「体系のための二つの注釈」等の断片(弁証法の成立根拠) (1)
弁証法は形式論理学とどういう意味で根本的に違うのだろうか。一般的に、例えば運動とか、全体的なものとかを認識する上で、矛盾律に反する表現が、必要かつ不可欠であることを説いて弁証法の成立根拠としても、実際のところ、単にある特定の事象について、形式論理学的でない表現が<可能>であることを説く以上には出なかったと思われる。そして、両者が、論理として同じ次元に成り立つものであるかどうかという根本問題ははっきり論究されることはなかった。
弁証法という考え方の成り立つ、一番根本の前提はどこにあるのか。もしも、形式論理学と弁証法との関係を明らかにしようとするならば、両者がどこで分かれたかということを突き止めなければない。
「運動においては、同一物が、同時に、一定点に、あり、かつ、ない」という運動矛盾論は、弁証法の最も適切な例としてよく取り上げられる。いわゆる弁証法の実例と称されるものの中には、必ずしも「同じ関係において、AがBであり、かつ、Bでない」という厳格な意味の矛盾とはみなされないものが多いのに対して、この運動矛盾論には、矛盾のための条件が完備されているとみなされるのがふつうである。これは一定の論理的な手続きから得られる論理的結論なのである。そこで、ひとまず、その論理的手続きにはどのような前提があるのか、それを探り出してみなければならない。
運動を映画のフィルムに移った像のように考えることは、間違いであると力説する人が多い。確かにこれは「運動矛盾論」の解釈としては間違っている。しかし、運動の解釈として間違っているかどうかは別問題である。世界全体を、一つのモデルとして、点滅するネオンサインによって照らし出された世界のように考えたところで、論理上、実用上不都合は生じないであろう。こうした前提の上に立って、運動するものの連続性を認めようとすれば、ちょうど点の集まりを線とみて、点線の方向や長さを語ることができるように、結局のところ、存在する点と点に対して第三者になるものによって、点と点相互の関係が打ち立てられることになろう。この第三のものが、「純粋意識」といったものであるのか、あるいは「超越論的統覚」であるか、それともそれ自身はメンタルなものでない「モデル」にすぎないか、今は問題にしなくてよい。実在するものは原子的な点であり、関係の存立は、点と点に対する第三者であることが確認されればよい。この際、運動が単なる「臆見」や「仮象」とみなされるか、あるいは何らかの「実在性」が賦与されるか、それも問題にしなくてよい。
さて、この考え方によれば、運動する物体が、まるで点線のように、アル、ナイ、アル、ナイというあり方をするように思える。これはひょっとすると矛盾を生み出さないとも限らない。なぜなら、同じものがアル、ナイというあり方をするとも考えられるからである。しかし、この「トビ」をなくすよう考えることは可能であろう。直線上に幅のない切断点を考え、この点によって、すべての直線上の点は前後に分けられるとする。そして、この点そのものは、常に前の組か、後の組かいずれか一方に入れるものとする。すなわち、前の組か、後の組か、どちらか一方にのみ端があると考えるのである。その時、運動する物体が、その切断点を通過するということは、常に、一定時に、一定点にある、ということであって、「あり、かつ、ない」という矛盾は成り立たなくなる。つまり、先の例で、点線であったものを、連続した線に置き換えても、やはり不都合は生じないのである。こうなると、しかし、運動矛盾論は存立の余地がなくなってしまうであろう。運動矛盾論はいかなる前提のもとに成り立つのであろうか。
まず考えられるいくつかの誤解を取り除かねばならない。第一に、点と点の間の隙間を埋めて線にしたところで、運動する物体の持続的存在は保証されない、と考えられるかもしれない。しかし、物体が存在し続けるとして、それは常にどこかにある。もし、「あり、かつ、ない」と言ったとしても、その「ない」は、どこか他の点の上にあるということでしかない。ところが点と点は連続しているのだから、一つの点に関しては「ある」とのみ言うことによって、物体の存在の連続性は、充分に保証されるのである。
第二に、一つの点に存在するのみであるものは、その点から出ることができない、と考えられるかもしれない。しかし、この際、運動する物体は、点の中にあるのではなく、点の上にあるのだということ、そして次の点との間に「トビ」はないのだということを忘れてはならないであろう。
それでも第三に次のような考え方が持ち出されるであろう。「あり、かつ、ない」とは、点の中から出るという意味ではなく、点を通過すると考えた上で、なおかつ成り立つ。「あり、かつ、ない」の「ない」は、決して他の点の上にあるという意味であってはならない。「同時に、一点に、あり、かつ、ない」ということによって、運動の内在的な把握が可能であり、そうでない限り、運動は常に外部から持ち込まれた原因によって行われると解されるより他はないという考え方である。実は運動矛盾論では、常に運動の内在的原因は矛盾である、ということが語られている。しかしその前に、運動が矛盾であるのでなければならないであろう。
さて運動するものが、点の上に、あり、かつ、ない、のだとすれば、この「ない」は、その点から「去ろうとしている」こと以外の何も語っていないことになるであろう。しかし、「去ろうとしている」ことが「ない」によって表現される以上、「ある」ということが、すでに初めから「一定点に静止している」という意味で考えられていることになる。つまり、この考え方では、空間上の一定点を、他の点が通過することを、その点上に単純に「ある」とは認められていないのである。するとここでは「存在する」と言う語に「静止」という意味が含まれている限りにおいて、「運動する」を「存在する」で表現すれば、矛盾になるということを言っているにすぎなくなってしまう。運動矛盾論に対して、「単に<運動する>と言えば矛盾ではないか」と言って論駁することは、一見、無造作に見えて、実は最も根本的な批判となるのである。(なお、また運動矛盾論において「アル、ナイ」は、実存に関するものであり、矛盾律で言う「アル、ナイ」は本質に関するものであり、たとえ運動矛盾論に従って「アリ・カツ・ナイ」としたところで、それが矛盾律に反するとは言えない、という論点も成り立ちうる。)
さて、このようにして運動矛盾論は、充分に批判され尽されたように見えるかもしれない。しかし、それはいかなる前提によってそうなったのであろうか。第一に、直線における点の連続を矛盾なく保証するということであり、第二に、存在の二義性(静的存在と動的存在)を排除することによってであった。もし運動矛盾論が復活しうるとしたら、この二つの前提を覆すことによって行われるであろう。ここには確かに二つの根本的な考え方の分かれ道がある。しかし我々は、さらにこの二つの前提の根源に遡ることによって、分かれ道の根本に接近しなければならない。
第一の前提はこうであった。点を線上の切断点と考え、この考えによって、線上のすべての点は二組に分かれ、その切断点の点そのものも、どちらかの組に入れる。従って、その点が入った方の組には端があり、他の組には端がない、ということであった。ここでは、切断点が両方の組に属するとするところから発生してくる限界一般が持つ矛盾を、切断点そのものを一方の組に入れることによって避けている。一般に限界点は、両方に属するか、一方に属するか、どちらにも属さないかのいずれかである。両方に属するとすれば限界は矛盾をはらむ。どちらにも属さないとすれば連続は成り立たない。そこで一方に属すると考えることによって、矛盾を避けて、連続を保証したのである。数学の議論であれば恐らくそれで充分であろう。
問題は、端を持つ一方の組と、端のない他方の組とは、関係としてどのようなあり方をしているか、ということである。一方の組には端がないにも拘わらず、そこに連続という関係が成り立つのは、むしろ端がないということによって、その間に量としての隙間がないという連続性の保証をもたらすものであるが、端がないということによって、関係の存立そのものが脅かされないであろうか。この関係の存立を支えているものが、両方の組を比較することのできる第三者に帰属するのであれば、ひとまず問題はない。我々は第三者として、任意の点を、ただ一方の組にのみ帰属させうることを知り、一方の組と他方の組の間に「トビ」がないことを知る。そして関係の存立の仕方それ自体は、ちょうど点の集まりを、第三者の立場から、線として認める、最初に述べた仕方と同じになるのである。そして運動を観察し、記述するものにとって、こうした関係の存立の仕方は、なんら不都合なものではない。しかしいずれにせよ、これは左右でも、大小でも前後でもいい、ともかく第三の視点を必要とするような関係であろう。
しかしそれとは反対に、関係の存立を第三者にではなく、関係するものそれ自身による関係として認めて行こうとすればどうなるであろうか。端のない組と、端のある組との関係といったものは認められることはなく、したがって限界一般に関しては、限界が両方に属するという矛盾を何らかの仕方で認めるような方向が考えられるであろう。もちろん、ここで言う矛盾が形式論理学で言う「矛盾」と、ぴたり一致するかどうかは別問題である。いずれにせよ、ここでは、より根本的な問題として、関係の存立とは何か、という問いが導き出されざるをえないのである。
