人倫の体系 要約 (4)

 [普遍的統治]
 絶対的統治は普遍的な運動の静止した実体である。しかし、普遍的統治は、この普遍的な運動の原因(特殊的なものを普遍的なものに結びつける力)であり、あるいは普遍的なものであると言っても、特殊的なものに対立させられてあることで、それ自身特殊的なものの形式においてあり、しかしその本質からすれば同時に普遍的なものであることから、この形式のゆえに、特殊的なものを限定するものとなっているという、こうした限りでの普遍的なものである。
 ところで普遍的な統治は運動に関係し、しかし運動は個体性、形態、関係の内にあるから、普遍的統治の対象と内容は普遍的な状況である。なぜなら、絶対的に恒常的なもの(人倫の理念)が絶対的統治の本質であるとき、普遍的統治には専ら形式的に普遍的なもの、つまり普遍的な偶有性、この時代における民族の限定された状況が帰属するにすぎないからである。普遍的統治の対象は、限定された欲求にあって普遍的なものとして一つの勢位であるもの、そして全体を己の下に包摂し、そして全体を一つの勢位となしているものである。
 全体の運動は、普遍的なものと特殊的なものとの絶えざる分裂であり、前者の内への後者の包摂である。しかし、この特殊的なものは永続的な分裂であり、このためこの特殊的なもの自身の上には、絶対的なものの諸契機あるいは形式(欲求の体系、正義の体系、訓育の体系など)が、相互に外在的なものとして、相並んで在るものとして刻印づけられており、そのため全体の運動は同様に多様な仕方で限定されている。
 普遍的なものは特殊的なものに向かって運動するが、特殊的なものは、外に向けられた差異と内に隠された同一性の勢位(自然の勢位)においては、この運動を無化(死)に向かうものとして限定する。なぜならば、端的に特殊的なものとして措定されて、同一性を産み出し得ず、こうして絶対的概念でも、知性でもないものは、無化を通してのみ普遍的なものと一体となり得るのだからである。
 しかし絶対的概念であっても、有機的総体性すなわち民族であっても、他民族と、二つの特殊的なものとして、相互に観念的に否定されたものとして措定し合う限りで(絶対的概念の否定の側面)、相互に承認し合わない限りで、対立し合う。承認されているものとして己を見出すことの出来ない民族は、承認されることを戦争を通して産出しなければならない。
 統治は特殊的なものを普遍的なものの下に包摂することだからして、この統治の概念の内では、特殊的なものに対置された普遍性の諸契機が、ついで包摂が区別されなければならない。そしてこの包摂は再び二重の包摂、つまり観念的な包摂と実在的な包摂である。前者は、特殊が包摂されるのは、すでに制定された形式的な普遍性の下であるのに対して、後者は、真実の普遍性であり、これと特殊的なものとは一体のものとして措定されているのである。また諸々の国家権力として概念的に把握されている諸契機がある。つまり、立法権として普遍的なものを措定すること、司法権一般、正義として観念的に包摂すること、そして行政権として実在的に包摂することである。(カントは実践理性の推論における大前提に立法権を、小前提に行政権を、結論に司法権を配した。ヘーゲルでは、司法権が小前提、行政権が結論。立法権は絶対的統治に帰属する。)
 三権は分立しながら一体をなし、それぞれが人倫の理念の総体性を具現している。だから、この一体性を離れたら、個々の権力は抽象態にすぎない。内容がこれら三つの契機を実在的なものにする。この形式と内容の結合を通して、各契機は直接に普遍的なものと特殊的なものとの同一性となるだろうし、運動としては特殊的なものを普遍的なものの下へ包摂することとなろう。こうして各契機は三契機の全てを己の内で合一させることになろう。
 しかし、こうした抽象態はもとより実在性を獲得し得るし、各々は独立して各々に自己を制限する諸個体(祭司と長老、裁判官、官吏)と結合され得るであろう。しかし、そのとき、これらの真実の実在性は、これら三者を合一するところのものの内に存在することになろう。あるいは推論の結論である行政権がこの合一するものだからして、本来的にはこの行政権が常に統治であり、そして他の権力が単なる抽象態、空虚な活動であるかないかは、行政権に依存することになる。
 民族の運動が統治であるのは、この運動そのもの(民族を捨象した)としては形式的なものであって、この運動において関係の中に立った者のいずれが普遍的なものかあるいは特殊的なものかが、それ自体としてそれだけでは限定されず、そして両者が運動の中で関係し合うものになるということが偶然のように見えるのに対して、民族の運動においては、普遍的なものと特殊的なものとが相互に結合し、そして絶対的に普遍的なものがまさに普遍的なものとして限定されており、これに伴ってまた、特殊的なものもそうであるからである。
 概念を包摂する直観(対内関係)はそれ自身絶対的概念であり、直観を包摂する概念(対外関係)はそれ自身絶対的直観である。だから、この対立のこの形式の現象は、有機的なもの自身の外部に存在する。対立は運動についての反省の内に存在する。有機的なもの自身にとっては、対立は次のように措定されている。つまり、概念が包摂するものとして現象する限りでは、有機的なものが個体として、それだけで一個の個別的な本質実在として、個別的本質実在としての他の諸民族の諸個体に対抗して措定されているように措定され、直観が包摂するものである限りでは、有機的なものが実在的に真実に包摂されて、有機的なものが自体的に普遍的なものであり、特殊的なものを限定するものであり、特殊的なものをそれ自身において無化するものとなるように措定されている。この限りで民族は総体性であり、自己自身の内なる特殊的なものに対して向けられている。この特殊的なものは、総体性に固有のものである。なぜなら、ここで普遍的なものは自体的なものとして措定されているからである。
