第二部規定宗教第二篇精神的個性の宗教 ギリシア(1)

 Ⅱ 美の宗教
 すでに述べたように、この宗教はギリシアの宗教において実存する。それは内的側面からも外的側面からも無尽蔵の素材を我々に呈示し、その快適と優美と魅力とのために我々は好んでそこに長居をしたく思う。とはいえ、ここではその一々について詳細に亙ることはできない。むしろ、我々はその概念の諸規定を明らかにするだけに止めなければならない。
 それでまず、1、この領域の概念を示し、次に 2、神の形態を考察し、さらに 3、自己意識の運動としての儀礼をその本質的な諸力との関係において考察しなければならない。

 1 この領域の一般的概念

 (a) 根本概念は自己自身を規定する力としての主観性である。我々はすでにこの主観性および賢明な力を、それ自身においてなお無規定であり、従ってその目的が実在の領域においては極度に制限されたものとなるような唯一者として見た。ところで次の段階においては、この主観性、この賢明な力、または力ある智恵は自己を自己自身の内に特殊化する。まさにそれ故に、この段階は一面では特殊性の埒内へ抽象的な無限な力を制限すること、即ち一般性の貶下であるがしかし他面ではそれは同時に一般性に対立する実在的な目的の制限された個別性の挙揚に結びついている。ここで現れる特殊的なものにはこの二面性がある。従って、これがこの段階の一般的な規定である。次に考察しなければならないのは、一面では規定された概念、自己自身を規定する力の内容(それは主観性のエレメントの内にあるから特殊的な内容である)が自己を自己において主観化するという点である。特殊的な諸目的が存在し、それらが差し当たり自己をそれ自身として主観化して、多数の固有な神的主観の一群となって現れる。目的としての主観性は自己規定であり、従ってそれは特殊化をそれ自身において持つが、しかもこの特殊化そのものは神的な諸形態として存在するところの現存する区別の世界に他ならない。崇高の宗教における主観性はすでに或る規定された目的、即ち家族・民族を有する。しかしこの目的はただ、主の奉事が疎略にされない限りにおいてのみ叶えられる。規定された目的に対して主観的精神の止揚であるところのこの要求によって、この目的は一般的な目的となる。このように一面において唯一の主観性が目的の多数性へ崩潰することによって主観性が特殊性に貶下させられるとき、他面では特殊性が一般性に対して際立てられ、それによってこの区別はここでは神的・一般的な区別となる。従って目的のこの特殊性は抽象的な一般性と目的の個別性との会合であり、それらの美しい中間である。それ故にこの特殊性は一般的な主観性の内容をなし、そしてこの内容はこのようなエレメントの内に措定されている限り自己自身を主観化して主観とする。このようにして実在的な人倫性が現れて来る。神的なものが現実体な精神の規定された諸関係に浸透し、実体的な統一に従って自己を規定するとき、それは人倫的なものに他ならないからである。またこれによって主観性の実在的な自由も措定される。規定された内容は有限な自己意識にとってその神と共通のものであり、その神は彼岸であることを止めて、規定された内容を持ち、しかもこの内容はその規定された側面に従って本質性に高められ、また直接的な個別性の止揚によって本質的な内容となっているからである。
 それ故に内実そのもの、即ち内容について言えば、実体的な基礎は上述の連関において示したように、理知性一般であり、精神の自由、即ち本質的な自由である。この自由は恣意ではなく、恣意からはっきり区別されなければならない。それは本質的な自由であり、自己を自己の諸規定自身において規定するところの自由である。自己自身を規定するものとしての自由がこの関係の基礎であるから、これは本質的に人倫的な諸原理を含む具体的な理性的本性である。自由とは自己以外の何ものをも欲しないこと、即ち自由以外の何ものをも欲しないことであり、これが人倫的諸規定の本源としての人倫的なものである。換言すれば、自己自身を規定する作用の形式的なものは内容に転化するのであるが、このことについてはここでは立ち入って詳述することはできない。人倫性は本質的な基礎をなすものであるが、しかしこれはなお最初の人倫性であり、その直接性における人倫性である。この理性的本性は全く一般的な理知性であって、なおその実体的な形式の内にある。理知性は未だ一個の主観としてあるのではない。それはこの素純な統一(そこにおいてはそれは人倫性である)から未だ主観の統一へ高められていない、或いは自己の内へ深められていないのである。
 絶対的な必然性と精神的な、即ち人間的な形態とはなお区別されていない。規定性はなるほど一般的なものへ措定されてはいるが、しかしこの規定性は一面では抽象的であり、他面では多様な規定性へ自由に釈放されていて、未だあの統一へ取り戻されていない。それがもしあの統一へ取り戻されるとすれば、そのためには規定性が(崇高の宗教におけるように)無限の対立として同時に無限なものにまで高められなければならないであろう。このようは極端に達したときにのみ対立は同時に自己自身に即して統一となり得るからである。形態を持った神々の世界はそれ自身必然性の内に取り入れられ、あたかも一つのパンテオンに収容されなければならないであろう。しかしこのことが可能であり、またこのことにふさわしいのはただ、神々の世界の多様性と差異性が単純な区別に一般化された場合に限られる。そのときに初めて神々の世界はあのエレメントに適合したものとなり、従ってそれ自身において直接的に同一的なものとなる。精神そのものの一般的な本性がそれ自体として際立たせられるためには、諸々の精神は精神そのものとして捉えられねばならない。
 (b) 必然性の統一はまだ無限な主観性の究極点へ帰及していないが故に、精神的な、本質的に人倫的な諸規定は相互に分散的なものとして現れる。内容は最も充実したものであるが、しかし相互に分散している。
 人倫性一般とギリシアの道徳性および人倫性とは区別されなければならない。後者は人倫的なものの主観性を意味し、この主観性は自己を自己自身において弁明することができ、人倫的なものの志向・意図・目的を有する。人倫性はここではやはり実体的な存在、人倫的なものの真実の存在であるが、しかしまだ人倫的なものの知ではない。客観的な内実に関しては、なお唯一の主観性、即ち自己への反省が存しないというこの規定のために、人倫的な内容は相互に分散しており、その基礎をなすものは、本質的にギリシア的な力、人倫的な生活の一般的な力、特に実践的な生活、国家生活であり、さらにまた公正・勇敢・家族・誓約・農耕・学術、等々である。
 人倫的なものがこのような特殊的な諸規定へ分散するという事態と結びついて、自然的なものもまたこれらの精神的な力に対立して現れるという他の分散が認められる。この分散をその結果とする直接性の規定は、天・地・河川・時間区分といった自然的な力が精神的な力に対立して現れるという規定を含む。
 (c) 終わりに、最後の規定性は有限な自己意識に対する本質的な自己意識の対立、有限的精神に対する本質的精神の対立という規定性である。この規定性において主観性の自然的な形態の形式が現れ、自然的な形態は有限な自己意識により神性を持つものとして構想されて、これが今や自己意識に対立することになる。
 
