人倫的世界と人倫的行動(3)
死とは、個人が普遍的なるものの中に移行することである。単なる生命にすぎない自然においては、類は個人を超越するものであるから、死の否定は、外面的な否定であるように思われる。個人自身の死をもたらすものは、その個人自身ではないのである。だから、死は自然的な否定なのである。「死とは、自然的な否定性であり、存在するものとしての個別者の運動なのであって、この運動において、意識が自分自身に還帰して、自己意識となることはないのである」。したがって、死は、この精神的な世界における純粋なる自然の事実として存在することになるであろう。死者は一つの純粋なる物となり、大地という原初的な個体の餌食、あるいは他の生けるものどもの餌食となるのである。クレオンは言っている。「たとえ鳥獣の食べるに委ねられても、ポリュネイケスの屍は埋葬されてはならない。私はこのことを命令する」と。しかし、死は、精神の生命の始めなのである。普遍的なるものへの移行は、共同体の中において起こるのである。「死は、個人が個人として共同体のために引き受ける最後の仕事であり至高の労苦なのである」。したがって家族の優れた機能は、死にそれ自身の真の意味を取り戻させ、死を自然から奪って、それを精神的な行動とすることにあるのである。「死は、単に自然が直接的に生成した存在であって、意識の行動なのではない。したがって、家族のメンバーの義務は、埋葬において、それに意識的なる行動であるという側面を付け加えることであり、また、このことによって、個人の最後の存在というこの普遍的なる存在を単なる自然に止めて非理性的なものに終らしめることなく、何らかの行動の結果として、そこに意識の権利が主張されるようにすることなのである」。家族は、自然の代わりに自分自身の行動を以て、大地の只中に親族を帰し、親族を以てダイモン(地の霊)となすわけなのである。人倫的世界の中に現れるところの家族共同体は、死に意味を与えるものなのである。個別的自己は普遍性に高められることになり、それは消滅したわけなのであるが、しかしこの消滅した自己は精神として存在し続けることになるのである。ヘーゲルが古代のゲノスの本質をどのように再発見し、それを彼の体系の中でいかに解釈しているかは、明らかである。ヘーゲルは、『現象学』の序文で、次のように言ってはいなかったか。即ち、「死に耐え、死そのものの中で自分を維持する生命こそが、精神の生命に他ならないのである」。承認のための戦いは、人間たちを対立させるが、この戦いに関して、ヘーゲルは、死が単に自然的な否定にすぎないことを注意している。自然的な否定は、否定すると同時に保持するということをしない否定であり、精神的な止揚ではないのである。今や家族が自然に代わって死を精神の普遍性にまで高めるのである。したがって古代人にとっては権利があるのに至高の敬意(個別者の権利)を受けないことほど恐ろしいことはないのである。ホメロスにおけるヘクトルは、埋葬しないままにしないで欲しいと、次のように自分の敵に頼んでいる。「トロイの男女が、私に火葬の敬意を払うために、私の体を返して欲しい」。
家族の人倫的本性はこうしたものであるが、家族が具体的な全体性である限りにおいて、家族の中には、ポリスの中におけると同様、意識の分裂に由来する様々の特殊な契機が存在している。先に我々が家族の精神的意味を探求していた時には、別にしておいた諸々の規定が、ここで見出されることになるのである。男性と女性との愛は、自然の生命の最も高次の契機である。この愛は、自己意識相互の自然的な直接的な承認を表現しているものである。ヘーゲルは若い頃の論文においては、他なるものの中に自分を直接的に認識することを愛として研究しており、こうした認識は、『現象学』の自己意識の章における人間による人間の冷酷な承認に対立するものであるが、家族は、単にこうした直接的な認識にすぎないのではない。家族は、さらに、相互に承認されていることの認識でもあるからである。だから、この相互承認状態は、家族生活の実体的な境位であるわけなのである。ところが、この承認は、現実の精神なのではない。そうではなくて、この精神の予感であり、イメージであるにすぎないのである。しかし、イメージは、「自分とは他なるものの中に、自分の現実性をもつものなのである」。だから、両親の愛は、自分の外に実現された自分の存在を子供の中に見出すのである。1805-6年の『イエナの哲学』においては、ヘーゲルは「子供の成長は両親の死である」と言っていた。両親の愛は、子供という他なるものとなったのである。「この他なるもの(子供)の成長が、両親の関係そのものであり、また、この関係自身は、この他なるものの中に消滅して行くのである。このように一つの世代から次の世代へと流れて行く世代の交代は、民族の中において存続することになるわけである」。後に『法哲学』の中で、ヘーゲルは同じ考えを次のように表現することになるであろう。即ち、「結婚の一体性は、実体的なものとしては、内面的な心情的なものであるが、しかし現実に存在するものとしては、男女二人の主体に分れているわけである。ところが、この一体性も、子供においては、それ自身だけで独立に、現実に存在するものとなり、この一体性がそのまま対象化されることになるのである。両親は、子供を、自分たちの愛として、また自分たちの実体的な存在として愛するのである。自然的な見地からすれば、両親の人格の直接的な現実存在が、ここでは一つの結果として現われているわけである。この結果は連鎖をなして、世代の限りない進展となって続いて行く。世代は産み出されて来るものであるが、また次の世代の前提となるものでもあるからである。これは、家族の神々という単純なる精神が、有限なる自然の中に類として現実に現れる仕方に他ならないのである」。ところが、夫と妻、両親と子供といったこうした関係は、純粋なる精神的関係なのではない。これらの関係の中には、まだ同等の関係でないものが現存している。したがって、承認は、自然性の要素を混じてその影響を受けることになるのである。男性と女性との愛においては、この愛自身がそれ自身に回帰するということがない。この愛は、自己の外なる、子供という他なるものの中に逃れて行くのである。ところが、まさしく子供たちに対する両親の献身も、依然として、偶然的なる情感に煩わされているのである。即ち、「自分の現実性を他なるもの(子供)の中に意識し、この他なるものが対自存在となるのを見るだけで、この対自存在を自分自身に取り戻し得ないという偶然的なる情感(なぜなら、この他なるものは、独自の疎遠なる現実に止まるからである)」に煩わされているのである。真実なる精神的関係は、自分自身への回帰を含んでいるものなのである。この関係が対自的になると言うことは、同時にこの関係が自分自身を保持すると言うことである。ここでは、自然は、いかんともし得ない他者性として現れるのであり、この他者性こそ、まさに受難なのである。即ち、精神的普遍性における特殊性なのである。もし、両親にとって、子供が、彼らの外にある彼らの愛の対自存在であるとすれば、逆に、子供たちは、両親の姿の中に、自分らの非有機的な自然(自分らの即自)を見るのである。子供たちは、この「源泉からの分離(この分離において、源泉は枯渇してしまう)」によってしか、対自存在と固有の自己意識とを獲得し得ないものなのである。
ソフォクレスの『アンチゴネ』から着想を得て、ヘーゲルは、親子ではなくて、兄妹(あるいは姉弟)の関係の中に、自然的なものを混じていない純粋な関係を見ている。兄と妹とは、互に自由なる個体である。「両者は血を同じくしているが、この血は、彼らにおいては安定し均衡に到達している」。したがって、妹(あるいは姉)は、人倫的本質(自己意識と自己意識との自由なる関係)をもっとも深く予感している。しかし、それは、単に予感されているにすぎない。なぜなら、女性が守っている家族の掟は、白日のもとには置かれてはおらず、明白な知とはなっていないからである。家族の掟は、現実性から引き離された神々の境位たるに止まっているのである。人倫的見地からすれば、女性は自分の夫や子供の中に、自分の普遍性を見出すのみなのである。女性においては、個別性の関係は依然として快楽と偶然性とに結ばれている。したがって、この関係そのものは、人倫的なのではない。人倫の国の家庭においては、この夫やこの子供たちが問題なのではなくて、夫一般、子供たち一般が問題なのである。「女性のこれらの関係(妻としての関係、母としての関係)が根拠としているのは、感情ではなくて、普遍的なるものである」。これに対して、男性が自分の普遍性を見出すのは、ポリスにおいてであり、全体性に対する自己犠牲においてであるが、このことによって、男性は欲望の権利を買い取るのである。男性が自分の家族の中に見出すことの出来るのは、個別的なるものとしての自分の自己であって、普遍的なるものとしてのそれなのではない。しかし、こうして女性の男性に対する関係には個別性が混入しているのであれば、この関係の人倫的性格は純粋ではない。この人倫的性格が端的に純粋であれば、個別性は無関係なるものとなり、女性は、他ならぬこの自己としての自己を他なるもの(夫や子供)の中に認めることが出来なくなるわけである。純粋で自然性を混ずることなく自己を認めるということは、むしろ兄弟との関係において起こることになるのである。「兄弟の喪失は、姉妹にとっては償い難いものであり、兄弟に対する姉妹の義務は、姉妹の至高の義務なのである」。ヘーゲルは、ここでは、文字通りアンチゴネを註釈しているのであるが、このアンチゴネは次のように言っている。「夫が死んでも、その後では、別の人が夫に代わることが出来る。息子を失っても、別の男が私に二番目の息子を与えることが出来る。しかし、私は、もはや兄弟の誕生を望むことは出来ないのである」。
