実存主義と宗教(1)

 宗教の基本的な形態として殆ど各文化圏に共通に考えられるものは、トーテミズムから獣神の信仰を経て人格神の信仰へと究極する発展であろう。ただしその発展をどこまで辿るかは、民族性によるわけであるが、その典型的な例としてギリシア宗教や日本の古代信仰等があげられるだろう。そうした原始宗教全体にいえることは、文化人類学的には、それが取り合えず原始的な集団欲望の投射であるということである。食料の供給と種族の繁栄が、その種族集団の共通の願望であり、それを妨げる自然の脅威を鎮め、生産力を促進することこそ、人間以上の力をもって行われるべきものとしての信仰の対象なり、儀礼の目標となる。そうした人間以上の力が時として火山によって象徴されようとも、暴風雨を駆使する大蛇に象徴されようとも、それに対する儀礼は取り合えず鎮めの儀式となる。また生産力を促進するポジティヴな儀式は饒わいの儀式である。それは例えばギリシアの聖獣牡牛を都市で飼養し、成長した上で殺し、やがてその亡骸を地上に立たせることによって、生命の成長と甦生を現すなどで、アイヌの熊祭りもクマが神であることによって同様のものに属する。
 こうしたトーテム動物のマナ(力)を基として成り立つタブー(禁忌)からして聖獣や獣神の原始的な力に対する信仰を見ることが出来るとするならば、それはやがて多くの英雄神話がこれを示すように、その暴戻な力の象徴が条理と秩序の象徴である新しい人格神によって克服される過程をとるのである。ゼウスが雷電の矢をもって蛇の怪異を殺すのも、スサノオの尊が八岐の大蛇を退治するのも、全て獣神に対する人格神の勝利を示すのである。ここに既に一つの転換があるのであるが、しかし依然これらの神々の信仰には自然的欲求の充足が根底をなしているのであって、デメテルとぺルセポネーの神話のように前者は全ての生命を生み出す大地の女神であり、後者がその娘として半年を地上に半年を地下に暮らすのは、一年間の生命の誕生と成長と死と再生を象徴する年乙女と見られることであって、ここにも自然的生命の欲求充足の色合いは濃く、その事は日本神話の多くの神々が五穀豊穣の祈願の対象であり、また祝詞の多くがその意味のものであることでも明らかであろう。このような自然的生命の要求の充足を目指す人間は生命としての人間というべく、そのような人間の求める宗教は、生命の宗教といえよう。
 生命の宗教は、やがて進んで精神的な要求の充足あるいは魂の救済へと移って行く。釈迦が四苦として生老病死をあげたのも根本は死に究極するのであって、しかもそれが他の一切の教えによって克服されず、ただ仏教によってのみ可能であるということが、人を宗教に入らしめる根本動機であるとするのは、空海の「三教の指帰」の示す通りである。不幸を引き起こす力をもつ神をなだめ、神の力にすがることは、いわば不幸の原因を外におくことであるが、それが自己自身に基づくと考えることによってその原因を内におくことになり、そこに罪の意識が生ずる。罪の意識は当然自我の自覚に基づくと共に、道徳的意識の発源でもあるが、その内面性にもニュアンスの相違があって、それをなお外から降り掛かるものとし、外から附いてくるものとして、これを祓う形態がとられる。日本の古代信仰にある禊・祓とはその典型的なものであるが、原罪の思想の中にも同様の要素はあろうが、しかしその起源は人間自身の根本悪の考えで、自己自身を有漏の身とし、悪人や罪人とみる仏教やキリスト教の考え方も同様である。このような罪の自覚に始まりそれからの救済によって得られる幸福は当然魂の救済による精神的幸福であって、その場合の人間存在は、もはや生命の要求の充足をはかる生命としての人間ではなくて、よりよき理念を目指す精神としての人間であるということになるであろう。この立場から振り返ってみるとき、生命的な幸不幸は二の次となる。「人もし魂を失わば、全世界を得るとも何かあらん」であり、「汝宝を天に積め、そこではもはや虫食い錆びることはないであろう」。そして、ヨブ記はこのような生命的幸福の一切を失っても、なお精神的な幸福にのみ生きる人間の典型的な例である。しかしこの場合も実は生命的幸福ももとよりあった方がよいのであるから、ヨブ記はやがて最後には失った富を取り戻すのであるし、またキリストの「パンのみにて生きるにはあらず」という言葉もパンもまた必要であることは当然意味しているのであって、その通念の上に別の生き効いの必要なことを言っているまでなのである。しかし生命的要求の充足は精神の存続に必要な限りであって、精神の幸福に障害となるときには当然捨てられねばならず、したがってそれを極端に対立的に考えれば、霊と肉との対立ともなる。そして霊の高揚、精神の高揚のためには、それに妨げとなる一切は捨てられねばならないのである。このような立場は霊の宗教、精神の宗教であり、このような宗教の前提する人間は当然精神としての人間といってよいだろう。