 2 神的なものの形態

 a 精神的なものと自然的なものとの戦い

 根本規定は精神的な主観性であるから、自然力はそれだけでは本質的な力と見なされることができない。けれどもそれは特殊性の一つであり、最も直接的な力として最初の力であって、この力の止揚によって初めて諸他の精神的な力が生じるのである。我々は唯一者の力を見た。そしてその対自的に存在する崇高性が創造から初めて結果したことを見た。絶対者の自己としてのこの唯一の基礎がここには存在しない。従って出発点は直接的な自然性の圏内にあり、この直接的な自然性はここでは唯一者により創造されたものとして現れることができない。自然力のこれらの特殊性が止息する統一は精神的な統一ではなく、むしろそれ自身自然的な統一、即ちカオスである。
 「しかし何よりもまず第一にカオスが生成した」、とヘシオドスは歌う(『神統記』5-116参照)。それ故にカオスはそれ自身或る措定されたものである。しかし措定するものが何であるかは言われていない。単に生成した、と言われているだけである。基礎をなすものは自己ではなく、むしろ自己を欠くものであり、「在る」とのみ言われ得るところの必然性だからである。カオスは直接的なものの動的な統一である。しかしカオスはそれ自身なお主観・特殊性ではない。従ってカオスについては、それは産み出す、とは言わない。むしろカオスがそれ自身単に生成するように、この必然性、即ち広大な地上、タルタロスの薄明、エレボスの夜陰、さらに何よりも美で飾られたエロスもまた再びカオスから生成する。我々はここに特殊性の統体が生起するのを見る。地上は積極的なもの、一般的な基礎であり、タルタロス、エレボス、夜は消極的なものであり、そしてエロスは媒介するもの、活動的なものである。特殊性は今やそれ自身すでに産出するものである。地は自己から天を産み出す。それは受精的な愛によることなしに山地や荒涼たるポントスを生むが、しかし天と結びついたときにはオケアノスとその支配者を生む。さらにまた地はキュクロペス、即ち自然の威力そのものを生むが、早い頃の子供たちは主観として自然物そのものである。従って地と天は自己受精によって自然的な特殊性の世界を生じさせる抽象的な力である。最も末の子は不可思議なクロノスである。第二の契機たる夜は、自然的な側面から否定の契機を自己の内に持つところの一切のものを生む。第三に、これらの特殊性が交互に結びついて、積極的なものと消極的なものとを産み出す。全てこれらのものは後に精神的な主観性の神々によって征服される。ひとりヘカテのみは運命として自然的な側面を表現する。
 まず自然の暴力の領域の支配者である力は、それらの自然の暴力がそこから生じた抽象一般、即ちウラノスであって、彼は自己の抽象の措定としてのみ力であり、従ってこの抽象だけが有力であるから、彼はそのすべての子供たちを幽閉する。しかし天の結果は不可思議な時、即ち最年少の子である。この子は地の詭計によってウラノスを打ち破る。ここではすべてが主観的目的の形態においてあり、そして詭計は暴力の否定である。しかし今や特殊的な暴力は解放され、勢力を持つに及んで、ウラノスによってティタネスという罪名で呼ばれ、その悪行のためにやがて罰せられることになる。
 これらの自然の暴力もまた人格化されている。しかし人格化はこれらの暴力においては単に皮相的である。例えばヘリオス、或いはオケアノスの内容は自然的なものであって、精神的な力ではないからである。従ってヘリオスが人間的な仕方で活動的なものとして表象されるならば、それは人格化の空虚な形式である。ヘリオスは太陽の神、太陽神ではなく(ギリシア人は決してそういうようには表現しなかった)、オケアノスは海洋の神ではない。だから神と神の支配するものとは区別されている。むしろこれらの力は自然力である。
 それ故に、この自然的な領域における第一の契機は、その諸契機と共に抽象的な必然性によって措定されたカオスである。第二の契機はウラノスの支配下における生産の時期であって、そこではカオスから生じたこれらの抽象的な諸契機が産出者である。第三の契機はクロノスの支配で、そこでは特殊的な、それ自身すでに産み出された自然力が産み出すのである。このようにして措定されたものはそれ自身措定するものであり、精神への移行がなされる。この移行はクロノスにおいていっそう明確に示される。即ちクロノスは自己自身の滅亡を惹き起こすのである。彼は要するに直接的な形態の止揚によって支配者なのである。しかし彼自身は直接的であり、それ故に自己自身において直接的に直接性の止揚であるという矛盾である。彼は自己の内から精神的な神々を産み出すが、しかもこれらの神々が差し当たりまず単に自然的な神々である限り、彼はこれらの神々を止揚し、呑噬(どんぜい)する。しかし精神的な神々のこの止揚はそれ自身止揚されねばならず、そしてそれは再びクロノスの自然的な暴力に対する詭計によって起こるのである。ゼウス、即ち精神的主観性の神は生きる。このようにクロノスに対立してその他者が現れ、結局そこに自然力と精神の神々の戦いがおこる。
