1801年「論理学と形而上学」 (1)

 [序論としての政治的変革論]
哲学は内界を与えはするが、しかし内界は必ずしも外界と調和せず、不調和の生ずることがある。不調和が生じたとき、不調和を恢復させるものが理性であり哲学である。そうして不調和が甚だしいのは、過渡期においてのことであるから、とりわけ哲学の時代であるのは過渡期であるが、かかる過渡期として我々は例えばソロンの時代を挙げることができる。
 序論のここでソロンの名が挙げられているのは偶然ではない。ソロンはいわゆる七賢人の一人であり、場合によってはその筆頭に挙げられることもある。ところで哲学史或は哲学者伝はディオゲネス・ラエルティオス以来、七賢人から始められるのが伝統となっており、へーゲル自身もまたこの伝統を確定した一人であって、彼のギリシア哲学史講義も七賢人を以て序論として始められており、そして本論もまた七賢人の一人であるタレスから始められている。そしてヘロドトス1の30においてソロンが小アジアのクロイソスによって哲学者として迎えられたことになっているのも、へーゲルの典拠の一つであろう。もっとも彼の哲学史講義はベルリン時代のものではあっても、すでに1806年の夏学期に彼は哲学史を講じており、しかもベルリン全集の編集者のうち、哲学史の担当者によれば、彼の哲学史講義の根幹が形成されたのは、この1806年夏学期の講義においてのことである。少なくともギリシア哲学史に関してはそうであったであろう。しかしすでに1801年の『差別論文』の「多様な諸形式」の第一において当時の学説誌としての哲学史に彼は抗議し、論敵ラインホルトのものもその一例であると難じて精神史としての哲学史を提唱しているのは、彼の哲学史観の成立を語るものであるが、当面の箇所におけるソロン観もこの哲学史観からするものである。
 ソロンに関しては、彼は民の精神における新しい人倫の盛り上がり、或は人倫的自然の、或は人倫的エネルギーの澎湃たる盛り上がりを背負って、くだいて言えば、元は戦車を駆って、或は騎馬に乗じて指揮をとっていた「五百石取り」(ペンタコシオメディムノイ)や「騎士」(ヒッぺイス)よりも「重甲歩兵」(ポプリタイ)の方が国家に対する貢献度においてはるかに勝るものがあり、また有能なものが多いから、彼らにも国事を委ねるべきであるということが世の習い(ジッテ)となった動向を、人倫的エネルギーの盛り上がりを背負って、ソロンという巨人が数々の改革を断行したことを、へーゲルは言っているのである。そしてアテナイ以外の小民族についても事態は同様であったと言われているが、小民族とはポリスのことを指すのは明らかであるから、巨人たちの内には、七賢人の一人でもあるコリントのぺリアンドロスも、その内に数えられて然るべきである。彼は随一の名門の出でありながら、政争のために圧迫されて没落に瀕していたがよく忍びまた民意を背負って数々の改革を断行し、またエジプトとの貿易によってコリントに巨富をもたらして、アテナイに対抗し得る勢力にまでのし上げたこのぺリアンドロスの巨人ぶりはソロンのそれに劣るものではない。
 人倫的自然という語は、『自然法論文』の第二節において用いられ、これが自然法学の基本概念のひとつとなるのは、この論文の序論においてジッテとはあらゆる人事を動かす最重要の原因であるという意味の命題に基いている。そしてこの命題が事実上出現するのは、『実定性改稿序文』においてのことである。人倫的自然の自然はギリシアのソフィストたちに始まったプュシスとノモス或はテシスとの対立におけるものである。このプュシスが自分を定立することにおいて、テシスないしノモスが生じるのであるが、啓蒙時代の自然法学や自然宗教や自然神学においては、この自然は理性的自然ないし人間的自然であったが、この際の自然を以てジッテと解し、したがってジッテの変化に応じて自然宗教ないし神学及び自然法学の自然も変化し、したがってこの際のノモスないしテシスの位置に立つ宗教や神学も教義も、また実定的な法律も変化すると見たことにおいて、へーゲルの歴史主義は誕生したのである。したがって『実定性改稿序文』は人倫の立場の成立に関しても甚だ重要なものである。
 最後にへーゲルは巨人としてイサクとアレクサンドロス大王を挙げている。アブラハムとかヤコブに比して、族長の内では軽視されがちなイサクを挙げたのは、彼が夢の内に受けた啓示はその後のイスラエル宗教史に対して画期的意義をもつからというのであるが、これは、アブラハムの神は『創世記』15の冒頭にある歌によって明らかなように盾であったが、これは防衛のためのものとはいえ、武具であるから、アブラハムの戦士としての面を示しているのに対して、イサクの神は『創世記』31-42によると、かしこむものであるというのは、いわゆる怖れと慄きを以て対すべきものであるが、これはイスラエル人の主なる神に対してとられるべき最も妥当な態度であるからというのであろう。
