差異論文について (3)

 因果性、交互性、実体性という、関係のカテゴリーの内で、両極に立つのは因果性と実体性である。ところで因果関係と言っても、事物のあいだと、主客のあいだのそれは全く違う。主客間では、むしろ現実には因果関係でありえないものが、因果関係として理解されている。例えば、実在論では主観が客観の所産として、観念論では客観が主観の所産として定立されているが、ここでの産出と所産の関係は、普通の意味でのそれとは全然異なるはずである。そこでは、所産は産出の内における以外のいかなる存立ももたず、それゆえ、自立的なものではないからである。ここに、因果関係が支配しているように見えても、しかし本質的には因果関係は廃棄されている。だとすれば、そこには因果性とは別の真なる関係が常に存在していなければならない。「たとえ哲学が・・・因果関係を用いたとしても、主観に対して現れる客観は、その対立態に関しては・・・ただ偶有性である。そして思弁の真なる関係、実体性の関係は、因果性の仮象のもとにおいても、超越論的原理である。」
 この表現は一見、実体と偶有性とに同一性と対立とを振り分けたかにも見える。問題は、実体そのものがどのように把握されていたか、ということである。当然、この実体概念はスピノザのそれと結びつけられて考えられている。カントの物自体とスピノザの実体とを対比的に、ヘーゲルは次のように言う。「物自体が再び実体化され・・・絶対的な客観性として定立され、カテゴリーそのものは知性の静止した死せる仕切りとされるかと思うと、他面、最高の原理ともされている。こうしたことによって、例えばスピノザの実体のような絶対者そのものを語る表現が抹殺されてしまっている。」 カントに対してはスピノザ側に立つヘーゲルが、スピノザに対しては、いかなる哲学の始元も、スピノザのように定義をもってする始元ほどに拙劣な様相を呈するものはないと批判し、この点ではある意味でヤコービを受け入れる。
 ここに、ヘーゲルが受容した形でのヤコービの論点を挙げれば、次のようになる。第一に、絶対者が意識に対して構成されねばならない。これが哲学の課題である。しかし反省の産出も所産もただ制約されたものであるから、これは一つの矛盾である。絶対者は反省され、定立されねばならない。しかしそれによって絶対者は廃棄されてしまう。なぜなら、定立されることによって制約されてしまうからである。第二に、反省によって定立されたもの、命題(原則)は、それだけで制限されたもの、制約されたものである。その基礎づけのためには果てしなく他のものを必要とする。第三に、命題が表現するある思想内容について、これは対立によって制約されているから絶対的でないと証明することは容易く、その体系そのものが、原理となる絶対者を命題や定義の形で表現するとき、その形式は根本的には二律背反なのであり、それゆえ、単に反省に対して定立されたものとしては、自己を廃棄してしまう。このようにして例えば、スピノザの実体は、原因であると同時に結果、概念であると同時に存在として説かれ、対立するものを一つの矛盾の内に合一しているのであるから、この実体の概念は概念であることを止めてしまう。
 ここまではヘーゲルはヤコービとほぼ同じ観点に立っている。青年期のヘーゲルが、概念の統一を死せる殺害的なものとして斥け、反省と知ではなく、心情と生の内に絶対者との合一を見出したのも同じ根本思想からである。ところが、ヤコービと青年ヘーゲルが、ここから学と知を捨てて、信と心情においてしか絶対者は把握しえないとしたのに対して、イエナのヘーゲルは、この同じ地点から逆に、二律背反、自己自身を廃棄する矛盾が、知と真理の最高の表現である、という結論を出す。
 ヤコービの論点を受け入れ、同時にスピノザの実体を生かすためには、二律背反を真理とみなさねばならない。そこに弁証法的理性が誕生するはずである。それはスピノザの理性ではないかもしれないが、「もし理性が反省の主観性から純化されたならば、そのとき、哲学をもって哲学を始め、理性をただちに直接的に二律背反をもって登場させたスピノザの無邪気さも正しく評価することができる。」スピノザが無邪気にも、定義や命題の形式で表現した実体は、自己原因、すなわち原因であることが直接的に結果であることを意味する思弁的な二律背反なのであった。
 それにしても、哲学をもって哲学を始める無邪気さとは何であろう。ヘーゲルは、自己自身をもって始める哲学に、前提という表現は不適切だと、哲学の自己完結性を暗示し、全ての哲学はそれ自体で完結していると語る。スピノザは、哲学の体系において証明される定理に先立つ前提として、定義や公理を提示したが、ここにもう哲学は始まっている。スピノザが無邪気にも、哲学以前とみなしたものが、すでに哲学である。「哲学に序文はいらない」と語ったのと同じ考えである。ここからヤコービを受け入れた上でスピノザの実体を真なるものとするために、つまり、青年期の反知性主義を克服するために、ヘーゲルが自らに付した条件は、二律背反の真理性の承認と体系の形成というものであった。
