信仰と知 要約 (2)

 「反省的判断力」においてカントは、自然概念と自由概念の間、つまり概念によって規定される客観的多様性、換言すれば悟性一般と悟性の純粋な抽象との間の媒介項を見出している。それは絶対的判断の内で主語と述語とであるものの同一性の領域であり、この領域を理論哲学も実践哲学も乗り越えてしまうことはない。しかしこの同一性は、これのみが真の唯一の理性であるのだが、カントによれば、理性に対してあるのではなく、ただ反省的判断力に対してあるのでしかない。カントはここで、意識的直観としての実在性における理性、すなわち美について、及び無意識的直観としての実在性における理性、すなわち有機体について反省しているのであるが、至る所で理性の理念が多かれ少なかれ形式的な仕方で表明されていることが見出される。美の観念的な形式に対してカントは、「自己自らして合法則的である構想力」の理念、すなわち、「法則を欠く合法則性の理念」、つまり「構想力と悟性との自由な調和」という理念を掲げている。この点に関する説明は極めて経験的なものである。というのは、ここで人は理性の領域の内にいるのだという予感は些かも示されないからである。美学的理念はカントによればいかなる認識にも成り得ない。というのは美学的理念は構想力の直観であり、その直観には決して概念が適合的に見出され得ないからである。理性理念は決して認識にはなり得ない。なぜなら理性理念は超感性的なものの概念を含んでおり、その概念には決して直観が適合的に見出され得ないからである。しかしカントは、理念が純粋に有限的感性的なものとして経験されると同時に、それと並存してまた超感性的なもの、経験の彼岸としても経験せられ、感性的なものと超感性的なものとが絶対的同一性の内で直観されることはないというようなそのような類の直観を、理性理念に対して要求し、また美的なものが悟性によって汲み尽されるような、美的なものの説明と認識とを要求しているのである。経験される理念、あるいは一層よく言えば、直観される理念としての美において、直観と概念との対立の形式が消滅しているので、カントはこの対立の消滅を超感性的なものの概念一般における否定的な面と認識し、それが肯定的に美として直観されるというようには、あるいはカントの言うように、経験に対して与えられるというようには認識しない。同様にまた美の原理が自然概念と自由概念との同一性として解明されるからといって、超感性的なものが外的及び内的自然の叡知的基体である、あるいはカントが超感性的なものを定義して言うように、事柄自体が少なくとも表面的にでもあれ認識されるということもない。ましてや超感性的なものが認識され得るものとしても直観され得るものとしても措定されないということが、ただ単に、一度根底に置かれた限り永続するところの、超感性的なものと感性的なものとの対立に基因しているのだということは一層のこと認められない。理性的なものが超感性的なものと、美の直観並びに理性的認識における絶対的に否定的要素(感性的なもの)との、この不動の対立の内に固定化されることによって、美的なものは判断力と主観性とに対する関係を持つようになる。すなわち判断力及び主観性にとって超感性的なものは、我々の認識能力に対する自然の合目的性という原理なのである。しかし超感性的なものの直観は理念や認識に対して表わされず、また超感性的なものの理念は直観に対して表わされない。それゆえ超感性的なものに関してはそれが美的なものの原理である限り、再び全く知られないことになる。そして美とは何かただ人間の認識能力に、及び人間の多様な諸能力の調和的遊戯に関係するにすぎないものとなり、したがって全く何か有限なもの及び主観的なものなのである。
 「目的論的判断力の批判」における、理性の実在性の客観的側面に関する反省、すなわち理性の実在性の無意識的直観あるいは有機的自然に関する反省は、上述の認識諸能力の調和的遊戯の概念におけるよりも一層はっきりと理念を表明している。それはすなわち「直観的悟性」の理念においてである。直観的悟性にとっては「可能性と現実性とは一つのものであり」、概念(単に対象の可能性を目指すにすぎない概念)と感性的直観(我々に何かを与えるが、しかしそれによって何かを対象として認識させることはない感性的直観)はともに消滅している。かかる理念について同時にカントは、我々は必然的にこの理念に駆り立てられるということ、またこの原型的直観的悟性の理念は根本においては全く、我々が上に見たところの超越論的構想力の理念に他ならないということを認識している。なぜなら、超越論的構想力は直観的活動であると同時に、その内的統一は全く悟性の統一そのもの、すなわち延長から分離される限りにおいて初めて悟性及びカテゴリーとなるところの、延長の内に沈められているカテゴリーに他ならないからである。それゆえ超越論的構想力はそれ自身直観的悟性なのである。この理念は、ここでは単に考え方として現れてくるにすぎないにせよ、必然的に生じてくるのであるが、それにもかかわらず、この理念については実在性という述語は帰せられるべきではないとされる。我々は、普遍的なものと特殊的なものとが不可避的必然的に区別せられるものであり、概念にとっての悟性と客観にとっての感性的直観とは二つの全く異質的な部分であるということに断固として固執すべきであるというのである。理念は全く必然的なものではあるけれども、また蓋然的なものなのである。我々の認識能力にとっては、その(カントの名づけるところの)「使用」において、かかる理念の現象の形式しか承認されず、そこでは可能性と現実性とは区別されているのである。かかる理念の現象が認識の絶対的本質であり、認識の自体なのである。