 以上のように哲学はより手近なものから始まるというその一般的な性格に従って政治的変革論が序論とされたわけであるが、これを以て序論とするのは、その趣旨において哲学の要求を以て入門するのと同じである。しかし論理学と形而上学の観点からすれば果たして妥当かといえば疑問が残る。しかしこれは、いわゆる『ドイツ観念論最古の体系プログラム』の冒頭の文章が示すように、へーゲルの論理学ー形而上学が元は倫理学ー形而上学であったことに起因することであり、また当面の講義自身においても、純粋論理学の頂点をなすもの、すなわち形而上学への移行に対して媒介点となるべきものが概念ー判断ー推理からなるところの、人間的精神の有機的組織であるという点からすれば、そしてこの人間的精神が哲学入門講義に従って人倫的精神でもあるとすれば、決して奇異ではない。少なくとも最も重要な実例であるソロンの場合にはそうではない。ソロンの改革以前には日本流に言って五百石取りと三百取りという上層市民と百石取りという平市民との間に激しい対立があって、前者は後者を負債奴隷として酷使するというような惨状を呈していた。しかるにソロンの改革の要点は土地収入の如何によって納税負担額を異にするという差別はこれを残しながら、上層市民も平市民も等しく国会議員として、また評議員として国事を議し、判事として裁判にも参加する権利を与えたところにある。ところでへーゲルの論理学における概念とはいわゆる具体的普遍として特殊と対立する普遍ではなく、自分を限定して特殊態となることのできるものである。したがってアテナイ市民という普遍は上層市民と平市民という対立ないし特殊態を含みながら、或はソロン、或はアイスキュロスというような個別態足り得るのである。そして普遍態ー特殊態ー個別態を展開し具体化したものが概念ー判断ー推理であり、後者は前者を具体化したものである。そこでソロン改革は、人間的な人倫的な精神の有機組織を実現したものであり、そうしてソロン自身はこの人倫的精神或は人倫的自然のオルガナイザーであり、道具であったのである。言い換えれば、少なくとも純粋論理学が形而上学へと移行する頂点は人倫の原理としての論理を実現したのであった。この観点からしては、ソロンに代表される政治的変革を以て論理学への入門としたことは決して背理ではないのである。
 自然の無力すなわち自然には普遍ー特殊ー個別或は概念ー判断ー推理、さらには定義ー区分ー証明というような概念の諸規定を厳守する能力が欠けているという思想がへーゲルにはあるが、この思想はすでに1803年の「精神哲学講義」(ホフマイスター版)に見えており、そして既にいわゆる「体系断片」の体系においてへーゲルが説いていたとすれば、当面の講義のときも、自然の無力という思想が既に成立していたはずであるが、そうだとすれば、テキストにいわゆる概念ー判断ー推理という人間的精神の有機的組織が自然のものではなく人倫のものであることは明らかである。だからソロンの改革に代表される政治的変革を以て論理学への入門とすることは、決して偶然ではないのである。

 [純粋論理学の一般概念]
 「最初に私はこの冬学期に、論理学と形而上学について講ずべき義務を負うことになっているが、この課目名は既に久しい権威をもつものであり、また若干有用性の観点をもたぬわけではないと言われている」。
 以上は1801年の「論理学と形而上学」講義自身の開講の辞とでも言うべきものであるが、有用性の観点というのは、純粋論理学の一般概念から推測せられるように、純粋論理学は有限性の形式と無限性の形式とを含むから、すなわち悟性の論理学と理性の論理学とを含むから、前者から後者へ、そうして前者の頂点であり後者との接触点である概念ー判断ー推理という人間的精神の有機組織を媒介として形而上学へと移行し得ることを意味する。
 既に久しい権威にちなんで、へーゲルの教養と思索の素描をすれば、テュービンゲン神学校においてへーゲルは1788年冬学期から哲学コース(1788-90年)の学生として聴講したが、その際フラット教授の担当は「論理学と形而上学」であった。へーゲルが最初に聴講したのはライプニッツーヴォルフ学派の哲学であった。けだし大学の講義においてカント哲学の支配権が確立するのは、ラインホルトの「カント哲学についての書簡」(1786-87年)以後のことだからである。しかるに1770年にカントが教授に就任したときの担当講座も「論理学と形而上学」であって、その論理学に関する思索から超越論的論理学が生まれ、形而上学の批判から弁証論が生まれたのである。
 「論理学と形而上学」という課目がライプニッツーヴォルフ学派によって設定せられたのは、けだし当然のことである。なぜなら、ライプニッツ以前には論理学の原理には同一律と矛盾律ないし排中律という二つの原理しかなかったのに対し、理由律を加えたのは、他ならぬライプニッツであり、しかも彼においては、各自に自律的に、自己限定的に動く諸単子の底にあって、これらを関係づけ統一づけるところのものが理由律であり、そしてこの理由はまた神であるから当然論理学は「論理学と形而上学」とならざるを得ないのである。
 最初にライプニッツーヴォルフ学派の「論理学と形而上学」を聴講したへーゲルは既にその当時からその原理が同一律ー矛盾律(排中律)ー理由律の三つであることを知り、またライプニッツーヴォルフ学派における知名の論理学者であり、へーゲル自身も晩年に神存在の証明に関して行った特別講義において触れたプルケー教授及びその後継者フラットの推理論によって推理のもつ意義を銘記せしめられたであろう。
 そして続く神学コース(1790-93年)において、彼は三年間に亙って教義史の講義を第一次テュービンゲン学派の代表者シュトール教授から聴講したが、いわゆる弁証法論理が三位一体の教義などと不可分であることは否定できない事実である。すなわち受講当時からベルン時代にかけては教義や信条に対してむしろ反感を懐いていたにしても、その後「二ケア信条」「カルケドン信条」「使徒信条」などの解釈に腐心したことが彼を弁証法論理の自覚に導いたことは、『ドイツ観念論最古の体系プログラム』などからして否定できない。
 へーゲルがライプニッツの単子論に言及するのは、彼が『哲学評論』に執筆したスケプシス主義に関する論文に始まることではあるにしても、『イエナ論理学ー形而上学』の形而上学すなわち同一律或は矛盾律ー排中律ー理由律に始まる形而上学において彼が展開していることは要するに単子論の解釈に帰すると言っても過言ではないほどであるが、ライプニッツ哲学のこのような摂取に対する素地はすでにテュービンゲン神学校において築かれていたものであろう。なおこの形而上学におけるひとつのテーマである至高実在は理神論のものでもあるが、1793年に「理神論の歴史」という講義を彼がルブレー教授から聴講したことはあり得ることである。