 この分離(対内関係と対外関係の区別)は、形式的な分離である。運動そのものはこの両者の包摂の交替以外の何ものでもない。概念の下への包摂においては対立し合うものが個別的なもの(個々の民族)であるが、この包摂から無差異(相互承認)が立ち上がり、そして無差異は個別的なものを、したがって有機的なものの外部に措定されたものを、無差異に固有なものとして観念的に直観するのである。ただし、なお、無差異が個別的なものをまた実在的に自己自身として直観するまでは、もしくは絶対的な同一性が自己を再構成するまでは、特殊性の形式の内で直観するのである(合併しない限り、相互承認しても個々の民族は相対的で、相互に特殊的なものに留まる)。
 対内統治と対外統治のどちらも普遍的な体系の内で捉えられたところの、従属的ではあるが、しかし同時にそれだけで存在する有機的な体系ではない。そして絶対的直観の諸契機は、これら諸契機が有機的なものとして認識されるためには、それ自身が、その内部でかの外と内との形式が従属しているところの体系でなくてはならない。
 こうして総体性における運動の第一の体系(欲求の体系)は、絶対的同一性が感情として完全にその体系の内に隠されて存在する体系(自然の勢位)である。
 第二の体系は普遍的なものと特殊的なものとが相互に分かれることであって、したがって運動の内には二重の事態がある。つまり、特殊的なもの(対抗し合う党派)がそれであるところのものに留まり、こうして普遍的なもの(相互承認)が全く形式的なものにすぎないという事態(正義の体系)であるか、あるいは普遍的なものが絶対的であり、特殊的なものを完全に自分の中に包摂してしまっているという事態(訓育の体系)である。
 (a)
 統治の第一の体系である欲求の体系は、形式的には、普遍的な、物的な相互依存関係として概念的に把握できる。ここでは本来の統治はない。普遍的なものは特殊の内に埋没して、包摂は特殊に外からなされるのではなく、基本的に特殊自身によってなされるからである。こうして、この体系において統治する者は、諸欲求とこれら欲求の各種の満足の仕方との没意識的で盲目的な全体(市場メカニズム)として現象する。しかし、普遍的なもの(知性)はこの盲目的運命を統治せねばならない。
 この全体は、巨視的に考察される大きな諸関係(価値)においては、ある程度、予測は可能である。価値という普遍的なものは完全に原子論的に合算されねばならないために、このように合わされる剰余の個々の種類に関しては、認識の可能性は、単に程度に与り得るにすぎない。しかし、その種類自身の価値からは、剰余が欲求との関係でいかなる事情にあるかが認識されねばならず、そしてこの関係もしくは価値は、こうした剰余を生産することが、これを生産する人々の諸欲求の総体性を満たすところの可能性であるかどうか、これによって一個の人間が生きていけるかどうか、という側面から言っても、同様にまた、或る種の欲求が向かうこの価値が、この価値を欲求する総体性自身と不釣り合いのものでないかどうかという普遍性の側面から言っても、その意義をもつのである。
 自然が安定した価格体系という媒辞を廃棄してしまうときには、統治が同じ安定した媒辞を、そして均衡を固守しなければならない。そうでなければ、民族の一部が普遍的なものに信頼を寄せるに際しての自己の実存を結びつけていた諸欲求の総体性を満たす資格を喪失し、彼らの実存を破壊し、彼らの信頼を裏切ることになるからである。
 この勢位の有機的な原理は個別性、感情、欲求であり、そしてこれは経験的には無限である。この原理がそれだけであり、そして原理がそれであるところのものに留まらなければならない限りで、この原理は己にいかなる限界も措定せず、そしてこの原理の本性は個別性であるから、この原理は経験的に無限である。享受はしっかりと限定されたものであり、かつ制限されたものであるように見える。しかし、享受の無限性は享受の観念性(人間の気持ち)である。そしてこの観念性において享受は無限である。享受は享受そのものとして己を最も純粋な、最も浄化された享受にまで観念化する。教養ある享受は、享受が欲求の粗野を発揮させることで、最も高貴なものを探し求めるか、もしくは準備しなければならない。そして享受の刺激が差異あるものになるほどに益々それだけこの刺激が必要ならしめる労働も規模も大きなものとなる。
 享受のこの観念性は、他在として、生産物の外的交渉の中に異種的なものとして己を現示することで、稀少性と結びつく。そしてこの異種的な仕方での満足も、すでに以前にそれなりの準備を通して自己のものにされた最も快適な仕方での満足も、共に全地球を浪費の内に陥れる。
 最後に、享受の観念性は、客体化された享受、阻止された享受において、つまり占有において、経験的に無限の仕方で己を現示する。そしてこの点を顧みても、一切の限界は享受の場合と同様に無くなってしまう。
 しかしこの無限性には享受と占有の特殊性が対立する。そして可能的な占有はかかるものとして享受の勢位の客体的なものであるが、労働と共に限界をもち、限定された定量であるから、或る場所で占有が蓄積されると、他の場所での占有は減少せざるを得ない。