カントは、人間の認識能力はその本質上それが現象するがままに存在する、つまりかの普遍的なものから特殊的なものへの進行(規定的判断)において、あるいは逆に特殊的なものから普遍的なものへの進行(反省的判断)において存在するということのために、単に経験及び経験的心理学という根拠しか持っていない。しかし彼は自ら直観的悟性というものを考え、絶対的必然的理念としての直観的悟性に導かれるのであるから、彼自身が非論証的悟性という思惟に関する上述の経験とは対立した経験を提起し、そしてその思惟の認識能力は、単に現象や現象における可能的なものと現実的なものとの分離を認識するだけではなく、理性や自体をも認識するということを証示しているのである。カントはここで両者を、すなわち可能性と現実性とが絶対的に同一であるところの理性の理念と、その現象とを、その中で両者が別々のものにされるところの認識能力として取り扱っている。彼は自己の思惟の経験の内に両者の考え方を見出す。しかし両者の間で選ぶ段になると、彼の本性は理性的なもの、直観的自発性を考える必然性の方を軽視し、あっさりと現象へ加担してしまおうとするのである。彼は、自然のメカニズムすなわち因果関係と自然の目的論的機構とが一つのものであることは、それ自体においてそのものとしては可能であると認めている。それは、即ち、自然が自然に対立する理念によって規定されるということではなく、メカニズムによって絶対的に分離されたもの、つまり、或るものは原因として他のものは結果として必然性の経験的連関の内に現れるものが、第一のものとしての根源的同一性の内で、つまり絶対的に連関しているということである。カントはこれを不可能とは認めておらず、それゆえ、一つの考え方としては認めているけれども、それにもかかわらず、彼は両者は全く分離しており、そして両者を認識するものも同様に全く偶然的で絶対的に有限的主観的な認識能力である(彼はそれを人間の認識能力と称している)、というような考え方の枠内に留まっている。そして彼は、有機体は実在的な理性として自然の上級原理であり、また普遍的なものと特殊的なものとの同一性であると見なす理性認識を、超越的(transzendent)なものと説明している。
  
 以上の叙述から結論として出てくることは、要するにこの哲学における超越論的な知が形式的知そのものに転化するということである。というのはカテゴリーの演繹が、産出的構想力における有機的な理念から、経験的多様性との対立の中で、経験的多様性を一方で規定し他方で反省するという、自己意識における統一の機械的な関係へと見失われてしまうからである。この自己意識の統一は同時に客観的統一でもあり、カテゴリー、形式的同一性であるのだが、かかる統一に対し、経験的なもの、すなわちこの同一性によって規定されざるもののプラスが不可解な仕方で疎遠なものとして加わってこなければならない。このプラスは産出的構想力として理性的なものと認められはした。しかしこの産出的構想力は単に主観、すなわち人間及びその悟性の性質にすぎないから、産出的構想力自身、それによってのみ自らあるところのものである媒介者から離れ、主観的なものになっている。そのような形式的知を同一性の線上において進行する知と考えようと、あるいは因果連関の線上において進行する知と考えようとどちらでも構わない。
 それゆえかかる形式的知は一般にその形式的同一性に多様性が絶対的に対立しているという形態を持っている。自体的に存在するものとしての形式的同一性に、すなわち自由、実践理性、自律、法則、実践的理念などとしての形式的同一性に、必然性、傾向、衝動、他律、自然などが絶対的に対立している。両者にとって可能な関係は絶対的対立という限界の内部での不完全な関係である。それは、統一によって多様の側面が規定されることであったり、また多様によって同一性の空虚が充たされるということであったりし、一方は他方に対し、能動的であれ受動的であれ、疎遠なものとして形式的な仕方で加わってくるのである。各項は対立関係の中にありながら同時に絶対的なものであるべきであるので、形式的知には媒介項すなわち理性が欠けている。それゆえこの媒介者つまり両項と有限性が否定されることとは絶対的な彼岸である。この対立は必然的に媒介者を前提するということ、またこの対立は媒介者においてあり、そこにおいて自己の内容が否定されねばならないということも認識されてはいる。しかし現実的な真の否定ではなく、単に有限なものは廃棄されるべきであるという承認、また真の媒介者ではなく、同様に単に理性は存在すべきであるという承認だけが、信仰において措定されている。だがそのような信仰の内容そのものは空虚である。なぜなら絶対的同一性として信仰の内容をなし得るところの対立が信仰の外に存続すべきであるから。また信仰の内容は、その性格が積極的に表現されるべきであるとする場合には没理性的なものとなる。なぜなら信仰の内容は絶対に思惟されず、また認識されない不可解な彼岸であるから。