 「スピノザの実体のような絶対者そのものを語る表現」とは、直接的には、『エチカ』の神の定義、「神によって私は、絶対に無限な有、すなわちそれの一つ一つが永遠かつ無限な本質を現わしているところの無限な諸属性を通じて確立している実体を、理解する」を指している。この定義が矛盾であることは、『論理学』の「絶対者そのものは、ただあらゆる述語の否定として空虚なものとして現れる。しかし、同様に絶対者は全ての述語の定立としても表わされざるを得ないから、もっとも典型的な矛盾である」という言葉にもある。絶対者そのものが一なる実体としての否定的統一と無限に多なる属性との矛盾なのである。しかし、この両者は相互に不可欠である。ヘーゲルは、クザーヌスの「神は全てが神においてあるという意味で全てを包蔵し、かつ神自身が全ての中にあるという意味で全てを展開する」との言葉を翻案したかのように、「思弁にとって、有限者は無限の焦点からの放射物であり、これは有限者を照射すると同時にその有限者によって形成されている」と語っている。この関係は同時に絶対者の流出の過程でもある。絶対者の現象は根源的同一性の自己分裂であり、それは主客の二つの相対的同一性へと流出するが、この同一性は、さらに第三、第四の同一性へ高まり、最後には、膨張が同時に、最も豊かで単純な同一性へと収縮する地点にまで到る。「絶対者は現象そのものの内に、自己を定立しなければならない。すなわち、現象を抹殺するのではなく、現象を同一性にまで構成しなければならない。」
 この過程を我々の側から見れば、それは現象の認識に他ならないであろう。ところが、認識は主客の対立による反省の仕事である。ここで再びヤコービの論点が問題になる。「分離する行為は反省行為である。この行為は、それだけとして見れば、同一性と絶対性を廃棄する。認識には分離があるがゆえに、あらゆる認識は誤謬であろう」とヘーゲルはヤコービにいったん譲歩したように見せて、「諸体系は組織された非知であるというヤコービの表現に対して、非知(個別的なものの知識)は、それが組織(有機化)されることによって知となることが付け加えられなければならない」と切り返す。個別知識を、生の連関にもたらすこと、つまり有機化し、体系化することは、神の無限の属性に同一性を与えることなのである。へーゲルは、体系性の理念をこう語っている。「理性の自己産出の内に、絶対者は自己を客観的総体性へと形成する。それは、一個の全体者を自己内に荷い、自己内に完結し、自己外にいかなる根拠をももたず、その始元、中間、終局において、自己自身によって根拠づけられている総体性である。」
 このような体系の形成は、しかし、絶対者そのものにとっては「自己を自然および知性として産出し、それらの内に自己を認識する」ことに他ならない。
 絶対者、すなわち実体は、自己を分裂させて、自己を産出し、その所産の内に自己認識する主体である。体系性において、神の知的愛が成就するのである。我々は、体系の叙述に呼応して、真なるもの、絶対者が、実体ー主体として説かれるあの『精神の現象学』序文の根本思想が、ここに懐胎されているのを見届けることができる。 ここにおいて、弁証法的理性は、ほとんどその原型を形成し終えて懐胎されている。しかし、それはまだ端的に彼自身の原理として位置づけられてはいない。矛盾を真理とみなすという立言には、反省にとっての矛盾という条件が付されている。「もし人が思弁の形式面だけを反省し、知の総合を分析的形式に固定するならば、二律背反、自己自身を廃棄する矛盾が、知と真理との最高の表現である。」したがってもしも、反省の必然性がないならば、矛盾を真理とみなす必然もないことになろう。思弁にとって反省は不可欠か否かと問うてみると、「反省が自分自身を反省の対象にしたとき、理性から反省に与えられ、反省が理性となるための最高の法則は自己を抹殺することである。反省は自分に自己破壊の法則を与えねばならない」というのがその答えである。この点では、青年ヘーゲルが、結合と非結合の結合から発する悪無限が解消されるのは、この同一性が、反省の外なる存在であることが自覚されねばならない、と語ったのと全く同巧異曲である。
 反省から理性への道が反省にとって絶望の道であり、弁証法がここで否定的弁証法に終わるものだとすると、根源の同一性は何が捉え得るのか、という疑問が残る。ところが「こうした否定的側面の他に、知には積極的な面もある。すなわち直観である。」ヘーゲルが直観と言えば、大抵は対象との一体感情を伴うものとして言われている。「純粋知(すなわち直観のない知)は矛盾における対立項の抹殺である。対立するもののこうした総合を欠く直観は経験的、所与的、無意識的である。超越論的知が反省と直観の両者を合一する。それは概念であると共に存在である。直観が超越論的になることによって、経験的直観の内では分離されていた主観的なものと客観的なものの同一性が意識に登場してくる。」悟性的であると同時に直観的でもあるこの超越論的直観はフィヒテ、シェリングの知的直観とは、やはりある重要な点で異なる。彼らにとって、それは同一律の絶対性と同じ絶対性をもつコギトの自己直観であった。ヘーゲルにとって最も根源的なものは、常に同一かつ対立なのであり、決して単なる同一ではありえない。哲学知において直観されたものは同時に知性と自然、意識と無意識の活動である。それは観念世界と実在世界とに属する。この時、確実にへーゲルが自分の思想として駆使することのできた思想は、純粋意識と物自体が経験的意識において媒介されていること、思考そのものが対立するものの能動的な同一化であること、主観的自我がそのまま被制約性をもつということ、そして、超越論的直観は、反省と経験的直観を総合すること、などであった。要するに経験のあらゆる原理的な場面に、同一性と非同一性の同一性を見出すということである。この観点を更に進めれば、シェリングからの思想的離反を伴って、ラインホルトの意識律を換骨奪胎して、「意識はあるものを自分から区別すると同時にそのものに関係(合一)する」という『精神の現象学』における意識の規定に達するであろう。この意識規定はこう言い換えてもいい。意識は直観の側面で対象と関係・合一し、同時に悟性の側面で対象から区別される。その限りでへーゲルの意識は直観にしてかつ悟性であるという知的直観の存在性格を引き継いでいる。