 この富の不平等はそれ自体としてそれだけで見ても必然的である。いかなる自然的(生命力や諸能力)な不平等も、もしも自然的なものがこの側面に向かうことがあるとすれば、富の不平等として表現されることが出来よう。そして富の増大を目指す衝動は、占有という限定された個別的なものを無限の内に取り上げようとする必然性以外の何ものでもない。
 しかし、この必然的な不平等は、程度に関係し、そして程度の限界以外のいかなる限定にも与らない己の量的性質のために、支配と隷従の相関関係を作り出す。個別的な巨富者は一つの力になる。彼は、汎通する物的な依存性がもつ、普遍的なものに依存しているのであって、特殊的なものに依存しているのではないという、その形式を廃棄するのである(相互依存経済システムからの独立)。
 実在的な普遍性において生産活動を行う機械的労働にあって、純粋に量的なもの、概念にまで個別化されたもの、非有機的なものは、直ちに最高の粗野である。営利の身分の第一性格は、たとえ彼らの外部にではあるが措定された神的なもの(絶対的人倫の理念)に対して、この人々が有機的で絶対的な直観と尊敬をもつことが出来るところにあるが、こうした第一の性格は脱落してしまう。代わって一切の高尚なものを軽蔑するという野獣性(一切の価値を経済的価値に還元し、物事を損得の観点で見る)が入り込んでくる。知恵なきもの(量)、純粋に普遍的なもの、富の嵩が自体的なものである。このとき民族の絶対的な紐帯である人倫的なものは消失してしまう。そして民族は解体する。
 この不平等と、この不平等がもたらす普遍的な破壊に対して、統治は最高度に対策を講じなければならない。直ちに統治は外面的には高い利得を困難なものにすること(課税など)によって対策を講じる。そして統治がこの身分の一部を機械的工場労働のために犠牲に供し、そしてこの一部を粗野(疎外)に委ねるとき、統治は民族の全体を無条件に全体にとって可能なる生命活動の内に維持しなければならない。しかし、こうしたことは最も必然的な仕方としては、あるいはむしろ直接的には、この身分内部に団体を編成することを通してなされるのである。
 物的依存性の関係は絶対的な特殊化であり、或る思惟されたもの、抽象的なものへの依存性である。これに対して団体の編成は生ける依存性を、個体性の個体性への関係(情誼的)を措定する。それは物的な依存性ではない他の、内的で活動的な連関である。この身分が内部で団体に編成されているということは、この身分が己の制限の内部で一個の生き生きした普遍的なものであるということである。
 しかし、統治も普遍的なものとして自身で普遍的な欲求をもつ。それは所有と営利から切り離された第一身分のため、また他の身分に属しながら、統治の機関をなし、専ら普遍的なものにおいて労働する身分のため、そして、普遍的なものの欲求、すなわち住居、道路など、全民族そのもののためのものである。
 しかし、統治はこれら諸欲求を満たすものを入手しなければならない。課税の体系は、直ちに、この体系が絶対的に正しいものであるべきである。課税は正義にしたがって公平になされなければならない。
 このようにして、欲求の体系では普遍は市場メカニズムを通して働くものとして特殊の内に埋没していたが、この課税の問題を通して今や普遍の問題が特殊の中から浮かび上がってくる。
 (b)
 統治の第一の体系では、普遍的なものと特殊的なものとの対立は形式的である。価値、つまり普遍的なものと、諸欲求、諸占有、つまり特殊的なものとは、物件の本質を限定せずして、物件の外に在る。本質は欲求に対する物件の関係に留まる(商品としてもつ物の価値は需給関係で決定されるものとして物自身に固有の価値ではない)。しかし、普遍的なものと特殊的なものとが相別れているこの第二の体系(正義の体系)では、観念的な限定性が本質である。欲求に関係づけられた物件は所有として存在するが、この所有としての物件は、この所有が本質的に特殊的な占有されたものでありながら普遍的なものでもあるように、そして欲求との関係が(欲求は全く完全に個別的なものでありながら)承認されたものでもあるように限定されているからである。物件は私のものである。そして物件は私のものとして無化されてはいず、私は物件との相対的同一性の内に立つ。言い換えれば、この相対的同一性、もしくは無化されていることの観念性(占有)、この客体性は、主体的なものとして、知性の内に在るものとして措定されている。このことによって、この同一性として所有は直観であり、しかも個別的なものの個々の直観ではなくして、絶対的な直観である。第一の欲求との関係は、ここでは客観的な実在性を持つ。私は普遍的なものであり、確立したものであり、存在をもつ。
 この関係の媒辞(偶然的な占有が法的に承認された所有になる媒介)、この関係の実在性は統治である。占有の関係が実在的なものであるということは、一切の自我がこの関係を措定するということであり、関係づけるところの経験的自我が自我の全集合として実存するということである。この集合は、これが持つ量の抽象からすれば、公的権力であり、そしてこの公的権力は思惟するもの、自己意識的なものとして、ここでは司法としての統治である。
 司法としての統治は一切の諸権利の総体性であるが、しかしこの特定の個体の欲求に対して物件がもつ関係という利害関心に対しては全くの無差異を守るものである。この個体はここでは無差異な普遍的な人格である。