 それで自然的な力がそれ自身として自立的に現れるところのこのような崩壊が起こるに従って、精神的なものと自然的なものとの統一は(そしてこれこそ本質的な点なのであるが)ますますはっきりと表れ、しかもこの統一は両者の自然化ではなく、却って精神的なものが単に優勢であるのみならず、また支配者であり、規定者であるという形式を持つものであって、そこでは自然的なものは観念的な、克服されたものにすぎない。
 精神的なものに対する自然力のこの隷従の意識をギリシア人たちは、ゼウスが戦いによって精神的な神々の支配を確立し、自然力に打ち勝ってこれを王座から突き落としたということにより表現した。世界を支配するものはいまや精神的な力である。この神々の戦いの内にギリシアの神々の全歴史およびその本性が表現されている。神々はこの戦い以外には何もしなかった。神々がその上になお或る個人的な事柄、即ちトロイアの事件、等々に関係するとしても、これはもはや神々の歴史ではなく、神々の本性の歴史的発展ではない。しかし神々が精神的な原理として覇権を獲得し、自然的なものを征服したということは、神々の本質的な事績であり、また神々についてギリシア人の本質的な意識である。
 自然的な神々はこのようにして圧服され、王座から押し落とされる。精神的な原理が自然宗教に打ち克ち、そして自然の暴力は世界の辺境に、自己意識の彼岸に追放されるが、しかもなおその権限を保持する。それらは自然力でありながら、同時に観念的なものとして、即ち精神的なものに服従したものとして措定されている。従ってそれらは精神的なものにおいて、即ち精神的な神々自身において一つの規定をなすことになる。この自然的な契機はこれらの精神的な神々自身の内になお含まれているが、しかしただ自然要素の余韻として、ただこれらの神々の一面として含まれているにすぎない。
 しかるに、これらの古い神々には単に自然力が属するだけでなく、またディケ、エウメ二デス、エリニュエスも属する。さらに宣誓の神、ステュクスもまた古い神々に数えられる。これらの神々は精神的なものではあるが、しかし単に自己内に存在する力として、即ち粗笨(そほん)な未発展の精神性として精神的なものであるという点で新しい神々から区別される。エリニュエスは単に内面的な判定者にすぎず、アイドは私の良心におけるこの確実性である。彼の真理性は、私が彼を外面的に除去するにしても、私自身の内に存する。我々は宣誓を良心に比することができる。
 これに反してゼウスはポリス的な神であり、法律の神、支配の神であるが、しかし周知された法律の神であって、良心の法則ではない。良心は国家において何らの権限も持たない。(人間が自己の良心に訴えるとき、或る者はこの良心を持ち、他の者は別の良心を持つ)権限を持つものはむしろ法律的なものである。良心が正しい種類のものであるためには、それが正当として知るところのものが客観的であり、客観的な法に適合していなければならず、単に内面的に止まるだけのものであってはならない。もし良心が正しいものであるならば、国家が人倫的な体制を持つ場合には、それは国家により承認されたものである。
 ネメシスもまた同様に古い神性である。この女神は単に高いもの超出的なものを引き下げる形式的なものであり、単なる平均、即ち卓越したものを貶めて他のものと同等の段階に立たしめる嫉妬である。ディケにおいてはただ峻厳な、抽象的な法のみが含意されている。オレステスはエウメ二デスにより訴追され、アテナ、即ち人倫的な法、国家によって免訴される。人倫的な法は単に峻厳な法とは異なるものであり、新しい神々は人倫的な法の神々である。
