論理学の世界 概念論第一章主観性 推論の意味と区分
(Ⅰ)推論の一般的意味
判断は一般的に言えば、概念と概念との直接的な関係である。そしてこの関係が繋辞として表現せられる。ところが、この関係の表現である繋辞が、概念の判断において、特にその最後のものである必然性の判断において充実せられ、「内容に充ちた繋辞」となったのであるが、そのことは即ちその判断の中になお潜在的にあった概念そのものが、判断の中から再生し、措定せられたということである。しかし、この判断の中から概念が再生するとは、一層具体的には如何なることを意味するのであろうか。
概念はそれ自身論理そのものであり、理性的なものであり、普遍的なものである。これに対して判断は、この普遍的なものの自己分割において、特殊的なものとなったものであった。だから、一般的に言えば、概念が普遍性であるのに対して、判断は特殊性であり、特殊性における概念である。したがってそれが特殊性であり、概念が自己分割して特殊と特殊とになっている限り、概念そのものはただ潜在的に、内的に、また同じことであるが、外的にあるにすぎない。ところが、この特殊と特殊とが互いに根元の概念そのものの両面であることが明らかにせられ、各特殊が契機であると共にむしろ全体性そのものとなることによって、いずれも概念そのものとなる。この意味で、判断の中に失われていた概念が回復せられたのであり、それが両特殊の関係である繋辞が充実せられたことである。しかしこの場合にも、なお特殊は概念としての全体性の中に入り込むと共に、自立性を持つのであるから、その限り判断の形は保たれている。即ち、判断の形は保たれていながら、それがそれ自身概念であるのであるから、判断はこの具体的な概念の中にいわゆる止揚せられるのである。この意味で、これは判断の中における概念の回復であり、概念と判断との統一である。
ところで、このように判断の中から概念が再生することは、即ち繋辞が充実し、繋辞が概念そのものとなることであるが、この場合概念が回復せられると言うことは、概念は普遍であるから、あらゆる判断そのものが普遍的な意味を持つということである。これを言い換えると、各判断そのものが概念となること、即ち各判断が関係を持つと言うことである。即ち、判断そのものが概念においてあると言うのは、概念が普遍そのものである限り、各契機として自立性を持つ判断が互いに関係性においてあることになったことに他ならない。と言うことは、各々の判断が互いに概念的関係、または必然的関係を持つものとして、推論になったことである。したがってまたそれは、判断と判断の関係として、判断の中に含まれた概念と、他の判断に含まれる概念との関係である。この意味で、推論は判断と概念との統一であり、両者の真理である。推論は、判断から再生した概念そのものであり、具体的な概念として、最初の直接的概念とその自己分割としての判断との統一である。したがってまた、判断が一般になお直接的なものであったのに対して、推論は「媒介された判断」であると言うことも出来るであろう。
ここで、悟性と理性との関係から判断と推論との違いについて言えば、以前にも述べたように、それ自身としては悟性と理性という能力の区別があるのではない。悟性とは、規定に固執し、ものを静的分析的にのみ考察するという面から見られた思考能力である。これに対して理性は、同じこの能力をその規定性の関係において、動的に見るという面における限りのものである。そしてこの点から見ると、判断は一般に悟性的であり、推論は理性的なものと言うことも出来るであろう。勿論、ヘーゲルにおいては判断も動的な概念そのものの自己分割におけるものとして、普通の意味の判断と比べると、元来動的なものである。けれども、それもこのような動的なものとして、なおそれは両項の規定に分裂しているものである限りでは固定性においてある。これに対して推論は、各契機相互の媒介的な関係である。理性的なものとは、具体的になった概念そのものであり、ロゴスそのものである。そしてここに具体的になったというのは、各契機がそれぞれ概念となり、契機であると共に、同時に全体として全く自由になったということである。この意味で、ヘーゲルの言うように、推論が理性的なものであるのみでなく、あらゆる理性的なものは推論である。理性は推論の基体であると共に、推論の能力でもある。この点でまた、ヘーゲルはカントが推論を理性の能力とした点、またその点で同一の考えを持つドイツ観念論一般の考えを、最も徹底し、全面的に体系化したのであった。したがってまた、一般に、概念が普遍性であり、判断が特殊性であったのに対して、推論は個別性であるということができる。推論においては、各契機は独自性を持ち個別性であると共に、それ自身概念として普遍性である。即ち、個別性として各契機は自由である。だから、この概念論の第一項、主観性の根本意図であるところの、個体性または人格性の基礎付けが、推論において初めて遂行せられる。普遍性と特殊性と個別性の三契機は、推論において初めて真に統一せられるのである。この意味で、推論は各契機、即ち個別性の理性におけるその関係の完成なのである。またその限り、これは概念そのものの完成である。というのは、概念が実体と異なるのは、概念が契機における実体としての動的実体であることであった。ところが、このことは推論において初めて、概念が真に契機における概念となり、したがってまた各契機がいずれも概念そのものとなることによって成就せられるからである。