 意識の形式における法が法律であり、法律はここでは個別性に関わる。
 法は個別性に関わり、そして普遍性の抽象態である。というのは、個別性はこの法において存立しなければならないからである。この個別性は、個体の生きた個別性であるか、所有の一部という個体の相対的同一性であるか、個別性として、あるいは相対的同一性として措定されている個体自身の生命活動であるか、のいずれかである。
 法律という抽象態は絶対的なものであってはならず、衡平に従ってなされる調停が、当事者たちを満足させ、そして当事者たちの信念と同意をもって到達されるものとして、絶対的なものでなくてはならない。
 民事的司法にあっては、訴訟において絶対的に否定されているものは、専ら限定性そのものであり、限定性となり得るものは、生きた活動、労働、人格的なものということになる。
 しかし刑事的司法にあっては、否定されているものは限定性ではなく、個体性、全体の無差異、生命活動、人格性である。前者の民法の場合の否定は、単に観念的な否定であるが、この刑法の場合の否定は、承認されて存在することがもつ実在性の否定である。なぜなら、総体性に向かう否定は、まさにそれゆえに実在的なものだからである。
 民事上の正義は、それゆえに単に限定性に関わるが、刑事上の正義は、限定性の他に、また普遍性の否定と、そしてこの普遍性に代わって措定された普遍性を廃棄しなければならない。すなわち対抗に対しては対抗がなされねばならない。
 このような廃棄が刑罰である。そして刑罰はまさにそこにおいて普遍性が廃棄されたその限定性に即して規定される。
 民事裁判は、権利の確定を目指すものだから、その本質は普遍性にあり、刑事裁判は犯罪を犯したのは誰で何時かなどを確定することを目指すから、その本質は個別性にある。そして戦争は正義がどちらにあるかを戦場における勝敗で決定するものとして、一方では民事裁判と同じ権利の確定の面をもつが、他方敗者を犯罪人扱いするから刑事裁判の面をももつ。だから普遍と個別の同一性であり、総体性である。
 (c)
 統治の第三の体系においては、普遍的なものが絶対的であり、そして純粋に絶対的なものとして決定的なものである。第一の体系では、普遍的なものは粗野で、単に量的で、叡知を欠いた普遍的なもの(市場メカニズム)であり、第二の体系では、普遍的なものは概念の普遍性(正義)であり、形式的普遍性であり、承認することである。とすれば、絶対的に普遍的なものにとっても差異は存在するが、この差異は普遍的なものが自らの運動において廃棄する差異であり、表面的な形式的な差異である。そして諸々の差異あるものの本質は絶対的な普遍性である。このことは、第一の体系にあっては、差異あるものの本質が感情、欲求および享受であり、第二の体系では個別者であり、形式的に絶対的なものであるところに示される通りである。普遍的なもの、特殊的なものを普遍的なものへ結びつける力は、その本質から見て、特殊的なものと同様に規定されている。
 教育、陶冶および訓育。前者は才能と、諸々の発明と、学から、形式的には成り立つ。実在的なものは全体であり、絶対的に普遍的なものであり、民族という自己内で自己運動しているものであり、絶対的に陶冶するものであり、学の真に絶対的な実在性である。諸々の発明が単に個別的なものにしか向かわないという事情は、個別的な諸学も同様であり、そして諸学が哲学として絶対的である場合でも、それでも全体としてこれら諸学は観念的である。一切の仮象の無化を伴ってなされる真理の内での陶冶は、自己を形成し、相語る自覚的な民族である。他方は、個別的な場面でなされる訓育としての公安行政である。偉大な訓育は普遍的な習俗であり社会秩序であり、戦争に向けての陶冶であり、そして個人の忠誠心が戦争において試されることである。
 子供の出産。或る民族がこの民族として自己自身にとって客体的になること。統治、民族がある他の民族を産出すること。

 [自由な統治]
 絶対的統治と普遍的統治とが、その本分を尽くす時、普遍と特殊とは融通無碍に相即する。そこに自由の実現として自由な統治が成立する。有機的原理は自由である。
 自由な統治の可能な形式。民主政治、貴族政治、君主政治。
 どの形式も不自由なものとなり得る。衆愚政治、寡頭政治、専制政治。全ての統治形式を通して、外面的な面と、機械的な面とは同一である。区別を形づくるものは統治の被統治者に対する関係である。統治者と被統治者の本質が同一であるかどうか、対立の形式が単に表面的なものにすぎないかどうか、ということである。
 君主政治は人倫の絶対的な実在性を一個人の内に現示するものであり、貴族政治はこれを多数者の内に現示するものである。貴族政治は絶対的な国家体制からは、世襲制度によって、というより一層、領地をもつことによって区別される。そして貴族政治は絶対的な国家体制の形式を具えはするが、その本質を具えないがゆえに、貴族政治は最悪の国家体制である。民主政治は、人倫の絶対的な実在性を万人の内に現示するものである。ゆえにそこには占有との混和がある。そして絶対的な身分の分離はない。絶対的な国家体制にとっては、貴族政治の形式か、君主政治の形式かはどうでもよいことである。絶対的な国家体制は諸身分の有機的組織化における民主政治でもある。
