イエナ体系草稿Ⅲ 精神哲学(2)
愛はまた、直ちに自分にとって対象的になる。愛の中に運動が現れる。愛は充たされて、以前は衝動であった両極の統一となる。この充たされた愛が、両極の性格から区別されると、第三者、産み出されたもの(子供)である。統一は、媒語に対して没交渉なものへと二分化する。そして二分化した両極は別々に存在するのである。
充たされた愛は、こうした第三者が両極とは別なものであるというようにして、換言すれば、愛が他在であり、直接的な物在であるというようにして、初めて対象的になる。そうした物性においては、愛はもはや直接的に自分を認識するのではなく、むしろある他者(子供)のためにそうするのである。それはちょうど道具が活動性を自分自身に具えてはいないのと同様である。換言すれば、両者は、物である第三者を媒介とした相互の奉仕を通じて、自分たち相互の愛を認識するのである。この物は手段であり、愛の手段である。しかもちょうど道具が持続的な労働であるのと同様に、この第三者もまた普遍的なものである。第三者は愛の実在の継続的で持続的な可能性である。両者は没交渉な両極として存在しているが、こうした存在は、それが極という存在であるがゆえに、消失する存在である。第三者はそれだけでは消失してゆくこうした両極の媒語として、統一として、普遍的なものである。第三者とは家族の占有物のことであり、運動としてみれば、生業のことである。ここに初めて生業や持続的な占有や定在(生存)の普遍的可能性への、関心が生じる。ここに初めて本来的な意味で、欲望それ自身がそのものとして、すなわち、理性的なものとして、敢えて言うなら、聖化されたものとして登場する。この欲望は共同の労働によって充足される。労働が行われるのは個別的なものとしての欲望のためではなくて、普遍的なものとしての欲望のためになのである。こうしたものを労働を通して得る者は、労働によって得たこのものを直ちに消費してしまうのではなく、それは共同の豊かな貯えとなり、そうして全ての人がこの貯えによって養われる。労働によって得られるそれは道具と同じように、享受の普遍的可能性であり、享受の普遍的現実性でもある。それは、直接的に精神的な占有なのである。
家族財は道具以上に、活動性の契機をそれ自身に具えている。それというのも、両極(夫婦)が自己意識的な活動性だからである。しかし、活動性のこの対象はまだそれ自身に愛を具えてはいない。愛はむしろ両極の内にある。両極の性格の認識作用はまだそれ自身認識する認識作用ではないし、愛そのものはまだ対象ではない。しかし、愛の自我は愛から身を退いて、自分を自分から突き放し、こうして、自分にとって対象となる。両極の性の統一が愛に他ならないが、しかし、それは愛として知られてはいない。この愛は子供の内で知られるのである。子供において、両性格は愛を直観し、自分たちの自己意識的な統一を自己意識的なものとして直観する。
自己意識的な統一は直接的な対象であり、つまり個別的なものである。そして愛の統一は今や同時に、この個別性を止揚する運動なのである。この運動は、一面からすれば、直接的な定在を止揚するという意味、すなわち両親の死という意味をもっている。両親は、消失する生成であり、止揚されるべき根源である。他方、産み出された個体(子供)から見ると、意識された運動としてのこの運動は、彼(子供)の対自存在の生成、つまり教育であるが、しかし個体の本質からすれば、そもそもは愛の止揚なのである。
家族は次のような契機の中に限定される。自然的なものとしての愛、子供をつくること。自己意識的な愛、意識的な情感と心構え、そしてそれらを表す言葉。共同の労働と生業、相互的な献身と配慮。教育。これらの個々の契機はいずれもそれだけでは全体的な目的になりえない。
愛は自らにとって対象となったし、この対象は対自存在となっており、もはや性格ではない。この対自存在は、全き単一な本質を自分自身に具えている。各々が、自分自身を知るところの精神的な承認行為そのものである。家族は全体的なものとして、他の自己完結的全体に対向して現れる。つまり、完全で自由な諸個体が相互に対して存在している。換言すれば、ここに初めて、精神にとっての本来的存在が存することになる。それというのも、その存在は自己意識的な対自存在だからである。
完全で自由な諸々の個体は、相互に牽引し合うと同時に、互に反発し合ってもいる。両者の直接的定在は排他的である。すなわち、一方は、大地の一部分を、自分の財として我がものとしたのであるが、道具におけるように個々の事物を自分のものにしたのではなく、永続的で普遍的な定在を自分のものとしたのである。一方はこの普遍的定在に労働を通じてしるしをつけ、あるいは、しるしに、定在するものとしての自分の内容を、すなわち、否定的で排他的な意味を与えたのである。それゆえ他方は、自分がそれである当のものから締め出されている。存在はもはや普遍的なものではなくなっている。
こうした関係は、通常、自然状態と呼ばれているものである。それは諸個人相互の自由で、没交渉的なあり方である。そして、こうした関係に従えば、諸個人は互にどのような権利および義務を持つのか、また、彼らの振る舞いの必然性、すなわち、その概念からして自立的な彼らの自己意識の振る舞いの必然性はいかなるものであるのか、こうした問いには自然法が答えることになっている。しかしながら、彼らの自己意識の唯一の関係はまさに、この関係を止揚することである。すなわち、自然状態は脱却されなければならないのである。この関係にあっては、彼らはお互いに対して何らの権利も義務ももっていない。彼らはこの関係を放棄することによって初めて、権利や義務を獲得する。相互に自由な自己意識の概念が定立されているが、しかしまさしく単に概念でしかない。概念は概念であるがゆえに、むしろ自分を実在化しなければならない、すなわち、概念の形式の内にある自分をまさしく自分の実在性に向かって止揚しなければならない。このことは実際のところ、課題の解決においてさえも、そして課題そのものにおいても無意識に生じる。無意識に、と言ったのは、つまり概念がまだ意識の対象の内に入っていないからである。ところでその課題とはこうである。「自然状態における個人にとって、権利および義務とは何か」。この個人の概念が根底に置かれていて、この概念から個人の内実が展開されなければならない。私はそのために、法の規定を持ち出す。私は法に基づいて、個人が法的権能を有するものであることを、すなわち一個人の人格であることを示すのである。だが、こうしたことを示すことは私の内に属することである。つまりそれは私の思想の運動なのである。しかし、内容は自由な自己である。しかしこの運動はこの自由な自己をあるがままにしておきはしない。換言すれば、この自己こそがこうした概念の運動なのである。法は、振る舞う人格の他の人格に対する関係であり、人格の自由な存在の普遍的なエレメントであり、あるいは人格の空虚な自由の規定、制限である。この関係ないし制限を、自分のために捏造したり、持ち込んだりする資格は、私にはない。むしろ対象の側それ自身が法一般を、すなわち、承認する関係を産み出す作用なのである。承認行為において自己はこうした個別的なものであることをやめる。自己は承認行為において法的であり、もはやその直接的定在の内にはない。承認されたものは直接的に妥当するものとして、自分の存在を通じて承認されるが、まさしくこの存在は概念から産出されたものなのである。それが承認された存在である。人間は必然的に承認を受け、かつ必然的に承認を与える。この必然性は人間固有の必然性であって、内容に対立する我々の思惟の必然性ではない。承認するものとして、人間は自身が運動であり、この運動がまさしく人間の自然状態を止揚する。人間は承認行為である。自然的なものは単にあるだけであって、精神的なものではない。
諸個人は、相互に対立し合っている状態では、まだ互に承認し合ってはいない。むしろ彼らの存在は妨げられている。ある者は諸個人の存在を、自分の占有によって妨げたのである。この占有はまだ所有ではない。占有の権利は直接、物へと向かうのであって、第三者に向かうのではない。人間は個別者としてなしうる全てのものを占有する権利を有する。人間はこの権利を有し、この権利は、自己であるという人間の概念の内に存する。これによって人間はあらゆる事物への威力なのである。しかし、彼の占有は、第三者を排除するという意味をも含んでいる。この意味に照らした時、他者を拘束するものとは何であろうか。第三者に不正を及ぼすことなく私が占有してもよいものは何であろうか。このような問いには必ずしも答えることができるわけではない。占有取得は、感性的に我がものとすることである。したがってそれは、承認行為を通じて法的なものとならなければならない。占有取得は、それが存在するからといって、合法的であるわけではない。直接的な人間は即自的には占有している。しかし、直接的なものが内容をなし、主語であり、しかもその述語が法であると言われるとすれば、それは矛盾である。直接的なものは、他者から承認されるときに私の所有物になるのである。
だが、他者は何を承認するのだろうか。私が所持しているもの、私が占有している当のものを承認するのである。したがって、内容は私の占有から発している。ところで、私は自分が欲するものを、欲するだけ持つことができるのであろうか。承認行為のゆえに、私は自分の欲するものを第三者から奪うわけにはいかない。なぜなら、彼がもっているものもやはり承認されているからである。しかしながら、彼がもっているものを私が直接に、つまり誰のものでもないようなものとして占有する場合、私はこのことによって即自的に彼を排除してしまい、そこに再び、その占有をめぐって、承認に関する問いが生じてくる。私は、もしも私が占有しなかったら彼の占有物となりえたであろうところのものを占有しているのではないか。しかし、せいぜい、それは彼の占有となりえたであろう、というだけのことであって、現実には、それは私のものなのである。彼の可能性は私のこの現実性に遅れをとっている。彼は現実にかくある私を承認せざるをえない。ところでしかし、一体私は何を占有しているのであろうか。私の身体、私がすでに口にしたり、手にしたりしているもの、いやこれだけではなく、私がすでに欲望やまなざしによってしるしをつけたもの、つまりすでに私が意欲したもの、すでに手をのばして掴み取ったものも私は占有している。例えば、子供は、自分が最初にそれを見つけて、欲しいと思ったんだから権利があると主張する。大人でも、自分にはもはやどうすることもできない場合でさえも、他人に出し抜かれると腹を立てたりする。しかし、存在する物は、直接つかんでもっているということの他に、例えば加工そのものというしるしによって、私の占有と宣言される。私のものと刻されたものを他人は侵害してはならない。しかししるしづけもまた偶然的である。例えば、囲み込まれた土地(囲いや溝が周りに廻らされただけの土地)は、私のものとしるされるが、再びそうではなくなる。しるしは際限のない拡がりをもっている。例えば、ある島に杭を打ち込むことは、我この島を占有したりとなす、ということを意味している。また加工の際に、私は金属の盃から形式を切り離すことができない。それにしても、加工された田畑や木の場合、形式はどこから始まりどこで終わるのであろうか。あらゆる土壌の中のものは手付かずのままだし、せいぜい動かされるだけである。それゆえ、地下のものも同様であり、さほど動かされることはない、等々。