 精神の宗教の成立には罪の意識がその基盤をなすといったが、このことを強調する時、罪の意識は善悪の裁きとなり、やがて律法の強調となる。これに対して宗教に愛の面が現れる。愛はもとより様々であり得るが、ここでいう愛は一人一人の人間に対する愛である。生命の要求も人間に共通の普遍性をもつが、精神も同様であって、善悪正邪の区別はやはり普遍的な律法として、それを基準として人間は共通に裁かれ、こうして人間は明暗の二つの世界に分かたれることになる。すなわちよきもの正しきものは勧められるべく、悪しきもの邪なものは斥けられるべきものであって、その場合にも人間愛を語るとすれば、それは道徳的理念を基準とした精神の愛ということになる。しかしそうなればその基準で裁かれ悪しとされた人間は捨てられて、もはや全ての人間を包容すべき余裕のない道徳上の厳格主義とならざるを得ない。しかしもし宗教が全ての人間に魂の救いをもたらすべきものならば、それは裁いてはならないはずであり、その愛は善人も悪人も、義人も罪人もひとしくつつみ得ねばならない。宗教がこの愛の立場に立っていることは、「裁くな」ということから明らかである。罪ある女人に対する厳しい叱責に対して、罪なきものからこの女に石を投げよというキリストの言葉もそれであるし、放蕩息子の話も、先ず息子に対する暖かい愛があってその愛の結果として誤れる息子が正しき道に帰るのであって、先ず息子の側の悔い改めと悪を行わないということが前提となって初めて許されるというのではない。それは人は全て良心を鋭くする限り罪人であり、全てが罪人である限り人を裁くことは出来ない。その上九十九匹の迷わぬ羊より、ただ一匹の迷える羊の連れ戻される方により多くの天の歓喜があるはずである。浄土教においても仏は全ての人間が一文不知の愚鈍の身であることから救いは当然自力によるものではなくて、ただ仏の大慈大悲に依り、他力をたのむこと以外にない。それゆえ救いはこれほどの善もなし得るという自力をたのむ善人よりもいかに努力しても善をなし得ない悪人の方により多くの可能性がある。その上仏の誓願は一切衆生の救いであるが、とりわけ悪人成仏である。ここにあるのは人を善悪の普遍的基準をもって裁く律法の立場ではなくて、全ての人を善悪に拘わらず一人一人かけがえのない存在としてひとしく愛する宗教の立場であるといえる。このようなかけがえのなさは、天才のような選ばれた意味でのそれではない。このような人間のあり方を実存と呼ぶとき、それを教えの中心におく宗教は実存の宗教といい得るのである。
 このことはまた宗教が現実の世界に一つの制度として成立して宗教集団となった時にも起こり得る。生命の宗教はしばしば地域集団、民族や国家等々に結びついて、民族宗教や国家宗教となるのは、それが現世的幸福を目標とする限り、当然であるが、そのような現世的幸福から自由になって精神的幸福を求める精神の宗教も一度制度となれば現世的な集団となって具体化する。それは精神としての人間のあり方も生命としての人間のあり方を土台として初めて成り立ち得るからで、その上精神の宗教である限り精神的な社会の共通性があるから、自然このような宗教集団では同じ理念をもち同じ生活を共にするという普遍性が基準となって、一人一人の人はその基準に合う限り価値づけられる。この場合個は全体の構成単位としての一人であって、一切の共通の基準を拒み、一人一人が一様に律せられない、かけがえのなさをもつ個ではない。ここにこのような制度面の強い宗教に対して単独者の主張をもつ実存の宗教が現れるのであって、宗教はただ唯一の神と一人の人間との間の魂の対話であり愛であり救いであるところに成り立つとされる。それゆえにこそたとえ宗教に頼る個人個人はあるいは現世における血縁からなる人間関係をもつとしても、それは宗教の立場からは何の意味もなく、むしろその関係を断ち切るところに真の宗教に相応しい個が成り立つ。それゆえ「人もし我に来りてその父母妻子兄弟姉妹、己が生命までも憎まずば、我が弟子となるを得ず」であり、「親鸞は父母の孝養のためにとて念仏一遍も申したることなし」である。さらにその志を共にする師弟さえ実は、師が弟子を救うのではなく、全てが弥陀のもよおしである限り、「わが弟子人の弟子との争論のあることもての外に候。親鸞は弟子一人ももたず候」である。宗教も現実の制度としては宗教集団となるであろうが、それは一人一人のかけがえのない存在が集っただけで、救いを中心とする限り、根本は一人一人が神に直面し、仏に呼びかけるだけである。無教会の主張はそれを徹底したものである。そこに宗教における人間存在が実存であり単独者である理由がある。
 このようにして宗教もまた人間の示す根本的究極的な現象である限り、人間の根本的あり方たる生命精神実存のいずれの面をも現すが、その間に生命が精神や実存に対し、また精神が実存に対して土台づけの関係にあり、逆に精神は生命に対し、実存は精神に対して意味づけの関係にあることから、当然実存の宗教が他の二者、生命の宗教や精神の宗教に対して最後の意味づけをすると言わねばならず、その限り宗教は根本において実存の宗教であることを欲し、したがって宗教の求める人間存在は当然実存であると言えるのである。実存概念は「人格のみが人格を求める」という神と一対一の関係に立つシェリングの人間存在に胚胎し、キルケゴールにおいて明確に主張されるにしても、実は古来宗教が究極的に常に考えてきたことであって、宗教は究極において実存を欲するといえるのである。