運動矛盾論の存立を妨げた第二の前提は「存在」という語の二義性を排除するということであった。我々は普段、何気なしに「ある」という言葉を使って、実際上「ある」とはどういうことかと考えてみる必要はおこらない。それなりに、なんとなく、その意味を了解している。そうした、あいまいな日常的な「存在」についての了解に、運動矛盾論は奇妙な仕方で関わっている。意地悪な言い方をすれば、運動矛盾論は日常的な存在了解のあいまいさを突いていながら、そのあいまいさを解消しようとはしない。つまり、そのあいまいさに付け込んでいるのである。すなわち、ある以上はどこかにある。しかし、どこにあってもある、のである。どこにもないものを「ある」と言うわけにはいかないが、ここにあるものだけを「ある」と言うわけにもいかない。普通の物体的なもの、目の前に置かれる物については、存在すると言える以上、必ずどこかにある。つまり、位置の規定を伴っている。しかし位置の規定と存在とは同義ではない。どこにあってもある、のである。しかし、どこにあってもある、と言えるのは何故であろう。私の右側にあっても左側にあっても、ペンはペンである。ペンとしてある。何かがあるということが、そのものが、置かれた様々の関係を取り去っても、そのものが、そのものとしてあるということであると考えられている。しかし、位置という関係を取り去って、つまりどこにあるというということを抜きにして、そのものの存在を語るわけにはいかないであろう。
関係というものを、物の存在にとって本質的であるとしよう。運動矛盾論の場合では、運動する点の存在は、それが置かれた座標上の点との関係において存在する。その際、運動するとは、一つの関係の存立であると同時にその関係の非存立でもあるのでなければならない、と言いうるであろう。そして我々が運動を観察・記述する際に、そこに矛盾を認めないのは、逆に運動する物体が、剛体として、そのものの置かれた位置関係を抜きにしても存在するという仮定のもとに運動が考えられているからである、と言うことができよう。
いずれにせよ我々は存在ということによって、関係とは何かという問いを導き出さざるをえないのである。しかも関係一般が、関係を離れてあるもの、つまり自体的存在を前提にするとすれば、この自体的存在と、関係において存在するもの、つまり付帯的存在という存在の二つの根源的なあり方を問題にすることになろう。
我々は、より根本的なものへの問いを、運動矛盾論の検討によって着手した。そして二つの前提、すなわち線上の点を矛盾なく保証すること、及び存在の二義性を排除することによって、運動矛盾論が自己の根底へ突き落されるのを見た。そして我々はこの二つの前提に対して、より根源的な問いとして、関係の存在とはいかなるものか、という問い、及び存在にとって関係とは何か、という問いに到達したのである。この二つの問いは「存在と関係」という一つのタイトルにまとめることが許されるであろう。
ものの存在一般を考えるという抽象的場面で、我々は存在と関係とをどう考えたらよいであろうか。普通の考え方では、まず一つ一つ別々のものがあって、それらのものが互いに関係し合っていると考えるであろう。例えば机の上に本がある。机と本という単独の物が上下関係で結ばれている。机と本とはそれぞれ、その上下関係を離れても存在するもの、関係の外にあってもその本性を変えることのないものと考えられている。机の下に置いたところで本は本であると言えるならば、それでよいかもしれない。しかし机の上の本は「読まれるべき本」であり、本が本としてもつ目的にふさわしいあり方をしているのに対し、机の下の本とは、もはや読まれるべき本ではなく、枕代わりの本か、単なる私の所有品という資格で存在する本だとすると、本と机はその上下関係を離れてもその本性を変えないと言い切れるだろうか。電車の走らないレールは、もはや可能性としてのレールに過ぎず、現実的なレールではない。電車とレール、本と机といったものについて言えば、空間上の単なる位置も、その本性にとって無意味ではない。我々が世界の中で出会うものは、いずれにせよ、特別な事情・連関の中に置かれているのである。
確かに世の中には偶然的な関係というものもある。「袖触れ合うも他生の縁」とばかりも言ってはいられない。ゆで卵を割るのに太い方の端から割るか細い方の端から割るかで戦争を行うのは、戦争というものを風刺して見事だが、スウィフトによるその風刺が効いているのは、それが誰の目にも「どちらでもよい」という意味で無関係であるからである。確かにそれは「我々にとってどうでもよい」。しかし、「我々にとってどうでもよい」ということは、一般に関係を離れたあり方なのか、関係としてのあり方なのかと言えば、もちろん「我々にとって」という関係を含んだあり方と言わざるをえない。
こう考えてくると、ものの存在一般を、関係という形で考えることには、確かに利点がある。我々が普段気づかずにいるような、様々の関係を残るくまなく明らかにするという構えができる。関係を媒介と言い直して、ヘーゲルの言葉を借りれば「媒介を意識にもたらすことが哲学の使命である」。もちろん、我々の普通の考え方とはそぐわない点も出てこよう。しかしこの考え方を一貫させていくことはできるだろう。実は、弁証法を語るものは、つねに、関係の偏在ということを語ってきたけれども、単に関係の偏在を語ることに弁証法が成り立つのではなく、その考えを一貫させていこうとすると、そこに生まれて来ざるをえない困難を解決するところから、弁証法が生まれてくるのである。
関係をつぶさに意識するということは確かにわずらわしい。「本」と言わずに「机の上の読まれるべき本」といちいち言わなければならないようなものである。なぜわずらわしいかと言えば、本ということを言うのに、いわば二重の手続きをとっているからである。「机の上の読まれるべき本」と言うときにも、やはり「本」という言葉は使うし、その限りで、何といっても、「本」は関係を離れても存在するものという意味は失っていないからである。すなわち、関係を語る以上、それより先とは言わないまでも少なくとも、同時に、関係の項として、一応関係を離れた存在を定立せざるをえない。
関係の存在が根源的であることを認めた上で、しかも関係の項になるものの単純性、独立性を認めようとすれば、そうした項としての性質を持つものに「自己関係」という存在性質を賦与しておけばよい。もし「媒介」という言葉を用いるなら「自己自身に媒介している存在」と言えばよい。実際ヘーゲルにおいて、この用語法は非常に多くみられるものである。
こういう考え方は、しかし、我々の日常的なものの見方の中にも存在しないわけではない。例えば、英語の by oneself という言い方では、ものの存在をひとまず他との関係において設定しておいて、他者への関係から離れた「単独性」を自己関係という形で表している。つまり、人というものを、必ず誰かの傍ら by に居るものと考えておいて、誰の傍らにもいない単独のあり方を、自己自身の傍らに居る、という形で把握するのである。「自分自身に向かって話しかける」のは「独り言」である。「自分を教育する」は「独学」である。いずれも自己関係という形で単独性を表現しているのである。
ヘーゲルがその弁証法的思想を表すキーワードとした即自とか、対自とかの概念も、同じ発想法から出てきている。関係するものの際どい接触面で、それでも「一方の側に即して」成り立つ事態を述べるとき、ヘーゲルは「それに即して」という言い方をしている。従って、即自と言えば、自分が自分に直接的に接していること、つまり、他との接触を、その接触の際どい現場で断ち切って、単独性を保持しているあり方である。だから即自的なものはすぐさま、対他となって他に対してしまう。この「他に対する」という関係の局面から、自己を回復するには、一度、自己を他に照らし合わせて自覚する必要があるが、こうして自己の単独性を回復したものが、対自である。即自も対自も、いずれにせよ他との関係を想定した上で、自己関係という形で単独性を持つ段階を表しているのである。ただ即自が他への無自覚によって(従って自己への無自覚によって)そうであるのに対して、対自が自他への自覚によって、そうであるという違いがあるにすぎない。
まず関係が存在し、外に向けた関係の触手を自己自身に向けることによって単独性が成り立つ、このプロセスを、そっくり術語化して、ほぼ定着した用語になっているのが、ヘーゲルの言う「自己内反省」という言葉である。これにはほとんど同じ内容の「自己内に帰る」とか「自己内に戻る」とかの言い方があることでも分かるように、反省 Reflexion と言っても光の反射 Reflexion と同じことで、他のものに当たって跳ね返って来ることである。こういう場面を考えればよい。たくさんの人間が手をつなぎ合っていて、関係の内に自己の単独性を喪失している。自己の単独性を取り戻すには、その手を、自分自身の中に折り返さなくてはならない。つまり「自己内に反省」しなくてはならない。(とすると、これが「反省」といういかにも心的なプロセスを意味する訳語を振り当てられていることを不当だと思う人もあろう。それが実はまさに「反省」という意味を持つことは後に述べる。)
関係の項となるべき独立した存在を、差し当たり自己関係、自己内に反省した存在と考えることによって、存在一般を、ひとまず関係として捉えることができるのであった。それでは次に、関係の存在はどのように捉えられねばならないであろうか。
関係にとって最も根本的な問題は、関係の存在は、関係する存在者にとって、内在的か、外在的か、ということである。我々はごく素朴に、つまり反省以前の次元で考える限り、関係が関係するものに対する第三のものによって成り立つとは考えていないであろう。すなわち、関係の内在性は直接性の次元では存立している。例えばスタンドの左に灰皿があるというとき、確かにそれはちょっと考えてみれば、つまり反省を加えれば、それを見る第三者の存在を抜きにしては成り立たない関係であるけれども、「灰皿はどこ」と聞かれて「スタンドの左」と答えるときには、「スタンドの左」という規定を灰皿が持つものとして語っている。ちょっと心配になって、隣室で灰皿を探している友人に「窓の方を向いて左だよ」と言うとき、私はもはや反省の地平に立っている。すなわち我々にとって、それが端的に真理であるような関係とは内在的関係である。