 今へーゲルの立たされている岐路は、「直観なき哲学は、有限なるものの果てしない系列を進行する。そこでは存在から概念へ、概念から存在への移行は正当化されざる飛躍である。・・・思弁において観念性と実在性は一つであるがゆえに、思弁は直観である」と語って、この根源的直観に、身を挺して飛び込むのか、それとも悟性と反省(それは絶対者にとっては分裂と対立であるが)にある種の必然を認めて、悟性と反省への迂路を経て理性に到るのか、という岐路であろう。絶対者に自己分裂の必然を認めるという点には、当然、一種の弁神論的問題がつきまとってくる。これについては、しかし彼はほとんど結論に近いものを予めもっていた。青年ヘーゲルは、存在忘却が存在の運命であるとばかりに、「生は客体としての客体を存立させざるをえない。まさに生きているものを客体にしてしまわなければならない運命がある・・・」と語っていた。そして今、彼は「必然的な分裂は生の一つのファクターである。生は永遠に対立的に自己を形成するものであり、そして総体性は最高の生動性において、ただ最高の分離からの再建を通じてのみ可能である」と分離の必然を語っている。ただしこの時の彼は、分離から統一への道を、ピストルから弾丸が飛び出すような飛躍にしか認めていないのである。
 二律背反、自己自身を廃棄する矛盾が、知と真理の最高の表現である、という思想が留保抜きで端的に彼自身の思想として語られるには、わずかな一歩が不足している。それが語られるのは、イエナ大学への就任論文として書かれた、近代物理学との正面からの対決の書、『惑星軌道論』に付された「就任テーゼ」においてである。その第一条に彼は、端的にこう書いている。「矛盾は真なるものの規則であり、無矛盾は偽なるものの規則である。」
 このテーゼを彼がイエナ大学で発表した1801年8月27日は、彼の31歳の誕生日にあたっていた。へーゲルの誕生日に、彼の弁証法的理性が誕生した。それはまた、彼の青春の終わりの日でもあった。
 理性の観点に立つということは、ヘーゲルにとって単に書斎内での問題には留まりえなかった。主客という対立項がそもそも全体と個との社会的対立の投影でもあった。当然、そこには人倫・歴史の問題があった。絶対者の分裂はいま、絶対者の現象であるものが、絶対者から分離され、自立的なものとして固定されている教養という時代精神の形をとっている。ルソーの文明論に学んで、教養が栄えれば栄えるほど分裂が身をまつわらせる生の外化の展開は多様化すると語るヘーゲルにとって、時代精神としての分裂に統一をもたらすという課題は、単なる批判の武器でも、また弁神論をもってしても為し得ない現実的な課題であったはずである。

 シェリングは『我が哲学体系の叙述』において、有限者を無限者の現象と考えることが、根本的誤りであり、有限者は、むしろ絶対的同一性そのものであり、また、絶対的同一性の認識は、絶対的同一性のその同一性における自己認識であると語っている。存在する一切のものとして表現される有限者は、本質から見れば、絶対的同一性そのものである。しかも、有限者と無限者の構造においてはシェリングは絶対的同一性から区別を排除するのであるから、絶対的同一性の自己認識といっても、思惟による認識というよりは直観であると考えられる。フィヒテはその点をよく理解しており、シェリング哲学には、区別根拠の導出がなく、したがって、有限者の原理が欠けているから、絶対的同一性の認識など成立しないことを、『シェリングの同一性体系についての叙述のために』(1801年)の随所で指摘していた。また、認識論的必然性を欠いているというフィヒテのかかるシェリング批判を象徴しているのが、眼のないポリュぺモスでもあった。さて、ここで我々にとって重要なのは、フィヒテのシェリング批判の観点は、紛れもなく1801年以降のへーゲルの観点でもあったということである。
 ヘーゲルは『差異論文』においてはまだ、基本的には、シェリングの『叙述』の理念を弁護する立場を貫いていると言える。だが、そういう基本姿勢でありながら、ヘーゲルはこの絶対的同一性における区別を既に絶対者とその現象との区別として導入してもいる。しかし、その区別において現象が、『精神の現象学』序論のように、実在的本質存在として捉えられているのかどうかに関しては疑問を持たざるをえない。この問題を問うことは、1801年のヘーゲルの位置を見定めるために必要である。そのためには、ヘーゲルが『差異論文』でフィヒテ哲学をどのように理解していたかを見る必要がある。
 さて、『全知識学の基礎』の第一原則からも解るように、フィヒテの自我は、定立と存在と自覚が三位一体であるような存在であった。このような存在にとっては、自己を意識することが、自己を存在として定立することに他ならない。フィヒテにとっては、自覚と存在は同時的に定立されるのである。したがって、私がいかに豊かな内容を直観していても、その直観を私が意識しなければ、直観の対象どころか、私自身も存在しない。まさに、自我は一切である。