 キリスト教の場合、父なる神がその絶対性のゆえに人間との間に隔絶を生ずると、神と人との間を媒介するものとしてのキリストの受肉があって、いわば超越的なものから現世的歴史的なものへと下降の道が成り立つのに対して、浄土教の場合には本来覚者たる仏がその意味で現世性をもちながら、やがて絶対的信仰の対象となることによって超越性を得て来るのであって、ここではいわば歴史的現世的なものから超越的なものへの上昇の道が成り立つといえるであろう。もとよりこの相違は比較的ともいえるが、いずれにせよ相違は相違として、両者とも人間相互を結ぶ愛の高度の純粋化と絶対化とが中心となっている点は極めて特異な共通性である。人間を救うものは人間を超えたものでなくてはならないが、その救いの原理となるものは最も人間的と言うべき愛に他ならない。「神は愛」であり、人間の神に対する関係も「汝心を尽くし、精神を尽くし思いを尽くして主なる神を愛すべし」。「己を愛するごとく汝の隣人を愛すべし」である。そして弥陀の誓願も一切衆生に対する大慈大悲のゆえである。こうした神なり仏なりの人間に対する愛と人間の神なり仏なりに対する愛、さらには人間相互の愛の中に、全ては包まれ終わるのである。我々はこれを宗教性における人間論的動向と名づけたいと思う。
 これに対し禅には、そのような人間的な愛は直接表面に現れて来ない。もとより全ての救いには救われるものへの愛情があり、したがってまた師家の弟子に対する処置にも愛情はあろう。しかし禅の目指す境地は必ずしも直接愛情による人間間や人間と絶対者との間の関係を意味しない。否むしろ人間的なものからの離脱がある。「仏に逢えば仏を殺し、祖師に逢えば祖師を殺す」ということは、何ものにも捉われぬ自在というものであろうが、またその反面、人間的なものに対しても捉われぬことをも示してはいないだろうか。この立場から言って人間的なものが問題になるとすれば、それは根本的真理を担い、それを宿すがゆえに価値があるわけで、それ以上ではない。その限りむしろしばしば人間より自然への接近がある。香厳が清掃した時飛んだ小石が竹幹に当って発した音によって大悟したのも、霊雲が陽春山脚に憩うて桃華の爛漫たる里を遠望して悟りを開いたのも、あるいは公案やその解釈に現れる多くの比喩の中にむしろ自然が楽しげに語られるのも、決して偶然ではなくて、その本質的親近性のゆえと思われる。むしろ人間的なものよりも自然の方が根本的境地を表すに相応しいというわけである。このような宗教的動向を我々は存在論的と呼びたいと思う。
 このような存在論的動向は、また本来人間論的キリスト教において汎神論として現れるものに通っている。汎神論が一茎の草にも神の示現を見るという時それが創造主としての神である間は依然神の位格性は失われないから、その限り人間論的傾向に必ずしも背馳しないが、それが一層徹底して例えばスピノザの「神即自然」というようになると、神の位格性は希薄化して、したがって人間論的立場をとる宗教からは異端として非難され、それだけ禅のような存在論的立場に近づくのである。この点はまたしばしば西欧の神秘哲学にあっても現れ、神との合一の神秘的体験は魂の神への没入あるいは神の魂への誕生として、真言密教の入我我入に比せられるが、忘我の境地が高まれば、没入すべき特定の対象は薄れて存在一般に近づくのは、スピノザの神の知的愛のようなものを見れば明らかであろう。しかし西欧の汎神論や神秘的合一に禅に通う存在論的面があるとしても、それがキリスト教の立場を去らぬ限り、最初の出発点に以依然位格性をもつもので、そこに矛盾もあり、始めから位格性を前提せぬ禅の方がより矛盾なく徹底しているともいえる。

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 キリスト教における神の神性は、中世の哲学の中で形成された三位一体論に象徴されるように、創造者(父なる神)、救済者(子なる神)、完成者(聖霊なる神)に集約されるであろう。創造(クレアティオ)、救済(サルヴァティオ)、完成(ペルフェクティオ)という営為は、いうまでもなく歴史という世界にして初めて可能になる。教義が形成される途上で、本質なる神が父・子・精霊の三つの位格(ペルソナ)として実存する時に、歴史が始まるのである、という考え方があった。キリスト教の神の人格神としての働きは本質ではなく実存にあるのであって、しかもそれは歴史と共に実存するのである。一般に歴史という世界に対しては自然という世界が考えられているが、自然の世界には厳密な意味での創造や救済や完成があり得ない。自然に変化が見られても、それは法則や秩序に従った変化であり、理性の観察によって認識され得る美しき必然性の調和のもとでの変化である。そこには、新しきものを生み出す自由な創造は存在しない。全ては因果の連鎖のもとで説明され、法則の支配下に組み込まれる閉じたシステムとして完結している世界である。その完成体が全体としては未だ完全に理性の知り尽くし得ないものであるにせよ、自然が合理性を期待されているものであるという点で、完結したものであることは明らかである。まして、ここには救済という出来事の介入は問題にならない。救済とは価値の措定を前提とするが、自然は没価値的に観察されることを本領とするからである。無からの創造、罪からの救済、不完全からの完成は、歴史の無化作用による自由な可能性の前に投げられた神の行為なのである。