妹(姉)は、兄(弟)の中に個別的自己を認識するのであるが、しかし、ここでは、家族の精神は、普遍性の意識という他の領域に移行しているわけである。兄(弟)は、家族という原初的な否定的なる国を放棄して、現実の人倫の国(ポリスの自己意識的精神)を我がものとし、この国を自ら生み出すものなのである。我々は、かなり長々と、ヘーゲルの細かい分析を展開して来た。ヘーゲルは、ここでは、しばしば、説得的なというよりは、むしろ巧みな弁証法を用いて、ソフォクレスの悲劇を詳細に亙って解釈しているのである。家族とポリスといった直接的な形式でここで我々に提示されていることが、精神の生活から消え去ることはあり得ないであろう。たとえ、我々が以後の発展の中にもはやこれらの契機を再び見出すことがないとしても、このことは、単に、精神自身による精神の自覚(自分自身を確信する精神となった真実なる精神)がもはや特にこれらの契機に固執する必要がないことを意味しているにすぎないのである。これらの契機は、出発点において指示された諸対立を発展させることによって、精神の歴史における対自の側面を現わしているものであるから、ただ我々のみはこれらの契機を保持することになるであろう。これらの契機は、抽象的人格、教養、最後に、自己確信的精神と展開して行くことになるであろう。こうして、ヘーゲルの家族に関する弁証法とポリスに関する大部分の弁証法(拡散と収斂、経済生活と戦争)は、彼にとっては、歴史の契機、即ち、これらのものを最も十全な形式で顕わにした歴史の契機から独立した価値をもつことになるのである。古代ポリスにおいては、市民は直接的に普遍性に高まり、古代家族においては、個別的自己は死そのものから救われその普遍的な個別性の中に守られることになるわけであるが、この古代ポリスと古代家族の両者は、普遍と個別とがまだ対立していない美しい全体性を形成するものに他ならないのである。実体はここでは民族として個体的な実体であって、まだ、個人に対立する抽象的な普遍性(即ち運命)なのではない。自己はまだ否定的な個別性(一切の他なるものの排除)として存在しているのではなく、単に影として、家族の血として現存しているにすぎないのである。ところが、この運命と自己という二つの契機は、最後には対立にまで発展していく契機なのである。即ち、運命は、人倫の国の諸々の諸個体を運命の暗黒の闇の中に呑み込むものとなるであろうし、これらの諸個体は、自分たちの直接的な性格を失って、人格という抽象的な自己となるであろう。その時には、人倫的実体は消滅してしまうであろう。人倫的世界における運命と個別的自己との二重の意義は、もっと先のヘーゲルの次のような文章においては、はっきりとした形で述べられている。即ち、「人倫的世界においては、我々は一つの宗教に遭遇した。それは冥界の宗教であった。この宗教は、運命という恐ろしい知られざる暗黒の闇に対する信仰であると共に、また死者の霊であるエウメ二デスに対する信仰である。前者は、普遍性の形式における、後者は個別性の形式における純粋否定性なのである。だから絶対本質は、後者の形式においては、もちろん自己であり、しかも現存する自己なのである(死者の霊が家族生活の中に生きているわけである)。事実、自己は、現存する以外には存在し得ないものなのである。ところが、個別的自己は、この個別的な影(幽霊)であり、運命という普遍性を自分から分離したところのものなのである。この影は、まさしく影であって、この人ではなくなったものであり、したがって、普遍的自己ではあるが、しかし影であるというその否定的意義は、普遍的自己であるというその肯定的な意義には転換してはいないのである」。具体的な実体が、どうしてあのような運命となるのであろうか。即ち、全能で正義ではあるが、自己に対しては否定的なものであるあのような運命となるであろうか。また自己は、どのようにして地下の世界から、即ち、自分が単にこの人でなくなったものとして存在しているにすぎない地下の世界から現れて来るのであろうか。こうしたことは、人倫的世界の研究によって我々に明らかとなることであろう。ただし、直接的な美しい世界である限りにおける人倫的世界ではなくて、行為の実行から悲劇的対立が生起する限りにおける人倫的世界の研究によって、我々に明らかとなることであろう。ヘーゲルが究めようとしているものは、悲劇的なるものそのものの本質なのである。
人倫的世界のこうした静的な描写はこのくらいにして、この世界が真実の行為の悲劇においてはどのようになって行くのかを考察しなければならないが、その前に、我々は、個人的な自己意識が実現するまでの一切の契機をこの世界の中に再び見出すことが出来る。抽象的な状態においては、この自己意識は、自然の中に自分自身を見出さなかった。ところが、今や、この人倫的生活(即ち習俗)は、個人的理性の真理なのである。なぜなら、ここでは、これらの習俗は、理性が見出すところのものであるが、しかしまた、それは、同時に次のような存在、即ち、これらの習俗を見出す意識の行動であり作品である存在であるからである。したがって、自己の享受の不安なる追求、万人の心情の法則、徳、といったものが、それぞれの真の意味を獲得することになるのである。個別的個人が自分を他なる自己意識として見出すのは、家族の中においてであり、この個人を家族から追放する運命が、ポリスの掟なのである。万人の心情の法則とは、各人が市民として参与している普遍的な秩序のことである。最後に、徳は、もはやこうした空しい抽象ではなくて、自らが目指すものを実現するところのものである。徳は個人に犠牲を要求するが、この犠牲によって、徳は本質を現存する実在たらしめるものなのである。したがって、徳は、自分が直観する普遍的生活の中に、自分の犠牲を享受することが出来ることになるのである。形式的な理性が法律を制定し吟味したと主張しても、生きた内容はこうした理性を逃れてしまったが、この理性が習慣の中にこの生きた内容を見出すことになるのである。実体の全体性について言えば、この全体性は、確かに人間の掟と神々の掟とに分かれるが、しかし、これら二つの掟の各々は、互に他方を保証しているように見える。前者即ち人間の掟は、死(絶対的主人)の試練を経て、個人を普遍的なるものに導くものであり、それは、光から影へ向かうものなのであるが、しかし、後者即ち神々の掟は、死そのものを担い、この死を非現実から現実にもたらすものであり、それは、影から光に至るものなのである。前者が男性のものであるのに対して、後者は女性のものである。この全体性は、超越的なるものではなく自己の内部に止まるものであって、それは規準であり均衡であり、即ち正義なのである。だから、この正義は超越的な掟でもなければ、純粋なる恣意なのでもない。つまり、この全体性(自分自身に居合わせているこの全体性)の彼岸にある超越的な掟でもなければ、思想なき偶然のメカニズムによって自分の均衡を実現するところの純粋なる恣意なのでもないのである。復讐は、個人が受けた苦しみを償うものであるが、この復讐はこの個人そのものから、即ちこの個人のエリニュエスから発するものなのである。この個人の個体性、この個人の血液は、家族の中に生き続けるものであるのである。それに、個人がこの世界において受ける唯一の真の苦しみは、精神的意義を持たない自然の事実からしか生じ得ないであろうが、しかし、ここでは、すでに自然は精神によって変容され、滲透されているのである。死そのものさえが、ここにおいては、意識の行動となるのである。宗教に関する章において、ヘーゲルは、精神の生活のこの美しい契機に名を与えることになるであろう。この表象は、自ずから、芸術宗教といったものとなるであろう。事実、美とは、自然と精神とのこのような直接的な統一であるからである。
ヘーゲルが精神、即ち絶対者についてもっている表象は、『初期論文集』においては、『イエナの小論集』におけると同様に、悲劇的なるものである。『自然法』に関する重要な論文において、人倫的世界、即ち民族の生活を絶対者の最も高次の現象として特徴づけた後に、ヘーゲルは、悲劇に関して、それが絶対的な肯定の表象であると語っている。逆に喜劇(アリストファネスの神々の喜劇にしろ、近代ブルジョアの喜劇にしろ)においては、精神は、一切の対立を越えた彼方のものとして現れている。即ち、喜劇においては、たとえ精神がそうした対立を一瞬の間、影として現象せしめて、次の瞬間には精神の純粋なる自己確信の中にそれらをすべて溶解してしまうにしろ、あるいはまた、精神が自らそうした対立に巻き込まれ有限なるものに捉えられて、この精神には絶対者が無なるもの(即ち錯覚)として現れて来るにしろ、いずれにしろ、精神は、一切の対立を越えた彼方のものとして現れている(第一の場合は古代喜劇に対応し、第二の場合は近代喜劇に対応している。近代喜劇においては、登場人物としての自己は、有限性でしかないもの、例えば貨幣を絶対的なるものと見なし、目の回るような弁証法の中に引き込まれて行くのである。この自己は、空しくこの有限なるものを固定させ、それを即自として定立しようとするわけなのである。まさに、この有限なるものは、その内的なる法則にしたがって、常に自己を逃れるものなのである。古代喜劇においては、自己は、舞台で自ら笑うが、近代喜劇においては、笑うのは観客だけなのである)。したがって、喜劇には、運命が現れず、喜劇は常に個別性の勝利を、即ち、自分自身に還帰した主観性の勝利を表現するものとなっている。だから、喜劇は、無力なるものの笑いでしかなく、自分の無力を通じて、自分自身の中に自分の悲劇的な運命を見出すことになるのである。こうして、もとに戻って、悲劇が再び精神の生命そのものを表現することになるわけである。我々は先に人倫的世界の平穏なる状態を見て来たが、こうした人倫的世界が精神であるのは、この世界の中に悲劇的なるものが見出されるからでしかないのである。この悲劇的なるものは、実体を運命として表しめることになるであろう。もし、この運命の真理が、自己つまり対自存在の主観性の出現であるとすれば、即ち、様々の対立や有限なるものを本質なき影としてしまう古代喜劇であるとすれば、この主観性の出現は、今度は、精神の外化の中に、即ち、有限なるものを有限なるものとして肯定し、それに空しい独立を熱望させる近代喜劇の中に、自分の真理を見出すことになるであろう。近代ブルジョア社会、即ち教養の世界は、古代の運命が自己の中に消滅するということの真理なのである。このことは、ヘーゲルがすでに自然法に関する小論において述べていたことである。こうしたわけで、喜劇は、人倫を二つの領域に分け、それぞれの領域に独立の価値を与えているわけである。一方の領域においては、諸々の諸対立と有限なるものは本質なき影であり、他方の領域においては、絶対者は錯覚なのである。両者の間の真の絶対的な関係が成立するとすれば、それは、一方が他方の中で重要なものとして現れ、それぞれが他方と生きた関係に入って、両者が互いに他方に対して重要なる運命となる場合である。となると、こうした絶対的な関係は、まさしく悲劇の中に表象されているものに他ならない。宗教に関する章の中で、ヘーゲルは、精神の表象としての悲劇と喜劇との意義について、再び論ずることになるであろう。しかし、ここでは、早くも、古代悲劇から古代喜劇への、古代喜劇から近代喜劇(これは古代喜劇に対して運命の役割を果たしているものである)への推移に関するテキストを引用することが必要であったのである。なぜなら、この推移は、ヘーゲルが追って行こうとしている客観的精神の一切の発展を明らかにしているからである。我々が今、観想してきた美しい人倫的自然においては、家族とポリスといった二つの契機が、互に補い、保証し合っており、したがって、この全体性は、ヘーゲルが取り上げたプラトンの表現によれば、「永遠に生きるもの」なのであるが、こうした美しい人倫的自然においては、自己は、その権利においてまだ個別的な個体として生起してはいなかったのである。