 しかし新しい神々もまた再び二重の性質を有し、それ自身の内に自然的なものと精神的なものとを合一する。ギリシア人の本質的な直観にとっては、自然要素または自然力は確かに真に自立的なものではなかった。真に自立的なものはむしろただ精神的主観性のみであった。目的に従って自己を規定する内容に満ちた主観性そのものは単なる自然的内実を内に孕むことができない。ギリシア人の想像は従ってまた、インド人があらゆる自然的な形態から神の姿を浮き立たせるように、神々を自然の内に賑やかに住まわせなかった。ギリシアの原理は却って主観的な自由であり、そこでは自然的なものは確かにもはや神的なものの内容をなすに値しない。しかし他面、この自由な主観性は未だ絶対的に自由な主観性、即ち自己を精神として実現したような理念ではない。換言すれば、それはなお一般的な無限の主観性ではない。我々は単にそこに至る段階にあるにすぎない。自由な主観性の内容はまだ特殊的なものである。それはなるほど精神的ではあるが、しかし精神は自己を自ら対象に持たないから、特殊性はなお自然的なものであって、それ自身まだ精神的な神々における規定として現存しない。
 それでユピテルは天空であり、大気(ラテン語ではなお、「冷たい露天の下で」と言われる)であり、雷のように轟くものである。しかしこの自然原理の外に、この神は神々と人間との父であるばかりでなく、またポリス的な神であり、国家の法と人倫性、地上におけるこの最高の力である。その上さらに、種々の国家の関係が未だ規定されず、款待(かんたい)ということが種々の国家に属する市民の人倫的な関係に本質的な関りを持っていた時代には、この神は多面的な人倫的な力であり、古い習俗に関する神である。ポセイドンはオケアノス、ポントスと同じく、海洋である。彼は元素の粗暴性を保持しているが、しかしまた新しい神々の内へ取り入れられている。フォイボスは太陽の力の反響である。リュキアのアポロンは光と直接の連関を持つ。それは小アジアに由来する。朝方には自然なもの、即ち光はいっそう際立って現れる。フォイボスはギリシアの陣営に悪疫の災いを下す。これは直ちに太陽と関連する。悪疫は暑夏、即ち太陽熱の影響である。フォイボスの造像もまた太陽と連関した属性・象徴を有する。
 先にはティタネス的・自然的であったその同じ神性が、後には或る精神的な根本規定を以て現れ、しかもこの規定が支配的なものとなる。それどころか、人々はアポロンの内になお自然的なものが存するかどうかについて論争をさえ交えたのである。ホメロスにおいては確かにヘリオスは太陽であるが、しかしそれと同時に一切を照明し光被する明るさであり、精神的な契機である。しかしなお後になってもアポロンには常にその自然要素の或るものがまだ残っている。即ち、この神は後光を放つ頭で以て表現されたのである。
 このことは個々の神々においては特に顕著ではないにしても、一般的な事柄である。けれども完全な整合はそこに見出されれるべくもない。一つの要素が或るときはより強く現れ、また或るときはより弱く現れる。アイスキュロスの『エウメ二デス』においては、第一場はアポロンの神殿の前で起こる。そこで崇拝のための呼びかけが行われる。まず第一に崇拝されなければならないのは神託の告知者(ガイア)、即ち自然原理である。次にはテミスであって、これはすでに精神的な原理であるが、しかしディケと同じくらい古い神々に属する。その次が夜の女神であり、それからフォイボスというふうに、神託は新しい神々へと移った。ピンダロスもまた神託に関するそのような継承について述べている。彼は夜の女神を最初の神託告知者とし、テミスがこれに続き、次にフォイボスを挙げる。してみると、これは自然形態から新しい神々への移り行きである。これらの教説を創作する詩歌の領域においては、それは些かの偏向をも許さない固定的なものとして史実的に解されるべきではない。
 それだから神託告知の最初の仕方である木の葉のさやぎ、ざわめきもまた単に自然音に過ぎない。明瞭ではないにしても人間の音声で神託を告げる斎女が現れるのは後になってからのことである。同様にムーサイも最初はニュムファイ、即ち泉・波・小川のせせらぎであり、いかなる場所にもその始源は自然的な在り方、自然力からであって、これらの自然力が精神的内容を持つ神に変じられるのである。このような変化はディアナにおいても示される。エフェソスのディアナはなおアジア系であって、多数の乳房で以て表され、また動物の彫刻で覆われている。この女神は一般に自然生命、自然の生産力および栄養力を基礎とする。これに対して、ギリシア人のディアナは動物を殺す猟人である。彼女は狩猟一般の意味と意義を持つものではなく、むしろ野獣狩りの意味を持つ。しかも宗教的精神の以前の領域においては絶対的な勢力を持つと認められたこれらの動物は、精神的主観性の勇敢さによって倒され、殺される。
