本質論第一篇自己自身における反省としての本質第三章根拠(2)
根拠は規定的な内容を持つ。内容の規定性は上述のように、形式に対する根底であり、形式の媒介に対する単純な直接的存在である。根拠は自己に否定的に関係する同一性であるが、この同一性は、この否定的に自己に関係するという点で被措定有になる。即ち、この同一性は、このような否定の形で自己同一的にあるという意味で、自己に否定的に関係するのである。それで、この同一性は根底であり、或いは内容であるが、この内容はこういう仕方で根拠関係の無関心な、また積極的な統一をなすものであり、したがって根拠関係の媒介者である。
この内容においては、まず最初は根拠と根拠づけられたものという相互的な規定性は消滅している。けれども媒介は、また否定的統一である。その無関心な根底の上にあるものとしての否定的なものは、それ自身また無関心な根底の直接的な規定性であって、この点で根拠は一つの規定的内容を持つ。しかし次に、この否定的なものは形式の自己自身への否定的関係である。被措定有は一方では自己自身を止揚し、自己の根拠に復帰する。しかし根拠、即ち本質的な自立性は否定的に自己自身に関係し、自己を被措定有とする。根拠と根拠づけられたものとのこのような否定的媒介は、形式そのものに固有の媒介であり、即ち形式的媒介である。ところで、この形式の両面の一方は他方に移行するが故に、両面はただ一個の同一性の形で、共通的に各々止揚せられたものとして措定される。その意味で両面は、ただ一個の同一性を前提するのである。そしてこのただ一個の同一性が規定的内容であって、したがって形式的媒介は積極的な媒介者としてのこの規定的内容に自ら関係する。この内容は両者(形式的媒介の二面である根拠と根拠づけられたもの)の同一性である。しかも両者は区別されるが、その各々はその区別の中において他者への関係であるから、この内容は両者の存立根拠であり、全体者そのものとしての両者の各々の存立根拠である。
以上からして、規定的根拠の中には次のものがあることが知られる。即ち第一に、或る規定的な内容は二方面から考察される。即ち、それが根拠として措定されている面と根拠づけられたものとして措定されている面とである。内容そのものは、このような形式には無関心である。内容は、この両面に亙るところのただ一個の規定にすぎない。第二に、根拠そのものは形式の契機であると共に、また根拠によって措定されるものである。このことが、両者(根拠と根拠づけられたもの)の形式上の同一性である。そしてこの両規定のいずれが最初のものとせられるかということは、どうでもよいことである。被措定者(根拠づけられたもの)を最初のものとして根拠としての他者へ移行しての、また根拠を最初のものとして被措定者としての他者へ移行してもよい。根拠づけられたものをそれ自身として切り離してみれば、それは自己自身の止揚である。したがって、それは一面では自己を被措定者とするが、しかし同時に、それは根拠の措定でもある。根拠そのものも、これと同一の運動であって、根拠は自己を被措定者とし、そうすることによって、それは或る物の根拠となる。言い換えると、根拠はこの運動の中で被措定者としてあると共に、またそこで初めて根拠としてもある。被措定者は或る根拠が存在するための根拠であり、したがってまた逆に根拠は被措定者なのである。故に媒介は一方のものからも、また他方のものからも始まる。各々の面は被措定者であると共にまた根拠であって、各々はそれぞれ媒介全体または形式全体である。この形式全体はさらにまた自己同一的なものとして、それ自身、根拠と根拠づけられたものという両面であるところの二規定の根底である。この意味で、形式と内容とは、それ自身同じ一つの同一性である。
根拠と根拠づけられたものとの内容上のみならず、形式上のこのような同一性のために、根拠は十分である。(十分な理由というものが、このような関係に限定されている。)根拠づけられたものの中に存在しないようなものは根拠の中に存在せず、また根拠の中に存在しないようなものは根拠づけられたものの中に存在しない。或る根拠が問われる場合、人々は内容であるところの同じ規定を二重に見ようとする。即ち一方では被措定者の形式において、他方では自己に反省した定有、即ち本質性の形式において。
ところで、根拠と根拠づけられたものとの両者が規定的根拠の中では共に形式の全体であって、したがってその内容も規定的な内容ではあっても、形式と一つのものである限り、根拠はまだ、その両面の中で実在的に規定されてはいない。即ち両面は、まだ差別的な内容を持たない。規定性は、ここではまだ単純な規定性であって、その両面へ移行した規定性ではないのである。ここには、まだ純粋形式の中にある規定的根拠、即ち形式的根拠が存在するだけである。内容が単にこのような単純な規定性であって、この単純な規定性がそれ自身の中に根拠関係の形式を持たないために、この規定性は自己同一的な内容であって、形式に対して無関心であり、形式もその内容に対して外面的である。内容は形式とは別のものである。
いろいろの規定的根拠についての反省が、もしいま述べたような根拠の形式を採用する場合には、或る根拠を挙げることは単なる形式主義を出ず、空な同語反復にすぎない。この同語反復は、一応措定されてはいるが直接的な定有の形式の中にすでに現れたと同じ内容を、自己反省、即ち本質性の形式で表現するものなのである。このような根拠の説明は、それ故に同一性の命題について述べたのと同様の空しさを伴っている。諸々の科学、特に自然科学は、この種の同語反復に充ちていて、この同語反復がその科学の特権であるかの観を呈している。
一例をとれば、惑星が太陽の周囲を廻ることの根拠として、地球と太陽相互の間の引力が挙げられる。しかし内容から言えば、それはただこの現象が、即ちその運動しているこの二つの天体相互の関係が含んでいるところのものが、自己に反省した規定の形式、即ち力の形式で述べられるだけのことである。したがって引力とは如何なる力であるかと問われるとき、その答えは、引力とは地球に太陽の周囲を運動させる力であるということになる。言い換えると、引力は引力がそれの根拠であるはずの定有と全然同一の内容を持つ。即ち運動という見地から見た地球と太陽との関係は、即ち根拠と根拠づけられるものとの同一的根底なのである。[ 『エンチュクロぺディー』、269節、以下参照。なおヘーゲルは、ケプラーの法則 A^3/T^2 がニュートンによって (A・A^2)/ T^3 と改められ、A/T^2 が万有引力と名付けられたのも結局は、このような形式主義にすぎないものと見て、「ケプラーがその天体運動の法則の中で簡単で崇高な仕方で述べたものを、ニュートンは重力という反省の形式に改めた」と言っている。] また結晶の形態は、分子相互の特殊な配列関係にその根拠があると説明される場合、現に存在する結晶が、この根拠として述べられるところの配列関係そのものなのである。だが、諸々の科学を特権付けているこのような原因論(エテイオロギー)は、常識から言えば当たり前のことであり、同語反復的な、空虚な駄弁にすぎない。即ち、何故に或る人が町へ行くのかという質問に対して、町には彼を引き付ける引力があるからだという根拠(理由)が挙げられるとすれば、この種の答えは、たとえ科学では許されるとしても、全く下らない答えである。ライプニッツはニュートンの引力を非難して、それはスコラ学派が説明のために援用したところの秘められた性質 [ スコラ哲学は性質のカテゴリーの分類に当たって、「隠れた性質」という一種の質を考える。] と同様のものだと言っている。しかし我々は、むしろその反対の非難を、即ちそれはあまりにも分かり切った性質だという非難をしなければならない。なぜといって、それは現象そのものとちっとも違った内容を持たないからである。このような説明の仕方が歓迎せられる所以は、その明瞭さと分かり易さとにある。と言うのは、例えば或る植物がその根拠を植物的な力、即ち植物を生育させる力の中に持つということほど、明瞭で分かり易いことはないからである。根拠となるものが説明される対象とは異なる内容を持つはずだという意味において、初めて秘密な性質ということも言われ得るわけであるが、しかしこのような根拠は挙げられてはいない。要求される根拠が挙げられていない点では、あの説明のために使用された引力はなるほど或る秘められた根拠ではある。けれども、このような形式主義によって、ほとんど何も説明されないのは、ちょうど植物は植物だという場合に、或いは植物はその根拠を植物を生育する力の中に持つと言った場合に、植物の本性について少しも認識されないのと同じである。だから、この命題がどんなに明瞭であろうとの、我々はその意味で、これを秘密な説明の仕方と呼ぶことができる。