 ベルンに移ってからも、ヘーゲルはキリスト教が果たして民の宗教たる資格を持つか、果たして真実の宗教たり得るか、それとも実定宗教たるにすぎないのかというテュービンゲン神学校以来の問題について思索し、やがて真実である限りの、すなわちカント的な徳の宗教である限りのキリスト教については『イエスの生涯』を、そうでないものについては『既成宗教としてのキリスト教の性格』を書くことになるが、極めて慎重な性格の持ち主である彼は自分にはまだ心理学や論理学や言語学などに関する知識が不足しており、諸概念もまだ不正確であって、上のような仕事には耐え得ないことに想到し、諸書を渉猟して知識や概念を正確ならしめるに努めた。その結果が「精神哲学の資料」とホフマイスターが名づけた手記であるが、この内には論理学と形而上学とに関するものもある。論理学に関しては、これには悟性の法則によって成立するものと理性の法則によって成立するものとがあり、前者は悟性概念(範疇)によって成立する判断の論理学であり、後者は理性概念(理念)による推理の論理学であり、前者が真理の論理学なら、後者は虚偽の論理学であるとされている。そうして形而上学に関しては宇宙論の場合だけが比較的に詳しく取り上げられることにおいて終わっている。
 以上はカントの『純粋理性批判』におけるいわゆる超越論的分析論と超越論的弁証論との要約にすぎないが、最初にライプニッツーヴォルフ学派の「論理学と形而上学」を聴講し、また神学生でもあったへーゲルのロゴス観は多分に形而上学的神学的であったと思われるが、この彼においても悟性の論理学が仮象或は現象の論理学、『大論理学』によって言えば、客体的論理学としてその座をもつようになるのは、また範疇論がその意義をもつようになるのは、この手記のカントを介してのことであったと思われる。
 なおベルン時代はへーゲルに実践哲学的傾向が強烈となる時代であるが、これを示すもので彼の論理学ー形而上学と深い関係をもつものには、カントにおける「純粋実践理性の諸要請」を自分流に表現した手記がある。
 フランクフルト時代に関して取り上げられるべきものには、『ドイツ観念論最古の体系プログラム』の冒頭にある文章とヘルダーリンの『判断と存在』がある。
 1910年代にローゼンツヴァイクがそう名づけた『ドイツ観念論最古の体系プログラム』は、へーゲルがフランクフルトに移ってから間もなくヘルダーリンとへーゲルとシェリングやジンクレアが核になって、哲学同盟すなわち一種のユニテリアン協会とも言うべきものが結成され、恐らく97年の復活祭の頃に開催された結成式に当たって、ヘーゲルが幹事として起草し、また読み上げた協会の趣意書であり、また研究計画書である。 
 冒頭には倫理学とあるが、これは協会員がスピノザ主義を奉ずることの、また実践哲学を旨とするものであることの宣言であろう。そうしてカントは形而上学を理論的には否認したが、また実践的には可能であるとして、「純粋実践理性の要請」の論を説いたが、我々協会員もまたこの先例にならうものであり、すなわち形而上学とはカントも考えたようにあらゆる理念の完全な体系のことであるが、我々もまたこの形而上学を倫理学から、モラールから基礎づけんとするものであり、そうして無からの創造という表象、すなわち純粋に理念ではなく、その表象であり、ドケオーードクサのドグマ(教義)にすぎぬものをも、我々は倫理学から、道徳学から基礎づけ、以て世界や自然などの論にも至らんとするものであるという意味のことが言われている。
 以上によって明らかなのは、ヘーゲルの論理学は元倫理学であったということと彼の形而上学があらゆる理念の体系であるということである。
 へーゲルの論理学が出来上がったのは、いわゆる『大論理学』(1812-13年)においてのことであるが、これは客体的論理学と主体的論理学とから成り、客体的論理学は存在論と本質論から成り、また主体的論理学は概念論とも呼ばれている。客体的論理学が形成されたのは、プログラムにおいては未だ計画にすぎなかった自然学が成立を見た時であろうが、この客体的論理学も講義や現象学からすると、倫理学であったというその前身を留めている。例えば有ー無ー成は『差別論文』における「多様な諸形式」の二によれば、光と闇、明と暗との交替であるが、同時にまた講義からすれば愛と義との交替であり、マースのごときもパイという円周率に代表される係数の論理であると同時に、『現象学』の啓蒙の段階に「マースとはマースのないものである」とあるところからすれば、節度を守ることは却って享受を無限のものとするという意味において七賢人の大多数が説いた節度の倫理に帰するのであり、本質論の要旨が「外なるものは内なるものの表現である」ことに帰するとすれば、神経組織ー筋組織ー内臓組織という外なるものには感受性ー反応性ー再生という内なるものが対応することを意味すると同時に、『現象学』における人相術論批判が示すように内なる心情の如何を示すものは行動であるということ、言い換えれば、「善き木は善き実を結び悪しき木は悪しき実を結ぶ」に帰するのである。そうして「概念とは主体性と自由との邦のことである」という客体的論理学最後の命題を受けた主体的論理学の冒頭にある「概念ー判断ー推理」の論が人倫の原理に他ならぬことは、へーゲルのソロン論に関して言ったごとくである。