 もしも我々がカント哲学における実践的信仰から(すなわち、神への信仰から、なぜなら霊魂の不滅への実践的信仰に関するカント的表現の方には哲学的考察に値する一切の独自な面が欠けているので)それがまとっている何か非哲学的で、通俗的な衣装を取り去るならば、そこには理性が同時に絶対的実在性を有し、自由と必然性との一切の対立が廃棄され、無限な思惟が同時に絶対的実在性であるという理念、換言すれば思惟と存在との絶対的同一性という理念以外の何ものも表現されてない。ところでこの理念は、全く存在論的証明や一切の真なる哲学が第一にして唯一の理念として、また唯一の真実にして哲学的な理念として認識しているところの理念に他ならない。この理念の思弁的な側面は、もちろんカントによっては道徳性と幸福とが調和するという人間的形式に移し替えられており、そしてこの調和が再び一つの考え方とされるのであり、この考え方は実現されるとなると、かかる道徳性と幸福であるというようなつまらぬものが世界における最高善と称されるのである。もしも経験が、理性と自然とが絶対的に調和しており、また自らの内で神聖であるということを見、そして知るならば、経験は幸福と調和しない悪しき道徳性や道徳性と調和しない悪しき幸福を、無であるとされ認めねばならないだろう。かくしてこの道徳性は、自体的で永遠であるかのように、自然とその精神とを誹謗する。しかも道徳性は信仰において多分理性の実在性を考えてはいるだろうが、そのことによって正当化され尊敬されていると思い込む。というのは、もしも理性の絶対的実在性こそが真の確信を有するものであるならば、有限者や被制約的存在やかの道徳性は全く確信も真理も持ち得ないだろうから。
 しかし同時に見逃してならないことは、カントはその要請によって要請における真の正しい限界(これをフィヒテは尊重しないが)の内部に留まっているということである。内容が主観的なものであるということはあり得ない。なぜなら要請の消極的な内容はまさに直接的に一切の主観的なものを廃棄することであるから。したがって主観的なものは形式である。すなわち理念は単に何か主観的なものであるにすぎないということが、何か主観的なこと、偶然的なことなのである。それはそれ自体としては何ら要請でも当為でも信仰でもあるべきではなく、最高理念の絶対的実在性を要請するということは何か不合理なことである。そこでフィヒテは要請と信仰と当為とのかかる主観性を承認せず、彼にとってそれは自体である。ところがカントはこれに反して要請と当為と信仰とは単に何か主観的なもの及び有限的なものにすぎないということを承認している。それにもかかわらず、なおそれはその際全くかの道徳性におけるように留まるべきなのである。そしてこのこと、あるいは事柄のそれ自体悪しき面、すなわち要請の形式はまさにそれ故に一般の賛同を見出すところのものなのである。
 知は形式的知であること、そして理性は純粋な否定性として、彼岸及び否定性として此岸及び肯定性によって制約されている絶対的彼岸であるということ、無限性と有限性との両者は相互に対立しつつ等しく絶対的であること、かかるカント哲学の性格が我々が問題にしている反省哲学の一般的性格なのである。カント哲学はその絶対的主観性を客観的形式に、すなわち概念及び法則として掲げ、そして主観性がその対立物、すなわち客観性に移行し得るのはただ主観性が純粋であることによってのみであるから、それゆえ反省の両部分すなわち有限者と無限者との内、無限者が有限者を越え、そしてそこで理性の少なくとも形式的な側面を主張する。カント哲学の最高の理念は主観性が完全に空虚になることなのである。換言すればそれは同時に悟性の領域においては客観的なものとして、だがカテゴリーの諸次元をもって措定される無限な概念の純粋性であるが、実践的側面においては客観的(道徳)法則として措定される無限な概念の純粋性である。しかし有限性によって触発されるという側面と、純粋な無限性という側面との両者を媒介する際に、有限者と無限者との同一性が再び単に概念としての無限者の形式の内で措定されるにすぎない。そして真の理念は一方では反省に対しての他方では信仰に対しての絶対的に主観的な格率に留まっている。ただこの理念は認識及び理性という媒介者に対しては存在しないのである。
 
 [ヤコービ哲学]
 ヤコービ哲学は、絶対的有限性、すなわち形式的知としての観念的な形式において、また絶対的経験論としての実在的な形式において、そしてまた絶対的彼岸を措定する信仰による両者の統合という点において、カント哲学と共通する面を持っている。しかしヤコービ哲学はこのような共通領域の内部でカント哲学と対決する極をもなしている。カント哲学においては有限性と主観性とは概念という客観的形式を持っている。これに反してヤコービ哲学は主観性を全く主観的に個体性となしている。主観的なもののこのような主観的側面はそのようなものとして再び内的生命を獲得し、そしてそれによって感覚美を感受し得るように見える。

 最初に知の主観性を考察することにしよう。ヤコービは知の形式的側面をすぐさま意識的にその抽象において認め、そしてそれを純粋に表現する。彼は知をこの形式においてのみ積極的に主張し、知における理性の客観性を否認する。それと共にまた、彼は論争する場合には、このような知を妥当なものと認め、それによって理性の学と争うのである。
 ヤコービはどこでもただ単に形式的知についてしか知らないということ、すなわち経験によってその内容が満たされるところの悟性の同一性、換言すれば実在性が一般に不可解な仕方で付け加わってくる思惟についてしか知らないということは、ヤコービ哲学が客観的であり学に属するところのわずかな点の内の一つ、あるいは本来唯一の点である。「私の哲学は、理性をただそれ自身として考察するとすれば、単に諸関係を明瞭に知覚する、すなわち矛盾律を形成しそしてそれに従って判断するにすぎない能力というものに限定する。こうして、私は、単なる同一律の是認だけが必然的であり、絶対的確実性をもたらすということを認めねばならない。」(『デーヴィット・ヒューム』1787年)同様に、「理由に基く確信は間接的確信である。」(『スピノザに関する書簡』ニ版1789年)理由というのは、我々が信仰を通じて確信している物との類似の徴表でしかない。「理由がもたらす確信は比較から生じ、決して厳密に確実で完全なものではあり得ない。」彼の種々の主張の総括をなす五つのテーゼの一つは次のようなものである。「我々は単に類似性をしか認識できない。なぜなら論証は同一律における進行であるから。そして各々の証明はそれに対しすでに何か証明されたものを前提とし、そしてその前提の原理はただ啓示であるにすぎない。」「理性の仕事は一般に前進的結合である。そして理性の思弁的な仕事は認識された必然性の法則に従って結合することである。・・・しかし人間の言語と記号の本質的な無規定性及び感覚的諸形象の変様性はほとんど常にこの同一律をして、あたかもそれが単なる『存在するものは全て存在する』以上のもの、つまり知覚され観察され比較され再度認識され他の概念と結合される単なる事実以上のものを述べているかのような外観を得せしめるのである。」
