人倫の体系について (2)
『自然法論文』は、近代自然法理論との対決を主眼としたため、絶対的人倫の体系に関しては必ずしも明確な叙述がなされていなかった。しかし、絶対的人倫の理念が認識されるためには、絶対的人倫の自然法の学の体系の叙述がなされねばならない。この体系的叙述を試みているのが『人倫の体系』である。そこにおいて、第一に直観によって民族的普遍が絶対的統体として与えられ(同一性あるいは無差別の段階)、次に民族的普遍が、概念の下へ直観が包摂されることによって、特殊性の形式あるいは個別者にまで分裂し、各人が実在性を得る(差別の段階)。第三に、個別者の中に衝動として宿る民族的普遍が、直観の下へ概念が包摂されることによって回復され、その結果、最初の直観は概念的分析を通じたものとして、感性的特殊性、主観性を洗い落として理念にまで浄化される(生動的無差別の段階)、という過程を辿る絶対的人倫の体系的叙述がなされる。
まず、ヘーゲルは、その最初の動きについて、「絶対的人倫の理念を認識するためには、直観が概念に完全に適合しているものとして定立されなければならない」と語った後、次のようにその手順を示している。「第一に、直観は概念の下へ包摂されねばならない。このことを通じて、絶対的人倫は自然として現象する。というのは、自然それ自身は直観の概念の下への包摂に他ならないからである。そして、それゆえに、このことを通じて、直観、統一は内的なものであり続け、概念の多様性と概念の絶対的運動とが表面に出てくる。このとき、この包摂において、民族である人倫の直観は一つの多様な実在あるいは個別者、つまり一個別人となる。そして、結果として、自然の自己自身への絶対的な回復は、この個別者の上に何か漂っているもの、あるいは何か形式的なものとなる。というのは、形式的なものとは、まさしく、自己自身において絶対的概念すなわち絶対的運動であり得ないような統一だからである。」ここにおいて自然とは、直観の概念の下への包摂、つまり、民族的普遍の特殊性あるいは個別者への分裂、それによって、個別者が得た実在性の形式を意味している。この事態を逆の側からみれば、自然とは、直観の下に概念が包摂されてあることを意味する。つまり、そのような人倫的自然こそ、ヘーゲルからみれば、本来的自然である。そこで、次にヘーゲルはこの『人倫の体系』において試みようとする体系的叙述について、次のように述べている。「しかし、人倫的なものは、即かつ対自的に、その本質からいって、自己の内への差別の取り戻し、つまり再構成である。同一性は差別から現れ出、その本質からいって否定的である。」
そこで、まず、ヘーゲルがこの『人倫の体系』で行おうとしているのは、人倫的統体が差別から自らの同一性を回復しようとする運動を叙述することである。しかも、それを個別者が人倫的全体の中に自らを見出していくその媒介の過程を叙述することによって、行おうとする。それゆえ、ヘーゲルはその媒介の過程を欲求と衝動という人間の自然的活動から始める。そしてそれはさらに、労働、道具、占有、交換、および夫と妻、両親と子供、支配と隷属という媒介の系列を通って、家庭へ至る。家庭は民族という絶対的人倫に至る前段階である相対的人倫における最高の全体性である。そして、回復された絶対的人倫についての叙述が続く。
確かに『人倫の体系』においても、『自然法論文』と同じく、依然として、民族という絶対的人倫を唯一の肯定的なものとして立て、そこから否定的なものとしての個別的なものとの関連を問題にするという方法は、本質的には変わっていないのであるが、しかし、そこには、続く転換を予期させるものがすでに現れている。その一つの現れとして、ヘーゲルは、絶対的人倫の自己の内への自然の絶対的取り戻しを、概念の弁証法的運動の成果として捉えようとしている。その際、例えば労働の概念などが、これまでと違って体系構成に重要な意味を持ってきている。
ヘーゲル自身は、『人倫の体系』において、非常に晦渋な表現ながら、労働の概念の役割について次のように述べている。「したがって、この活動においては享受が捨象され、言い換えれば享受に至らない。というのは、ここにおいてはそれぞれの抽象が一つの実在、有だからである。つまり、客体は、客体一般としては破棄されないで、ある他の客体がその代わりに定立される。というのは、抽象としてのこの廃棄には、客体はない、すなわち享受はないからである。しかし、このような廃棄することこそ労働である。・・・労働においては欲求と享受の差異が定立されている。つまり、享受は阻止され、かつ引き延ばされている。すなわち享受は観念的なものとなり、すなわち一つの関係となる。」
つまり、ここにおいては、労働は直接性の放棄、人間の自然性からの超出を意味する。すなわち、人間は、欲求とその享受の間に労働を挟むことによって、直接的な欲求が阻止され、引き延ばされることによって、自らの自然的直接性から抜け出すことができるのである。この事態こそ、ヘーゲルによれば、人間が人間になるということを意味するものである。ここにおいて、労働は、もはや独特の身分と結びついた単なる従属的な行為ではなく、人間の精神の教養課程の中心的契機となっていくのである。
弁証法という言葉が初めて登場する『自然法論文』では、弁証法とは、関係の中で考察された人倫的なものが自分自身を解消するという、否定的なものであった。そこからまた、関係そのものが自分自身を否定することになるから、関係はそれ自体ではあり得ないことが明らかになった。つまり、弁証法とは、概念による規定そのものに自己否定が含まれていることを顕わにするものである。この意味での弁証法の用法が、『人倫の体系』においても登場してくる。すなわちそこでは、限界を克服することはあらゆる限界づけを普遍的なものへと取り込むことであるから、一面では肯定的であるが、他面ではまた限界づけの否定であるともいえる。「弁証法とは、純粋に否定的なことであり、それは、観念として認識することであり、限界を現実において克服することなのである」。ここでもまた、弁証法とは限定することの否定を意味しており、固定して対立するような限界づけそのものを廃棄することなのである。
しかし、ヘーゲルは、否定に留まることなく否定そのものを再び否定して、人倫の限定された形態を絶対的なものとして生み出そうとしている。つまり、否定的なものが、否定的なものという自らの規定を廃棄することによって、否定を克服するものとしてその真実の姿を現わしてくる。したがってそれは、現実にある制限を否定することでありながら、より高い段階へと、その限界を乗り越えていくことである。これは、否定に留まることなく、対立するものとの完全な統一によってその限定された形態を克服していくことであり、対立から否定的なものを取り除いて、対立を現実という場面において肯定的なものへと転化することなのである。このようにして、媒介された人倫の形態は対立する規定を自分の内に取り込んで、ついには絶対的なものとして現れてくる。
絶対的なものとして理解された人倫は、普遍的なものを特殊的なものの中へ、特殊的なものを普遍的なものの中へ包み込むことによって、両者を統一する。このための過程は、『人倫の体系』の中では、一つには直観が概念を包摂することとして、もう一つには逆に、概念が直観を包摂することとして、両契機による互いの交換として描かれている。しかしそこには、異なった二つの契機を用いることによって、すでに両者の違いが前提されている。だがその際、直観を普遍的なものと理解するのでもなく、概念を特殊的なものと理解するのでもなく、いずれにも普遍と特殊という二つの契機を設定することによって、一方では、直観が概念のもとに包摂され、他方では、概念が直観のもとに包摂されることになる。つまり、ここでは、直観と概念の統一を表すような絶対的な人倫を構成するためにも、両者が対等のものとして設定される必要がある、ということなのである。