第二に形式上から見れば、この説明の仕方の中には根拠関係の二つの相対立する方向が出ている。尤も、それはその規定的な相関の形で認識されているわけではない。根拠は一方では、それが根拠づけるところの定有の自己反省した内容規定としての根拠であり、他方では根拠は被措定有(根拠づけられるもの)である根拠は、それに基づいて定有が理解されるはずのものであるが、しかしまた逆にこの定有から根拠へと推論され、根拠が定有から理解される。この反省の根本的役割は、定有を元にして、そこから根拠を見出すこと、言い換えると直接的な定有を反省態の形式に転化する点にある。したがって根拠は即自かつ対自的(絶対的)で、自立的であるのではなくて、むしろ措定されたもの、導出されたものである。ところが根拠は、このような方法によっては現象にしたがって処理されるのであり、根拠の諸規定は現象に基づくものであるから、この方法は、むろん、円滑に行われ、順風を負うて、その根拠からすらすらと流れ出る。けれども認識は、この方法によっては一歩も前進しない。認識は、この方法そのものが引っ繰り返したり、止揚したりする形式の区別の中を、さ迷うのみである。それ故に、このような方法が支配的な位置を占めるような諸科学を研究する場合の主な困難の一つは、このような位置の転倒に基づく。即ち実際上は導き出されたものが根拠として先に置かれ、推論を進めて帰結に達するとき、実際その帰結の中で初めて、前に暫定的に立てられた諸々の根拠の根拠が挙示されるという転倒に基づくものである。その叙述においては諸々の根拠から始められ、これらの根拠が原理であり、最初の概念として宙に掲げられる。それらの原理や概念は何らの即自かつ対自的な(絶対的な)必然性をも持たないところの単純な規定である。しかも帰結は、それらに基づかねばならない。だから、このような科学を研究しようとする者は、これらの根拠を鵜呑みにすることから始めねばならない。だが、それは理性にとっては辛いことである。なぜといって、それは根拠のないものを根源(根拠のあるもの)と見よというのだからである。だから、あまりものを考えずに、ただこれらの原理を所与のものとして甘受し、今後これを自己の悟性の根本規則として使用するような者だけが、それに結構、満足し得る。なるほど、この方法によらなければ出発点が見つけられず、またこの方法をとらなければ進むことも出来ないとも言えるかもしれない。ところが、この進行は、その途中に、この方法に対する抵抗が現れることによって妨げられる。即ち、この方法は、次に来るものの中で導き出されたものを示そうとするが、しかし実は、この導き出されたものが、むしろその導出の諸々の前提の根拠を含んでいるということである。更にまた、この次に来るものは、やはり定有であって、この定有が根拠を導き出すための根拠とされることになるから、現象を明らかにするためのこの関係は、却って現象の叙述に対する不信を与えることになる。というのは、ここでは現象は、その直接性の形で表現されずに、現象が根拠の証拠とせられるからである。けれどもこの根拠は、このように逆に現象から導き出されたものであるから、根拠を現象から判定するためには、我々はむしろ現象を、その直接性において見ることが必要である。それ故に元来、根拠づけるものが却って導き出されたものとして現れるようなこのような叙述においては、根拠を如何なるものとするか、また根拠に基づくものとしての現象を如何なるものとするかを知り得ない。のみならず、特にその叙述が厳密に首尾一貫したものでなく、どちらかと言えばただ体裁の整ったものといった場合には、到る処で現象のいろいろの痕跡や徴候が尻尾を出し、しかもこれらが原理の中に含まれるものよりずっと余計なものであること、また時としては全く別のものであることが暗示されている点で、その不確実性はますます増大される。最後に、この反省された、また単に仮説的な諸規定が、あたかも直接経験に属するものででもあるかのように言われて、現象そのものの直接的な諸規定と混同されるとき、混乱は更に大きくなる。故に真面目な信頼を以て、これらの科学に臨む人々は恐らく、分子、分子間の空虚な間隙、遠心力、エーテル、一条一条に分かたれた光線、電気的物質、磁気的物質、及びその他この種のものを物または関係であると考え、これらのものは、それらが直接的な定有の規定として言われるそのままの形で、実際に知覚の中に存在していると考えるようになるだろう。そこで、これらのものは他の現象に対する第一の根拠として使われ、現実性と見られ、確信を以て使用される。人々は、これらのものを言われるままに、そのまま信用して、これらのものがむしろ根拠づけるはずのものから推論された規定であり、無批判的な反省によって導き出された仮説であり、虚構であるということを、悟らない。実際この場合には人々は、定有の規定と反省の規定、根拠と根拠づけられたもの、現象と幻影とが無差別に雑居し、互いに同等の地位を享楽し得るような、一種の魔女の世界の中にいるのである。
このようないろいろの根拠から説明する仕方の形式的な研究に当たっては、その上にまた、あの周知の力や物質に基づく全ての説明さえも無視されて、これらの力や物質そのものの内的本質は我々には分からないものだと言っているのも耳にする。即ち、この主張の中には、この根拠づけが、それ自身全く不十分なものだということ、このような根拠づけには、これらの根拠とは全く別の何かが必要だという告白が看取されるのである。だが、その場合に、一体この説明の努力は何のために行われるのか、何故に他のものが求められないのか、何故に少なくとも、そのような説明を捨てて、単純な事実に立ってはいけないのか、といった問題は見落とされてはならない。
上述のように、根拠の規定性は一方では根底または内容規定という規定性であり、他方では根拠関係そのものの中における他在、言い換えると、その内容と形式との区別性である。根拠と根拠づけられたものとの関係は、このような両規定に対して無関心にあるところの内容の上にある一つの外面的な形式である。けれども実際は、両者は互いに外面的ではない。というのは、内容とは根拠づけられたものの中における根拠の自己同一性であると共に、根拠の中における根拠づけられたものの自己同一性だからである。根拠の面は、それ自身一個の被措定者であり、また根拠づけられたものの面も、それ自身根拠であることは上に述べた。各々は、それ自身において、このような全体者の同一性である。しかし、両者は同時に形式に所属するものであり、形式の規定的な区別性を形成するものであるから、各々はそれぞれの規定性の中にありながら全体者の自己同一性である。したがって各々は他と差異するところの内容を持っている。或いは、これを内容の面から見ると、内容は根拠関係の同一性としての自己同一性であるから、それは本質上この形式の区別(根拠と根拠づけられたものとの区別)をそれ自身において持ち、根拠としての内容は根拠づけられたものとしての内容とは別個の内容である。
ところが、このように根拠と根拠づけられたものとが異なる内容を持つ点で、根拠関係であることを止める。根拠への復帰と根拠から被措定者への出現とは、もはや同語反復ではない。根拠は実在化している。故に我々が或る物の根拠を問う場合には、我々はその根拠が現に問題とされているところのものの内容規定とは別の内容規定を、根拠に対して要求しているのである。
以上の関係は更に進んだ規定を持つことになる。即ち、この根拠規定の両面が互いに異なる内容である限り、両者は互いに無関心なものである。その各々は直接的な、自己同一的な規定である。しかし、両者はまた根拠と根拠づけられたものとして互いに関係させられるのであるから、根拠はそれの被措定有としての他者(根拠づけられたもの)の中において自己に反省したものである。故に根拠の面が持つ内容は、また根拠づけあれたものの中にもある。ただ、この根拠づけられたものは被措定有であるから、その自己同一性と存立を根拠の中にのみ持つ。しかし根拠づけられたものは、いまやこの根拠の内容の外にまた自己特有の内容を持つのであって、したがってそれは或る二様の内容の統一である。ところで、この統一は互いに区別されたものの統一として両者の否定的統一ではあるが、しかしそこには相互に無関心な二つの内容規定があるのだから、この統一は単に両者の空な関係、それ自身無内容な関係に過ぎず、両者の媒介ではない。即ち、この統一は両者の外面的結合としての一者または或る物であるにすぎない。
それ故に、実在的な根拠関係の中には二様のものが存在する。即ち一方では、根拠であるところの内容規定は、被措定有の中にまで自己自身を連続させるのであって、したがってそれは根拠と根拠づけられたものとに通ずる単純な同一性を形成する。この意味で、根拠づけられたものは、その中に根拠を完全に含んでおり、両者の関係は区別のない本質的な純粋性である。だから、根拠づけられたものにおいて、この単純な本質に更に付け加わるものは、単に非本質的な形式、外面的な内容規定にすぎないのであって、これらはそのものとしては根拠から自由であって、直接的な多様性である。故に、あの本質的なものはこの非本質的なものの根拠ではなく、また根拠づけられたものの中におけるこの両者(本質的なものと非本質的なもの)相互の関係の根拠でもない。それは根拠づけられたものの中に内在する積極的に同一的なものではあるが、しかしその点で自己に形式の区別を立てるものではなく、自己自身に関係する内容として無関心な積極的根底である。ところが他方では、或る物の中でこの無関心な根底と結合したものも或る一つの無関心な内容であるが、しかしそれは非本質的な面としてのそれである。そこで問題は、むしろ根底と非本質的な多様性との関係にある。けれども、この関係も関係づけられた両規定が無関心な内容であるが故に、また根拠ではない。なるほど、この両規定の一方は本質的な内容であり、他方は非本質的な、または措定された内容として規定されてはいる。しかし両者は、それぞれ自己関係的(自立的)な内容であるから、この形式(本質的と非本質的の区別)は両者に対して外面的である。それだから、ここで両者の関係を形成するものであるところの或る物という一者は形式関係ではなくて、むしろ単に一つの外的紐帯に過ぎない。即ち、この紐帯は非本質的な多様の内容を措定された内容として含むものではない。それ故に、この紐帯は前の場合と同様に、ただ根底であるに止まる。
