美学序論(2)芸術の本質に関する世俗の諸観念
<自然の模倣>
これまで述べて来たところはより多く認識方法に関することであったが、我々がこれから語ろうとするのは、芸術の内容に関する諸規定により多く関係することである。この方面については従来多くの相異なった観念が行われているのを見逃せない。
その第一は、芸術の権能は自然を模倣することに限られ、内外いずれにせよ、一般に自然のままのものを模する以上には出ないという観念である。芸術が自然を模倣するというのは、古くから言われていることで、この観念はすでにアリストテレスに現れている。そして反省の初期段階においては結構このような観念で満足することも出来る。そこには常に、しかるべき理由によって是認され、それ自身理念の一契機と見られ、他の諸契機と同様に理念の発展に参与するものが含まれている。
一体、人間はいかなる目的のために自然を模倣するのか。自分の力を試し、技量を示し、自分が自然と同じように見えるものを造り出したということについての悦びを味わうためである。自分の所産が後世にまで保存されるとか、あるいは他の地域にも知られるというような他の諸目的は、この場合問題ではない。何よりもまず人間は一つの芸をなし、自分の腕を試し、技量を示すことを悦ぶのである。即ち自分の労作によって自然を模倣し、幸福の施与者にして造物主である神を模倣したことを悦び、その所産に悦びを観ずるのである。しかしこの模倣の悦びと模倣の技量に対する讃歌はそれ自体、模造が自然の原像に似ていればいるほど、却っていよいよ冷却し、あるいは逆転して嫌悪の情となる。奇警な言い方に従えば、嘔吐を催させるほど似ている肖像があるものだ。一般に模倣から得られる喜びはごく狭い範囲に限られた悦びである。自然の模倣においては内容や素材が人間に与えられているのだから。人間は何か自分のものを造り出し、自分に固有のもの、自分の所有するもの、自分が案出したものを造り出すことに、いっそう大きな喜びを感じなければなるまい。一切の技術的工作物、例えば船や、とくに科学的な所産、その他およそ人間に全く本来的に属するものは、人間自身の所産であって模倣ではないからこそ、いっそう多くの悦びを与えるのでなければならない。いかに劣悪な技量的工作物も人間にとっては模倣より高級なものである。人間は鎚や釘を発明したことを誇りとすることが出来る。このような発明は人間の独創にかかり、模倣の結果ではないからである。人間は精神そのものに属する制作においてこそ、自然を模倣する場合よりもよくその技量を示すことが出来る。いかにも人間は自然と闘争することも出来る。この意味において自然の生産は精神のそれよりも優れたものであるかのように言われる。我々がすでに最初に述べておいたように、自然の生産は単に人間的な所産よりも高級だと見なされている。それは神の所産とよばれる。しかし神は精神であり、自然においてよりも精神において遥かによく認識されるものである。人間が自然と競争するならば、これはもう無価値な芸にすぎない。小さな穴を通して豆を投げることに熟練した人があって、アレクサンドロスにその技を演じて見せたが、王はかれに一二椀の豆を与えさせた。いかにも至当なことだ。そのような技はものの役に立たぬのみならず、それ自体価値内容のない手練でしかなかったからだ。自然の模倣における巧みさについても同じことが言える。単なる模倣によって自然と競争しようとしても、芸術は到底これに適わないであろう。それは巨象のしりえに這いながらこれに追いつこうとする虫けらの観を呈するものだ、と。またナイチンゲール(夜鶯)の声を模倣することの出来る人間があるが、それが人間であることに気づくや否や、興味索然としてしまうものだ、とカントは言っている。我々が夜鶯の歌声を聴いて悦ぶのは、もちろん、ある動物は無意識のうちに自ずから人間の感情の表出に類似する音を発するということを看取するからである。してみればこの場合我々を悦ばせるのは自然のままのものに見られる人間的なものの模倣なのである。