もちろん我々はたやすく、左右が私の視点の位置という第三のものによって成り立つ関係であることを自覚する。しかし、それによって、左右という規定が、灰皿とスタンドそのものの規定であることが消滅するわけではない。私にとって左であるものが、私の向いに立つ訪問者の右であることは自覚されている。つまり灰皿がスタンドの「隣り」にあるという関係は客観的なものとして残る。さてこの「隣り」という関係は内在的か外在的かと考えてみると、またしても直接の真理としては内在的であると言いうるであろう。一般にAとBの関係が f(A、B) で表されるとして、その関係の真理とは、その規定がAそのもの、Bそのものの規定であることに他ならないであろう。
しかし我々にとって関係の真理が内在性にあるとしても、本性上、関係の真理は外在性にあるのではないか、との問いが発せられるであろう。こう考えてみよう。二つのものの関係は第三者によって成り立つとする。しかしさらに、関係におかれた存在者と、第三者のものとしての関係そのものとの関係はいかにして成り立つか。関係一般が外在的であるなら当然第四者が求められ、かくして第五者、第六者等々と、次々に関係の責任者を追及する営みは発展する。ヘーゲルの用語で言えば、これは典型的な悪無限である。関係はどこまでも遡っても「まだ存在していない」のである。関係の外在性を原理とすれば関係一般は成立しない。こう言わなくてはならない。関係の内在性を原理として、その内に外在的関係を認めることは不可能でない。しかし、外在性の原理は、関係一般を不成立に終わらせてしまうのである。関係一般の原理は、その内在性にある。外在的関係は、一般に内在的関係に還元されて初めて、関係としての存在を得るのである。
関係の内在性は、関係が直接的真理として存在する仕方であるという意味で関係の理想であった。そして、あらゆる関係は内在的関係に自己の根拠を持つのであった。つまり、関係の内在性は根拠として関係の始元であり、理想として関係の終末である。すなわち、関係の内在性とは関係一般の原理である。
関係するものが、第三者の存在を抜きにして直接に関係するという事態は、「限界」によって最も端的に表象せられる。我々は普通、限界というものを、あるものと他のものとの間の仕切りと考えるであろう。しかし、仕切りという第三のものがあると考えるわけにはいかない。仕切りそれ自体は、何かかさ張ったものではなく、それ自身は無いものでなければならない。無いものによって仕切られているとは、何物によっても仕切られていないこととなりかねない。しかし、仕切りがあるものであるとすれば、仕切られた両者は、直接に関係してはおらず、仕切りと仕切られたものの間に同じ関係が生まれることになる。
少なくとも、仕切りは無として存在しなくてはならない。この存在する無が、どちらにも属さないとすれば、両者は直接に関係しておらず、断絶があることになるであろう。その断絶に関係を認めるとすれば、関係は第三者によって成り立つことになる。仕切りが片方に属すると考えると、仕切りは無ではなく有であり、もはや仕切りではなくなるであろう。残された道は、仕切りが両方に属すると考えることである。これもまた仕切りとは言えまい。
どのように考えても、関係の内在性という原理を貫こうとすれば、矛盾は避けられない。それどころか、いずれにせよ、仕切りの解消という結果が生まれるのである。かくして我々はこう言わなくてはならない。「関係には、関係するものの統一が含まれる。」
関係するものは、関係することによって、結合されている。しかし、この「結合」ということを、「接触」と考えるならば、これは再び限界の問題に立ちかえることになるであろう。従ってここで「結合」とは、二つのものの接触ではなく、二つのものが一つであることと解さざるをえない。ちょうど、二つの水滴が触れ合うことによって一つのものとなるように、二つのものは関係によって一つのものになる。しかし、この一つのものが再び他の何かと関係を持つならば、再び大きな水滴が生まれることになろう。このようにして、ついには世界は単一の一者となるであろう。この単一の一者は、もはや他のものとの関係を持たないもの、従って、限界という関係を持たないものとして、無限なものである。
関係の内在性という原理を追い詰めていけば、ついに茫漠たる「東洋的実体」に行き着くより他はない。この無限なる一者に、様々の物の区別が導入されて、規定が与えられるとしたら、この一者にとって「規定とは否定に他ならない」であろうし、従ってまたこの無限なる一者は、自己の内に、否定・限定を持つものを包含するであろう。すなわち「有限者」を自己の内に含む無限者であろう。
実に奇妙なことに、関係の原理として、その内在性を立てたとき、やはり、関係そのものは解消してしまうのであった。しかし、関係の内在性の支配下にあって、関係を可能ならしめるもの、それは、東洋的実体の真っ只中に、関係の項となるべき個体性を生む原理として追求されなければならない。
関係の本質を探ってみると、実にそれだけですでに「矛盾の巣窟」なのであった。しかし、この「矛盾」をもって弁証法の成立根拠とするならば、弁証法は世界について何事も語りえない不毛の原理にしかすぎないであろう。そして、この原理をつきつめて東洋的実体に到達したとしても、そこに我々は純粋な「存在」を見出すのみであって、それについて何事も語りえないであろう。ヘーゲルはこう述べている。「実体は理念の発展段階における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、我々はそれを絶対的な事物と言うこともできるが、しかしそれは同時に絶対の人格性でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。スピノザは血統からいってユダヤ人であった。すべて有限なものを一時的なもの、消滅するものとのみ見るのは、一般に東洋的な見方であるが、これが彼の哲学において論理的表現を見出したのである。実体的同一という東洋的な見方は、あらゆる真の発展の基礎をなすものではあるが、しかしそこで立ち止まることはできないものである。それになお欠けているもの、それは個体性の原理である。」(エンチュクロぺディー§151)
一方では、あらゆる個体性の解消をもたらすところの関係の内在性という原理の支配を認めたうえで、なおかつ、個体性の基礎付けを行わなければならないのである。ここに「個体化の原理は何か」という、かなり以前に哲学者達によって見捨てられてしまった古い設問が、生き返らせられるのである。もはや存在を原理的に、関係を含む存在として、例えば、「人間」存在を「間柄」として、捉えることによって、個体性と他者性、あるいは全体性とを、両立せしめうるというような、ある意味楽天的な思想は、自己の根底へと突き落されざるをえない。「間柄」が、個の抹殺にいたる必然性をはらんでいることを、充分に見届けつつ、その中に、個体性の存立を保証しなければならない。一般に、「個体化の原理」を求める問いにおいて、第一の前提となっている事態は、普遍者の実在という事態であった。しかし、今ここで、我々は形相的実体としての普遍者の実在というエレメント(境位)において、個体化の原理を求めているのではない。むしろ、質料的存在が、関係の内在性によって、一者という実体にもたらされた、その境位において、個体化の原理が求められているのである。
我々は普通個体というものをどのように考えるであろうか。私の目の前には、灰皿がある。私はそれを一つの角度から見ている。しかし私はそれを他のあらゆる角度から見ることができるということを知っている。灰皿が私の幻影ではなく、心の外にある実在であると確かめることができるのは、灰皿を、様々の角度から捉え、射影しつつも、その灰皿が、そのあらゆる角度からの射影をはみ出た存在であることを、私が多様な連続的射影を総合するプロセスを通じて知っているからに他ならない。簡単に言って灰皿は、多数の射影関係を<集めている>。
しかし、関係の内在性という規定からすれば、関係の集約とは、灰皿が個体性を喪失して、関係へと自己を拡散するということになりうるであろう。ここに集約と拡散は同義である。アナクサゴラスを逆手にとって、「集約」を「生成」といい、「拡散」を「消滅」というならば、「生成」と「消滅」は同一であると言い得よう。集約と拡散の同一性は、関係の内在性が支配する領域では、常にあらわれている。マルクスが「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」と言うとき、彼は人間関係を、社会的関係の集約として捉えることによって、人間的個体の実体性を、社会的諸関係へと拡散させたのである。ここにも「集約」と「拡散」が同義となるという、根源的流動性が露呈している。個体を関係の集約とみなすことは、関係の内在性という原理の支配下にあっては、何ら個体性を保証するものではなく、反対に、個体性の解消をも内含しているのである。