絶対的な人倫において、直観と概念、人倫的なものと物理的なもの、知性的なものと感覚的なものとが一致するのであれば、両者の間にある差異は、体系的な展開において統一へともたらされることになる。いずれのものも普遍的なものであり、かつ特殊的なものとみなされるから、一方のものが他方のものに従属していながら、また逆に、他方のものが一方のものに従属していると考えられる。普遍的なものを直観として、特殊的なものを概念と見なして、両者を区別することもできるが、その場合には、直観及び概念はただひとつの側面にすぎず、そこでは、主観と客観の統一が表されているのではないから、直観と認識は同等ではないことになる。それゆえ、人倫的なもののもつ特殊な形態を展開するためにも、普遍的なものと特殊的なものとを互いに関係させることが必要となる。そうであれば、両者の相違は、二つの方向に全く同じように展開して最後には統一されることになるであろう。ヘーゲルは、このような人倫的な全体を、普遍的な民族と特殊的な個人との統一と理解して、次のように述べている。「民族という生きた統一の中では、自然のもつあらゆる相違が消え失せて、個々のものは、いずれのものにも自分自身を見出し、主観と客観の最高の統一へと達するのである」。このようにして、直観と概念を結合し、普遍と特殊を統合する絶対的な人倫は、民族という社会的共同体の中に求められるのである。
それと比べて、物理的な自然においては普遍的なものが直観として捉えられ、特殊的なものが概念として捉えられるとしても、そこでは、相互の交換が為されることはないので、人倫的な統一が形成されることはあり得ない。したがって、精神の姿をとって現れることのない自然は人倫という形態をもつことはできない、といえる。自然のもつ統一は特殊的なものと相対的な統一を形成するだけであり、それに対して、精神のもつ統一は自然のもつ部分的な統一を絶対的なものへ引き下げることによって人倫を構成するに至る。自然は、これによってのみ限定された形式を克服して、人倫的な統一へと達することができるのである。
しかも、ヘーゲルによれば、人倫の共同体においては個別的なものが無限なものと一致して、この一致が自覚を伴って現れてくるという。これは、個別的なもののもつ限界が克服されて無限なものへと達することを意味しているだけではない。さらに、個々のものを経験的に見ることから、それを克服して、自らを無限なものとして見ること、つまり、知的直観がここに成立しているのである。ヘーゲルは、このような自己認識を、物理的な自然においては自らの肉体を見ることであり、人倫的な自然においては自らの精神を見ることであると説明している。人倫的な共同体においては、経験的に見ることと知的に見ることとが一つであるが、このような一致は、生きたものにおいてのみ可能である。生きたものとは、それ自身において対立しつつ統一しているものだからである。そもそも生とは、単一なものと多様なものとの統一を意味していた。したがって、生をもつ限りで、普遍的なものとしての精神が個別的なものにおいて現実のものとなり、個々のものにおいて直接に認められるのである。この統一は、自然においては内面に留まっているが、精神が自らを実現する人倫においてはもっと内容豊かに、意識の中へと現れてきて、自覚されるに至るのである。
したがって、絶対的な人倫とは、多様なものからなる現実を統一して、自分の内へと取り戻す運動であるといえる。統一の取り戻しが、自分の内に閉ざされた絶対的な全体を形成するのであり、ヘーゲルはこのような全体を、個々人を一つにまとめる民族の内に見ているのである。人倫の理念が、特殊なものの内に同一を認める民族として現れてくるにしても、民族という概念そのものは、あらゆるものが普遍的なものへと包み込まれる一つの関係として理解されている。そこでは、普遍的なものが個別的なものを取り込むことによって両者が一つになり、普遍的なものの力が個別的なものを巻き込むことによって両者を同一のものとするような統一が形成される。ヘーゲルは、このような統一を絶対的な統一と呼んでいる。そこから、個別的なものを普遍化する民族とは、自然のもつあらゆる相違を克服する、生きた統一として特徴づけられる。しかも、そこにおいては、個人はいずれの他者においても自らを認めて、それによって主観と客観の統一へと到達するのである。したがって、この一致とは、市民の平等というような抽象的なものではなく、むしろ、特殊なものにおいて具体的に示されるものでなければならない。そこでは、統一の内に吸収されない特殊なものはあり得ず、かつ、個人のもつ特殊性は普遍的なものに対応していなければならないのである。
ここからヘーゲルは、民族を構成する要素をその担い手に従って区分した上で、それぞれの要素を検討していく。それによれば、人倫の共同体は、それを支える社会的な担い手、つまり、身分に従って区分されるのだという。第一の身分である公民は普遍的なものを生み出すのであるから、限られた欲望の充足に満足するのではなく、直接に民族の全体に奉仕するものである。その結果、そこでは個人のもつあらゆる特殊性が否定されることになり、特殊性を抑えて普遍性を貫徹することになる。それに対して、第二の身分である市民は、特殊な欲望と財産の獲得のために普遍的なものを廃棄する、否定的なものである。これは所有に固執するものであるから特殊なものとみなされる。そして、第三の身分である農民は直接に生産と結びついているから、第二の身分がなす消費という否定的な活動を再び否定することになる。このように、否定を打ち消す積極的な活動の成果は、生産物という普遍的なものとなって第一の身分へと媒介される。そこで、第三の身分を介して第一の身分と第二の身分の対立が解消されることになり、三つの身分からなる社会全体の均衡が保たれて、人倫の体系が安定を保つことになるという。
『人倫の体系』では最初に「関係に従った絶対的人倫」として個人の種々の態度及び家族的関係が、すなわち総じて国家成立以前の人間生活が述べられる。次にその諸関係が犯罪によって否定される。最後に「人倫」において民族生活を構成する諸身分や社会的諸領域が述べられ、この中で第一の段階で扱われた諸関係が人倫の契機として捉えなおされる。その際、ヘーゲルはこれら人間的諸関係を、シェリングの同一哲学の用語に従って、直観と概念との包摂関係の内にある種々の勢位(絶対者が有限者において展開する相)と呼んだ。
最初の「関係に従った絶対的人倫」という概念は、『自然法論文』に遡ることができる。そこでは、『差異論文』で、同一性と非同一性との同一性と規定された絶対者が、無差別と関係との統一と言い換えられ、それゆえ、関係は非同一性あるいは区別を意味する。ただしこの関係には、多者が優位である関係と、一者が優位である関係とのニ種類が認められる。そして人倫的自然は、無差別と一者が優位であるような関係との統一を表す。しかしこの人倫的自然そのものが、市民の領域におけるように、関係すなわち区別の相においてのみ現れる限り、関係に従ってのみ定立される人倫的なものと呼ばれる。それが『人倫の体系』で「関係に従った絶対的人倫」で取り上げられたものに相当すると思われる。つまりそれは、人倫の理念が個別的なものと普遍的なものとの対立に基づく関係において現れる相を意味する。ここでは個別的なものと普遍的なものとの対立が固定的な前提としてあり、個別的なものと普遍的なものが相互に転換し合わないため、人倫的な理念は背後に隠れている。
この関係に従った人倫は、自然的人倫とも呼ばれるが、それ自身二つの段階を経る。第一段階は、実践的感情と呼ばれる。ここではまだ個別的なものが普遍的なものに優位しており、個人の日常的な生活世界の具体的諸相、すなわち、欲求、労働、占有、性愛、親子関係などとして現れる。ただしこの段階の枠内で主客の同一性を意味する関係として、道具、子供、語りという媒介的(推論的)関係が指摘される。第二段階は、知性と呼ばれる。ここでは第一段階で内なるものとして隠れていた普遍的なものが個人に対して現れ、支配的となる。すなわち、先に主観的個人的側面から捉えられた労働や占有の関係が、超個人的な側面において相互依存の市場メカニズムと権利関係の内で捉えられる。しかしなお普遍的なものは形式的なものに留まり、権利における諸個人の間の平等が認められるのみである。だが最後に家族において、これまでの個人的生活の諸関係における特殊的なものが全て普遍的なものに移し置かれ、これまでの全てが統合されている。