 そうして哲学入門講義における欲望の邦と法の邦とに関して言ったように、主体性すなわち人倫が組織としての客体性へと移って、これをメカニズムーケミズムーテレオロジー(オルガニズム)と規定した後、オルガニズムに最も近い生命の理念に移り、続いて認識すること(真なるもの)の理念と善なるものの理念を経て絶対的理念で終わっている。この生命の理念と真なるものの理念と善なるものの理念と絶対的理念といういう理念論がプログラムにおいてあらゆる理念の体系とされた形而上学であることは明らかである。しかしまた、有ー無ー成に始まる諸規定といえども即自的には理念であり、ここに入門講義の言うように、論理学が、そうしてまた論理学ー形而上学が観念論のものたるゆえんがある。
 へーゲルの論理学ー形而上学観を飛躍的に発展させたと思われるものは、『判断と存在』(1795年)と題されたヘルダーリンの手記である。これによると、判断は分割であり分離であると共に統合であり一体化である。すなわち判断が主語と述語とをもつのは、両者への分割であり、分離であるが、これと同時に繋辞のアルをもつことにおいては、判断は統合ないし一体化でもあるというのである。この手記は、神学校を卒業してからシュトゥットガルトにほど近いワルタースハウゼンの町においてフォン・カルプ家の家庭教師となっていたヘルダーリンが、1795年の秋に教え子を伴ってフィヒテの講義を聴くためにイエナに行く前には、カントやフィヒテの哲学を熱心に研究し、哲学同盟を提唱してへーゲルやシェリングをリードしつつあった頃の産物であろうが、1797年にはへーゲルはヘルダーリンと同じフランクフルトに住むようになり、しかも相共にフランクフルトーホンブルク協会を設立し、ヘーゲルはその発会式のために設立趣意書を起草したほど親しかったのであるから、上の手記を見せられたのであろう。これを証するものが、『信ずることとアルこと』(1797年12月頃)と呼ばれている手記である。フランクフルトに移ってからのへーゲルは『キリスト教の精神とその運命』という最長編の手記の旧約篇を書くことを日課としていたが、この旧約篇が終わった頃に書かれたのが『信ずることとアルこと』という上の手記である。これによると、二つのものが二律背反をなすときにも、実は既に両者の統合が成立しており、この統合がすなわち繋辞のアルに他ならないのであるが、この場合にはただアルだけであって、なぜに然るか理由が示されていないのであるから、ただ信ずることがあり得るだけである。これが手記の表題に「信ずることとアルこと」とある所以である。このような信ずることの典型をへーゲルは旧約聖書において、イスラエルの宗教において見出したのである。それは「でアルこと」という判断の継続であって、ただ信ずることが可能なだけである。それは「でアルこと」に終始するのであるから、ただポジットされ定立されるにすぎないものとしてポジティブな宗教の典型である。そうして新約篇において『ヨハネ伝』の第一章のロゴスを取り上げるときにも、へーゲルは同様の見解をとっているが、当面の手記では「でアルこと」という判断の立場に終始する点においてはカント哲学も同様であるとしている。
 『信仰と知』でへーゲルは、『純粋理性批判』は弁証論より分析論において思弁的意義に富むとしているが、その理由は範疇の演繹論の特に16節において直観の多様の概念による統一を以て根源的な総合統一、すなわち多様にも総合にも先立つ統一なりとしたことであろうが、同時にカントはまたこの統一の論理的形式、すなわち判断の形式に言及し、判断が自己意識の客観的統一であることを示しているものは繋辞のアルに他ならぬとした。分析論のカントは根源的総合を認めはしても判断の論理学に終始して推理の三段には、第三段目までには至らなかったと『信仰と知』のへーゲルは考えている。『小論理学』の166節においてへーゲルが判断の原型を以て「個別は普遍である」となし、この判断を以て概念の原始分割となしたのがヘルダーリンの『判断とアルこと』における分離に基いているのみならず、繋辞のアルを以て未だ存在の内に埋没した統一であって、この統一自身が媒語として定立されるに至って初めて判断は推理となると言うときにも、存在の内に埋没した統一にすぎぬというのは、超越論的演繹論18節において繋辞のアルが自己意識の客観的統一を意味するとされたことへの反論であると思われる。
 こうしてへーゲルがヘルダーリンの『判断とアルこと』という手記とカントの範疇の演繹論(B15-27節)とに導かれて判断論から推理論へと移行するのも当然の成り行きであって、この移行によって彼にとっての原論理学とも言うべき相互媒介の論理或はむしろ倫理が形成されることになる。すなわち主語Sは媒語Mによって述語Pとなるが、しかしMもPを媒介としてSとなり、PもSを媒介としてMとなるという相互媒介の論理である。この論理を最終的に表現したものが「推理は観念論の原理である」という就職テーゼの第二条であり、また当面の講義において概念ー判断ー推理は人間精神の有機的組織であるとしていることである。
 ところで『体系プログラム』が示したように、へーゲルの倫理学ー形而上学は教義の解釈ないし釈義と不可分であるが、この点からすると、プログラムが宣言していた彼のスピノザ主義からして、当面の講義が絶対者の像ないし絶対者の反映と呼ぶものを幾何学的図形に求めるのを常とするが、ローゼンクランツが神的三角形と呼んだ構想、すなわち三角形ABCにおいてAはBを媒介としてCとなり、BはCを媒介としてAとなり、CはAを媒介としてBとなるという相互媒介論が生ずるのであるが、就職テーゼの第三条に「三角形は精神の法則である」というのは、けだしその最終的表現であろう。