とは言うもののしかし、私の眼前の灰皿は、ふてぶてしくも存在している。他者への多様な関係へと相対化されることなく、他と隔絶した ab-solut なものとして、ひとつの、まとまりを持ったものである。私がこの灰皿を最初に問題にする、その仕方をもしも This is an ash-tray と言うとすれば、おそらく「一つの」を含意する不定冠詞は、他の多数の灰皿という集合から「ひとつ」を取り出して言っているのではなく、「ひとつの」ということによって、灰皿をまとまりとして捉え、灰皿のおかれた関係世界から、灰皿を切り抜き出して絶対化すという役目を果たしているにちがいない。
ひとつの灰皿が、「ひとつ」のものとして、関係から自立したまとまりをもつためには単に関係を集約しているのであってはならない。単なる集約は拡散だからである。したがって灰皿は、<純粋に>・<ひとつ>・<である>のでなければならない。それ自身の内部に部分とか、限定を持たないひとつ、あらゆる他者性を排除したひとつでなければならない。つまり、合成されたものではなく、「単純な」ものでなければならない。しかし、あらゆる存在が関係であり、関係がその内在性によって他者との統一を包含するとき、この単純性はいかにして成り立つであろうか。
単純性を持つものは、一般に「かたち」として考えられる。紙の上に描かれた三角形はその材料に関していえば、まとまりのない粗い点の集まりにすぎない。しかし、ゲシュタルト心理学が精密に明らかにしたように、それを「かたち」として捉えることによって、我々はそれを「ひとつの」まとまりとして捉えるのである。もちろん複雑なかたちでも、それはあるまとまりをもつという意味で単純である。
かたちの持つ単純性と同じ単純性を、持つのは図形だけではない。時計は複雑であるけれども、「時計」という概念によって我々は、単純なまとまりとしての時計をとらえている。どのような概念にも、かたちと同じまとまり、単純性がある。概念は、あらゆるものに単純性を附与することのできる万能の「まとめ」役である。概念のもつ形相的単純性によって、ものは初めて「ひとつ」なのである。灰皿や時計が、多数の関係に拡散してしまわないのは、「灰皿」や「時計」という概念によってである。「名もなき花」と言ってもそれは、まとまりなき花ではなく、「名付けられるべき」花として、概念の単純性によってまとまりを得ているのである。
しかし、ここに奇妙なパラドックスが生ずる。概念の単純性によって、「ひとつ」が保証されるのでありながら、概念自身は常に多数性を内含しているものであるというパラドックスである。つまり概念自身は常に普遍的なものである。関係の内在性の支配下にあって集約を拡散から救う個体化の原理は、概念の単純性である。しかし、概念それ自体は、非個体的なものであり、多数性を持っている。この難問を避けようとすれば、概念が集合としてあるあり方から、単一性、一者性 Ein-heit としてあることを切り離し、概念によって保証される同一性の背後に、概念をこえてある純粋な自己同一性を、例えばイデアといったものとして認めることになろう。そしてイデアにおいてのみ、関係を隔絶した自体的存在が成り立つことになるであろう。ここにも重要な「分かれ道」があると言わなくてはならない。しかし、選択の方向はすでに定まっている。この期に及んで、単一性の原理を、概念をこえる地平に成り立たせるならば、単一性は経験の地平を離れた到達不可能な神秘と化するであろう。とすれば、我々は概念そのものの契機として、そこに内在するものとして単一性を認めなければならない。しかしそれには、存在の仕方として関係における自体的存在、すなわち附帯的にして自体的というあり方を認めるより他にない。ヘーゲルに「他者において自己の許にある存在」、「疎外において自己自身である存在」等々の用語が見られるのは、そのためである。一体いかなる存在を媒介として、そのような存在の仕方が可能になるであろうか。概念の単純性、単一性が、関係という場合でいかなる役割を果たすかを、見ておかねばならない。
存在は関係であり、関係は内在的であり、内在的関係者は実体的統一となり、実体的一者というエレメントにおいて個体化の原理となるものは概念の形相的単純性であった。もちろん概念と名前とは同じではない。同じ名前が別の概念を、別の名前が同じ概念を表すことはよくある。こうしたことは、我々が用いている語彙体系がいわば出来損ないであるために起こることなのであろうか。それとも、どうしても語の多義性というのは避けられないものなのだろうか。「人間も牛も動物である」というとき、「鯨も卵も木に登れないものである」というのと同じ仕方で「動物」という名前の一義性が確保されていると言ってよい。「人間は動物ではない」と言ったとき、事情は変わってくる。人間も牛も同じ意味で動物であるのかどうかがあらためて問題となってくるからである。もし人間がある関係において動物であり、他の関係において動物でないなら、「人間ー動物」という定義は、人間を諸関係の集約点たらしめることに成功していないことになる。関係の内在性はここでも、力を発揮する。人間を理性的動物であると定義したとき、問題は、集約点の単純性をこの定義が保持しているかいないかということである。我々はたやすく人間の概念がもたらされた後で、他と区別する目印として定義を下すことはできても、定義を積み重ねて概念に達することはできないことを理解するであろう。これは、パリを直接に知らない人に、何枚パリの絵を見せても、「ああパリだ」という嘆声を聞くことができない、というのと幾分似た事情にある。
時計にしても、軍隊にしても、羊飼にしても、そうしたものの概念が、そのものの「用向き」にあるとする考え方には充分な根拠がある。時計は様々の部分からなるが、それにまとまりを与えているのは、その「用向き」である。軍隊にしても、様々な部分を持ち、かつ、様々な関係の中におかれているが、その統一性は、ある人は善いといい、ある人は悪いというかもしれないが、その「用向き」、すなわち、それに固有の善さ(アガトン)によって与えられる。派閥の連合体ですら、その目的によって「ひとつ」のものとなりうる。すなわち、概念を、他と区別する(区別はさしあたり外在関係と言えよう)ための徴表としてではなく、そのものが多数の関係の中を、いわば生き抜いて「ひとつ」のものである根拠として考えるとき、その「用向き」こそ概念であると言いうるのである。
「用向き」といい、「目的」といい、「善さ」といい、いずれも今日の我々には、ものの概念というのは、人間臭が強すぎて困ることは確かである。そして「理念」と呼べば、なんだかとても手が届かない感じがする。「価値」と言えば、まず確実に誤解を招く。ある批評家が、さる建築家の論文を諷して「かた」に血が通って「かたち」になると言ったことがあるが、まさに、血の通った「かたち」としての形相が、概念なのである。
さて、ものの概念が「用向き」のごときものとすると、「飛ばぬ飛行機」は、飛行機ではないのか、ということになる。しかし、それも、概念として捉えられることによって可能態として飛行機であるとは言いうるであろう。レールの上になくとも、電車が「電車」であり、机の下の本が「本」であるのは、それによってである。本を本として、ありのままに、すなわち、本のおかれた関係の真っ只中で、本を「本」として関係から切り抜くという捉え方をすれば、すなわち、先の説明で述べたように即自態としての本は、本の可能態なのである。
本が読まれるということは、本の存在にとっていかなる変化であろうか。本は現実態となる。同時にそのことは、他者との関係を回復することに他ならない。本は概念の単一性によって、解消から食い止められてはいる。しかし、その単一性はもはや、自体性・自立性を持っていない、「対他存在」と化している。概念はその自体性・自立性の喪失においてしか現実化されないのである。概念の形相的単純性によって自体性を得る以上、同時にそれ自身抽象的なものである概念の実現は、自体性の喪失を招く。言葉を換えれば、自己疎外こそ自己実現化なのである。
図式化して言うと、単一性は多数性に取り巻かれている。取り巻くものもまた各々単一性をもたなければ、中心の単一性に(関係の内在性の原理に従って)吸収されてしまう。一つ一つの関係は、一者対一者の緊張関係である。集約と拡散の均衡である。中心の一者にとって、一者であることが自己同一性を意味する以上、一者と多者の各々の対立関係は全体としてみると、一者であることと、多数者であることの対立である。この対立は、存在の仕方の対立として、絶対的矛盾である。
この矛盾(論理的矛盾との関係は後に述べる)は、中心となる一者が、自立性を回復することによってしか解決されない。それは、<他>者である<多>者を自己有化することによって行われる。自己の<他者>を、<自己の>他者に転化するのである。つまり、他者を、他者の他者たらしめるのである。今、自己を奴として、他者を主とすれば、主を、<奴の>主たらしめることによって、主がもはや主ではなく、奴の主にすぎないもの、つまり、奴の奴として、初めの奴(自己)が主となるということである。一見すると、極めて技巧的な論述に見えるかもしれないが、関係の内在性というエレメントにおいては、関係する者の自体性が常に転換可能であることを理解すれば、そうした外見は取り除かれるであろう。
これは、他者との関係を自己自身の内に含むものとして、自己を再確立することである。そうすることによって自己は「他在において自己の許にある存在」へと成長するのである。本が、自己の他者との関係、つまり自己の使命を自己の本分、すなわち自己の概念として、反省することである。反省することによって、自己は自己の可能性、即自を、自覚されたものとして、自己内に捉えている。つまり、「自己内反省」している。他者への触手は自己内に折り返されて、自己の自体性・個体性が回復されるのである。本が反省する、電車が反省するというのは奇異かもしれない。しかし、概念によって初めて自体性を与えられるこれらのものにとって、概念の変化は(もしそれが実際上時間的に行われるとしたら認識する意識の存在を当然前提するのであるが、それにも拘わらず)、そのもの自身の変化であらざるをえない。