家族に極まった自然的人倫の諸関係は、しかし犯罪によって転倒される。だが社会の秩序を覆す犯罪者はその結果として良心の呵責、処罰や報復に悩まされ、被害者の霊あるいは遺族による復讐する正義の圧力を経験する。また被害者も国家の必要性を感じる。そこから国家に体現されるような人倫の秩序の必要性が出てくる。第三部の人倫では個別的なものと普遍的なものとの対立が根本的に克服され、全ての個人の行為が社会の秩序を担う有様が捉えられる。ヘーゲルは言う。「普遍的なもの、精神は、各自が個別的である限りにおいてすら、各自の内にまた各自にとって存在する」。それは一方では静態的側面において貴族、市民、農民からなる身分制度において、他方では動態的側面では経済(欲求の体系)、政治(正義の体系)、教育(訓育の体系)において示される。かくて先の労働や所有の個人的諸関係が、社会のシステムの内で根拠づけられ、その観念的諸契機をなすことが明らかとなる。
以上のようなシェリング的体系的形式による人倫の哲学においても、ドイツ史への取り組みの場合と同様に、内容的にはイエナ期以前におけるヘーゲル固有の洞察の痕跡を窺うことができる。というのは一方で、関係において隠れていた人倫が犯罪としてその復讐を介して自覚的に現れるという過程は、反省によって分裂せしめられた自然の合一が自然からの復讐(運命)によって否定され、愛によって回復されるに至る、かの自然の運命的連関を想起させるからである。他方で、個人的諸関係が最終的に人倫の諸契機をなすというのも、実定性、志操、愛という諸関係が宗教の段階で、神の国の諸契機をなすと言われたのと、軌を一にしていると思われる。
しかしこのことからむしろ、宗教の新たな位置づけと機能が示されているとも考えられよう。既に『ドイツ憲法論』ではもはや宗教が第一義的な位置を占めず、国家の下の市民生活の領域の内に捉えられていた。そのためここでは宗教は、民族を基盤とした宗教として捉えられ、その意味でテュ―ビンゲン時代の民族宗教のモチーフが復活している。ただしこの民族宗教の意味は今や、フランクフルト時代に明らかにされた宗教あるいはキリスト教のそれ、すなわち、生の意識であると同時に自己意識でもあるようなものである。そこでは、自己の内に神的なもの、あるいは生を自覚した人間が、想像力によって産出された形象(それは神的精神、教団を統治する神と見られた)の内に自己を再確認し得るのであった。そのような考え方に基づき、ここで、人々が民族の神への礼拝において同時に自己の人倫的本質(精神、民族の神性)を自覚し、再確認するとされる。ヘーゲルは言う。「特殊的なもの、個別的なものは特殊的意識でありながら端的に普遍的なものに等しい。そして特殊性を端的に自己と結びつけたこの普遍性は、民族の神性である。そしてこの普遍的なものが特殊性という観念的形式で直観されると、それは民族の神である。民族の神は民族を直観する一つの観念的な仕方である」。民族宗教は、そこで人々が目に見え、想像できる姿(神の形象や神話)を媒介にして自己のアイデンティティーを確認し得る、いわば自己の鏡である。
かくて『人倫の体系』において、人倫の理念は「関係に従った絶対的人倫」において分裂の相のもとで隠されていたが、「否定的なもの」を介して、「人倫」において現れ、とりわけ民族宗教において広く自覚されることが示された。この過程は、イエナ初期の論理学ー形而上学において、論理学の第一と第二の部分で(理性的認識における同一性を捨象した)反省の諸形式が述べられ、第三の部分で有限的認識の理性による廃棄が示された後、形而上学において絶対者の理念が述べられ、絶対的認識が達成されると想定された過程に、具体的な内容においてほぼ照応しているように思う。ただし『人倫の体系』における「否定的なもの」は、第二部だけの主題ではなく、第一部の二つの勢位においてもそれぞれの最後の箇所で「この勢位の否定的なものは・・・」と言及されていた。
『人倫の体系』続稿について
『人倫の体系』は、最後において、国家の統治形式と宗教との関係を主題にしていた。そして、これらの統治形態がそれぞれの堕落した形態に陥るのを防ぐ防波堤として、それぞれの統治形式の傍らに宗教が並び立つとされた。しかし、これに続く部分は、君主政治を宗教と結びつけ、宗教によって補完されるに最も適した統治形式として示そうとするヘーゲルに意図は読み取られたものの、文章としては乱れたものとなり、そのまま未完に終わっている。このとき、ホフマイスターによって「『人倫の体系』の続稿」として整理された草稿は、まさにこの主題を追って、国家と宗教の関係を論じたものとして無視できないものである。
ヘーゲルは、イエナ大学において、1802年の夏学期から1805年の夏学期までの間に、5回にわたって「自然法」の講義を予告している。その中でも、1803年のものと推定されているヘーゲルの講義草稿が、ローゼンクランツならびにハイムによって伝えられている。しかし、両者の間には幾つもの違いがあり、しかも、ヘーゲル自身がこの草稿を何度も書き直していたと思われる。従って、伝えられているヘーゲルの『自然法講義』とは、1803年の講義を中心にして、1802年から1805年までの間に成立した講義のための草稿と考えてよいだろう。
『自然法講義』の第一部は『人倫の体系』として清書されたものであるが、その第二部は、講義のために準備された草稿に留まっている。ローゼンクランツとハイムはこの第二部を伝えているのである。しかし、ローゼンクランツの報告は不完全なものであったし、ハイムが報告した後には、草稿そのものが失われてしまった。それゆえ、ヘーゲルの自筆草稿を用いることはできないから、二人の報告と若干の引用がこのテキストについての唯一の源となる。ハイムの注によれば、ローゼンクランツはヘーゲルの草稿を「かなり忠実に」再現しているが、「時折、特有の言い回しが看過され、曖昧になっている」ともいう。そこでハイムは、ヘーゲルの草稿から直接に引用した二つの箇所によってローゼンクランツの報告を補い、とりわけ第三の箇所では、彼独自のテキスト理解に従って断片を再構成している。
更にヨハネス・ホフマイスターは、この二つの報告に基づいて新しいテキストを編集している。しかも彼は、それを体系の中の精神哲学に相当するものとみなして、『人倫の体系』の続稿と呼んでいる。確かに、『人倫の体系』は体系全体の第三部(精神哲学あるいは人倫的自然)に当たっているが、しかし、当時の哲学体系は四部門からなっており、第四部である絶対的なものの哲学(宗教および芸術の哲学)において初めて、絶対的な人倫が扱われることになっていた。この中でヘーゲルは、絶対的な精神を民族に宿る精神と理解して、人倫的自然と物理的自然の両者を包み込む「民族精神」を、「自然及び人倫全ての精神」と特徴づけている。最終的には、絶対的な精神が自らを純粋な理念へと取り戻すのであるから、精神に根ざす哲学の結びは、実は、その純粋な始まりへと帰って初めて完成されるものなのである。
そこで、ヘーゲルは、『自然法講義』(『人倫の体系』続稿)の中で、哲学体系の結びを芸術・宗教・学問の三つに分けた上で、絶対的な精神がもっとも具体的な形で現れてくる宗教を詳しく叙述している。それによれば、精神は、民族の全ての部分において民族の精神となって現れ、客観的なものを生き生きと形成しているという。しかしそれは、宗教における客観的なものとして主観的なものを根絶するのではなく、むしろ、その経験的な個別性のみを否定することによって主観性及び特殊性を克服したものと受け取られる。したがって、個別的なものは、普遍的なものの内で抹消されるのではなく、そこで純化されて絶対的なものへと向けられることになり、これによって、民族の精神を享受することができるのだという。
このように、ヘーゲルは、民族の精神が宗教と結びつくところに、民族の神を見ている。宗教においては、経験的なものへと広がった民族の精神が収斂して、そして、宗教上の儀式において最高の地点へと達するのである。そこでは、民族の精神は個別的なものの中に自分自身を認め、また、個別的なものは精神において自分自身を認める。したがって、宗教の本質は民族の精神が個人において現れてくるところにあるから、個人にとってもまた、純粋なものである精神は隠されてはいない。ヘーゲルによれば、神の本質とは、経験的なものの全体として自らを客観的に表現する精神とみなされるから、精神という概念の中には、精神のもつ思弁的な理念と共に、すでに、民族におけるような経験的な限定が含まれているのである。
ヘーゲルは、真理の絶対的な認識である思弁を、一方では、個々の独立した生の限定において理解しながら、他方では、無限なものの単純な意識へと還元している。思弁の中でも礼拝によって特徴づけられる宗教は、その主観性の放棄によって、学問及び芸術から区別されている。それは、神事において個人のもつ個別性を捨て去り、そしてその所有を放棄して、主観をその最高の地点にまで高めるのである。したがって、芸術が理念を客観に制限するのに対して、宗教は決して理念を制限することはない。むしろそれは主観のもつ個別性を捨て去って、そこから脱却していくものなのである。