感性的に直接的なものは、それに普遍的なものが適用されても、普遍的なものに照応されるわけではないし、また、普遍的なものに取り囲まれているわけでもない。悪無限的分割。
この感性的なものは即自的に元から普遍的なものなのではない。その内容に関しては、常に矛盾がある。一家族、一個人の欲求に一致するということは、人格としての純粋な自己とは、まさに法の根底に置かれる平等性とは、矛盾する。この点(個別的なものの欲求に応じること)に関して即自的に規定できるものは何もない。それは個別性に属する事柄であり、偶然的なものの裁量に任せられた側面である。そこには理性はない。理性は次のようにして、初めて持ち込まれることになる。つまり、何かがある人のものになるのはただがむしゃらに略取することによってでは決してなく、契約によってであるということ、すなわち、こうしたがむしゃらの占有が起こることなく、そもそも初めから即自的に、締め出されているものなど何もなく、すべてのものが承認されているということによってである。むしろ、排除(締め出し)はそれ自体、起こってはならない不当なものである。というのは、排除されたものがそこに現実的な意識として存在してはいないし、私がそこで彼と関わることもないからである。
それゆえ承認行為こそが、生じなければならない第一のものである。換言すれば、そこで諸個人は愛なのであり、意志の対立のない、この承認された存在である。意志の対立においては、各人は自己完結した推論全体をなしているであろうが、意志の対立を抜きにして承認された存在においては、彼らはただ相互依存的な二極的な性格として登場しているだけであって、自由な意志として登場しているのではない。このような承認状態が生成しなければならない。諸個人が即自的にあるところのものが、彼らに自覚されるようにならなければならない。諸個人のお互いにとっての存在(相互的な存在)」が、そのための始まりなのである。
それゆえ、彼ら諸個人は、自分の占有から他者を排除した個体と、もう一方の対自的になった個体、排除された個体となる。彼らはこうして、それ自身、お互いに対して直接的なものである。ここでの推論は、性格におけるように、各人が自分の本質を他者において知るのではなくて、自分の本質を自分自身において知るということである。つまり、彼は対自的である。自分の本質を知るとは言っても、しかし、一方は、存在から排除された者として対自的であり、他方は、排除する者として対自的なのである。彼らはこのように対立し、お互いに対して存在しているがために、その一方はむしろ、自分が他方によって否定された本質であり、存在であるのを見出すという結果になる。しかし、彼(排除される側)が第一の者(排除する側)にとって存在していない場合には、今度は反対に、彼が対自的である。
したがって、運動はここでは、自分を他者の内に知り、それによって他者の自己否定を直観するという肯定的なもので始まっているのではなくて、反対に、自分を他者の内で知ることなく、むしろ彼の、つまり他者の対自存在を他者の内に見ることをもって始まっている。それゆえ推論は両極の対自存在の自立性で始まっている。つまり、両極が自立的であることが、他者にとってあるということをもって始まっているのである。しかも最初は、一面から、すなわち排除された者の側からこれが行われる。というのは、彼は他者に対して存在しているのではない(なぜなら、他者によって存在から排除されているから)のだから、したがって対自的に存在するものだからである。ところが他者(家族)は、平静としてこだわりなく対自的である。
排除された者が、今度は他者の占有を侵害する。彼は他者の占有の中に自分の排除された対自存在を、彼の私のものを定立する。彼はそのものを、そのせいで損なう。これは自己感情(充足)を得るために欲望するのと同じ無化の行為である。とはいえしかし、それは彼の空虚な自己感情ではなく、むしろ彼の自己を他者そのもの内で、他者の知の中へ定立する(他者に自覚させる)ことなのである。このように活動性は否定的なもの、物へと向かうのではなく、他者の自己知を目指す。これによって他者の知の内に区別が定立されるが、この区別はただ他者の定在の内へ、一つの区別を定立したにすぎないのである。これによって他者が揺り動かされもする。この他者は自分の内で分離され、彼の存在からの排除は知の排除へと転換する。彼は自分が私念していたこととは全く違ったことを行っているという意識に達する。彼の私念は彼の存在の自分自身への純粋な関係であり、彼のこだわりのない対自存在であった。このように誘発し合って両者は互に対峙している。しかも、第二の者が加害者、第一の者が被害者として対峙しているのである。というのは、被害者となる第一の者が加害者となる第二の者のことをその占有取得においては私念していなかったからである。しかし、この被害者となったものは、侮辱し返した。彼は加害者のことは私念していたのである。彼が無化したものは、物の固有の形式ではなく、労働の形式もしくは他者の行為であった。したがって、排除された者が再び自分を確立したということは、両者の平等性をもたらすのではなく、むしろ、両者の新たな不平等をもたらすことになる。平等性とは、ところで、両者が物において自分を定立することである。しかし、ここには一方(排除された者)を他方(排除した者)の対自存在の内に定立するという、より高次の不平等が存在している。最初の者(第一の者)は持ち主のない物の内へ自分を定立したが、他方(他者)はすでに持ち主のいる物の内に自分を定立したからである。
このような不平等は止揚されなければならない。しかし、この不平等はすでに即自的に廃棄されていなければならないし、両者がなすべき行為と言えばただ、このこと(即自的には止揚ずみだということ)を双方が自覚することだけなのである。排除する行為の止揚はすでに生起している。両者は分かれてそれぞれ自分の外に出ている。両者は一個の知なのであり、相互に対象である。各人は他者において自分を意識しており、しかもその自分を止揚されたものとして意識している。がしかし同時に、肯定性は各自の側にある。各人は他者に対して妥当するものでありたいと思う。他者の内に自分を直観することが各人にとっての目的である。各人は、その一方の極が自分の外に他者において止揚されて存在しているところの推論であり、そして同時に各人は自らにおいて存在しているのである。しかしこの二つの自我、私の内にある自我と他者の内で止揚されてある自我とは同一のものである。私にとって私が目的としての内容なのであり、つまり、私にとっては私が肯定的なのである。私の自我というものが等しく肯定的であるというのは当然である。つまり、私の肯定性が今やっと私の内に包含されたのであり、今初めて私の目的となったのである。
それゆえ、不平等は、一方がただ他者の存在を止揚しただけであるのに、他方は最初のものの対自存在を止揚したという形式をもち、各人において、各人が自分の外で自分を知るという形式をもっている。つまり、一方の者は自分の定在を失ってしまって、すなわち被害者となり、他方の者は自分の定在を再び獲得しはしたが、しかしこのような修復は、他者の犠牲の上になされたのである。それが直接的な、自由な獲得ではないということからして、そうならざるをえないのである。それゆえ、両者の役割は今や入れ替わった。加害者は自分だけで満足しているのであって、即自的に、満足しているのではない。なぜなら、彼の即自存在は制約されているからである。第二の者が今や、刺激された者であり、緊張させられた者である。他人の対自存在が、彼の対自存在の内に定立されてしまっている。彼はもはや自分の定在を修復しようとはせず、むしろ自分についての自分の知を、すなわち、承認されることを目指すのである。現実的な対自存在はそのものとして定立されなければならないのであって、事物の形式として定立されなければならないのでもなければ(というのは、事物の形式は持続的なものを何ももたないのだから)、また言語によって定立されなければならないのでもない。なぜなら、知は現実的なものであり、すなわち、知は意志であり、対自存在そのものだからである。知の現実性は、他者によって承認されているという意味、他者に対して絶対的なものとして妥当するという意味をもっている。しかし、この知が絶対的なものとして妥当するためには、この知は自分自身を絶対的なものとして、意志として表現しなくてはならない。すなわち、占有物として所持している自分の定在などもはや重視せずに、むしろ自分のこの他者に知られた対自存在こそを重視するようなものとして、自分を表現しなければならない。このようなものの存在は自分についての知という純粋な意味をもち、こうして実存に達する。このような表現はしかし、知に属する定在の、自分を通じて成し遂げられる止揚、自分自身による止揚である。これが自分自身への意志の方向、すなわち、自らの個別性という極への方向である。性格はただ普遍的なものとしての自分に向けられていたにすぎない。意識としての、それぞれの敵対者には、自分が他者の死を目指しているということが、ところがしかし、自分は、我が身を危険にさらすことによって自分自身の死を、つまり自殺を目指しているのだということが現象している。
対自存在としてのこの知はそれゆえ、自分の外的定在が止揚されているのを直観する。この定在は知に最も固有なものである。知は、あの他者の止揚された存在を自分の最も固有な対自存在へと転換させるが、それはこの知が理性だからである。原状回復とは自らの定在を知の抽象の中に取り上げることである。狡智は知であり、自己内存在、自分についての知である。これは意志が衝動にすぎないのと同様である。衝動においては、両極が没交渉性の形式、存在の形式をとる。衝動はまだ知ではない。知る意志は、両極、すなわち、自分を喪失した両極の直接的統一についての知をもった愛として、承認行為をもった、すなわち自由な自己としての両極をもった愛として、実現されなければならない。前者は普遍的な極の実現であり、後者は個別的な極の実現であり、すなわち、個別的な極を推論全体にすることなのである。この推論は対自存在の形式で両極を自分の内に有している。前者の認識が承認となる。ここには自分を対自存在として知る二つのものがあって、両者はこのように分離されている。この運動は、生死を賭けた闘いである。この闘いから、各々の者が出現し、各人が他者を純粋な自己と見る。したがって、それは意志の知である。各人の意志が知る意志であり、すなわち、自分において自らの純粋な統一へと完全に還帰した意志である。それは衝動なき意志である。それは存在を疎遠なものとして知るのではないという規定性を自らの内に包み込んでいる。
この知る意志は今や普遍意志である。それは承認された存在である。普遍性の形式において対置されると、この意志は存在、現実性一般であり、個別者、主体は人格である。個別者の意志は普遍意志であり、普遍意志は個別意志である。このようなあり方が人倫一般であり、直接的な形態としては、しかし、法である。
