延びるかという決定は、物理的強さと意思に委ねられる。だから、緊急権とはあらゆる権利法則賦与を全面的に特免された権利である。それは、もっと高次の法則賦与に、つまり道徳的法則賦与に服すのである。この法則は「ともかく何もせず、問題を神に委ねよ。それが神のご意志であるなら、神は君を救うことも十分できるし、また神のご意志でなければ、神に身を委ねなければならない」と語る。ただしこれは、今の場合にはふさわしくない。ここでは我々は専ら権利だけを扱っているからである。
単なる交換、つまり交易ではない、或る公民の財産が別の公民に完全に移転するような財産取得について、国家はどの程度まで承諾を与える義務があるか、またそうした取り決めを無効にしたり契約が効力をもたないようにしたりすることが許されるか。まず、使用に供される全ての財産は、国家の法的に基礎づけられた意図として、国家の必需のために合目的的に用いられる、ということである。だから財産売買の際には、購入者は、それを用いるように購入しなくては、国家から何かが奪われてしまうことになる。
一般に遺言が法的に有効であることは、完全に任意のことである。従って、自分の財を遺言によって相続させる権利がどこまで及ぶべきかも、任意であり、全般意志(全体意志)の処置だけに、つまり立法者だけに依存している。とはいえ、これについて何かはっきりと定められなければならないので、法律が作られる必要がある。法定相続制が導入されべきかどうか、またそれは遺贈の自由な処分をどの程度まで制限すべきかは、国家の状態の特殊性を顧慮すべき立法者に左右される。ただし、贈与一般の場合に生じるのと全く同じア・プリオリな必然的制限が一つだけ存在する。それは、遺族、例えば未亡人は生きなければならず、子供達は教育されねばならない、つまり、自分で財産を取得できるような職能を身につけることができねばならない、ということである。この可能性は遺言の自由によって廃棄されることは許されない。というのは、国家は何と言っても遺族を世話するための保証人でなければならないからである。
これまで示してきた類の取得以外には、国家において許可される取得は存在し得ない。こうして財産ないし所有に関する我々の研究は完全に完結している。
第ニ十節 刑事立法について
権利概念一般に従うならば、人が権利を有するのは、第一に、理性的存在者の共同体に適合している、言い換えると、権利の規則を自分のあらゆる行為の不可侵の法則としていることであり、第二に、この法則に従って自分の自由を発揮させる際にはいつも実際にも、この法則の表象によって規定される能力がある場合である。この法則を故意に犯す者はこの第一の条件に当てはまらない。無思慮のゆえにその法則を犯す者は、第二の条件に当てはまらない。市民が自分が有するあらゆる積極的権利を実際にもつのは、彼から他の市民の権利が守られているという条件があるときに限られる。この条件が充たされなくなれば、その人と他の市民との間には、市民契約によって制定された法的関係はもはや成立しなくなり、ひいては、何の法的関係も存在しなくなり、国家から追放される。
しかし、国家権力の目的は、万人に対する万人の権利の相互的安全にあり、そして国家は、この目的のための手段を行使するということしか義務づけられていないから、別な手段によってこの目的達成が可能ならば、この侵犯者を追放しなくてもよいことになる。万人と万人との約束によってのみ生じるこの契約を、弁済契約と呼ぼう。この契約は国家の法律になり、執行権はそれに義務づけられている。
(1)弁済契約は、公共の安全がそれと両立できる範囲までにしか及ばない。この限界を越えるような弁済契約を含む国家はいかなる法ももたない。刑罰を下す際の唯一の意図は、刑罰という威嚇によって悪事が防止されることであり、欠如している善意志がこれによって産み出されることにある。刑法の目的はその適用事例の消滅である。
国家における積極的刑罰の実質的原理は、第十四節で述べ、証明しておいた。誰しもが、利己心からあるいは無思慮のゆえに、他人の権利を犯そうという誘惑にかられるちょうどその程度に、どうしても自分自身の権利と自由(言葉の最も広い意味での自分の所有物)を賭けるはめになるのでなければならない(同害刑罰、同害報復の罰)。他人への損害は、自分への損害である。
(2)この平衡が可能か不可能かは、事象の本性によるか、それとも刑法の実効性が顧慮に入れている主体の特殊な事情によるかのいずれかである。事象の本性についていえば、法を踏みにじる人は、何かを欲するというまさにそのことによって、自分の意志を行為へと現わすのを妨げられるべきである。無思慮の場合も同様である。
意志が形相的に悪い場合には、つまり害を与えること自体が悦びの者には、事象の本性からして平衡という原理は適用できない。同害刑罰ではこうした意志を押しとどめることはできず、別の手段がなければ、国家からの追放しかない。
道徳性という点に関してはいかなる人間も他人の裁判官たり得ないし、また裁判官たるべきでない。市民の処罰の唯一の目的、処罰の多寡の唯一の尺度は、公共の安全の可能性である。この安全が犯されるということだけを目的として犯される場合、その侵犯は、不道徳性の度合いが大きいことを示しているからといって、例えば利己心に基いた完全侵犯よりも厳しく処罰されるべきでない。道徳性というのは、そもそも唯一つであり、いかなる程度の差も許容しない。
利益のために悪事に及んだと想定できない、つまり、自分を含めただ台無しにしただけであるような加害者の場合、故意の悪意ある侵害と区別できるためには、悪意がないという証明を見つけるしかない。そのためには彼を一定期間放任し、自由にさせておけばよい。悪意があれば、遅かれ早かれその自由を損なうことなしに当局の監視の網にかかるだろう。よく整った国家にあっては、いかなる人も罪なくして処罰されるべきでなく、同様に、悪事が罰せられずに済ませられることもあってはならない。
また、処罰が則る法律を誰もが予め知っておかねばならない。さもなければ処罰は不正義を産む。法律で推奨される入念な配慮を顧慮する人は放免されるべきである。害に対して注意義務を怠らなかったにも拘らず起こることは、事故と見なされるべきである。
確かに、悪事をした人は憤怒にかられるとか酔っていたとか自分の理性を意のままにできなかったという弁解は、悪意があったという疑いははらすが、同時にそれゆえ理性的存在者の社会で生活する能力がないと告白しているのである。こうした人は、その更生が確信できるようになるまで自由を奪われるか、それとも無慈悲に追放されるかでなければならない。
主体の境遇によっては、同様な理性の喪失に対する罰則は、自分の身体以外には何も占有していないために失うべきものが全くない人達には適用できない。無産者には、君が他人から何かを取るなら、それは君のものから差し引かれる、という威嚇は、何ら実効的に働かない。
(3)法律と法律の権力に直接反抗しようとする意志に対しては、それと平衡するものはおよそ可能ではない。なし得るのは、法律がその権威をそれが確定されているままに主張することである。ゆえにここでは、同害刑罰は、事象の本性からして生じない。また権利剥奪という刑罰に服役させるべきでもない。反乱を惹き起こし得るのは私人だけであり、反逆は公権力の参与者だけにしかできない。
(4)更生に関していえば、それは決して心根の道徳的更生ではない。なぜなら、この点に関してはいかなる人といえども他人の裁判官ではないからである。問題となっているのは専ら、政治的更生であり、行儀であり、現実的行為のための格律である。道徳的心掛けは義務のための義務への愛であるが、政治的心掛けは自己自身のための自己愛であり、自分の人格と自分の財産との安全に対する気遣いである。自分自身の安全に対するこの気遣いこそ、人間を国家へ駆り立てたものであり、この気遣いだけが、各人をして国家にしかるべき保証を与え、国家は各人をしっかり守ってやれるのである。
(5)国家から追放される者は、どのように扱われるべきであろうか。これは、刑罰論における最も重要な研究である。権利剥奪の宣告によって、国家と個人は、今後は、いかなる関係ももたないものとなる。その宣告から帰結するものは、その判決を受けた者の完全な任意な扱い、物件、一匹の家畜扱いであり、全ての人間から軽蔑され、名誉を失うのである。追放は市民契約の失効に基き、いったん失効になれば、当事者双方にとって相手方はもはや何ものでもなくなり、国家が犯罪者を殺す場合も、それを国家として行うのではなく、単なる自然力よりも強力な物理的権力として行うのである。とはいえ、国家はこのような仕方でのみ犯罪者から自己を守れるという理由なら、犯罪者を殺すことができ得る。そのとき犯罪者は、国家の自然力によって鎮圧される自然力である。
犯罪者の死は刑罰ではなく、保安手段にすぎない。これが我々に死刑の全理論を与える。国家そのものは、裁判官として死刑にさせるわけではなく、単に契約を破棄するだけであり、そしてこれが国家の公的行為である。国家がその後でなお殺すとするならば、それは裁判権によってではなく、警察によって行われるのである。裁かれた者は立法の前では無いも同然であり、警察の手に帰する。これは積極的権利に従って起こるのではなく、緊急避難のゆえに起こることである。
人倫法則に従うならば、意図的に殺すことは、いかなる場合でも端的に禁じられている。どんな人も理性的目的の促進のための手段と見なされるべきである。いかなる人も、たとえ今のところはどれほど堕落していようとも、やはりまだ更生できるという信念を廃棄することはできない。さもなければ、理性によって自分に対して必然だとして設定された自分の目的を廃棄するはめになってしまう。だから、私人は決して殺すことは許されない。むしろ自分自身の生命を危険にさらさねばならないのである。国家は、ただしここでは警察権力としての国家だが、そうではない。国家そのものは何ら道徳的人格ではなく、法理的人格である。