そこで、宗教による主観の放棄とその克服が、宗教の根本にある和解を形成することになる。和解は、個別性を否定することによって精神のもつ普遍性に向けられているが、しかしそれも、個別性を完全には廃棄することができない。ヘーゲルはここに宗教のもつ否定の限界を定めて、宗教における精神の姿を見ている。すなわち、「宗教における精神は、学問の理念の内にあるのではなく、現実との関わりの内にあるのだから、制限された姿をもたざるを得ないのである」。制限された姿が固定されると、精神が主観的かつ客観的な姿をとって現れてくる学問とは異なって、それは、専ら客観的なものとして、既存の宗教がもつような制度的側面を形成することになる。ヘーゲルは、宗教の根本にある和解の内に、すでにこのような転倒(イロニー)を見ている。彼は、宗教上の儀式を、芸術及び思弁のもつ客観的な性格と対比して、礼拝の中に個別的なものの犠牲を認めながらも、和解によって更にその転倒が引き起こされることを見抜いているのである。
また、ヘーゲルは、講義草稿の断片『その形式』(1803年)においても、個々の神話を通して民族の形態を叙述していくが、そこでも、神々は常に、変転する中で基礎に横たわっているのであるから、神々の有限なものへの現れは、自分自身の中へと転倒を持ち込むことになるという。ヘーゲルは、絶対的なもののこのような転倒を、無限なものが人倫的自然の中で有限なものとして現れること、と理解している。したがって、絶対的なものとは、制限されたものとなりながらも同時にこの制限を克服するものなのであり、この克服が、有限なものとの和解を形成することになるといえる。
更に、『自然法講義』(『人倫の体系』続稿)の中でヘーゲルは、宗教の諸形態を、理性のもつ三つの段階に応じて考察している。ローゼンクランツの報告によれば、ヘーゲルは、その当時の自然哲学的な表現でもって、宗教の諸形態を、それが置かれている風土との関連の中で検討しているのだという。
宗教の第一の形態は、ヘーゲルによると、自然と精神が完全に一致した自然宗教である。この純粋な一致は、想像力によって表現されると汎神論となり、そこでは、精神が客観的な姿をとって現れてきて、古代国家のような人倫的な組織を形成することになるという。ヘーゲルはここで、精神の表れが芸術として形作られるギリシアの汎神論的な自然宗教を念頭に置いている。ただし、芸術は理念を具体的な姿に限定しているが、宗教は理念を制限することはないから、神々は歴史的な姿にも思想の中にも解消されることはない、と考えられている。そこで、美しい神話がもつ芸術美でもなく、その理想の実現でもなく、むしろ両者の不可分の統一から古代ギリシアの民族宗教が生まれてきたといえる。したがってそれは、思弁のもつ最高の理想を含んでいるともいえるが、しかし根本の調和を確信しているだけであるから、美しい神々の世界もついには没落して、それはただ思い出として残っているにすぎない。民族と神々とのこのような関係が自然宗教の運命をあらわにしており、そこでは、自然と精神の統一は分裂して、根本にある調和も解消することにならざるを得ない。
ここから、宗教の第二の形態が生まれてくる。つまり、自然と精神の統一が失われたところで、分裂の中から相対的な統一が構成されるのである。この過程において、人倫的な組織はその生命を失い、神々は世界から退いていくことになる。だが、神々が自然から退いて、世界を見捨てる中で、無限の分離にも拘わらず、絶対的なものとの一致を確信するものが生まれてくる。この段階が、ヘーゲルによれば、ローマ時代であるという。ローマ人は、諸民族のもつ生き生きとした個性を打ち砕き、彼らの人倫を打ち壊して、普遍的なものの支配を確立したのであり、そのことによってローマ人は、個別性を欠いた抽象的な普遍性を生み出して、空虚なものを個々のものに押しつけたのである。したがって、この時代は、個別的なものと和解することのない普遍化の時代として特徴づけられる。観念と現実、普遍と個別は分離して、自然は神聖さを失って亡骸となってしまった。そして精神は、生きた自然を見捨てるばかりか自然に反するものとして現れてきたのである。これは、民族精神も国家意識もなく、自然から神が逃れてしまった神の不在の宗教なのである。ここから限りない苦悩が生じてくるから、こうした宗教の原理は、自然との分離による無限の苦悩として特徴づけられる。
しかし、苦悩がなければ宗教における和解ということも考えられない。ヘーゲルはここでユダヤの宗教を想定しているが、この考えにはすでに、イエスという歴史的な人物を救世主キリストと認めて、これによって神との和解を取り戻すことが準備されている。宗教は苦悩を生み出して、その苦悩を和らげるために無限の苦悩を自分の内に担って、完全なまでに自分自身との和解を成し遂げようとする。それは、苦悩と和解とを共に包み込むものとして構成されている。そして、和解を目指す宗教の無限の苦悩から、自分自身を克服するという構想も生まれてくるのである。宗教は、和解のための、神人との一体化を要求するのであり、この一体化によって宗教は自然を神聖化し、またその限りで、人間の本性も神聖なものとなる。したがって、神が人間の姿をとって現れてくるのは、個人が絶対的な精神と一致するためであるといえる。神は生と死によって世俗化され、人間は神の復活によって神聖化される。それによってまた、政治上の権利も宗教によって授けられ、世界は再び精神との和解の内に置かれるのである。
イエスは、国家と世界を軽蔑することによって現実との無限な分離を体現していたが、そのことによってキリスト教は、自然に対する無限の隔たりを生み出したのである。そしてこの宗教は、自然との融和を再構成するために、調和の再生を目指すことになる。これが三一論である。ヘーゲルはこれを、三つの段階を経て統一が再生される過程として描き出している。すなわち、父としての神の思想は、神による創造を経て子として現れ、ここにおいて、子が本来もっている神性と、子が人間となってもつ世界の個別性とが一つになる。これによって、客観的な世界と主観的な思想との統一として精神が生まれてくる。そして根本にある統一は、分裂を超えて自己認識へと達することになる。自然宗教において芸術として現れてきた精神は、今では思想となって捉え返されている。したがって、再生した宗教は、自然宗教のように神話を理想の形で掲げているのではなく、思想を理性の形式において把握しているのである。
だが、カトリックは、礼拝によって主観と客観の統一をなす美しい宗教であったが、プロテスタントは、その神聖化の儀式を否定して、神聖なものとされた自然を普遍によって支配しようとした。これによって、無限なものへの宗教的な高揚と有限なものの神聖化が失われてしまったのである。個々のものは苦悩と和解によって初めて神と結合できるのであるが、プロテスタントは、この生きた苦悩と和解とを、果てしない憧れへと変えてしまったのである。「カトリックがもっていた主観的なものと客観的なものとの統一は、主観主義の内へと入っていき、憧れの感情へと変わってしまったのである」。こうしてプロテスタントによる統一の主観化は尽きることのない苦悩を神聖化したにすぎないから、むしろそれは、「天空に向かうため息」にすぎないのである。
そして最後にヘーゲルは、宗教の第三の形態として、哲学に基づく新しい宗教を構想する。ローゼンクランツによると、「ヘーゲルは、キリスト教から哲学を介して宗教の第三の形態が現れてくると確信していた」のだという。そうであれば、宗教の諸形態を歴史的に叙述する中で、来るべき宗教が哲学の媒介によって形成されることになったといえよう。これは、精神が具体的な姿をとって現れる中で、分裂した宗教が統一されて、再構成された統一の中から無限の苦悩を自らにおいて克服する、新しい宗教が生まれてきた、ということなのである。そしてそれは、理性のもつ統一が人倫的な精神として実現されている自由な民族において登場してくるのだという。つまり、人倫的な民族において二つの宗教形態が統合されて、無限な対立を経て統一された宗教の第三の形態が生まれてくるのである。再構成された統一においては、美しい自然宗教でもなく、また神聖なキリスト教でもなく、より高いものが具体的な形態をとって現れてきて、人倫的な精神を実現した形態として理解される。すなわちここに、自然の中に精神を吹き込むことによって、苦悩と対立を含みながらも同時にそれを克服する思想として、精神の哲学が確立されるのである。このようにしてヘーゲルは、ローゼンクランツが「ヘーゲルの基本体系」と名づけたような、精神をもって頂点とする哲学の体系へと達したのである。