事実、真実の意味ではいかなる行動も遂行されはしなかったが、ところがこの行動こそ現実の自己に他ならないからである。行動と共に、悲劇的矛盾がこの世界に浸透し、この世界を必然的に凋落に導くこととなり、実体は、自己意識には運命として現れることになるであろう。神々の掟あるいは人間の掟といった特殊な形式に拘束された自己意識と、自分の直接性を離れて抽象的なる普遍(運命としての必然性)となった実体との対立こそ、我々がこれらからその発展を追って行こうとしている悲劇的な対立なのである。確かに、この必然性の真理、この運命の真理は、我々にとっては自己意識の自己に他ならないが、しかし、この場合には、人倫的世界は消滅して、別の世界(ヘーゲルがすでにイエナの論文において、近代喜劇を通じて規定していた世界)が出現してきたのである。精神は、自分自身から外化されることになるのである。精神の一切の発展は、我々には、次のテキストの中に凝縮されているように思われる。即ち、「人倫的世界においては、神々の掟と人間の掟という二つの本質は秩序と調和とを得て、互に保証し補い合っているように見えているが、行動が現実に行われることになると、秩序と調和であるかに見えていたものが相対立する両項に移行し、しかもいずれもが相手を保証するものではなくて、むしろ互いに絶滅し合うものであることが明らかとなるのである。即ち、秩序や調和と見えていたものは、恐ろしい運命の否定的運動あるいは永遠なる必然性となるわけであるが、この必然性は、神々の掟と人間の掟とを、また、これらの力に現存在を与えるこれら両者の自己意識をも、必然性の単純なる深淵の中に呑み込むのである。この必然性は、我々にとっては、純粋に個別的なる自己意識の絶対的な対自存在(法的状態)に移行して行くことになるのである」(古代世界から近代世界への移行、公民から市民あるいはキリスト教徒への移行<ここでは移行は必然的に二重になる。なぜなら、市民は有限性の中に生き、かつ自分の本質を自分の現実の彼岸に定立するからである。ここから、自己疎外的精神の二重の世界が生れることになるわけである>は、古代喜劇から近代喜劇への移行によって、極めてはっきりと表象されている。この移行は、絶対の自己確信の悲劇的な運命なのである。この自己確信は、もはや自己自身から外化された状態においてしか見出されないものであるからである)。
交響曲の場合と同様に、『現象学』は、絶えず我々に同じ主題を、ただ、それぞれに異なった形式においてではあるが、提示している。根本的な主題は、普遍と個別、実体と主観性、存在と自己との対立といったものである。我々は、普遍的なるものの意識が自己意識の個別性の中へ消滅して行くのを見た。しかし、主観性としての自己意識は、実体を喪失した不幸なる意識である。我々は、この不幸なる意識を人倫的世界のこの悲劇の最後に再び見出すことになるであろう。この不幸なる意識は、客観的な形式としては(精神の歴史においては)、ローマ世界やこの帝国の冷酷な政治や人格の自己回帰と共に現れ、教養の近代世界において発展することになるであろう。この場合には、精神は、自己から外化されることになるであろう。客観的な社会的政治的秩序において、不幸なる意識に対応するものは、こうしたものなのである。もっとも先の所では、主観性のこうした苦悩の意味は、宗教が我々に提示する絶対者のビジョンにおいて明らかにされることになるであろう。芸術宗教は、絶対の自己確信に至り、人間は悲劇的運命の真理となるであろう。しかし、不幸な意識の場合におけるのと同様、こうした無限の自己確信は、自分を否定することなしには自分を定立し得ないであろう。キリスト教の人神そのものは、死ななければならないであろう。実体は主観性の奥に埋没してしまったのであるから、主観性は実体を回復するところまで自分を深く究めねばならないであろう。この時、自己は、自己外化の悲劇において自分自身を見出すところの絶対主体となるであろう。即ち、客観性において自分自身を保持して自分の傍らに止まり、主観性において自分自身の前に対象となる概念となるであろう。こうして、実体はまさしく主体となるであろう。普遍的なるものと個別的なるものとは、その対立の只中において和解することになるであろう。こうした対立は、不幸なる意識、外化の世界、キリスト教といったものにおいて現れており、これらの三者は同じ主題を違った次元で取り上げているものであるが、しかし、こうした対立が絶対者の生命から消滅することはあり得ないであろう。このことは、我々が先に引用したイエナの論文において、ヘーゲルがすでに述べていたことなのである。ここでは、ヘーゲルは、なぜ「悲劇が絶対的な肯定の表象である」のかを示そうとして、次のように書いていた。即ち、「絶対者は、自分自身を賭して、永遠にこの悲劇を演じているのである。絶対者は絶えず客観性の中に自分を生み出して行くが、自分自身のこの具体的な形態において、己を受難や死に委ね、しかも厳かにその遺骸から甦るのである」。これは、神的なるものの「死して成れ」ということであり、だからこのことはまた人間にも当てはまることになる。神が己を人間となし、人間が自らを神となすわけである。人神は神人となるのであるが、しかしこの時の苦悩と主観性の契機は、他ならぬ次のような契機、即ち、絶対の自己確信の中で自分を定立した自己が、自分自身の有限性以上のものを見出し得ず、自ら有限なるものの中に自分自身を喪失して行くという契機なのである。ところが、こうした外化は、自己が自分の直接態となるためには、必要なものなのである。
運命の観念、ならびに、行為と罪責、知と無知といった悲劇的対立を構成する連関的観念は、我々が今考察しようとしているものであるが、これらの観念、はヘーゲル哲学の完成に大きな役割を演じたものなのである。『初期神学論文集』においては、ヘーゲルは、特殊な民族とその運命との関係を研究している。かれがユダヤ民族の運命とキリスト教の運命を研究しているのは、彼の妹の証言によれば、彼が個人的に時代の苦悩を体験していたフランクフルトの時代である。この前のベルン時代においては、ヘーゲルは、純粋なる理性宗教(啓蒙の支持者の宗教)に対立する歴史的宗教という実定性というものに意味を与えることに専念しており、人間の本性という極めて貧寒な概念のために、豊かな具体的な生活と広い領域に亙る歴史的変貌とを犠牲にすることを拒否していたのであるが、これに対してこの後の新しいフランクフルトの時期においては、人間の生命の非合理的な性格を自覚し、論証的悟性の法則によっては有限なる生命から無限なる生命への移行を考えることが出来ないということに気づくことになるのである。ところが、一にして全(ヘンカイパン)なるものとしての無限なる生命は、有限なる生命に内在しているものである。したがって、一方は他方なしには存在し得ないのである。しかし両者を対象性において固定化する悟性は、この両者を統一するには至り得ない。ところで、運命の概念は、重苦しい意味をもっており、理性の分析の外にあるように見えるのであるが、しかし、まさにこのことによって、この概念は、行為が人間の生活の中に導き入れた対立を思惟する手立てとなるのである。人間とその運命との分離、愛による両者の和解といったことが、有限なる生命と無限なる生命との関係を把握する新しい仕方を構成することになったわけなのである。こうして、ヘーゲルは、名づけることも、はっきりと自覚することもなく、弁証法的哲学を仕上げて行くことになるが、この哲学は、若い頃の汎悲劇主義から成熟期の汎論理主義へと移って行くことになるであろう。しかし、我々が今『現象学』の中に再び見出す運命というこの観念は、ヘーゲルの精神に対する考え方の中心に座っている観念であるように思われる。カントはすでに、運命という理念が、経験と理性の見地から物事を見極めようとする人にとっては、正当化され得ないものであるということを注意していた。ヤスパースは、このカントの注意を引用して、次のように付け加えている。「しかし限界状況に身を置くものにとっては、運命の理念は再びその意義を見出すことになる。人は、その有効性を、概念として証明することは出来ないが、体験として生きることは出来るからである」。フランクフルト時代のこうした生きた経験から、ヘーゲルは次の時期においては、運命と概念とを一体化する次元にまで高まるであろう。彼は、『現象学』においては、次のように書くことになるであろう。「運命の精神は、悲劇的運命、即ち、一切の個別的な神々と一切の実体の諸属性とを一つのパンテオンのなかに、つまり精神であることを自覚している精神の中に取りまとめるところの悲劇的運命の精神なのである」。
ヘーゲルは、人間の現実存在に対する悲劇的な見方(この見方は、彼が、ヘルダーリンと共に、そしてニーチェよりも以前に、ギリシア的平安の後ろにある暗い背景として見出したものである)から、運命というものを引き出してきたが、ではこの運命とは何なのか。我々は、運命一般と特殊な個々の運命とを区別しなければならない。運命一般とは現実性であり、ヘーゲルにとっては、世界審判でもある世界歴史のことであるが、特殊な個々の運命とは、様々の個人や民族の根源的な独自なパトスを実在するものの中に表現するものなのである。偉大なることは、何事も情熱なしには(受動的であることなしには)成し遂げられない。即ち、いかなる人間の行動も、無限なる生命に一致しているものではないのである。人間の行動の中には、常に有限性が宿っており、この有限性こそは人間の行動のしるしなのである。純粋なる生命の中に分裂を導入し、人間の眼前に、彼自身の運命を見知らぬものとして生起させるのは、まさしく行動なのである。ヘーゲルは、ユダヤ民族のような一民族の運命を、あるいはキリスト教のような一宗教の運命を、例えばアブラハムとかキリストといった特徴的な個体を通して研究しているのであるが、一個人あるいは一民族のこうした運命は、これらの個人や民族がパトスとして持っているものの、現実における現れに他ならないのである。だから、特殊な個々の運命とは、限定されたパトスが、歴史の中に啓示されることなのである。「運命とは、人間がそれであるところのものなのである」。それは、その人間自身の生命であり、かれ自身のパトスなのであるが、ところが、それが、彼にとっては見知らぬものとなってしまったものとして現れるのである。ヘーゲルは、フランクフルトにおいては、次のように書いている。「運命とは、自分自身を意識することであるが、しかしそれを敵として意識することなのである」。我々が研究しようとしている、アンチゴネやクレオンに関する『現象学』のテキストにおいては、ヘーゲルはソフォクレスの詩句を再び取り上げている。「我々の悩みのゆえに、我々は我々の過ちを認めるのだ」。