Ⅱ 現実的精神
精神は、知性として現実的であるのでも、意志として現実的であるのでもない。知性である意志として、現実的なのである。すなわち、知性の内には、二つの普遍性の統一があり、普遍的意志の内では、これら(知性と意志)は完全な自己である。両者は、自らの存在についての知であり、そして両者の存在は、この精神的なるもの、すなわち普遍意志である。今や普遍意志というこの境位(エレメント)において、先行のものが提示されなければならない。意志において抽象的な知性が自らを止揚したように、換言すれば、知性の諸対象が自分自身によって充たされたように、この境位においては、抽象的意志が止揚されなければならない。すなわち、抽象的意志は、普遍的な承認された存在という境位、この精神的現実性という境位において、止揚されたものとして産出されなくてはならない。これによって占有は、先に労働が普遍的な労働へと転化したように、法権利へと転化する。夫婦は家族財において互いに知り合ったわけだが、その家族財であったものが普遍的な作品となり、万人の享受するところとなる。そして、諸個人の区別は、善悪についての知となり、人格的な正義と不正を形づくる。
a 承認された状態
(a) 直接的な、承認された状態
承認された存在状態は、直接的な現実性であり、この現実性の境位において、人格は最初は対自存在一般として存在し、享受し労働するものである。ここにおいて初めて、欲望が登場すべき権利をもつ。なぜなら、ここでは欲望は現実的なのであり、つまり、欲望そのものが普遍的で精神的な存在をもっているからである。万人の万人のための労働と、享受、万人の享受。各人が他者に奉仕し、援助する。換言すれば、個人はここで初めて、個別的なものとして定在をもつ。これ以前は、個人とはただ抽象的、もしくは真ならざるものでしかなかった。精神は確かに、動物とは違って、抽象態の中に自分を定立し、自分を分析し、そして自分に一個の実在を与えることができる。そこである組織体制におかれた自己が病気となる場合もあろうが、しかし、このような自己は単に瞬間的で消滅する実在しかもっていない。ここには欲望がある。抽象的な対自存在としての自我には、同じくこの自我の非有機的自然の方も、存在するものとして対立している。自我はこの非有機的自然に対して否定的に振る舞い、この自然を自分と自然、両者の統一として止揚する。しかしながら、精神はこの抽象的対自存在としての自我をまず形成し、それを自分の自己として、自分固有の形式として直観し、それゆえ、自分自身を食い尽くすことにもなる。
自然な欲求の定在、すなわちその範囲は、存在一般の境位においては諸々の欲求の集合である。こうした諸々の欲求の満足に役立つような物が労働によって加工され、それらの物の普遍的・内的可能性が、外的可能性として、形式として定立される。この加工はしかし、それ自体多様なものである。加工とは意識が自分を物にすることである。しかし、普遍性の境位においては、加工は抽象的労働となるような形で存在する。欲求は多様である。この多様性を自我の内に受け容れて、そのために労働すること、これは普遍的形象を作り出すという抽象化であるが、しかしまたそれは、自己運動的な形成作用である。対自的に存在する自我とは抽象的なものである。しかし、この自我は労働するものであるが、しかしこの労働もまた、同じく抽象的なものである。欲求一般は多様な諸側面へと分かたれる。運動態にある抽象的なもの、それは、対自存在、行為、労働である。単に抽象的な対自存在としての欲求のためだけに労働がなされるために、なされる労働もまた単に抽象的なものでしかない。これが、ここに実存する欲望の概念であり、真理である。
それゆえ、各個人は、ここでは個別者であるがゆえに、一個の欲求のために労働する。しかし彼の労働の内容は彼の欲求を越えている。彼は多くの人の欲求のために労働するのであり、そうして、あらゆる人がそのようにして労働するのである。したがって、各人が多くの人の欲求を充足させるのであり、彼の多くの特殊な欲求の充足は、他の多くの人の労働によるものなのである。彼の労働は、このような抽象的なものなのであるから、彼は抽象的な自我として、つまり物性の様式に従って振る舞うのであって、広大な範囲を支配し、それを意のままにする熟達者であるような、包括的で内容豊かな、洞察力ある精神として振る舞うのではない。抽象的な自我は何ら具体的な労働をしない。その能力は、分析すること、抽象すること、すなわち、具体的なものを多数の抽象的な諸側面に分解することの内にある。その労働そのものは全く機械的になり、換言すれば、多種多様な規定性に属するものになる。ところがその規定性が抽象的になればなるほど、彼はますます、ただ抽象的な活動性にすぎなくなるし、そのことのよって彼は労働から身を引き離し、自らの活動性の代わりに外的自然の活動性を代用することが出来るようになる。つまり彼は単純な運動を必要とするだけで、その運動を彼は外的自然の内に見出す。換言すれば、純粋な運動とはまさに時間と空間と言う抽象的な形式の相関であり、抽象的で外的な活動性なのである。これがすなわち機械である。
これらの多様な抽象的加工物の間に、今やひとつの運動が生じて来ざるを得ない。この運動によって、これら加工物は再び具体的な欲求、すなわち個別者の欲求となり、この個別者も再び、多くの欲求を自らの内に所持する主体になる。こうした多くの加工品を分析した判断(根源的分割)はこれらの加工品を、特定の抽象体として自分に対立させた。この判断が加工品のもつ普遍性にまで高まるが、その普遍性が、加工品の相等性、つまり価値である。価値という点では、それら加工品は同一のものである。物としてのこの価値そのものが、貨幣である。この抽象的な価値が具体物、すなわち占有へと還帰すること、これが交換である。
抽象的な物は、交換において、自分の何たるかを示す。すなわち、このような変化であるということ、つまり、物性に即して自我へと還帰するということを示し、しかも自分の物性が、他者の占有であるという点に存していたということを示すのである。各人は自分で自らの占有物を放棄し、その定在を止揚するのであって、だからこの定在はこの点で承認されており、他者は自らの定在を最初の人の同意によって保持するのである。彼らは承認されている。各人は他者から他者の占有物を手に入れる。その際、各人が他者の占有物を得るのは、他者自身が自分自身に対してこのような否定的なものである限りにおいてであり、すなわち、媒介(調停)を通じた所有としてなのである。それゆえ各人がそれぞれ、自分の存在および自分が所持するものの否定者であり、しかも各人の所持するものは他者の側での否定によって媒介されている。つまりただ、他人が自分の物件を処分するからこそ、私もそうするのである。物の内的なものとしての、物におけるこの相等性が(私の同意と他者の意見を完全にもっている、すなわち、積極的な私のものと、同じくまた彼のものを、私の意志と他者の意志との統一をもっている)その物の価値である。
だから私の意志は現実的なもの、定在するものとして妥当するのである。承認されているということが、定在を得るに至っている。そのことによって私の意志は妥当し、私は占有する。そして占有は所有へと転化している。占有においては、存在は、この個別的なものとしての私の所持物という非精神的な意味をもっている。しかしここ所有では、承認されているという意味をもつ。占有の存在とは、物があって、私があり、そして物が自己の内に捉えられたものとしてある、ということである。しかしここ所有では、存在は普遍的な自己であり、所持することは他者による媒介であり、すなわち普遍的である。普遍的なものは価値であり、感性的なものとしての運動が交換である。この同じ普遍性は知る運動としての所有における媒介である。所有、それゆえ、承認されてあることによって媒介された、換言すれば、承認されてあることの具体的定在である直接的な所持、これは精神的な存在である。ここにおいて占有取得の偶然性は止揚される。私は全てのものを、承認された状態における労働と交換を通じて所持する。私もまた普遍的なものであって、決してこの個別的な人格ではなく、同時に家族である。あるいは所有は、交換における物の運動である。遺産相続は後にみるように、所有者たる個人の交替である。家族は持続的なものである。こうしたことはここではまだ問題ではない。
所有の起源、源泉は相続を度外視したここでは労働のそれ、つまり私の行為そのものの起源、源泉である。つまりは、直接的な自己、承認された状態が根拠なのである。私が作動因であり、同様に、私が意欲したというまさにそれゆえに、交換における目的因であり、作動因でもあり、根拠は普遍的なものである。私が交換において意欲したということ、このことは実は、私の物を価値として定立したことに他ならず、これが承認に基づく交換行為の内面における運動であり、内的な行為なのである。これはちょうど、労働が存在の中へ沈潜したものであるのと同様である。労働も、交換における価値定立も、いずれも同一の外化なのである。(ⅰ)労働において、私は直接的に私を物に、すなわち、存在である形式にする。(ⅱ)交換において、この私の定在を私は同様に自ら外化(譲渡)し、それを私にとって疎遠なものにし、その内で私を保持している。まさしくこのものの内に、私は自分が承認されていることを、つまり知るものとしての存在を直観する。すなわち、私は前者(ⅰ)においては私の直接的な自我を、後者(ⅱ)においては私の対私存在、つまり私の人格を直観するのである。
それゆえ私はここで私の承認されていることを定在として直観する。そして私の意志はこのような妥当する作用なのである。
(b) 契約
交換においてこのように承認されていることが、今や意識の対象となっている。つまり、私の意志が、他者の意志と同じく、定在となっているのである。ここに至って、承認されていることの直接的無媒介性は分裂してしまっている。私の意志は、ただ単に私にとってだけではなく、他者にとっても妥当するものとして表象されており、そして私の意志が定在そのものと同じように存在している。価値は物件についての私の意見(私念)である。この私の私念と意志は(他者の私念と意志とに媒介されて)他者に対しても妥当するものとなったのである。私は何かあるものを給付したり、譲渡したりした。けれどもこの否定的な行為は肯定的なのである。つまり、こうした譲渡行為は一種の獲得行為なのである。価値についての私の私念が他者にも通用し、私の意欲が他者の物件にも効力を及ぼした。私と他者とは相互に、自分の私念と意志とが現実性をもつものとして直観し合う。それが、承認されているという概念についての意識であり、その区別である。