こうして、実在的根拠として規定されたところの根拠は、その実在性を構成するところの内容の差異性のために、外面的な二規定に分裂する。二つの関係、即ち根拠と根拠づけられたものとの単純な直接的同一性としての本質的内容と、互いに区別された内容の関係としての或る物とは、二つの異なる根底である。同一のものが或る場合には本質的なものとしてあり、他の場合には被措定的なものとしてあるという根拠の自己同一的形式は消滅する。この意味で、根拠関係は自己自身に対して外面的となったのである。
だから、異なる内容を結合せしめ、いずれが根拠で、いずれが根拠によって措定されたものであるかを規定するものは、或る外面的な根拠である。このような規定は、両面の内容そのものの中には存在しない。実在的根拠はそれ故に、他者に対する関係である。即ち一方では内容が或る他の内容に対する関係であり、他方では根拠関係自身(形式)が他者、即ち或る直接的な存在、つまり根拠関係によって措定されたものでないところの存在に対する関係である。
形式的な根拠関係は、根拠と根拠づけられたものの両者に対して、ただ一つの内容を持っているのみである。この同一性の中に、この関係の必然性が存在するのであるが、しかし同時にまた、その同語反復が存在する。これに反して実在的根拠は、違った内容を持つ。しかしそのために、ここには根拠関係の偶然性と外面性とが現れて来るのである。即ち一方から言えば、本質的なものと見られるもの、したがって根拠関係と見られるところのものは、それと結合している他の諸規定の根拠とはならない。また他方から言えば、或る具体的な物の持つ多くの内容規定の中で、どれを本質的な規定とし、根拠とするべきかは不定である。故に、それらの間の選択は自由である。最初の点に関して一例を挙げるなら、家の根拠は、その家の支柱である。ところが、この支柱が家の根拠であることの根拠は、感性的物質に内在する重力であって、この重力は根拠(支柱)と根拠づけられた家との両者の中にある全く共通の同一的なものである。ところで、重力を持つ物質の中に一方は支柱、他方にはその物質が一つの住居を形成するためにとるところの、その支柱とは別の種々の変様、というような区別があるということは、重力を持つ物質そのものにとっては全く無関心なことである。また重力が他の内容規定、即ち家の目的とか、管理とかいったものに対する関係も、重力にとっては外面的なことである。それ故に、重力を持つ物質は、なるほどそれらの内容規定の根底ではあるが、しかし根拠ではない。重力は家が立っていることの根拠でもあるが、また石が落ちることの根拠でもある。石は、この根拠である重力を、その中に持っている。けれども、石が単に或る重力を持つ物質であるのみならず、またまさに石であるために、その他の内容規定を持っているということは、重力にとっては外面的なことである。更にまた、石がその上に落ちる当の物体から予め離しておかれたということも、或る別の根拠(理由)によって措定されたことであるし、同様にまた時間、空間、及び両者の関係である運動も重力とは別の内容であって、(普通によく言われるように)重力がなくとも考えられ得るもので、したがって本質的には重力によって措定されるものではない。重力は、また発射された物体が落下運動とは反対の放物運動をなすことの根拠でもある。故に重力が、その根拠となっているいろいろの規定の差異から、重力を一つの規定の根拠としたり、或いはまた、それを他の規定の根拠とするための或る他のものが、その他になお必要であることが知られる。
自然について、自然が世界の根拠だと言われる場合、ここに自然と呼ばれるものは、一面では世界と一つのものであって、世界は自然そのものに他ならない。しかし両者は、また区別されてもいる。自然は、むしろ無規定的なものである。或いは少なくとも、自然は(自然)法則(措定されたもの)であるところの普遍的区別の中で規定された、世界の自己同一的な本質である。したがって、自然が世界となるためには、その他になおいろいろの規定の多様性が、自然に対して外的に付け加わる必要がある。しかし、この多様な規定は、その根拠を自然そのもの中に持たない。自然はむしろ諸々の偶然性としてのこれらの規定に無関心なものである。神が自然の根拠と規定される場合も、これと同一の関係である。神は根拠として自然の本質であって、自然は自然の中にこの本質を含んでおり、この本質と同一的なものである。けれども自然は、その上になお、根拠そのものとは区別されるところの複雑な多様性を持っている。故に自然は、この二つの差異する存在(神と多様性)をその中に結合しているところの第三者である。したがって前の根拠(神)は、それと区別される多様性の根拠ではなく、また神のこの多様性との結合の根拠でもない。だから、自然は根拠としての神に基づいて認識されることは出来ない。なぜなら、もしそうだとすれば、神は単に自然の一般的本質にすぎないものとなり、神は自然を規定された本質として、即ちまさに自然という形のままに含まないことになるだろうからである。
それ故に、根拠または本来的にはむしろ根底と、根拠づけられたものの中でこの根底と結合されるところのものとの内容の差異のために、却ってまた実在的根拠に関する叙述も、形式的根拠そのものの場合と同様に、一つの形式主義である。形式的根拠においては自己同一的な内容が形式に対して無関心である。このことは実在的根拠の場合にもみられる。そのために、実在的根拠は多様な規定の中のどれを本質的規定として採るべきかという基準を、それ自身の中に含んでいないことになる。或る物とは多様な規定を持つところの具体者であるが、これらの規定は、この具体者の中で自立的な存立と恒常性を持っている。だから、その各々はいずれも根拠とせられることができる。即ち、いずれも本質的な規定とせられ得るのであって、それと比較されるとき初めて他の規定は被措定者となるのである。前に述べた関係は即ち、これと関連する。それは即ち、或る一つの場合に他の規定の根拠と見られるような或る規定が存在するとき、そのことから直ちに、他の場合にも、或いは一般にこの他の規定が常にその規定と共に措定されるということにはならないということであった。例えば刑罰は報復とか、また懲戒的な見せしめとか、法律の恐怖を抱かせるものだとか、犯罪者を正気に返らせ、改心させるものだとか、といったいろいろの規定を持っている。これらのいろいろの規定のいずれも刑罰の根拠と見なされる。なぜかと言えば、その各々はいずれも本質的な規定であって、したがって他の規定はそれとは区別されるものとして、それに対しては単に偶然的なものと規定されるからである。けれども根拠と認められる規定も、また刑罰の全体そのものではない。この具体者(刑罰)は、いま言うような他の諸規定をも含んでいる。しかし、この他の諸規定は、根拠としての規定の中に自己の根拠を持たないままで、ただそれと結合しているにすぎないのである。また官吏というものはその職務上の技能を持ち、個人としては親族関係の中におり、誰彼の知人を持ち、特殊の性格を持ち、種々の境遇や機会に身を処して行かねばならないものである。そしてこれらの特性は、いずれも根拠であり得る。或いは、官吏としては彼が一定の官職を持つということが、その根拠と見られる。これらの特性は互いに異なる内容であって、この内容は第三者の中で結合されている。したがって、それらが互いに本質的なものとして、また被措定者として規定し合っているという形式は、その内容にとっては外面的なことである。むしろ、これらの特性の各々が、その官吏にとって本質的なものなのである。というのは彼は、これらの特性によって彼が現在あるところの特定の個人なのだからである。官職が外的な、措定された(付け足しの)規定であると見られる限り、他の各々の規定がこの官職に対して根拠と見られることができる。けれども、またそれ自身逆に、他の諸規定が措定された規定であって、官職がそれらの根拠だとも見られる。そしてこれらの規定が現実的に、即ち個々の場合において如何に関係し合うかということは、根拠関係や内容そのものには外面的な規定である。これらの規定に対して根拠と根拠づけられたものという形式を付与するところのものは、むしろ或る第三者なのである。
この意味で、一般にそれぞれの定有は多様な根拠を持つことができる。その諸々の内容規定の各々は自己同一的なものとして、具体的な全体を浸透するのであって、したがって各々が本質的なものと見られる。だから、その結合の仕方の偶然性のために、事物そのものの外部にあるところのいろいろの見地、いろいろの規定に対して門戸が限りなく開かれいる。そのために、或る一つの根拠がこの帰結を持つか、それとも別の帰結を持つかということは、全く偶然的である。例えば、いろいろの道徳的な動機は倫理的人間の本質的規定をなすものである。しかし、これらの動機から結果するところのものは同時に、それらとは異なる外面性であって、この外面性は、それらの動機から結果することもあるし、また結果しないこともある。第三者を介して初めて、その外面性がそれらの動機に結び付けられるのである。このことは厳密には、次のように見らるべきである。即ち道徳的な規定が根拠である場合には、それが或る帰結、即ち根拠づけられたものを持つということは、それにとって偶然的ではないが、しかしこの規定が一般に根拠とされるかどうかということは偶然的なことである。けれども、更にまた、その規定が根拠とされた場合でも、その規定の帰結であるところの内容は外面性の性質を持つから、この内容は直ちに或る他の外面性によって止揚され得る。それ故に、或る道徳上の動機から一つの行為が生ずることもあれば、また生じないこともある。またそれと逆に、一つの行為は多くの根拠を持つことができる。