こうして、更生の余地のない悪人の処刑は、必要であるにしても、常に悪弊であり、ゆえに、こうした処刑を不要にすることが国家の課題である。
以上の刑罰論に、とりわけ死刑論に反対が唱えられる。それによれば、裁判による刑罰は手段ではなく目的と見なされ、計り知れない定言命法に基くとされる。この理論においては、計り知れなさを口実にしてその主張の証明を免除することができる。これは哲学の領域での、正当に要求される著名な、理由づけの同等性と、理由をあげて支えられた自分の意見を述べる自由とに全面的に反対してなされる。人殺しが暴力的仕方で命を失わねばならないとするなら、人殺しに不当なことがなされたかどうか、という点についてはおよそ論争の余地がない。
(6)他人を、罪もないのにその名誉を悪辣に攻撃する者は、自分の名誉を失う。国家は罪なくして攻撃される人に対しては、賠償する責務がある。
(7)損害賠償は常に履行されねばならない。被害者は国家に直接請求できる。被害者にとって国家は、市民契約においてあらゆる禍害に対する保証人だったからである。
国法論第三篇 憲政体について
第ニ十一節
(1)偶然的な徴表によって、経験的に規定された特殊な国家を扱い、またどのようにしてそうした国家において権利法則がこの上なく適切に実現されるかを考察する学問は、政治学と呼ばれる。政治学の全ての問いは、権利に適った憲政体についての特殊な規定についてであり、純粋にア・プリオリである法論とは何ら関わりをもたない。我々が確立する憲政体概念は、感覚界において権利ないし法の概念の実現はいかにして可能か、という純粋理性の課題を解決するものである。それゆえ、憲政体概念でもってその学問は閉じることになる。従って憲政体はア・プリオリに規定されている。
決して公共体の手に留められることはできない国家権力の統治形式について、権力者の人格との関係でいえば、それは一人支配制であるべきか貴族制であるべきかがまず問われる(民主制は問題にならない)。どちらを選ぶかは怜悧の問題である。人民が厳格な適法性に不慣れの時、国民一般の思考様式とかのゆえに、また国際関係で無法状態であるがゆえに、統治力を必要とする場合には、一人支配制がよい。だが、権利に適った体制が実効的に働いており、法がその内的重みによって実効的に働く場合には、共和体制のほうがよい。官吏は専ら元首に任命され、その指令と裁断に服さねばならない。なぜなら、最高行政府だけが国民に責任を負うからである。
自分達の元首を自ら選ぶべき人民は、文化的に十分陶冶されていなければならない。そうでない限り、選挙権も委譲され、元首の順番が永続的に導入される方がよい。
いかなる人も保護を必要とする程度に応じて、分担に応じなければならない、保護権力は保護の必要性に適合していなければならない、というのが財政の原理である。これによって、公民から徴収すべき租税の一定の尺度が得られる。
裁判における審理は、論理と健全な人間悟性(常識)一般とをその主要な源泉にしている。真実ならざることを公的に断言するのに何ら躊躇しない人は宣誓によってその非真実を強化させることもあり得るが、こうしたことを防止できるようにするものとして、何が前提されたらよいだろうか。こうした人は不誠実という咎を恐れないので、神を証人に召喚することは、人が偽証した場合に神の懲罰を下させるという超自然的で不可解な魔術的手段である、と信じているに違いない。これこそ道徳的宗教に真っ向から対立する迷信の本性である。この場合に国家は、不道徳が継続すると覚悟するであろう。そしてこの不道徳を促進せざるを得ない。なぜなら、国家は自己の安全をそれに依存させたことになるからである。それは不条理である。だから、宣誓は厳粛な断言としてだけ考えられ、偽誓することを誰しも躊躇するに違いないと前提するような宣誓を断言以上のものとして見なしてはならない。すると宣誓できるのは、私事において一方の当事者が他方の当事者のこの断言に進んで身を任せる場合に限られる。欲する者にその欲する通りのことをするのは、たとえそれが害を与えることであっても、不正ないし不法ではない。公的案件では宣誓を適用することは決してできない。というのも、元首は公共体に自分の権利を渡すことができないからである。立法が十分行き届いており、立法を必要とすることについては公的制裁・報償なしには何も片付かないようになっていさえすれば、警察が十分警戒してさえいれば、裁判官が自分の方式だけを念頭に置くのではなく、その上十分常識を心得てさえいれば、宣誓はおよそ必要ではなくなる。
(2)国家は臣民に契約にふさわしい保護の義務を負い、また臣民がその市民的義務を履行し、法律を尊守するよう拘束する権利をもっている。このどちらか一方が現れるような場合に、警察が必要となる。つまり警察は、この二つの関係において、執行権と臣民との媒介者なのである。市民との関連での判決と実定法の関係は、行政府との関連での警察と実定法の関係に同じである。警察は法律の適用事例を与えるわけである。
生命と財産の保護と安全のための措置は、警察の第一の部門であるが、国家はさらに、その保護義務に従って、市民を侵犯から守り、監督を容易にし、罪人を発見したりすることを目指すような法律を市民に与える権利を有する。そうした法律は警察法と呼ばれる。これは、本来の民法が現実的侵害を禁ずるのに対し、警察法は侵害の可能性を予防することを目指す。例えば、あらゆる武器の所持の禁止。ローマ共和国では、武装して市街に現れることが禁じられていた。各人は身分証明書をいつでも身につけていなければならない。
執行権は、他に法律の履行を取り仕切る権利も有する。そのために特殊な措置は必要なく、上述の保護措置によって同時に法律の守護も一緒に配慮される。誰かが不正な振る舞いをして法律を踏みにじる場合、誰かが保護されねばならないという場合も同時に生じているからである。
法律に反する悪事の誘惑に駆られた人は誰でも、自分は見つけられ自分がよく知られた仕方で処罰されるだろうと全く確実に予見すること、これは立法および国家という全制度が実効的に働くための専らの条件である。犯罪者が隠蔽と刑罰逃れを高い確率で期待できるとすれば、犯罪を食い止めるものは何だと言うのだろうか。最も賢明な法律があったとしても、誰もが他人の善意にだけすがることになる。そこには、逮捕された者だけが刑罰を受けるという公然たる不正義がある。刑罰は、悪事のゆえにではなく、へまをして逮捕されたがゆえにあるのだという嘲りは、当たっている。あげくの果ては、捕まらなければ何をやってもいいのだ、という脱法行為、不道徳を積極的生き方としてそこに正当化の根拠を見出そうとする悪人もはびこる。いかなる罪人も例外なしに捕まえるべし、という警察への要求は、絶対になくてはならない。これが不可能であるなら、国家一般も、ひいては人間に間でのあらゆる権利も不可能である。国家とは、弱者を自分の望み通りに利用する権利を口実にして強者が弱者を抑圧することに他ならない。モンテスキューが言うように、公法とは、強者が自分の利益を害することなしにどの程度まで不正でありうるか、ということを確立する説に他ならない。いかなる罪人も例外なしに捕まえるべしという要求を不可能だと見なすのは、ここで確立された国家概念を堅持せず、国家の概念を有機的に組織された全体として見なさず、個々の部分を樹立する際、いつでも空想による普通の国家のイメージを度々滑り込ませることからくる。そうなると、部分がどこにも適合しようとしなくなるのも驚くに値しない。上から下まで無秩序がはびこるところで統治が続くためには、下位の者の無秩序をかなりの程度許すしかないのである。
国家を設立するにあたって、十分な条件を整えた理性国家ではないところの、必要に迫られて応急に創られた我々の緊急国家におけるあらゆる災厄の源泉は、唯一専ら、無秩序に、また秩序創出の不可能性にある。こうした緊急国家では罪人の発見がしばしば重大な困難に出会う。それに対しここで確立した憲政体をもつような理性国家においては、犯罪は著しく異常なものであり、警察がすぐざまそれを発見するだろう。
自然法論第一補論 家族法綱要
第一篇 婚姻の演繹
第一節
或る種の存在者の形成は有機的自然における形成力の最終段階をなしており、この力はそれの実働性の条件が与えられている場合にはいつでも必然的に働く。こうした条件が常に与えられていれば、自然の中には、或る形態から別な形態への不断の移行が起こり、同じ形態があり続けることは決してない。永遠の生成があるだけで、存在は決して生じないことになる。そうなれば、移行できるようなものは何も存在せず、それゆえまた移行すら不可能となる。(本書247頁参照)こうしておよそ自然は不可能となる。自然が可能であるべきなら、類は類として生存する以外になお別の有機的な仕方で生存しなければならない。とはいえ類はやはり、繁殖できるためには、類としても現に存在するのでなければならない。このことは、類を形成する力が分割されて、いわば絶対的に共属し合う二つの半分、両者の合一によってのみおのずと繁殖する全体をなすような半分へと引き裂かれる、ということによってだけ可能であった。この分割においてのみ、類を形成する力は個体を形成する。諸個体は合一されているとき、そして合一されることができる限りで、初めて類で在り、初めて類を形成するのである。なぜなら、存在することと形成することは有機的自然にあっては同じだからである。個体はひたすら、類を形成するという傾向としてだけ存立する。このようにしてのみ、あの力は鎮まり、停止した。そしてその力が鎮まると有機的自然の内に形態が出現した。こうしてそれは初めて自然になったのである。だから、形成力をもつ二つの性の分離というこの法則は、全有機的自然を必然的に貫くのである。