個別的なものの意志が共同の意志、命題、判断である。そして、彼の意志は、彼が自分を譲渡すること(それは私の意志でもあるが)によってその現実性を得る。このような知恵が契約の内に表明されている。契約は、交換と、とはいえ、観念的な交換と同一のものである。つまり、契約においては、私は私の言葉、言語以外の何ものも引き渡さず、何ものも譲渡したり、給付したりはしない。私は私を譲渡しようとする。他者もまた同様なのであって、この私の譲渡行為が実は、彼の意志でもあるのだから、彼は、私が彼にこれを委ねることでもって満足するわけである。それがまた彼の譲渡行為でもあり、したがって共同の意志なのである。それゆえ、私の譲渡は他者のそれによって媒介されている。私が譲渡しようと意志するのは専ら、他者が彼の側でも譲渡しようと意志するからであり、しかも彼の側でのこの否定行為が私にとって肯定となるからである。それは言明の交換であって、もはや物件の交換ではない。とはいえ、言明の交換も物件そのものと同じように通用する。どちらにとっても、他者の意志がそのものとして通用する。意志はその概念へと還帰したのである。
ここには、しかし、こうした分離が登場しているが、この分離がまた反対のものへと、すなわち、自己内還帰の運動へと転換することができる。意志は意志として妥当性をもつ。意志は現実性から解放されており、まさにその点で反対のものとなっている。すなわち、個別意志と共通意志とが切り離されているのである。普遍意志を否定するものとしての個別意志は犯罪である。だが犯罪とは言っても、それはやはり、私が承認されており、私の意志が普遍意志に対して、意志自体に対して妥当する限りでのことである。承認以前には損害や損傷は存在しない。換言すれば、契約においては、共通意志は私の個別意志にとって専ら肯定的意味をもつのであって、それは私の意志が共通意志にとってそうであるのと同様である。両者は一致している。しかし、両者が一致しないこともありうる。すなわち、私は一方的に契約を破ることができるのである。というのも、私の個別意志が、それが共通意志である限りで、そのものとして妥当するというばかりではなく、それどころか共通意志自身も、私の個別意志が妥当する限りでしか、存在しないからである。つまり、両者は等しく本質的なのであり、私の個別意志は平等性と全く同様に本質的である。私の個別意志こそが契約の作動因である。個別意志と共通意志とはここでは分離して現れているのであるから、私の意志は、それが意志である限りで、すなわち、私がまだ給付実行していなかったという限りで、妥当する。ところが、給付実行は、定在であり、換言すれば、存在する普遍意志である。したがって、給付実行は、表象において、普遍的に妥当する意志としての意志と、定在における意志とに分離する。前者は後者に対して妥当するが、しかし決して後者と同じものではない。
このような区別を現実に定立することによって、私は契約を破る。他者は私のまだ定在していない意志を承認したのであり、そして定在していない意志で満足したのである。もちろん、まだ定在していない状態、まだ給付が完了していない状態は止揚されるべきなのであって、これは単に一つの当為にすぎないのだが、しかし他者はこの当為を当為として承認したのである。意志が意志として妥当するという、まさにこの点に定在と時間性に対する没交渉性が存している。この当為は一つの気持ちではあるが、しかし、それとは逆の感覚(意味)も存在している。それは定在そのものの本質であり、しかも、それは意志そのものの本質態である個別意志に反しており、共通意志という意味をもった定在(実行されるべき定在)が、意志の個別性に対している。こうしてむしろ個別意志が共通意意志に対して主張されねばならない。この主張はむしろ先の定在の止揚であり、強制である。すなわち、他者が実行を余儀なくされるような強制である。その場合、彼の意志は、それが意志であるとはいえ、尊重されることはない。なぜなら、彼の意志が共通意志としての自分自身に対立しているからである。私の個別意志は本質的ではあるが、しかし同時にまた単なる契機にすぎない。したがって、私が私の個別意志を共通なものとして定立することによって、私は初めて、私自身を共通意志として定立したのである。これによって私の言葉は、単に妥当すべきというのではなく、妥当せざるをえなくなっている。このことは、私が私にとって内的に同じままで誠実であり続けるべきであるとか、私は自分の心構えや確信等々を変更すべきではないといった道徳的理由によるのではない。私はこうしたものを変えることもできる。しかし、私の意志は承認されたものとしてのみ定在する。それゆえ、私が心を変えれば、私は私に矛盾するのみならず、私の意志が承認されているということにも矛盾することになる。人は私の言葉を頼りにするわけにはいかない。すなわち、私の意志は単に私のもの、単なる私念にすぎないのである。それゆえ、人格、つまり純粋な対自存在が尊重されるのは、共通意志から分離された個別意志としてではなく、専ら共通意志としてなのである。私は人格であることを余儀なくされる。
契約は、規定された特殊意志を普遍的なものとして含んでいる。それゆえ、契約の内容は、関係の媒語である物であり、特殊な物であり、私が度外視し得る特殊な定在である。交換におけるように、私の偶然的な意志は偶然的なものに関わる。媒語に属する存在するものは特殊なものである。そして私も特殊意志として、他の特殊意志に対向して立ち現われているのであって、人格として、人格に向かっているのではない。私が人格になろうとしているのでもなければ、この人格が普遍意志そのものであるのでも、これから登場するものであるのでもない。むしろこの普遍意志は、今はまだ特定の事物の背後に隠れている。共通意志としての普遍意志、および私の純粋意志もしくは人格としての普遍意志が特殊なものの内に表象されている。そして私の純粋な意志そのものは、言語、つまり私の言明の内にある。この言明において、私の純粋な意志は交換の直接的定在から自分を取り戻したのである。ただし、この意志はただ特殊な給付という意味でしかないし、共通意志は人格そのものの解消ではなく、特殊な定在としての人格の解消であるにすぎない。強制は人格に向かうのではなく、単に人格の規定性、人格の定在に向かうだけである。
しかしながら、概念上は、定在は人格の内で、すなわち普遍意志の内で解消されている。つまり、定在はただ純粋な人格、純粋に普遍的な意志、純粋な否定性として存在しているにすぎない。これが契約の力である。私は給付に際して、私の意志を定在の中に、すなわち特殊性の中に置いたが、しかしこのことはただ人格としてしか、すなわち、意志が存在一般として妥当するがゆえに、ただ人格としてしかなし得なかったのである。その時、私は人格として強制されてもいたのである。というのは、私の定在のこうした否定において、私の定在と私の存在一般とが不可分なのだから、私の存在一般もまた否定されていたからである。私は自分の内に反省した。強制においてこそこのことは現在化する。強制されるのはこの特殊性ではなく、私(自我)である。それゆえ、普遍意志が、普遍意志に対立して存在するものとしての個別的自我を、個別的なもの全体を、自分の内に吸収しているという概念、そして私が私にとって人格として承認されているという概念が定立され、提起される。ここで定立されるのは、単に私の所持と私の所有だけではない。私の人格も定立される。すなわち、こうしたことが、私の定在の内に私の全体が存している限りで、私の名誉であり、生命なのである。
(c) 犯罪と刑罰
私の名誉と生命に関しては、いかなり契約も成立しない。契約が止揚されるのは、その概念に関してであって、個別的契約としてではない。契約は私の意志を、私から分離することのできる特殊性の内に据えた。交換においてと同様に、私はこの特殊性を手放す。生じたものは、純粋な人格としての私の定在である。こうして、私は今や、私の純粋な意志に即して承認された者として登場する。契約において、直接的定在は背景に退いて契約の単純な帰結として現れる。とはいえ、契約そのものにおいては、物件には片がつけられている。ここでは必然的運動が止揚されているように思われる。私の名誉と生命の毀損は、何か偶然的なものとして現れている。しかし、この毀損は必然的である。私が強制されていたのは、単に私の定在に関してばかりではなく、まさに私の自我に関してであり、私の定在において私の内へと反省した自我としてなのである。契約における私の人格の承認行為は、まさしく私を定在するものとして妥当させるのであり、私の言葉をすでに給付として妥当させているのである。すなわち、自我、私の単なる意志は、私の定在から分離されてはおらず、両者(意志と定在)は等しい。
本来的には、強制と暴力とはまさにこの私の意志に矛盾する。というのは、強制は私の定在において私を毀損するからである。承認行為を目指す運動の場合と同様、私は侵害される。他者が私の占有を毀損した。ただし、他者は承認を目指す運動においてのように単に私の形式だけを直接的に毀損するのではなく、彼が承認した私の承認された意志そのものを毀損するのである。他者が承認したことは何かと言えば、私の意志が定在の内にあり、定在と不可分に結びつけられているいうことである。したがって私の方も、自分を毀損されたものとみなすが、しかし、人格として、概念からして損傷されたものとみなすのである。こうして外的なものとしての定在と、私の自我が置かれているようなもの、すなわち内的なものとの間に行ったり来たりする運動が行われる。私に矛盾の意識が生じる。私の最初の言葉と第二の言葉との不等性としての矛盾である。しかし、この矛盾は普遍的なものとしての自我と特殊なものとしての自我との矛盾に他ならない。すなわち他者が私と一定の仕事を取り決めたことにより、彼は私の純粋な意志を自己不等なものとして、つまり、規定された定在をもつ普遍的なものとして受け取ったのである。
それゆえ、私はこのような強制に抗して、私の対自存在を立て直す。しかし承認行為の運動の場合のように、一般的に毀損を受けた私の自我を立て直すのではなく、既存を受けた私の承認された自我を立て直すのである。私は他者に、彼が私を強制しうるというようなことはやはりあってはならないということを示そうとする。つまり、私の自我が特定の給付を義務づけられ、その際に強制を受けること、これは、私の純粋な自我の毀損であったということを示そうとする。私は自分の名誉が毀損されたのを見出す。すなわち、私は、ただ単にこの特定の定在の側面からみた私の意志が止揚されているのを見出すが、しかしそれによって実は私の思惟された純粋な意志が止揚されているのを見出すのである。私は他の人格に対して人格として登場し、普遍的なものとしての彼の存在を、つまり、彼の人格の確実性を止揚する。私を毀損する他者に対して、私は、彼がこの定在、この規定性において、普遍的なものとしての私を毀損しているということ、それゆえ、この特定の物件だけが問題だったのであるから、彼は不平等な態度をとったのだということを示してやる。したがって、私の方が彼に対して不利な立場にある。彼の意志は、彼が私に対してしでかしたことによっても毀損されてはいなかった。それどころか彼は自分の意志を持ち続け、ある特定の定在をただ譲渡しただけである。ところが、彼の強制は、私の意志の譲渡である。私はこの不等性を止揚する。つまり、彼が私を止揚したのと同じく、私は意志として彼を止揚するのである。私は彼に報復するが、自然状態においてのように、単に自己意識的な活動性それだけとしての彼に復讐するのではなく、一個の意志としての彼に復讐する。すなわち、ここ法状態では同時に知性であり、自分自身を思惟し、自分を普遍的なものとして、私の知でもある普遍的な知として知っている意志である彼に、すなわち承認されたものとしての彼に、私は復讐するのである。