 同一律の必然的な対は理由律である。ところでヤコービの区別によれば、理由律一般や因果律や両者(原因と結果)の結合の命題が理由律のもとに理解されるということである(『スピノザに関する書簡』)。そして理由律は素材に関しては、概念から概念へ、あるいは概念からその実在性へ、あるいは客観的実在性から他の実在性への進行が行われる限りにおいて、考察されるということである。
 ヤコービは理由律におけるその意味を次のような理性的認識の原理として認識している。すなわち「全体が部分より先であることは必然的である。」(『デーヴィット・ヒューム』)、あるいは個別的なものはただ全体においてのみ規定される。つまり個別的なものは、区別可能なものがその中に措定されている限りにおいて絶対的全体性であるところの、絶対的同一性においてのみその実在性を有する。「或る関係においては」とヤコービは言う。「全体が部分より先であることは必然的であるというのは、同じものは同じものであるということに他ならないであろう」が、しかし他の関係においてはそうではない。この両方の関係が本質的に区別され絶対的に分離されるべきであるということから、直ちにかかる理由律の独断論が始まる。すなわちヤコービは、理由律を純粋な矛盾律として把握し、そしてこの意味で理由律を論理的なものと称する。つまりそれにとって異なったものが経験的なものとして加わってくることがもちろん必然的であるような、抽象的統一として。そして彼は、概念の同一性に加わり経験的に与えられたものであるところの異質な要素が反省される因果関係を、矛盾律としての理由律から区別し、因果関係をかかる特性に従って一つの経験概念であると主張する。ヤコービは理由律において、すなわち全体性において諸部分を見失っている。そこで彼は諸部分を更に全体のどこか外から持ってこなければならない。あるいは彼が把握しているように、全ての部分は実際にはすでに全体へ結合されており、全体の中に現存しているのである。しかしそのような全体からの諸部分の直観的認識は単に何か主観的なもの、不完全なものであるにすぎない。なぜならそれにはなお客観的生成と継起とが欠けており、そして継起のためには全体性に対して更に因果関係が加わってこなければならないからである。
 それゆえに、「個々の、互いの、共同の内に存立している、自明な存在者が現存している」という前提から、「延長、原因と結果、及び継起の概念」のかかる演繹、換言すれば有限性の絶対的存在の演繹が生じてきたのである。しかしこのヤコービの演繹は演繹の名には少しも値しない。それは前提されているもの、すなわち個々の物に共通な概念のごく普通の分析とさえも称することはできないほどである。何か一切の思弁が恐れているもの、すなわち人間的意識つまり感覚する物と感覚される物及び両者に共通のものの絶対的存在がすでに最も通俗的な経験論からそのまま前提されている。最後にそれらは余計な媒概念を通して、まとめて作用及び反作用として分析される。そしてこのことが継起の源泉なのである。感覚する物と感覚される物とを分析することなく絶対的に受け入れることによって、すでに一切の哲学が投げ捨てられてしまっているのである。カントによれば、原因と結果、継起などこれら一切の概念は全く現象に限られている。これらの形式が客観的に内在している諸物とこれらの客観の認識とはそれ自体においては全く無である。自体と理性とは全くこれらの有限性の形式以上に高められており、これらの形式から純粋にその身を保護されている。かかる結論によって、およそ哲学なるものの始元を形成したという、不滅の功積がカントには帰せられる。ところがヤコービが絶対的自体を見、またこの武器の夢想をもってスピノザの目覚めた意識と闘おうとするのは、まさに有限性のかかる無においてなのである。
 ヤコービにとって、有限者の否定への嫌悪は、それと照応する有限者の絶対的確信と同様に固定化されており、ヤコービ哲学の根本的性格として徹底的に示されるものである。しかし主観的なものと見られた関係、あるいは意識的な悟性と、そしてまさに客観的なものと見られたその関係、あるいは物の悟性、物の関係としての関係とは、互に全く独立しており、ニ元論的に並存しているのであるが、カントは、少なくとも全く単に一個のものとしての、すなわち主観的悟性と特殊的客観的悟性という区別のないものとしての関係を有するのみで、諸物間の外的で疎々しい関係を有しておらず、それゆえ、ただ一個の悟性を有しているだけであるのだとすれば、この有限者の関係は、それが単に主観的なものの関係であるにすぎないにせよ、あるいは同時に諸物の関係でもあるにせよ、自体的には無であり、この関係に従った認識は単に現象の認識というものでしかないのである。これに反してヤコービの諸関係におけるア・プリオリなものは、諸関係がまた諸物自体にも帰着するということ、つまり感覚する物及びその外で感覚される現実的な物という有限的諸物、諸物自体、また、継起、因果連関、抵抗などのそのような諸物の諸関係が真の理性的関係あるいは理念であるとされるということの内にある。したがって、関係が単に意識的悟性の主観的なものであるだけでなく、客観的なもの、無意識的なものであるとする、一見改良らしきものも、真実には絶対的な独断論、つまり有限者を自体へ高めようとするものである。