 キリスト教の神が、創造、救済、完成といったような働きをもって、人間と人格的な交わりをもつものであれば、それは自然存在としての人間ではなく、歴史存在としての人間に対面する神でなければならない。自然的存在(ナトゥラ)という本質の想定からは引き出し得ない自由無の人間存在に対してのみ、創造、救済、完成という啓示が意味をもつからである。自らが万能薬(バナシア)や免罪符(インドゥルゲンティア)を作り出すなら即座に罪へと落ち込むような、根拠の欠如の中へと被投的に措かれている人間存在に対して語られる対話の言葉である。その言葉が、他ならぬ究極的なもの(エスカトン)を語る言葉(ロゴス)としての終末論(エスカトロジー)である。
 十九世紀末から二十世紀の初頭にかけて、プロテスタント神学界に、ヴァイスやシュヴァイツァを中心とする徹底的終末論の唱導者グループが形成され、その中でイエスの教説や原始教団の信仰が徹底的に終末論的であることが明らかにされた。ただし、シュヴァイツァらのいう終末論とは、ごく近い将来に歴史の破局が到来し、神の国が自分たちの世代の内に実現するという緊迫感に満ちていることを指してのことであり、そのような切羽詰まった情勢のもとで形成された新約宗教の思想を現代の我々の間に生かすためには、終末論的な要素を取り除いて、聖書の思想を非終末化した形で受け取らねばならない、といったネガティヴなコンテクストの中で、彼らは徹底的終末論を唱えたのである。しかし、弁証法神学の抬頭以降の二十世紀神学においては、この非終末論化神学はいわば非-非終末論化され、キリスト教神学はむしろ聖書のもつ終末論思想を全面的に受容すべきであると説かれ、聖書の思想に忠実に、終末論を基軸とする神学の再形成が試みられることになった。したがって、現代神学では、三一論を主題とする教義学も、それが終末論として再編され、想像、救済、完成の神の行為は、先述のように、全体として究極的存在を語り出す言葉であると理解されているのである。
 新約の記者たちが終末論的な表象を持っていたにせよ、歴史の終局が彼らの世代には起こらなかったという事実と、その新約がたとえ特定の世代の人々に向けて書かれたにせよ、教会史の中で生ける神の言葉として機能して来たという事実と、この二点からだけでも明らかなように、聖書の終末論は、例えば千福年説のごとく、自然時の算定基準にのったクロニカルな事件のいかがわしい予言ではない。そうではなくて、終末とは、不断に未来的である人間存在へと語りかける絶えざる将来的なものである。それは、まずは、不断のもの、絶えざるものである。少なくとも、天文的自然の運行を基準にして計量している一日や一年を積み重ねた時間の中で区画されるようなものではなく、そのような自然時を超越した終末である。未だ来たらぬ可能性をまさに来るべき可能性へと変えることによって、可能存在を贈りつける恒常的な存在の根拠である。
 実存が歴史を軸にした可能性から現実性への運動であるとしても、それをそのように説明して見せるだけであれば、本質なき人間という形で本質規定を行うことになり、それはまた一種の本質主義に逆戻りしてしまう。究極的なものは、自己を根拠とすることが罪であるという絶望的体験に裏打ちされた信仰に対してのみ、透明化されて来る超越的なものである。たとえ、諸可能性を枚挙して快楽計算をしつつ理性的に最大幸福を選択して行為して見ても、行為できるそのことの可能性は、計算に乗らないと知るべきである。運動を知ることができても、運動の根拠は不可知なのである。実存することの説明は出来ても、実存することの根拠は、運動の中には内在していない。自らが実存することによって、この究極的な存在の根拠の超越性を体験し、その体験を信仰の言葉で表現する以外に、我々は終末論という言葉を了解する方途をもたないのである。  
 近代思想を主導することになった理性の知的懐疑は、理性の独白が言いくるめる論拠で納得され、理性的に乗り越えられるであろうが、存在することへの懐疑は、理性の手に余ることであり、自由から実存することへの運動の秘密は、人間の内在的原理(ロゴス)を超越した出来事である。如何に生きるべきかを問う人間が、なぜそう問わざるを得ないのかと反問するとき、運動として実存する人間存在を見出すであろう。そして、そこから自由の被投性が露わになるとしても、そもそもなぜ人間が自由として存在しているのか、また、自由からの存在として存在すべきであるのかは、もはや歴史を生きることや歴史に存在することによって自ら答える以外に方法がない問いとなる。しかも、内に欠如的に自由である者にとって、現実性へと存在する生成の根拠は、専ら外から贈られる他ないのである。
 近代合理主義の支配する中で育った現代人の多くは、生きることの真剣さを知ることの熱心さに置き換えて、宗教現象も、たかだか行動科学の話題に解消されるものと受け取っている。宗教心理学か宗教社会学かで説明のつくものと考え、客観的にこれを眺めやっているだけなのである。自己と関わる関係をも客観化し、主体的な了解を問わずに、客観的な知識で間に合わせてしまっているのである。そこでは、超越者との関係で生じる罪の絶望を内在的な関係で生じる知的懐疑とすり替え、希望を期待と取り違える安易さが横行する。このような事態はどうして起こるのであろうか。それは、一つには言葉(ロゴス)の誤認から生じたものと思われる。人間の理性への過信から、言葉が原理や尺度という理性的なものと考えられ、言葉(オラティオ)が理性(ラティオ)の写しであると考えられて来たことによるのである。