まず、ヘーゲルは、その最初の動きについて、「絶対的人倫の理念を認識するためには、直観が概念に完全に適合しているものとして定立されなければならない」と語った後、次のようにその手順を示している。「第一に、直観は概念の下へ包摂されねばならない。このことを通じて、絶対的人倫は自然として現象する。というのは、自然それ自身は直観の概念の下への包摂に他ならないからである。そして、それゆえに、このことを通じて、直観、統一は内的なものであり続け、概念の多様性と概念の絶対的運動とが表面に出てくる。このとき、この包摂において、民族である人倫の直観は一つの多様な実在あるいは個別者、つまり一個別人となる。そして、結果として、自然の自己自身への絶対的な回復は、この個別者の上に何か漂っているもの、あるいは何か形式的なものとなる。というのは、形式的なものとは、まさしく、自己自身において絶対的概念すなわち絶対的運動であり得ないような統一だからである。」ここにおいて自然とは、直観の概念の下への包摂、つまり、民族的普遍の特殊性あるいは個別者への分裂、それによって、個別者が得た実在性の形式を意味している。この事態を逆の側からみれば、自然とは、直観の下に概念が包摂されてあることを意味する。つまり、そのような人倫的自然こそ、ヘーゲルからみれば、本来的自然である。そこで、次にヘーゲルはこの『人倫の体系』において試みようとする体系的叙述について、次のように述べている。「しかし、人倫的なものは、即かつ対自的に、その本質からいって、自己の内への差別の取り戻し、つまり再構成である。同一性は差別から現れ出、その本質からいって否定的である。」
そこで、まず、ヘーゲルがこの『人倫の体系』で行おうとしているのは、人倫的統体が差別から自らの同一性を回復しようとする運動を叙述することである。しかも、それを個別者が人倫的全体の中に自らを見出していくその媒介の過程を叙述することによって、行おうとする。それゆえ、ヘーゲルはその媒介の過程を欲求と衝動という人間の自然的活動から始める。そしてそれはさらに、労働、道具、占有、交換、および夫と妻、両親と子供、支配と隷属という媒介の系列を通って、家庭へ至る。家庭は民族という絶対的人倫に至る前段階である相対的人倫における最高の全体性である。そして、回復された絶対的人倫についての叙述が続く。
確かに『人倫の体系』においても、『自然法論文』と同じく、依然として、民族という絶対的人倫を唯一の肯定的なものとして立て、そこから否定的なものとしての個別的なものとの関連を問題にするという方法は、本質的には変わっていないのであるが、しかし、そこには、続く転換を予期させるものがすでに現れている。その一つの現れとして、ヘーゲルは、絶対的人倫の自己の内への自然の絶対的取り戻しを、概念の弁証法的運動の成果として捉えようとしている。その際、例えば労働の概念などが、これまでと違って体系構成に重要な意味を持ってきている。
ヘーゲル自身は、『人倫の体系』において、非常に晦渋な表現ながら、労働の概念の役割について次のように述べている。「したがって、この活動においては享受が捨象され、言い換えれば享受に至らない。というのは、ここにおいてはそれぞれの抽象が一つの実在、有だからである。つまり、客体は、客体一般としては破棄されないで、ある他の客体がその代わりに定立される。というのは、抽象としてのこの廃棄には、客体はない、すなわち享受はないからである。しかし、このような廃棄することこそ労働である。・・・労働においては欲求と享受の差異が定立されている。つまり、享受は阻止され、かつ引き延ばされている。すなわち享受は観念的なものとなり、すなわち一つの関係となる。」
つまり、ここにおいては、労働は直接性の放棄、人間の自然性からの超出を意味する。すなわち、人間は、欲求とその享受の間に労働を挟むことによって、直接的な欲求が阻止され、引き延ばされることによって、自らの自然的直接性から抜け出すことができるのである。この事態こそ、ヘーゲルによれば、人間が人間になるということを意味するものである。ここにおいて、労働は、もはや独特の身分と結びついた単なる従属的な行為ではなく、人間の精神の教養課程の中心的契機となっていくのである。
弁証法という言葉が初めて登場する『自然法論文』では、弁証法とは、関係の中で考察された人倫的なものが自分自身を解消するという、否定的なものであった。そこからまた、関係そのものが自分自身を否定することになるから、関係はそれ自体ではあり得ないことが明らかになった。つまり、弁証法とは、概念による規定そのものに自己否定が含まれていることを顕わにするものである。この意味での弁証法の用法が、『人倫の体系』においても登場してくる。すなわちそこでは、限界を克服することはあらゆる限界づけを普遍的なものへと取り込むことであるから、一面では肯定的であるが、他面ではまた限界づけの否定であるともいえる。「弁証法とは、純粋に否定的なことであり、それは、観念として認識することであり、限界を現実において克服することなのである」。ここでもまた、弁証法とは限定することの否定を意味しており、固定して対立するような限界づけそのものを廃棄することなのである。
しかし、ヘーゲルは、否定に留まることなく否定そのものを再び否定して、人倫の限定された形態を絶対的なものとして生み出そうとしている。つまり、否定的なものが、否定的なものという自らの規定を廃棄することによって、否定を克服するものとしてその真実の姿を現わしてくる。したがってそれは、現実にある制限を否定することでありながら、より高い段階へと、その限界を乗り越えていくことである。これは、否定に留まることなく、対立するものとの完全な統一によってその限定された形態を克服していくことであり、対立から否定的なものを取り除いて、対立を現実という場面において肯定的なものへと転化することなのである。このようにして、媒介された人倫の形態は対立する規定を自分の内に取り込んで、ついには絶対的なものとして現れてくる。
絶対的なものとして理解された人倫は、普遍的なものを特殊的なものの中へ、特殊的なものを普遍的なものの中へ包み込むことによって、両者を統一する。このための過程は、『人倫の体系』の中では、一つには直観が概念を包摂することとして、もう一つには逆に、概念が直観を包摂することとして、両契機による互いの交換として描かれている。しかしそこには、異なった二つの契機を用いることによって、すでに両者の違いが前提されている。だがその際、直観を普遍的なものと理解するのでもなく、概念を特殊的なものと理解するのでもなく、いずれにも普遍と特殊という二つの契機を設定することによって、一方では、直観が概念のもとに包摂され、他方では、概念が直観のもとに包摂されることになる。つまり、ここでは、直観と概念の統一を表すような絶対的な人倫を構成するためにも、両者が対等のものとして設定される必要がある、ということなのである。
絶対的な人倫において、直観と概念、人倫的なものと物理的なもの、知性的なものと感覚的なものとが一致するのであれば、両者の間にある差異は、体系的な展開において統一へともたらされることになる。いずれのものも普遍的なものであり、かつ特殊的なものとみなされるから、一方のものが他方のものに従属していながら、また逆に、他方のものが一方のものに従属していると考えられる。普遍的なものを直観として、特殊的なものを概念と見なして、両者を区別することもできるが、その場合には、直観及び概念はただひとつの側面にすぎず、そこでは、主観と客観の統一が表されているのではないから、直観と認識は同等ではないことになる。それゆえ、人倫的なもののもつ特殊な形態を展開するためにも、普遍的なものと特殊的なものとを互いに関係させることが必要となる。そうであれば、両者の相違は、二つの方向に全く同じように展開して最後には統一されることになるであろう。ヘーゲルは、このような人倫的な全体を、普遍的な民族と特殊的な個人との統一と理解して、次のように述べている。「民族という生きた統一の中では、自然のもつあらゆる相違が消え失せて、個々のものは、いずれのものにも自分自身を見出し、主観と客観の最高の統一へと達するのである」。このようにして、直観と概念を結合し、普遍と特殊を統合する絶対的な人倫は、民族という社会的共同体の中に求められるのである。