第二節
出産するための全条件を備えた組織体(雌)は、どこかで完全に一体化しており、いったん動き出すとそれ自身の法則に従って自ずと展開する。確固たる形態があるべきなら、運動する第一原理(精子)だけが切り離されねばならないが、この原理を自ら産出する場が雄である。
第三節
理性の性格は絶対的自己活動、能動性であるから、男性が自分の性衝動の充足を目的としているということは、理性に反しないが、女性が自分の性衝動の充足を目的にするのは全く理性に反する。自然は女性をひたすら受動的に振る舞うよう手配りした。だから女性が、性衝動の充足を目的とすれば、単なる受動を目的にしてしまうことになる。そうなると、女性は、受動的に振る舞うという素質からして理性的でないか(しかしこれは女性が人間だという前提に矛盾する)、それとも、この受動的に振る舞うという素質が女性の自然本性に従っては展開されないか(これは、自然の内にはありえない素質が自然の内にあるという自己矛盾である)、あるいは、女性は自己の性衝動の充足を決して目的とし得ないか、のいずれかでしかない。結局、最後のケースしか成り立たないから、女性にあっては、こうした性衝動の充足という目的と理性性は廃棄し合うのである。
とはいえ女性の性衝動は、またその発展と充足は、やはり自然の計画の内に含まれている。それゆえ必然的に、この衝動は女性にあっては別な形をとり、理性性と両立できるようになるために、それ自身、活動に向かう衝動として現れることになる。しかも、この性にだけに属する活動を目指す特徴的な自然衝動として現れるのである。
第四節
理性的存在者の内に何かが在るのは、それを当人が意識する限りであるから、女性は総じて、自分自身の衝動を充足するために性の快楽に身を委ねることはできない。女性は、理性の尊厳という自分の究極的目的を放棄せずには、自己自身の目的ではありえなかった。それでもやはり衝動に駆られて身を委ねざるを得ないのだから、この衝動は男性を満足させるという衝動以外ではありえない。このような行為においては、女性は他者の目的のための手段となる。しかし女性は、手段となるにも拘らず、愛という高貴な自然衝動に従って自ら進んで手段となることによって、自分の尊厳を主張するのである。
男性は、自分の尊厳を捨てることなしに、性衝動を認め、その充足を求めることができる。しかし、女性は男性より一段深いところに位置している。女性は男性の性の力の客体であり、また両性が結合されるべきならば、そうでなければならなかった。両性は、道徳的存在者としては平等である。このことは女性の内に、男性の性に欠けている新しい段階が導入される、ということによってのみ可能である。この段階は性衝動が女性に対して現れるときにまとう愛という形態である。
あらゆる自然衝動の内で最も高貴な愛という衝動は、女性だけに生得的である。愛は自然と理性とがこの上なく親密に合一する地点である。愛は自然が理性に介入する唯一の部分である。それゆえ愛は、一切の自然的なものの内で最も卓越したものである。愛は一般に男性にあっては根源的衝動ではなく、愛する女性と結ばれることによって初めて発達するような、女性から伝達される衝動である。
第五節
全男性の内で夫にだけ身を委ねる妻にとって、夫が最愛の男性ではない、ということがあり得るなら、自然が気紛れに仕向けたと、想定するしかないが、それは体面を汚す考え方である。従って、確かに妻が自分の尊厳を維持しながら身を委ねるのであれば、妻の現在の気分が終わることはありえない。いったん身を捧げる女性は永久に身を捧げるのである。
第六節
仮に妻の夫への献身が無制限でなく、わずかでも惜しむものがあれば、それが自分の人格よりも高い価値をもっていることを暴露することとなり、、自分の人格を貶める。妻に固有の尊厳は、何の留保もなしに夫に寄り添い、夫に融け込んでいることにある。
第七節
妻の自然本性にひそむ人倫的素質が愛を通じて発現するように、夫の自然本性にひそむ人倫的素質は寛大さを通じて発現する。夫は何よりもまず主人であることを欲する。しかし、夫は、信頼して自分に身を委ねるものに対しては、自分の全ての力を捨て去る。服従している者に対して強く出ることは、抵抗に対しては何らの力ももたない去勢された男のする仕打ちである。この自然的な寛大さの結果として、夫は自分の妻との関係でまず第一に、尊敬に値する者であることを強要される。妻の安らぎは全体として、自分が夫を何にもまして尊敬できる、ということに依存するからである。夫の低劣さと破廉恥ほど妻の愛を取り返しがつかないまで失わせるものはない。女性は一般に、臆病と性格の弱さだけは許さない。その理由は、女性の規定が要求している通りにこのような男性に服従することは不可能だという感情にある。自分の妻の支配に甘んじている夫は、そうすることで妻を笑い物にしており、妻から夫婦のあらゆる至福を奪っているのである。上述のことは、夫が妻の願望を察知し、もし妻が自分だけに任されたなら一番したいと思うことを、妻が夫自身の意志として成就するに任せる、ということによってのみ果たされる。妻は、自分の側から、夫の高い願望を察知して、犠牲を払ってもそれを成就しようと努める、ということが不可欠である。犠牲が大きくなればなるほど、いっそう自分の心の満足は完全になる。ここから生じるのが夫婦の情愛である。双方の側で、相手側の人格だけが支配するようになるために、自分の人格を放棄しようとする。双方が相手の満足の内にのみ自分の満足を見出す。こうして心と心、意志と意志の相互交流が完全になる。
両性の結びつきの内に、従って、完遂された自然産物としての全人間の実現の内に、しかしまたこの結びつきの内にのみ、徳に向かう外的衝動因が見られる。夫婦はひとかけらも理性を失うことができない。寛大さを宿す夫と、慎み深い妻ならば、いかほどにも気高く成り得る。だが、夫が低劣になり、妻が恥知らずとなる場合、夫婦は悪徳に通じる道にいる。これまた、経験が例外なしに確証していることである。
ここまでくると、どのようにして人類を本性的に徳へと導けるか、という課題もまた解決されている。私は、両性のあいだの自然的な関係が再興されることによってである、と答えたい。この点から出発する以外には、人間性の人倫的教育は存在しない。
第八節
婚姻は婚姻それ自身の他には目的をもたない。婚姻関係は自然によって要求された異性どうしの成人の生存様式である。婚姻関係において初めて人間の全ての素質が開花する。この関係がなければ、人間性の多くの側面が植え付けられないままである。人間の生存が感性的目的に関係づけられることが少なくなればなるほど、婚姻についても同じことが言える。
第九節
自然と理性は、結婚だけを許すのであって、性衝動の充足のためのこれとは違った両性の結びつきを絶対に許さない。権利法則は結婚を制定したり規定したりすることには関わり合わない。これに関わるのは、自然と理性の遥かに高次の立法である。
第ニ篇 婚姻法
第十節、第十一節
あらゆる権利の総体は人格性であり、人格性を市民に保証するのが国家の第一の義務である。ところで、女性が男の性的快楽への服従を強要されるなら、自分の人格性と全尊厳を失う。ゆえに女性をこの強制から保護してやるのが国家の絶対的な義務である。また、強姦という暴力から女性市民を保護する権利と義務が国家にはある。この犯罪は、あらゆる人権を限りなく侮辱し忘却する態度を示している。
第十ニ節
世間知らずで無垢な娘は、愛を知らないならば、愛に課せられるあらゆる拘束も知らない。自分の両親ないし近親者が自分の目的のための手段として、娘を説得したり、力づくで結婚させたりする、この種の強制は最も恥ずべきものであり、その帰結からすれば、上の物理的暴力よりもはるかに侮辱的である。そうした女性は完全に、永久に道具に貶められるのである。
第十三節
多くの親は、愛というのは後になってようやく産まれるものだと口にする。男性にあってはこのことは、ふさわしい妻を娶るなら、十分予期される。しかし、婦人の場合にはこれは極めて不確かである。だから、このような単なる可能性をあてにして全生涯を犠牲にし貶めるというのは怖ろしいことである。
第十四節
どんな結婚も法理的効力をもたねばならない。つまり、女性の人権が損なわれてはならない。女性は、強制されたのではなく、自由意志で、愛に基いて、自分を与えたのでなければならない。どんな男性も、国家の前でこのことを立証できるということを義務づけられていなければならない。
第十五節
夫婦は心の底から合一している。それゆえ、夫婦の間に権利をめぐる争いが起こり得るとは到底予想できない。従って、国家は夫婦の相互関係についていかなる法律も作るわけにはいかない。なぜなら、夫婦の全相互関係は、法理的関係ではなく、心と心との自然的で道徳的な関係だからである。
第十六節
婚姻の概念には、夫人が夫の意志に無制限に服従することが含まれている。これは道徳的根拠によっている。夫人は自分自身の名誉のために服従しなければならないのである。夫は国家にあっては妻の保証人となる。夫は妻のあらゆる公的生活を生きる。こうして夫人には家庭での生活が残されるだけである。
第十七節 第十八節
婚姻の概念には、自分の人格を委ねる夫人は、同時に、自分の全ての財産の所有と国家内で自分に独占的に帰属している自分の全ての権利の所有を夫に譲り渡す、ということが含まれている。婚姻の概念にはまた、共同の住居、共通の労働、要するに共同の生活が含まれている。