弁証法という考え方の成り立つ、一番根本の前提はどこにあるのか。もしも、形式論理学と弁証法との関係を明らかにしようとするならば、両者がどこで分かれたかということを突き止めなければない。
「運動においては、同一物が、同時に、一定点に、あり、かつ、ない」という運動矛盾論は、弁証法の最も適切な例としてよく取り上げられる。いわゆる弁証法の実例と称されるものの中には、必ずしも「同じ関係において、AがBであり、かつ、Bでない」という厳格な意味の矛盾とはみなされないものが多いのに対して、この運動矛盾論には、矛盾のための条件が完備されているとみなされるのがふつうである。これは一定の論理的な手続きから得られる論理的結論なのである。そこで、ひとまず、その論理的手続きにはどのような前提があるのか、それを探り出してみなければならない。
運動を映画のフィルムに移った像のように考えることは、間違いであると力説する人が多い。確かにこれは「運動矛盾論」の解釈としては間違っている。しかし、運動の解釈として間違っているかどうかは別問題である。世界全体を、一つのモデルとして、点滅するネオンサインによって照らし出された世界のように考えたところで、論理上、実用上不都合は生じないであろう。こうした前提の上に立って、運動するものの連続性を認めようとすれば、ちょうど点の集まりを線とみて、点線の方向や長さを語ることができるように、結局のところ、存在する点と点に対して第三者になるものによって、点と点相互の関係が打ち立てられることになろう。この第三のものが、「純粋意識」といったものであるのか、あるいは「超越論的統覚」であるか、それともそれ自身はメンタルなものでない「モデル」にすぎないか、今は問題にしなくてよい。実在するものは原子的な点であり、関係の存立は、点と点に対する第三者であることが確認されればよい。この際、運動が単なる「臆見」や「仮象」とみなされるか、あるいは何らかの「実在性」が賦与されるか、それも問題にしなくてよい。
さて、この考え方によれば、運動する物体が、まるで点線のように、アル、ナイ、アル、ナイというあり方をするように思える。これはひょっとすると矛盾を生み出さないとも限らない。なぜなら、同じものがアル、ナイというあり方をするとも考えられるからである。しかし、この「トビ」をなくすよう考えることは可能であろう。直線上に幅のない切断点を考え、この点によって、すべての直線上の点は前後に分けられるとする。そして、この点そのものは、常に前の組か、後の組かいずれか一方に入れるものとする。すなわち、前の組か、後の組か、どちらか一方にのみ端があると考えるのである。その時、運動する物体が、その切断点を通過するということは、常に、一定時に、一定点にある、ということであって、「あり、かつ、ない」という矛盾は成り立たなくなる。つまり、先の例で、点線であったものを、連続した線に置き換えても、やはり不都合は生じないのである。こうなると、しかし、運動矛盾論は存立の余地がなくなってしまうであろう。運動矛盾論はいかなる前提のもとに成り立つのであろうか。
まず考えられるいくつかの誤解を取り除かねばならない。第一に、点と点の間の隙間を埋めて線にしたところで、運動する物体の持続的存在は保証されない、と考えられるかもしれない。しかし、物体が存在し続けるとして、それは常にどこかにある。もし、「あり、かつ、ない」と言ったとしても、その「ない」は、どこか他の点の上にあるということでしかない。ところが点と点は連続しているのだから、一つの点に関しては「ある」とのみ言うことによって、物体の存在の連続性は、充分に保証されるのである。
第二に、一つの点に存在するのみであるものは、その点から出ることができない、と考えられるかもしれない。しかし、この際、運動する物体は、点の中にあるのではなく、点の上にあるのだということ、そして次の点との間に「トビ」はないのだということを忘れてはならないであろう。
それでも第三に次のような考え方が持ち出されるであろう。「あり、かつ、ない」とは、点の中から出るという意味ではなく、点を通過すると考えた上で、なおかつ成り立つ。「あり、かつ、ない」の「ない」は、決して他の点の上にあるという意味であってはならない。「同時に、一点に、あり、かつ、ない」ということによって、運動の内在的な把握が可能であり、そうでない限り、運動は常に外部から持ち込まれた原因によって行われると解されるより他はないという考え方である。実は運動矛盾論では、常に運動の内在的原因は矛盾である、ということが語られている。しかしその前に、運動が矛盾であるのでなければならないであろう。
さて運動するものが、点の上に、あり、かつ、ない、のだとすれば、この「ない」は、その点から「去ろうとしている」こと以外の何も語っていないことになるであろう。しかし、「去ろうとしている」ことが「ない」によって表現される以上、「ある」ということが、すでに初めから「一定点に静止している」という意味で考えられていることになる。つまり、この考え方では、空間上の一定点を、他の点が通過することを、その点上に単純に「ある」とは認められていないのである。するとここでは「存在する」と言う語に「静止」という意味が含まれている限りにおいて、「運動する」を「存在する」で表現すれば、矛盾になるということを言っているにすぎなくなってしまう。運動矛盾論に対して、「単に<運動する>と言えば矛盾ではないか」と言って論駁することは、一見、無造作に見えて、実は最も根本的な批判となるのである。(なお、また運動矛盾論において「アル、ナイ」は、実存に関するものであり、矛盾律で言う「アル、ナイ」は本質に関するものであり、たとえ運動矛盾論に従って「アリ・カツ・ナイ」としたところで、それが矛盾律に反するとは言えない、という論点も成り立ちうる。)
さて、このようにして運動矛盾論は、充分に批判され尽されたように見えるかもしれない。しかし、それはいかなる前提によってそうなったのであろうか。第一に、直線における点の連続を矛盾なく保証するということであり、第二に、存在の二義性(静的存在と動的存在)を排除することによってであった。もし運動矛盾論が復活しうるとしたら、この二つの前提を覆すことによって行われるであろう。ここには確かに二つの根本的な考え方の分かれ道がある。しかし我々は、さらにこの二つの前提の根源に遡ることによって、分かれ道の根本に接近しなければならない。
第一の前提はこうであった。点を線上の切断点と考え、この考えによって、線上のすべての点は二組に分かれ、その切断点の点そのものも、どちらかの組に入れる。従って、その点が入った方の組には端があり、他の組には端がない、ということであった。ここでは、切断点が両方の組に属するとするところから発生してくる限界一般が持つ矛盾を、切断点そのものを一方の組に入れることによって避けている。一般に限界点は、両方に属するか、一方に属するか、どちらにも属さないかのいずれかである。両方に属するとすれば限界は矛盾をはらむ。どちらにも属さないとすれば連続は成り立たない。そこで一方に属すると考えることによって、矛盾を避けて、連続を保証したのである。数学の議論であれば恐らくそれで充分であろう。
問題は、端を持つ一方の組と、端のない他方の組とは、関係としてどのようなあり方をしているか、ということである。一方の組には端がないにも拘わらず、そこに連続という関係が成り立つのは、むしろ端がないということによって、その間に量としての隙間がないという連続性の保証をもたらすものであるが、端がないということによって、関係の存立そのものが脅かされないであろうか。この関係の存立を支えているものが、両方の組を比較することのできる第三者に帰属するのであれば、ひとまず問題はない。我々は第三者として、任意の点を、ただ一方の組にのみ帰属させうることを知り、一方の組と他方の組の間に「トビ」がないことを知る。そして関係の存立の仕方それ自体は、ちょうど点の集まりを、第三者の立場から、線として認める、最初に述べた仕方と同じになるのである。そして運動を観察し、記述するものにとって、こうした関係の存立の仕方は、なんら不都合なものではない。しかしいずれにせよ、これは左右でも、大小でも前後でもいい、ともかく第三の視点を必要とするような関係であろう。
しかしそれとは反対に、関係の存立を第三者にではなく、関係するものそれ自身による関係として認めて行こうとすればどうなるであろうか。端のない組と、端のある組との関係といったものは認められることはなく、したがって限界一般に関しては、限界が両方に属するという矛盾を何らかの仕方で認めるような方向が考えられるであろう。もちろん、ここで言う矛盾が形式論理学で言う「矛盾」と、ぴたり一致するかどうかは別問題である。いずれにせよ、ここでは、より根本的な問題として、関係の存立とは何か、という問いが導き出されざるをえないのである。