それと比べて、物理的な自然においては普遍的なものが直観として捉えられ、特殊的なものが概念として捉えられるとしても、そこでは、相互の交換が為されることはないので、人倫的な統一が形成されることはあり得ない。したがって、精神の姿をとって現れることのない自然は人倫という形態をもつことはできない、といえる。自然のもつ統一は特殊的なものと相対的な統一を形成するだけであり、それに対して、精神のもつ統一は自然のもつ部分的な統一を絶対的なものへ引き下げることによって人倫を構成するに至る。自然は、これによってのみ限定された形式を克服して、人倫的な統一へと達することができるのである。
しかも、ヘーゲルによれば、人倫の共同体においては個別的なものが無限なものと一致して、この一致が自覚を伴って現れてくるという。これは、個別的なもののもつ限界が克服されて無限なものへと達することを意味しているだけではない。さらに、個々のものを経験的に見ることから、それを克服して、自らを無限なものとして見ること、つまり、知的直観がここに成立しているのである。ヘーゲルは、このような自己認識を、物理的な自然においては自らの肉体を見ることであり、人倫的な自然においては自らの精神を見ることであると説明している。人倫的な共同体においては、経験的に見ることと知的に見ることとが一つであるが、このような一致は、生きたものにおいてのみ可能である。生きたものとは、それ自身において対立しつつ統一しているものだからである。そもそも生とは、単一なものと多様なものとの統一を意味していた。したがって、生をもつ限りで、普遍的なものとしての精神が個別的なものにおいて現実のものとなり、個々のものにおいて直接に認められるのである。この統一は、自然においては内面に留まっているが、精神が自らを実現する人倫においてはもっと内容豊かに、意識の中へと現れてきて、自覚されるに至るのである。
したがって、絶対的な人倫とは、多様なものからなる現実を統一して、自分の内へと取り戻す運動であるといえる。統一の取り戻しが、自分の内に閉ざされた絶対的な全体を形成するのであり、ヘーゲルはこのような全体を、個々人を一つにまとめる民族の内に見ているのである。人倫の理念が、特殊なものの内に同一を認める民族として現れてくるにしても、民族という概念そのものは、あらゆるものが普遍的なものへと包み込まれる一つの関係として理解されている。そこでは、普遍的なものが個別的なものを取り込むことによって両者が一つになり、普遍的なものの力が個別的なものを巻き込むことによって両者を同一のものとするような統一が形成される。ヘーゲルは、このような統一を絶対的な統一と呼んでいる。そこから、個別的なものを普遍化する民族とは、自然のもつあらゆる相違を克服する、生きた統一として特徴づけられる。しかも、そこにおいては、個人はいずれの他者においても自らを認めて、それによって主観と客観の統一へと到達するのである。したがって、この一致とは、市民の平等というような抽象的なものではなく、むしろ、特殊なものにおいて具体的に示されるものでなければならない。そこでは、統一の内に吸収されない特殊なものはあり得ず、かつ、個人のもつ特殊性は普遍的なものに対応していなければならないのである。
ここからヘーゲルは、民族を構成する要素をその担い手に従って区分した上で、それぞれの要素を検討していく。それによれば、人倫の共同体は、それを支える社会的な担い手、つまり、身分に従って区分されるのだという。第一の身分である公民は普遍的なものを生み出すのであるから、限られた欲望の充足に満足するのではなく、直接に民族の全体に奉仕するものである。その結果、そこでは個人のもつあらゆる特殊性が否定されることになり、特殊性を抑えて普遍性を貫徹することになる。それに対して、第二の身分である市民は、特殊な欲望と財産の獲得のために普遍的なものを廃棄する、否定的なものである。これは所有に固執するものであるから特殊なものとみなされる。そして、第三の身分である農民は直接に生産と結びついているから、第二の身分がなす消費という否定的な活動を再び否定することになる。このように、否定を打ち消す積極的な活動の成果は、生産物という普遍的なものとなって第一の身分へと媒介される。そこで、第三の身分を介して第一の身分と第二の身分の対立が解消されることになり、三つの身分からなる社会全体の均衡が保たれて、人倫の体系が安定を保つことになるという。
『人倫の体系』では最初に「関係に従った絶対的人倫」として個人の種々の態度及び家族的関係が、すなわち総じて国家成立以前の人間生活が述べられる。次にその諸関係が犯罪によって否定される。最後に「人倫」において民族生活を構成する諸身分や社会的諸領域が述べられ、この中で第一の段階で扱われた諸関係が人倫の契機として捉えなおされる。その際、ヘーゲルはこれら人間的諸関係を、シェリングの同一哲学の用語に従って、直観と概念との包摂関係の内にある種々の勢位(絶対者が有限者において展開する相)と呼んだ。
最初の「関係に従った絶対的人倫」という概念は、『自然法論文』に遡ることができる。そこでは、『差異論文』で、同一性と非同一性との同一性と規定された絶対者が、無差別と関係との統一と言い換えられ、それゆえ、関係は非同一性あるいは区別を意味する。ただしこの関係には、多者が優位である関係と、一者が優位である関係とのニ種類が認められる。そして人倫的自然は、無差別と一者が優位であるような関係との統一を表す。しかしこの人倫的自然そのものが、市民の領域におけるように、関係すなわち区別の相においてのみ現れる限り、関係に従ってのみ定立される人倫的なものと呼ばれる。それが『人倫の体系』で「関係に従った絶対的人倫」で取り上げられたものに相当すると思われる。つまりそれは、人倫の理念が個別的なものと普遍的なものとの対立に基づく関係において現れる相を意味する。ここでは個別的なものと普遍的なものとの対立が固定的な前提としてあり、個別的なものと普遍的なものが相互に転換し合わないため、人倫的な理念は背後に隠れている。
この関係に従った人倫は、自然的人倫とも呼ばれるが、それ自身二つの段階を経る。第一段階は、実践的感情と呼ばれる。ここではまだ個別的なものが普遍的なものに優位しており、個人の日常的な生活世界の具体的諸相、すなわち、欲求、労働、占有、性愛、親子関係などとして現れる。ただしこの段階の枠内で主客の同一性を意味する関係として、道具、子供、語りという媒介的(推論的)関係が指摘される。第二段階は、知性と呼ばれる。ここでは第一段階で内なるものとして隠れていた普遍的なものが個人に対して現れ、支配的となる。すなわち、先に主観的個人的側面から捉えられた労働や占有の関係が、超個人的な側面において相互依存の市場メカニズムと権利関係の内で捉えられる。しかしなお普遍的なものは形式的なものに留まり、権利における諸個人の間の平等が認められるのみである。だが最後に家族において、これまでの個人的生活の諸関係における特殊的なものが全て普遍的なものに移し置かれ、これまでの全てが統合されている。
家族に極まった自然的人倫の諸関係は、しかし犯罪によって転倒される。だが社会の秩序を覆す犯罪者はその結果として良心の呵責、処罰や報復に悩まされ、被害者の霊あるいは遺族による復讐する正義の圧力を経験する。また被害者も国家の必要性を感じる。そこから国家に体現されるような人倫の秩序の必要性が出てくる。第三部の人倫では個別的なものと普遍的なものとの対立が根本的に克服され、全ての個人の行為が社会の秩序を担う有様が捉えられる。ヘーゲルは言う。「普遍的なもの、精神は、各自が個別的である限りにおいてすら、各自の内にまた各自にとって存在する」。それは一方では静態的側面において貴族、市民、農民からなる身分制度において、他方では動態的側面では経済(欲求の体系)、政治(正義の体系)、教育(訓育の体系)において示される。かくて先の労働や所有の個人的諸関係が、社会のシステムの内で根拠づけられ、その観念的諸契機をなすことが明らかとなる。