人間が言葉をもつ動物であるということが、論理的思惟(ロゴス)という理性的機能をもつ者の意に用いられて来たからである。そして、近代では特にこの点が強調され、現代人はその近代からの解放を十分に体験してはいないからである。しかし、言葉のもつ論理性は、言葉の機能の全体をカバーするものであろうか。それはむしろ言葉という現象の一面にすぎないのである。言葉が人間に固有のものであるとすれば、人間存在に応じた広義の言葉(ロゴス)が見直されなければならない。機械語や動物語から区別された人間語が、実存の運動に即してより根源的な地平から問題とされねばならない。そして、存在の究極的根拠を将来から人間へと贈りつける希望の言葉は、このような実存の自由との関係で理解されるような言葉でなければならないのである。
 
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 古代イスラエル人は、自らを神の民であると信じていた。彼らによれば、この世界はヤハウェなる神によって創造されたものであり、歴史は神によって支配されているのであった。そして神は、イスラエルを己の民、すなわちヤハウェの民として選び、これと契約を締結したのであった。
 この神の民の観念は、イスラエルの歴史を通じて存続し、捕囚期後には益々その意義が強調されるようになり、ユダヤ教の選民思想として注目されるものとなった。他方、ユダヤ教の生み出したトーラーを、己の正典、旧約聖書として継承したキリスト教団は、自らを新しき神の民イスラエルであると確信した。
 古代イスラエルの生んだ最大の預言者エレミヤは、南王国ユダの滅亡期に生きた捕囚期前最後の預言者でもあるが、彼において神の民の観念は一つの頂点に達する。しかしこのことは、なにもエレミヤ自身が彼独自の神の民の思想を形成しようと意図したというわけではない。イスラエルにおける神の民の観念は、遠く王国成立以前に遡り、いわゆる士師時代、六ないし十二部族宗教連合(アンフィクチオ二ー)の時代に成立したと考えられるが、エレミヤを含めたイスラエルの古典預言者らは、その昔成立し、王国形成後も主として祭司階級によって継承されてきた観念をそのまま前提とし、受け容れていたのである。しかしエレミヤの眼には、彼の時代のイスラエル民族は、神の民観念に背反する民として映った。しかもイスラエル以外にヤハウェの民はあり得ない。彼はこのような観念と現実の矛盾の中に立っていた。神の民の観念は、彼にとって実現されるべき理想に他ならなかった。この点については、エレミヤの預言活動の初期に発見されたという「律法の書」、いわゆる原申命記に裏付けられている。そしてその理想の実現を目指したのがヨシヤの宗教改革であった。しかしその改革は中途にして挫折せざるを得なかった。改革の失敗を目の当たりにしたエレミヤは、政治権力によってこの理想を実現することの困難さと限界を体験した。その理想の実現はイスラエルが主体的にヤハウェの民になる以外になかった。ヤハウェの民が自らその本来性を取り戻す以外になかったのである。かくて預言者の使命は、民に向かって「ヤハウェに帰る」ことを説得することになる。エレミヤは伝統的な観念を前提としつつも、彼の関心はあくまで現実のイスラエルにあった。そして民にヤハウェの言葉を語り、民のために行動する。このように現実にウエイトが置かれるとき、理念は預言者が意図しないにも拘らず、その意味内容が変化する。このことは特に後期のエレミヤにおいて著しいが、これこそが行動によって観念が展開されるということの意味である。現実が神の民の理念によって弾劾されると共に、歴史的・社会的現実の変化に応じて神の民の理念そのものが変化していく。
 さて、エレミヤの生涯は三つの時期に分けられる。第一期はヨシア王の治世に当り、エレミヤの召命から、宗教改革を経てメギドの戦いに至るまでの時期である(627-606)。この時期の預言の中心は、バアル化したヤハウェ宗教の批判であった。ただし、621年の宗教改革が初期の預言の理想を実現したかのように、以後メギドの戦いによるヨシア王の横死とそれに伴う改革の挫折までの間は、エレミヤはほとんど活動を停止する。第二期はエホヤキムの治世である(608-597)。この時期の預言者は、一方で神殿批判、祭儀批判を行うと共に、他方で本格的な政治批判を開始した。第三期は、バビロン王によってユダの王とされたゼデキヤの時代である(597-586)。この時期は南王国ユダの滅亡期であり、エレミヤは終末論的な新しき神の民に関する予言をする。
 預言者エレミヤは650年頃、エルサレムの北東およそ7キロの所にあるべ二ヤミンの地アナトテの祭司ヒルキヤの子として生れた。アナトテは当時こそユダの従属地であったが元々はべ二ヤミンの地として北イスラエルに属していた。このことがエレミヤをして常に滅亡のイスラエルを忘れさせず、北イスラエルとユダの民の両者を神の民と考えさせた一つの理由であったと考えられる。しかし彼ほどシナイ契約、出エジプトの両伝説を強調した預言者はいなかった。
 エレミヤが預言者としての召命を受けたのは、ヨシア王の13年、627年、若年の折であった。それは北イスラエル王国がすでに滅び、ユダも北方の敵、スクテヤに攻められるという危機の時代であった。総じてイスラエルの自由預言はかかる王国の危機に生まれるのを常とするが、エレミヤの時代も例外でなく、むしろ最も危機的様相が高まった時であった。