 しかしながら、フィヒテにおいては、意識に無意識を、自我に非我を同等のものとして立てることは、独断論に他ならなかった。フィヒテにおいては非我は自体存在ではなく、反立自体の可能性すら意識の同一性を前提にする。第ニ原則、非我の反立は、定立するものの意識と反立するものの意識との統一の条件の下において可能である。フィヒテにおける非我は、意識の同一性ないし自我の同一性において成立する概念である。したがって、フィヒテの非我は一なる反省統一の客観であるから、主観に他ならない。もちろん、実践的知識学において、フィヒテは自我の外なる非我を想定せざるをえなかった。しかしそれも、自我と交互作用の関係にある内なる非我との関係において、外なるものとして想定せざるをえないものであった。
 この点こそへーゲルの『差異論文』によって、フィヒテの絶対者は、主観的な主観ー客観にすぎないと批判される論点でもある。シェリングは、主観ー客観の絶対的同一性である無差別的理性から出発することにより、フィヒテの主観性の立場を克服しようと試みた。ヘーゲルも同じく、真の思弁は絶対的同一性から出発しなければならないと考える。ヘーゲルにとって超越論的とは、まさにこの絶対的同一性の立場に立つことに他ならない。ヘーゲルはここに立脚することによって、対立を絶対的同一性の主観と客観への分裂と捉えると共に、それを絶対者の産出とする。ここに絶対者は自己の現象と対立することになる。問題は、この絶対者とその現象の関係であるが、過渡期のへーゲルを象徴するかのように、これが何とも微妙な関係と言わざるをえない。シェリングのように、絶対者においては、対立は自体的には存在しないのではない。対立は存在する。しかしヘーゲルにおいては、対立は絶対者と「絶対者ではない」現象との対立として存在することになる。
 ここではっきりと言えることは、ヘーゲルが絶対者とその現象との関係を、実体性の関係として理解しているということである。それによって絶対者が実体として、現象は絶対者の産物ではあるが、偶有性、単なる可能的存在として把握される。ただし、実体性の関係においては、一切は絶対者によって生じるのであるから、この関係は総体性の立場を表わしており、それゆえこの関係を、ヘーゲルは思弁の真の関係と考える。因みに、絶対者とその現象の関係についてのこの把握は、絶対的同一性の存在の形式を絶対的同一性それ自身の属性と考える『叙述』におけるシェリングの把握と符合している。
 このような立場からヘーゲルは、絶対者とその対立者との関係を因果関係として捉える考え方を一貫して批判している。まさにそのようなものとして批判の俎上に上がるのがフィヒテである。へーゲルはフィヒテ哲学が超越論哲学であることを認めつつも、体系構成においては独断論に移行していると指摘する。
 へーゲルはフィヒテが現象、可分性の領域を、絶対者と並存するものとして立て、しかる後に両者の間に因果関係的な主従関係を設定していると理解する。そうすれば、同一性の直観である超越論的直観は、主観的であることを免れない。このような理解は、上に述べた第一原則と第二原則を並立的に捉えるというヘーゲルの誤読に由来するものではある。
 へーゲルのフィヒテ批判の核心は、フィヒテ体系は思弁の立場と反省の立場という二つの立場をもち、しかも反省の立場が思弁に従属するのではなく、両者が絶対的に必然的であり、また合一されることもない、というものである。換言すれば、自我=自我は思弁の絶対的原理であるが、この同一性は体系によっては示されないし、客観的な自我は主観的自我に等しくならず、両者は全く対立し合ったままであり、自我はその現象ないし措定作用の内に己を見出すことがなく、自己を自我として見出すために反自我はその現象を否定しなければならず、自我の本質とその措定作用は一致しないというものである。
 ヘーゲルは、『差異論文』において、フィヒテにおいては絶対者は主観ー客観であり、だから自我は主観と客観の同一性である、というフィヒテ評価から始め、続いて哲学の課題を、経験的意識において現れる主観と客観の対立を説明する事と述べ、更にこの課題は、同一性に立つ哲学においては、対立を本質である純粋意識の現象として証明することと換言される。そして、経験的意識が純粋意識の内に完全に根拠づけられており、そして単に純粋意識によって制約されているのではないということが、経験意識によって証明されるなら、それによって両者の対立は止揚されている、とその課題の解決の方向を示す。
 この「根拠づけられて」が表現しているのは、経験的意識と純粋意識が、そして現象と本質が、根拠付けられるものと根拠の関係にあるべきであるということである。フィヒテは我ありが経験的意識の全ての事実の説明根拠であるとか、あるいは最高の根拠は自己自身において根拠づけられるものであるというように、事行としての自我を語る。その点で、フィヒテには、現象と本質の同一性の哲学がある。
 しかし、先の文でヘーゲルがフィヒテを語っているのは、「制約」においてである。フィヒテにおいては純粋意識と経験的意識は制約し合う関係(これをヘーゲルは交互関係と呼んでいる)にあり、そこには両者の絶対的対立が存在しており、よってフィヒテにおいては両者は根拠の関係にないと言うのである。