第十九節
女性には愛が宿っており、愛は愛からだけ自ずと生じると夫も学ぶと、性衝動は高貴なものとなる。妻が愛もなしに身を投げ出すならばそのことで自らを笑い物にしてしまうこと、妻の快楽が卑しむべき快楽であること、これを夫がいったん知ってしまうと、彼は自分をこの呈示の完成の手段として用いさせることを欲しなくなる。彼は、かりそめにも自分が下劣な衝動の充足のための単なる道具と見なされるよう強いられるならば、自分を軽蔑せざるを得ない。夫人の姦通が夫に及ぼす作用は、これらの原理から判定すべきである。
別の男性に身を許す人妻については、二つの場合がある。一つは、その男に真の愛に基いて身を許す場合である。女性の愛の本性は分割に耐えられないから、そのときは、良人との全関係は消滅していることになる。彼女が良人との関係を見かけ上継続させるならば、自分を更に貶下してしまう。もう一つは、人妻が感性的快楽のゆえに他の男に身をまかせた場合であるが、このときでも彼女は良人を愛しておらず、良人をひたすら自分の衝動の充足のために用いているのであって、それは、良人の品位を無条件に汚すことである。
こうして女性の姦通は、いずれの場合でも、全婚姻関係を消滅させる。自分の妻の放蕩を甘受する夫は、いたるところで軽蔑される。夫の悋気は不実な妻に対する軽蔑という性格をもっている。それが別な性格、例えば妬みとか、嫉みとかいった性格をもつ場合には、夫は自分を笑い物にしてしまう。
第ニ十節
夫の姦通は、女が愛ゆえでなければ、下劣であり、ただ彼は享楽しようとするだけである。女が愛ゆえであれば、彼は女に最大の不義を働くことになる。これによって彼は結婚の義務、限りない寛大さ、気配りを引き受けることになるが、それはできない。
男が性衝動だけを目指すことは、下劣ではあるが、性格を台無しにするわけではない。しかし、これによって、妻は自分が情愛だと思ってきたものが単なる性衝動だったとして、ひどく貶められたと感じざるを得ない。また妻は相手の女も自分と同じ犠牲を払ったと苦痛に思う。ここから妻の悋気は恋敵への妬みや憎しみといった性格をもつようになる。夫は当然もつべき寛大さに背くことになる。品位ある婦人なら許すことができ、夫に優しく振る舞えば振る舞うほど、尊敬されるが、夫は婚姻の筆頭者であるという勇気と力を失い、妻の方は、自分が身を任せた相手を尊敬できないことを重苦しく感じる。両者は逆転し、妻は寛大に、夫は卑屈な男以外ではありえなくなる。こういう意見は両性から普通に聞かれ、両性の根本的差異に由来する。
第二十一節
姦通とその結果の離婚の民事的帰結を根本的に判定できるためには、まず国家および立法と性衝動の婚外の充足との関係を考察しなければならない。
国家の義務は、前述のように、愛に基く以外に身を任せるよう強制されない、つまり女性の人格の最も高貴な部分である名誉を守ることである。しかし、誰しも自分の生命に対する無制限な外的権利(内的な道徳的権利ではなく)をもっており、国家は自殺を禁ずる法律を制定することはできないように、女性もまた、自分の名誉に対する無制限な外的権利をもち、自分の人格を犠牲にする権利をもっている。下劣で卑俗な考え方をすることが男にとって外的に自由であるのと同様に、自分を動物に貶めることは女にとって外的に自由なことである。
女が単なる肉欲か別な目的のためとかで身を委ねようとし、愛を諦めている男を見つけるなら、国家はそれを妨げることはできない。従って、国家は厳密には、売春や姦通を禁ずる法律を作ることはできない。ただし、その場合国家が考慮すべきことがあるが、この点については後で明らかになるだろう。この種の悪事は道徳律の蹂躙として、また道徳的な強制社会である教会によって、処罰される。それに対する主要な罰はいつでも悔悛であった。
第ニ十ニ節
性衝動の充足を最終的目的としたり利己に基いていたりする関係の内で、まず第一のケースとして、持続性と公開性をもつものがある。それは内縁関係と呼ばれる。国家は、前節で述べられた理由で、内縁関係を禁止することができないが、女が強制されていないことを確信していなければならず、女はこれを宣告しなければならない。ただし、こうした事態は品位を欠いているので、宣告は、おごそかに格式ばってではなく、ましてや道徳の師(聖職者)の前で行われるわけではなく、いかがわしい案件に取り組むことを元々義務付けられている一定の警察勤務者などの前で行われる。
国家は更にこうした結びつきは、たとえ外見からすれば結婚の様に見えても、決して結婚ではないことを承知していなければならない。それは結婚に具わる法理的関係をもたない。男は保証者ではないし、女の法的な後見人ではない。その絆は、二人の内の一方がその気になれば、何の正式の手続きをなしに、すぐにも解消できる。国家はその絆を保証しなかった。同様に国家は契約の条件も保証しない。だから同棲する女は男に対して権利として有効な要求をもたない。人が権利として有効な要求をすることができるのは、国家が認可し承認する生業をもつ場合に限られる。今の場合に営まれる生業を、国家は確かに妨げることはできない。それは国家の権利外のことだからである。しかし国家は、それを認可することわけにもいかない。なぜなら、それは不道徳的だからである。
第十八節 民事契約もしくは財産契約の精神について
(1)各人に認められた自由が及ぶ範囲は、客体に対する当人の所有権が及ぶ範囲と一致し、それ以上には出ない。私が何かを私の目的に服させていることは、根源的権利の概念に従うなら、あらゆる所有の第一の根拠である。ではどのような目的に服させるのであろうか。この問いは民事契約を締結する際、当事者各人に提起される。民事契約は、規定されていると共に規定を与えるものでもなければならないからである。
(2)あらゆる自由な活動の最高にして普遍的な目的は、生きることができる、という目的である。誰もがこの目的をもっている。それゆえ、自由が一般的に保証されるなら、この目的も保証される。この目的が達成されなければ、自由は、ひいては人格の持続は、およそ不可能となる。
(3)個人には一定の客体の領分が一定の使用のために独占的に認められている。けれども、この使用の最終目的は生きることができるということである。この目的の達成は保証されている。これが財産契約の精神である。あらゆる理性的な国家体制の原則は、各人は自分の労働によって生きることができるべきである、というものである。各人は自分の市民としての所有物を、全ての公民が各自のものによって生きることができる限りでのみ、またそのことを条件としてのみ、占有する。公民が生きることができなくなる限りで、それは各人の所有物であることをやめ、困窮した人たちの所有となる。執行権力は、これについても、国家管理の他の全ての部門と同様に、責任を負っており、民事契約を一緒に結んだ貧者達は、支援を受ける絶対的な強制権を有している。
(4)万人はまた必然的に各人が生活するに必要なだけの労働を自分の領分でしているかどうかを監督する権利をもっており、共通な権利や共通な要件のために制定された国家権力にその権利を委ねる。
(5)各人は、自分に認められた自由と権益によって生きることができるようにするために自分の可能なこと全てを行う、と万人に対して約束し、公共体は全個人の名において、このようにしてもなお生活することができない人には支援することを約束せねばならない。
第十九節 所有について確立された諸原則の完全な適用
(1)我々の身体は有機的に組織された自然産物であり、身体における有機的組織化は、とだえることなしに進展する。
(2)国家持続の条件は、十分なだけの生計手段が現存しているということである。有機組織化の促進は国家の礎石である。
大地は感覚界における人類の共通の支えであり、空間中で人間が存続するための条件、ひいては人間の全感性的生存の条件である。ことさら塊として見られた地球は、こうした占有の可能な対象では決してない。なぜなら、地球は、実体としては、或る人間の可能な排他的目的にはおよそ服することはできないものであって、或る事物がどのように用いられるかを述べることができないまま、その事物の使用から他の全ての人を締め出すことは、権利に反している。
地面とそれに施される加工は、カントも言うように、質料と形相(素材と形態)の関係ではなく、実体と偶有性の関係としてとらえるべきで、偶有性に対する権利は実体に対する権利を基礎づけない。(フィヒテは『仏革命論』では、造形(形態賦与)が土地所有を基礎づけるとし、ヘーゲルは『法哲学』第五十二節でそれを批判したが、本書を踏まえての議論ではない)
さて、所有の単なる形式、所有の単なるしるし、国家において有用で目的に適ったあらゆるものを表示するものが存在すべきである。ただし、そうしたものはそれ自身ではいささかも合目的性を備えていてはならない。さもなければ、国家はそれを公共的な使用のために請求する権利をもつだろう。そうしたものは貨幣と呼ばれる。貨幣はあらゆる事物の価値の国家それ自身によって権威づけられたしるしである。
租税の納付の後に残るものは、国家契約に従えば、純粋な財産である。だが国家は、同じ契約に従って、公民が必要とするものを彼らに分配するよう各人に強要する権利を有しているので、各人はそのために貨幣を保持する。それは国家といえどもそれに口をはさむ権利をもたないような、絶対的な純粋財産である。私が占有している貨幣は、同時に、私が私の全ての市民的義務を果たしてしまっていることのしるしである。私はこの点については国家の監督を全面的に免れている。自分の貨幣を私的に使用するために行った備蓄、総じて、自分で使用するために購入したもの全ては絶対的財産である。