 第一期におけるエレミヤの預言の中心は、ヤハウェの民イスラエルがバアル崇拝によって堕落したことに対する批判である。このことは召命の記事からも窺われる。すなわち、ユダの民は北方の敵によって滅ぼされるが、それは彼らがヤハウェを棄て、他神を拝するがゆえであり、という。同様の批判は、すでに9世紀のエリヤ、8世紀のホセアによってなされたが、エレミヤはそれを継承している。特に初期の彼の預言にはホセアとの関連が認められる。彼らは共に、ヤハウェ宗教の本来の姿を沙漠の宗教に求めていた。エレミヤがこのような遊牧の理想の見地からイスラエルの宗教を見る時、それは農耕地カナン起源の宗教バアル崇拝と混淆し、沙漠時代の純粋性を失ったものであった。しかし客観的にみれば、沙漠起源の軍事神ヤハウェがイスラエル部族宗教連合の歴史的発展と共にカナン起源の農耕神バアルと融合していくのは、むしろ当然の成り行きであった。ヤハウェは人格的共同体の神であり、バアルは地域団体の神であると規定することもできるが、平和の時代にはバアルが勢力をもち、危機の時代にはヤハウェが前面に出たのである。危機の時代に出現した預言者にとって、ヤハウェとバアルは絶対に別物であった。シナイ、出エジプト両伝説を基準とする神の民の理念は絶対的であり、これに反するバアルの宗教性は否定されねばならない。元来のヤハウェ宗教においては素朴なる無神像をその特徴とするが、これがバアル化し、ヤハウェが木像や石像によって象徴されたとき、「民はヤハウェを捨てた」とされたのである。
 エレミヤは、ホセアが神と民の関係を比喩によって内面的に捉え、ヤハウェを知ることを強調するその精神性をとくに継承・発展させた。民がヤハウェに帰ることの内容は、何といってもヤハウェ宗教が過去の理想の姿を取り戻すことであり、それはヤハウェ祭儀が元来の様式を採り、ユダの外交政策が神政政治のそれに合致したものになることであったが、同時に心において神と結びつくことであった。
 初期の預言を締めくくるのは北方の敵に関する詩である。審判は北からやって来るとされるが、この外敵の具体的内容は漠然としている。むしろ注目すべきは、ここでエレミヤがイスラエル以外の諸民族もヤハウェの支配下にあるということを前提にしていることである。しかし他方では、ヤハウェはあくまでイスラエルの神であり、その民族神的性格は不変である。初期のエレミヤの神観は、その普遍性においてイザヤの立場には程遠いものがあり、むしろすぐれてイスラエルとユダの神であったのである。
 初期の彼は祭司を批判すると同時に、アナトテの貧しき庶民を愚かでトーラーを知らぬ者として、語るべき対象たり得ぬとした。ヤハウェの道を知り、トーラーを弁えている者のみが預言者の神託を理解し得るのであった。かくてエレミヤの神託はユダの民に向けられているとはいえ、とりわけ知識層に対するものであった。知識層とは庶民層に対する支配階級、就中エルサレム貴族である。しかし、知識層がすぐれて神の民であれば、それだけ預言者の批判の対象になることは、アモス以来の預言者の発想に一貫して認められるところである。エレミヤのユダの民に対する非難と警告も、大体において支配階級に向けられている。特にその王とその高官、祭司、宮廷預言者、アム・ハアレツらは最も鋭い批判を受けた。これに対し、貧しき者なる庶民層は、保護されるべきと考えられた。すなわち、支配層が庶民を正しく保護し、暴虐と破壊、圧制と虐待の対象としないとき神の民の理念に適うのであった。しかし預言者の見た現実はその反対だったのである。
 およそ古代イスラエルには高度に合理的な宗教倫理が存在しており、それは現代の西洋および近東の宗教倫理の基礎となったことによって世界史的意義を有するが、この倫理の形成にとりわけ寄与したのがレビ人のトーラーだった。これに対し預言者の思想は、倫理の有効性には重要な役割を果したとしても、倫理の実体内容については何も創造しなかったのである。すでに預言者ミカがヒゼキヤの時代に述べたように、「人間にとって何が善であるかは述べられている。すなわち、神の命令を守り、愛を行い、神の前に謙虚であること」であって、イスラエルの倫理は秘伝的知識や単なる儀礼的知識でなく、むしろ反密儀教的な教えられる倫理であったが、これこそレビ人のトーラーによるものであった。かかるトーラーと預言者との関係が申命記とエレミヤとの関係についても妥当する。初期のエレミヤは民に対してヤハウェに帰ることを要求したが、その具体的内容については先に述べた基本的諸点に止まり、その詳細はむしろ周知のこととして前提にされている。さらに改革以後の預言になると、前提とされている倫理の内容が申命記であることは明白である。申命記が神の民の理念の下にトーラーを統一的に把握したものと考えれば、中期以後のエレミヤがこれを前提とするのは極めて当然のことかもしれない。ただし、ヨシヤの宗教改革については、彼は次第に懐疑的になったようである。