 プロメテウス(彼もまたティタネスに数えられる)は一つの重要な、興味ある形姿である。プロメテウスは自然力である。しかし彼はまた、人間に最初の技芸を教えたという点で人間の恩人である。彼は人間のために火を天から持ってきた。点火ということはすでに或る種の文明に属する。これによって人間はすでに最初の未開状態から脱却したのである。文明の最初の発端は従って神話の内に感謝すべき記憶として保持されてきた。プロメテウスはまた供儀を教え、しかも人間もその供物の或る配分を取得し得るようにした。動物は人間に所属するものではなく、むしろ或る精神的な力に所属すると考えられていた。換言すれば、人間は肉食をしなかった。しかるに彼はゼウスからすべての供物を奪った。即ち彼は二つの堆積を作ったが、その一つは骨の堆積であり、彼はその上に動物の皮を投げかけ、またもう一つは肉の堆積であった。そしてゼウスは前者の方へ手を伸ばした。
 供儀はこのようにして一つの饗宴となり、その際、神々は臓腑と骨とにありついた。この同じプロメテウスが人間に動物を掴まえて、これを自分たちの食料品とすることを教えた。動物はそれ以前には人間により侵害されてはならず、人間により尊敬されるべきものであった。ホメロスにおいてすらもヘリオスの太陽牛のことが述べられ、人間の触れてはならないものとされている。インド人やエジプト人にあっては、動物を屠殺することは罰則で厳禁されていた。プロメテウスは人間に肉そのものを食い、そしてユピテルにはただ皮と骨だけを残すことを教えた。
 しかしプロメテウスはティタネスの一人であり、カウカソス山に鉄鎖でつながれて、一羽の禿鷹が絶えず彼の常に回復する肝臓を咬み苛む。その苦痛は決して止むときがない。プロメテウスが人間に教えた事柄は、ただ自然的な欲求の満足に関するような技能のみである。これらの欲求の単なる満足においては決して飽満ということはなく、むしろ欲求はますます増大して、懊悩は常に新しい。これがあの神話によって示唆されているのである。プラトンの或る箇所には、プロメテウスは政治を人間にもたらすことはできなかった。それはゼウスの城砦に保蔵されていたから、と書かれている。ここには従って、政治はゼウスの所有であった、ということが言い表されているのである。プロメテウスが技能を与えることによって人間の生活を安易にしたということは確かに有難いと言える。しかしこれらのことが人間の悟性の力であるにもかかわらず、彼はなおティタネスに属する。これらの技術はまだ決して法則ではなく、人倫的な力ではないからである。
 神々は実体の側面から見た精神的特殊性であって、実体はそれらへ引き裂かれるのであるが、まさしくこのことのために他方、特殊者の制限性は実体的一般性に向かって引き立てられることになる。このようにして我々は両者の統一を保持し、神的な目的を人間的なものにし、人間的な目的を神的なものに高める。これを与えるものが半神、即ちへロス(英雄)たちである。この点で特に一頭地を抜いているのはヘラクレスの姿である。彼は人間的個性を持ち、つぶさに辛酸をなめた。その徳によって彼は天界を勝ち得た。へロスたちは従って直接的に神々ではない。彼らは労苦によって初めて神的なものの位置に自己を据えなければならない。精神的個性の神々は、たとえ今は落ち着いても、やはりティタネスとの戦いによってのみそのような安らかさにいるのである。彼らのこの即自性・潜在性はへロスたちにおいて措定され、顕在的になっている。してみると、へロスたちの精神的個性は、神自身の精神的個性よりもいっそう高次である。彼らは神々が即自的にそれであるところのもので現実的にあり、即自性の実証である。そしてもし彼らが労苦の内に奮闘しなければならないとしても、これは神々が未だ即自的に有する自然性からの脱出の努力である。神々は自然力に由来する。しかしへロスは神々に由来するのである。
 このように精神的な神々は、自然力の超克によって達せられた成果であり、しかもただこの超克によってのみ初めて実存するのであるから、彼らは自己の生成を自己自身に即して持ち、そして自己を具体的な統一として示す。自然力は彼らの内にその基礎として含まれている。といっても、この即自性が彼らの内において変貌されていることは言うまでもない。それ故に、神々の内には自然力のこの余韻が、ヘラクレスの持たないような或る余韻が認められる。この区別がギリシア人たち自身にも意識されていたということについては、かなり多くの証徴が存する。アイスキュロスで見ると、プロメテウスは、ゼウスを王座から突き落とすような息子がゼウスに生まれるであろうということに慰藉と意地と満足とを持つ、と言う。ゼウスの支配の転覆、しかもへロスの内に存する神的なものと人間的なものとの措定された統一によるその転覆についての同じ予言は、アリストファネスにおいても表明されている。そこではバッカスがヘラクレスに向かって言う。もしゼウスが死んでしまったら、汝がその地位を継ぐのだ、と。