(Ⅱ)推論の区分
それで推論においては、概念そのもの、即ち具体的概念としての理性が各概念そのものの関係を表現するのであるから、そこでは概念そのものが全体の基体である。そしてこの概念は推論においては具体的には媒辞である。しかし、この媒辞の他の項に対する関係の度、即ちこの基体としての概念、或いは全体性が媒辞において表現される程度によって、推論は区別せられる。言い換えると、推論の契機は、この全体性である概念の各様相としての普遍(A)、特殊(B)、個別(E)の互いの関係であるが、その際には普遍、特殊、個別の何れも媒辞となることができる。しかし、その何れが媒辞の位置を占めるかによって、概念の具体性に、したがって媒介性に概念の実現性の程度を生ずる。即ち、これによって推論の区分がなされるが、それが概念実現の程度の差である限り、推論の区分は概念実現の展開段階をも示す。「推論の類は媒辞の充実、或いは具体化のそれぞれの程度を表している。」
ヘーゲル自身は、これを(1)定有の推論、(2)反省の推論、(3)必然性の推論に分けている。それはまた判断論の区分に一致する。ただしそれは上述のように、第三の必然性の判断と第四の概念の判断とを一つに見る限りにおいてである。また、それは形式論理学が定言的推論、仮言的推論、選言的推論とに分かつものにも、一応相当すると言ってよい。しかしヘーゲルにおいては、その区別は全体の基体の本質を規定し、その自己分割によってあるものとして、このそれぞれの間に必然的な論理的体系性が与えられている。
(1)定有の推論
これは直接的な定有的な定有的存在そのものの中における質の規定関係の推論であるから、定有の推論である。だから、この推論はまた直接性の推論とも言われる。或いはまた、それは質的推論とも呼ばれる。
この推論の形式は一般にA-B-E(普遍ー特殊ー個別)として表され、媒辞は特殊Bである。媒辞は直接的定有の持つ多様の質の一つを表現するものであるから、特殊である。そしてその質の一般化せられたものが述語の普遍である。即ち、特殊Bはこの直接的存在の質とその普遍性、即ちAとEとを媒介し、「AがEである」ことを帰結する。しかし、これは次に述べるように、むしろ逆に述語としての普遍性AがまずBとなり、次にそのBがEとなることによって、EをAとなし、EをAに包摂して、「A-E」を媒介するものであるから、A-B-Eは互いに連続的である。だから、ここで根本となるものは、結局述語の普遍性である。そしてそのAが直接的定有の一つの質の普遍化である点では却ってEに内属的ではあるが、その一つの質Eを普遍化する点では包摂的である。その意味で、定有の推論は、一般に普遍性の推論であると言うことができる。
(2)反省の推論
質的推論においては、このように媒辞の定有である特殊は一つの定有の中の質の普遍化の媒介であった。ところが、この媒辞によって個別と普遍とが統一せられ、個別が一般化せられることによって、その一般化の面で個別が他の個別と対立することになる。そして、この自己に反省し、自己に対自的になったものが、反省の推論である。だから、これは定有の推論が一個の直接的定有の中の推論であったのに対して、反省の推論はむしろ多数の個別の間の反省関係の推論である。
形式的には、この推論はB-E-A(特殊ー個別ー普遍)の形式をとり、Eが媒辞となって、BとAを結合し、B-Aとするものである。しかし、そのEは各々の個別ということである。だから、この個別が単に個別に止まるか、またはそれが個別の全体性となるかによって、この反省の推論そのものに種別を生ずる。具体的には、演繹法や帰納法や類推がこの推論に属するが、多数の個別を基としてその全体性を求めることがこの推論の本性をなす限り、その中心をなすのは帰納法である。
(3)必然性の推論
反省の推論の媒辞がそれ自身普遍性となり、その関係が全体そのものとなったものが、必然性の推論である。だから、ここでは各個別性がそれ自身普遍性となるから、媒辞はこのような具体的実体としての概念である。したがって推論の関係はここでは、全く客観的必然性を持つ。形式的には、この推論はE-A-B(個別ー普遍ー特殊)であって、普遍によってEーBが結合せられ、EがBとなる。
このように、根底の概念または理性がそれ自身具体的に実現し、その結果、両項もまた媒辞の概念そのものと一つのものとなるから、ここでは推論の中に推論そのものが止揚せられる。しかも、この実現せられた客観的必然的普遍性は、両項の内的魂として普遍性であると共に、それはまた実現せられ、両項と一つになった限り、事物そのものであるから、この普遍性はもはや単に主観的普遍性でなく、事物そのものの客観的本質である。こうして、主観性の領域はそのまま客観性に移行する。