しかし、彼はこの同じ著作で、すでにこう注意していた。「運命とは次のようなことがはっきりと現象したものにすぎない。即ち、一定の個体が内的に根源的に限定されたものとして、即自的に何であるかということがはっきりと現象したものにすぎないのである」と。したがって、現実の行為のみが、個体のパトスを客観性において開示するのである。我々自身の生命は、まさしく我々には外物として現れるわけなのである。我々自身が自分を罪あるものと感ずるために、つまり、我々自身の有限性を体験するために、我々は次のような掟を必要とはしないのである。即ち、その本性からいって常に我々とは無縁であるところから、決して我々とは和解し得ることなく我々を断罪するような掟を必要とはしないのである。我々は行為する時に、我々自身が、まさしく、我々自身の審判を出現させるのである。事実我々の運命が、我々から分かれて、我々に次のことを啓示しているのである。即ち、我々が純粋なる無限の生命でもなければ、存在との純粋なる一致でもないことを啓示しているのである。運命は我々の非有機的自然なのである。つまり、我々のものになっていないところの無限なる生命なのである。我々は、運命と対立する時、それを正面から受け止め、愛(即ち運命愛)によってそれと和解することが出来るのである。運命愛とは、同時に「死して成れ」と言うことでもあり、ここにおいて、人間は、運命一般、即ち世界歴史との最も高次の和解を見出すことになるからである。この愛による運命との和解は、ヘーゲルにとっては、自由の至高の意識ともなるであろう。この和解において、我々の運命は、運命一般の中に刻印され、その中で否定されると共にその中に保持されることになるのであるから、この和解は、悲劇的な表象の最後に訪れる調和に他ならないのである。この和解が、現実性を出現させることになるのである。即ち、実体をその必然性において、正当なる運命をその全能において出現させることになるのである。確かに、様々の個人や民族のパトスは、常に存在するものであり、アンチゴネとクレオンとは、永遠の人物なのである。しかし、両者ともそれぞれの排他的なる自立性を脱皮して、両者は一緒に止揚されることになるのである。古代世界においては、この和らぎは、ただ、両者の忘却、両者の現実性の消滅、全体の和らぎ、即ち、全体のそれ自身における和らぎ、運命の不動の統一、単純なるゼウスとして現れるにすぎないが、しかし、キリスト教の世界においては、この運命は主体、即ち、精神として自分を意識した精神となるのである。すでに注意されてきたように、ヘーゲルのこの運命という観念は、この時代に考えられていた運命の考え方とは極めて異なったものである。「個人主義的な思考から歴史的思考への移行は、運命の考え方が展開するのと並行して、これに合わせて実現されたものである。カント学派や前期ロマン派にとっては、歴史、そして法律は、純粋理性に対してなされた一連の歪曲であり、感性との一連の妥協でしかないのであるが、これと同様に、シュライエルマッハーの独語録においては、運命は、自然の持つ永遠に敵対的な趨勢としてしか現れていない。即ち、自分の自由を確信した自我は、運というものを軽蔑し無視するが、運命は、こうした運の極めて冷酷なる外在性としてしか現れていないのである」(P ベルトラン)。ところで、ヘーゲルの『初期論文集』においては、『現象学』におけると同じく、運命は、もはやこうした冷酷なる暴力ではなくて、外在性における内在性であり、外部に現れた自我の現象であるとされている。個人が自分の運命に圧倒される場合にも、精神はこの運命を乗り越えることによって、再び自分の自由を見出すのである。転落の瞬間はまた、救済の瞬間でもあるのである。我々は、すでに『現象学』において、自分自身の個別性を存在の中に求めていた個人が、即ち自分の直接的な享受を求めていた個人が、いかにして、自分自身がそれであったところのものを冷酷なる必然性の中に見出すかを見てきた。心情の法則が自分自身を理解することになるのは、自分に対立するものの中において、また全ての人の心情の法則を現実に現わしているものの中においてでしかない。同様に、徳は世間に打ち勝つことは出来ない。なぜなら、世間は、冷酷なる盲目の暴力なのではなくて、逆に、この徳に意味を与えることの出来る唯一のものであるからである。
ヘーゲルの独自の運命観について、これらを注意した後で、初めて、我々は、神々の掟と人間の掟、アンチゴネとクレオンとを対立させる悲劇的行為の意味を十分に理解することが出来る。アンチゴネとクレオンのパトスの衝突に自己意識が加わってくると、この衝突から人倫的な実在(つまり、必然性となった実体)の全能なる正義が生れて来ることになるのである。即ち、もはや、性格としての個人を支配していた正義に関する錯覚的な知は存在し得なくなる。この知は、自分の行為を通じて、自分が同時に無知であったことに気づくことになるであろうし、また、このことによって、自己が、必然性に、即ち運命の否定性に対立することになるであろう。しかし、我々にとっては、この運命の真理は、普遍的自己であり、単純なる自己確信であるであろう。直接的なる個体としての人倫的実体(特殊な個々の本性の中に現存する精神)は、消滅してしまうであろう。ここで現れて来るものは、無限なる主観性であるであろう。「自己は、様々の諸性格に割り当てられて、現れて来るだけであって、運動の媒介者として現れて来るのではない。しかし、自己意識即ち単純なる自己確信は、それ自体において否定的な威力であり、ゼウスの統一、即ち、実体的本質と抽象的必然性との統一である。この自己確信は、一切のものが還帰して行く精神的統一なのである」。人倫的世界は、主観性の世界と抽象的人格の世界(キリスト教とローマ帝国)になることになるのである。
したがって、都市国家体制からローマ帝国への移行、人倫的世界から抽象的人格の世界への移行は、ヘーゲルによって古代悲劇の一般的な解釈を通じて、概念的に把握されたものなのである。もちろん、アイスキュロスとソフォクレスが問題とされたのであって、エウリピデスが問題とされたのではない。エウリピデスにおいては、悲劇や運命に対する考え方は、純粋な形ではもはや見出されないからである。我々がすでに引用した自然法に関する論文においては、ヘーゲルは、アイスキュロスの『エウメ二デス』が、ポリスにおける二つの本質(神々の掟と人間の掟)の統一の問題を定立し解決していると解釈していた。悲劇の最後には、エリニュエスたちとアテナイの人々との間にも、血族の掟(古代法)を代表して復讐を熱望した女神たちとアポロンとの間にも、平和が訪れるのである。古い秩序と新しい秩序とは、アテナイの国家によって作られた正義の文書によって和解するわけなのである。エリニュエスたちとオリンポスの神々との戦いは、ポリスの古い規約と新しい秩序(ここには血のつながりよりももっと強い結びつきが存在する)との戦いであり、ヘーゲルの表現を借りれば、冥界と天界との戦いなのである。この二つの世界は、結びついたものであり、二つに分けることの出来ないものである。「白日のもとなる明らかなる精神は、自分の力の源を冥界の中に持っている。民族が自ら信じ自ら誓う確信は、全ての人を一つに結合する誓いの真理を持っているが、それはただ全員の無意識的な無言の実体の中においてのみ、即ち、忘却(レーテー)の流れの中においてのみ可能となることなのである」。知は、その根源においては、無知につながっているのである。我々が研究してきた『現象学』の章においては、とりわけ、ソフォクレスの『アンチゴネ』と『オイディプス』とが問題になっているが、『エウメ二デス』の崇高なる悲劇は背景に退いている。というのは、『アンチゴネ』においては、二つの掟(この両者は、ヘーゲルによれば、古代精神の二つの本質を構成するものである)が内容的に対立しているからである。個々では、内容の対立(アンチゴネとクレオンとによって象徴される人倫的世界の二つの力)から、一切の自己意識に固有なる形式の対立(知と無知との対立)への移行が、問題となっているわけであるが、この形式の対立こそ、例えば『オイディプス』の中に現れるものであり、運命という普遍的観念を概念的に把握せしめるものなのである。こうした対立の観点を容れることによって、ヘーゲルは、人倫的本質一般の衰退と崩壊(都市国家体制と美しい全体性の終末)を考察することが出来ることになるのである。この美しい全体性は、精神が自分の歴史の中に絶えずこれから回復しようとするものであるが、しかし消滅しなければならなかったものなのである。なぜなら、この精神は、単に真実なる精神、即ち直接的なる精神にすぎなかったからである。「この直接態という規定においては、自然一般が人倫の行為に介入し影響して来るということが含まれている。人倫的精神の美しい調和と静かな均衡とは、まさしくこの平静と優美の只中に、矛盾と頽廃の萌芽とを蔵しているのであるが、この人倫的行為が現実に存在するということは、こうした矛盾と頽廃の萌芽とを露わにすることに他ならない。なぜなら、直接態は、自然の無意識的なる平安であると共に、精神の自覚的な不安定さをも蔵しているという、両義的な意義を持つものであるからである」。
我々が先ずこの直接態という規定を見出すのは、人倫の国の個体の中においてであるが、この個体は、抽象的な自己ではなくて、一つの自然であり、言葉の最も深い意味での性格なのである。「したがって、人倫的実体が上のように没落して、それが他の形態に移行するということは、人倫的な意識が本質的に直接的な仕方で掟の方に向かうということによって規定されていることなのである」。ここでは、近代の戯曲におけるように、個別的な個体が問題なのではない。個別的な個体は、行為を種々に規定するものによっては支配されない存在であり、この個体に提出されているものは、偶然的な選択の問題なのである。ところがよく言われているように、古代の戯曲においては、いわゆる自由意志は存在しないのである。即ち、「あれか、これか」といった形式での問題は存在しないのである。今ここでは、パトスも問題となっているが、それは、パトスが人倫的実体の契機の一つを真実に表現しているからなのである。後期の悲劇(エウリピデスの悲劇は間違いなくこれに属する)においては、「このパトスは、欲情の次元にまで引き下ろされている。即ち、偶然的な非本質的な諸契機にまで引き下ろされている。公平なる合唱団は、確かにこれらの契機を賛美しはするが、これらの契機は、英雄たちの性格を構成することも出来ないし、またこの英雄たちによって彼らの本質であると言明され尊敬されることも出来ないものなのである」。こうした状況においては、人倫的性格(例えば、アンチゴネを考えて欲しい)とは、自分の行為の意味を自分自身の中に持っている個体のことである。この個体は、自分が何をなすべきであるのかを直接的に知っている。彼は、自然的に女性か男性かなのであるから、神々の掟か人間の掟かに属しているわけである。このどちらかの特殊な掟が、彼にとっては、人倫の掟そのものなのである。彼は、この掟を、自分の本質として認識するとともに、本質そのものとして認識するのである。彼の決定(決心)は、下されているわけである。しかし、この決定は、意識的な熟慮にしたがっているのではない。この決定は、彼の存在そのものから区別されないものなのである。「この決定の直接性は、一つの即自存在であり、したがって、同時に、我々がすでに見たように、一つの自然的存在という意義を持っているのである。だから、自然が、男女両性の内の一方を一方の掟に、他方を他方の掟に割り当てるのであって、境遇や選択の偶然がそうするのではないのである」。人倫的な美しさは、この性格という限定の中に、即ち、精神と自然との分かち難き統一の中に、存在するのである。なぜなら、真実なる行為は、こうした限定なしには、不可能であるからである。もちろん、人倫的な美しさは、精神の発展する中で、別の形式でも見出されるべきものであろう。後に、自分を確信する精神は、自分とは疎遠なる自然の中にではなく、自分自身の中に、行為に不可欠な上のような直接性を(しかも自己の限定として)再び見出すことになるが、我々は、他日、どのようにしてこうしたことが起こるかを見るであろう。まさにこの時に、知と無知との問題が、決定的な形式で再び提起されることになるであろう。今は、行為以前においては、この問題はまだ提起されていないのである。