 b 形態を欠く必然性

 特殊的な神々の多数性を結合する統一は、まず差し当たりはなお皮相的な統一である。ゼウスは神々を家長的・族長的な仕方で支配し、そこでは支配者は結局、あらゆる出来事に口を挟む他の神々全体を欲するようなことをする。しかしこの支配は真面目なものではない。絶対的な力におけるいっそう高次の絶対的な統一が神々の上にそれらの純粋な力とて存する。この力は運命、即ち単純な必然性である。
 絶対的な必然性としてのこの統一はその内に一般的な規定性を有する。この統一はあらゆる規定の充溢であるが、しかし内容は却って特殊的な仕方でこの統一から現れ出る多くの神々に分配されているが故に、この統一はそれ自身において展開されていない。それはそれ自身に空虚なものであり、内容を欠いており、あらゆる共同と形態とを斥け、そしてあらゆるものの上に盲目的な、不合理な、没概念的な力として恐ろしく君臨する。この統一が没概念的であるというのは、概念的に把握し得るのは具体的なものだけであるが、この統一はそれ自身なお抽象的であって、未だ目的概念に、即ち明確な諸規定に到達するまでに展開されないからである。
 ところで、必然性は本質的に世界へ関係する。規定性は必然性そのものの契機であり、そして具体的な世界は展開された規定性、即ち有限性の国、規定された現存在一般の領域だからである。必然性はまず最初はただ具体的な世界への抽象的な関係にすぎず、しかもこの関係は世界の外面的な統一性であり、同等性一般であって、この同等性はそれ以上の規定を自己自らの内に持たず、没概念的であり、ネメシスである。この女神は高いものや崇高なものを貶めて、同等性を回復する。しかしこの同等化・平等化は。頭角を現すものやあまりに高いものが引き下げられると、従って低いものが高められることにもなる、とううふうに解されるべきではない。むしろ低いものはそれがあるべきままにある。それは有限なものであって、それ自身の内に何ら特殊的な要求権を持たず、またそれに訴え得るようないかなる無限の価値をも持たない。それは従って余りに低いのではない。しかしそれは有限性の普通の区画と通常の限度を超え出ることができず、そして同等性に反する行動をするとき、それはネメシスにより再び圧し下ろされる。
 ここで直ちに有限的自己意識のこの必然性に対する関係を考察するならば、その鉄のような力の重圧の下ではただ内的な自由なき服従のみが可能である。しかしながら、少なくとも心術の側から見れば、自由の一つの形式が現存している。必然性の心術を持つあのギリシア人は次のようにして自分の心を鎮めた。それはそうなのだ、それには何としても抗いようがない、私はそれを甘受しなければならない、と。私はそれを甘受しなければならない、のみならず私はそれに満足する、というこの心術にこそ、それは私のものである、という自由が現存している。
 この心術は、人間がこの単純な必然性に当面しているということを含意する。彼は「それはそうなのだ」というこの立場に立つことによって、あらゆる特殊的なものを片付け、断念して、全ての特殊的な目的・関心を放棄する。人間の屈託・不満は、彼らが或る特定の目的を固執し、これを棄て去らないというまさにそのことによって生じる。そして物事がこの目的に副わないか、または全く反するような場合には、彼らは不満である。そこには現に存在するものと意欲するものとの間の合致が全く見いだされない。彼らは「それはあるべきだ」という当為を自分の内に持っているからである。このようにして、それ自身における不和・分裂が現存する。しかしこの立場では実際にあるがままの状況に反するいかなる目的、いかなる関心も固持されない。不幸や不満は、或るものが私の意志に反するという矛盾に他ならない。特殊的な関心が放棄されるとき、私はこの純粋な静安へ、即ちこの純粋な存在、この「ある」へ引退したのである。
 そこには人間にとって何らの慰藉も現存しないが、しかしまたそれは必須なのでもない。人間は喪失に対する代償を求めるときには慰藉を必要とする。しかしここでは、人間は必然性に観入する力を持っているが故に、懊悩や不満の内的な根を断ち切り、喪失したものを全く断念したのである。従って、意識が必然性への関係において否認され、端的に彼岸に関係し、そこに自己と親密なものを何も言い出さないということは、一つの偽りの仮象にすぎない。必然性は意識にとって唯一者ではなく、従って意識はそこにそれ自身として対自的に存在するものではない。換言すれば、意識は自己的な一として自己の直接性において存在するのではない。唯一者であるところのものへの関係において意識は対自的・自立的であり、対自的であろうと欲して自己に固執する。奴隷はその奉仕・隷従において畏怖を持ち、また主君に対する低劣な言行の内に利己的な意図を有する。しかるに、必然性への関係においては主観は対自的に存在しないものとして、自己自身に対して規定されている。それは却って自己を放棄したのであって、それ自身として何らの目的をも保有していない。そしてこのように必然性を尊崇することこそは自己意識のこの没規定的な、また全く没対立的な方向なのである。我々が今日運命と呼ぶところのものは、自己意識のこの方向のまさしく正反対である。人々は正当な運命だの、不当な運命だの、当然な運命だのと言う。人々は運命という言葉を説明のために、換言すれば、個々人の状態や命数の根拠を示すものとして用いる。ここには原因と結果の外面的な結合があり、この結合によって或る遺伝病、家系に基づく或る古い呪詛、等々が個人の上に突発する。従ってそうした場合には運命には何か或る根拠があるか、しかしその根拠は同時に彼岸的なものであるという意味を持つ。そしてその際、運命は原因と結果との連関に他ならず、この原因は運命に遭遇する者にとって有限な原因であるべきであって、しかもそこには被害者それ自体と被害者の上に不当に降りかかるものとの間に隠された連関がある。
 必然性の直観と尊崇は却って上述の正反対であり、ここではあの媒介や原因・結果についての論断は止揚されている。人々は必然性に対する信仰に関して、あたかも必然性が一つの本質的存在であり、または原因と結果といったような関係の一つの連関であって、従ってあたかも客観的な形態において意識に対立するかのように語ることができない。却って「それは必然的である」という言い方は、あらゆる論断の放棄と単純な抽象への精神の幽閉とを前提する。気高く美しい性格は、いわゆる運命が奪い取ったと言われるもの、即ち偉大さや安らかさ、また古代人たちの上にも見出されるような自由な気高さを放棄したところのこの精神のこの方向によって作り出される。しかるに、この自由は単に抽象的な自由にすぎず、ただ具体的なもの、特殊的なものを越えているだけであって、規定されたものと調和させられていない。換言すれば、それは純粋な思惟・存在・自己内存在であり、特殊的なものの放棄である。これに反していっそう高次の宗教においては、絶対的な目的が不幸においてすら達成され、従って否定的なものが肯定的なものに転換するという慰藉が存する。「現世の苦難は至福への道である」。
 思惟および自己還帰のこのような抽象物としての抽象的な必然性は一つの極端である。他の極端は特殊的な神的な力の個別性である。