 ところで、ヤコービは理由律と因果律との間に重要な区別を設けることによって有限者が絶対的であることの基礎づけを与えたわけであるが、これを彼はスピノザの体系に適用した。それは次のようなニ重の形式を持っている。第一は、継起という概念がスピノザの体系には欠けているということであり、第二には、にもかかわらず根本的には継起という概念が存在しているが、しかし永遠の時間という辻褄の合わない形式において存在しているということである。
 時間が欠如しているという点について、ヤコービはスピノザ哲学を次のように捉える。「スピノザは有限で継起する諸物の現実存在に関する自然的説明をもたらそうとした・・・しかしスピノザは諸物を理性概念に従って同時的に存在するものとして認識した。というのは理性概念においてはいかなる以前も以後もなく、全ては必然的で同時的であるから。・・・また宇宙を永遠の相のもとに認識したので、スピノザは理由律を全く単に理論的なものに解するという誤謬を犯してしまった。またそれによって、スピノザはいかなる客観的現実的継起をも確定せず、単に主観的観念的契機を確定したにすぎなかったのである。しかしこの主観的観念的継起も、もしもその根底に、それを思想の内で産み出す主観の中で現実的継起というものがあるのでなければ、観念的にすら存在し得なかったであろう。つまり論理的な理由律においては、継起そのものが不可解なものであるだろう。」
 主観的観念的継起が主観の中での現実的継起を前提するという、このような心理学的想起については言うべきことは何もない。それによって一方では全く何も言われておらず、他方では何か誤ったことが言われているのである。というのは、観念的継起というのはスピノザの数学的比喩と関係があり、この継起が真実のところ何か実在的なものであり得るのは、単にこの継起が全体性の絶対的同時性であり、全く継起というものではないということにのみよるからである。しかしこのような全体性の同時性つまり時間的な相ではなく永遠の相のもとに存在するものとしての諸物の認識を、ヤコービは理由律に、そして因果律の無視に帰着させている。しかもその場合、彼は因果律を時間がその中に措定されているようなものとして理解しているのである。このような因果性及び時間が無視されてはならないということの絶対的根拠は、ヤコービによれば時間は自体的であり絶対的であるということにある。また理由律あるいは全体性はヤコービにおいては、その中では原因と結果が同時的であり、いかなる時間も措定されていないがゆえに論理的と称される。このことはヤコービにおいては絶対的要請である。以前や以後がなく全てが必然的で同時的であるところの理性概念によって、最高の理念すなわち永遠なものという理念において有限性つまり時間と継起が消滅してしまうという不幸が生じるので、ヤコービはかくも切に理由律と因果律との区別を忘れないように警戒しているのである。 
 スピノザにとって絶対的な同時性、つまり神は諸物の一時的原因ではなく永遠の原因であり、神の外のしたがってまた時間の内にある諸物及び時間そのものはそれ自体無である。スピノザの体系におけるあらゆる行文は時間と継起とは単なる現象にすぎないという命題をごく陳腐な命題としているのであって、そこにはおよそ新奇さや逆説の痕跡は些かも見出されえないのである。ヤコービは「全ては単に永遠なものから流出せるニ次的様態と見なされねばならず、時間、大いさ、数はこの様態から抽出された表象諸様式として、したがって想像上の存在者として見なされねばならないというのがスピノザの確信であった。」(『スピノザに関する書簡』)と言う。しかしそれでは一体どうしてかの命題「一切は同時的であり継起は現象にすぎない」がスピノザに属しないなどと言うのであろうか。ヤコービにとってはかの命題は極めて逆説的であるので、彼はそれを真面目に主張しなかったばかりでなく、継起に関する有限性のかかる最も有限な形式から全く何か絶対的なものを作り上げ、スピノザに対する反駁全体を、スピノザが理由律をその中に時間が存在するようなものとしては捉えなかったという点に基礎づけ、そこから哲学に関するスピノザの誤謬を説明するのである。また、ヤコービ自身、このような有限性のゆえに、一切を永遠の相のもとに見る理性の企てを不可能で偶然的であると認めるのである。しかしヤコービは実際にはスピノザにおいては、彼が時間を何か自体的なものとして措定したという点で首尾一貫していないということを見出している。「スピノザは個々の物が次々に現実となった無限の系列において根本では、永遠の時間、無限な有限性というものを見出しているが、この辻褄の合わない主張は、どのような数学的比喩によっても取り除かれず、この点でスピノザは自己の想像によって騙されてしまったのである。」とヤコービは言う。
 我々はまず(1)スピノザにおける「有限的諸物の無限の系列」を、(2)次にそこからヤコービが作り上げている「永遠の時間」を、更に(3)数学的比喩の「不適当さ」を明らかにしよう。