充たされた愛は、こうした第三者が両極とは別なものであるというようにして、換言すれば、愛が他在であり、直接的な物在であるというようにして、初めて対象的になる。そうした物性においては、愛はもはや直接的に自分を認識するのではなく、むしろある他者(子供)のためにそうするのである。それはちょうど道具が活動性を自分自身に具えてはいないのと同様である。換言すれば、両者は、物である第三者を媒介とした相互の奉仕を通じて、自分たち相互の愛を認識するのである。この物は手段であり、愛の手段である。しかもちょうど道具が持続的な労働であるのと同様に、この第三者もまた普遍的なものである。第三者は愛の実在の継続的で持続的な可能性である。両者は没交渉な両極として存在しているが、こうした存在は、それが極という存在であるがゆえに、消失する存在である。第三者はそれだけでは消失してゆくこうした両極の媒語として、統一として、普遍的なものである。第三者とは家族の占有物のことであり、運動としてみれば、生業のことである。ここに初めて生業や持続的な占有や定在(生存)の普遍的可能性への、関心が生じる。ここに初めて本来的な意味で、欲望それ自身がそのものとして、すなわち、理性的なものとして、敢えて言うなら、聖化されたものとして登場する。この欲望は共同の労働によって充足される。労働が行われるのは個別的なものとしての欲望のためではなくて、普遍的なものとしての欲望のためになのである。こうしたものを労働を通して得る者は、労働によって得たこのものを直ちに消費してしまうのではなく、それは共同の豊かな貯えとなり、そうして全ての人がこの貯えによって養われる。労働によって得られるそれは道具と同じように、享受の普遍的可能性であり、享受の普遍的現実性でもある。それは、直接的に精神的な占有なのである。
家族財は道具以上に、活動性の契機をそれ自身に具えている。それというのも、両極(夫婦)が自己意識的な活動性だからである。しかし、活動性のこの対象はまだそれ自身に愛を具えてはいない。愛はむしろ両極の内にある。両極の性格の認識作用はまだそれ自身認識する認識作用ではないし、愛そのものはまだ対象ではない。しかし、愛の自我は愛から身を退いて、自分を自分から突き放し、こうして、自分にとって対象となる。両極の性の統一が愛に他ならないが、しかし、それは愛として知られてはいない。この愛は子供の内で知られるのである。子供において、両性格は愛を直観し、自分たちの自己意識的な統一を自己意識的なものとして直観する。
自己意識的な統一は直接的な対象であり、つまり個別的なものである。そして愛の統一は今や同時に、この個別性を止揚する運動なのである。この運動は、一面からすれば、直接的な定在を止揚するという意味、すなわち両親の死という意味をもっている。両親は、消失する生成であり、止揚されるべき根源である。他方、産み出された個体(子供)から見ると、意識された運動としてのこの運動は、彼(子供)の対自存在の生成、つまり教育であるが、しかし個体の本質からすれば、そもそもは愛の止揚なのである。
家族は次のような契機の中に限定される。自然的なものとしての愛、子供をつくること。自己意識的な愛、意識的な情感と心構え、そしてそれらを表す言葉。共同の労働と生業、相互的な献身と配慮。教育。これらの個々の契機はいずれもそれだけでは全体的な目的になりえない。
愛は自らにとって対象となったし、この対象は対自存在となっており、もはや性格ではない。この対自存在は、全き単一な本質を自分自身に具えている。各々が、自分自身を知るところの精神的な承認行為そのものである。家族は全体的なものとして、他の自己完結的全体に対向して現れる。つまり、完全で自由な諸個体が相互に対して存在している。換言すれば、ここに初めて、精神にとっての本来的存在が存することになる。それというのも、その存在は自己意識的な対自存在だからである。
完全で自由な諸々の個体は、相互に牽引し合うと同時に、互に反発し合ってもいる。両者の直接的定在は排他的である。すなわち、一方は、大地の一部分を、自分の財として我がものとしたのであるが、道具におけるように個々の事物を自分のものにしたのではなく、永続的で普遍的な定在を自分のものとしたのである。一方はこの普遍的定在に労働を通じてしるしをつけ、あるいは、しるしに、定在するものとしての自分の内容を、すなわち、否定的で排他的な意味を与えたのである。それゆえ他方は、自分がそれである当のものから締め出されている。存在はもはや普遍的なものではなくなっている。
こうした関係は、通常、自然状態と呼ばれているものである。それは諸個人相互の自由で、没交渉的なあり方である。そして、こうした関係に従えば、諸個人は互にどのような権利および義務を持つのか、また、彼らの振る舞いの必然性、すなわち、その概念からして自立的な彼らの自己意識の振る舞いの必然性はいかなるものであるのか、こうした問いには自然法が答えることになっている。しかしながら、彼らの自己意識の唯一の関係はまさに、この関係を止揚することである。すなわち、自然状態は脱却されなければならないのである。この関係にあっては、彼らはお互いに対して何らの権利も義務ももっていない。彼らはこの関係を放棄することによって初めて、権利や義務を獲得する。相互に自由な自己意識の概念が定立されているが、しかしまさしく単に概念でしかない。概念は概念であるがゆえに、むしろ自分を実在化しなければならない、すなわち、概念の形式の内にある自分をまさしく自分の実在性に向かって止揚しなければならない。このことは実際のところ、課題の解決においてさえも、そして課題そのものにおいても無意識に生じる。無意識に、と言ったのは、つまり概念がまだ意識の対象の内に入っていないからである。ところでその課題とはこうである。「自然状態における個人にとって、権利および義務とは何か」。この個人の概念が根底に置かれていて、この概念から個人の内実が展開されなければならない。私はそのために、法の規定を持ち出す。私は法に基づいて、個人が法的権能を有するものであることを、すなわち一個人の人格であることを示すのである。だが、こうしたことを示すことは私の内に属することである。つまりそれは私の思想の運動なのである。しかし、内容は自由な自己である。しかしこの運動はこの自由な自己をあるがままにしておきはしない。換言すれば、この自己こそがこうした概念の運動なのである。法は、振る舞う人格の他の人格に対する関係であり、人格の自由な存在の普遍的なエレメントであり、あるいは人格の空虚な自由の規定、制限である。この関係ないし制限を、自分のために捏造したり、持ち込んだりする資格は、私にはない。むしろ対象の側それ自身が法一般を、すなわち、承認する関係を産み出す作用なのである。承認行為において自己はこうした個別的なものであることをやめる。自己は承認行為において法的であり、もはやその直接的定在の内にはない。承認されたものは直接的に妥当するものとして、自分の存在を通じて承認されるが、まさしくこの存在は概念から産出されたものなのである。それが承認された存在である。人間は必然的に承認を受け、かつ必然的に承認を与える。この必然性は人間固有の必然性であって、内容に対立する我々の思惟の必然性ではない。承認するものとして、人間は自身が運動であり、この運動がまさしく人間の自然状態を止揚する。人間は承認行為である。自然的なものは単にあるだけであって、精神的なものではない。
諸個人は、相互に対立し合っている状態では、まだ互に承認し合ってはいない。むしろ彼らの存在は妨げられている。ある者は諸個人の存在を、自分の占有によって妨げたのである。この占有はまだ所有ではない。占有の権利は直接、物へと向かうのであって、第三者に向かうのではない。人間は個別者としてなしうる全てのものを占有する権利を有する。人間はこの権利を有し、この権利は、自己であるという人間の概念の内に存する。これによって人間はあらゆる事物への威力なのである。しかし、彼の占有は、第三者を排除するという意味をも含んでいる。この意味に照らした時、他者を拘束するものとは何であろうか。第三者に不正を及ぼすことなく私が占有してもよいものは何であろうか。このような問いには必ずしも答えることができるわけではない。占有取得は、感性的に我がものとすることである。したがってそれは、承認行為を通じて法的なものとならなければならない。占有取得は、それが存在するからといって、合法的であるわけではない。直接的な人間は即自的には占有している。しかし、直接的なものが内容をなし、主語であり、しかもその述語が法であると言われるとすれば、それは矛盾である。直接的なものは、他者から承認されるときに私の所有物になるのである。
だが、他者は何を承認するのだろうか。私が所持しているもの、私が占有している当のものを承認するのである。したがって、内容は私の占有から発している。ところで、私は自分が欲するものを、欲するだけ持つことができるのであろうか。承認行為のゆえに、私は自分の欲するものを第三者から奪うわけにはいかない。なぜなら、彼がもっているものもやはり承認されているからである。しかしながら、彼がもっているものを私が直接に、つまり誰のものでもないようなものとして占有する場合、私はこのことによって即自的に彼を排除してしまい、そこに再び、その占有をめぐって、承認に関する問いが生じてくる。私は、もしも私が占有しなかったら彼の占有物となりえたであろうところのものを占有しているのではないか。しかし、せいぜい、それは彼の占有となりえたであろう、というだけのことであって、現実には、それは私のものなのである。彼の可能性は私のこの現実性に遅れをとっている。彼は現実にかくある私を承認せざるをえない。ところでしかし、一体私は何を占有しているのであろうか。私の身体、私がすでに口にしたり、手にしたりしているもの、いやこれだけではなく、私がすでに欲望やまなざしによってしるしをつけたもの、つまりすでに私が意欲したもの、すでに手をのばして掴み取ったものも私は占有している。例えば、子供は、自分が最初にそれを見つけて、欲しいと思ったんだから権利があると主張する。大人でも、自分にはもはやどうすることもできない場合でさえも、他人に出し抜かれると腹を立てたりする。しかし、存在する物は、直接つかんでもっているということの他に、例えば加工そのものというしるしによって、私の占有と宣言される。私のものと刻されたものを他人は侵害してはならない。しかししるしづけもまた偶然的である。例えば、囲み込まれた土地(囲いや溝が周りに廻らされただけの土地)は、私のものとしるされるが、再びそうではなくなる。しるしは際限のない拡がりをもっている。例えば、ある島に杭を打ち込むことは、我この島を占有したりとなす、ということを意味している。また加工の際に、私は金属の盃から形式を切り離すことができない。それにしても、加工された田畑や木の場合、形式はどこから始まりどこで終わるのであろうか。あらゆる土壌の中のものは手付かずのままだし、せいぜい動かされるだけである。それゆえ、地下のものも同様であり、さほど動かされることはない、等々。