世人の意見によると、芸術の目的は自然の模倣であり、従って芸術はすでに存在しているものの忠実な模倣を提供すべきものであるが、かくて芸術の目的は実物を想起させることだと言うことになろう。しかしこのような目的を課せられては芸術は自由な、美なる芸術ではありえない。勿論、自然がその諸形態を産出するのと同様に、人間も仮象を作り出そうとすることは、人間の一つの関心事であることを失わない。しかし人間が表現されるべきものの客観的価値を顧みることなしにその技量を示そうとすることは、全く主観的な関心にすぎないであろう。人間の所産は内容上また精神的なものでなければならず、このような内容にこそ価値があるのでなくてはならない。自然模倣においては人間は自然的なものの域を出でないが、内容は精神的なものであるべきである。いかにも芸術における自然の模倣は価値のある、極めて重要なことである。画家にとっては、色彩の相互関係や、光の効果や反射を捉えて、紙やカンバスに移すことは、多大の研究を要する。このような模倣によって表現されるものは、単に感覚的な、自然のままのものである。最上の芸術といえども、本質上、自然のものに遠く及ばず、いかに巧妙を極めても、人間がこのような表現においてはむしろ拙劣なものだと言うことが解るだけだと言わなければならない。人間の特徴を描き止めることを目的とする肖像画においては、確かに類似性が重要なことではあるが、しかしそれはいわゆる完全には正確でないものである。そこでは常に様々なものが省略されているので、表現は自然の所産のように完全なものとは見えない。ここに芸術の不完全性が見られるのであって、そのために表現は直接に実存するがままの自然の対象よりは常に抽象的なものであるに止まる。
最も抽象的なものは影絵や線画である。色彩のある場合にも、自然の事物を規準にしてみるならば、常に、何かあるものが省略されているということ、即ち表現や模倣が自然の所産と同様には行われていないと言うことがわかるであろう。このような模倣がさらに一段と不完全な点は精神性に欠けていることである。この種の線画が人間によって制作されるに当たっては、精神性を持つべきである。この表現は、自然の人間も、厳密な意味における直接の外観においては、これを欠如している。そこには自然的存在そのもの、ないしはその無力さにのみ本来固有の欠陥があるのだ。しかし精神的なものの表現こそ常に一切を支配するものであらねばならない。感覚的な諸形態を描き止めることを目的とするにおいては、自然の事物に規定根拠をおき、これに則ること、即ち模倣を必要とすることは、至極当然ではあるが、かくては単に抽象的なものしか得られないのである。模倣は自然らしさを主眼とする者であるが、しかしその所産にじっさい欠けているものは、軽少なものではなくてより高いもの、精神的なものであり、しかも本来は精神的なもののためにこそ、自然を模倣するという意図を生ずるのである。
それだから我々がここでまず第一に自然のものの模倣ということに反対するのは、自然らしさのみが表現の規則や最高法則であってはならないというだけの意味に他ならない。さらに芸術品の内容も、その形態化という主要な一面において、感覚界や、直接の、与えられた自然あるいは人生諸般の関係から摂取されるように見えるということは、我々が既に述べたところである。一般に内容は感覚的なものから摂取されるという見地に止まるならば、芸術品は自然の模倣であるべきだと考えられやすいわけである。従ってこのことが芸術品の唯一の規定であるかのように思われもしよう。
芸術がその諸形態を自然から摂取するということは、これを承認しなければならない。このことの理由は後になってわかるであろう。とにかく芸術品の内容はその本来の性質上、それ自身としては精神的なものでありながら、自然的なものの形態において表現される他ないものである。しかし作品は自然の模倣であるというような、抽象的な言い方をすると、芸術家の活動と技量は模倣に局限されることになりかねない。かくて模倣すること自体が目的視されると、客観的な美そのものは消滅してしまう。この見地ではもはや模写されるべきものがどのような性質のものであるかは問題にならず、ただそれが正しく模倣されることが問題なのであるからだ。かくて美の対象と内容は全くどうでもよいものと見なされることになる。
芸術の目的はそれだからやはり現存の事物の単に形式的な模倣とは別の点に存しなければならない。このような模倣はいわゆる単に技術的な芸を現わし得るのみで、本来の芸術品を作り出すことは出来ない。