 上の神的三角形はもとより二ケア信条の三位一体の教義に関するが、この教義に対してベルン時代のへーゲルがむしろ揶揄的態度をとっていたことは、神が一か三かについて一つの町が両派に分かれて死闘をさえ演じたのは愚の骨頂であると、「構想力の宗教」の続編において語っていることによって明らかであるが、1799年秋の頃、イエスの洗礼について講ずるに当たっては、三位一体の教義を、『ヨハネ伝』15章の訣別の辞によって殆どそのまま叙述するに留めて最早何の抗議をもしていない。けだし相互媒介的推理の原論理学が既に成立していたからであろう。けだし、この箇所は洗礼を施すことを以て一体化の境地の内へ浸すことと解し、三位一体の教義を教えること(マテーシス)と同義と説いて、一体化の哲学としての『体系断片』の体系を執筆することの決意がなされた頃のものであろうからである。
 そうして教義の承認には、『体系プログラム』の頃にはむしろカント的・近代的なものであった倫理ー道徳がへーゲル的ーヘラス的な習俗ー道徳的自然へと変ずることによって、すなわち三位一体の教義の承認の場合には、ジッテと解されたモンテスキューの三権分立論と、家族論における愛ないし信頼のジッテないし倫理が参加したからであろうし、またカルケドン信条における神人両性同一の教義の場合には、一方の手が他方の手を洗うという、欲望の邦ないし欲望の体系としての市民社会における「ことわざ」が意味する変転と交替の原理という論理或はむしろ倫理の見地から承認されたものと解され得る。
 しかし『差別論文』における多様なる諸形式の二ともなれば、論理学の体系構想は既に成立している。有と無を成において止揚するというのは、有論の課題であり、本質的なものと非本質的なものを現象において止揚するというのは、本質論の課題であり、有限なものと無限なものを生命において止揚するというときの有限なものを形態化と解し、無限なものを同一化と解するとすれば、生命は大論理学において理念論の筆頭に位置する生命の理念となるからである。すなわち有論ー本質論ー理念論によって代表される概念論はすでに成立しているのである。そうして就職テーゼの第二条に「推理は観念論の原理である」とあるのは、概念ー判断ー推理の原論理学が客体的論理学の帰着点であることを示すものであり、また「理念は無限なものと有限なものとの統一であり、全哲学は諸々の理念の内にある」という第六条は生命の理念によって諸々の理念を代表させつつ、論理学が同時に『体系プログラム』のいわゆる「あらゆる理念の体系」としての形而上学であることを宣言したものである。なお1799年の中頃からは、セキストゥス・エンピリクスの『ピュロン主義綱要』の研究が参加している。
 しかし『差別論文』及び就職テーゼにおいては、すでに客体的論理学が参加しているが、これはベルン時代の手記に見えていたカントの範疇論の編入によることである。
 へーゲルは「論理学と形而上学」の「論理学の一般概念」を有用性の観点から説明するが、この際の論理学は応用論理学と対置される純粋論理学のことである。この応用論理学というのは『純粋理性批判』のいわゆる超越論的分析論において最初に論理学一般について語られたときの応用論理学を指しているのだろう。すなわち判断するに当たっては、雑念を去り心を清浄にする必要のあるところから、カントは応用論理学なるものを設定したが、へーゲルは「論理学の一般概念」についての説明を終えたとき、応用論理学はあまりにも一般的で陳腐であるとこれを追放している。
 ところでカントの「論理学一般について」によると、「純粋論理学」とは判断したり推理したりする際の内容を全て捨象したところに成立するものであるから、同時に形式論理学であるが、我々のテキストは哲学の与える真理の認識においてマテーリエをもつと言っているから、純粋論理学といえども或る内容をもつものであり、また真理の論理学として、カントにおけるいわゆる超越論論理学に当たるものであることになる。このマテーリエとは、経験的に寄せ集めることによって得られるべきものではなく、悟性自身から、すなわち理性を剥奪せられている悟性自身から得られるべきものであるとしているが、この際の「経験的に寄せ集める」というのは、カントが判断表から諸範疇を導き出したことを指すのは、へーゲルが『現象学』の第五部の序論において「経験的に寄せ集める」と殆ど同じことを言っているところからして殆ど確実である。そこで純粋論理学は諸範疇において或る内容をもつことになるが、諸範疇に更に概念ー判断ー推理という主体的な有限性の形式ともいうべきものを加えたものが有限性の形式と総称されていることになる。このように純粋論理学が諸範疇に、また有限性の形式に関するにも拘らず、形式論理学ではないというところには、既に形式と内容との相即という、或はむしろ形式もまたそれ自身が内容であるというへーゲル独特の見解(特に『現象学』の悟性の章)が前提となっていると見る他はないであろう。
 それでは純粋論理学はどんな範疇を含むかと言えば、1801年の『論理学と形而上学』講義にはそれがないから、『イエナ論理学ー形而上学』によるしかないが、これは冒頭に欠落があり、何から始まっていたかは正確には分からないが、単純な関係からであることはほぼ確かであり、そうしてこれが質範疇と量範疇とをこの順序で含んでいることは全く確実である。単純な関係に対応するものは、関連であるが、これは存在の関連と思考の関連とに分かれ、前者は実体性の関連と因果性の関連と相互作用の関連を含み、後者は概念と判断と推理とから成っている。以上によって明らかであるように、カントにおけるいわゆる超越論論理学の諸範疇が解釈によって『イエナ論理学』の内に摂取されている。すなわち量と質は、カント自身も『判断力批判』における優美なるものの分析の場合にとったように順序を逆にされており、そうしてカントにおける実体性ー因果性ー相互性という関係の諸範疇は、単純な関係に対して関係たることが一層明確になったものとして存在の関連となっており、そうしてカントにおいても客体自身のものであるよりも、それの主体への関係において成立するところの可能ー現実ー必然という様相の諸範疇はへーゲルにおいてもまさにそのような諸関連において成立するものとして概念ー判断ー推理となっている。