民事契約に従うならば、国家は、一切の絶対財産を保護し、めいめいにその安全を保証してやる責務がある。
しかし、国家のあらゆる監督を越え出ているものをどうやって保護すべきであろうか。国家はそれを無規定的に、つまり一般的に保護するしかない。そのためには、そうした無規定的なものに何か規定的なものが結び付けられねばならない。この規定されたものは、全ての絶対的財産の総括として設定される。私の絶対的財産は私の家屋によって規定される。私の家屋は総じて、国家から直接に保護と保証を受けており、このことのよって、その中にあるものは全てまた間接的に保護されている。だが、国家は家の中に何があるかを知らないし、知るべきでもない。だから、個々の対象そのものは、私自身がこれを保護し、私自身が絶対的に支配する。家の鍵は国家権力と私的権力との境目である。
家の中で起こることは私事であり、大目に見ることができる。公共の場で起こることは公共の悪事であり、そこでは被害者が私的に大目に見たからといって罪が許されるわけではない。身体と財の相互安全に関しては、暗黙の契約が成り立っている。信義誠実に基いて締結されるこの契約を破る者は、破廉恥であり、その者はそれ以後は一切の信頼を受けるに値しない者となる。
市民の名誉とは、人々がその市民について、彼には信義誠実がある、という意見を抱くことである。国家には、市民は互に信じ合うべきである、と命じる権利も権力もない。というのも、国家それ自身が全般的不信に基いて建設されたからであり、国家それ自身もまた信じられておらず、また信じるわけにはいかない。これは我々が国家の全構成を通じて立証してきたことである。
公民めいめいの身体の自由と絶対的不可侵性は、公民契約において公然と保証されるわけではなく、人格性と合わせて同時に絶えず前提される。契約の全ての可能性と契約の対象となっている全てのものは、この自由と不可侵性に基いている。誰もができる限り、息災でいられる権利を有している。犯罪被害者の訴えんとする意志は、個人であり、臣民であると見なされた全ての公民の全般意志によって、規定され、宣言され、保証される。国家の共通意志によってそうされるわけではない。国家はここでは裁き、判決し、訴えを聞きとどけるのであって、欲したり、要求したり、訴えたりするわけではない。いかなる私人も、国家にその義務を果たすよう求める権利を有している。各人はその案件を届け出る権利を、また国家が訴えないならば、国家それ自身を訴える権利をもつ。
総じて公権力のこの部門での国家は、自国の市民の死とその死に方を気にかけるよう義務づけられている。死亡は公的現象である。医師は国家の監督を受けねばならない。犯罪において、攻撃されたものの生命を保全することは、加害者にとっての関心事になる。なぜなら、攻撃された者が生きている限り、加害者には赦される可能性があるからである。彼が死んでしまうと、加害者は公衆とその代理者の手に落ちることになるが、公衆は自分自身の安全のために加害者を赦すことはできない。
自己防衛の権利は、助けを求める叫びによって行われる。このことは絶対に必要であり、自己防衛の権利の専らの条件である。人は叫び声をあげることによって、公衆が彼の無罪を証言できる状況に身をおくことになる。
また、緊急権について、それが現れるのは次のような場合だとされる。即ち、単なる自然的因果性によって、二人の内の一方だけが、しかも他方の破滅によってしか我が身を救えなくなるような状況に追い込まれている場合、また二人の内一方が犠牲にならなければ二人とも滅びてしまう場合がそれである。この問題はキケロが提起して以来、しばしば倫理学と自然法論で論じられてきたものである。これは、いかにして幾多の自由な存在者が自由な存在者として共存できるか、という法論の問いである。様式が問われるのだから、共存一般の可能性は前提される。この可能性がなくなれば、問いそのものもなくなってしまう。そして今の場合このことが成り立っている。従って、私自身を保全するために他者の生命を犠牲にする積極的権利は存在しない。しかしまた、そのようにすることは権利に反しているわけでもない。なぜなら、ここではそもそも権利はもはや問題にならないからである。自然はこの二人に対し、二人とも生きるという権能を取り消してしまっている。それゆえ、どちらが生き延びるかという決定は、物理的強さと意思に委ねられる。だから、緊急権とはあらゆる権利法則賦与を全面的に特免された権利である。それは、もっと高次の法則賦与に、つまり道徳的法則賦与に服すのである。この法則は「ともかく何もせず、問題を神に委ねよ。それが神のご意志であるなら、神は君を救うことも十分できるし、また神のご意志でなければ、神に身を委ねなければならない」と語る。ただしこれは、今の場合にはふさわしくない。ここでは我々は専ら権利だけを扱っているからである。
単なる交換、つまり交易ではない、或る公民の財産が別の公民に完全に移転するような財産取得について、国家はどの程度まで承諾を与える義務があるか、またそうした取り決めを無効にしたり契約が効力をもたないようにしたりすることが許されるか。まず、使用に供される全ての財産は、国家の法的に基礎づけられた意図として、国家の必需のために合目的的に用いられる、ということである。だから財産売買の際には、購入者は、それを用いるように購入しなくては、国家から何かが奪われてしまうことになる。
一般に遺言が法的に有効であることは、完全に任意のことである。従って、自分の財を遺言によって相続させる権利がどこまで及ぶべきかも、任意であり、全般意志(全体意志)の処置だけに、つまり立法者だけに依存している。とはいえ、これについて何かはっきりと定められなければならないので、法律が作られる必要がある。法定相続制が導入されべきかどうか、またそれは遺贈の自由な処分をどの程度まで制限すべきかは、国家の状態の特殊性を顧慮すべき立法者に左右される。ただし、贈与一般の場合に生じるのと全く同じア・プリオリな必然的制限が一つだけ存在する。それは、遺族、例えば未亡人は生きなければならず、子供達は教育されねばならない、つまり、自分で財産を取得できるような職能を身につけることができねばならない、ということである。この可能性は遺言の自由によって廃棄されることは許されない。というのは、国家は何と言っても遺族を世話するための保証人でなければならないからである。
これまで示してきた類の取得以外には、国家において許可される取得は存在し得ない。こうして財産ないし所有に関する我々の研究は完全に完結している。
第ニ十節 刑事立法について
権利概念一般に従うならば、人が権利を有するのは、第一に、理性的存在者の共同体に適合している、言い換えると、権利の規則を自分のあらゆる行為の不可侵の法則としていることであり、第二に、この法則に従って自分の自由を発揮させる際にはいつも実際にも、この法則の表象によって規定される能力がある場合である。この法則を故意に犯す者はこの第一の条件に当てはまらない。無思慮のゆえにその法則を犯す者は、第二の条件に当てはまらない。市民が自分が有するあらゆる積極的権利を実際にもつのは、彼から他の市民の権利が守られているという条件があるときに限られる。この条件が充たされなくなれば、その人と他の市民との間には、市民契約によって制定された法的関係はもはや成立しなくなり、ひいては、何の法的関係も存在しなくなり、国家から追放される。
しかし、国家権力の目的は、万人に対する万人の権利の相互的安全にあり、そして国家は、この目的のための手段を行使するということしか義務づけられていないから、別な手段によってこの目的達成が可能ならば、この侵犯者を追放しなくてもよいことになる。万人と万人との約束によってのみ生じるこの契約を、弁済契約と呼ぼう。この契約は国家の法律になり、執行権はそれに義務づけられている。
(1)弁済契約は、公共の安全がそれと両立できる範囲までにしか及ばない。この限界を越えるような弁済契約を含む国家はいかなる法ももたない。刑罰を下す際の唯一の意図は、刑罰という威嚇によって悪事が防止されることであり、欠如している善意志がこれによって産み出されることにある。刑法の目的はその適用事例の消滅である。
国家における積極的刑罰の実質的原理は、第十四節で述べ、証明しておいた。誰しもが、利己心からあるいは無思慮のゆえに、他人の権利を犯そうという誘惑にかられるちょうどその程度に、どうしても自分自身の権利と自由(言葉の最も広い意味での自分の所有物)を賭けるはめになるのでなければならない(同害刑罰、同害報復の罰)。他人への損害は、自分への損害である。
(2)この平衡が可能か不可能かは、事象の本性によるか、それとも刑法の実効性が顧慮に入れている主体の特殊な事情によるかのいずれかである。事象の本性についていえば、法を踏みにじる人は、何かを欲するというまさにそのことによって、自分の意志を行為へと現わすのを妨げられるべきである。無思慮の場合も同様である。
意志が形相的に悪い場合には、つまり害を与えること自体が悦びの者には、事象の本性からして平衡という原理は適用できない。同害刑罰ではこうした意志を押しとどめることはできず、別の手段がなければ、国家からの追放しかない。
道徳性という点に関してはいかなる人間も他人の裁判官たり得ないし、また裁判官たるべきでない。市民の処罰の唯一の目的、処罰の多寡の唯一の尺度は、公共の安全の可能性である。この安全が犯されるということだけを目的として犯される場合、その侵犯は、不道徳性の度合いが大きいことを示しているからといって、例えば利己心に基いた完全侵犯よりも厳しく処罰されるべきでない。道徳性というのは、そもそも唯一つであり、いかなる程度の差も許容しない。