 君主政治においては一つの宗教が君主と並び立たなければならない。君主は全体の同一性であるが、しかし経験的な形態においてのそれである。そして君主が経験的であればあるほどに、民衆が野蛮であればあるほどに、益々君主政治は権力を具え、益々独立した仕方で己を構成するようになる。民衆が自己自身と、また自然や人倫と一体のものになればなるほどに、それだけ益々民衆は己の内に神的なものを取り入れて、民衆に反抗するこの君主と並び立つ宗教を色褪せたものにする。そして続いて世界および自己自身との和解を通して、無宗教と悟性とが具える想像力の欠如を潜り抜けて行く。
 貴族政治にあっても、事情は同様である。しかし、貴族政治が具える家父長制、普遍概念のために、想像力や宗教はほとんどない。
民主政治では、確かに絶対的宗教はありはするが、ただし確立していない宗教、あるいはむしろ自然宗教である。人倫的なものは自然的なものと結合し、そして客体的な自然との結合は、宗教を悟性にとって接近可能なものたらしめている。ある客体的なものとして自然を措定することにとっては(自然から脱皮しつつあるエピクロスの哲学にとっては)、宗教は純粋に人倫的なものでなければならない。こうして絶対的宗教の想像力、またジュピターやアポロやヴィーナスといったものを産み出した古代ギリシア民主政治下の芸術は自然的なものと人倫的なものの結合であろうが、まだホメロスは自然的であって人倫的ではない。この分離は十全なものでなければならない。神の人倫的な運動は絶対的なものでなければならない。ホメロスの神々のように犯罪や弱さではなくして、十字架上での磔のような絶対的な犯罪や死でなくてはならない。
 
 『人倫の体系』続稿
 
 ヘーゲルは精神哲学の結びをもって人倫の体系自身の結論にした。それは差し当たり、ヘーゲルが、民族の内における哲学の必然性を、戦争を観念的に補完するものとして証拠立てようと努めたことによる。死は限定された個別性を廃棄するものであり、それゆえに絶対的な労働は死のみである。ならばこそ国家における勇気は絶対的な犠牲をもたらすのである。しかし戦って死ななかった者に対しては、死んでいなかった、己の個別性を自己享受した、という恥辱が残るとき、真理を絶対的に認識することとしての思弁だけが、個人的自立的な生の限定を脱して、無限者の単純な意識が可能となる形式で在り続けるのである。  
 「民族の諸個人の絶対的意識、これら諸個人の生ける精神は、その形式からも、その内容からも純粋な絶対意識、絶対精神でなければならない。そうすれば民族精神は自然的および人倫的な宇宙の精神となる。こうして初めて精神は、絶対的に、その絶対的な自己同等性のうちに、その単純な理念のエーテル(霊気)のうちに還帰し、そして哲学の終わりは哲学の始元のうちに還帰していることになる。」
 しかしこの結論が口頭で伝達される段になると、ヘーゲルはこの結論に達しなかった。彼は国家体制の区別の概念をさらに練り上げて、そして貴族が君主の尊厳に対して服従の姿勢を取りながら無言の闘いで抵抗する限りで、君主政にとっての自由人の国家を貴族政として規定した。
 しかし、特に彼はその単純さと明快さで際立った仕方でもって、宗教的礼拝の概念を、そこにおいて民族が最高の自己享受に至るものとして詳しく展開した。彼は宗教の内に、客体的なもの自身の実在性が、したがってまた主体性と特殊性とが、止揚されたものとして措定されることを望んだ。もしも主体性が、この普遍的な理性性の最高の領域における否定的自由(主体が客体を否定するところに成立する自由)だとして依然確定され続けるようであれば、精神を精神の形態で現出させることは真剣には取り上げられないだろう。これに反して宗教の本質は精神が己の諸個体のいかなるものをも恥じず、誰に対しても出現するのを拒否しないということ、そして各個体が精神を超える力であって精神を祈りによって呼び出すことが出来るということにある。しかし、主体性の廃棄は主体性を冷酷に無化することではない。主体性の単なる(経験的)個体性を無化するにすぎず、主体性の純粋化に他ならず、これを通して精神の絶対的本質実在の絶対的な享受に至るのである。
 宗教において精神の理念的な形態は実在的であるが、しかし精神の実在的側面は理念的なものであるからして、そして宗教においては精神は個体に対して現象するものであるからして、精神は個体にとって差し当たっては客体的な形態(神)をもつが、しかし、この客体的なものは、民族の内に民族の精神として活動し、生き、そして万人において生き生きと活動しているものである。学においても、精神は客体の形態で、存在の形態で現象するが、まさに同じ精神が主体的なものでもある。それゆえに、実質的には、知は宗教よりも優先する何ら特別なものを持たない。宗教の本質は精神を経験的現存在の拡散から集中の最高度の点の内に収斂させ、そして直観と思惟の内に客観的に現示するのであり、そこで経験的現存在は精神自身と精神固有の直観とを享受し、そしてこの享受において同時に実在的となるのである。すなわち、精神は個体の内に、個体は精神の内に自己を認識するようになるのである。経験的現存在の総体性として客観的に自己を現示することで、精神にとって神の本質は歴史をもつことになる。神の生きていることの証しこそ、諸々の出来事や行為である。民族の最も生き生きした神とは民族の国民神である。この国民神の内で、民族に対し神々しく現象しているものはただ単に民族の純粋な精神であるだけではない。同時に民族の経験的現存在も、そして個々人の総和であるこの現存在の不正直や優柔不断も聖化されて現象するのである。宗教においては精神は学の理念性の内に存在せず、実在性との関係において存在するゆえに、精神は必然的に自身で限界づけられた形態をもつ。