 このテキストにおける純粋論理学も質範疇と量範疇と関係範疇を含むであろうけれども、少なくとも関係範疇の場合には、カントにおける実体性ー因果性ー相互性の順序がこのまま受容されていたかは疑問である。なぜなら『差別論文』における「多様な諸形式」の8において哲学体系を構成するに当たっては、実体性が最適であって相互性は最悪とされているからである。しかしこのテキストにおける有限性の形式が『イエナ論理学』の存在の関連と思考の関連との双方に当たるものを含んでいることは明らかである。それは有限性の形式が客体的な観点と主体的な観点との双方から取り上げられるというとき、実体ー因果ー相互(順序は逆かもしれないにしても)と概念ー判断ー推理のことが意味されていることは明らかだからである。そうして純粋論理学によって反省の固定化が止んだ時には、純粋論理学は哲学への入門であるという意義を取得するというが、この際の哲学とは明らかに『論理学と形而上学』における形而上学のことであるから、概念ー判断ー推理という系列は形而上学の跳躍板であることになる。概念ー判断ー推理は人間的精神の有機組織であるという絶賛を博し、また悟性による理性の模倣という賛辞は有限性の形式に属しながら既に無限性の形式すなわち理念であるかの観を与え、さらに推理は思弁的意義をもつとされ、したがってまた学的認識の諸基底すなわち同一律ー矛盾律ー理由律を与えるものではあるけれども、カントにおける様相の諸範疇に当たるものとして客体に関係する相対主体として絶対主体のものではなく、形而上学への媒介点と見なされ得るというのである。
 ところで『差別論文』においては、哲学の端緒すなわち論理学(-形而上学)の三つの要求の筆頭に、有と無とを成において止揚することが挙げられていたにも拘らず、『イエナ論理学ー形而上学』はこれを欠いている。すでに言ったように、これの冒頭にはかなりの頁数に亙る欠落があるが、元はそこにこの三位が含まれていたのであろう。『イエナ論理学ー形而上学』も清書であって、ヘーゲルには出版の意図があったが、いざというときになって中止せられて手記のままに終わったものであるが、有ー無ー成の三位に関する疑惑が中止のひとつの有力なる原因であったであろう。ここに疑惑というのは、彼が尊崇してやまなかったギリシア哲学には実有(ウーシア)と生成(ゲネシス)との対立があって、哲学はただウーシアにのみ関し得るのであって、ゲネシスはその圏外にあると信ぜられていたのであるが、有ー無ー成といえば、哲学はゲネシスから始まることになるというのが中止の原因であったであろう。論理学が有ー無ー成の三位を以て始められるべきかの問題は1812年の『大論理学』における有論の冒頭にある「論理学の端初は何を以て為されざるを得ぬか」にまで持ち越された。この際純有を以て始められるべきであることに対するへーゲルの解答は哲学入門たる『精神の現象学』が絶対知の純有を以て終わったからということにすぎなかった。しかもハイデルベルクにおいて『エンチュクロぺディー』が成立してからは、1831年の『大論理学』第二版の序文が示すように、有ー無ー成というような論理学的規定は最も抽象的であり、したがって具体的な経験や科学をもたない者にも基本的な言語の意味を反省するだけで理解でき得るということであった。これがために『精神の現象学』から哲学入門たる資格をはく奪し、それを体系の圏外に追放したのであった。いな、この態度は既に1817年に「ハイデルベルク・エンチュクロぺディー」の成立と共に始まることであった。
 しかし最初に有ー無ー成の三位についてへーゲルが疑惑を懐いたのは、彼のパルメニデス賛美から考えると、疑惑の焦点は有によりも、むしろ成に存したであろう。すなわち、もし成を論理学の内に入れると、時間的空間的なものもまた論理学においてその座をもつことになるというのが疑惑の核心であったと思われる。しかし具体的な時間と空間とが論理学の内にその座を占め得ないとしても、時間性と空間性ならば参加せしめることは可能であり、またそうすることによってへーゲルの所期したところの現実性と具体性とを論理学に獲得せしめ得る。その良い例は『現象学』である。『現象学』はその第一部の「いま」と「ここ」において時空性をもっており、第四部における生命もまた同様であり、そうして『現象学』においてはダーザインも論理学におけるふうに単なる定在に留まるものではなく、いつも「そこ」と「いま」における存在としての具体性と現実性とをもっている。良い例はカントの場合である。彼は時間と空間という直観の二つの形式を時間に帰着させ、そうしてこれと超越論的な諸悟性概念たる諸範疇との総合を時間図式において見出し、この図式を時間系列ー時間内容ー時間順序ー時間総括とし、これらの図式を命題化することにおいて、直観の諸公理ー知覚の諸予料ー経験の諸類推ー経験的思考一般の諸公準という諸原則の体系を立てたが、この体系においては横には諸々の要因(ファクター)を離在させる空間の次元があり、縦には諸々のファクターが変化していく時間の次元があって、全体は時空世界を形づくり、相対性原理を含めて近代科学ともよく調和している点で具体的なものであるが、しかるにへーゲルの論理学にはかかる具体性が欠けているのは、ひとえに時空はただ自然学にのみ属するものとして、論理的世界から時空を抹殺したためであると思われる。

 [形而上学への移行]
 さて以上において論理学の一般概念を述べたが、この際の論理学が応用論理学に対立する純粋論理学であることは明らかである。