 c 措定された必然性、或いは特殊的な神々、その顕現と形態

 神的な特殊的な力は即自的に一般的なもの、即ち必然性に属するが、しかし必然性から現れ出ることはない。必然性は対自的に未だ概念として措定され、自由として措定されていないからである。理知性および理性的内容はなお直接性の形式においてあり、換言すれば、主観性は無限な主観性として措定されていず、それ故に個別性は外的な個別性として現れる。概念は未だ顕わにされず、そしてその現存在の側面は未だ必然性の内容を含んでいる。しかしこのことはまた、特殊的なものの自由が単に仮象にすぎないこと、また特殊的な力が必然性の統一と力の内に牽制されていることを明らかにする。
 必然性はそれ自身としては何ら神的なものではなく、或いは一般に神的なものではない。人々はなるほど、「神は必然性である」、換言すれば、必然性は神の、なお不完全ではるが一つの規定である、と言うことができる。けれども、「必然性は神である」、と言うことはできない。必然性は理念ではなく、却って抽象的な概念だからである。しかるにすでにネメシスや、ましてこれらの特殊的な力は神的なものである。前者は現存する実在性に関係を持つが、しかし後者はそれ自身において必然性から区別されたものとして、また従って相互に区別されたものとして規定されており、必然性の内に全く一般的なものと特殊的なものとの統一として牽制されているからである。
 さてしかし特殊性は未だ理念によって緩和されていず、また必然性は智恵の内容に充ちた度量ではないから、内容の無制限な偶然性が特殊的な神々の領域内に生じて来る。

 α 形態化の偶然性

 すでにオリンポスの十二の主神すら概念によって秩序づけられてはいず、何らの体系をもなしていない。なるほど理念の一契機が初手を勤めてはいるが、しかしそれは遂行さるべくもない。
 必然性から分離されたものとして必然性の神的な力は外面的であり、従って媒介されない単に直接的な対象、即ち自然的な実存物、例えば太陽・天・地・海洋・山・人間・王、等々である。しかしこれらのものはまた依然として必然性により牽制されており、従ってこれらのものにおける自然性は止揚されている。これらの力が自然的・直接的な実存に従って神的な本質性であるという見方に止まるとすれば、これは自然宗教への復帰であろう。自然宗教においては、光・太陽・この王がその直接性に従って神であって、内的なもの、一般的なものがなお関係の契機となっていない。しかしそれにもかかわらず、必然性においては直接的なものは単に措定されたものであり、止揚されたものであるにすぎないから、必然性は本質的かつ端的にこの契機を自己の内に含んでいる。
 しかし止揚されているとはいえ、自然要素はやはりなお特殊的な力の一つの規定性であり、またこの要素は自己意識的な個体の形態の内へ採り入れられているから、それは偶然的な諸規定の豊富な源泉となっている。時間規定、年、月の区分はなお具体的な神々に付きまとっているので、例えばデュピュイのような人々はそれらを暦法の神々にしようと試みさえもした。自然の生産作用や、生成および消滅についての見方もまた、なお様々な共鳴音として精神的な神々の領域に影響を残している。しかしあの自然的な諸規定はこれらの神々の自己意識的な形態へ高められるとき偶然的なものとして現れ、そして自己意識的な主観性の諸規定に変えられて、そのためにその意味を失うに至った。これらの神々の行為の内にいわゆる哲学説が探し求められるという大きな権利は容認されなければならない。例えば、ゼウスは神々と一緒に十二日間エチオピア人のところで御馳走になったし、ユノは天と地との間にぶら下がった、等々。このような表象や、並びにゼウスに帰せられる無限に多くの情事もまた無論、自然関係や自然力に関する、またこれらのものの内に見られる規則的なものや本質的なものに関する抽象的な表象にその最初の根拠を有する。従って人々はそうした表象を探求する権能を持っている。しかるに、これらの自然的な諸関係はその純粋性を保持せず、うしろ主観的・人間的な考え方に適合するような形式に変えられているから、同時に偶然性に貶められている。自由な自己意識はもはやそうした自然的な諸規定に何の関わるところもない。
 偶然的な諸規定のもう一つの源泉は精神的なものそれ自身、精神的な個性とそれの歴史的な展開である。神は人間にとって彼自身の運命の内に、またが或る国家の運命の内に示現し、そしてこれは神の所業・好意または敵意と見なされる一つの出来事になる。そして或る出来事、即ち幸運または不運が神の所業にまで高められて、神の行為をいっそう仔細に、一々について規定するのに役立つ場合には、それは無限に多様な、しかしまた偶然的な内容を与える。ユダヤの神がその民族にこの特定の土地を与え、その祖父をエジプトから導き出したように、ギリシアの或る神も一民族の上に起こるところの、そして神的であると見られ、または神的なものの自己規定と見なされるいろいろの事柄を為したのである。
 次にまた問題になるのは、或る神の意識が真っ先に始まった所および時である。限られら発生のこの契機は、ギリシア人の明朗性と結びついており、多くの優美な歴史物語の起源をなしている。
 最後に、神々の自由な個性が神々に帰せられる多様な偶然的内容の本源である。即ち、これらの神々はなお無限な、絶対的な精神性ではないにしても、少なくとも具体的な、主観的な精神性である。このような精神性として神々は抽象的な内容を有せず、そして神々の内には単に一つの性質のみがあるのではなく、むしろ数多の規定がこれらの神々の内に合一されている。仮にこれらの神々がただ一つの性質のみを有するとすれば、この性質は単に一つの抽象的な内面、または単純な意義であるにすぎないであろうし、またこれらの神々自身は単に寓喩であり、換言すれば、単に具体的なものとしてのみ表象されるであろう。しかしその個性の具体的な豊富さのために、これらの神々は一つの排他的な性質の限られた方向と作用様式に縛られてはいず、むしろ今や自由に任意の、しかも同時に恣意的な、また偶然的な方向に赴くことができる。
 これまで我々は神的なものの形態化について、それが即自性に、換言すれば、これらの神性の個性的な本性に、その主観的な精神性に、またその場所的および時間的に偶然的な出現に基礎を有すること、或いはそれが自由な主観性の外への自然的諸規定の恣意的な転化において起こることを考察してきた。いまや我々は、この形態化が意識を以て成就されたものであることを考察しなければならない。これは神的な力の顕現であるが、この顕現は他者に対して、即ち主観的な自己意識に対して存在し、また自己意識の把握において知られ、かつ形態化される。