そしてこの形態がそれだけで固定されるとき、この固定された形態はそれぞれの宗教にあって実定的な側面を形成することになる。それゆえに、宗教的伝統は二重のものを表現することとなる。つまり、一方では神の思弁的な理念を表現するが、他方では民族の経験的現存在から取ってこられた限界づけを、換言すれば芸術が、一般が引き受けねばならない理念の限界づけとは違った限界づけを表現することとなる。こうして宗教が宗教である限りで、宗教は学や芸術を己から排除するが、それだけに宗教は芸術や学を補完するものとしての活動をする。つまり礼拝は主体性と自由とを最高度の自己享受にまで高揚させるのである。それは礼拝が神奉仕として偉大な精神に自己の個別性の一部を犠牲に供することで、この自己献身を通して残りの所有を自由ならしめるからである。犠牲における個別性の無化の実在性を通して、主体は自分の高揚が単に思想の上だけのものであるという欺瞞の一面性から身を救い出すのである。この活動、この世における人間の儚いが、効用のある活動に対する皮肉(この世に対する蔑視)が、和解という宗教(キリスト教)の根本理念である。個別性が理性的な普遍性に対して自己主張しようとする限りで、個別性は罪となり、犯罪となる。ここでは精神は専ら刑罰における運命としての己を和解させるのである。和解は刑罰を超えて高いものであり、それゆえに美しい必然性(行為に対する生の反作用)として現象する(犯罪は発見されなければ罰せられない)。ところで和解は一般的に専ら精神に向かうものであり、限定された現存在の鎖(自然では一切が不可逆)を廃棄することは出来ないからして、和解によっても運命には何の変化も起こらない。ただ経験的現存在の全範囲をこの戦闘に賭けるという、運命と戦闘するエネルギーの本質は、また運命との和解の可能性でもある。なぜならば、精神は戦闘そのものの人倫性を通して運命の手から自己を振り解いたからである。
 宗教は、理性の普遍的な三次元に即しながら、風土的な変容の内部において、つまり宗教の経験的な差異に応じて、世界史的に言って次の三次式において登場せざるを得ない。
 (一)同一性の形式において、精神と個体性における精神の実在存在とが根源的に和解している仕方において、
 (ニ)精神が自己の同一性の無限の差異から始まって、差異から相対的な同一性を構成することで和解するという形式において、
 (三)この同一性がかの最初の絶対的な同一性の下に包摂されると、この同一性は、精神の形態における理性と、実在存在における、あるいは個体性における理性との一体存在を、根源的なものとして措定し、そして同時に、理性の無限の対立とこの一体存在の再構成を措定するであろう。
 第一の次元においては、根源的和解として、宗教は自然宗教である。自然宗教の汎神論の想像力にとって、自然は自体的にそれだけで精神であり、神聖なものである。精神としての神は、いかなる元素(地水火風など)からも逃れ出ていない。個々の個体は、相互の上に呪詛をかけ合っているかもしれない。しかし、自然のいかなる普遍的なものも、神から見離されてはいない。個々の瞬間瞬間に、神はこうした諸民族に対して立腹することはあるが、しかし彼らは和解を確信している。生と交渉することは神々と対話することであり、神々と相互に与え合ったり、受取合ったりすることである。そして、どんな外面的な運動も、運命の暗示に富んだ言葉である。神々の諸形態は、諸々の現実の内にも、歴史的見解の内にも、思想の内にも解消され得ない。美しき神話の諸理想の永遠性は、神話がもつ完璧な芸術美に基づくのでも、この美を表現する諸理念の真理に基づくのでも、これらの諸理念が帰属する現実に基づくものでもなくて、まさにこれら全ての同一性の内に、これら全てのものの不可分離性の内に基づくのである。
 しかし、第二に、この美しい神々の世界は、この世界に生命を与えていた精神と共に没落せざるを得ない。そしてただ追想だけが残ることになる。精神と精神の実在性との統一は分裂せざるを得ない。観念的な原理は普遍性の形式の中で己を構成せざるを得ないのに対して、実在的な原理は己を個別性として確立せざるを得ない。そして両者の間にあって自然は冒涜された死骸として横たわって留まらざるを得ない。精神は生ける自然の内にあった自分の住居を捨てて、生ける自然に抗する勢位として高揚せざるを得ない。古代の諸々の人倫的有機的組織、自由な諸国家は、その内に理性が精神の形態において客体化したものであったが、今やその生命力を失ってしまっている。その結果として、こうした有機的組織、国家の神々は彼らから逃れ去ってしまい、自然宗教のパンテオンは空虚なものになってしまった。今やこの神々が不在になった大地の上で、そして生ける国民精神と国家感覚と共に、神が退位した自然に対する一切の畏怖も失ってしまった種族の下で、無限の人倫的な痛苦の感情(不幸な意識)が現れざるを得ない。この無限の痛苦の時代は、ローマ人が諸民族の生ける個体性を打破し、これによって彼らの神々を追放し、彼らの人倫を破壊し、そして個別化した上に自分達の支配を押し拡げたときに到来した。いかなる和解も見出せないこの個別化と、いかなる生命ももたないこの普遍性(法)の時代、開拓された大地の至るところに平和が支配して、この世界に退屈が覆った時代、こうした時代においては根源的な同一性は己の永遠な力を分裂から己の痛苦を超えて高揚させ、そして己に固有の直観に再び到達しなければならなかった。そうでないならば、人類は自らの内部で没落せざるを得ない。自然であることを止めた世界の内にエーテル的理性が甦った現象の最初の舞台は、当然、現存在の全経歴を通して諸民族の中にあって最も排斥された民族であらねばならなかった。なぜならば、この民族において痛苦は最も深いものがあり、それだけに彼らの訴えは全世界に理解されやすいし真理を持たざるを得なかったからである。