その行為は一個の具体的なものとして多様な本質的規定を持っていて、したがってその規定の各々が根拠と見られ得るのである。それで、根拠の詮索と指摘の点では理由付けがとりわけ可能であって、この根拠の詮索と指摘は終局的な規定を持たないところの果てしない模索に過ぎない。全てのことについて、また個々のことに関して、それぞれ一個の、または数個の妥当な根拠を挙げることができるが、またそれと反対のことに関しても同様である。のみならず、何らの結果も生じないような多くの根拠が存在するということあり得る。ソクラテスとプラトンが詭弁と名付けたものは、このような多くの根拠からする理由付けに他ならない。プラトンは、このような理由付け(推論、屁理屈)に対してイデアの観察、即ち事物をその即自かつ対自的な相そのものにおいて見ること、言い換えると事物をその概念において観察することを対立させた。それぞれの根拠は、ただそれぞれの本質的な内容規定、それぞれの本質的な関係、それぞれの本質的な見地からのみ、得られるものであって、個々の事物は、これらの内容規定、関係、見地の多くを含むのみならず、それと反対の規定、関係、見地をも含んでいる。そして本質性という形式の点では、それぞれの規定は、いずれも妥当する。しかし、その規定は事物の全範囲を含むものではないから、一面的な根拠であって、他の特殊なそれぞれの面は、またそれぞれ特殊な根拠を持っている。したがって、これらの根拠の中の如何なるものも、それらの全ての面を結合し、それら全てを含んでいるような事物を決定的に挙げることはできない。即ち如何なる根拠も十分な(充足的な)根拠、即ち概念ではない。
実在的根拠にあっては、内容としての根拠と根拠関係としての根拠との両者が共に根底となっている。前者は、ただ本質的なものとして、したがって根拠として措定されている。これに対して関係の方は、根拠づけられたものとしての或る物であるが、それは或る異なる内容の無規定的な基礎という意味を持つ。即ち関係は、その内容の結合であるが、この結合は内容自身の反省ではなくて、むしろ外面的な反省であり、したがって単に措定された反省にすぎない。だから実在的な根拠関係は、むしろ止揚された根拠としての根拠である。したがって実在的な根拠関係は、むしろ根拠づけられたもの、または被措定有の面を形成する。けれども根拠は、いまや被措定有として、それ自身自己の根拠に復帰したのである。即ち根拠は、いまや或る他の根拠を持つところの一つの根拠づけられたものである。それ故に、この他の根拠は次のような規定を持つことになる。即ち、それは第一に、それによって根拠づけられるものとしての実在的根拠と同一的な存在である。両面は、このような規定の点では同一の内容を持つ。そしてこの二つの内容規定と或る物の中における二つの結合とは、同様に新しい根拠の中にも見出される。けれども第二に、前の単に措定されたにすぎない外面的結合をその中に止揚しているところのこの新しい根拠は、その結合の自己反省として、二つの内容規定の絶対的な関係である。
実在的根拠がそれ自身自己の根拠に復帰したことによって、実在的根拠の中に再び根拠と根拠づけられたものとの同一性、言い換えると形式的根拠が回復される。この意味で、ここに生じたところの根拠関係は完全な根拠関係である。それは、形式的根拠と実在的根拠とを同時に含み、しかも実在的根拠の中で互いに直接的に対立しているところの内容規定を媒介しているのである。
こうして根拠関係は更に進んで、次のように規定される。第一に、或る物は或る根拠を持つ。それは根拠であるところの内容規定を含むと共に、なおその上に、この根拠によって措定された規定としての第二の内容規定をも含む。けれども、この二つの内容規定は互いに無関心な内容として、その一方は、それ自身において根拠ではなく、また他方も、それ自身において前者によって根拠づけられたものではない。むしろこの関係は止揚された関係、または措定された関係として内容の直接性の中に存在するが、しかもこのような関係として或る他の関係の中に自己の根拠を持つ。この第二の関係は、単に形式の上でのみ第一の関係と区別されたものとして、第一のものと同一の内容を持つ。即ち二つの内容規定を持っているが、しかしそれは、この二つの内容規定の直接的な結合である。と言っても、この結合されたものは一般に異なった内容であり、したがって相互に無関心な規定であるから、その関係は両者の真に絶対的な関係ではない。即ち規定の一方は被措定有の中において自己同一的なものであり、また他方は、その同じ同一的なものの被措定有にすぎないといった絶対的な関係ではない。むしろそこでは、第三者である或る物がこれら二つの規定になっているのであるが、この或る物は、それらの規定の反省された関係ではなくて、単なる直接的な関係を形成しているのみである。だから、この関係は他の或る物の中にある結合に対して単に相対的な根拠に過ぎないのである。それ故に、この二つの或る物は上に述べたように、同一内容の互いに区別された二様の関係である。二つの或る物は形式上の同一的な根拠関係という形をとっている。二つは同一の内容の全体である。即ち二つは二つの内容規定と、それらの関係とである。つまり二つは、その関係が一方の或る物の中では直接的関係であり、他方の中では措定された関係であるという、関係の仕方によって区別されるにすぎないのである。故に根拠と根拠づけられたものとして、一方のものは単に形式上他のものと区別されているに止まる。第二に、この根拠関係は単に形式的であるだけではなくて、また実在的でもある。上に述べたように、形式的根拠は実在的根拠に移行する。即ち形式の二契機は自己自身に反省するのである。二つは自立的な内容であり、したがって根拠関係もまた根拠としての特有の内容と根拠づけられたものとしての特有の内容とを持っている。内容は、初めは形式的根拠の二面としての直接的な同一性を形成しており、その意味で、この両面は同一の内容を持っている。けれども内容は、またそれ自身の中に形式を持ち、その点で内容は根拠と根拠づけられたものとして互いに関係するところの二様の内容である。だから、二つの或る物の持つ二つの内容規定の一方は外的比較によって二つの或る物に単に共通であるというのではなく、両者の同一的な基礎であり、両者の関係の根底であるものとして規定されている。この内容規定は、他方の内容規定に比べると本質的な内容規定であり、また措定された内容規定としての他方の内容規定の根拠である。即ち、この他方の内容規定は或る物の中にあるが、この或る物の関係は根拠づけられた関係なのである。即ち、根拠関係であるところの第一の或る物の中においては、この第二の内容規定も直接的に、また即自的に第一の内容規定と結び付けられている。ところが、他の第二の或る物は一方の規定は即自的に含んでいるが(そこでは、この第二の或る物は第一の或る物と直接的に同一なものとしてある)、これに対して、この他の方はその場合に措定された規定として含んでいる。それで、一方の内容規定は、それが第一の或る物の中で他の内容規定と根本的に結合している点で、この措定された他の規定の根拠なのである。
したがって、第二の或る物の中にある二つの内容規定の根拠関係は、第一の或る物の中にある第一の即自的な根拠関係によって媒介されている。その推論は、一方の或る物の中で規定Bが規定Aと即自的に結合されているが故に、直接的には一方の規定Aのみを含むにすぎないところの第二の或る物においても、規定BがこのAと結合されるという形をとる。第二の或る物においては、単にこの第二の規定Bが間接的であるのみでなく、またこの第二の或る物の直接的規定がその物の根拠であるということも媒介されたもの(間接的)である。即ちそれは、この規定が第一の或る物の中でBに対して持っているところの根本的な関係によって媒介されているのである。したがって、この根本的関係は根拠Aの根拠であって、根拠関係の全体が第二の或る物の中では措定されたもの、または根拠づけられたものとしてある。
実在的根拠は、根拠の自己に外面的な反省であることが明らかにせられた。そして根拠の完全な媒介は、その自己同一性(形式的根拠)の回復である。けれども、この自己同一性はこの回復であることによって同時に実在的根拠の外面性をも獲得したのだから、この形式的根拠と実在的根拠との統一の中においては、形式的根拠関係は自己措定的な根拠であると共に、また自己止揚的な根拠でもある。即ち根拠関係は自己の否定によって自己と媒介される。故に根拠は第一に、根本的関係として二つの直接的な内容規定の関係である。しかし、この根拠関係は本質的な形式であるから、その二面として、止揚された二面または契機であるような二面を持っている。だから、この根拠関係は、直接的な各規定の形式として、自己同一的な関係(直接的な各規定間の根本的関係)であると同時に、また自己否定の関係(その形式の側面)である。故に、それは単に即自かつ対自的(絶対的に、それ自身で)根拠なのではなくて、止揚された根拠関係への関係として根拠なのである。第二に、止揚された根拠関係、言い換えると根本的関係と措定された関係との共通の同一的根底であるところの直接的なものもまた同様に、単に即自かつ対自的にそのままで実在的根拠なのではなくて、それが根拠であるということは却って前に根本的結合によって措定されるのである。
したがって根拠関係の全体が本質的に前提的反省である。形式的根拠は直接的な内容規定を前提するのであり、この内容規定は実在的根拠として形式を前提する。それ故に、根拠は内容規定の直接的結合として形式であるが、しかしそれは、この形式が自己を自己自身から反発し、したがってむしろ直接性を前提し、この直接性の中で或る他者としての自己に関係するという意味においてである。そしてこの直接的存在は内容規定、即ち単純な根拠である。しかし、この単純な根拠はこのようなものとして、即ち根拠として、同様に自己から反発されて、また同様に或る他者としての自己に関係する。この意味で、全根拠関係は制約する媒介となるのである。