 β 神的なものの顕現と把握

 神が有限的精神に対して現象し顕現する際に獲得する形態化は二つの側面を持つ。即ち神は外面性へ現れるが、このことによって一つの分割・区別が生じ、しかもこの区別の規定は顕現するということに二つの側面(その一つは神に属し、他は有限的な精神に属する)があることを明らかにする。神に属する側面は神の自己啓示であり、自己呈示である。この側面からすれば、自己意識に帰せられるのはただ受動的な受容のみである。この呈示の仕方はとして思想に対して行われ、永遠なものが教えられ、与えられるのであって、個別的なものの恣意によって措定されるのではない。夢想や神託がこの種の顕現である。ギリシア人たちはこれにあらゆる形式を持っていた。それで例えば、或る神像は天から落ちてきたとされ、或いは流星とか雷鳴や電光は神的なものの顕現と見なされることになる。或いは樹々のさやぎ、森の静けさ(そこにはパンが現にいる)は意識にとっての最初の、しかもなお漠然とした告知としてそのような顕現なのである。
 この段階は最初の自由および理知性の段階に過ぎないから、従って精神的な力は外面的な仕方において現れるか(そしてこれはこの立場になお付着している自然的な側面の基礎をなしている)もしくは内面に告知される威力や法則が精神的かつ道徳的なものであるときには、まず差し当たりはこれらの威力や法則はあるが故にあるのであって、それらがどこから来るかは知られない。
 顕現は今や両側面の限界であって、両側面を分解すると同時に相互に関係づける。しかし根本において活動は両側面に属し、しかもこのことを真に理解するのはもとより極めて困難である。この困難は後にまた神の恩寵という表象において再び現れてくる。恩寵は人間の心胸を照明する。それは人間における神の精神であって、人間は恩寵の行われる際に受動的であると考えられることができ、従ってそれは人間自らの活動ではない。しかるに概念においてはこの二重の活動は唯一のものとして捉えられねばならない。今当面の段階においては、概念のこの統一はまだ措定されていず、そして主観性にも属する生産的な側面は自立的にそれだけとして現れ、主観が神的なものの顕現を意識的に自己の所為として惹き起こすというふうに見える。まずさしずめは抽象的であるものを(それが内面的であるにせよ、また外面的であるにせよ)把握し、解明し、形成して、神であると見なされるところのものとして産出するのは自己意識である。
 しかるに自然の諸現象、即ちこの特定の直接的なもの、外面的なものは、我々が自然の力やそれの外現について云々するときのように、本質体はただ我々の内にある思想のみである、というような意味において顕現なのではない。自然の諸対象が内的なものの顕現として実存するのは、ここでは自然の諸対象それ自身においてではない。それは自然の対象そのものの上に客観的に存するのではない。自然の対象としてはそれらはただ我々の感性的知覚に対してのみ実存し、そしてこの感性的知覚に対してはそれらは一般的なものの顕現ではない。だから例えば、思想、即ち一般的なものが告知されるのは光そのものにおいてではない。自然物の場合には、我々は却ってその背後に思想、即ち事物の内的なものが蔵されているところの外殻を先ず打ち破ってかからなければならない。
 自然的なもの、外面的なものは、むしろ同時にそれ自身において、またその外面性において止揚されたものとして示されていなければならず、それ自身において顕現として措定されているのでなければならない。従って顕現はただ思想の器官、および一般的なものの外現として意味や意義を持つのである。思想は直観に対してあるのでなくてはならない。換言すれば、啓示されるものは一方では感性的な在り方を持ち、また知覚されるものは同時に思想、即ち一般的なものである。それは神的な仕方で顕現すべきであるという必然性、即ち、現存在においてこの現存在との直接的な統一において存在すべきであるという必然性である。これは措定された必然性、換言すれば、自己への単純な反省として実存する現存的な必然性である。











































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