 キリストは彼の全時代の苦悩をその最深奥の深みから語り出すと共に、彼が内に抱く精神の神性の力と和解の絶対的確信とを、この苦悩の上に高め、そしてこの自己の信念を通して他人の信念を覚醒させたことで、宗教の開祖となった。彼の時代の苦悩を、彼は俗世となった自然を絶対的に侮蔑する中で語り、そして和解への絶対的信念を、彼が神と一体であるという確信の中で語った。彼が俗世に対して語った侮蔑は、死という運命を呼び寄せた。そしてこの死が俗世への侮蔑を正当化するものとなり、この侮蔑を固定した支点たらしめるものとなった。すなわち、自然からの神の退位、そこから生まれた俗世に対する侮蔑と、この無限の分裂の最中にあっても、人間は絶対者と一体であることの信念を自己の内に抱いているという、この二つの必然的な要素が新しい宗教の枢軸とならざるを得なかった。この人間イエスにおいて俗世は再び精神と和解したのである。全自然が神性を欠いたものとなっていたので、この人間の自然(本性)だけが神的なものであることになり、そして自然は彼から発してだけ再び清祓された。しかし、神的ではないという人間の確信は彼の内にだけ神性を見出した。そして個体性が絶対精神と一体となることは彼の人格性と結びつけられざるを得なかった。こうして、彼の現存在がこの宗教の始元そのものとなったのである。この宗教が向かった顕著な方向は、差し当たっては、俗世と国家として現実に存在する普遍的なものに対する侮蔑であり、そしてこの侮蔑の象徴が、この俗世にとっては、絞首台として最も屈辱的なものであり、最も不名誉なものであった十字架であった。
 この絶対的分離の無限の痛苦には別の側面がある。それは神は人間の姿で現れている、そしてこの個別的な形態は類の代表者であり、この形態の内で人間的本性は自己と和解しているという信仰における痛苦の和解である。この個別的で人間的な形態は、己の歴史において、人類という経験的存在の全歴史を表現した。この形態が人類の国民神となり得るためにはそうせざるを得なかったのである。しかし、この個別的で人間的な形態は、この歴史を、同時にこの歴史が神の歴史であるということで専ら表現したのである。すなわち原理は無限の痛苦であり、自然の絶対的な分裂である。この痛苦なしには、和解は何の意義も、何の真理も持たない。したがってこの和解が宗教の勢位であるためには、宗教は永遠に和解すべく、永遠にこの痛苦を産出せざるを得ない。宗教は世俗の経験的状態から出発した。そしてこの俗世の経験的状態は、この和解を目指す宗教自身の闘いを通して廃棄されねばならない。しかし実際に宗教によってこの俗世が幸福になり和解が進むならば、これに伴って宗教自身も廃棄されてしまう。宗教は無限の痛苦という原理を、世俗の運命を、必然的に、犯罪者としての死を遂げた自分達の神の歴史の内に持つ。十字架上で死を遂げた人物は同時にこの宗教の神であり、かかる人物として彼の歴史は神の退位した後の自然の無限の苦悩を表現しているのである。神的なものは生の通俗性の中に突き当って、神的なものは自ら死んでしまったのである。地上において神自身が死んだ、という思想は専らこの無限の痛苦の感情を表現するものであって、それは神が墓から復活したという思想が、この痛苦の和解の感情を表現するものであるのと同様である。神は自らの生と死とを通して辱められたが、彼の復活を通して人間は神化されたのである。かの無限の痛苦とこの永遠の和解は、この宗教を個々人の偶然的で経験的な現存在に依存させるわけにはいかないのである。この宗教は自分を礼拝として構成し制度化しなければならず、この礼拝を通してかの苦痛は喚起され、この和解が配分されることになった。自然宗教は、根源的な和解が個々人の内で如何程までに生き生きと息吹いているかを偶然に委ねざるを得ない。しかし無差異の調和の再構成を目指す宗教は、自然に対して暴力的であり、己のもたらす和解が再構成された和解であることを可能にするために、かの無限の差異を産出しなければならないのである。
 このことは、キリスト教においては、完成された知恵をもって起こった。制度化された状態の無限の総和を通して、人間は神の死の痛苦と一切の生命の死滅の痛苦にまで導かれ、そしてこの死から再び人類が彼において和解した神人と一体となるまで覚醒させられ、聖化されるのであるが、このことが神人の身体を食べ、彼の血を飲むという、合一の最内奥の仕方でもってなされるようになったのである。神の歴史は全人類の歴史であり、各個人はこの人類の全歴史を潜り抜けて行く。再び清祓された人間から発して、全自然も聖化され、再び覚醒された生の寺院となる。万物に新しい清祓が与えられるのである。君主の支配権も宗教から清祓を受ける。君主の笏には一個の神聖な十字架がつけられている。あらゆる土地には神の特使達が配置され、彼らの足跡によって印づけられる。各々のものが自己自身の再度の和解の神聖な歴史を誇ることが出来る。そして各々が新しい清祓を個体化した。個々の活動の一切に、最高の活動も最低の活動も一切のものに、かつて喪失してしまった清祓が新たに与えられる。一切の上にかけられた呪詛が解かれて、全自然が恩寵に包まれ、そして全自然の痛苦は和解される。