感性的に直接的なものは、それに普遍的なものが適用されても、普遍的なものに照応されるわけではないし、また、普遍的なものに取り囲まれているわけでもない。悪無限的分割。
この感性的なものは即自的に元から普遍的なものなのではない。その内容に関しては、常に矛盾がある。一家族、一個人の欲求に一致するということは、人格としての純粋な自己とは、まさに法の根底に置かれる平等性とは、矛盾する。この点(個別的なものの欲求に応じること)に関して即自的に規定できるものは何もない。それは個別性に属する事柄であり、偶然的なものの裁量に任せられた側面である。そこには理性はない。理性は次のようにして、初めて持ち込まれることになる。つまり、何かがある人のものになるのはただがむしゃらに略取することによってでは決してなく、契約によってであるということ、すなわち、こうしたがむしゃらの占有が起こることなく、そもそも初めから即自的に、締め出されているものなど何もなく、すべてのものが承認されているということによってである。むしろ、排除(締め出し)はそれ自体、起こってはならない不当なものである。というのは、排除されたものがそこに現実的な意識として存在してはいないし、私がそこで彼と関わることもないからである。
それゆえ承認行為こそが、生じなければならない第一のものである。換言すれば、そこで諸個人は愛なのであり、意志の対立のない、この承認された存在である。意志の対立においては、各人は自己完結した推論全体をなしているであろうが、意志の対立を抜きにして承認された存在においては、彼らはただ相互依存的な二極的な性格として登場しているだけであって、自由な意志として登場しているのではない。このような承認状態が生成しなければならない。諸個人が即自的にあるところのものが、彼らに自覚されるようにならなければならない。諸個人のお互いにとっての存在(相互的な存在)」が、そのための始まりなのである。
それゆえ、彼ら諸個人は、自分の占有から他者を排除した個体と、もう一方の対自的になった個体、排除された個体となる。彼らはこうして、それ自身、お互いに対して直接的なものである。ここでの推論は、性格におけるように、各人が自分の本質を他者において知るのではなくて、自分の本質を自分自身において知るということである。つまり、彼は対自的である。自分の本質を知るとは言っても、しかし、一方は、存在から排除された者として対自的であり、他方は、排除する者として対自的なのである。彼らはこのように対立し、お互いに対して存在しているがために、その一方はむしろ、自分が他方によって否定された本質であり、存在であるのを見出すという結果になる。しかし、彼(排除される側)が第一の者(排除する側)にとって存在していない場合には、今度は反対に、彼が対自的である。
したがって、運動はここでは、自分を他者の内に知り、それによって他者の自己否定を直観するという肯定的なもので始まっているのではなくて、反対に、自分を他者の内で知ることなく、むしろ彼の、つまり他者の対自存在を他者の内に見ることをもって始まっている。それゆえ推論は両極の対自存在の自立性で始まっている。つまり、両極が自立的であることが、他者にとってあるということをもって始まっているのである。しかも最初は、一面から、すなわち排除された者の側からこれが行われる。というのは、彼は他者に対して存在しているのではない(なぜなら、他者によって存在から排除されているから)のだから、したがって対自的に存在するものだからである。ところが他者(家族)は、平静としてこだわりなく対自的である。
排除された者が、今度は他者の占有を侵害する。彼は他者の占有の中に自分の排除された対自存在を、彼の私のものを定立する。彼はそのものを、そのせいで損なう。これは自己感情(充足)を得るために欲望するのと同じ無化の行為である。とはいえしかし、それは彼の空虚な自己感情ではなく、むしろ彼の自己を他者そのもの内で、他者の知の中へ定立する(他者に自覚させる)ことなのである。このように活動性は否定的なもの、物へと向かうのではなく、他者の自己知を目指す。これによって他者の知の内に区別が定立されるが、この区別はただ他者の定在の内へ、一つの区別を定立したにすぎないのである。これによって他者が揺り動かされもする。この他者は自分の内で分離され、彼の存在からの排除は知の排除へと転換する。彼は自分が私念していたこととは全く違ったことを行っているという意識に達する。彼の私念は彼の存在の自分自身への純粋な関係であり、彼のこだわりのない対自存在であった。このように誘発し合って両者は互に対峙している。しかも、第二の者が加害者、第一の者が被害者として対峙しているのである。というのは、被害者となる第一の者が加害者となる第二の者のことをその占有取得においては私念していなかったからである。しかし、この被害者となったものは、侮辱し返した。彼は加害者のことは私念していたのである。彼が無化したものは、物の固有の形式ではなく、労働の形式もしくは他者の行為であった。したがって、排除された者が再び自分を確立したということは、両者の平等性をもたらすのではなく、むしろ、両者の新たな不平等をもたらすことになる。平等性とは、ところで、両者が物において自分を定立することである。しかし、ここには一方(排除された者)を他方(排除した者)の対自存在の内に定立するという、より高次の不平等が存在している。最初の者(第一の者)は持ち主のない物の内へ自分を定立したが、他方(他者)はすでに持ち主のいる物の内に自分を定立したからである。
このような不平等は止揚されなければならない。しかし、この不平等はすでに即自的に廃棄されていなければならないし、両者がなすべき行為と言えばただ、このこと(即自的には止揚ずみだということ)を双方が自覚することだけなのである。排除する行為の止揚はすでに生起している。両者は分かれてそれぞれ自分の外に出ている。両者は一個の知なのであり、相互に対象である。各人は他者において自分を意識しており、しかもその自分を止揚されたものとして意識している。がしかし同時に、肯定性は各自の側にある。各人は他者に対して妥当するものでありたいと思う。他者の内に自分を直観することが各人にとっての目的である。各人は、その一方の極が自分の外に他者において止揚されて存在しているところの推論であり、そして同時に各人は自らにおいて存在しているのである。しかしこの二つの自我、私の内にある自我と他者の内で止揚されてある自我とは同一のものである。私にとって私が目的としての内容なのであり、つまり、私にとっては私が肯定的なのである。私の自我というものが等しく肯定的であるというのは当然である。つまり、私の肯定性が今やっと私の内に包含されたのであり、今初めて私の目的となったのである。
それゆえ、不平等は、一方がただ他者の存在を止揚しただけであるのに、他方は最初のものの対自存在を止揚したという形式をもち、各人において、各人が自分の外で自分を知るという形式をもっている。つまり、一方の者は自分の定在を失ってしまって、すなわち被害者となり、他方の者は自分の定在を再び獲得しはしたが、しかしこのような修復は、他者の犠牲の上になされたのである。それが直接的な、自由な獲得ではないということからして、そうならざるをえないのである。それゆえ、両者の役割は今や入れ替わった。加害者は自分だけで満足しているのであって、即自的に、満足しているのではない。なぜなら、彼の即自存在は制約されているからである。第二の者が今や、刺激された者であり、緊張させられた者である。他人の対自存在が、彼の対自存在の内に定立されてしまっている。彼はもはや自分の定在を修復しようとはせず、むしろ自分についての自分の知を、すなわち、承認されることを目指すのである。現実的な対自存在はそのものとして定立されなければならないのであって、事物の形式として定立されなければならないのでもなければ(というのは、事物の形式は持続的なものを何ももたないのだから)、また言語によって定立されなければならないのでもない。なぜなら、知は現実的なものであり、すなわち、知は意志であり、対自存在そのものだからである。知の現実性は、他者によって承認されているという意味、他者に対して絶対的なものとして妥当するという意味をもっている。しかし、この知が絶対的なものとして妥当するためには、この知は自分自身を絶対的なものとして、意志として表現しなくてはならない。すなわち、占有物として所持している自分の定在などもはや重視せずに、むしろ自分のこの他者に知られた対自存在こそを重視するようなものとして、自分を表現しなければならない。このようなものの存在は自分についての知という純粋な意味をもち、こうして実存に達する。このような表現はしかし、知に属する定在の、自分を通じて成し遂げられる止揚、自分自身による止揚である。これが自分自身への意志の方向、すなわち、自らの個別性という極への方向である。性格はただ普遍的なものとしての自分に向けられていたにすぎない。意識としての、それぞれの敵対者には、自分が他者の死を目指しているということが、ところがしかし、自分は、我が身を危険にさらすことによって自分自身の死を、つまり自殺を目指しているのだということが現象している。
対自存在としてのこの知はそれゆえ、自分の外的定在が止揚されているのを直観する。この定在は知に最も固有なものである。知は、あの他者の止揚された存在を自分の最も固有な対自存在へと転換させるが、それはこの知が理性だからである。原状回復とは自らの定在を知の抽象の中に取り上げることである。狡智は知であり、自己内存在、自分についての知である。これは意志が衝動にすぎないのと同様である。衝動においては、両極が没交渉性の形式、存在の形式をとる。衝動はまだ知ではない。知る意志は、両極、すなわち、自分を喪失した両極の直接的統一についての知をもった愛として、承認行為をもった、すなわち自由な自己としての両極をもった愛として、実現されなければならない。前者は普遍的な極の実現であり、後者は個別的な極の実現であり、すなわち、個別的な極を推論全体にすることなのである。この推論は対自存在の形式で両極を自分の内に有している。前者の認識が承認となる。ここには自分を対自存在として知る二つのものがあって、両者はこのように分離されている。この運動は、生死を賭けた闘いである。この闘いから、各々の者が出現し、各人が他者を純粋な自己と見る。したがって、それは意志の知である。各人の意志が知る意志であり、すなわち、自分において自らの純粋な統一へと完全に還帰した意志である。それは衝動なき意志である。それは存在を疎遠なものとして知るのではないという規定性を自らの内に包み込んでいる。
この知る意志は今や普遍意志である。それは承認された存在である。普遍性の形式において対置されると、この意志は存在、現実性一般であり、個別者、主体は人格である。個別者の意志は普遍意志であり、普遍意志は個別意志である。このようなあり方が人倫一般であり、直接的な形態としては、しかし、法である。
Ⅱ 現実的精神