以上のようなシェリング的体系的形式による人倫の哲学においても、ドイツ史への取り組みの場合と同様に、内容的にはイエナ期以前におけるヘーゲル固有の洞察の痕跡を窺うことができる。というのは一方で、関係において隠れていた人倫が犯罪としてその復讐を介して自覚的に現れるという過程は、反省によって分裂せしめられた自然の合一が自然からの復讐(運命)によって否定され、愛によって回復されるに至る、かの自然の運命的連関を想起させるからである。他方で、個人的諸関係が最終的に人倫の諸契機をなすというのも、実定性、志操、愛という諸関係が宗教の段階で、神の国の諸契機をなすと言われたのと、軌を一にしていると思われる。
しかしこのことからむしろ、宗教の新たな位置づけと機能が示されているとも考えられよう。既に『ドイツ憲法論』ではもはや宗教が第一義的な位置を占めず、国家の下の市民生活の領域の内に捉えられていた。そのためここでは宗教は、民族を基盤とした宗教として捉えられ、その意味でテュ―ビンゲン時代の民族宗教のモチーフが復活している。ただしこの民族宗教の意味は今や、フランクフルト時代に明らかにされた宗教あるいはキリスト教のそれ、すなわち、生の意識であると同時に自己意識でもあるようなものである。そこでは、自己の内に神的なもの、あるいは生を自覚した人間が、想像力によって産出された形象(それは神的精神、教団を統治する神と見られた)の内に自己を再確認し得るのであった。そのような考え方に基づき、ここで、人々が民族の神への礼拝において同時に自己の人倫的本質(精神、民族の神性)を自覚し、再確認するとされる。ヘーゲルは言う。「特殊的なもの、個別的なものは特殊的意識でありながら端的に普遍的なものに等しい。そして特殊性を端的に自己と結びつけたこの普遍性は、民族の神性である。そしてこの普遍的なものが特殊性という観念的形式で直観されると、それは民族の神である。民族の神は民族を直観する一つの観念的な仕方である」。民族宗教は、そこで人々が目に見え、想像できる姿(神の形象や神話)を媒介にして自己のアイデンティティーを確認し得る、いわば自己の鏡である。
かくて『人倫の体系』において、人倫の理念は「関係に従った絶対的人倫」において分裂の相のもとで隠されていたが、「否定的なもの」を介して、「人倫」において現れ、とりわけ民族宗教において広く自覚されることが示された。この過程は、イエナ初期の論理学ー形而上学において、論理学の第一と第二の部分で(理性的認識における同一性を捨象した)反省の諸形式が述べられ、第三の部分で有限的認識の理性による廃棄が示された後、形而上学において絶対者の理念が述べられ、絶対的認識が達成されると想定された過程に、具体的な内容においてほぼ照応しているように思う。ただし『人倫の体系』における「否定的なもの」は、第二部だけの主題ではなく、第一部の二つの勢位においてもそれぞれの最後の箇所で「この勢位の否定的なものは・・・」と言及されていた。
『人倫の体系』続稿について
『人倫の体系』は、最後において、国家の統治形式と宗教との関係を主題にしていた。そして、これらの統治形態がそれぞれの堕落した形態に陥るのを防ぐ防波堤として、それぞれの統治形式の傍らに宗教が並び立つとされた。しかし、これに続く部分は、君主政治を宗教と結びつけ、宗教によって補完されるに最も適した統治形式として示そうとするヘーゲルに意図は読み取られたものの、文章としては乱れたものとなり、そのまま未完に終わっている。このとき、ホフマイスターによって「『人倫の体系』の続稿」として整理された草稿は、まさにこの主題を追って、国家と宗教の関係を論じたものとして無視できないものである。
ヘーゲルは、イエナ大学において、1802年の夏学期から1805年の夏学期までの間に、5回にわたって「自然法」の講義を予告している。その中でも、1803年のものと推定されているヘーゲルの講義草稿が、ローゼンクランツならびにハイムによって伝えられている。しかし、両者の間には幾つもの違いがあり、しかも、ヘーゲル自身がこの草稿を何度も書き直していたと思われる。従って、伝えられているヘーゲルの『自然法講義』とは、1803年の講義を中心にして、1802年から1805年までの間に成立した講義のための草稿と考えてよいだろう。
『自然法講義』の第一部は『人倫の体系』として清書されたものであるが、その第二部は、講義のために準備された草稿に留まっている。ローゼンクランツとハイムはこの第二部を伝えているのである。しかし、ローゼンクランツの報告は不完全なものであったし、ハイムが報告した後には、草稿そのものが失われてしまった。それゆえ、ヘーゲルの自筆草稿を用いることはできないから、二人の報告と若干の引用がこのテキストについての唯一の源となる。ハイムの注によれば、ローゼンクランツはヘーゲルの草稿を「かなり忠実に」再現しているが、「時折、特有の言い回しが看過され、曖昧になっている」ともいう。そこでハイムは、ヘーゲルの草稿から直接に引用した二つの箇所によってローゼンクランツの報告を補い、とりわけ第三の箇所では、彼独自のテキスト理解に従って断片を再構成している。
更にヨハネス・ホフマイスターは、この二つの報告に基づいて新しいテキストを編集している。しかも彼は、それを体系の中の精神哲学に相当するものとみなして、『人倫の体系』の続稿と呼んでいる。確かに、『人倫の体系』は体系全体の第三部(精神哲学あるいは人倫的自然)に当たっているが、しかし、当時の哲学体系は四部門からなっており、第四部である絶対的なものの哲学(宗教および芸術の哲学)において初めて、絶対的な人倫が扱われることになっていた。この中でヘーゲルは、絶対的な精神を民族に宿る精神と理解して、人倫的自然と物理的自然の両者を包み込む「民族精神」を、「自然及び人倫全ての精神」と特徴づけている。最終的には、絶対的な精神が自らを純粋な理念へと取り戻すのであるから、精神に根ざす哲学の結びは、実は、その純粋な始まりへと帰って初めて完成されるものなのである。
そこで、ヘーゲルは、『自然法講義』(『人倫の体系』続稿)の中で、哲学体系の結びを芸術・宗教・学問の三つに分けた上で、絶対的な精神がもっとも具体的な形で現れてくる宗教を詳しく叙述している。それによれば、精神は、民族の全ての部分において民族の精神となって現れ、客観的なものを生き生きと形成しているという。しかしそれは、宗教における客観的なものとして主観的なものを根絶するのではなく、むしろ、その経験的な個別性のみを否定することによって主観性及び特殊性を克服したものと受け取られる。したがって、個別的なものは、普遍的なものの内で抹消されるのではなく、そこで純化されて絶対的なものへと向けられることになり、これによって、民族の精神を享受することができるのだという。
このように、ヘーゲルは、民族の精神が宗教と結びつくところに、民族の神を見ている。宗教においては、経験的なものへと広がった民族の精神が収斂して、そして、宗教上の儀式において最高の地点へと達するのである。そこでは、民族の精神は個別的なものの中に自分自身を認め、また、個別的なものは精神において自分自身を認める。したがって、宗教の本質は民族の精神が個人において現れてくるところにあるから、個人にとってもまた、純粋なものである精神は隠されてはいない。ヘーゲルによれば、神の本質とは、経験的なものの全体として自らを客観的に表現する精神とみなされるから、精神という概念の中には、精神のもつ思弁的な理念と共に、すでに、民族におけるような経験的な限定が含まれているのである。
ヘーゲルは、真理の絶対的な認識である思弁を、一方では、個々の独立した生の限定において理解しながら、他方では、無限なものの単純な意識へと還元している。思弁の中でも礼拝によって特徴づけられる宗教は、その主観性の放棄によって、学問及び芸術から区別されている。それは、神事において個人のもつ個別性を捨て去り、そしてその所有を放棄して、主観をその最高の地点にまで高めるのである。したがって、芸術が理念を客観に制限するのに対して、宗教は決して理念を制限することはない。むしろそれは主観のもつ個別性を捨て去って、そこから脱却していくものなのである。