 この純粋論理学の概念に従って講義は次のような必然性の順序によって行われるであろうと言われ、第一の部門において取り扱われるものは、有限性の普遍的形式或は法則であり、またこの形式ないし法則を客体的な観点においてと共に主体的な観点において問うことであり、更には何れの場合でも絶対者の反映たり得るかを問うということである。ここに有限性の普遍的形式というのは、先に解明したようにカントにおいて純粋悟性概念であるところの範疇のことであるが、これをまた有限性の法則と言っているのは、ベルン時代の資料において、論理学には悟性の法則と理性の法則に関する二部門があるとされている際の言い方によったものである。そうして有限性の形式ないし法則を、客体的な観点においてと共に主体的な観点においても取り上げるというのは、質ー量ー関係の諸範疇として、また様相の諸範疇として取り上げることを意味すると同時に、既に客体的論理学と主体的論理学(=概念論)との区別、また『イエナ論理学』で言えば、特に存在の関連と思考の関連との区別が成立していることを示しており、そうして客体的観点と主体的観点との観点というのは、「論理学と形而上学」という学課名は既に久しい権威をもつものであり、また若干有用性の観点を持たぬわけではないと言われた際の「観点」を指している。そうして有限性の形式ないし法則が絶対者の反映たり得るかどうかを問うというのは、例えば推理に関している『小論理学』の181節においては「全てのものは推理である」と言われて推理には絶対的意義が認められているが、このようなことが果たして他の場合に成立し得るかどうかを問うことを意味しており、また『イエナ論理学』における実体性ー因果性ー相互性という「存在の関連」に関して、『差別論文』の「比較論」が、体系を形成する観点からすれば、実体性が最善、因果性が次善、相互性は最悪であるとしたのも、絶対者の反映たり得るかどうかという観点からすることであろう。
 第二の部門において考察されるものとは、有限性の主体的形式であり、言い換えると、有限的思考である。この思考は悟性と呼ばれるものではあるが、しかし概念ー判断ー推理という人間的精神の有機的組織に属するものである限り、そうして特に推理としては理性としての意義を具えており、推理はたとえ形式的推理であっても悟性による理性の模倣であるという意義をもっていると言われている。上に有限的思考と呼ばれたものは、『イエナ論理学』において「存在の関連」すなわち実体性ー因果性ー相互性に対して「思考の関連」すなわち概念ー判断ー推理であるもののことであり、そうして推理はたとえ形式的なものであっても、なおかつ悟性による理性の模倣として理性的であるという意義をもつというのは、『純粋理性批判』において科学的知識が直観との協同における悟性によって成立するのに対して、形而上学はかかる協同を欠いた理性の形式的推理によって成立すると主張されたことを指しているであろう。
 第三の部門においてなされることは、理性によって有限的思考を全て止揚することであり、しかもこれを諸推理がもつ思弁的意義の影響によって、また学的認識の一般的諸基底を立て、こうして論理学に属する限りの理性の諸法則を確立することによって、我々は行うのである。ここに「学的認識の諸基底」或は「論理学に属する限りの理性の諸法則」というのは、『イエナ形而上学』の冒頭にあるところの認識システムの原則の同一律ー排中律ー理由律のことであろう。
 以上によって論理学が形而上学に移行するのは、論理学の第三部においてであると言われるときの第三部が何であるかは明らかである。したがって大まかに言えば、純粋論理学から形而上学への跳躍板は概念ー判断ー推理から成る人間的精神の有機組織であり、特に推理であるということになるのである。
 しかし形而上学という語の用いられるのは、ただこの一回限りだけであって、後は本来の哲学という語ないしその変形しか用いられていない。これはへーゲルが大学から課せられた「論理学<と>形而上学」にいかに強く反発し、さらに形而上学というこの語をこの際には忌避したかを示しているが、これはメタフィジックと言えば、「フィジックの後に」あるべきものであるが、講義はまだフィジックには及んでいないという彼に特徴的な用語上の潔癖さによることであって、『大論理学』の第三部主体的論理学が概念ー判断ー推理からなる主体性から客体性を媒介として生命の理念ー認識すること(真なるもの)の理念ー善なるものの理念ー絶対的理念へと、すなわち理念論へと移っており、そうして『最古のプログラム』が形而上学をもって「あらゆる理念の体系」としていたことを思うならば、形而上学への移行に実質的にまで反対するものではないことは明らかである。しかし概念ー判断ー推理の主体性と理念論(=形而上学)とを媒介する役割を負うているところの客体性がメカニズムーケミズムーテレオロジー(オルガニズム)という構成をもっているが、このメカニズムーケミズムーオルガニズムという構成は哲学入門講義によっても明らかなように、自然学の基本であったから、『大論理学』における客体性の構成は形而上学たる理念論がフィジックの後に来るべきものであることをも配慮したことになる。しかし哲学入門講義はメカニズムーケミズムーオルガニズムの構成を人倫の哲学にまでも、すなわち倫理学にまでも及ぼし、欲望の邦はメカニズム、法の邦はケミズム、宗教と芸術は神の直観を有機的に組織するものとされていたところからすると、『大論理学』の客体性の段階においても、我々のテキストにおいて概念ー判断ー推理が人間的(人倫的)精神の有機組織であった側面をも顧慮したものであろう。ここに我々のテキスト(哲学入門講義)がもつひとつの意義がある。