家族の人倫的本性はこうしたものであるが、家族が具体的な全体性である限りにおいて、家族の中には、ポリスの中におけると同様、意識の分裂に由来する様々の特殊な契機が存在している。先に我々が家族の精神的意味を探求していた時には、別にしておいた諸々の規定が、ここで見出されることになるのである。男性と女性との愛は、自然の生命の最も高次の契機である。この愛は、自己意識相互の自然的な直接的な承認を表現しているものである。ヘーゲルは若い頃の論文においては、他なるものの中に自分を直接的に認識することを愛として研究しており、こうした認識は、『現象学』の自己意識の章における人間による人間の冷酷な承認に対立するものであるが、家族は、単にこうした直接的な認識にすぎないのではない。家族は、さらに、相互に承認されていることの認識でもあるからである。だから、この相互承認状態は、家族生活の実体的な境位であるわけなのである。ところが、この承認は、現実の精神なのではない。そうではなくて、この精神の予感であり、イメージであるにすぎないのである。しかし、イメージは、「自分とは他なるものの中に、自分の現実性をもつものなのである」。だから、両親の愛は、自分の外に実現された自分の存在を子供の中に見出すのである。1805-6年の『イエナの哲学』においては、ヘーゲルは「子供の成長は両親の死である」と言っていた。両親の愛は、子供という他なるものとなったのである。「この他なるもの(子供)の成長が、両親の関係そのものであり、また、この関係自身は、この他なるものの中に消滅して行くのである。このように一つの世代から次の世代へと流れて行く世代の交代は、民族の中において存続することになるわけである」。後に『法哲学』の中で、ヘーゲルは同じ考えを次のように表現することになるであろう。即ち、「結婚の一体性は、実体的なものとしては、内面的な心情的なものであるが、しかし現実に存在するものとしては、男女二人の主体に分れているわけである。ところが、この一体性も、子供においては、それ自身だけで独立に、現実に存在するものとなり、この一体性がそのまま対象化されることになるのである。両親は、子供を、自分たちの愛として、また自分たちの実体的な存在として愛するのである。自然的な見地からすれば、両親の人格の直接的な現実存在が、ここでは一つの結果として現われているわけである。この結果は連鎖をなして、世代の限りない進展となって続いて行く。世代は産み出されて来るものであるが、また次の世代の前提となるものでもあるからである。これは、家族の神々という単純なる精神が、有限なる自然の中に類として現実に現れる仕方に他ならないのである」。ところが、夫と妻、両親と子供といったこうした関係は、純粋なる精神的関係なのではない。これらの関係の中には、まだ同等の関係でないものが現存している。したがって、承認は、自然性の要素を混じてその影響を受けることになるのである。男性と女性との愛においては、この愛自身がそれ自身に回帰するということがない。この愛は、自己の外なる、子供という他なるものの中に逃れて行くのである。ところが、まさしく子供たちに対する両親の献身も、依然として、偶然的なる情感に煩わされているのである。即ち、「自分の現実性を他なるもの(子供)の中に意識し、この他なるものが対自存在となるのを見るだけで、この対自存在を自分自身に取り戻し得ないという偶然的なる情感(なぜなら、この他なるものは、独自の疎遠なる現実に止まるからである)」に煩わされているのである。真実なる精神的関係は、自分自身への回帰を含んでいるものなのである。この関係が対自的になると言うことは、同時にこの関係が自分自身を保持すると言うことである。ここでは、自然は、いかんともし得ない他者性として現れるのであり、この他者性こそ、まさに受難なのである。即ち、精神的普遍性における特殊性なのである。もし、両親にとって、子供が、彼らの外にある彼らの愛の対自存在であるとすれば、逆に、子供たちは、両親の姿の中に、自分らの非有機的な自然(自分らの即自)を見るのである。子供たちは、この「源泉からの分離(この分離において、源泉は枯渇してしまう)」によってしか、対自存在と固有の自己意識とを獲得し得ないものなのである。
ソフォクレスの『アンチゴネ』から着想を得て、ヘーゲルは、親子ではなくて、兄妹(あるいは姉弟)の関係の中に、自然的なものを混じていない純粋な関係を見ている。兄と妹とは、互に自由なる個体である。「両者は血を同じくしているが、この血は、彼らにおいては安定し均衡に到達している」。したがって、妹(あるいは姉)は、人倫的本質(自己意識と自己意識との自由なる関係)をもっとも深く予感している。しかし、それは、単に予感されているにすぎない。なぜなら、女性が守っている家族の掟は、白日のもとには置かれてはおらず、明白な知とはなっていないからである。家族の掟は、現実性から引き離された神々の境位たるに止まっているのである。人倫的見地からすれば、女性は自分の夫や子供の中に、自分の普遍性を見出すのみなのである。女性においては、個別性の関係は依然として快楽と偶然性とに結ばれている。したがって、この関係そのものは、人倫的なのではない。人倫の国の家庭においては、この夫やこの子供たちが問題なのではなくて、夫一般、子供たち一般が問題なのである。「女性のこれらの関係(妻としての関係、母としての関係)が根拠としているのは、感情ではなくて、普遍的なるものである」。これに対して、男性が自分の普遍性を見出すのは、ポリスにおいてであり、全体性に対する自己犠牲においてであるが、このことによって、男性は欲望の権利を買い取るのである。男性が自分の家族の中に見出すことの出来るのは、個別的なるものとしての自分の自己であって、普遍的なるものとしてのそれなのではない。しかし、こうして女性の男性に対する関係には個別性が混入しているのであれば、この関係の人倫的性格は純粋ではない。この人倫的性格が端的に純粋であれば、個別性は無関係なるものとなり、女性は、他ならぬこの自己としての自己を他なるもの(夫や子供)の中に認めることが出来なくなるわけである。純粋で自然性を混ずることなく自己を認めるということは、むしろ兄弟との関係において起こることになるのである。「兄弟の喪失は、姉妹にとっては償い難いものであり、兄弟に対する姉妹の義務は、姉妹の至高の義務なのである」。ヘーゲルは、ここでは、文字通りアンチゴネを註釈しているのであるが、このアンチゴネは次のように言っている。「夫が死んでも、その後では、別の人が夫に代わることが出来る。息子を失っても、別の男が私に二番目の息子を与えることが出来る。しかし、私は、もはや兄弟の誕生を望むことは出来ないのである」。
妹(姉)は、兄(弟)の中に個別的自己を認識するのであるが、しかし、ここでは、家族の精神は、普遍性の意識という他の領域に移行しているわけである。兄(弟)は、家族という原初的な否定的なる国を放棄して、現実の人倫の国(ポリスの自己意識的精神)を我がものとし、この国を自ら生み出すものなのである。我々は、かなり長々と、ヘーゲルの細かい分析を展開して来た。ヘーゲルは、ここでは、しばしば、説得的なというよりは、むしろ巧みな弁証法を用いて、ソフォクレスの悲劇を詳細に亙って解釈しているのである。家族とポリスといった直接的な形式でここで我々に提示されていることが、精神の生活から消え去ることはあり得ないであろう。たとえ、我々が以後の発展の中にもはやこれらの契機を再び見出すことがないとしても、このことは、単に、精神自身による精神の自覚(自分自身を確信する精神となった真実なる精神)がもはや特にこれらの契機に固執する必要がないことを意味しているにすぎないのである。これらの契機は、出発点において指示された諸対立を発展させることによって、精神の歴史における対自の側面を現わしているものであるから、ただ我々のみはこれらの契機を保持することになるであろう。これらの契機は、抽象的人格、教養、最後に、自己確信的精神と展開して行くことになるであろう。こうして、ヘーゲルの家族に関する弁証法とポリスに関する大部分の弁証法(拡散と収斂、経済生活と戦争)は、彼にとっては、歴史の契機、即ち、これらのものを最も十全な形式で顕わにした歴史の契機から独立した価値をもつことになるのである。古代ポリスにおいては、市民は直接的に普遍性に高まり、古代家族においては、個別的自己は死そのものから救われその普遍的な個別性の中に守られることになるわけであるが、この古代ポリスと古代家族の両者は、普遍と個別とがまだ対立していない美しい全体性を形成するものに他ならないのである。実体はここでは民族として個体的な実体であって、まだ、個人に対立する抽象的な普遍性(即ち運命)なのではない。自己はまだ否定的な個別性(一切の他なるものの排除)として存在しているのではなく、単に影として、家族の血として現存しているにすぎないのである。ところが、この運命と自己という二つの契機は、最後には対立にまで発展していく契機なのである。即ち、運命は、人倫の国の諸々の諸個体を運命の暗黒の闇の中に呑み込むものとなるであろうし、これらの諸個体は、自分たちの直接的な性格を失って、人格という抽象的な自己となるであろう。その時には、人倫的実体は消滅してしまうであろう。