 (1)スピノザは、「実際の無限者」を解明し、「数、大いさ、時間など表象力が捉える物を、物の真の本性を知らぬために物そのものと混同する者は、この無限者を否認する」と言う。まさにこの実際の無限者こそヤコービが想像力(表象力)の無限者と混同しているところのものなのである。スピノザは「無限者を或る本性の存在の絶対的肯定と定義し、反対に有限者をその部分的否定」と定義している(『エチカ』第1部、定理8、備考1)。それゆえ、この単純な規定は、無限者を絶対的自己同等的不可分離の真なる概念とし、それはその本質上特殊的なものあるいは有限者を同時に自己の内に含み、唯一にして不可分なものである。そしてこの無限性においては何ものも否定されたり規定されたりしないのであるが、それをスピノザは悟性の無限性と名づけている。それは実体の無限性であり、また実体の無限性の認識は知的直観である。そして直観的認識としての知的直観においては、空虚な概念や抽象の無限性におけるように特殊的なものと有限者とが排除されたり対立させられたりすることはない。そうなるとこの無限者は理念そのものである。
 これに反して想像力の無限者はこれとは全く別の様相で生じてくる。すなわちスピノザの述べるところによれば、「もしも我々が自然の秩序そのものに注意を向けるのではなく、自然の特殊な存在者に、つまりその概念が実体の概念そのものではない場合の存在者に注意を向けるのであれば、我々は諸様態の現実的存在と持続とを任意に規定したり分割したりすることができる。・・・更にもしも我々が量を実体から抽象して把握し、また持続を永遠なる諸物から流出してくる様式から抽象して把握するとすれば、我々にとって時間と大いさとが生じてくる。」換言すれば、スピノザが想像力(表象力)と呼んでいるものによって、あるいは一般に反省によって初めて有限者が措定され、部分的にはそれが否定され、またこの部分的に否定されたものがそれ自身措定されて、それ自体において否定されないものすなわち全く肯定的なものに対して対立させられ、かくてこの後者の無限者が対立の内にもたらされるので、この無限者そのものを部分的に否定されるもの、あるいは抽象物、カント的純粋理性及び無限性とする。そして両者(有限者と部分的に否定される無限者)の絶対的同一性として永遠なものが措定されるのでなければならず、この永遠なものの中では前者の有限者と後者の無限者とは、両者の対立によって再び否定されているのである。しかし抽象されたもの、すなわち有限者あるいは無限者が各自のあるところのものであり続け、各自が対立物という形式で受け入れられるべきであるとするならば、事情はこれとは別である。この場合には、一方は他方があるところのものではないものとして規定され、そして各自は一方で措定されるが他方では措定されず、一方でかくかくに規定されるものであるとして他方ではそれとは他のものであるとして規定される。このようにして措定されたものが経験的無限性へ進行していく。単に想像によって措定されたものとしての持続は時間の契機であり有限なものである。そしてそのようなものとして固定されると、それは部分的に否定されるものであり、それ自体において同時に自ら他のものであるとして規定される。この他のものもまた想像によって現実性を獲得するのであるから、同様に他のものである。このような否定であり続ける否定が想像によって積極的なものにされると、経験的に無限なもの、すなわち絶対的な解決されざる矛盾というものを与える。
 (2)かかる経験的無限性は個々の物が措定される限りにおいてのみ措定されるのであるが(『エチカ』第1部定理28)、しかしそれに対し、ヤコービが感覚する物及び感覚される物として上述の彼の演繹の内で絶対的に措定しているところの個々の物は、それ自体においては全く無であるが、この経験的無限性の罪を、ヤコービは無遠慮にもスピノザに帰している。というのは、スピノザほど事柄をそのように解することからほど遠い哲学者はいないからである。なぜならスピノザにおいては、有限的諸物はそれ自体においては存在しないのであるから、それによって直ちにこのような経験的無限性や時間は消滅してしまうからである。ヤコービは言う。「スピノザは相互に連続し、経験的現実的に相互から生じる個々の物の無限の系列が永遠の時間として考えられるのは、ただ我々の想像力(表象力)のもとで起きるのでしかないと断言している。」 しかし一体どのようにしてスピノザは相互に連続し、客観的現実的に相互から生じる個々の物の無限の系列を何かそれ自体において存在するものと認め、また、真理性という点からしても妥当なものとしたというのか?誤謬は、すでにヤコービが絶対的なものと見なしている個々の相互に連続している物のこのような系列にこそ含まれているのであり、個別的なものと時間とをスピノザの無限性の内に持ち込んでいるのはヤコービなのである。
 理念というのは、想像や反省に対してその否定的側面から見られる限りにおいて、想像や反省によって辻褄の合わないものに転化され得るがゆえに理念なのである。この転化の過程は極めて単純なものである。想像や反省は単に個々のものや抽象的なもの、有限者を目指すにすぎず、それらは想像や反省にとっては絶対的なものとして認められる。しかし理念においては、反省や想像において対立しているもの、すなわち観念的にかあるいは経験的に対立しているものが一つのものと考えられることによって、かかる個別性や有限者は否定されるのである。反省が特殊なものとして措定している諸物がここでは同一のものとして措定されるということは、その限りでは反省の把握し得るところであるが、しかし反省はそれによってそれらの特殊な諸物が同時に否定されるということは把握し得ない。なぜなら、まさに反省がただ働いている限りにおいてのみ反省の産物は絶対的なものであるから。したがって、反省は反省にとってのみ分離されて存在しているものの同一性と、この同一性において分離されているものの絶対的存在との、両者を措定するのであるから、反省はお目出度くも辻褄の合わぬ点を見出したのである。こうしてヤコービは、時間という抽象物及び個別的な物という抽象物すなわち想像と反省との産物をそれ自体において存在するものとして措定し、また永遠な実体における絶対的同時性が措定される場合には、永遠な実体から取り除かれる限りにおいてのみ存在するところの個別的なものと時間とがまた共に措定されているということを見出している。しかし彼は個別的なものと時間とは永遠な実体から取り出されてきているのではあるが、再び永遠な実体に与えられることによって、それらが永遠な実体から切り離されている場合にのみあるところのものではなくなるということを反省しない。それゆえ、彼は無限性と永遠性そのものの内で時間や個別性や現実性を固持しているのである。