判断は一般的に言えば、概念と概念との直接的な関係である。そしてこの関係が繋辞として表現せられる。ところが、この関係の表現である繋辞が、概念の判断において、特にその最後のものである必然性の判断において充実せられ、「内容に充ちた繋辞」となったのであるが、そのことは即ちその判断の中になお潜在的にあった概念そのものが、判断の中から再生し、措定せられたということである。しかし、この判断の中から概念が再生するとは、一層具体的には如何なることを意味するのであろうか。
概念はそれ自身論理そのものであり、理性的なものであり、普遍的なものである。これに対して判断は、この普遍的なものの自己分割において、特殊的なものとなったものであった。だから、一般的に言えば、概念が普遍性であるのに対して、判断は特殊性であり、特殊性における概念である。したがってそれが特殊性であり、概念が自己分割して特殊と特殊とになっている限り、概念そのものはただ潜在的に、内的に、また同じことであるが、外的にあるにすぎない。ところが、この特殊と特殊とが互いに根元の概念そのものの両面であることが明らかにせられ、各特殊が契機であると共にむしろ全体性そのものとなることによって、いずれも概念そのものとなる。この意味で、判断の中に失われていた概念が回復せられたのであり、それが両特殊の関係である繋辞が充実せられたことである。しかしこの場合にも、なお特殊は概念としての全体性の中に入り込むと共に、自立性を持つのであるから、その限り判断の形は保たれている。即ち、判断の形は保たれていながら、それがそれ自身概念であるのであるから、判断はこの具体的な概念の中にいわゆる止揚せられるのである。この意味で、これは判断の中における概念の回復であり、概念と判断との統一である。
ところで、このように判断の中から概念が再生することは、即ち繋辞が充実し、繋辞が概念そのものとなることであるが、この場合概念が回復せられると言うことは、概念は普遍であるから、あらゆる判断そのものが普遍的な意味を持つということである。これを言い換えると、各判断そのものが概念となること、即ち各判断が関係を持つと言うことである。即ち、判断そのものが概念においてあると言うのは、概念が普遍そのものである限り、各契機として自立性を持つ判断が互いに関係性においてあることになったことに他ならない。と言うことは、各々の判断が互いに概念的関係、または必然的関係を持つものとして、推論になったことである。したがってまたそれは、判断と判断の関係として、判断の中に含まれた概念と、他の判断に含まれる概念との関係である。この意味で、推論は判断と概念との統一であり、両者の真理である。推論は、判断から再生した概念そのものであり、具体的な概念として、最初の直接的概念とその自己分割としての判断との統一である。したがってまた、判断が一般になお直接的なものであったのに対して、推論は「媒介された判断」であると言うことも出来るであろう。
ここで、悟性と理性との関係から判断と推論との違いについて言えば、以前にも述べたように、それ自身としては悟性と理性という能力の区別があるのではない。悟性とは、規定に固執し、ものを静的分析的にのみ考察するという面から見られた思考能力である。これに対して理性は、同じこの能力をその規定性の関係において、動的に見るという面における限りのものである。そしてこの点から見ると、判断は一般に悟性的であり、推論は理性的なものと言うことも出来るであろう。勿論、ヘーゲルにおいては判断も動的な概念そのものの自己分割におけるものとして、普通の意味の判断と比べると、元来動的なものである。けれども、それもこのような動的なものとして、なおそれは両項の規定に分裂しているものである限りでは固定性においてある。これに対して推論は、各契機相互の媒介的な関係である。理性的なものとは、具体的になった概念そのものであり、ロゴスそのものである。そしてここに具体的になったというのは、各契機がそれぞれ概念となり、契機であると共に、同時に全体として全く自由になったということである。この意味で、ヘーゲルの言うように、推論が理性的なものであるのみでなく、あらゆる理性的なものは推論である。理性は推論の基体であると共に、推論の能力でもある。この点でまた、ヘーゲルはカントが推論を理性の能力とした点、またその点で同一の考えを持つドイツ観念論一般の考えを、最も徹底し、全面的に体系化したのであった。したがってまた、一般に、概念が普遍性であり、判断が特殊性であったのに対して、推論は個別性であるということができる。推論においては、各契機は独自性を持ち個別性であると共に、それ自身概念として普遍性である。即ち、個別性として各契機は自由である。だから、この概念論の第一項、主観性の根本意図であるところの、個体性または人格性の基礎付けが、推論において初めて遂行せられる。普遍性と特殊性と個別性の三契機は、推論において初めて真に統一せられるのである。この意味で、推論は各契機、即ち個別性の理性におけるその関係の完成なのである。またその限り、これは概念そのものの完成である。というのは、概念が実体と異なるのは、概念が契機における実体としての動的実体であることであった。ところが、このことは推論において初めて、概念が真に契機における概念となり、したがってまた各契機がいずれも概念そのものとなることによって成就せられるからである。