この内容においては、まず最初は根拠と根拠づけられたものという相互的な規定性は消滅している。けれども媒介は、また否定的統一である。その無関心な根底の上にあるものとしての否定的なものは、それ自身また無関心な根底の直接的な規定性であって、この点で根拠は一つの規定的内容を持つ。しかし次に、この否定的なものは形式の自己自身への否定的関係である。被措定有は一方では自己自身を止揚し、自己の根拠に復帰する。しかし根拠、即ち本質的な自立性は否定的に自己自身に関係し、自己を被措定有とする。根拠と根拠づけられたものとのこのような否定的媒介は、形式そのものに固有の媒介であり、即ち形式的媒介である。ところで、この形式の両面の一方は他方に移行するが故に、両面はただ一個の同一性の形で、共通的に各々止揚せられたものとして措定される。その意味で両面は、ただ一個の同一性を前提するのである。そしてこのただ一個の同一性が規定的内容であって、したがって形式的媒介は積極的な媒介者としてのこの規定的内容に自ら関係する。この内容は両者(形式的媒介の二面である根拠と根拠づけられたもの)の同一性である。しかも両者は区別されるが、その各々はその区別の中において他者への関係であるから、この内容は両者の存立根拠であり、全体者そのものとしての両者の各々の存立根拠である。
以上からして、規定的根拠の中には次のものがあることが知られる。即ち第一に、或る規定的な内容は二方面から考察される。即ち、それが根拠として措定されている面と根拠づけられたものとして措定されている面とである。内容そのものは、このような形式には無関心である。内容は、この両面に亙るところのただ一個の規定にすぎない。第二に、根拠そのものは形式の契機であると共に、また根拠によって措定されるものである。このことが、両者(根拠と根拠づけられたもの)の形式上の同一性である。そしてこの両規定のいずれが最初のものとせられるかということは、どうでもよいことである。被措定者(根拠づけられたもの)を最初のものとして根拠としての他者へ移行しての、また根拠を最初のものとして被措定者としての他者へ移行してもよい。根拠づけられたものをそれ自身として切り離してみれば、それは自己自身の止揚である。したがって、それは一面では自己を被措定者とするが、しかし同時に、それは根拠の措定でもある。根拠そのものも、これと同一の運動であって、根拠は自己を被措定者とし、そうすることによって、それは或る物の根拠となる。言い換えると、根拠はこの運動の中で被措定者としてあると共に、またそこで初めて根拠としてもある。被措定者は或る根拠が存在するための根拠であり、したがってまた逆に根拠は被措定者なのである。故に媒介は一方のものからも、また他方のものからも始まる。各々の面は被措定者であると共にまた根拠であって、各々はそれぞれ媒介全体または形式全体である。この形式全体はさらにまた自己同一的なものとして、それ自身、根拠と根拠づけられたものという両面であるところの二規定の根底である。この意味で、形式と内容とは、それ自身同じ一つの同一性である。
根拠と根拠づけられたものとの内容上のみならず、形式上のこのような同一性のために、根拠は十分である。(十分な理由というものが、このような関係に限定されている。)根拠づけられたものの中に存在しないようなものは根拠の中に存在せず、また根拠の中に存在しないようなものは根拠づけられたものの中に存在しない。或る根拠が問われる場合、人々は内容であるところの同じ規定を二重に見ようとする。即ち一方では被措定者の形式において、他方では自己に反省した定有、即ち本質性の形式において。
ところで、根拠と根拠づけられたものとの両者が規定的根拠の中では共に形式の全体であって、したがってその内容も規定的な内容ではあっても、形式と一つのものである限り、根拠はまだ、その両面の中で実在的に規定されてはいない。即ち両面は、まだ差別的な内容を持たない。規定性は、ここではまだ単純な規定性であって、その両面へ移行した規定性ではないのである。ここには、まだ純粋形式の中にある規定的根拠、即ち形式的根拠が存在するだけである。内容が単にこのような単純な規定性であって、この単純な規定性がそれ自身の中に根拠関係の形式を持たないために、この規定性は自己同一的な内容であって、形式に対して無関心であり、形式もその内容に対して外面的である。内容は形式とは別のものである。
いろいろの規定的根拠についての反省が、もしいま述べたような根拠の形式を採用する場合には、或る根拠を挙げることは単なる形式主義を出ず、空な同語反復にすぎない。この同語反復は、一応措定されてはいるが直接的な定有の形式の中にすでに現れたと同じ内容を、自己反省、即ち本質性の形式で表現するものなのである。このような根拠の説明は、それ故に同一性の命題について述べたのと同様の空しさを伴っている。諸々の科学、特に自然科学は、この種の同語反復に充ちていて、この同語反復がその科学の特権であるかの観を呈している。
一例をとれば、惑星が太陽の周囲を廻ることの根拠として、地球と太陽相互の間の引力が挙げられる。しかし内容から言えば、それはただこの現象が、即ちその運動しているこの二つの天体相互の関係が含んでいるところのものが、自己に反省した規定の形式、即ち力の形式で述べられるだけのことである。したがって引力とは如何なる力であるかと問われるとき、その答えは、引力とは地球に太陽の周囲を運動させる力であるということになる。言い換えると、引力は引力がそれの根拠であるはずの定有と全然同一の内容を持つ。即ち運動という見地から見た地球と太陽との関係は、即ち根拠と根拠づけられるものとの同一的根底なのである。[ 『エンチュクロぺディー』、269節、以下参照。なおヘーゲルは、ケプラーの法則 A^3/T^2 がニュートンによって (A・A^2)/ T^3 と改められ、A/T^2 が万有引力と名付けられたのも結局は、このような形式主義にすぎないものと見て、「ケプラーがその天体運動の法則の中で簡単で崇高な仕方で述べたものを、ニュートンは重力という反省の形式に改めた」と言っている。] また結晶の形態は、分子相互の特殊な配列関係にその根拠があると説明される場合、現に存在する結晶が、この根拠として述べられるところの配列関係そのものなのである。だが、諸々の科学を特権付けているこのような原因論(エテイオロギー)は、常識から言えば当たり前のことであり、同語反復的な、空虚な駄弁にすぎない。即ち、何故に或る人が町へ行くのかという質問に対して、町には彼を引き付ける引力があるからだという根拠(理由)が挙げられるとすれば、この種の答えは、たとえ科学では許されるとしても、全く下らない答えである。ライプニッツはニュートンの引力を非難して、それはスコラ学派が説明のために援用したところの秘められた性質 [ スコラ哲学は性質のカテゴリーの分類に当たって、「隠れた性質」という一種の質を考える。] と同様のものだと言っている。しかし我々は、むしろその反対の非難を、即ちそれはあまりにも分かり切った性質だという非難をしなければならない。なぜといって、それは現象そのものとちっとも違った内容を持たないからである。このような説明の仕方が歓迎せられる所以は、その明瞭さと分かり易さとにある。と言うのは、例えば或る植物がその根拠を植物的な力、即ち植物を生育させる力の中に持つということほど、明瞭で分かり易いことはないからである。根拠となるものが説明される対象とは異なる内容を持つはずだという意味において、初めて秘密な性質ということも言われ得るわけであるが、しかしこのような根拠は挙げられてはいない。要求される根拠が挙げられていない点では、あの説明のために使用された引力はなるほど或る秘められた根拠ではある。けれども、このような形式主義によって、ほとんど何も説明されないのは、ちょうど植物は植物だという場合に、或いは植物はその根拠を植物を生育する力の中に持つと言った場合に、植物の本性について少しも認識されないのと同じである。だから、この命題がどんなに明瞭であろうとの、我々はその意味で、これを秘密な説明の仕方と呼ぶことができる。