 ヘーゲルにとって、超越論哲学の演繹とは経験的意識を純粋自己意識の内に根拠づけることであるが、それは経験的意識(現象)を純粋自己意識(絶対者)からの流出として構成することであった。しかしこの背後には、超越論的意識と経験的意識の対立を、見かけ上の対立ないしその両者は本質的に異なるものではなく、形式において異なるにすぎないという表象がある。これは、シェリングが『叙述』で展開する同一哲学的表象に他ならない。
 フィヒテが、かかる同一哲学的観点から解釈されるとき、フィヒテの純粋意識と経験的意識が制約の関係にあるということは当然であろう。ヘーゲルは制約の関係にある純粋意識を概念としての純粋意識と呼んでいるが、概念とは客観を捨象して自己同一に留まる主観である。こうしてフィヒテの自我は自我であるは、無限な客観的世界に対立する主観として、主観的な主観ー客観に貶められることになる。
 ヘーゲルによれば、フィヒテの三原則は、自我の三つの絶対的活動、能動性を表わしている。すなわち、第一原則は自我の絶対的自己定立作用を表わし、第二原則は絶対的反立作用、つまり無限な非我の定立を表わし、第三原則は自我と非我の絶対的分割作用を通じての両者の絶対的合一を表わす。そしてそれぞれの活動が絶対的であることが、第一原則の被制約性を決定的とする。自我の相反する二つの活動は、合一を目指す哲学的反省を導出するための前提であり仮構でもある。フィヒテ哲学はかかる構成に基くものである限り、自我と非我の総合は二律背反たらざるをえない。したがって、フィヒテの構想する同一性は、根源的たるべき同一性、すなわち超越論的同一性ではなく、超越的同一性である。こうして、総合の原則である第三原則はむしろ総合の不完全性を示す。
 へーゲルによれば、フィヒテにおいては、産出的構想力こそ絶対定同一性である。しかし、フィヒテにあっては構想力のかかる総合作用を導出するために、予め自我と非我、定立と反立という対立者が二つの要素として前提されている。ヘーゲルは、産出的構想力が対立によって制約されている総合的能力として現れるフィヒテ哲学の地平を、反省の立場からの必然的帰結として批判的に描く。
 しかし哲学は反省の立場、経験的な認識の順序に従って思惟する立場ではなく、言わば存在の順序に従って思惟する超越論的立場、あるいは哲学的反省を回復しなければならない。すなわち対立者の総合、合一こそ真の哲学である思弁の唯一の関心事である。もちろんフィヒテも思弁の立場に立ってはいる。しかしフィヒテのように絶対的な対立者を前提にしたときには、いかなる合一が可能であるのか、とヘーゲルは問い、そういう場合はいかなる合一もありはしないと答える。あるいは、あるとすれば、それらの対立がもっている絶対性が少なくとも一部分取り去られねばならない。そうすると第三原則が入り込んでくることが必然的とならざるをえない。また対立が根底にあるのでそれは部分的同一性でしかない。フィヒテにとっても絶対的同一性は思弁の原理ではあるが、その原理は単に規則に留まっているにすぎない、したがってこの規則を無限に遂行することが要請されるが、フィヒテの体系においては、その遂行を通じての合一は構成されない。
 ヘーゲルは、ラインホルトのように、主観的なものを客観的なものの実在根拠として定立する独断的観念論としてフィヒテを理解することは誤りだとする。フィヒテが立てる同一性は客観的なものを否認するのではなく、主観的なものと客観的なものを同一の実在性と確実性をもった等級の上に定立するのであって、純粋意識と経験的意識は一である。自我が自我を定立するのと同様に自我の外に物を定立する。主観と客観は同一であるがゆえに、自我が存在するのが確実であるように物も確実に存在する。だが、ヘーゲルはフィヒテ哲学をこのように評価する視点をもちながらも、フィヒテは体系において思弁を放棄し、よって主観的なものと客観的なものの相対的同一性は提示しえても決して絶対的同一性に至ることはないとする。
 フィヒテ哲学は所詮主観的同一性を扱う反省哲学にすぎない。そこに生じる悟性的知は非学的知にすぎず、真の学的知であるところの思弁、すなわち理性的知ではない。ヘーゲルにとって、真理は一つないし数個の命題によって表現される底のものではない。知が相対性を脱却し、絶対性を獲得するのは、個別的知が有機化され、全体の必然的部分となることによってである。これが学的知に他ならないが、この知は個別的な非学的知が、同一性の直観である超越論的直観によって、絶対者に関係づけられることによって成立するのである。
 しかしここでは、絶対者がいかにして悟性によって産出される個別的知の根拠であるのか、あるいは絶対者はいかにしてかかる個別的知として現象するのかが少しも明確にされていない。この論点はこれまで述べてきたように、絶対者と現象との関係を実体性の関係として把握することからの必然的帰結であるが、まさにこの点にへーゲルの悟性理解の不十分さがある。すなわち、ヘーゲルは悟性を単なる制限作用としてしか捉えていないともいえる。ヘーゲルにおいては、この時点ではまだ、悟性の立てる反省諸規定が根拠である絶対者の内に根拠づけられていないと言わねばならない。
 ヘーゲルはフィヒテの第一原則と第二原則とを並立的原則として理解しているが、この理解に従って論を進める。つまり、反省は絶対的総合、絶対的同一性を表現できないから、絶対的同一性の内にある二つの部分、総合(同一性)と反立(非同一性)を別々の命題で表現せざるをえないのである。A=Aとして表現される前者は、確かに純粋思惟、理性を表現するものであるが、それが反省によって捉えられるときには、不等性、対立が捨象されるから、悟性的同一性あるいは純粋統一という意義しかもたない。この反省の不備を補うため、ここに前者において捨象された不等性の定立が要請される。これが後者、第ニ命題であり、A=非AないしA=Bと表現される。ここに二つの命題は、非矛盾と矛盾の命題として対立することになる。