人倫的世界における運命と個別的自己との二重の意義は、もっと先のヘーゲルの次のような文章においては、はっきりとした形で述べられている。即ち、「人倫的世界においては、我々は一つの宗教に遭遇した。それは冥界の宗教であった。この宗教は、運命という恐ろしい知られざる暗黒の闇に対する信仰であると共に、また死者の霊であるエウメ二デスに対する信仰である。前者は、普遍性の形式における、後者は個別性の形式における純粋否定性なのである。だから絶対本質は、後者の形式においては、もちろん自己であり、しかも現存する自己なのである(死者の霊が家族生活の中に生きているわけである)。事実、自己は、現存する以外には存在し得ないものなのである。ところが、個別的自己は、この個別的な影(幽霊)であり、運命という普遍性を自分から分離したところのものなのである。この影は、まさしく影であって、この人ではなくなったものであり、したがって、普遍的自己ではあるが、しかし影であるというその否定的意義は、普遍的自己であるというその肯定的な意義には転換してはいないのである」。具体的な実体が、どうしてあのような運命となるのであろうか。即ち、全能で正義ではあるが、自己に対しては否定的なものであるあのような運命となるであろうか。また自己は、どのようにして地下の世界から、即ち、自分が単にこの人でなくなったものとして存在しているにすぎない地下の世界から現れて来るのであろうか。こうしたことは、人倫的世界の研究によって我々に明らかとなることであろう。ただし、直接的な美しい世界である限りにおける人倫的世界ではなくて、行為の実行から悲劇的対立が生起する限りにおける人倫的世界の研究によって、我々に明らかとなることであろう。ヘーゲルが究めようとしているものは、悲劇的なるものそのものの本質なのである。
人倫的世界のこうした静的な描写はこのくらいにして、この世界が真実の行為の悲劇においてはどのようになって行くのかを考察しなければならないが、その前に、我々は、個人的な自己意識が実現するまでの一切の契機をこの世界の中に再び見出すことが出来る。抽象的な状態においては、この自己意識は、自然の中に自分自身を見出さなかった。ところが、今や、この人倫的生活(即ち習俗)は、個人的理性の真理なのである。なぜなら、ここでは、これらの習俗は、理性が見出すところのものであるが、しかしまた、それは、同時に次のような存在、即ち、これらの習俗を見出す意識の行動であり作品である存在であるからである。したがって、自己の享受の不安なる追求、万人の心情の法則、徳、といったものが、それぞれの真の意味を獲得することになるのである。個別的個人が自分を他なる自己意識として見出すのは、家族の中においてであり、この個人を家族から追放する運命が、ポリスの掟なのである。万人の心情の法則とは、各人が市民として参与している普遍的な秩序のことである。最後に、徳は、もはやこうした空しい抽象ではなくて、自らが目指すものを実現するところのものである。徳は個人に犠牲を要求するが、この犠牲によって、徳は本質を現存する実在たらしめるものなのである。したがって、徳は、自分が直観する普遍的生活の中に、自分の犠牲を享受することが出来ることになるのである。形式的な理性が法律を制定し吟味したと主張しても、生きた内容はこうした理性を逃れてしまったが、この理性が習慣の中にこの生きた内容を見出すことになるのである。実体の全体性について言えば、この全体性は、確かに人間の掟と神々の掟とに分かれるが、しかし、これら二つの掟の各々は、互に他方を保証しているように見える。前者即ち人間の掟は、死(絶対的主人)の試練を経て、個人を普遍的なるものに導くものであり、それは、光から影へ向かうものなのであるが、しかし、後者即ち神々の掟は、死そのものを担い、この死を非現実から現実にもたらすものであり、それは、影から光に至るものなのである。前者が男性のものであるのに対して、後者は女性のものである。この全体性は、超越的なるものではなく自己の内部に止まるものであって、それは規準であり均衡であり、即ち正義なのである。だから、この正義は超越的な掟でもなければ、純粋なる恣意なのでもない。つまり、この全体性(自分自身に居合わせているこの全体性)の彼岸にある超越的な掟でもなければ、思想なき偶然のメカニズムによって自分の均衡を実現するところの純粋なる恣意なのでもないのである。復讐は、個人が受けた苦しみを償うものであるが、この復讐はこの個人そのものから、即ちこの個人のエリニュエスから発するものなのである。この個人の個体性、この個人の血液は、家族の中に生き続けるものであるのである。それに、個人がこの世界において受ける唯一の真の苦しみは、精神的意義を持たない自然の事実からしか生じ得ないであろうが、しかし、ここでは、すでに自然は精神によって変容され、滲透されているのである。死そのものさえが、ここにおいては、意識の行動となるのである。宗教に関する章において、ヘーゲルは、精神の生活のこの美しい契機に名を与えることになるであろう。この表象は、自ずから、芸術宗教といったものとなるであろう。事実、美とは、自然と精神とのこのような直接的な統一であるからである。
ヘーゲルが精神、即ち絶対者についてもっている表象は、『初期論文集』においては、『イエナの小論集』におけると同様に、悲劇的なるものである。『自然法』に関する重要な論文において、人倫的世界、即ち民族の生活を絶対者の最も高次の現象として特徴づけた後に、ヘーゲルは、悲劇に関して、それが絶対的な肯定の表象であると語っている。逆に喜劇(アリストファネスの神々の喜劇にしろ、近代ブルジョアの喜劇にしろ)においては、精神は、一切の対立を越えた彼方のものとして現れている。即ち、喜劇においては、たとえ精神がそうした対立を一瞬の間、影として現象せしめて、次の瞬間には精神の純粋なる自己確信の中にそれらをすべて溶解してしまうにしろ、あるいはまた、精神が自らそうした対立に巻き込まれ有限なるものに捉えられて、この精神には絶対者が無なるもの(即ち錯覚)として現れて来るにしろ、いずれにしろ、精神は、一切の対立を越えた彼方のものとして現れている(第一の場合は古代喜劇に対応し、第二の場合は近代喜劇に対応している。近代喜劇においては、登場人物としての自己は、有限性でしかないもの、例えば貨幣を絶対的なるものと見なし、目の回るような弁証法の中に引き込まれて行くのである。この自己は、空しくこの有限なるものを固定させ、それを即自として定立しようとするわけなのである。まさに、この有限なるものは、その内的なる法則にしたがって、常に自己を逃れるものなのである。古代喜劇においては、自己は、舞台で自ら笑うが、近代喜劇においては、笑うのは観客だけなのである)。したがって、喜劇には、運命が現れず、喜劇は常に個別性の勝利を、即ち、自分自身に還帰した主観性の勝利を表現するものとなっている。だから、喜劇は、無力なるものの笑いでしかなく、自分の無力を通じて、自分自身の中に自分の悲劇的な運命を見出すことになるのである。こうして、もとに戻って、悲劇が再び精神の生命そのものを表現することになるわけである。我々は先に人倫的世界の平穏なる状態を見て来たが、こうした人倫的世界が精神であるのは、この世界の中に悲劇的なるものが見出されるからでしかないのである。この悲劇的なるものは、実体を運命として表しめることになるであろう。もし、この運命の真理が、自己つまり対自存在の主観性の出現であるとすれば、即ち、様々の対立や有限なるものを本質なき影としてしまう古代喜劇であるとすれば、この主観性の出現は、今度は、精神の外化の中に、即ち、有限なるものを有限なるものとして肯定し、それに空しい独立を熱望させる近代喜劇の中に、自分の真理を見出すことになるであろう。近代ブルジョア社会、即ち教養の世界は、古代の運命が自己の中に消滅するということの真理なのである。このことは、ヘーゲルがすでに自然法に関する小論において述べていたことである。こうしたわけで、喜劇は、人倫を二つの領域に分け、それぞれの領域に独立の価値を与えているわけである。一方の領域においては、諸々の諸対立と有限なるものは本質なき影であり、他方の領域においては、絶対者は錯覚なのである。両者の間の真の絶対的な関係が成立するとすれば、それは、一方が他方の中で重要なものとして現れ、それぞれが他方と生きた関係に入って、両者が互いに他方に対して重要なる運命となる場合である。となると、こうした絶対的な関係は、まさしく悲劇の中に表象されているものに他ならない。宗教に関する章の中で、ヘーゲルは、精神の表象としての悲劇と喜劇との意義について、再び論ずることになるであろう。しかし、ここでは、早くも、古代悲劇から古代喜劇への、古代喜劇から近代喜劇(これは古代喜劇に対して運命の役割を果たしているものである)への推移に関するテキストを引用することが必要であったのである。なぜなら、この推移は、ヘーゲルが追って行こうとしている客観的精神の一切の発展を明らかにしているからである。我々が今、観想してきた美しい人倫的自然においては、家族とポリスといった二つの契機が、互に補い、保証し合っており、したがって、この全体性は、ヘーゲルが取り上げたプラトンの表現によれば、「永遠に生きるもの」なのであるが、こうした美しい人倫的自然においては、自己は、その権利においてまだ個別的な個体として生起してはいなかったのである。事実、真実の意味ではいかなる行動も遂行されはしなかったが、ところがこの行動こそ現実の自己に他ならないからである。行動と共に、悲劇的矛盾がこの世界に浸透し、この世界を必然的に凋落に導くこととなり、実体は、自己意識には運命として現れることになるであろう。神々の掟あるいは人間の掟といった特殊な形式に拘束された自己意識と、自分の直接性を離れて抽象的なる普遍(運命としての必然性)となった実体との対立こそ、我々がこれらからその発展を追って行こうとしている悲劇的な対立なのである。確かに、この必然性の真理、この運命の真理は、我々にとっては自己意識の自己に他ならないが、しかし、この場合には、人倫的世界は消滅して、別の世界(ヘーゲルがすでにイエナの論文において、近代喜劇を通じて規定していた世界)が出現してきたのである。精神は、自分自身から外化されることになるのである。精神の一切の発展は、我々には、次のテキストの中に凝縮されているように思われる。即ち、「人倫的世界においては、神々の掟と人間の掟という二つの本質は秩序と調和とを得て、互に保証し補い合っているように見えているが、行動が現実に行われることになると、秩序と調和であるかに見えていたものが相対立する両項に移行し、しかもいずれもが相手を保証するものではなくて、むしろ互いに絶滅し合うものであることが明らかとなるのである。即ち、秩序や調和と見えていたものは、恐ろしい運命の否定的運動あるいは永遠なる必然性となるわけであるが、この必然性は、神々の掟と人間の掟とを、また、これらの力に現存在を与えるこれら両者の自己意識をも、必然性の単純なる深淵の中に呑み込むのである。この必然性は、我々にとっては、純粋に個別的なる自己意識の絶対的な対自存在(法的状態)に移行して行くことになるのである」(古代世界から近代世界への移行、公民から市民あるいはキリスト教徒への移行<ここでは移行は必然的に二重になる。なぜなら、市民は有限性の中に生き、かつ自分の本質を自分の現実の彼岸に定立するからである。ここから、自己疎外的精神の二重の世界が生れることになるわけである>は、古代喜劇から近代喜劇への移行によって、極めてはっきりと表象されている。この移行は、絶対の自己確信の悲劇的な運命なのである。この自己確信は、もはや自己自身から外化された状態においてしか見出されないものであるからである)。