精神は、知性として現実的であるのでも、意志として現実的であるのでもない。知性である意志として、現実的なのである。すなわち、知性の内には、二つの普遍性の統一があり、普遍的意志の内では、これら(知性と意志)は完全な自己である。両者は、自らの存在についての知であり、そして両者の存在は、この精神的なるもの、すなわち普遍意志である。今や普遍意志というこの境位(エレメント)において、先行のものが提示されなければならない。意志において抽象的な知性が自らを止揚したように、換言すれば、知性の諸対象が自分自身によって充たされたように、この境位においては、抽象的意志が止揚されなければならない。すなわち、抽象的意志は、普遍的な承認された存在という境位、この精神的現実性という境位において、止揚されたものとして産出されなくてはならない。これによって占有は、先に労働が普遍的な労働へと転化したように、法権利へと転化する。夫婦は家族財において互いに知り合ったわけだが、その家族財であったものが普遍的な作品となり、万人の享受するところとなる。そして、諸個人の区別は、善悪についての知となり、人格的な正義と不正を形づくる。
a 承認された状態
(a) 直接的な、承認された状態
承認された存在状態は、直接的な現実性であり、この現実性の境位において、人格は最初は対自存在一般として存在し、享受し労働するものである。ここにおいて初めて、欲望が登場すべき権利をもつ。なぜなら、ここでは欲望は現実的なのであり、つまり、欲望そのものが普遍的で精神的な存在をもっているからである。万人の万人のための労働と、享受、万人の享受。各人が他者に奉仕し、援助する。換言すれば、個人はここで初めて、個別的なものとして定在をもつ。これ以前は、個人とはただ抽象的、もしくは真ならざるものでしかなかった。精神は確かに、動物とは違って、抽象態の中に自分を定立し、自分を分析し、そして自分に一個の実在を与えることができる。そこである組織体制におかれた自己が病気となる場合もあろうが、しかし、このような自己は単に瞬間的で消滅する実在しかもっていない。ここには欲望がある。抽象的な対自存在としての自我には、同じくこの自我の非有機的自然の方も、存在するものとして対立している。自我はこの非有機的自然に対して否定的に振る舞い、この自然を自分と自然、両者の統一として止揚する。しかしながら、精神はこの抽象的対自存在としての自我をまず形成し、それを自分の自己として、自分固有の形式として直観し、それゆえ、自分自身を食い尽くすことにもなる。
自然な欲求の定在、すなわちその範囲は、存在一般の境位においては諸々の欲求の集合である。こうした諸々の欲求の満足に役立つような物が労働によって加工され、それらの物の普遍的・内的可能性が、外的可能性として、形式として定立される。この加工はしかし、それ自体多様なものである。加工とは意識が自分を物にすることである。しかし、普遍性の境位においては、加工は抽象的労働となるような形で存在する。欲求は多様である。この多様性を自我の内に受け容れて、そのために労働すること、これは普遍的形象を作り出すという抽象化であるが、しかしまたそれは、自己運動的な形成作用である。対自的に存在する自我とは抽象的なものである。しかし、この自我は労働するものであるが、しかしこの労働もまた、同じく抽象的なものである。欲求一般は多様な諸側面へと分かたれる。運動態にある抽象的なもの、それは、対自存在、行為、労働である。単に抽象的な対自存在としての欲求のためだけに労働がなされるために、なされる労働もまた単に抽象的なものでしかない。これが、ここに実存する欲望の概念であり、真理である。
それゆえ、各個人は、ここでは個別者であるがゆえに、一個の欲求のために労働する。しかし彼の労働の内容は彼の欲求を越えている。彼は多くの人の欲求のために労働するのであり、そうして、あらゆる人がそのようにして労働するのである。したがって、各人が多くの人の欲求を充足させるのであり、彼の多くの特殊な欲求の充足は、他の多くの人の労働によるものなのである。彼の労働は、このような抽象的なものなのであるから、彼は抽象的な自我として、つまり物性の様式に従って振る舞うのであって、広大な範囲を支配し、それを意のままにする熟達者であるような、包括的で内容豊かな、洞察力ある精神として振る舞うのではない。抽象的な自我は何ら具体的な労働をしない。その能力は、分析すること、抽象すること、すなわち、具体的なものを多数の抽象的な諸側面に分解することの内にある。その労働そのものは全く機械的になり、換言すれば、多種多様な規定性に属するものになる。ところがその規定性が抽象的になればなるほど、彼はますます、ただ抽象的な活動性にすぎなくなるし、そのことのよって彼は労働から身を引き離し、自らの活動性の代わりに外的自然の活動性を代用することが出来るようになる。つまり彼は単純な運動を必要とするだけで、その運動を彼は外的自然の内に見出す。換言すれば、純粋な運動とはまさに時間と空間と言う抽象的な形式の相関であり、抽象的で外的な活動性なのである。これがすなわち機械である。
これらの多様な抽象的加工物の間に、今やひとつの運動が生じて来ざるを得ない。この運動によって、これら加工物は再び具体的な欲求、すなわち個別者の欲求となり、この個別者も再び、多くの欲求を自らの内に所持する主体になる。こうした多くの加工品を分析した判断(根源的分割)はこれらの加工品を、特定の抽象体として自分に対立させた。この判断が加工品のもつ普遍性にまで高まるが、その普遍性が、加工品の相等性、つまり価値である。価値という点では、それら加工品は同一のものである。物としてのこの価値そのものが、貨幣である。この抽象的な価値が具体物、すなわち占有へと還帰すること、これが交換である。
抽象的な物は、交換において、自分の何たるかを示す。すなわち、このような変化であるということ、つまり、物性に即して自我へと還帰するということを示し、しかも自分の物性が、他者の占有であるという点に存していたということを示すのである。各人は自分で自らの占有物を放棄し、その定在を止揚するのであって、だからこの定在はこの点で承認されており、他者は自らの定在を最初の人の同意によって保持するのである。彼らは承認されている。各人は他者から他者の占有物を手に入れる。その際、各人が他者の占有物を得るのは、他者自身が自分自身に対してこのような否定的なものである限りにおいてであり、すなわち、媒介(調停)を通じた所有としてなのである。それゆえ各人がそれぞれ、自分の存在および自分が所持するものの否定者であり、しかも各人の所持するものは他者の側での否定によって媒介されている。つまりただ、他人が自分の物件を処分するからこそ、私もそうするのである。物の内的なものとしての、物におけるこの相等性が(私の同意と他者の意見を完全にもっている、すなわち、積極的な私のものと、同じくまた彼のものを、私の意志と他者の意志との統一をもっている)その物の価値である。
だから私の意志は現実的なもの、定在するものとして妥当するのである。承認されているということが、定在を得るに至っている。そのことによって私の意志は妥当し、私は占有する。そして占有は所有へと転化している。占有においては、存在は、この個別的なものとしての私の所持物という非精神的な意味をもっている。しかしここ所有では、承認されているという意味をもつ。占有の存在とは、物があって、私があり、そして物が自己の内に捉えられたものとしてある、ということである。しかしここ所有では、存在は普遍的な自己であり、所持することは他者による媒介であり、すなわち普遍的である。普遍的なものは価値であり、感性的なものとしての運動が交換である。この同じ普遍性は知る運動としての所有における媒介である。所有、それゆえ、承認されてあることによって媒介された、換言すれば、承認されてあることの具体的定在である直接的な所持、これは精神的な存在である。ここにおいて占有取得の偶然性は止揚される。私は全てのものを、承認された状態における労働と交換を通じて所持する。私もまた普遍的なものであって、決してこの個別的な人格ではなく、同時に家族である。あるいは所有は、交換における物の運動である。遺産相続は後にみるように、所有者たる個人の交替である。家族は持続的なものである。こうしたことはここではまだ問題ではない。
所有の起源、源泉は相続を度外視したここでは労働のそれ、つまり私の行為そのものの起源、源泉である。つまりは、直接的な自己、承認された状態が根拠なのである。私が作動因であり、同様に、私が意欲したというまさにそれゆえに、交換における目的因であり、作動因でもあり、根拠は普遍的なものである。私が交換において意欲したということ、このことは実は、私の物を価値として定立したことに他ならず、これが承認に基づく交換行為の内面における運動であり、内的な行為なのである。これはちょうど、労働が存在の中へ沈潜したものであるのと同様である。労働も、交換における価値定立も、いずれも同一の外化なのである。(ⅰ)労働において、私は直接的に私を物に、すなわち、存在である形式にする。(ⅱ)交換において、この私の定在を私は同様に自ら外化(譲渡)し、それを私にとって疎遠なものにし、その内で私を保持している。まさしくこのものの内に、私は自分が承認されていることを、つまり知るものとしての存在を直観する。すなわち、私は前者(ⅰ)においては私の直接的な自我を、後者(ⅱ)においては私の対私存在、つまり私の人格を直観するのである。
それゆえ私はここで私の承認されていることを定在として直観する。そして私の意志はこのような妥当する作用なのである。
(b) 契約
交換においてこのように承認されていることが、今や意識の対象となっている。つまり、私の意志が、他者の意志と同じく、定在となっているのである。ここに至って、承認されていることの直接的無媒介性は分裂してしまっている。私の意志は、ただ単に私にとってだけではなく、他者にとっても妥当するものとして表象されており、そして私の意志が定在そのものと同じように存在している。価値は物件についての私の意見(私念)である。この私の私念と意志は(他者の私念と意志とに媒介されて)他者に対しても妥当するものとなったのである。私は何かあるものを給付したり、譲渡したりした。けれどもこの否定的な行為は肯定的なのである。つまり、こうした譲渡行為は一種の獲得行為なのである。価値についての私の私念が他者にも通用し、私の意欲が他者の物件にも効力を及ぼした。私と他者とは相互に、自分の私念と意志とが現実性をもつものとして直観し合う。それが、承認されているという概念についての意識であり、その区別である。
個別的なものの意志が共同の意志、命題、判断である。そして、彼の意志は、彼が自分を譲渡すること(それは私の意志でもあるが)によってその現実性を得る。このような知恵が契約の内に表明されている。契約は、交換と、とはいえ、観念的な交換と同一のものである。つまり、契約においては、私は私の言葉、言語以外の何ものも引き渡さず、何ものも譲渡したり、給付したりはしない。私は私を譲渡しようとする。他者もまた同様なのであって、この私の譲渡行為が実は、彼の意志でもあるのだから、彼は、私が彼にこれを委ねることでもって満足するわけである。それがまた彼の譲渡行為でもあり、したがって共同の意志なのである。それゆえ、私の譲渡は他者のそれによって媒介されている。私が譲渡しようと意志するのは専ら、他者が彼の側でも譲渡しようと意志するからであり、しかも彼の側でのこの否定行為が私にとって肯定となるからである。それは言明の交換であって、もはや物件の交換ではない。とはいえ、言明の交換も物件そのものと同じように通用する。どちらにとっても、他者の意志がそのものとして通用する。意志はその概念へと還帰したのである。