運動矛盾論の存立を妨げた第二の前提は「存在」という語の二義性を排除するということであった。我々は普段、何気なしに「ある」という言葉を使って、実際上「ある」とはどういうことかと考えてみる必要はおこらない。それなりに、なんとなく、その意味を了解している。そうした、あいまいな日常的な「存在」についての了解に、運動矛盾論は奇妙な仕方で関わっている。意地悪な言い方をすれば、運動矛盾論は日常的な存在了解のあいまいさを突いていながら、そのあいまいさを解消しようとはしない。つまり、そのあいまいさに付け込んでいるのである。すなわち、ある以上はどこかにある。しかし、どこにあってもある、のである。どこにもないものを「ある」と言うわけにはいかないが、ここにあるものだけを「ある」と言うわけにもいかない。普通の物体的なもの、目の前に置かれる物については、存在すると言える以上、必ずどこかにある。つまり、位置の規定を伴っている。しかし位置の規定と存在とは同義ではない。どこにあってもある、のである。しかし、どこにあってもある、と言えるのは何故であろう。私の右側にあっても左側にあっても、ペンはペンである。ペンとしてある。何かがあるということが、そのものが、置かれた様々の関係を取り去っても、そのものが、そのものとしてあるということであると考えられている。しかし、位置という関係を取り去って、つまりどこにあるというということを抜きにして、そのものの存在を語るわけにはいかないであろう。
関係というものを、物の存在にとって本質的であるとしよう。運動矛盾論の場合では、運動する点の存在は、それが置かれた座標上の点との関係において存在する。その際、運動するとは、一つの関係の存立であると同時にその関係の非存立でもあるのでなければならない、と言いうるであろう。そして我々が運動を観察・記述する際に、そこに矛盾を認めないのは、逆に運動する物体が、剛体として、そのものの置かれた位置関係を抜きにしても存在するという仮定のもとに運動が考えられているからである、と言うことができよう。
いずれにせよ我々は存在ということによって、関係とは何かという問いを導き出さざるをえないのである。しかも関係一般が、関係を離れてあるもの、つまり自体的存在を前提にするとすれば、この自体的存在と、関係において存在するもの、つまり付帯的存在という存在の二つの根源的なあり方を問題にすることになろう。
我々は、より根本的なものへの問いを、運動矛盾論の検討によって着手した。そして二つの前提、すなわち線上の点を矛盾なく保証すること、及び存在の二義性を排除することによって、運動矛盾論が自己の根底へ突き落されるのを見た。そして我々はこの二つの前提に対して、より根源的な問いとして、関係の存在とはいかなるものか、という問い、及び存在にとって関係とは何か、という問いに到達したのである。この二つの問いは「存在と関係」という一つのタイトルにまとめることが許されるであろう。
ものの存在一般を考えるという抽象的場面で、我々は存在と関係とをどう考えたらよいであろうか。普通の考え方では、まず一つ一つ別々のものがあって、それらのものが互いに関係し合っていると考えるであろう。例えば机の上に本がある。机と本という単独の物が上下関係で結ばれている。机と本とはそれぞれ、その上下関係を離れても存在するもの、関係の外にあってもその本性を変えることのないものと考えられている。机の下に置いたところで本は本であると言えるならば、それでよいかもしれない。しかし机の上の本は「読まれるべき本」であり、本が本としてもつ目的にふさわしいあり方をしているのに対し、机の下の本とは、もはや読まれるべき本ではなく、枕代わりの本か、単なる私の所有品という資格で存在する本だとすると、本と机はその上下関係を離れてもその本性を変えないと言い切れるだろうか。電車の走らないレールは、もはや可能性としてのレールに過ぎず、現実的なレールではない。電車とレール、本と机といったものについて言えば、空間上の単なる位置も、その本性にとって無意味ではない。我々が世界の中で出会うものは、いずれにせよ、特別な事情・連関の中に置かれているのである。
確かに世の中には偶然的な関係というものもある。「袖触れ合うも他生の縁」とばかりも言ってはいられない。ゆで卵を割るのに太い方の端から割るか細い方の端から割るかで戦争を行うのは、戦争というものを風刺して見事だが、スウィフトによるその風刺が効いているのは、それが誰の目にも「どちらでもよい」という意味で無関係であるからである。確かにそれは「我々にとってどうでもよい」。しかし、「我々にとってどうでもよい」ということは、一般に関係を離れたあり方なのか、関係としてのあり方なのかと言えば、もちろん「我々にとって」という関係を含んだあり方と言わざるをえない。
こう考えてくると、ものの存在一般を、関係という形で考えることには、確かに利点がある。我々が普段気づかずにいるような、様々の関係を残るくまなく明らかにするという構えができる。関係を媒介と言い直して、ヘーゲルの言葉を借りれば「媒介を意識にもたらすことが哲学の使命である」。もちろん、我々の普通の考え方とはそぐわない点も出てこよう。しかしこの考え方を一貫させていくことはできるだろう。実は、弁証法を語るものは、つねに、関係の偏在ということを語ってきたけれども、単に関係の偏在を語ることに弁証法が成り立つのではなく、その考えを一貫させていこうとすると、そこに生まれて来ざるをえない困難を解決するところから、弁証法が生まれてくるのである。
関係をつぶさに意識するということは確かにわずらわしい。「本」と言わずに「机の上の読まれるべき本」といちいち言わなければならないようなものである。なぜわずらわしいかと言えば、本ということを言うのに、いわば二重の手続きをとっているからである。「机の上の読まれるべき本」と言うときにも、やはり「本」という言葉は使うし、その限りで、何といっても、「本」は関係を離れても存在するものという意味は失っていないからである。すなわち、関係を語る以上、それより先とは言わないまでも少なくとも、同時に、関係の項として、一応関係を離れた存在を定立せざるをえない。
関係の存在が根源的であることを認めた上で、しかも関係の項になるものの単純性、独立性を認めようとすれば、そうした項としての性質を持つものに「自己関係」という存在性質を賦与しておけばよい。もし「媒介」という言葉を用いるなら「自己自身に媒介している存在」と言えばよい。実際ヘーゲルにおいて、この用語法は非常に多くみられるものである。
こういう考え方は、しかし、我々の日常的なものの見方の中にも存在しないわけではない。例えば、英語の by oneself という言い方では、ものの存在をひとまず他との関係において設定しておいて、他者への関係から離れた「単独性」を自己関係という形で表している。つまり、人というものを、必ず誰かの傍ら by に居るものと考えておいて、誰の傍らにもいない単独のあり方を、自己自身の傍らに居る、という形で把握するのである。「自分自身に向かって話しかける」のは「独り言」である。「自分を教育する」は「独学」である。いずれも自己関係という形で単独性を表現しているのである。
ヘーゲルがその弁証法的思想を表すキーワードとした即自とか、対自とかの概念も、同じ発想法から出てきている。関係するものの際どい接触面で、それでも「一方の側に即して」成り立つ事態を述べるとき、ヘーゲルは「それに即して」という言い方をしている。従って、即自と言えば、自分が自分に直接的に接していること、つまり、他との接触を、その接触の際どい現場で断ち切って、単独性を保持しているあり方である。だから即自的なものはすぐさま、対他となって他に対してしまう。この「他に対する」という関係の局面から、自己を回復するには、一度、自己を他に照らし合わせて自覚する必要があるが、こうして自己の単独性を回復したものが、対自である。即自も対自も、いずれにせよ他との関係を想定した上で、自己関係という形で単独性を持つ段階を表しているのである。ただ即自が他への無自覚によって(従って自己への無自覚によって)そうであるのに対して、対自が自他への自覚によって、そうであるという違いがあるにすぎない。
まず関係が存在し、外に向けた関係の触手を自己自身に向けることによって単独性が成り立つ、このプロセスを、そっくり術語化して、ほぼ定着した用語になっているのが、ヘーゲルの言う「自己内反省」という言葉である。これにはほとんど同じ内容の「自己内に帰る」とか「自己内に戻る」とかの言い方があることでも分かるように、反省 Reflexion と言っても光の反射 Reflexion と同じことで、他のものに当たって跳ね返って来ることである。こういう場面を考えればよい。たくさんの人間が手をつなぎ合っていて、関係の内に自己の単独性を喪失している。自己の単独性を取り戻すには、その手を、自分自身の中に折り返さなくてはならない。つまり「自己内に反省」しなくてはならない。(とすると、これが「反省」といういかにも心的なプロセスを意味する訳語を振り当てられていることを不当だと思う人もあろう。それが実はまさに「反省」という意味を持つことは後に述べる。)
関係の項となるべき独立した存在を、差し当たり自己関係、自己内に反省した存在と考えることによって、存在一般を、ひとまず関係として捉えることができるのであった。それでは次に、関係の存在はどのように捉えられねばならないであろうか。
関係にとって最も根本的な問題は、関係の存在は、関係する存在者にとって、内在的か、外在的か、ということである。我々はごく素朴に、つまり反省以前の次元で考える限り、関係が関係するものに対する第三のものによって成り立つとは考えていないであろう。すなわち、関係の内在性は直接性の次元では存立している。例えばスタンドの左に灰皿があるというとき、確かにそれはちょっと考えてみれば、つまり反省を加えれば、それを見る第三者の存在を抜きにしては成り立たない関係であるけれども、「灰皿はどこ」と聞かれて「スタンドの左」と答えるときには、「スタンドの左」という規定を灰皿が持つものとして語っている。ちょっと心配になって、隣室で灰皿を探している友人に「窓の方を向いて左だよ」と言うとき、私はもはや反省の地平に立っている。すなわち我々にとって、それが端的に真理であるような関係とは内在的関係である。