交響曲の場合と同様に、『現象学』は、絶えず我々に同じ主題を、ただ、それぞれに異なった形式においてではあるが、提示している。根本的な主題は、普遍と個別、実体と主観性、存在と自己との対立といったものである。我々は、普遍的なるものの意識が自己意識の個別性の中へ消滅して行くのを見た。しかし、主観性としての自己意識は、実体を喪失した不幸なる意識である。我々は、この不幸なる意識を人倫的世界のこの悲劇の最後に再び見出すことになるであろう。この不幸なる意識は、客観的な形式としては(精神の歴史においては)、ローマ世界やこの帝国の冷酷な政治や人格の自己回帰と共に現れ、教養の近代世界において発展することになるであろう。この場合には、精神は、自己から外化されることになるであろう。客観的な社会的政治的秩序において、不幸なる意識に対応するものは、こうしたものなのである。もっとも先の所では、主観性のこうした苦悩の意味は、宗教が我々に提示する絶対者のビジョンにおいて明らかにされることになるであろう。芸術宗教は、絶対の自己確信に至り、人間は悲劇的運命の真理となるであろう。しかし、不幸な意識の場合におけるのと同様、こうした無限の自己確信は、自分を否定することなしには自分を定立し得ないであろう。キリスト教の人神そのものは、死ななければならないであろう。実体は主観性の奥に埋没してしまったのであるから、主観性は実体を回復するところまで自分を深く究めねばならないであろう。この時、自己は、自己外化の悲劇において自分自身を見出すところの絶対主体となるであろう。即ち、客観性において自分自身を保持して自分の傍らに止まり、主観性において自分自身の前に対象となる概念となるであろう。こうして、実体はまさしく主体となるであろう。普遍的なるものと個別的なるものとは、その対立の只中において和解することになるであろう。こうした対立は、不幸なる意識、外化の世界、キリスト教といったものにおいて現れており、これらの三者は同じ主題を違った次元で取り上げているものであるが、しかし、こうした対立が絶対者の生命から消滅することはあり得ないであろう。このことは、我々が先に引用したイエナの論文において、ヘーゲルがすでに述べていたことなのである。ここでは、ヘーゲルは、なぜ「悲劇が絶対的な肯定の表象である」のかを示そうとして、次のように書いていた。即ち、「絶対者は、自分自身を賭して、永遠にこの悲劇を演じているのである。絶対者は絶えず客観性の中に自分を生み出して行くが、自分自身のこの具体的な形態において、己を受難や死に委ね、しかも厳かにその遺骸から甦るのである」。これは、神的なるものの「死して成れ」ということであり、だからこのことはまた人間にも当てはまることになる。神が己を人間となし、人間が自らを神となすわけである。人神は神人となるのであるが、しかしこの時の苦悩と主観性の契機は、他ならぬ次のような契機、即ち、絶対の自己確信の中で自分を定立した自己が、自分自身の有限性以上のものを見出し得ず、自ら有限なるものの中に自分自身を喪失して行くという契機なのである。ところが、こうした外化は、自己が自分の直接態となるためには、必要なものなのである。
運命の観念、ならびに、行為と罪責、知と無知といった悲劇的対立を構成する連関的観念は、我々が今考察しようとしているものであるが、これらの観念、はヘーゲル哲学の完成に大きな役割を演じたものなのである。『初期神学論文集』においては、ヘーゲルは、特殊な民族とその運命との関係を研究している。かれがユダヤ民族の運命とキリスト教の運命を研究しているのは、彼の妹の証言によれば、彼が個人的に時代の苦悩を体験していたフランクフルトの時代である。この前のベルン時代においては、ヘーゲルは、純粋なる理性宗教(啓蒙の支持者の宗教)に対立する歴史的宗教という実定性というものに意味を与えることに専念しており、人間の本性という極めて貧寒な概念のために、豊かな具体的な生活と広い領域に亙る歴史的変貌とを犠牲にすることを拒否していたのであるが、これに対してこの後の新しいフランクフルトの時期においては、人間の生命の非合理的な性格を自覚し、論証的悟性の法則によっては有限なる生命から無限なる生命への移行を考えることが出来ないということに気づくことになるのである。ところが、一にして全(ヘンカイパン)なるものとしての無限なる生命は、有限なる生命に内在しているものである。したがって、一方は他方なしには存在し得ないのである。しかし両者を対象性において固定化する悟性は、この両者を統一するには至り得ない。ところで、運命の概念は、重苦しい意味をもっており、理性の分析の外にあるように見えるのであるが、しかし、まさにこのことによって、この概念は、行為が人間の生活の中に導き入れた対立を思惟する手立てとなるのである。人間とその運命との分離、愛による両者の和解といったことが、有限なる生命と無限なる生命との関係を把握する新しい仕方を構成することになったわけなのである。こうして、ヘーゲルは、名づけることも、はっきりと自覚することもなく、弁証法的哲学を仕上げて行くことになるが、この哲学は、若い頃の汎悲劇主義から成熟期の汎論理主義へと移って行くことになるであろう。しかし、我々が今『現象学』の中に再び見出す運命というこの観念は、ヘーゲルの精神に対する考え方の中心に座っている観念であるように思われる。カントはすでに、運命という理念が、経験と理性の見地から物事を見極めようとする人にとっては、正当化され得ないものであるということを注意していた。ヤスパースは、このカントの注意を引用して、次のように付け加えている。「しかし限界状況に身を置くものにとっては、運命の理念は再びその意義を見出すことになる。人は、その有効性を、概念として証明することは出来ないが、体験として生きることは出来るからである」。フランクフルト時代のこうした生きた経験から、ヘーゲルは次の時期においては、運命と概念とを一体化する次元にまで高まるであろう。彼は、『現象学』においては、次のように書くことになるであろう。「運命の精神は、悲劇的運命、即ち、一切の個別的な神々と一切の実体の諸属性とを一つのパンテオンのなかに、つまり精神であることを自覚している精神の中に取りまとめるところの悲劇的運命の精神なのである」。
ヘーゲルは、人間の現実存在に対する悲劇的な見方(この見方は、彼が、ヘルダーリンと共に、そしてニーチェよりも以前に、ギリシア的平安の後ろにある暗い背景として見出したものである)から、運命というものを引き出してきたが、ではこの運命とは何なのか。我々は、運命一般と特殊な個々の運命とを区別しなければならない。運命一般とは現実性であり、ヘーゲルにとっては、世界審判でもある世界歴史のことであるが、特殊な個々の運命とは、様々の個人や民族の根源的な独自なパトスを実在するものの中に表現するものなのである。偉大なることは、何事も情熱なしには(受動的であることなしには)成し遂げられない。即ち、いかなる人間の行動も、無限なる生命に一致しているものではないのである。人間の行動の中には、常に有限性が宿っており、この有限性こそは人間の行動のしるしなのである。純粋なる生命の中に分裂を導入し、人間の眼前に、彼自身の運命を見知らぬものとして生起させるのは、まさしく行動なのである。ヘーゲルは、ユダヤ民族のような一民族の運命を、あるいはキリスト教のような一宗教の運命を、例えばアブラハムとかキリストといった特徴的な個体を通して研究しているのであるが、一個人あるいは一民族のこうした運命は、これらの個人や民族がパトスとして持っているものの、現実における現れに他ならないのである。だから、特殊な個々の運命とは、限定されたパトスが、歴史の中に啓示されることなのである。「運命とは、人間がそれであるところのものなのである」。それは、その人間自身の生命であり、かれ自身のパトスなのであるが、ところが、それが、彼にとっては見知らぬものとなってしまったものとして現れるのである。ヘーゲルは、フランクフルトにおいては、次のように書いている。「運命とは、自分自身を意識することであるが、しかしそれを敵として意識することなのである」。我々が研究しようとしている、アンチゴネやクレオンに関する『現象学』のテキストにおいては、ヘーゲルはソフォクレスの詩句を再び取り上げている。「我々の悩みのゆえに、我々は我々の過ちを認めるのだ」。しかし、彼はこの同じ著作で、すでにこう注意していた。「運命とは次のようなことがはっきりと現象したものにすぎない。即ち、一定の個体が内的に根源的に限定されたものとして、即自的に何であるかということがはっきりと現象したものにすぎないのである」と。したがって、現実の行為のみが、個体のパトスを客観性において開示するのである。我々自身の生命は、まさしく我々には外物として現れるわけなのである。我々自身が自分を罪あるものと感ずるために、つまり、我々自身の有限性を体験するために、我々は次のような掟を必要とはしないのである。即ち、その本性からいって常に我々とは無縁であるところから、決して我々とは和解し得ることなく我々を断罪するような掟を必要とはしないのである。我々は行為する時に、我々自身が、まさしく、我々自身の審判を出現させるのである。事実我々の運命が、我々から分かれて、我々に次のことを啓示しているのである。即ち、我々が純粋なる無限の生命でもなければ、存在との純粋なる一致でもないことを啓示しているのである。運命は我々の非有機的自然なのである。つまり、我々のものになっていないところの無限なる生命なのである。我々は、運命と対立する時、それを正面から受け止め、愛(即ち運命愛)によってそれと和解することが出来るのである。運命愛とは、同時に「死して成れ」と言うことでもあり、ここにおいて、人間は、運命一般、即ち世界歴史との最も高次の和解を見出すことになるからである。この愛による運命との和解は、ヘーゲルにとっては、自由の至高の意識ともなるであろう。