 またヤコービがスピノザに対し、スピノザは自己の哲学によって有限的で継起的な諸物の現実存在の自然的説明をもたらそうとしたということを不当にも要求するが、それは上述の、本来の時間の説明であるものから結果として出てくることなのである。すなわち永遠の理念の内で一つの抽象がなされるということなのである。つまりヤコービは時間の抽象を全体性あるいは理由律において直接行い、このようにして時間を理由律から把握し得たのである。しかし抽象そのものを、しかも全体性におけるかかる形式において見出すことは、我々の立場からすれば直ちに廃棄される。我々が時間の抽象を獲得するのは、我々が諸属性から思惟を孤立化する場合、つまり思惟を絶対的実体の属性として把握するのではなく、絶対的実体から抽象して、空虚な思惟として、すなわち主観的な無限性として固定し、そしてこの抽象を存在の個別性との相対的な関係において措定する場合においてである。そうなるとかかる抽象によって時間は真実には永遠性から認識せられ、また説明されているのである。しかしヤコービのように時間を個々の物の共通性から演繹することは、スピノザより一層自然な説明というものを与えることになろう。というのは前提されているもの、すなわち個々の物は実際すでに何か自然なものであるから、自然性という言葉によって哲学が自己の説明の仕方を表わそうとする場合、ヤコービは、この言葉で、形式的思惟つまり反省的思惟や想像による認識のみを理解しているということが一般に認められる。ヤコービの知の概念に関して先に挙げた箇所は実はこの点に帰着する。もちろんこのような自然な仕方ではどのような哲学的把握も全く可能ではなく、またスピノザの内には恐らくこのような自然性についての文言は僅かしか見出され得ないだろう。ヤコービは自然な説明とは想像による認識であると理解しているので、そうなると恐らくスピノザにおける一切が超自然的なものとなろう。かくて世界は自然的には説明せられないというヤコービの主張は、その主張を提起したばかりでなく展開もしたスピノザにおいてこそ、最も多くその確証を見出すことができるだろう。しかしそれによって全てのいわゆる自然性は一般になくなってしまう。またそれによってかの超自然性すらもなくなる。というのは超自然性は自然的なものがそれに対立している限りにおいてのみ存在するのであるから。そうするとヤコービの言うように、「理性が異常なものあるいは超自然的なものを自然なものに変えようとすること」が問題であるのではなく、、また「理性が自然なものを超自然的なものに変えようとすること」が問題であるのでもない。そうではなく、かの自然性すなわちメカニズムや因果連関や時間は、純粋な同一性において進行し事実を分析する知と同様に、理性にとっては全く存在しないのである。
 (3)最後に、スピノザが想像による欺瞞に対置したが、また逆に自己の想像によって、ヤコービによればスピノザ自身欺かれるゆえんになったところの、実際の無限者の数学的比喩に関して、スピノザはこの事柄に非常に確信を持って次のように言っている。実際の無限者を辻褄の合わないものとみなすような者はいかにくだらない理屈をこねるものであるかということは、「そのような屑の議論によっては明瞭判然に認識される事柄の内に留め置かれなくなる・・・数学者達が判断してくれるでしょう。」スピノザの例は、彼が『デカルトの哲学原理』にも実際の無限者に関する真の象徴として置いた図形によれば、共通の中心を持たない二つの円の間に囲まれた空間である。というのは彼はこの例によって経験的無限性を想像(表象力)の無限定な超出から連れ戻し、それを自己の前に取り押さえたからである。数学者は、この空間においてありうべき不等性が無限であるということを、諸部分の無限の多様性から推論するのではない。というのはこの空間の大きさは規定され限界づけられており、私はこれよりも大きな空間や小さな空間を据え置くことができ、それゆえ一層大きなまた一層小さな無限性を措定し得るからである。「そうではなく、事柄の本性が数のあらゆる規定性を越えているからである。」つまり、この限界づけられている空間の内には、実際の無限者が存在している。すなわち我々はこの例の内に、先に絶対的肯定あるいは絶対的概念として規定された無限者が同時に直観に対して、したがって特殊なものにおいて表現されているのを見る。そうすると絶対的概念は実際に対立物の同一性である。これらの対立物の部分が互に区別せられ、またそのような部分としてそれらが同一なものとして措定され、更にこの特殊的部分がそのようなものとして区別されながら同一なものとして現実的に措定されて、数において表現せられ、つまり特殊的部分が不可通約的でありながら概念からして同一なものとして措定されるべきであるとなると、経験的無限性が数学者の無限系列において現れてくる。しかし不可通約性とは、特殊的なものが概念のもとへの包摂から解放され、諸部分に分解され、そしてこの諸部分が絶対的に規定されると共に絶対的に互に不等であるということの内に成立する。そこでかつて直観的概念の内で等置されていたそれら諸部分が今や互に比較されるとなると、それらはもはや同一性の内にあるのではなく、ただ関係(比例)においてあるにすぎない。一言でいえば、これは幾何学の解析学への転換、あるいは一層限定すれば、ピタゴラスの定理の一連の曲線の函数への転換に他ならない。