 『全知識学の基礎』には次のような文がある。「A=Bという命題は、両者がXである限り妥当する」。AとBはA=X、B=Xであるなら、Xにおいて同等である。ここではXはAとBの根拠であり、AとBはXを根拠とする可分性である。したがって、ヘーゲルは可分性という概念を知らないか、あるいは意図的に埒外に置こうとしているかのいずれかであるように思われる。そしてこのことは、ヘーゲルがフィヒテの絶対我および事行を理解していないことを示す。ヘーゲルのこのような理解は、第一命題にも関わってくる。ヘーゲルは第一命題について「A=Aは主観としてのAと客観としてのAの区別と同時にそれらの同一性を含んでいる」と言うが、これはヘーゲルによれば不等性、非同一性の抽象によって成立する命題であるから、へーゲルはA=Aを自我の反省統一に対する定式としてしか理解していない。ヘーゲルのそのような把握の内には、Aを定立し、Aを述語付ける、事行としての絶対我の働きはいささかも読み込まれていないと言わざるをえない。ヘーゲルは悟性の理性を知っているが、しかし理性の悟性を知らない。たとえ彼はこれを必然的に自分で止揚しているとしても。
 フィヒテの理論的知識学は第三原則の第二命題「自我は非我によって限定されたものとして自己を定立する」を基本命題とする。かかる理論的能力としての自我は知性である。フィヒテの理論的知識学にあっては、客観的世界は知性の産物であるとはいえ、もともと自我は非我によって限定されたものとして自己を定立するのである。したがって、知性に対する非我による限定が先行し、よって知性にとって客観的世界は同時に非限定的な何ものかであり続ける。またヘーゲルは自我に対立し続ける非我のこの否定的な性格を障害と名づける。
 しかし非我を非限定的なものとして定立するのは、他ならぬ知性である。ヘーゲルは反定立作用一般が自我の働きとして、ここに自我の内への相反する二つの作用、定立作用と反立作用の内在を見る。そして、自我の自己定立作用と反立作用は矛盾し合っている以上、理論我はかかる矛盾から抜け出すことはできないとする。この理論我の限界を示すのが産出的構想力である。この産出的構想力は定立と反立の間を漂う動揺であり、限界の中で対立者の総合を行うことができるにすぎず、定立と反立の、自我と非我の真の合一に到ることはない。フィヒテにおいては相対的同一性しか提示されないのである。
 ヘーゲルは、自我の内における対立者を、まさに自我の内における対立者であるから、純粋意識と経験的意識として論じる。純粋意識とは自我=自我という同一性の意識であり、経験的意識とは自我=自我+非我という非同一性の意識である。理論的知識学における超越論的演繹は、客観的世界を自我によって基礎づけようとする試みであるが、そのためには純粋意識が経験的意識のもつ多様性を産出し、もって客観全体の実在根拠とならなけらばならない。しかしフィヒテ哲学は、純粋意識を根源的同一性の意識としてではなく、客観性に対する単なる主観性としてしか把握できなかったから、産出の立場に立つことも、客観世界の実在根拠としても示せなかった。
 ここでヘーゲルは、純粋意識と経験的意識を自己の内に包括しているが、この二つの意識を交互に制約し合うような関係としては止揚しているような別の同一性が必要である、として自己の体系構想を語り始める。このフィヒテの主観的同一性とは異なる別の同一性とは、客観的なものの産出が自由な能動性の純粋活動であるような主観性である。フィヒテの事行はヘーゲルにとっても元々は自由な産出活動であったが、フィヒテの体系においては、そのような自由な産出活動としては示されず、結局自我は非我に対する主観としての地位に落ち着かざるをえなかった。産出的構想力も本来は自由な能動性の産出活動なのであるが、かかる活動に基く障害が自我に反立したままである限り、同様の結果となる。阻止されることと限界を超え出て行くこと、すなわち構想力の動揺の法則は、実際に知識学の理論的部分では明らかにされない。なぜなら、構想力を阻止する障害は知性によって産出されないからである。
 別の同一性とは、経験的意識に制約されない、すなわち反立作用に制約されない活動でなければならない。しかしヘーゲルは、この時点において、フィヒテとは違うという消極的な仕方で自己を主張しているにすぎない。
 ところで、ヘーゲルによれば、対立者の総合・統一を目指す「哲学的反省」こそ絶対的自由の活動である。哲学的反省は、知性の所与の領域を自覚的に我がものとしていく働きであるが、かかる働きを通じて哲学的反省は、知性によって無意識的に産出された客観的世界を自由な活動の産出となすのである。ところが、ヘーゲルは絶対的自由の活動についてのこのような理解では、まだ不十分と考える。「哲学的反省に、必然的諸表象(所与)の多様性が自由によって産出された体系として生起するというこのような意味では、客観的世界の無意識的産出は、自由の活動として主張されない。なぜなら、そうである限り経験的意識と哲学的意識とは対立しているからである。」初めに所与があり、それを綜合していくという哲学体系は、結局対立を前提にし、対立に捕らわれ続ける。