この和解において、我々の運命は、運命一般の中に刻印され、その中で否定されると共にその中に保持されることになるのであるから、この和解は、悲劇的な表象の最後に訪れる調和に他ならないのである。この和解が、現実性を出現させることになるのである。即ち、実体をその必然性において、正当なる運命をその全能において出現させることになるのである。確かに、様々の個人や民族のパトスは、常に存在するものであり、アンチゴネとクレオンとは、永遠の人物なのである。しかし、両者ともそれぞれの排他的なる自立性を脱皮して、両者は一緒に止揚されることになるのである。古代世界においては、この和らぎは、ただ、両者の忘却、両者の現実性の消滅、全体の和らぎ、即ち、全体のそれ自身における和らぎ、運命の不動の統一、単純なるゼウスとして現れるにすぎないが、しかし、キリスト教の世界においては、この運命は主体、即ち、精神として自分を意識した精神となるのである。すでに注意されてきたように、ヘーゲルのこの運命という観念は、この時代に考えられていた運命の考え方とは極めて異なったものである。「個人主義的な思考から歴史的思考への移行は、運命の考え方が展開するのと並行して、これに合わせて実現されたものである。カント学派や前期ロマン派にとっては、歴史、そして法律は、純粋理性に対してなされた一連の歪曲であり、感性との一連の妥協でしかないのであるが、これと同様に、シュライエルマッハーの独語録においては、運命は、自然の持つ永遠に敵対的な趨勢としてしか現れていない。即ち、自分の自由を確信した自我は、運というものを軽蔑し無視するが、運命は、こうした運の極めて冷酷なる外在性としてしか現れていないのである」(P ベルトラン)。ところで、ヘーゲルの『初期論文集』においては、『現象学』におけると同じく、運命は、もはやこうした冷酷なる暴力ではなくて、外在性における内在性であり、外部に現れた自我の現象であるとされている。個人が自分の運命に圧倒される場合にも、精神はこの運命を乗り越えることによって、再び自分の自由を見出すのである。転落の瞬間はまた、救済の瞬間でもあるのである。我々は、すでに『現象学』において、自分自身の個別性を存在の中に求めていた個人が、即ち自分の直接的な享受を求めていた個人が、いかにして、自分自身がそれであったところのものを冷酷なる必然性の中に見出すかを見てきた。心情の法則が自分自身を理解することになるのは、自分に対立するものの中において、また全ての人の心情の法則を現実に現わしているものの中においてでしかない。同様に、徳は世間に打ち勝つことは出来ない。なぜなら、世間は、冷酷なる盲目の暴力なのではなくて、逆に、この徳に意味を与えることの出来る唯一のものであるからである。
ヘーゲルの独自の運命観について、これらを注意した後で、初めて、我々は、神々の掟と人間の掟、アンチゴネとクレオンとを対立させる悲劇的行為の意味を十分に理解することが出来る。アンチゴネとクレオンのパトスの衝突に自己意識が加わってくると、この衝突から人倫的な実在(つまり、必然性となった実体)の全能なる正義が生れて来ることになるのである。即ち、もはや、性格としての個人を支配していた正義に関する錯覚的な知は存在し得なくなる。この知は、自分の行為を通じて、自分が同時に無知であったことに気づくことになるであろうし、また、このことによって、自己が、必然性に、即ち運命の否定性に対立することになるであろう。しかし、我々にとっては、この運命の真理は、普遍的自己であり、単純なる自己確信であるであろう。直接的なる個体としての人倫的実体(特殊な個々の本性の中に現存する精神)は、消滅してしまうであろう。ここで現れて来るものは、無限なる主観性であるであろう。「自己は、様々の諸性格に割り当てられて、現れて来るだけであって、運動の媒介者として現れて来るのではない。しかし、自己意識即ち単純なる自己確信は、それ自体において否定的な威力であり、ゼウスの統一、即ち、実体的本質と抽象的必然性との統一である。この自己確信は、一切のものが還帰して行く精神的統一なのである」。人倫的世界は、主観性の世界と抽象的人格の世界(キリスト教とローマ帝国)になることになるのである。
したがって、都市国家体制からローマ帝国への移行、人倫的世界から抽象的人格の世界への移行は、ヘーゲルによって古代悲劇の一般的な解釈を通じて、概念的に把握されたものなのである。もちろん、アイスキュロスとソフォクレスが問題とされたのであって、エウリピデスが問題とされたのではない。エウリピデスにおいては、悲劇や運命に対する考え方は、純粋な形ではもはや見出されないからである。我々がすでに引用した自然法に関する論文においては、ヘーゲルは、アイスキュロスの『エウメ二デス』が、ポリスにおける二つの本質(神々の掟と人間の掟)の統一の問題を定立し解決していると解釈していた。悲劇の最後には、エリニュエスたちとアテナイの人々との間にも、血族の掟(古代法)を代表して復讐を熱望した女神たちとアポロンとの間にも、平和が訪れるのである。古い秩序と新しい秩序とは、アテナイの国家によって作られた正義の文書によって和解するわけなのである。エリニュエスたちとオリンポスの神々との戦いは、ポリスの古い規約と新しい秩序(ここには血のつながりよりももっと強い結びつきが存在する)との戦いであり、ヘーゲルの表現を借りれば、冥界と天界との戦いなのである。この二つの世界は、結びついたものであり、二つに分けることの出来ないものである。「白日のもとなる明らかなる精神は、自分の力の源を冥界の中に持っている。民族が自ら信じ自ら誓う確信は、全ての人を一つに結合する誓いの真理を持っているが、それはただ全員の無意識的な無言の実体の中においてのみ、即ち、忘却(レーテー)の流れの中においてのみ可能となることなのである」。知は、その根源においては、無知につながっているのである。我々が研究してきた『現象学』の章においては、とりわけ、ソフォクレスの『アンチゴネ』と『オイディプス』とが問題になっているが、『エウメ二デス』の崇高なる悲劇は背景に退いている。というのは、『アンチゴネ』においては、二つの掟(この両者は、ヘーゲルによれば、古代精神の二つの本質を構成するものである)が内容的に対立しているからである。個々では、内容の対立(アンチゴネとクレオンとによって象徴される人倫的世界の二つの力)から、一切の自己意識に固有なる形式の対立(知と無知との対立)への移行が、問題となっているわけであるが、この形式の対立こそ、例えば『オイディプス』の中に現れるものであり、運命という普遍的観念を概念的に把握せしめるものなのである。こうした対立の観点を容れることによって、ヘーゲルは、人倫的本質一般の衰退と崩壊(都市国家体制と美しい全体性の終末)を考察することが出来ることになるのである。この美しい全体性は、精神が自分の歴史の中に絶えずこれから回復しようとするものであるが、しかし消滅しなければならなかったものなのである。なぜなら、この精神は、単に真実なる精神、即ち直接的なる精神にすぎなかったからである。「この直接態という規定においては、自然一般が人倫の行為に介入し影響して来るということが含まれている。人倫的精神の美しい調和と静かな均衡とは、まさしくこの平静と優美の只中に、矛盾と頽廃の萌芽とを蔵しているのであるが、この人倫的行為が現実に存在するということは、こうした矛盾と頽廃の萌芽とを露わにすることに他ならない。なぜなら、直接態は、自然の無意識的なる平安であると共に、精神の自覚的な不安定さをも蔵しているという、両義的な意義を持つものであるからである」。
我々が先ずこの直接態という規定を見出すのは、人倫の国の個体の中においてであるが、この個体は、抽象的な自己ではなくて、一つの自然であり、言葉の最も深い意味での性格なのである。「したがって、人倫的実体が上のように没落して、それが他の形態に移行するということは、人倫的な意識が本質的に直接的な仕方で掟の方に向かうということによって規定されていることなのである」。ここでは、近代の戯曲におけるように、個別的な個体が問題なのではない。個別的な個体は、行為を種々に規定するものによっては支配されない存在であり、この個体に提出されているものは、偶然的な選択の問題なのである。ところがよく言われているように、古代の戯曲においては、いわゆる自由意志は存在しないのである。即ち、「あれか、これか」といった形式での問題は存在しないのである。今ここでは、パトスも問題となっているが、それは、パトスが人倫的実体の契機の一つを真実に表現しているからなのである。後期の悲劇(エウリピデスの悲劇は間違いなくこれに属する)においては、「このパトスは、欲情の次元にまで引き下ろされている。即ち、偶然的な非本質的な諸契機にまで引き下ろされている。公平なる合唱団は、確かにこれらの契機を賛美しはするが、これらの契機は、英雄たちの性格を構成することも出来ないし、またこの英雄たちによって彼らの本質であると言明され尊敬されることも出来ないものなのである」。こうした状況においては、人倫的性格(例えば、アンチゴネを考えて欲しい)とは、自分の行為の意味を自分自身の中に持っている個体のことである。この個体は、自分が何をなすべきであるのかを直接的に知っている。彼は、自然的に女性か男性かなのであるから、神々の掟か人間の掟かに属しているわけである。このどちらかの特殊な掟が、彼にとっては、人倫の掟そのものなのである。彼は、この掟を、自分の本質として認識するとともに、本質そのものとして認識するのである。彼の決定(決心)は、下されているわけである。しかし、この決定は、意識的な熟慮にしたがっているのではない。この決定は、彼の存在そのものから区別されないものなのである。「この決定の直接性は、一つの即自存在であり、したがって、同時に、我々がすでに見たように、一つの自然的存在という意義を持っているのである。だから、自然が、男女両性の内の一方を一方の掟に、他方を他方の掟に割り当てるのであって、境遇や選択の偶然がそうするのではないのである」。人倫的な美しさは、この性格という限定の中に、即ち、精神と自然との分かち難き統一の中に、存在するのである。なぜなら、真実なる行為は、こうした限定なしには、不可能であるからである。もちろん、人倫的な美しさは、精神の発展する中で、別の形式でも見出されるべきものであろう。後に、自分を確信する精神は、自分とは疎遠なる自然の中にではなく、自分自身の中に、行為に不可欠な上のような直接性を(しかも自己の限定として)再び見出すことになるが、我々は、他日、どのようにしてこうしたことが起こるかを見るであろう。まさにこの時に、知と無知との問題が、決定的な形式で再び提起されることになるであろう。今は、行為以前においては、この問題はまだ提起されていないのである。
この記事へのコメント