 ここから無限性という思惟の真の性格が生じてくる。つまり絶対的概念は無限性であり、それ自体における絶対的な肯定であるが、対立物及び有限者に対してそれらの同一性として還帰しているから、それは絶対的否定でもある。この否定が存在するものとして実在的に措定されるとなると、次のような対立物の措定である。すなわち、+A-A=0。無(ゼロ)は+A-Aとして現実的に存在する。それはその本質上無限性、思惟、絶対的概念、絶対的に純粋な肯定である。絶対的実体においてこのように抽象された無限性は、まさにフィヒテが自我あるいは純粋な自己意識、純粋な思惟として、すなわち永遠の行為として、換言すれば反省的思惟が常にただ結果として知るにすぎないところの差別の産出として、最近の我々の一層主観的な文化に対して説明したところのものである。現象において区別されているもの、不可通約的なもの、結果としての差別は、究極的関係においては、すなわちその中では対立物が同時に消滅するという無限性においては、互に等しい。この同一性は、数において自分だけで存在しているものとして措定されているところの不可通約的なものへの関係においては、無限の同一性であり、無である。しかし不可通約的なものが、数において自分だけで存在するかかる抽象としてでなく、また全体なしに存立する諸部分としてでもなく、それ自体においてそれらがあるところのものに従って、すなわちそれらがただ全体においてのみ措定される場合には、最も真実な概念、すなわち全体と部分との真の同等性、肯定的無限性、実際の無限者が、直観的認識あるいは幾何学的認識にとって存在しているのである。無限者のかかる理念こそスピノザの体系において最も重要な理念の一つである。しかしこの理念がなければ、スピノザの最も高い諸理念も形式的歴史的な仕方で叙述されることになる。例えば、『スピノザに関する書簡』における第14テーゼでは、属性と様態とが絶対的実体に性質という通俗的な反省形式で加わってくるのである。
 無限者の諸形態を簡単に概括しておこう。[イ]真の無限者は絶対的理念、普遍的なものと特殊的なものとの同一性、あるいは無限者と有限者との同一性そのもの、すなわち有限者に対置されている限りにおける無限者と有限者との同一性である。[ロ][1]そして後者の有限者に対置された無限者は純粋思惟である。このような抽象として措定された無限者は純粋な絶対的ー形式的同一性、純粋概念、カントの理性、フィヒテの自我である。[ロ][2]しかし無限者がこのように有限者に対置されると、その無限者はまさにそれゆえに有限者の絶対的無となる。すなわち、+A-A=0。これは絶対的理念の否定的側面である。この無が実在性として措定されると、それは主観あるいは産出作用としての無限性そのもの(かかるものとして無限性は[ロ][1]純粋な同一性でも[ロ][2]無でもある)ではなく、[ハ]客観あるいは所産としてあり、かくして無限性は、+A-A、すなわち対立物の措定である。しかしこれらの無限性の形態のいずれも、まだ[ニ]想像の無限性あるいは経験的無限性ではない。第一の無限性[イ]は絶対的理性の無限性である。純粋な同一性の無限性[ロ][1]あるいは否定性の無限性[ロ][2]は形式的理性の無限性あるいは否定的的理性の無限性である。しかしこの無限性はその実在性においては[ハ]+A-Aとしてあり、この内の一方はそれ自身無限者として他方は有限者として規定されている。あるいはこれは有限者一般としては[ニ]反省や想像の捉える無限者である。それは有限者が絶対的なものとして措定さるべき場合であり、すなわち或る有限者が同時に他のものとし措定さるべき場合であり、先に指摘したものはこの無限者に属する。ヤコービにおいては無限者は無意味なものあるいは想像の経験的無限性として見出され、その結果彼は誤って次のように思い込むに至る。すなわちスピノザはその数学の例において経験的無限性を実際に存在するものとして表わそうとしたが、彼がそのように数学の例でもって満足したのは、彼が確かにそこには客観的現実的無限性を見出しはしないが、にも拘らず主観的観念的無限性を見出すというその限りにおいてである、と。
 「我々が根拠と帰結との結合を認める場合、そこで我々は表象における多様を意識する。そしてこの多様は時間の中で生起する。またこの観念的継起はそれ自身それを生み出す主観の中での現実的継起というものである。」(『デーヴィット・ヒューム』)このようにしてスピノザは自分が意図していた以上のことを成し遂げたというわけである。なぜなら、スピノザは自分の出した例において全く継起のことは考えていなかったし、またそこには継起など見られもしないからである。ところがそれにも拘わらずヤコービはそこに少なくとも主観的な継起を見出すのである。それゆえ、先の例はヤコービにおいては哲学的意味を持っているのではなく、心理学的経験的意味を持っているのである。ただヤコービはそこになお充分に経験的なものを見出さない。すなわち、たとえ観念的継起自身は主観の中での一つの現実的継起であるにしても、そこには心理学的継起の外に更にまた客観的現実的継起なるものが見出されない、というのである。
















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