第二に形式上から見れば、この説明の仕方の中には根拠関係の二つの相対立する方向が出ている。尤も、それはその規定的な相関の形で認識されているわけではない。根拠は一方では、それが根拠づけるところの定有の自己反省した内容規定としての根拠であり、他方では根拠は被措定有(根拠づけられるもの)である根拠は、それに基づいて定有が理解されるはずのものであるが、しかしまた逆にこの定有から根拠へと推論され、根拠が定有から理解される。この反省の根本的役割は、定有を元にして、そこから根拠を見出すこと、言い換えると直接的な定有を反省態の形式に転化する点にある。したがって根拠は即自かつ対自的(絶対的)で、自立的であるのではなくて、むしろ措定されたもの、導出されたものである。ところが根拠は、このような方法によっては現象にしたがって処理されるのであり、根拠の諸規定は現象に基づくものであるから、この方法は、むろん、円滑に行われ、順風を負うて、その根拠からすらすらと流れ出る。けれども認識は、この方法によっては一歩も前進しない。認識は、この方法そのものが引っ繰り返したり、止揚したりする形式の区別の中を、さ迷うのみである。それ故に、このような方法が支配的な位置を占めるような諸科学を研究する場合の主な困難の一つは、このような位置の転倒に基づく。即ち実際上は導き出されたものが根拠として先に置かれ、推論を進めて帰結に達するとき、実際その帰結の中で初めて、前に暫定的に立てられた諸々の根拠の根拠が挙示されるという転倒に基づくものである。その叙述においては諸々の根拠から始められ、これらの根拠が原理であり、最初の概念として宙に掲げられる。それらの原理や概念は何らの即自かつ対自的な(絶対的な)必然性をも持たないところの単純な規定である。しかも帰結は、それらに基づかねばならない。だから、このような科学を研究しようとする者は、これらの根拠を鵜呑みにすることから始めねばならない。だが、それは理性にとっては辛いことである。なぜといって、それは根拠のないものを根源(根拠のあるもの)と見よというのだからである。だから、あまりものを考えずに、ただこれらの原理を所与のものとして甘受し、今後これを自己の悟性の根本規則として使用するような者だけが、それに結構、満足し得る。なるほど、この方法によらなければ出発点が見つけられず、またこの方法をとらなければ進むことも出来ないとも言えるかもしれない。ところが、この進行は、その途中に、この方法に対する抵抗が現れることによって妨げられる。即ち、この方法は、次に来るものの中で導き出されたものを示そうとするが、しかし実は、この導き出されたものが、むしろその導出の諸々の前提の根拠を含んでいるということである。更にまた、この次に来るものは、やはり定有であって、この定有が根拠を導き出すための根拠とされることになるから、現象を明らかにするためのこの関係は、却って現象の叙述に対する不信を与えることになる。というのは、ここでは現象は、その直接性の形で表現されずに、現象が根拠の証拠とせられるからである。けれどもこの根拠は、このように逆に現象から導き出されたものであるから、根拠を現象から判定するためには、我々はむしろ現象を、その直接性において見ることが必要である。それ故に元来、根拠づけるものが却って導き出されたものとして現れるようなこのような叙述においては、根拠を如何なるものとするか、また根拠に基づくものとしての現象を如何なるものとするかを知り得ない。のみならず、特にその叙述が厳密に首尾一貫したものでなく、どちらかと言えばただ体裁の整ったものといった場合には、到る処で現象のいろいろの痕跡や徴候が尻尾を出し、しかもこれらが原理の中に含まれるものよりずっと余計なものであること、また時としては全く別のものであることが暗示されている点で、その不確実性はますます増大される。最後に、この反省された、また単に仮説的な諸規定が、あたかも直接経験に属するものででもあるかのように言われて、現象そのものの直接的な諸規定と混同されるとき、混乱は更に大きくなる。故に真面目な信頼を以て、これらの科学に臨む人々は恐らく、分子、分子間の空虚な間隙、遠心力、エーテル、一条一条に分かたれた光線、電気的物質、磁気的物質、及びその他この種のものを物または関係であると考え、これらのものは、それらが直接的な定有の規定として言われるそのままの形で、実際に知覚の中に存在していると考えるようになるだろう。そこで、これらのものは他の現象に対する第一の根拠として使われ、現実性と見られ、確信を以て使用される。人々は、これらのものを言われるままに、そのまま信用して、これらのものがむしろ根拠づけるはずのものから推論された規定であり、無批判的な反省によって導き出された仮説であり、虚構であるということを、悟らない。実際この場合には人々は、定有の規定と反省の規定、根拠と根拠づけられたもの、現象と幻影とが無差別に雑居し、互いに同等の地位を享楽し得るような、一種の魔女の世界の中にいるのである。
このようないろいろの根拠から説明する仕方の形式的な研究に当たっては、その上にまた、あの周知の力や物質に基づく全ての説明さえも無視されて、これらの力や物質そのものの内的本質は我々には分からないものだと言っているのも耳にする。即ち、この主張の中には、この根拠づけが、それ自身全く不十分なものだということ、このような根拠づけには、これらの根拠とは全く別の何かが必要だという告白が看取されるのである。だが、その場合に、一体この説明の努力は何のために行われるのか、何故に他のものが求められないのか、何故に少なくとも、そのような説明を捨てて、単純な事実に立ってはいけないのか、といった問題は見落とされてはならない。
上述のように、根拠の規定性は一方では根底または内容規定という規定性であり、他方では根拠関係そのものの中における他在、言い換えると、その内容と形式との区別性である。根拠と根拠づけられたものとの関係は、このような両規定に対して無関心にあるところの内容の上にある一つの外面的な形式である。けれども実際は、両者は互いに外面的ではない。というのは、内容とは根拠づけられたものの中における根拠の自己同一性であると共に、根拠の中における根拠づけられたものの自己同一性だからである。根拠の面は、それ自身一個の被措定者であり、また根拠づけられたものの面も、それ自身根拠であることは上に述べた。各々は、それ自身において、このような全体者の同一性である。しかし、両者は同時に形式に所属するものであり、形式の規定的な区別性を形成するものであるから、各々はそれぞれの規定性の中にありながら全体者の自己同一性である。したがって各々は他と差異するところの内容を持っている。或いは、これを内容の面から見ると、内容は根拠関係の同一性としての自己同一性であるから、それは本質上この形式の区別(根拠と根拠づけられたものとの区別)をそれ自身において持ち、根拠としての内容は根拠づけられたものとしての内容とは別個の内容である。
ところが、このように根拠と根拠づけられたものとが異なる内容を持つ点で、根拠関係であることを止める。根拠への復帰と根拠から被措定者への出現とは、もはや同語反復ではない。根拠は実在化している。故に我々が或る物の根拠を問う場合には、我々はその根拠が現に問題とされているところのものの内容規定とは別の内容規定を、根拠に対して要求しているのである。
以上の関係は更に進んだ規定を持つことになる。即ち、この根拠規定の両面が互いに異なる内容である限り、両者は互いに無関心なものである。その各々は直接的な、自己同一的な規定である。しかし、両者はまた根拠と根拠づけられたものとして互いに関係させられるのであるから、根拠はそれの被措定有としての他者(根拠づけられたもの)の中において自己に反省したものである。故に根拠の面が持つ内容は、また根拠づけあれたものの中にもある。ただ、この根拠づけられたものは被措定有であるから、その自己同一性と存立を根拠の中にのみ持つ。しかし根拠づけられたものは、いまやこの根拠の内容の外にまた自己特有の内容を持つのであって、したがってそれは或る二様の内容の統一である。ところで、この統一は互いに区別されたものの統一として両者の否定的統一ではあるが、しかしそこには相互に無関心な二つの内容規定があるのだから、この統一は単に両者の空な関係、それ自身無内容な関係に過ぎず、両者の媒介ではない。即ち、この統一は両者の外面的結合としての一者または或る物であるにすぎない。
それ故に、実在的な根拠関係の中には二様のものが存在する。即ち一方では、根拠であるところの内容規定は、被措定有の中にまで自己自身を連続させるのであって、したがってそれは根拠と根拠づけられたものとに通ずる単純な同一性を形成する。この意味で、根拠づけられたものは、その中に根拠を完全に含んでおり、両者の関係は区別のない本質的な純粋性である。だから、根拠づけられたものにおいて、この単純な本質に更に付け加わるものは、単に非本質的な形式、外面的な内容規定にすぎないのであって、これらはそのものとしては根拠から自由であって、直接的な多様性である。故に、あの本質的なものはこの非本質的なものの根拠ではなく、また根拠づけられたものの中におけるこの両者(本質的なものと非本質的なもの)相互の関係の根拠でもない。それは根拠づけられたものの中に内在する積極的に同一的なものではあるが、しかしその点で自己に形式の区別を立てるものではなく、自己自身に関係する内容として無関心な積極的根底である。ところが他方では、或る物の中でこの無関心な根底と結合したものも或る一つの無関心な内容であるが、しかしそれは非本質的な面としてのそれである。そこで問題は、むしろ根底と非本質的な多様性との関係にある。けれども、この関係も関係づけられた両規定が無関心な内容であるが故に、また根拠ではない。なるほど、この両規定の一方は本質的な内容であり、他方は非本質的な、または措定された内容として規定されてはいる。しかし両者は、それぞれ自己関係的(自立的)な内容であるから、この形式(本質的と非本質的の区別)は両者に対して外面的である。それだから、ここで両者の関係を形成するものであるところの或る物という一者は形式関係ではなくて、むしろ単に一つの外的紐帯に過ぎない。即ち、この紐帯は非本質的な多様の内容を措定された内容として含むものではない。それ故に、この紐帯は前の場合と同様に、ただ根底であるに止まる。
こうして、実在的根拠として規定されたところの根拠は、その実在性を構成するところの内容の差異性のために、外面的な二規定に分裂する。二つの関係、即ち根拠と根拠づけられたものとの単純な直接的同一性としての本質的内容と、互いに区別された内容の関係としての或る物とは、二つの異なる根底である。同一のものが或る場合には本質的なものとしてあり、他の場合には被措定的なものとしてあるという根拠の自己同一的形式は消滅する。この意味で、根拠関係は自己自身に対して外面的となったのである。