(Ⅱ)推論の区分
それで推論においては、概念そのもの、即ち具体的概念としての理性が各概念そのものの関係を表現するのであるから、そこでは概念そのものが全体の基体である。そしてこの概念は推論においては具体的には媒辞である。しかし、この媒辞の他の項に対する関係の度、即ちこの基体としての概念、或いは全体性が媒辞において表現される程度によって、推論は区別せられる。言い換えると、推論の契機は、この全体性である概念の各様相としての普遍(A)、特殊(B)、個別(E)の互いの関係であるが、その際には普遍、特殊、個別の何れも媒辞となることができる。しかし、その何れが媒辞の位置を占めるかによって、概念の具体性に、したがって媒介性に概念の実現性の程度を生ずる。即ち、これによって推論の区分がなされるが、それが概念実現の程度の差である限り、推論の区分は概念実現の展開段階をも示す。「推論の類は媒辞の充実、或いは具体化のそれぞれの程度を表している。」
ヘーゲル自身は、これを(1)定有の推論、(2)反省の推論、(3)必然性の推論に分けている。それはまた判断論の区分に一致する。ただしそれは上述のように、第三の必然性の判断と第四の概念の判断とを一つに見る限りにおいてである。また、それは形式論理学が定言的推論、仮言的推論、選言的推論とに分かつものにも、一応相当すると言ってよい。しかしヘーゲルにおいては、その区別は全体の基体の本質を規定し、その自己分割によってあるものとして、このそれぞれの間に必然的な論理的体系性が与えられている。
(1)定有の推論
これは直接的な定有的な定有的存在そのものの中における質の規定関係の推論であるから、定有の推論である。だから、この推論はまた直接性の推論とも言われる。或いはまた、それは質的推論とも呼ばれる。
この推論の形式は一般にA-B-E(普遍ー特殊ー個別)として表され、媒辞は特殊Bである。媒辞は直接的定有の持つ多様の質の一つを表現するものであるから、特殊である。そしてその質の一般化せられたものが述語の普遍である。即ち、特殊Bはこの直接的存在の質とその普遍性、即ちAとEとを媒介し、「AがEである」ことを帰結する。しかし、これは次に述べるように、むしろ逆に述語としての普遍性AがまずBとなり、次にそのBがEとなることによって、EをAとなし、EをAに包摂して、「A-E」を媒介するものであるから、A-B-Eは互いに連続的である。だから、ここで根本となるものは、結局述語の普遍性である。そしてそのAが直接的定有の一つの質の普遍化である点では却ってEに内属的ではあるが、その一つの質Eを普遍化する点では包摂的である。その意味で、定有の推論は、一般に普遍性の推論であると言うことができる。
(2)反省の推論
質的推論においては、このように媒辞の定有である特殊は一つの定有の中の質の普遍化の媒介であった。ところが、この媒辞によって個別と普遍とが統一せられ、個別が一般化せられることによって、その一般化の面で個別が他の個別と対立することになる。そして、この自己に反省し、自己に対自的になったものが、反省の推論である。だから、これは定有の推論が一個の直接的定有の中の推論であったのに対して、反省の推論はむしろ多数の個別の間の反省関係の推論である。
形式的には、この推論はB-E-A(特殊ー個別ー普遍)の形式をとり、Eが媒辞となって、BとAを結合し、B-Aとするものである。しかし、そのEは各々の個別ということである。だから、この個別が単に個別に止まるか、またはそれが個別の全体性となるかによって、この反省の推論そのものに種別を生ずる。具体的には、演繹法や帰納法や類推がこの推論に属するが、多数の個別を基としてその全体性を求めることがこの推論の本性をなす限り、その中心をなすのは帰納法である。
(3)必然性の推論
反省の推論の媒辞がそれ自身普遍性となり、その関係が全体そのものとなったものが、必然性の推論である。だから、ここでは各個別性がそれ自身普遍性となるから、媒辞はこのような具体的実体としての概念である。したがって推論の関係はここでは、全く客観的必然性を持つ。形式的には、この推論はE-A-B(個別ー普遍ー特殊)であって、普遍によってEーBが結合せられ、EがBとなる。
このように、根底の概念または理性がそれ自身具体的に実現し、その結果、両項もまた媒辞の概念そのものと一つのものとなるから、ここでは推論の中に推論そのものが止揚せられる。しかも、この実現せられた客観的必然的普遍性は、両項の内的魂として普遍性であると共に、それはまた実現せられ、両項と一つになった限り、事物そのものであるから、この普遍性はもはや単に主観的普遍性でなく、事物そのものの客観的本質である。こうして、主観性の領域はそのまま客観性に移行する。
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