利益のために悪事に及んだと想定できない、つまり、自分を含めただ台無しにしただけであるような加害者の場合、故意の悪意ある侵害と区別できるためには、悪意がないという証明を見つけるしかない。そのためには彼を一定期間放任し、自由にさせておけばよい。悪意があれば、遅かれ早かれその自由を損なうことなしに当局の監視の網にかかるだろう。よく整った国家にあっては、いかなる人も罪なくして処罰されるべきでなく、同様に、悪事が罰せられずに済ませられることもあってはならない。
また、処罰が則る法律を誰もが予め知っておかねばならない。さもなければ処罰は不正義を産む。法律で推奨される入念な配慮を顧慮する人は放免されるべきである。害に対して注意義務を怠らなかったにも拘らず起こることは、事故と見なされるべきである。
確かに、悪事をした人は憤怒にかられるとか酔っていたとか自分の理性を意のままにできなかったという弁解は、悪意があったという疑いははらすが、同時にそれゆえ理性的存在者の社会で生活する能力がないと告白しているのである。こうした人は、その更生が確信できるようになるまで自由を奪われるか、それとも無慈悲に追放されるかでなければならない。
主体の境遇によっては、同様な理性の喪失に対する罰則は、自分の身体以外には何も占有していないために失うべきものが全くない人達には適用できない。無産者には、君が他人から何かを取るなら、それは君のものから差し引かれる、という威嚇は、何ら実効的に働かない。
(3)法律と法律の権力に直接反抗しようとする意志に対しては、それと平衡するものはおよそ可能ではない。なし得るのは、法律がその権威をそれが確定されているままに主張することである。ゆえにここでは、同害刑罰は、事象の本性からして生じない。また権利剥奪という刑罰に服役させるべきでもない。反乱を惹き起こし得るのは私人だけであり、反逆は公権力の参与者だけにしかできない。
(4)更生に関していえば、それは決して心根の道徳的更生ではない。なぜなら、この点に関してはいかなる人といえども他人の裁判官ではないからである。問題となっているのは専ら、政治的更生であり、行儀であり、現実的行為のための格律である。道徳的心掛けは義務のための義務への愛であるが、政治的心掛けは自己自身のための自己愛であり、自分の人格と自分の財産との安全に対する気遣いである。自分自身の安全に対するこの気遣いこそ、人間を国家へ駆り立てたものであり、この気遣いだけが、各人をして国家にしかるべき保証を与え、国家は各人をしっかり守ってやれるのである。
(5)国家から追放される者は、どのように扱われるべきであろうか。これは、刑罰論における最も重要な研究である。権利剥奪の宣告によって、国家と個人は、今後は、いかなる関係ももたないものとなる。その宣告から帰結するものは、その判決を受けた者の完全な任意な扱い、物件、一匹の家畜扱いであり、全ての人間から軽蔑され、名誉を失うのである。追放は市民契約の失効に基き、いったん失効になれば、当事者双方にとって相手方はもはや何ものでもなくなり、国家が犯罪者を殺す場合も、それを国家として行うのではなく、単なる自然力よりも強力な物理的権力として行うのである。とはいえ、国家はこのような仕方でのみ犯罪者から自己を守れるという理由なら、犯罪者を殺すことができ得る。そのとき犯罪者は、国家の自然力によって鎮圧される自然力である。
犯罪者の死は刑罰ではなく、保安手段にすぎない。これが我々に死刑の全理論を与える。国家そのものは、裁判官として死刑にさせるわけではなく、単に契約を破棄するだけであり、そしてこれが国家の公的行為である。国家がその後でなお殺すとするならば、それは裁判権によってではなく、警察によって行われるのである。裁かれた者は立法の前では無いも同然であり、警察の手に帰する。これは積極的権利に従って起こるのではなく、緊急避難のゆえに起こることである。
人倫法則に従うならば、意図的に殺すことは、いかなる場合でも端的に禁じられている。どんな人も理性的目的の促進のための手段と見なされるべきである。いかなる人も、たとえ今のところはどれほど堕落していようとも、やはりまだ更生できるという信念を廃棄することはできない。さもなければ、理性によって自分に対して必然だとして設定された自分の目的を廃棄するはめになってしまう。だから、私人は決して殺すことは許されない。むしろ自分自身の生命を危険にさらさねばならないのである。国家は、ただしここでは警察権力としての国家だが、そうではない。国家そのものは何ら道徳的人格ではなく、法理的人格である。
こうして、更生の余地のない悪人の処刑は、必要であるにしても、常に悪弊であり、ゆえに、こうした処刑を不要にすることが国家の課題である。
以上の刑罰論に、とりわけ死刑論に反対が唱えられる。それによれば、裁判による刑罰は手段ではなく目的と見なされ、計り知れない定言命法に基くとされる。この理論においては、計り知れなさを口実にしてその主張の証明を免除することができる。これは哲学の領域での、正当に要求される著名な、理由づけの同等性と、理由をあげて支えられた自分の意見を述べる自由とに全面的に反対してなされる。人殺しが暴力的仕方で命を失わねばならないとするなら、人殺しに不当なことがなされたかどうか、という点についてはおよそ論争の余地がない。
(6)他人を、罪もないのにその名誉を悪辣に攻撃する者は、自分の名誉を失う。国家は罪なくして攻撃される人に対しては、賠償する責務がある。
(7)損害賠償は常に履行されねばならない。被害者は国家に直接請求できる。被害者にとって国家は、市民契約においてあらゆる禍害に対する保証人だったからである。
国法論第三篇 憲政体について
第ニ十一節
(1)偶然的な徴表によって、経験的に規定された特殊な国家を扱い、またどのようにしてそうした国家において権利法則がこの上なく適切に実現されるかを考察する学問は、政治学と呼ばれる。政治学の全ての問いは、権利に適った憲政体についての特殊な規定についてであり、純粋にア・プリオリである法論とは何ら関わりをもたない。我々が確立する憲政体概念は、感覚界において権利ないし法の概念の実現はいかにして可能か、という純粋理性の課題を解決するものである。それゆえ、憲政体概念でもってその学問は閉じることになる。従って憲政体はア・プリオリに規定されている。
決して公共体の手に留められることはできない国家権力の統治形式について、権力者の人格との関係でいえば、それは一人支配制であるべきか貴族制であるべきかがまず問われる(民主制は問題にならない)。どちらを選ぶかは怜悧の問題である。人民が厳格な適法性に不慣れの時、国民一般の思考様式とかのゆえに、また国際関係で無法状態であるがゆえに、統治力を必要とする場合には、一人支配制がよい。だが、権利に適った体制が実効的に働いており、法がその内的重みによって実効的に働く場合には、共和体制のほうがよい。官吏は専ら元首に任命され、その指令と裁断に服さねばならない。なぜなら、最高行政府だけが国民に責任を負うからである。
自分達の元首を自ら選ぶべき人民は、文化的に十分陶冶されていなければならない。そうでない限り、選挙権も委譲され、元首の順番が永続的に導入される方がよい。
いかなる人も保護を必要とする程度に応じて、分担に応じなければならない、保護権力は保護の必要性に適合していなければならない、というのが財政の原理である。これによって、公民から徴収すべき租税の一定の尺度が得られる。
裁判における審理は、論理と健全な人間悟性(常識)一般とをその主要な源泉にしている。真実ならざることを公的に断言するのに何ら躊躇しない人は宣誓によってその非真実を強化させることもあり得るが、こうしたことを防止できるようにするものとして、何が前提されたらよいだろうか。こうした人は不誠実という咎を恐れないので、神を証人に召喚することは、人が偽証した場合に神の懲罰を下させるという超自然的で不可解な魔術的手段である、と信じているに違いない。これこそ道徳的宗教に真っ向から対立する迷信の本性である。この場合に国家は、不道徳が継続すると覚悟するであろう。そしてこの不道徳を促進せざるを得ない。なぜなら、国家は自己の安全をそれに依存させたことになるからである。それは不条理である。だから、宣誓は厳粛な断言としてだけ考えられ、偽誓することを誰しも躊躇するに違いないと前提するような宣誓を断言以上のものとして見なしてはならない。すると宣誓できるのは、私事において一方の当事者が他方の当事者のこの断言に進んで身を任せる場合に限られる。欲する者にその欲する通りのことをするのは、たとえそれが害を与えることであっても、不正ないし不法ではない。公的案件では宣誓を適用することは決してできない。というのも、元首は公共体に自分の権利を渡すことができないからである。立法が十分行き届いており、立法を必要とすることについては公的制裁・報償なしには何も片付かないようになっていさえすれば、警察が十分警戒してさえいれば、裁判官が自分の方式だけを念頭に置くのではなく、その上十分常識を心得てさえいれば、宣誓はおよそ必要ではなくなる。
(2)国家は臣民に契約にふさわしい保護の義務を負い、また臣民がその市民的義務を履行し、法律を尊守するよう拘束する権利をもっている。このどちらか一方が現れるような場合に、警察が必要となる。つまり警察は、この二つの関係において、執行権と臣民との媒介者なのである。市民との関連での判決と実定法の関係は、行政府との関連での警察と実定法の関係に同じである。警察は法律の適用事例を与えるわけである。