だから、異なる内容を結合せしめ、いずれが根拠で、いずれが根拠によって措定されたものであるかを規定するものは、或る外面的な根拠である。このような規定は、両面の内容そのものの中には存在しない。実在的根拠はそれ故に、他者に対する関係である。即ち一方では内容が或る他の内容に対する関係であり、他方では根拠関係自身(形式)が他者、即ち或る直接的な存在、つまり根拠関係によって措定されたものでないところの存在に対する関係である。
形式的な根拠関係は、根拠と根拠づけられたものの両者に対して、ただ一つの内容を持っているのみである。この同一性の中に、この関係の必然性が存在するのであるが、しかし同時にまた、その同語反復が存在する。これに反して実在的根拠は、違った内容を持つ。しかしそのために、ここには根拠関係の偶然性と外面性とが現れて来るのである。即ち一方から言えば、本質的なものと見られるもの、したがって根拠関係と見られるところのものは、それと結合している他の諸規定の根拠とはならない。また他方から言えば、或る具体的な物の持つ多くの内容規定の中で、どれを本質的な規定とし、根拠とするべきかは不定である。故に、それらの間の選択は自由である。最初の点に関して一例を挙げるなら、家の根拠は、その家の支柱である。ところが、この支柱が家の根拠であることの根拠は、感性的物質に内在する重力であって、この重力は根拠(支柱)と根拠づけられた家との両者の中にある全く共通の同一的なものである。ところで、重力を持つ物質の中に一方は支柱、他方にはその物質が一つの住居を形成するためにとるところの、その支柱とは別の種々の変様、というような区別があるということは、重力を持つ物質そのものにとっては全く無関心なことである。また重力が他の内容規定、即ち家の目的とか、管理とかいったものに対する関係も、重力にとっては外面的なことである。それ故に、重力を持つ物質は、なるほどそれらの内容規定の根底ではあるが、しかし根拠ではない。重力は家が立っていることの根拠でもあるが、また石が落ちることの根拠でもある。石は、この根拠である重力を、その中に持っている。けれども、石が単に或る重力を持つ物質であるのみならず、またまさに石であるために、その他の内容規定を持っているということは、重力にとっては外面的なことである。更にまた、石がその上に落ちる当の物体から予め離しておかれたということも、或る別の根拠(理由)によって措定されたことであるし、同様にまた時間、空間、及び両者の関係である運動も重力とは別の内容であって、(普通によく言われるように)重力がなくとも考えられ得るもので、したがって本質的には重力によって措定されるものではない。重力は、また発射された物体が落下運動とは反対の放物運動をなすことの根拠でもある。故に重力が、その根拠となっているいろいろの規定の差異から、重力を一つの規定の根拠としたり、或いはまた、それを他の規定の根拠とするための或る他のものが、その他になお必要であることが知られる。
自然について、自然が世界の根拠だと言われる場合、ここに自然と呼ばれるものは、一面では世界と一つのものであって、世界は自然そのものに他ならない。しかし両者は、また区別されてもいる。自然は、むしろ無規定的なものである。或いは少なくとも、自然は(自然)法則(措定されたもの)であるところの普遍的区別の中で規定された、世界の自己同一的な本質である。したがって、自然が世界となるためには、その他になおいろいろの規定の多様性が、自然に対して外的に付け加わる必要がある。しかし、この多様な規定は、その根拠を自然そのもの中に持たない。自然はむしろ諸々の偶然性としてのこれらの規定に無関心なものである。神が自然の根拠と規定される場合も、これと同一の関係である。神は根拠として自然の本質であって、自然は自然の中にこの本質を含んでおり、この本質と同一的なものである。けれども自然は、その上になお、根拠そのものとは区別されるところの複雑な多様性を持っている。故に自然は、この二つの差異する存在(神と多様性)をその中に結合しているところの第三者である。したがって前の根拠(神)は、それと区別される多様性の根拠ではなく、また神のこの多様性との結合の根拠でもない。だから、自然は根拠としての神に基づいて認識されることは出来ない。なぜなら、もしそうだとすれば、神は単に自然の一般的本質にすぎないものとなり、神は自然を規定された本質として、即ちまさに自然という形のままに含まないことになるだろうからである。
それ故に、根拠または本来的にはむしろ根底と、根拠づけられたものの中でこの根底と結合されるところのものとの内容の差異のために、却ってまた実在的根拠に関する叙述も、形式的根拠そのものの場合と同様に、一つの形式主義である。形式的根拠においては自己同一的な内容が形式に対して無関心である。このことは実在的根拠の場合にもみられる。そのために、実在的根拠は多様な規定の中のどれを本質的規定として採るべきかという基準を、それ自身の中に含んでいないことになる。或る物とは多様な規定を持つところの具体者であるが、これらの規定は、この具体者の中で自立的な存立と恒常性を持っている。だから、その各々はいずれも根拠とせられることができる。即ち、いずれも本質的な規定とせられ得るのであって、それと比較されるとき初めて他の規定は被措定者となるのである。前に述べた関係は即ち、これと関連する。それは即ち、或る一つの場合に他の規定の根拠と見られるような或る規定が存在するとき、そのことから直ちに、他の場合にも、或いは一般にこの他の規定が常にその規定と共に措定されるということにはならないということであった。例えば刑罰は報復とか、また懲戒的な見せしめとか、法律の恐怖を抱かせるものだとか、犯罪者を正気に返らせ、改心させるものだとか、といったいろいろの規定を持っている。これらのいろいろの規定のいずれも刑罰の根拠と見なされる。なぜかと言えば、その各々はいずれも本質的な規定であって、したがって他の規定はそれとは区別されるものとして、それに対しては単に偶然的なものと規定されるからである。けれども根拠と認められる規定も、また刑罰の全体そのものではない。この具体者(刑罰)は、いま言うような他の諸規定をも含んでいる。しかし、この他の諸規定は、根拠としての規定の中に自己の根拠を持たないままで、ただそれと結合しているにすぎないのである。また官吏というものはその職務上の技能を持ち、個人としては親族関係の中におり、誰彼の知人を持ち、特殊の性格を持ち、種々の境遇や機会に身を処して行かねばならないものである。そしてこれらの特性は、いずれも根拠であり得る。或いは、官吏としては彼が一定の官職を持つということが、その根拠と見られる。これらの特性は互いに異なる内容であって、この内容は第三者の中で結合されている。したがって、それらが互いに本質的なものとして、また被措定者として規定し合っているという形式は、その内容にとっては外面的なことである。むしろ、これらの特性の各々が、その官吏にとって本質的なものなのである。というのは彼は、これらの特性によって彼が現在あるところの特定の個人なのだからである。官職が外的な、措定された(付け足しの)規定であると見られる限り、他の各々の規定がこの官職に対して根拠と見られることができる。けれども、またそれ自身逆に、他の諸規定が措定された規定であって、官職がそれらの根拠だとも見られる。そしてこれらの規定が現実的に、即ち個々の場合において如何に関係し合うかということは、根拠関係や内容そのものには外面的な規定である。これらの規定に対して根拠と根拠づけられたものという形式を付与するところのものは、むしろ或る第三者なのである。
この意味で、一般にそれぞれの定有は多様な根拠を持つことができる。その諸々の内容規定の各々は自己同一的なものとして、具体的な全体を浸透するのであって、したがって各々が本質的なものと見られる。だから、その結合の仕方の偶然性のために、事物そのものの外部にあるところのいろいろの見地、いろいろの規定に対して門戸が限りなく開かれいる。そのために、或る一つの根拠がこの帰結を持つか、それとも別の帰結を持つかということは、全く偶然的である。例えば、いろいろの道徳的な動機は倫理的人間の本質的規定をなすものである。しかし、これらの動機から結果するところのものは同時に、それらとは異なる外面性であって、この外面性は、それらの動機から結果することもあるし、また結果しないこともある。第三者を介して初めて、その外面性がそれらの動機に結び付けられるのである。このことは厳密には、次のように見らるべきである。即ち道徳的な規定が根拠である場合には、それが或る帰結、即ち根拠づけられたものを持つということは、それにとって偶然的ではないが、しかしこの規定が一般に根拠とされるかどうかということは偶然的なことである。けれども、更にまた、その規定が根拠とされた場合でも、その規定の帰結であるところの内容は外面性の性質を持つから、この内容は直ちに或る他の外面性によって止揚され得る。それ故に、或る道徳上の動機から一つの行為が生ずることもあれば、また生じないこともある。またそれと逆に、一つの行為は多くの根拠を持つことができる。その行為は一個の具体的なものとして多様な本質的規定を持っていて、したがってその規定の各々が根拠と見られ得るのである。それで、根拠の詮索と指摘の点では理由付けがとりわけ可能であって、この根拠の詮索と指摘は終局的な規定を持たないところの果てしない模索に過ぎない。全てのことについて、また個々のことに関して、それぞれ一個の、または数個の妥当な根拠を挙げることができるが、またそれと反対のことに関しても同様である。のみならず、何らの結果も生じないような多くの根拠が存在するということあり得る。ソクラテスとプラトンが詭弁と名付けたものは、このような多くの根拠からする理由付けに他ならない。プラトンは、このような理由付け(推論、屁理屈)に対してイデアの観察、即ち事物をその即自かつ対自的な相そのものにおいて見ること、言い換えると事物をその概念において観察することを対立させた。それぞれの根拠は、ただそれぞれの本質的な内容規定、それぞれの本質的な関係、それぞれの本質的な見地からのみ、得られるものであって、個々の事物は、これらの内容規定、関係、見地の多くを含むのみならず、それと反対の規定、関係、見地をも含んでいる。そして本質性という形式の点では、それぞれの規定は、いずれも妥当する。しかし、その規定は事物の全範囲を含むものではないから、一面的な根拠であって、他の特殊なそれぞれの面は、またそれぞれ特殊な根拠を持っている。したがって、これらの根拠の中の如何なるものも、それらの全ての面を結合し、それら全てを含んでいるような事物を決定的に挙げることはできない。即ち如何なる根拠も十分な(充足的な)根拠、即ち概念ではない。