ここには、しかし、こうした分離が登場しているが、この分離がまた反対のものへと、すなわち、自己内還帰の運動へと転換することができる。意志は意志として妥当性をもつ。意志は現実性から解放されており、まさにその点で反対のものとなっている。すなわち、個別意志と共通意志とが切り離されているのである。普遍意志を否定するものとしての個別意志は犯罪である。だが犯罪とは言っても、それはやはり、私が承認されており、私の意志が普遍意志に対して、意志自体に対して妥当する限りでのことである。承認以前には損害や損傷は存在しない。換言すれば、契約においては、共通意志は私の個別意志にとって専ら肯定的意味をもつのであって、それは私の意志が共通意志にとってそうであるのと同様である。両者は一致している。しかし、両者が一致しないこともありうる。すなわち、私は一方的に契約を破ることができるのである。というのも、私の個別意志が、それが共通意志である限りで、そのものとして妥当するというばかりではなく、それどころか共通意志自身も、私の個別意志が妥当する限りでしか、存在しないからである。つまり、両者は等しく本質的なのであり、私の個別意志は平等性と全く同様に本質的である。私の個別意志こそが契約の作動因である。個別意志と共通意志とはここでは分離して現れているのであるから、私の意志は、それが意志である限りで、すなわち、私がまだ給付実行していなかったという限りで、妥当する。ところが、給付実行は、定在であり、換言すれば、存在する普遍意志である。したがって、給付実行は、表象において、普遍的に妥当する意志としての意志と、定在における意志とに分離する。前者は後者に対して妥当するが、しかし決して後者と同じものではない。
このような区別を現実に定立することによって、私は契約を破る。他者は私のまだ定在していない意志を承認したのであり、そして定在していない意志で満足したのである。もちろん、まだ定在していない状態、まだ給付が完了していない状態は止揚されるべきなのであって、これは単に一つの当為にすぎないのだが、しかし他者はこの当為を当為として承認したのである。意志が意志として妥当するという、まさにこの点に定在と時間性に対する没交渉性が存している。この当為は一つの気持ちではあるが、しかし、それとは逆の感覚(意味)も存在している。それは定在そのものの本質であり、しかも、それは意志そのものの本質態である個別意志に反しており、共通意志という意味をもった定在(実行されるべき定在)が、意志の個別性に対している。こうしてむしろ個別意志が共通意意志に対して主張されねばならない。この主張はむしろ先の定在の止揚であり、強制である。すなわち、他者が実行を余儀なくされるような強制である。その場合、彼の意志は、それが意志であるとはいえ、尊重されることはない。なぜなら、彼の意志が共通意志としての自分自身に対立しているからである。私の個別意志は本質的ではあるが、しかし同時にまた単なる契機にすぎない。したがって、私が私の個別意志を共通なものとして定立することによって、私は初めて、私自身を共通意志として定立したのである。これによって私の言葉は、単に妥当すべきというのではなく、妥当せざるをえなくなっている。このことは、私が私にとって内的に同じままで誠実であり続けるべきであるとか、私は自分の心構えや確信等々を変更すべきではないといった道徳的理由によるのではない。私はこうしたものを変えることもできる。しかし、私の意志は承認されたものとしてのみ定在する。それゆえ、私が心を変えれば、私は私に矛盾するのみならず、私の意志が承認されているということにも矛盾することになる。人は私の言葉を頼りにするわけにはいかない。すなわち、私の意志は単に私のもの、単なる私念にすぎないのである。それゆえ、人格、つまり純粋な対自存在が尊重されるのは、共通意志から分離された個別意志としてではなく、専ら共通意志としてなのである。私は人格であることを余儀なくされる。
契約は、規定された特殊意志を普遍的なものとして含んでいる。それゆえ、契約の内容は、関係の媒語である物であり、特殊な物であり、私が度外視し得る特殊な定在である。交換におけるように、私の偶然的な意志は偶然的なものに関わる。媒語に属する存在するものは特殊なものである。そして私も特殊意志として、他の特殊意志に対向して立ち現われているのであって、人格として、人格に向かっているのではない。私が人格になろうとしているのでもなければ、この人格が普遍意志そのものであるのでも、これから登場するものであるのでもない。むしろこの普遍意志は、今はまだ特定の事物の背後に隠れている。共通意志としての普遍意志、および私の純粋意志もしくは人格としての普遍意志が特殊なものの内に表象されている。そして私の純粋な意志そのものは、言語、つまり私の言明の内にある。この言明において、私の純粋な意志は交換の直接的定在から自分を取り戻したのである。ただし、この意志はただ特殊な給付という意味でしかないし、共通意志は人格そのものの解消ではなく、特殊な定在としての人格の解消であるにすぎない。強制は人格に向かうのではなく、単に人格の規定性、人格の定在に向かうだけである。
しかしながら、概念上は、定在は人格の内で、すなわち普遍意志の内で解消されている。つまり、定在はただ純粋な人格、純粋に普遍的な意志、純粋な否定性として存在しているにすぎない。これが契約の力である。私は給付に際して、私の意志を定在の中に、すなわち特殊性の中に置いたが、しかしこのことはただ人格としてしか、すなわち、意志が存在一般として妥当するがゆえに、ただ人格としてしかなし得なかったのである。その時、私は人格として強制されてもいたのである。というのは、私の定在のこうした否定において、私の定在と私の存在一般とが不可分なのだから、私の存在一般もまた否定されていたからである。私は自分の内に反省した。強制においてこそこのことは現在化する。強制されるのはこの特殊性ではなく、私(自我)である。それゆえ、普遍意志が、普遍意志に対立して存在するものとしての個別的自我を、個別的なもの全体を、自分の内に吸収しているという概念、そして私が私にとって人格として承認されているという概念が定立され、提起される。ここで定立されるのは、単に私の所持と私の所有だけではない。私の人格も定立される。すなわち、こうしたことが、私の定在の内に私の全体が存している限りで、私の名誉であり、生命なのである。
(c) 犯罪と刑罰
私の名誉と生命に関しては、いかなり契約も成立しない。契約が止揚されるのは、その概念に関してであって、個別的契約としてではない。契約は私の意志を、私から分離することのできる特殊性の内に据えた。交換においてと同様に、私はこの特殊性を手放す。生じたものは、純粋な人格としての私の定在である。こうして、私は今や、私の純粋な意志に即して承認された者として登場する。契約において、直接的定在は背景に退いて契約の単純な帰結として現れる。とはいえ、契約そのものにおいては、物件には片がつけられている。ここでは必然的運動が止揚されているように思われる。私の名誉と生命の毀損は、何か偶然的なものとして現れている。しかし、この毀損は必然的である。私が強制されていたのは、単に私の定在に関してばかりではなく、まさに私の自我に関してであり、私の定在において私の内へと反省した自我としてなのである。契約における私の人格の承認行為は、まさしく私を定在するものとして妥当させるのであり、私の言葉をすでに給付として妥当させているのである。すなわち、自我、私の単なる意志は、私の定在から分離されてはおらず、両者(意志と定在)は等しい。
本来的には、強制と暴力とはまさにこの私の意志に矛盾する。というのは、強制は私の定在において私を毀損するからである。承認行為を目指す運動の場合と同様、私は侵害される。他者が私の占有を毀損した。ただし、他者は承認を目指す運動においてのように単に私の形式だけを直接的に毀損するのではなく、彼が承認した私の承認された意志そのものを毀損するのである。他者が承認したことは何かと言えば、私の意志が定在の内にあり、定在と不可分に結びつけられているいうことである。したがって私の方も、自分を毀損されたものとみなすが、しかし、人格として、概念からして損傷されたものとみなすのである。こうして外的なものとしての定在と、私の自我が置かれているようなもの、すなわち内的なものとの間に行ったり来たりする運動が行われる。私に矛盾の意識が生じる。私の最初の言葉と第二の言葉との不等性としての矛盾である。しかし、この矛盾は普遍的なものとしての自我と特殊なものとしての自我との矛盾に他ならない。すなわち他者が私と一定の仕事を取り決めたことにより、彼は私の純粋な意志を自己不等なものとして、つまり、規定された定在をもつ普遍的なものとして受け取ったのである。
それゆえ、私はこのような強制に抗して、私の対自存在を立て直す。しかし承認行為の運動の場合のように、一般的に毀損を受けた私の自我を立て直すのではなく、既存を受けた私の承認された自我を立て直すのである。私は他者に、彼が私を強制しうるというようなことはやはりあってはならないということを示そうとする。つまり、私の自我が特定の給付を義務づけられ、その際に強制を受けること、これは、私の純粋な自我の毀損であったということを示そうとする。私は自分の名誉が毀損されたのを見出す。すなわち、私は、ただ単にこの特定の定在の側面からみた私の意志が止揚されているのを見出すが、しかしそれによって実は私の思惟された純粋な意志が止揚されているのを見出すのである。私は他の人格に対して人格として登場し、普遍的なものとしての彼の存在を、つまり、彼の人格の確実性を止揚する。私を毀損する他者に対して、私は、彼がこの定在、この規定性において、普遍的なものとしての私を毀損しているということ、それゆえ、この特定の物件だけが問題だったのであるから、彼は不平等な態度をとったのだということを示してやる。したがって、私の方が彼に対して不利な立場にある。彼の意志は、彼が私に対してしでかしたことによっても毀損されてはいなかった。それどころか彼は自分の意志を持ち続け、ある特定の定在をただ譲渡しただけである。ところが、彼の強制は、私の意志の譲渡である。私はこの不等性を止揚する。つまり、彼が私を止揚したのと同じく、私は意志として彼を止揚するのである。私は彼に報復するが、自然状態においてのように、単に自己意識的な活動性それだけとしての彼に復讐するのではなく、一個の意志としての彼に復讐する。すなわち、ここ法状態では同時に知性であり、自分自身を思惟し、自分を普遍的なものとして、私の知でもある普遍的な知として知っている意志である彼に、すなわち承認されたものとしての彼に、私は復讐するのである。
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