生命と財産の保護と安全のための措置は、警察の第一の部門であるが、国家はさらに、その保護義務に従って、市民を侵犯から守り、監督を容易にし、罪人を発見したりすることを目指すような法律を市民に与える権利を有する。そうした法律は警察法と呼ばれる。これは、本来の民法が現実的侵害を禁ずるのに対し、警察法は侵害の可能性を予防することを目指す。例えば、あらゆる武器の所持の禁止。ローマ共和国では、武装して市街に現れることが禁じられていた。各人は身分証明書をいつでも身につけていなければならない。
執行権は、他に法律の履行を取り仕切る権利も有する。そのために特殊な措置は必要なく、上述の保護措置によって同時に法律の守護も一緒に配慮される。誰かが不正な振る舞いをして法律を踏みにじる場合、誰かが保護されねばならないという場合も同時に生じているからである。
法律に反する悪事の誘惑に駆られた人は誰でも、自分は見つけられ自分がよく知られた仕方で処罰されるだろうと全く確実に予見すること、これは立法および国家という全制度が実効的に働くための専らの条件である。犯罪者が隠蔽と刑罰逃れを高い確率で期待できるとすれば、犯罪を食い止めるものは何だと言うのだろうか。最も賢明な法律があったとしても、誰もが他人の善意にだけすがることになる。そこには、逮捕された者だけが刑罰を受けるという公然たる不正義がある。刑罰は、悪事のゆえにではなく、へまをして逮捕されたがゆえにあるのだという嘲りは、当たっている。あげくの果ては、捕まらなければ何をやってもいいのだ、という脱法行為、不道徳を積極的生き方としてそこに正当化の根拠を見出そうとする悪人もはびこる。いかなる罪人も例外なしに捕まえるべし、という警察への要求は、絶対になくてはならない。これが不可能であるなら、国家一般も、ひいては人間に間でのあらゆる権利も不可能である。国家とは、弱者を自分の望み通りに利用する権利を口実にして強者が弱者を抑圧することに他ならない。モンテスキューが言うように、公法とは、強者が自分の利益を害することなしにどの程度まで不正でありうるか、ということを確立する説に他ならない。いかなる罪人も例外なしに捕まえるべしという要求を不可能だと見なすのは、ここで確立された国家概念を堅持せず、国家の概念を有機的に組織された全体として見なさず、個々の部分を樹立する際、いつでも空想による普通の国家のイメージを度々滑り込ませることからくる。そうなると、部分がどこにも適合しようとしなくなるのも驚くに値しない。上から下まで無秩序がはびこるところで統治が続くためには、下位の者の無秩序をかなりの程度許すしかないのである。
国家を設立するにあたって、十分な条件を整えた理性国家ではないところの、必要に迫られて応急に創られた我々の緊急国家におけるあらゆる災厄の源泉は、唯一専ら、無秩序に、また秩序創出の不可能性にある。こうした緊急国家では罪人の発見がしばしば重大な困難に出会う。それに対しここで確立した憲政体をもつような理性国家においては、犯罪は著しく異常なものであり、警察がすぐざまそれを発見するだろう。
自然法論第一補論 家族法綱要
第一篇 婚姻の演繹
第一節
或る種の存在者の形成は有機的自然における形成力の最終段階をなしており、この力はそれの実働性の条件が与えられている場合にはいつでも必然的に働く。こうした条件が常に与えられていれば、自然の中には、或る形態から別な形態への不断の移行が起こり、同じ形態があり続けることは決してない。永遠の生成があるだけで、存在は決して生じないことになる。そうなれば、移行できるようなものは何も存在せず、それゆえまた移行すら不可能となる。(本書247頁参照)こうしておよそ自然は不可能となる。自然が可能であるべきなら、類は類として生存する以外になお別の有機的な仕方で生存しなければならない。とはいえ類はやはり、繁殖できるためには、類としても現に存在するのでなければならない。このことは、類を形成する力が分割されて、いわば絶対的に共属し合う二つの半分、両者の合一によってのみおのずと繁殖する全体をなすような半分へと引き裂かれる、ということによってだけ可能であった。この分割においてのみ、類を形成する力は個体を形成する。諸個体は合一されているとき、そして合一されることができる限りで、初めて類で在り、初めて類を形成するのである。なぜなら、存在することと形成することは有機的自然にあっては同じだからである。個体はひたすら、類を形成するという傾向としてだけ存立する。このようにしてのみ、あの力は鎮まり、停止した。そしてその力が鎮まると有機的自然の内に形態が出現した。こうしてそれは初めて自然になったのである。だから、形成力をもつ二つの性の分離というこの法則は、全有機的自然を必然的に貫くのである。
第二節
出産するための全条件を備えた組織体(雌)は、どこかで完全に一体化しており、いったん動き出すとそれ自身の法則に従って自ずと展開する。確固たる形態があるべきなら、運動する第一原理(精子)だけが切り離されねばならないが、この原理を自ら産出する場が雄である。
第三節
理性の性格は絶対的自己活動、能動性であるから、男性が自分の性衝動の充足を目的としているということは、理性に反しないが、女性が自分の性衝動の充足を目的にするのは全く理性に反する。自然は女性をひたすら受動的に振る舞うよう手配りした。だから女性が、性衝動の充足を目的とすれば、単なる受動を目的にしてしまうことになる。そうなると、女性は、受動的に振る舞うという素質からして理性的でないか(しかしこれは女性が人間だという前提に矛盾する)、それとも、この受動的に振る舞うという素質が女性の自然本性に従っては展開されないか(これは、自然の内にはありえない素質が自然の内にあるという自己矛盾である)、あるいは、女性は自己の性衝動の充足を決して目的とし得ないか、のいずれかでしかない。結局、最後のケースしか成り立たないから、女性にあっては、こうした性衝動の充足という目的と理性性は廃棄し合うのである。
とはいえ女性の性衝動は、またその発展と充足は、やはり自然の計画の内に含まれている。それゆえ必然的に、この衝動は女性にあっては別な形をとり、理性性と両立できるようになるために、それ自身、活動に向かう衝動として現れることになる。しかも、この性にだけに属する活動を目指す特徴的な自然衝動として現れるのである。
第四節
理性的存在者の内に何かが在るのは、それを当人が意識する限りであるから、女性は総じて、自分自身の衝動を充足するために性の快楽に身を委ねることはできない。女性は、理性の尊厳という自分の究極的目的を放棄せずには、自己自身の目的ではありえなかった。それでもやはり衝動に駆られて身を委ねざるを得ないのだから、この衝動は男性を満足させるという衝動以外ではありえない。このような行為においては、女性は他者の目的のための手段となる。しかし女性は、手段となるにも拘らず、愛という高貴な自然衝動に従って自ら進んで手段となることによって、自分の尊厳を主張するのである。
男性は、自分の尊厳を捨てることなしに、性衝動を認め、その充足を求めることができる。しかし、女性は男性より一段深いところに位置している。女性は男性の性の力の客体であり、また両性が結合されるべきならば、そうでなければならなかった。両性は、道徳的存在者としては平等である。このことは女性の内に、男性の性に欠けている新しい段階が導入される、ということによってのみ可能である。この段階は性衝動が女性に対して現れるときにまとう愛という形態である。
あらゆる自然衝動の内で最も高貴な愛という衝動は、女性だけに生得的である。愛は自然と理性とがこの上なく親密に合一する地点である。愛は自然が理性に介入する唯一の部分である。それゆえ愛は、一切の自然的なものの内で最も卓越したものである。愛は一般に男性にあっては根源的衝動ではなく、愛する女性と結ばれることによって初めて発達するような、女性から伝達される衝動である。
第五節
全男性の内で夫にだけ身を委ねる妻にとって、夫が最愛の男性ではない、ということがあり得るなら、自然が気紛れに仕向けたと、想定するしかないが、それは体面を汚す考え方である。従って、確かに妻が自分の尊厳を維持しながら身を委ねるのであれば、妻の現在の気分が終わることはありえない。いったん身を捧げる女性は永久に身を捧げるのである。
第六節
仮に妻の夫への献身が無制限でなく、わずかでも惜しむものがあれば、それが自分の人格よりも高い価値をもっていることを暴露することとなり、、自分の人格を貶める。妻に固有の尊厳は、何の留保もなしに夫に寄り添い、夫に融け込んでいることにある。
第七節
妻の自然本性にひそむ人倫的素質が愛を通じて発現するように、夫の自然本性にひそむ人倫的素質は寛大さを通じて発現する。夫は何よりもまず主人であることを欲する。しかし、夫は、信頼して自分に身を委ねるものに対しては、自分の全ての力を捨て去る。服従している者に対して強く出ることは、抵抗に対しては何らの力ももたない去勢された男のする仕打ちである。この自然的な寛大さの結果として、夫は自分の妻との関係でまず第一に、尊敬に値する者であることを強要される。妻の安らぎは全体として、自分が夫を何にもまして尊敬できる、ということに依存するからである。夫の低劣さと破廉恥ほど妻の愛を取り返しがつかないまで失わせるものはない。女性は一般に、臆病と性格の弱さだけは許さない。その理由は、女性の規定が要求している通りにこのような男性に服従することは不可能だという感情にある。自分の妻の支配に甘んじている夫は、そうすることで妻を笑い物にしており、妻から夫婦のあらゆる至福を奪っているのである。上述のことは、夫が妻の願望を察知し、もし妻が自分だけに任されたなら一番したいと思うことを、妻が夫自身の意志として成就するに任せる、ということによってのみ果たされる。妻は、自分の側から、夫の高い願望を察知して、犠牲を払ってもそれを成就しようと努める、ということが不可欠である。犠牲が大きくなればなるほど、いっそう自分の心の満足は完全になる。ここから生じるのが夫婦の情愛である。双方の側で、相手側の人格だけが支配するようになるために、自分の人格を放棄しようとする。双方が相手の満足の内にのみ自分の満足を見出す。こうして心と心、意志と意志の相互交流が完全になる。