 ヘーゲルは先に別の同一性を、純粋意識と経験的意識を自己の内に含んでいるが、そこにおいて二つの意識が制約し合う関係にない同一性として語っていた。ここでは、自己定立作用が、同一性(純粋意識)と非同一性(経験的意識)の同一性としての基本的構想を獲得している。自由な能動性は、かかる構成であることによって、総体性として登場することになる。
 しかし、フィヒテの超越論的立場から見るとき、シェリングもヘーゲルも次のようなフィヒテの問いを無視していた。「絶対者がそのもとで現象する・・・形式は、そもそもどこから来るのか。・・・一体どのようにして一者はまず無限者となり、次に多様なものの総体性となるのか。」主観ー客観の現実的自己産出に対する哲学的反省の位置づけが、シェリングとへーゲルにおいて洞察されないままであるのは偶然ではない。誰も絶対的同一性から分裂を洞察的に展開することはできない。それゆえ、フィヒテが1807年に注意したように、この種の哲学において理性の分裂なり反省なりを実行するのは、その著者の中にある差別化する理性である。シェリングとヘーゲルは自らを存在の創始者、絶対者になしている。人間にとって洞察不可能な絶対者の位置に自らを祭り上げている。フィヒテにとっては、人間が「総体性」の立場に立ちうることなど不可能なことなのである。もし、ある哲学がその立場に立つのであれば、その哲学はフィヒテにとっては独断論に他ならない。
 実践的知識学においては理論的部分で積み残されていたもの、すなわち「自己を自我=自我として定立し、自己を主観=客観として直観すること」が実践的に要請される。実践的知識学の原則は第三原則の第一命題「自我は非我を自我によって制限されたものとして定立する」ことであるが、ヘーゲルはこの実践的要請も因果関係の内に置かれていると解釈する。非我、客観は自我に限定されるものであり、かかる関係を通して実践的自我は自我=自我の実現を目指すことになる。だが、理論的知識学と同様に因果関係が導入されると再び、主観=客観の立場である理性を対立の一項として固定することになるから、真の総合は不可能になると、ヘーゲルは解釈するわけである。この結果以下のことが主張される。「自我が自己を、主観性と、無意識的産出において自我に対して生成してくるXとの対立から再構成し、自己の現象と一つになることは不可能である。かかる不可能性は体系が提示する最高の総合が当為であるということをおのずと表現しているのである。自我は自我であるが、自我は自我であるべきであるに変わる。」無意識的産出において生成してくるXとは、理論我の対象Xであるが、このXを実践的に自我として再構成していくプロセスが実践的知識学である。しかしそのプロセスが目指す綜合も自我と非我との間に因果関係が導入されている以上、その綜合は「べし」に留まらざるをえない。
 以上のことから実践我も理論我と同様に、絶対的自己直観、すなわち自我=自我の直観には到りえない。したがって、当為としての努力の過程は、二律背反とならざるをえない。二律背反こそが、実践我の努力にとっては、最高の総合となる。あるいは反省にとっては、二律背反こそが唯一の絶対者の把握様式となる。
 次に、ヘーゲルは二律背反の内部構造に歩み入る。彼は二律背反内部にある対立をカント的な、無限性という理念と直観の対立として捉える。そしてかかる理念と直観の総合はカントにとっては、自己自身を破壊する要求であるが、まさしくこの綜合こそ哲学の課題に他ならないとして、へーゲル哲学体系の目指すべき方向性をはっきりと打ち出して来る。この綜合はフィヒテにおいては終わりのない無限の過程たらざるをえないが、ヘーゲルはこの対立を以下のように捉えている。まず、ヘーゲルはこの対立を理念と時間の対立と読み替える。フィヒテにおいては無限性は時間および空間の外にある。カントの直観の形式は時間と空間であるが、無限な過程は時間の内で行われるという点で時間に優越権が与えられる。次に、無限性という理念は一切の多様性を排除する。それに対して、時間は対立と相互外在性を含むがゆえに、時間における現存在は多様なものとして現れる。フィヒテは絶対我を理念として主張し、また時間化とは現実的生、経験的生に他ならず、かかる生の只中に理念は努力として現象するものであった。ヘーゲルにおいては、理念と時間の対立は、言うなれば、一と多の対立としても想定されている。この対立の総合を目指す努力は、当然、外的な感覚世界に対立することになる。優れて時間的な働きである努力は、外的で多様な感覚世界に対立する主観の内なるものである。かかる対立的主観を、へーゲルは点である一性として位置づけることによってフィヒテの実践我の努力の有限性を浮き彫りにする。
 時間が無限な時間としてであれ、総体性であるべきなら、時間自身は止揚されており、そうであるならフィヒテのように時間という名前に、そして引き延ばされた時間の進展の中に逃げ込む必要などなかった。時間の真の止揚は時間なき現在、すなわち永遠である。時間を己の内に止揚した総体性としての絶対者の体系がここに提示される。同一哲学的カテゴリーで言えば、有限者を無限者の内に止揚することによって総体性を回復するところに、絶対者の体系が求められている。だが、フィヒテにおいては、時間の止揚は逆に無限者の廃棄である。時間は絶対的反省である自我にとっては、自己実現を目指す努力の必然的相関者であった。