実在的根拠にあっては、内容としての根拠と根拠関係としての根拠との両者が共に根底となっている。前者は、ただ本質的なものとして、したがって根拠として措定されている。これに対して関係の方は、根拠づけられたものとしての或る物であるが、それは或る異なる内容の無規定的な基礎という意味を持つ。即ち関係は、その内容の結合であるが、この結合は内容自身の反省ではなくて、むしろ外面的な反省であり、したがって単に措定された反省にすぎない。だから実在的な根拠関係は、むしろ止揚された根拠としての根拠である。したがって実在的な根拠関係は、むしろ根拠づけられたもの、または被措定有の面を形成する。けれども根拠は、いまや被措定有として、それ自身自己の根拠に復帰したのである。即ち根拠は、いまや或る他の根拠を持つところの一つの根拠づけられたものである。それ故に、この他の根拠は次のような規定を持つことになる。即ち、それは第一に、それによって根拠づけられるものとしての実在的根拠と同一的な存在である。両面は、このような規定の点では同一の内容を持つ。そしてこの二つの内容規定と或る物の中における二つの結合とは、同様に新しい根拠の中にも見出される。けれども第二に、前の単に措定されたにすぎない外面的結合をその中に止揚しているところのこの新しい根拠は、その結合の自己反省として、二つの内容規定の絶対的な関係である。
実在的根拠がそれ自身自己の根拠に復帰したことによって、実在的根拠の中に再び根拠と根拠づけられたものとの同一性、言い換えると形式的根拠が回復される。この意味で、ここに生じたところの根拠関係は完全な根拠関係である。それは、形式的根拠と実在的根拠とを同時に含み、しかも実在的根拠の中で互いに直接的に対立しているところの内容規定を媒介しているのである。
こうして根拠関係は更に進んで、次のように規定される。第一に、或る物は或る根拠を持つ。それは根拠であるところの内容規定を含むと共に、なおその上に、この根拠によって措定された規定としての第二の内容規定をも含む。けれども、この二つの内容規定は互いに無関心な内容として、その一方は、それ自身において根拠ではなく、また他方も、それ自身において前者によって根拠づけられたものではない。むしろこの関係は止揚された関係、または措定された関係として内容の直接性の中に存在するが、しかもこのような関係として或る他の関係の中に自己の根拠を持つ。この第二の関係は、単に形式の上でのみ第一の関係と区別されたものとして、第一のものと同一の内容を持つ。即ち二つの内容規定を持っているが、しかしそれは、この二つの内容規定の直接的な結合である。と言っても、この結合されたものは一般に異なった内容であり、したがって相互に無関心な規定であるから、その関係は両者の真に絶対的な関係ではない。即ち規定の一方は被措定有の中において自己同一的なものであり、また他方は、その同じ同一的なものの被措定有にすぎないといった絶対的な関係ではない。むしろそこでは、第三者である或る物がこれら二つの規定になっているのであるが、この或る物は、それらの規定の反省された関係ではなくて、単なる直接的な関係を形成しているのみである。だから、この関係は他の或る物の中にある結合に対して単に相対的な根拠に過ぎないのである。それ故に、この二つの或る物は上に述べたように、同一内容の互いに区別された二様の関係である。二つの或る物は形式上の同一的な根拠関係という形をとっている。二つは同一の内容の全体である。即ち二つは二つの内容規定と、それらの関係とである。つまり二つは、その関係が一方の或る物の中では直接的関係であり、他方の中では措定された関係であるという、関係の仕方によって区別されるにすぎないのである。故に根拠と根拠づけられたものとして、一方のものは単に形式上他のものと区別されているに止まる。第二に、この根拠関係は単に形式的であるだけではなくて、また実在的でもある。上に述べたように、形式的根拠は実在的根拠に移行する。即ち形式の二契機は自己自身に反省するのである。二つは自立的な内容であり、したがって根拠関係もまた根拠としての特有の内容と根拠づけられたものとしての特有の内容とを持っている。内容は、初めは形式的根拠の二面としての直接的な同一性を形成しており、その意味で、この両面は同一の内容を持っている。けれども内容は、またそれ自身の中に形式を持ち、その点で内容は根拠と根拠づけられたものとして互いに関係するところの二様の内容である。だから、二つの或る物の持つ二つの内容規定の一方は外的比較によって二つの或る物に単に共通であるというのではなく、両者の同一的な基礎であり、両者の関係の根底であるものとして規定されている。この内容規定は、他方の内容規定に比べると本質的な内容規定であり、また措定された内容規定としての他方の内容規定の根拠である。即ち、この他方の内容規定は或る物の中にあるが、この或る物の関係は根拠づけられた関係なのである。即ち、根拠関係であるところの第一の或る物の中においては、この第二の内容規定も直接的に、また即自的に第一の内容規定と結び付けられている。ところが、他の第二の或る物は一方の規定は即自的に含んでいるが(そこでは、この第二の或る物は第一の或る物と直接的に同一なものとしてある)、これに対して、この他の方はその場合に措定された規定として含んでいる。それで、一方の内容規定は、それが第一の或る物の中で他の内容規定と根本的に結合している点で、この措定された他の規定の根拠なのである。
したがって、第二の或る物の中にある二つの内容規定の根拠関係は、第一の或る物の中にある第一の即自的な根拠関係によって媒介されている。その推論は、一方の或る物の中で規定Bが規定Aと即自的に結合されているが故に、直接的には一方の規定Aのみを含むにすぎないところの第二の或る物においても、規定BがこのAと結合されるという形をとる。第二の或る物においては、単にこの第二の規定Bが間接的であるのみでなく、またこの第二の或る物の直接的規定がその物の根拠であるということも媒介されたもの(間接的)である。即ちそれは、この規定が第一の或る物の中でBに対して持っているところの根本的な関係によって媒介されているのである。したがって、この根本的関係は根拠Aの根拠であって、根拠関係の全体が第二の或る物の中では措定されたもの、または根拠づけられたものとしてある。
実在的根拠は、根拠の自己に外面的な反省であることが明らかにせられた。そして根拠の完全な媒介は、その自己同一性(形式的根拠)の回復である。けれども、この自己同一性はこの回復であることによって同時に実在的根拠の外面性をも獲得したのだから、この形式的根拠と実在的根拠との統一の中においては、形式的根拠関係は自己措定的な根拠であると共に、また自己止揚的な根拠でもある。即ち根拠関係は自己の否定によって自己と媒介される。故に根拠は第一に、根本的関係として二つの直接的な内容規定の関係である。しかし、この根拠関係は本質的な形式であるから、その二面として、止揚された二面または契機であるような二面を持っている。だから、この根拠関係は、直接的な各規定の形式として、自己同一的な関係(直接的な各規定間の根本的関係)であると同時に、また自己否定の関係(その形式の側面)である。故に、それは単に即自かつ対自的(絶対的に、それ自身で)根拠なのではなくて、止揚された根拠関係への関係として根拠なのである。第二に、止揚された根拠関係、言い換えると根本的関係と措定された関係との共通の同一的根底であるところの直接的なものもまた同様に、単に即自かつ対自的にそのままで実在的根拠なのではなくて、それが根拠であるということは却って前に根本的結合によって措定されるのである。
したがって根拠関係の全体が本質的に前提的反省である。形式的根拠は直接的な内容規定を前提するのであり、この内容規定は実在的根拠として形式を前提する。それ故に、根拠は内容規定の直接的結合として形式であるが、しかしそれは、この形式が自己を自己自身から反発し、したがってむしろ直接性を前提し、この直接性の中で或る他者としての自己に関係するという意味においてである。そしてこの直接的存在は内容規定、即ち単純な根拠である。しかし、この単純な根拠はこのようなものとして、即ち根拠として、同様に自己から反発されて、また同様に或る他者としての自己に関係する。この意味で、全根拠関係は制約する媒介となるのである。
この記事へのコメント