両性の結びつきの内に、従って、完遂された自然産物としての全人間の実現の内に、しかしまたこの結びつきの内にのみ、徳に向かう外的衝動因が見られる。夫婦はひとかけらも理性を失うことができない。寛大さを宿す夫と、慎み深い妻ならば、いかほどにも気高く成り得る。だが、夫が低劣になり、妻が恥知らずとなる場合、夫婦は悪徳に通じる道にいる。これまた、経験が例外なしに確証していることである。
ここまでくると、どのようにして人類を本性的に徳へと導けるか、という課題もまた解決されている。私は、両性のあいだの自然的な関係が再興されることによってである、と答えたい。この点から出発する以外には、人間性の人倫的教育は存在しない。
第八節
婚姻は婚姻それ自身の他には目的をもたない。婚姻関係は自然によって要求された異性どうしの成人の生存様式である。婚姻関係において初めて人間の全ての素質が開花する。この関係がなければ、人間性の多くの側面が植え付けられないままである。人間の生存が感性的目的に関係づけられることが少なくなればなるほど、婚姻についても同じことが言える。
第九節
自然と理性は、結婚だけを許すのであって、性衝動の充足のためのこれとは違った両性の結びつきを絶対に許さない。権利法則は結婚を制定したり規定したりすることには関わり合わない。これに関わるのは、自然と理性の遥かに高次の立法である。
第ニ篇 婚姻法
第十節、第十一節
あらゆる権利の総体は人格性であり、人格性を市民に保証するのが国家の第一の義務である。ところで、女性が男の性的快楽への服従を強要されるなら、自分の人格性と全尊厳を失う。ゆえに女性をこの強制から保護してやるのが国家の絶対的な義務である。また、強姦という暴力から女性市民を保護する権利と義務が国家にはある。この犯罪は、あらゆる人権を限りなく侮辱し忘却する態度を示している。
第十ニ節
世間知らずで無垢な娘は、愛を知らないならば、愛に課せられるあらゆる拘束も知らない。自分の両親ないし近親者が自分の目的のための手段として、娘を説得したり、力づくで結婚させたりする、この種の強制は最も恥ずべきものであり、その帰結からすれば、上の物理的暴力よりもはるかに侮辱的である。そうした女性は完全に、永久に道具に貶められるのである。
第十三節
多くの親は、愛というのは後になってようやく産まれるものだと口にする。男性にあってはこのことは、ふさわしい妻を娶るなら、十分予期される。しかし、婦人の場合にはこれは極めて不確かである。だから、このような単なる可能性をあてにして全生涯を犠牲にし貶めるというのは怖ろしいことである。
第十四節
どんな結婚も法理的効力をもたねばならない。つまり、女性の人権が損なわれてはならない。女性は、強制されたのではなく、自由意志で、愛に基いて、自分を与えたのでなければならない。どんな男性も、国家の前でこのことを立証できるということを義務づけられていなければならない。
第十五節
夫婦は心の底から合一している。それゆえ、夫婦の間に権利をめぐる争いが起こり得るとは到底予想できない。従って、国家は夫婦の相互関係についていかなる法律も作るわけにはいかない。なぜなら、夫婦の全相互関係は、法理的関係ではなく、心と心との自然的で道徳的な関係だからである。
第十六節
婚姻の概念には、夫人が夫の意志に無制限に服従することが含まれている。これは道徳的根拠によっている。夫人は自分自身の名誉のために服従しなければならないのである。夫は国家にあっては妻の保証人となる。夫は妻のあらゆる公的生活を生きる。こうして夫人には家庭での生活が残されるだけである。
第十七節 第十八節
婚姻の概念には、自分の人格を委ねる夫人は、同時に、自分の全ての財産の所有と国家内で自分に独占的に帰属している自分の全ての権利の所有を夫に譲り渡す、ということが含まれている。婚姻の概念にはまた、共同の住居、共通の労働、要するに共同の生活が含まれている。
第十九節
女性には愛が宿っており、愛は愛からだけ自ずと生じると夫も学ぶと、性衝動は高貴なものとなる。妻が愛もなしに身を投げ出すならばそのことで自らを笑い物にしてしまうこと、妻の快楽が卑しむべき快楽であること、これを夫がいったん知ってしまうと、彼は自分をこの呈示の完成の手段として用いさせることを欲しなくなる。彼は、かりそめにも自分が下劣な衝動の充足のための単なる道具と見なされるよう強いられるならば、自分を軽蔑せざるを得ない。夫人の姦通が夫に及ぼす作用は、これらの原理から判定すべきである。
別の男性に身を許す人妻については、二つの場合がある。一つは、その男に真の愛に基いて身を許す場合である。女性の愛の本性は分割に耐えられないから、そのときは、良人との全関係は消滅していることになる。彼女が良人との関係を見かけ上継続させるならば、自分を更に貶下してしまう。もう一つは、人妻が感性的快楽のゆえに他の男に身をまかせた場合であるが、このときでも彼女は良人を愛しておらず、良人をひたすら自分の衝動の充足のために用いているのであって、それは、良人の品位を無条件に汚すことである。
こうして女性の姦通は、いずれの場合でも、全婚姻関係を消滅させる。自分の妻の放蕩を甘受する夫は、いたるところで軽蔑される。夫の悋気は不実な妻に対する軽蔑という性格をもっている。それが別な性格、例えば妬みとか、嫉みとかいった性格をもつ場合には、夫は自分を笑い物にしてしまう。
第ニ十節
夫の姦通は、女が愛ゆえでなければ、下劣であり、ただ彼は享楽しようとするだけである。女が愛ゆえであれば、彼は女に最大の不義を働くことになる。これによって彼は結婚の義務、限りない寛大さ、気配りを引き受けることになるが、それはできない。
男が性衝動だけを目指すことは、下劣ではあるが、性格を台無しにするわけではない。しかし、これによって、妻は自分が情愛だと思ってきたものが単なる性衝動だったとして、ひどく貶められたと感じざるを得ない。また妻は相手の女も自分と同じ犠牲を払ったと苦痛に思う。ここから妻の悋気は恋敵への妬みや憎しみといった性格をもつようになる。夫は当然もつべき寛大さに背くことになる。品位ある婦人なら許すことができ、夫に優しく振る舞えば振る舞うほど、尊敬されるが、夫は婚姻の筆頭者であるという勇気と力を失い、妻の方は、自分が身を任せた相手を尊敬できないことを重苦しく感じる。両者は逆転し、妻は寛大に、夫は卑屈な男以外ではありえなくなる。こういう意見は両性から普通に聞かれ、両性の根本的差異に由来する。
第二十一節
姦通とその結果の離婚の民事的帰結を根本的に判定できるためには、まず国家および立法と性衝動の婚外の充足との関係を考察しなければならない。
国家の義務は、前述のように、愛に基く以外に身を任せるよう強制されない、つまり女性の人格の最も高貴な部分である名誉を守ることである。しかし、誰しも自分の生命に対する無制限な外的権利(内的な道徳的権利ではなく)をもっており、国家は自殺を禁ずる法律を制定することはできないように、女性もまた、自分の名誉に対する無制限な外的権利をもち、自分の人格を犠牲にする権利をもっている。下劣で卑俗な考え方をすることが男にとって外的に自由であるのと同様に、自分を動物に貶めることは女にとって外的に自由なことである。
女が単なる肉欲か別な目的のためとかで身を委ねようとし、愛を諦めている男を見つけるなら、国家はそれを妨げることはできない。従って、国家は厳密には、売春や姦通を禁ずる法律を作ることはできない。ただし、その場合国家が考慮すべきことがあるが、この点については後で明らかになるだろう。この種の悪事は道徳律の蹂躙として、また道徳的な強制社会である教会によって、処罰される。それに対する主要な罰はいつでも悔悛であった。
第ニ十ニ節
性衝動の充足を最終的目的としたり利己に基いていたりする関係の内で、まず第一のケースとして、持続性と公開性をもつものがある。それは内縁関係と呼ばれる。国家は、前節で述べられた理由で、内縁関係を禁止することができないが、女が強制されていないことを確信していなければならず、女はこれを宣告しなければならない。ただし、こうした事態は品位を欠いているので、宣告は、おごそかに格式ばってではなく、ましてや道徳の師(聖職者)の前で行われるわけではなく、いかがわしい案件に取り組むことを元々義務付けられている一定の警察勤務者などの前で行われる。
国家は更にこうした結びつきは、たとえ外見からすれば結婚の様に見えても、決して結婚ではないことを承知していなければならない。それは結婚に具わる法理的関係をもたない。男は保証者ではないし、女の法的な後見人ではない。その絆は、二人の内の一方がその気になれば、何の正式の手続きをなしに、すぐにも解消できる。国家はその絆を保証しなかった。同様に国家は契約の条件も保証しない。だから同棲する女は男に対して権利として有効な要求をもたない。人が権利として有効な要求をすることができるのは、国家が認可し承認する生業をもつ場合に限られる。今の場合に営まれる生業を、国家は確かに妨げることはできない。それは国家の権利外のことだからである。しかし国家は、それを認可することわけにもいかない。なぜなら、それは不道徳的だからである。
この記事へのコメント