 ところで、先述の通り、申命記とエレミヤの思想との間には、当初から神の民の理念および倫理の担い手に関する喰い違いが存在したと思われる。すなわち、申命記発見とこれによる改革の推進者は、王およびその役人と祭司らであり、アム・ハアレツと呼ばれる支配階層であった。特に貴族と結合していた祭司が決定的な役割を演じたことは史料の示すところである。彼らが申命記の倫理の担い手としても重要な位置を占めることは、申命記法典の内容の中でエルサレム祭司階級による礼拝集中とトーラー独占の要求が重要な一群となっていることからも明かであろう。これに対しエレミヤは、祭司には当初から敵対していたし、また貴族層に対しても批判的であった。彼はアム・ハアレツなる語を漠然と支配階級一般を指すものとしては用いず、明確にヤハウェ宗教の敵対者を意味するものとして用いた。しかも他方、エレミヤは支配層こそ神の民の代表と考えていた。このようにエレミヤの支配層に対する態度は一義的には捉えられないものであり、彼は倫理とその担い手とを緊張関係において捉えていたという他ない。かくてエレミヤと申命記の間の相違は明瞭と言わねばならない。そして両者の相違は、時代の経過と共に益々鮮明になって来るのである。
 ヨシヤ王の死後、彼の次男シャルムが即位し、エホアハズと名乗った。しかし彼はエジプト王ネコにより王位を奪われ、エジプトの地に拉致された。治世三年であった。エレミヤのエホアハズに関する預言は、やがて来るべきユダの運命を予告するかのようである。当時のイスラエルにとって、エジプトで死ぬことほど忌まわしいことはなかったのである。
 エジプト王ネコは、エホアハズに代えヨシヤの長男エリアキムをユダの王とし、エホヤキム(またはヨヤキム)と名乗らせた。エホヤキムはエジプトに臣従し、ユダにおいて徴収した租税をネコに貢納した。かくて当然、ユダの民への課税は重くならざるを得ない。預言者は、王エホヤキムを残忍で苛酷な君主として弾劾している。この時期のエレミヤは、いよいよ本格的な政治預言者としてイスラエル政治史の前面に立ち現われるのであるが、時間的前後関係から言えば、第二期の預言活動はいわゆる神殿演説による祭儀批判から開始されたと思われる。
 まずエレミヤは、当時、とくに宗教改革以後顕著になったエルサレム神殿の絶対化に抗議する。申命記の中にはエルサレムへの礼拝集中という要求が含まれていたが、この要求が実現されれば必然的にエルサレム神殿は従来よりはるかに重視される。当時のユダ王国がエルサレムとその周辺とほぼ等しかったことを考慮すれば、この要求は実行不可能ではなかった。少なくともヨシヤの改革を通じてエルサレムの祭司階級は神殿重視の風潮を盛り上げることができた。エレミヤのいう偽りの言葉とは、祭司階級の言動を指すと思われる。前代の預言者イザヤがヤハウェの座であるエルサレム神殿にほとんど絶対的な信頼を懐いていたのに対し、エレミヤは積極的に神殿批判の態度を打ち出しているのである。
 神殿絶対化への批判と密接に関連するのが祭儀批判である。しかし、預言者の祭儀批判ということはエレミヤ独自の思想ではない。すでにイザヤが犠牲の無益を説き、さらにアモスもイスラエルの祭儀がヤハウェに受け容れられぬことを強調しているように、それは古典的預言者に一貫した主張である。但し、エレミヤの場合はここでもホセアとの関連を認めるべきであろう。
 次にエレミヤは、申命記批判を示す預言として古典的な箇所で、イスラエルの書記あるいは知者を批判の対象にしている。書記とは、申命記の著作に当って決定的役割を果たした申命記的神学者と呼ばれる知識階級であろう。ただしエレミヤは、申命記的神学者の思想の一側面は採り入れて発展させた。エレミヤ思想の中心的概念たる「心」の強調も、申命記の「心を尽くしヤハウェを愛すべし」という命令と関連すると考えざるを得ない。預言者においてトーラーの内面的、精神的側面がより強調される。
 609年から605年に至る数年は、エジプトがパレスチナをその勢力圏に入れていた時代である。当時、パロ・ネコは割礼を受けた民族の連合を組織していたようである。しかしカルデヤ帝国の興隆とエジプトの勢力の衰退に伴い、都市国家エルサレムの安泰も次第に脅かされるようになる。これまでの都市国家は、レハべアム王の治世にエジプト王シシャクによって急襲されたとき以外、致命的な敵襲を受けたことがなかった。神政政治の首都としてエルサレムの絶対に不滅なることは、預言者イザヤの確信でもあった。ところが、エレミヤは北からの新たなる敵の来襲を告げ、その象徴行為によって、エルサレムへの信頼も空しいことを民に知らせたのである。それは言うまでもなく、ネブカドネザルのカルデア帝国であった。エジプトを中心とせる民族連合も、間もなく「ヤハウェによって罰せられねばならな」かった。そして605年、カルケミシの戦いにおいて遂にネブカドネザルはエジプト王ネコの軍勢を破り、シリア・パレスチナの覇権を確立した。かくてエレミヤの二十年来の警告であった北方の敵が、具体的にネブカドネザルとなって現れたのであり、しかもエレミヤは、かつてイザヤがアッシリアをヤハウェの「怒りの杖」、「憤りの鞭」と呼んだように、ネブカドネザルこそ「ヤハウェの僕」であり、ヤハウェの意志に従い、不信の国ユダを攻める「ヤハウェの鎚」であるとした。いまや異民族がヤハウェの僕として、その使命を遂行し、神の民イスラエルを滅ぼすのである。ここにエレミヤのヤハウェ神観は、行き着くところまで普遍化された。ところで、神が普遍化するとき、その民もこれに応じて普遍的意義を得て来る。元来預言者の神の民の観念は伝統的民族宗教的観念であり、しかもその意義を変化させようという意図さえなかったにも拘わらず、客観的にみれば民族的制約から解放され、「超越神に結びつく人間」というような普遍的意味合いを強めて来る。ここに理念と現実との矛盾緊張の中に立つ預言者が、理念それ自体においても、特殊と普遍との緊張の中に立っているのである。