そこで、宗教による主観の放棄とその克服が、宗教の根本にある和解を形成することになる。和解は、個別性を否定することによって精神のもつ普遍性に向けられているが、しかしそれも、個別性を完全には廃棄することができない。ヘーゲルはここに宗教のもつ否定の限界を定めて、宗教における精神の姿を見ている。すなわち、「宗教における精神は、学問の理念の内にあるのではなく、現実との関わりの内にあるのだから、制限された姿をもたざるを得ないのである」。制限された姿が固定されると、精神が主観的かつ客観的な姿をとって現れてくる学問とは異なって、それは、専ら客観的なものとして、既存の宗教がもつような制度的側面を形成することになる。ヘーゲルは、宗教の根本にある和解の内に、すでにこのような転倒(イロニー)を見ている。彼は、宗教上の儀式を、芸術及び思弁のもつ客観的な性格と対比して、礼拝の中に個別的なものの犠牲を認めながらも、和解によって更にその転倒が引き起こされることを見抜いているのである。
また、ヘーゲルは、講義草稿の断片『その形式』(1803年)においても、個々の神話を通して民族の形態を叙述していくが、そこでも、神々は常に、変転する中で基礎に横たわっているのであるから、神々の有限なものへの現れは、自分自身の中へと転倒を持ち込むことになるという。ヘーゲルは、絶対的なもののこのような転倒を、無限なものが人倫的自然の中で有限なものとして現れること、と理解している。したがって、絶対的なものとは、制限されたものとなりながらも同時にこの制限を克服するものなのであり、この克服が、有限なものとの和解を形成することになるといえる。
更に、『自然法講義』(『人倫の体系』続稿)の中でヘーゲルは、宗教の諸形態を、理性のもつ三つの段階に応じて考察している。ローゼンクランツの報告によれば、ヘーゲルは、その当時の自然哲学的な表現でもって、宗教の諸形態を、それが置かれている風土との関連の中で検討しているのだという。
宗教の第一の形態は、ヘーゲルによると、自然と精神が完全に一致した自然宗教である。この純粋な一致は、想像力によって表現されると汎神論となり、そこでは、精神が客観的な姿をとって現れてきて、古代国家のような人倫的な組織を形成することになるという。ヘーゲルはここで、精神の表れが芸術として形作られるギリシアの汎神論的な自然宗教を念頭に置いている。ただし、芸術は理念を具体的な姿に限定しているが、宗教は理念を制限することはないから、神々は歴史的な姿にも思想の中にも解消されることはない、と考えられている。そこで、美しい神話がもつ芸術美でもなく、その理想の実現でもなく、むしろ両者の不可分の統一から古代ギリシアの民族宗教が生まれてきたといえる。したがってそれは、思弁のもつ最高の理想を含んでいるともいえるが、しかし根本の調和を確信しているだけであるから、美しい神々の世界もついには没落して、それはただ思い出として残っているにすぎない。民族と神々とのこのような関係が自然宗教の運命をあらわにしており、そこでは、自然と精神の統一は分裂して、根本にある調和も解消することにならざるを得ない。
ここから、宗教の第二の形態が生まれてくる。つまり、自然と精神の統一が失われたところで、分裂の中から相対的な統一が構成されるのである。この過程において、人倫的な組織はその生命を失い、神々は世界から退いていくことになる。だが、神々が自然から退いて、世界を見捨てる中で、無限の分離にも拘わらず、絶対的なものとの一致を確信するものが生まれてくる。この段階が、ヘーゲルによれば、ローマ時代であるという。ローマ人は、諸民族のもつ生き生きとした個性を打ち砕き、彼らの人倫を打ち壊して、普遍的なものの支配を確立したのであり、そのことによってローマ人は、個別性を欠いた抽象的な普遍性を生み出して、空虚なものを個々のものに押しつけたのである。したがって、この時代は、個別的なものと和解することのない普遍化の時代として特徴づけられる。観念と現実、普遍と個別は分離して、自然は神聖さを失って亡骸となってしまった。そして精神は、生きた自然を見捨てるばかりか自然に反するものとして現れてきたのである。これは、民族精神も国家意識もなく、自然から神が逃れてしまった神の不在の宗教なのである。ここから限りない苦悩が生じてくるから、こうした宗教の原理は、自然との分離による無限の苦悩として特徴づけられる。
しかし、苦悩がなければ宗教における和解ということも考えられない。ヘーゲルはここでユダヤの宗教を想定しているが、この考えにはすでに、イエスという歴史的な人物を救世主キリストと認めて、これによって神との和解を取り戻すことが準備されている。宗教は苦悩を生み出して、その苦悩を和らげるために無限の苦悩を自分の内に担って、完全なまでに自分自身との和解を成し遂げようとする。それは、苦悩と和解とを共に包み込むものとして構成されている。そして、和解を目指す宗教の無限の苦悩から、自分自身を克服するという構想も生まれてくるのである。宗教は、和解のための、神人との一体化を要求するのであり、この一体化によって宗教は自然を神聖化し、またその限りで、人間の本性も神聖なものとなる。したがって、神が人間の姿をとって現れてくるのは、個人が絶対的な精神と一致するためであるといえる。神は生と死によって世俗化され、人間は神の復活によって神聖化される。それによってまた、政治上の権利も宗教によって授けられ、世界は再び精神との和解の内に置かれるのである。
イエスは、国家と世界を軽蔑することによって現実との無限な分離を体現していたが、そのことによってキリスト教は、自然に対する無限の隔たりを生み出したのである。そしてこの宗教は、自然との融和を再構成するために、調和の再生を目指すことになる。これが三一論である。ヘーゲルはこれを、三つの段階を経て統一が再生される過程として描き出している。すなわち、父としての神の思想は、神による創造を経て子として現れ、ここにおいて、子が本来もっている神性と、子が人間となってもつ世界の個別性とが一つになる。これによって、客観的な世界と主観的な思想との統一として精神が生まれてくる。そして根本にある統一は、分裂を超えて自己認識へと達することになる。自然宗教において芸術として現れてきた精神は、今では思想となって捉え返されている。したがって、再生した宗教は、自然宗教のように神話を理想の形で掲げているのではなく、思想を理性の形式において把握しているのである。
だが、カトリックは、礼拝によって主観と客観の統一をなす美しい宗教であったが、プロテスタントは、その神聖化の儀式を否定して、神聖なものとされた自然を普遍によって支配しようとした。これによって、無限なものへの宗教的な高揚と有限なものの神聖化が失われてしまったのである。個々のものは苦悩と和解によって初めて神と結合できるのであるが、プロテスタントは、この生きた苦悩と和解とを、果てしない憧れへと変えてしまったのである。「カトリックがもっていた主観的なものと客観的なものとの統一は、主観主義の内へと入っていき、憧れの感情へと変わってしまったのである」。こうしてプロテスタントによる統一の主観化は尽きることのない苦悩を神聖化したにすぎないから、むしろそれは、「天空に向かうため息」にすぎないのである。
そして最後にヘーゲルは、宗教の第三の形態として、哲学に基づく新しい宗教を構想する。ローゼンクランツによると、「ヘーゲルは、キリスト教から哲学を介して宗教の第三の形態が現れてくると確信していた」のだという。そうであれば、宗教の諸形態を歴史的に叙述する中で、来るべき宗教が哲学の媒介によって形成されることになったといえよう。これは、精神が具体的な姿をとって現れる中で、分裂した宗教が統一されて、再構成された統一の中から無限の苦悩を自らにおいて克服する、新しい宗教が生まれてきた、ということなのである。そしてそれは、理性のもつ統一が人倫的な精神として実現されている自由な民族において登場してくるのだという。つまり、人倫的な民族において二つの宗教形態が統合されて、無限な対立を経て統一された宗教の第三の形態が生まれてくるのである。再構成された統一においては、美しい自然宗教でもなく、また神聖なキリスト教でもなく、より高いものが具体的な形態をとって現れてきて、人倫的な精神を実現した形態として理解される。すなわちここに、自然の中に精神を吹き込むことによって、苦悩と対立を含みながらも同時にそれを克服する思想として、精神の哲学が確立されるのである。このようにしてヘーゲルは、ローゼンクランツが「ヘーゲルの基本体系」と名づけたような、精神をもって頂点とする哲学の体系へと達したのである。
この記事へのコメント