 へーゲルの実践的知識学に対する批判は、つまるところフィヒテは超越論的直観の主観性に固執するから、自我の実践的活動も主観的な主観ー客観に留まらざるをえないという論点に尽きる。ヘーゲルによれば、このようなフィヒテ哲学固有の欠陥は、自我の自然への関係の内に顕著に現れてくるとされる。フィヒテは『道徳論の体系』の中で、私の(自我の)自然への関係を以下のように述べる。私の外に自然はある。しかし、私の内にも自然はある。私の内にどうして自然が生じるのかを説明するために外なる自然がある。フィヒテの超越論的立場に立つとき、自我の対象となる自然は決して私の外なる自然ではなく、私の内なる自然すなわち衝動としての私自身に他ならない。フィヒテにおいては自然自体など決して存在しない。それでは衝動とは何か。
 自我の客観的性状はいささかも存在や存立ではない。なぜなら、そうであるなら自我は自己とは反対のもの、つまり物になるであろうから。自我の本質は絶対的能動性である。この絶対的能動性(『道徳論の体系』では自由と同義)が、自我に対して現実的に発現してくるとき、それは衝動である。すなわち絶対我が自我の客観的対象になったのが衝動である。だが衝動が自然であるとはいかなる意味においてであろうか。
 フィヒテは『道徳論の体系』で、実践的な個別的具体的自我に目を向け、これを論じている。この場面は『基礎』の実践的知識学で語られていた現実的生、経験的生に他ならない。この場面で、純粋我(絶対我)は非我(物自体)を介して経験我(実践我)として現象するのであるが、ここに自我の自己自身との交互作用が始まるわけである。衝動としての自我は自我の客観である自我である。ところで、フィヒテにおいては、自我は定立と存在と自覚が三位一体となった存在構造を有していた。『道徳論の体系』においてもそれは踏襲される。すなわち存在と意識は必然的に結合している。自我は衝動として定立されるとき、存在(実在性)を獲得するが、それは自我が自己を衝動として意識する(感じる)からに他ならない。また、自我は自己を意識する(感じる)から、存在(実在性)を獲得すると言ってもよい。ただし、衝動の意識である感情は、知性の自由や自己能動性の関与を一切欠いているところの最も低い意識である。したがって、かかる意識である衝動は、非我に制約されていると言わねばならない。このような意味で衝動は自然である。
 さて、ここに衝動としての自我と絶対的能動性としての自我の対立が存する。この対立は媒介されねばならないが、その仕方には、超越論的立場からの媒介と、反省の立場からの媒介がある。フィヒテにおいてはこの媒介が成功しない。フィヒテの体系の結末がその始まりに忠実でないように、結果はその原理に忠実ではない。原理は自我=自我であった。結果は自我≠自我となる。すなわち、フィヒテ哲学の原理は超越論的立場に立っているのに、結果は反省の立場に終始しているということである。この批判はまさに『基礎』に対する批判と重なる。
 へーゲルはこの媒介を、対立者の総合とも呼び変えているが、かかる媒介、総合の過程をフィヒテの論述に従って述べている。ヘーゲルによれば、フィヒテは議論の出発点において、超越論的立場に立っている。すなわち、「自我=自我であり、自由と衝動は一にして同一である。・・・両者が所属している実体は全く一にして同一であり、一にして同一なものとして定立されている。感じる私と思惟する私、駆り立てられている私と自由意志でもって決心する私は一つである。自然存在としての私の衝動と純粋精神としての私の傾向は、超越論的立場に立てば一にして同一の原衝動であり、これこそが私の本質を構成しているのであり、二つの異なった側面から見られたにすぎないのである。それらの相違は現象の内にあるだけである。」ヘーゲルは自我を実体と解し、衝動と自由を実体(原衝動)の現象として押さえている。このような枠組みで捉えられたフィヒテの自我の存在構造を、実体性の関係として高く評価するのであるが、このような解釈はいささか強引である。フィヒテにおいては、自由は絶対的能動性であり、衝動と同列の現象ではない。むしろ、絶対的能動性こそ、原衝動であろう。
 さて、ヘーゲルは、フィヒテを上述の枠組みで理解することで、フィヒテは原理においては超越論的立場であるが、体系においては反省の立場に堕落しているとしている。ヘーゲルは次のようなフィヒテの論述に異議を唱える。「反省の直観によれば、反省するものは反省されるものより高い。前者は後者を超えて高まり、これを包括する。したがって、反省するものの衝動、つまり意識の主体の衝動はより高次の衝動を意味している。」ヘーゲルは、反省するものと反省されるもの、自由と衝動を支配と被支配の関係として捉える。ヘーゲルによれば、フィヒテにおいては自然と自由は、衝動が自覚されるときに総合される。その衝動が自覚される限りにおいて、衝動は自我の威力の内にある。衝動はこの自我の領域においては全く働かない。自我だけが働くのである。すなわち自我は衝動に従って働くのではない。ヘーゲルは、フィヒテにおける対立者の総合を、より低次の衝動(自然)がより高次の衝動の支配下に入ることであると理解している。この理解のもとで、対立者の関係は、自然(必然性)が自由に従属させられている関係として、すなわち、因果関係として押さえられている。


















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