 第二期のエレミヤの神殿演説に対して、祭司・宮廷預言者たちと高官・長老たちとは意見が対立した。前者はエレミヤを非難し、後者は彼を支持した。しかし、祭司の避難を受けた預言者は、それ以後エルサレム神殿に近寄ることができなくなり、次の機会には、弟子バルクをして神殿の前で民衆に向かい預言者の神託を朗読せしめた。この時は、民衆と共にエルサレムの貴族、高官もバルクの朗読を聞いていた。彼ら、エレミヤに好意的な高官の中にヨシヤ王の書記官シャパンの血統をひく者の名前が見えることから、この高官たちはかつての申命記改革の推進者に属し、伝統的な神の民の理念の担い手であったと想定される。これに対し、王エホヤキムとその側近なる高官は、預言者に敵対するグループに属した。それは同時に政治的対立をも意味した。ここには支配階級内部にも政治・宗教上の対立が存在していたことになる。他方、エレミヤの神殿演説を聴き、バルクの預言朗読を聴いた一般民衆、庶民の預言者に対する態度は、はなはだ漠然としていて捉え難い。神殿演説の記事によれば、その矛盾した言葉において彼らは単に付和雷同せる群衆にすぎないという印象しか得られない。「告白録」と呼ばれる聴く相手を前提としないエレミヤの一連の祈りは、通常この時期のものとされるが、それはエレミヤがその個的実存において神の民の理念と現実の矛盾、断絶を体験し、苦闘してあげる雄叫びであるともいえよう。
 エレミヤの活動の第三期は、ユダの最後の王ゼデキヤの時代とそれに続く総督ゲダリヤの下におけるわずかの期間である。この時代は597年、カルデヤによるユダの国の第一回メソポタミア捕囚に始まる。したがって南王国ユダの滅亡期に当る。カルデヤ軍がエルサレムを包囲する以前に王エホヤキムはすでに死んでおり、捕囚の非運を受けたのはその子エホヤキン(またはコ二ヤ)であった。その時、王と共にエルサレムの貴族階級はバべルに連れ去られ、ユダはカルデヤの属国として残された。そしてその王とされたのが、エホヤキンの叔父に当るゼデキヤだったのである。第一回捕囚でバビロンに連れ去られたのは、長老、高官、戦士、祭司、宮廷預言者ら政治的宗教的支配階級ならびに木工・鍛冶ら手工業者であった。かつてエレミヤをその敵対者たる祭司、預言者、王とその側近から護った貴族らも連れ去られた。ゼデキヤの周囲に残った高官の中にはエラサのようなシャパン氏族の者もいたが、概してエルサレム残留貴族の中に預言者の支持者がいなかったことは史料の示す通りである。
 この間のエレミヤの政治的態度は、カルケミシの戦い以後徹底的に現実主義的であり、知将ネブカドネザルの評価を中心とする現実判断は、結果的にみれば的確を極めていたということが出来る。預言者一般に通じる理想主義的政治態度は、ここに逆転しているとも考えられる。エレミヤは単に抵抗の無益なることを説いたばかりでなく、個々の民に対し脱走によって生きながらえるよう勧告している。しかしエレミヤはこれによって戦闘的高官の憎悪を受け、結局、親バビロン的敗北主義者として逮捕されるに至った。これがいわゆるエレミヤの受難である。逮捕された後のエレミヤは、獄舎に幽閉されていたが、それほど厳重に監禁されていたわけではなかった。ゼデキヤ王はカルデヤ軍に包囲され追い詰められたとき、再三この捕らわれの預言者に好意を示している。そしてこれに応える預言者の神託は、依然として降伏を勧告し、さもなければユダはバビロンに徹底的に滅ぼされてしまうであろうというものであった。
 586年、エレミヤの預言は的中し、エルサレムはネブカドネザルの軍勢によって占拠された。ゼデキヤと側近らは遁走してエリコまでは逃れたが、そこで捕らわれ、ネブカドネザルの陣営に拉致された。ゼデキヤは両眼を潰され、貴族らは殺され、神殿は焼かれ、城壁は破壊された。最も貧しい者と呼ばれる最下層民を残して、大多数の住民はバビロンに移された。かくてエルサレムは陥落し、ユダ王国は滅亡したのである。
 しかし、エレミヤは民族を超えた普遍的支配者なるヤハウェの意志を確信すると同時に、神の民なるイスラエルの不滅なることも確信せざるを得なかった。なぜなら、およそイスラエル預言者はイスラエルの民なくして存在し得ない。またヤハウェすらも結局はその民イスラエルなくしては存在しえなかったからである。そこにエレミヤは、その独自な終末論的思想たる「新しき契約」による新しき神の民の理念を懐くに至るのである。第三期の彼は主としていわゆる終末論的預言を多くなしたが、その到達点を示すものがこの新しき契約に関する預言であり、それは古代イスラエル思想の一つの頂点であると共に、原始キリスト教団の基本的思想に継承されていくところの世界史的意義を担う観念、思想でもあった。

































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