 このようにして再構成された宗教を通して、自然宗教においてだけ現実存在することが出来る精神の理念性の形式である芸術に、他の側面が付け加わる。すなわち思惟の形式の下での精神の理念性である。民族宗教は思弁の最高の諸理念をただ単に神話として表現するだけでなく、諸理念の形式の内に表現されたものとしても保持しなければならない。民族宗教は絶対者を三者性という形式の内で尊崇するのである。すなわち、父の原理、絶対的な思想としての神、次いで神の実在性、神の創造、永遠なる子の中で神を尊崇する。そして、この永遠なる子は神の実在性として二つの側面をもつ。一つは神の本来的な神性の側面で、この側面によるとき神の子は神だということになる。他の側面は、神の個別性の側面で、これは世界である。最後はこの世界、この客体的なものの永遠な思想との、聖霊としての精神との永遠な同一性の側面である。宗教は無限の痛苦から出発しているがゆえに、この痛苦の和解は同時に和解された神において客観的にこの愛という関係をもつと共に、この愛が己の幸福を神性の内に見出すとき、この神性は神自身の母へとならなければならなかった。
 カトリシズムにおいて、キリスト教は美的宗教となった。プロテスタンティズムは、清祓の詩、聖化の個体化を廃棄し、普遍性の色彩を再び祖国として聖化された自然を乗り越えて注ぐことで、宗教的な祖国と神の現象とを再び固有の祖国から遥かな距離に追いやった。プロテスタンティズムは無限の痛苦、和解の生命活動と信念と平和とを無限の憧憬に変えてしまったのである。それは宗教の上に北方の主体性の全性格を刻印づけた。プロテスタンティズムは一般に痛苦とその和解との全円環を憧憬の内に変貌させたが、しかしこの憧憬を和解の思惟と知の内に変貌させた。プロテスタンティズムでは否応なしに痛苦が喚起されるという必然性が脱落してしまっているので、無限の痛苦とその和解としては、プロテスタンティズムは偶然性に委ねられてしまっているからである。こうしてこのプロテスタンティズムという宗教形式は現存在の現実と経験的和解の内に移行することが出来て、そして経験的な現実存在と日常的な必然性の通俗性の内に無媒介的に何ら妨害されることなく落ち込むことが出来たのである。かの宗教的高揚と経験的現存在の聖化、俗世の安息日は消滅してしまい、生活は通俗的で神聖ならざる仕事日となってしまったのである。
 かの美と聖化とは没落してしまっているので、それらは元に戻ることはできず、さりとて悼まれることもならず、ただこれらが消え去っていく必然性が認識されるだけである。まるで、これら美や聖化が道を拓くことで、美や聖化に取って代わって登場することになるより高きものが予感されるだけであるかのように、すなわち、これまでのところから、再構成は痛苦の出発点である対立の内部で生起し、そしてこれによってこれまでの宗教の全形式が初めて相対的な対立の勢位に立つようになるように思われる。というのは、自然は聖化されはしたが、固有の精神を通してではなかったからである。自然は和解されはしたが、しかし自然はそれ自身では依然として前と同様に神聖ならざるものに留まっている。清祓は外なるものから到来するのである。
 全精神的領域が固有の根拠と土台から精神的領域の内へ立ち昇ってはいない。無限の痛苦は聖化においても恒久的なものであって、和解そのものは天に向かってなされる単なる嘆息にすぎない。この理念的な領域は、一切の歴史の偶然性と一切の諸民族の想像力と風土とが寄り集まって出来た無規則で空想的な国を形成している。この国には自然も服属させられているが、この自然にとってこの国は何の意義も何の真理ももたない。それは一民族の諸個人の精神が、この国において己の権利を主張するということがないのと同様である。精神は固有の想像力を、固有の清祓を欠くと同様に欠いているのである。
 プロテスタンティズムでは、こうした関係についての意識が哲学を通して突然現れた。哲学を通して、今や初めて、理性は己の生命活動を、そして自然は己の精神を取り戻すのである。
 プロテスタンティズムが疎遠な清祓を脱ぎ捨ててしまった後では、精神は己を精神として固有の形態において聖化することが出来る。そして己との根源的な和解を新しい宗教の内で敢えて作り出すことが出来る。そして、無限の痛苦と、その対立の重みの一切が、この宗教の内に吸い上げられる。しかも濁るところなく純粋に融け込むのである。それは自由な民族が存在するようになり、理性が己の実在性を、自分自身の土台に立って、自分自身の尊厳から自分に固有な宗教的形態を採用しようという大胆さを持ち合わせている人倫的精神として再発見するようになった時のことである。各個人は世界が形成され続ける絶対的必然性の連鎖にあって盲目的な一分肢にすぎないが、もしも各個人が、この偉大な必然性が何処に行こうとしているのかを認識し、そしてこの認識から必然性の形姿を呼び出す呪文を唱えることを学ぶならば、このときに限って、誰でもよりもっと長く偉大なこの連鎖を支配するところまで高まることが出来よう。この認識、つまり数千年に亘って世界と世界の形成の全形式を支配してきた苦悩と対立の全エネルギーを同時に己の内に包み込み、それで己を高揚させてこの苦悩と対立を超えるところの認識、こうした認識を与えることが出来るのはひとり哲学のみである。





























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