もちろん我々はたやすく、左右が私の視点の位置という第三のものによって成り立つ関係であることを自覚する。しかし、それによって、左右という規定が、灰皿とスタンドそのものの規定であることが消滅するわけではない。私にとって左であるものが、私の向いに立つ訪問者の右であることは自覚されている。つまり灰皿がスタンドの「隣り」にあるという関係は客観的なものとして残る。さてこの「隣り」という関係は内在的か外在的かと考えてみると、またしても直接の真理としては内在的であると言いうるであろう。一般にAとBの関係が f(A、B) で表されるとして、その関係の真理とは、その規定がAそのもの、Bそのものの規定であることに他ならないであろう。
しかし我々にとって関係の真理が内在性にあるとしても、本性上、関係の真理は外在性にあるのではないか、との問いが発せられるであろう。こう考えてみよう。二つのものの関係は第三者によって成り立つとする。しかしさらに、関係におかれた存在者と、第三者のものとしての関係そのものとの関係はいかにして成り立つか。関係一般が外在的であるなら当然第四者が求められ、かくして第五者、第六者等々と、次々に関係の責任者を追及する営みは発展する。ヘーゲルの用語で言えば、これは典型的な悪無限である。関係はどこまでも遡っても「まだ存在していない」のである。関係の外在性を原理とすれば関係一般は成立しない。こう言わなくてはならない。関係の内在性を原理として、その内に外在的関係を認めることは不可能でない。しかし、外在性の原理は、関係一般を不成立に終わらせてしまうのである。関係一般の原理は、その内在性にある。外在的関係は、一般に内在的関係に還元されて初めて、関係としての存在を得るのである。
関係の内在性は、関係が直接的真理として存在する仕方であるという意味で関係の理想であった。そして、あらゆる関係は内在的関係に自己の根拠を持つのであった。つまり、関係の内在性は根拠として関係の始元であり、理想として関係の終末である。すなわち、関係の内在性とは関係一般の原理である。
関係するものが、第三者の存在を抜きにして直接に関係するという事態は、「限界」によって最も端的に表象せられる。我々は普通、限界というものを、あるものと他のものとの間の仕切りと考えるであろう。しかし、仕切りという第三のものがあると考えるわけにはいかない。仕切りそれ自体は、何かかさ張ったものではなく、それ自身は無いものでなければならない。無いものによって仕切られているとは、何物によっても仕切られていないこととなりかねない。しかし、仕切りがあるものであるとすれば、仕切られた両者は、直接に関係してはおらず、仕切りと仕切られたものの間に同じ関係が生まれることになる。
少なくとも、仕切りは無として存在しなくてはならない。この存在する無が、どちらにも属さないとすれば、両者は直接に関係しておらず、断絶があることになるであろう。その断絶に関係を認めるとすれば、関係は第三者によって成り立つことになる。仕切りが片方に属すると考えると、仕切りは無ではなく有であり、もはや仕切りではなくなるであろう。残された道は、仕切りが両方に属すると考えることである。これもまた仕切りとは言えまい。
どのように考えても、関係の内在性という原理を貫こうとすれば、矛盾は避けられない。それどころか、いずれにせよ、仕切りの解消という結果が生まれるのである。かくして我々はこう言わなくてはならない。「関係には、関係するものの統一が含まれる。」
関係するものは、関係することによって、結合されている。しかし、この「結合」ということを、「接触」と考えるならば、これは再び限界の問題に立ちかえることになるであろう。従ってここで「結合」とは、二つのものの接触ではなく、二つのものが一つであることと解さざるをえない。ちょうど、二つの水滴が触れ合うことによって一つのものとなるように、二つのものは関係によって一つのものになる。しかし、この一つのものが再び他の何かと関係を持つならば、再び大きな水滴が生まれることになろう。このようにして、ついには世界は単一の一者となるであろう。この単一の一者は、もはや他のものとの関係を持たないもの、従って、限界という関係を持たないものとして、無限なものである。
関係の内在性という原理を追い詰めていけば、ついに茫漠たる「東洋的実体」に行き着くより他はない。この無限なる一者に、様々の物の区別が導入されて、規定が与えられるとしたら、この一者にとって「規定とは否定に他ならない」であろうし、従ってまたこの無限なる一者は、自己の内に、否定・限定を持つものを包含するであろう。すなわち「有限者」を自己の内に含む無限者であろう。
実に奇妙なことに、関係の原理として、その内在性を立てたとき、やはり、関係そのものは解消してしまうのであった。しかし、関係の内在性の支配下にあって、関係を可能ならしめるもの、それは、東洋的実体の真っ只中に、関係の項となるべき個体性を生む原理として追求されなければならない。
関係の本質を探ってみると、実にそれだけですでに「矛盾の巣窟」なのであった。しかし、この「矛盾」をもって弁証法の成立根拠とするならば、弁証法は世界について何事も語りえない不毛の原理にしかすぎないであろう。そして、この原理をつきつめて東洋的実体に到達したとしても、そこに我々は純粋な「存在」を見出すのみであって、それについて何事も語りえないであろう。ヘーゲルはこう述べている。「実体は理念の発展段階における一つの本質的な段階であるが、しかしそれは理念そのもの、絶対的理念ではなく、必然性というまだ限られた形式のうちにある理念である。もちろん、神は必然性であり、我々はそれを絶対的な事物と言うこともできるが、しかしそれは同時に絶対の人格性でもある。この点がスピノザの到達していない点であり、そしてこの点でスピノザの哲学は、キリスト教的意識の内容をなしている真の神の概念より劣っているのである。スピノザは血統からいってユダヤ人であった。すべて有限なものを一時的なもの、消滅するものとのみ見るのは、一般に東洋的な見方であるが、これが彼の哲学において論理的表現を見出したのである。実体的同一という東洋的な見方は、あらゆる真の発展の基礎をなすものではあるが、しかしそこで立ち止まることはできないものである。それになお欠けているもの、それは個体性の原理である。」(エンチュクロぺディー§151)
一方では、あらゆる個体性の解消をもたらすところの関係の内在性という原理の支配を認めたうえで、なおかつ、個体性の基礎付けを行わなければならないのである。ここに「個体化の原理は何か」という、かなり以前に哲学者達によって見捨てられてしまった古い設問が、生き返らせられるのである。もはや存在を原理的に、関係を含む存在として、例えば、「人間」存在を「間柄」として、捉えることによって、個体性と他者性、あるいは全体性とを、両立せしめうるというような、ある意味楽天的な思想は、自己の根底へと突き落されざるをえない。「間柄」が、個の抹殺にいたる必然性をはらんでいることを、充分に見届けつつ、その中に、個体性の存立を保証しなければならない。一般に、「個体化の原理」を求める問いにおいて、第一の前提となっている事態は、普遍者の実在という事態であった。しかし、今ここで、我々は形相的実体としての普遍者の実在というエレメント(境位)において、個体化の原理を求めているのではない。むしろ、質料的存在が、関係の内在性によって、一者という実体にもたらされた、その境位において、個体化の原理が求められているのである。
我々は普通個体というものをどのように考えるであろうか。私の目の前には、灰皿がある。私はそれを一つの角度から見ている。しかし私はそれを他のあらゆる角度から見ることができるということを知っている。灰皿が私の幻影ではなく、心の外にある実在であると確かめることができるのは、灰皿を、様々の角度から捉え、射影しつつも、その灰皿が、そのあらゆる角度からの射影をはみ出た存在であることを、私が多様な連続的射影を総合するプロセスを通じて知っているからに他ならない。簡単に言って灰皿は、多数の射影関係を<集めている>。
しかし、関係の内在性という規定からすれば、関係の集約とは、灰皿が個体性を喪失して、関係へと自己を拡散するということになりうるであろう。ここに集約と拡散は同義である。アナクサゴラスを逆手にとって、「集約」を「生成」といい、「拡散」を「消滅」というならば、「生成」と「消滅」は同一であると言い得よう。集約と拡散の同一性は、関係の内在性が支配する領域では、常にあらわれている。マルクスが「人間とは社会的諸関係のアンサンブルである」と言うとき、彼は人間関係を、社会的関係の集約として捉えることによって、人間的個体の実体性を、社会的諸関係へと拡散させたのである。ここにも「集約」と「拡散」が同義となるという、根源的流動性が露呈している。個体を関係の集約とみなすことは、関係の内在性という原理の支配下にあっては、何ら個体性を保証するものではなく、反対に、個体性の解消をも内含しているのである。
とは言うもののしかし、私の眼前の灰皿は、ふてぶてしくも存在している。他者への多様な関係へと相対化されることなく、他と隔絶した ab-solut なものとして、ひとつの、まとまりを持ったものである。私がこの灰皿を最初に問題にする、その仕方をもしも This is an ash-tray と言うとすれば、おそらく「一つの」を含意する不定冠詞は、他の多数の灰皿という集合から「ひとつ」を取り出して言っているのではなく、「ひとつの」ということによって、灰皿をまとまりとして捉え、灰皿のおかれた関係世界から、灰皿を切り抜き出して絶対化すという役目を果たしているにちがいない。