 なお「形而上学への移行」と同じ段において、真実の哲学はいつの時代でも、ただ一つであるが、現代ドイツにおいて横行しているものは新たな非哲学であり、かかる情勢に対して我々の賛美する最も古い古いものであることを宣言するとある。この非哲学というのは、『差別論文』が批判したところの反省哲学のことであり、特にラインホルトの哲学であろう。真実の哲学はいつの時代でもただ一つということも、やはり『差別論文』の「多様な諸形式」の一において当時の学説誌にすぎぬ哲学史観に対して、へーゲルが抗議した際にも言われていたことであって、このときには芸術史に実例を求めて、ソフォクレスの悲劇とシェークスピアの悲劇とは悲劇の理念からすれば同一であって、相異はただ両者の用いた建具のいかんにすぎぬと言われているが、この「建具」というのは、『現象学』の第五部が「個体性の法則」について論ずるに際して、個体性の相違を来すものは世態すなわち風土のほか主としてジッテのいかんによるとされた世態のことであろう。そうして「最も古い古いもの」というのは、パルメニデスのト・エオン(在るもの)のことであろう。特にパルメニデスにおける「存在することと思考することは同一である」という断片がへーゲルの意に適ったものであることは『イエナ形而上学』の最高段階が絶対精神ないし絶対自我であることから察せられ得る。ただし上の有名な断片の文献学的解釈のいかんはしばらく別問題であり、またへーゲルの時代にはヘラクレイトスよりもパルメニデスの方が時期的に先立つと見るのが通説であったことを断っておく。
 最後の段において、上のような非哲学に陥らずに本来の真実の哲学に達するには、どうすればよいかというと、必要なものとして総体性のファクターと懐疑主義の亡霊を払いのけることとの二つが挙げられている。「総体性のファクター」が対立するものの総体に達することの必要であるのを指すこと、従って対立するものの同一の実現というのと同じであることは自明であるが、「懐疑主義の亡霊」については、若干の説明が必要である。カントがヒュームの懐疑主義によって独断のまどろみから目覚めたと言ったのは有名であるが、カントはヒュームの警告に従って形而上学に対しては懐疑主義の態度をとり、それを否認しようとした。これは就職テーゼの第七条においてへーゲルがカント哲学を以て懐疑主義なりと断じたゆえんである。カント哲学のこのような動向を受けて、エルンスト・シュルツェは古代ギリシアの懐疑主義者アイネシデモスの名にちなんで自らもエーネジデムスと名乗って書を公けにした人であるが、1802年には懐疑主義の立場から『理論哲学入門』を書いた。へーゲルは就職テーゼ当時シュルツェ批判の論文を書こうとしていたが、『哲学評論』第一巻第二分冊における『スケプシス主義の哲学への関係』という評論を書いて、古代スケプシス主義とヒュームに代表せられる近代懐疑主義とを比較して、前者は決して後者のように懐疑に終始するものではなく、むしろ探究としてのスケプシスに専念せんとするものであるが、ただ全ていかなる命題にも必ず反対の命題が対抗するのであるから、軽率な判断決定を差し控えるというエポケー(判断停止)を行うものであり、そしてこのエポケーをその種々な様態(トロポイ)にまで亙って行うことによって全体観に、すなわりスぺキュラチオンに達せんとするものであって、まさに哲学にとっての真実の方法であるとへーゲルは論じたのである。そして「亡霊」というのは、アイスキュロスの『オレステイア』においては、オレステースはアポロンの命に従って母クリュタイムネストラを殺して父の仇を討ったが、しかしエリニュスーエリニュエスという復讐の女神の亡霊に追跡され苦しんだが、これはオレステースが父アガメムノンの権利或は国家の権利はこれを重んじても母クリュタイムネストラの或は家族の権利を無視したのであるが、現代の非哲学たる反省哲学もその反省を主観の方へ向けるだけで客観の方へは向けていないために、一般的に言えば双方的反省ではなく一方的反省に終始しているために、あたかもオレステースに対するエリニュエスという亡霊のような「懐疑主義の亡霊」につきまとわれているというのであって、巧みな表現と言うべきであろう。
 それではこの亡霊を払いのけるにはどうすればよいかと言えば、反省哲学の批判以外にはない。そこで反省文化の基礎をなしているカント及びフィヒテ哲学を批判すべきであると言われているが、これはへーゲルが『哲学評論』の第二巻第一分冊における『信仰と知』において実行に移すことである。しかし批判はカント及びフィヒテのみならず、追隋者にも及ぶと言われるが、これはクルークの場合を指すであろう。そして最後には本来の哲学には関しないにせよ他の分野で近頃威張っているものを批判すべきと言われるが、それは刑法学者として、特に刑の教育刑たるべきことを唱え、また実証法学の先駆者としてイエナ方面において台頭しつつあったアンセルム・フォイエルバッハ(有名な哲学者フォイエルバッハの父)を指していると思われる。へーゲルは自然法学の種々の扱い方を論じた際、経験主義的扱い方は、純粋経験が互に相違し対立する諸契機からなる有機的全体であるにも拘わらず、この全体から唯一つの契機だけを抽象して、これから同一律なり因果律なりによって他の諸契機をも演繹せんとするものであるが、ホッブスの場合と同じくアンセルム・フォイエルバッハの場合もかかるものであると、二人の名前を挙げることなく批判し、また第三の扱い方である人倫哲学的扱い方の最後から次節にかけて、現存している習俗を法律として定立する立法における諸条項の全てが、或はその大部分が実証法学に属するのであると言って、暗に人倫哲学の立場から、或はむしろモンテスキュー的な歴史法学の立場から論じた場合にへーゲルが念頭に置いていたのは、アンセルム・フォイエルバッハであったであろう。



















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