ひとつの灰皿が、「ひとつ」のものとして、関係から自立したまとまりをもつためには単に関係を集約しているのであってはならない。単なる集約は拡散だからである。したがって灰皿は、<純粋に>・<ひとつ>・<である>のでなければならない。それ自身の内部に部分とか、限定を持たないひとつ、あらゆる他者性を排除したひとつでなければならない。つまり、合成されたものではなく、「単純な」ものでなければならない。しかし、あらゆる存在が関係であり、関係がその内在性によって他者との統一を包含するとき、この単純性はいかにして成り立つであろうか。
単純性を持つものは、一般に「かたち」として考えられる。紙の上に描かれた三角形はその材料に関していえば、まとまりのない粗い点の集まりにすぎない。しかし、ゲシュタルト心理学が精密に明らかにしたように、それを「かたち」として捉えることによって、我々はそれを「ひとつの」まとまりとして捉えるのである。もちろん複雑なかたちでも、それはあるまとまりをもつという意味で単純である。
かたちの持つ単純性と同じ単純性を、持つのは図形だけではない。時計は複雑であるけれども、「時計」という概念によって我々は、単純なまとまりとしての時計をとらえている。どのような概念にも、かたちと同じまとまり、単純性がある。概念は、あらゆるものに単純性を附与することのできる万能の「まとめ」役である。概念のもつ形相的単純性によって、ものは初めて「ひとつ」なのである。灰皿や時計が、多数の関係に拡散してしまわないのは、「灰皿」や「時計」という概念によってである。「名もなき花」と言ってもそれは、まとまりなき花ではなく、「名付けられるべき」花として、概念の単純性によってまとまりを得ているのである。
しかし、ここに奇妙なパラドックスが生ずる。概念の単純性によって、「ひとつ」が保証されるのでありながら、概念自身は常に多数性を内含しているものであるというパラドックスである。つまり概念自身は常に普遍的なものである。関係の内在性の支配下にあって集約を拡散から救う個体化の原理は、概念の単純性である。しかし、概念それ自体は、非個体的なものであり、多数性を持っている。この難問を避けようとすれば、概念が集合としてあるあり方から、単一性、一者性 Ein-heit としてあることを切り離し、概念によって保証される同一性の背後に、概念をこえてある純粋な自己同一性を、例えばイデアといったものとして認めることになろう。そしてイデアにおいてのみ、関係を隔絶した自体的存在が成り立つことになるであろう。ここにも重要な「分かれ道」があると言わなくてはならない。しかし、選択の方向はすでに定まっている。この期に及んで、単一性の原理を、概念をこえる地平に成り立たせるならば、単一性は経験の地平を離れた到達不可能な神秘と化するであろう。とすれば、我々は概念そのものの契機として、そこに内在するものとして単一性を認めなければならない。しかしそれには、存在の仕方として関係における自体的存在、すなわち附帯的にして自体的というあり方を認めるより他にない。ヘーゲルに「他者において自己の許にある存在」、「疎外において自己自身である存在」等々の用語が見られるのは、そのためである。一体いかなる存在を媒介として、そのような存在の仕方が可能になるであろうか。概念の単純性、単一性が、関係という場合でいかなる役割を果たすかを、見ておかねばならない。
存在は関係であり、関係は内在的であり、内在的関係者は実体的統一となり、実体的一者というエレメントにおいて個体化の原理となるものは概念の形相的単純性であった。もちろん概念と名前とは同じではない。同じ名前が別の概念を、別の名前が同じ概念を表すことはよくある。こうしたことは、我々が用いている語彙体系がいわば出来損ないであるために起こることなのであろうか。それとも、どうしても語の多義性というのは避けられないものなのだろうか。「人間も牛も動物である」というとき、「鯨も卵も木に登れないものである」というのと同じ仕方で「動物」という名前の一義性が確保されていると言ってよい。「人間は動物ではない」と言ったとき、事情は変わってくる。人間も牛も同じ意味で動物であるのかどうかがあらためて問題となってくるからである。もし人間がある関係において動物であり、他の関係において動物でないなら、「人間ー動物」という定義は、人間を諸関係の集約点たらしめることに成功していないことになる。関係の内在性はここでも、力を発揮する。人間を理性的動物であると定義したとき、問題は、集約点の単純性をこの定義が保持しているかいないかということである。我々はたやすく人間の概念がもたらされた後で、他と区別する目印として定義を下すことはできても、定義を積み重ねて概念に達することはできないことを理解するであろう。これは、パリを直接に知らない人に、何枚パリの絵を見せても、「ああパリだ」という嘆声を聞くことができない、というのと幾分似た事情にある。
時計にしても、軍隊にしても、羊飼にしても、そうしたものの概念が、そのものの「用向き」にあるとする考え方には充分な根拠がある。時計は様々の部分からなるが、それにまとまりを与えているのは、その「用向き」である。軍隊にしても、様々な部分を持ち、かつ、様々な関係の中におかれているが、その統一性は、ある人は善いといい、ある人は悪いというかもしれないが、その「用向き」、すなわち、それに固有の善さ(アガトン)によって与えられる。派閥の連合体ですら、その目的によって「ひとつ」のものとなりうる。すなわち、概念を、他と区別する(区別はさしあたり外在関係と言えよう)ための徴表としてではなく、そのものが多数の関係の中を、いわば生き抜いて「ひとつ」のものである根拠として考えるとき、その「用向き」こそ概念であると言いうるのである。
「用向き」といい、「目的」といい、「善さ」といい、いずれも今日の我々には、ものの概念というのは、人間臭が強すぎて困ることは確かである。そして「理念」と呼べば、なんだかとても手が届かない感じがする。「価値」と言えば、まず確実に誤解を招く。ある批評家が、さる建築家の論文を諷して「かた」に血が通って「かたち」になると言ったことがあるが、まさに、血の通った「かたち」としての形相が、概念なのである。
さて、ものの概念が「用向き」のごときものとすると、「飛ばぬ飛行機」は、飛行機ではないのか、ということになる。しかし、それも、概念として捉えられることによって可能態として飛行機であるとは言いうるであろう。レールの上になくとも、電車が「電車」であり、机の下の本が「本」であるのは、それによってである。本を本として、ありのままに、すなわち、本のおかれた関係の真っ只中で、本を「本」として関係から切り抜くという捉え方をすれば、すなわち、先の説明で述べたように即自態としての本は、本の可能態なのである。
本が読まれるということは、本の存在にとっていかなる変化であろうか。本は現実態となる。同時にそのことは、他者との関係を回復することに他ならない。本は概念の単一性によって、解消から食い止められてはいる。しかし、その単一性はもはや、自体性・自立性を持っていない、「対他存在」と化している。概念はその自体性・自立性の喪失においてしか現実化されないのである。概念の形相的単純性によって自体性を得る以上、同時にそれ自身抽象的なものである概念の実現は、自体性の喪失を招く。言葉を換えれば、自己疎外こそ自己実現化なのである。
図式化して言うと、単一性は多数性に取り巻かれている。取り巻くものもまた各々単一性をもたなければ、中心の単一性に(関係の内在性の原理に従って)吸収されてしまう。一つ一つの関係は、一者対一者の緊張関係である。集約と拡散の均衡である。中心の一者にとって、一者であることが自己同一性を意味する以上、一者と多者の各々の対立関係は全体としてみると、一者であることと、多数者であることの対立である。この対立は、存在の仕方の対立として、絶対的矛盾である。
この矛盾(論理的矛盾との関係は後に述べる)は、中心となる一者が、自立性を回復することによってしか解決されない。それは、<他>者である<多>者を自己有化することによって行われる。自己の<他者>を、<自己の>他者に転化するのである。つまり、他者を、他者の他者たらしめるのである。今、自己を奴として、他者を主とすれば、主を、<奴の>主たらしめることによって、主がもはや主ではなく、奴の主にすぎないもの、つまり、奴の奴として、初めの奴(自己)が主となるということである。一見すると、極めて技巧的な論述に見えるかもしれないが、関係の内在性というエレメントにおいては、関係する者の自体性が常に転換可能であることを理解すれば、そうした外見は取り除かれるであろう。
これは、他者との関係を自己自身の内に含むものとして、自己を再確立することである。そうすることによって自己は「他在において自己の許にある存在」へと成長するのである。本が、自己の他者との関係、つまり自己の使命を自己の本分、すなわち自己の概念として、反省することである。反省することによって、自己は自己の可能性、即自を、自覚されたものとして、自己内に捉えている。つまり、「自己内反省」している。他者への触手は自己内に折り返されて、自己の自体性・個体性が回復されるのである。本が反省する、電車が反省するというのは奇異かもしれない。しかし、概念によって初めて自体性を与えられるこれらのものにとって、概念の変化は(もしそれが実際上時間的に行われるとしたら認識する意識の存在を当然前提するのであるが、それにも拘わらず)、そのもの自身の変化であらざるをえない。
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