いかにも一般に自然性や現実性というものが芸術品にとって、いな理想にとっても、一つの全く必須欠くべからざる契機である。理想は曖昧模糊とした一般的抽象的なものではない。が、模倣は、これと反対に自然の事物をそのあるがままに、その外面的実存に従って、直接に表現することのみを目的とし、これによっては実物を想起しようとする要求が満足させられるにすぎない。しかし我々は生全体の直接的現象を想起することの満足を求めるのみではない。心情を満足させようという要求が直ちに起こって来るこである。
<心情の誘発>
かくして心情を満足させることが芸術の究極目的であると言われ、芸術はこの効果を追究すべきであり、また実現し得ると言われる。我々はまずこの説について語らねばならない。我々が芸術の究極目的をこの方面から考察し、何が芸術の効果として生ずべきか、また生じ得るか、また実際に生ずるかを考察するならば、芸術の内容は心情と精神の全内容であり、芸術はすでに心情の内に存する本質的なものや偉大なものや高貴なものや尊敬すべきものや真実なものを観者の心に啓示するものだと言うことが認められるに違いない。芸術は一方では実生活の経験を我々に得させ、我々を自分の状態そのものによっては経験されない境地におき、その表現する人物の行為の仕方や境遇を我々に経験させるのであり、我々はそれらの人物に関与することによって、同時に我々の感情内容をいっそう深く真底から感ずることが出来るようにされるのである。総じて芸術の目的は、一般に人間の精神の内に存するもの、人間がその精神の内に有する真実なもの、人間の胸を奥底から揺り起こすもの、人間精神の内に生起するものを直観的に現すことにある。実に芸術はこのような内容を表現するものであり、しかもこれを仮象によって表現するのであるが、仮象はこの場合より高きものの意識を我々の内に喚起するという目的に奉仕するのであるから、それ自体としてはどうでもよいものである。芸術はこの目的を有する限り、人間的なものについて人間を教え、眠れる感情を呼び覚まし、精神の真の関心事についての表象を与える。我々はかくして芸術が人間の胸裏のあらゆる感情をその深さや豊かさや多様さにおいて動かすのを見、人間の内部に生起する限りのものが我々の内に揺り起こされて経験されるのを見る。芸術は「人間のこと一として我に無縁なりとは思わず」という名句の意味するところを我々に体験せしめるのである。
かくしていろいろの感情や性向や情欲が芸術の内容によって揺り起こされる。芸術はこの効果と直観と表象によって生ぜしめるのであって、その場合内容がどこから来ているか、即ち現実の状況や感情から発しているか、或いは単に芸術が我々に与える処の表象から発しているかは、総じて問うところではない。それは芸術の目的から見てどちらでもよいのである。
さてこの見解についてまず指摘すべき点は、この芸術の心情に対する効果は内容のあらゆる差別に関わりなく発揮されるということである。芸術は眠れる感情を呼び覚まし、あらゆる種類の情欲や性向を我々の内に誘発することが出来る。それは我々にあらゆる不幸と災禍を経験させる力があるし、悪や罪業をも我々の眼前に現ぜしめることが出来る。芸術によって我々は全ての凄惨なものに参与し、それに対する恐怖を感ずる。全ての戦慄すべきものに与り、また与ろうとすることが出来るし、それを共に体験し、それを恐れ、それによって激しい感動を経験することが出来る。芸術は我々に高貴真実なものの輝かしさを感じさせて、感激を起こさせることが出来るが、また同様に我々をごく官能的な感情や単なる快感や柔弱な情欲に沈湎せしめ、快楽に耽溺せしめ、放縦な想像力に身を委ねさせ、かくして観念の無為な戯れに沈湎せしめることも出来る。この人間的な活動には、卑しいものと気高いもの、善いものと悪いものが無差別に含まれている。またこれに関連して芸術は一種の霊感によって至高の内容を感得させることも出来れば、我々を委縮衰弱せしめて官能の一面に堕せしめることも出来る。かくして相反する内容の間には何の差別も存せぬことになる。芸術は我々を高めることも出来れば、ごく利己的な快感に耽って衰弱させることも出来るし、我々を誘惑して官能的なものに堕せしめることもあてば、我々を力づけて最高の精神的なものに達せしめることもある。かくして芸術の力は、内容のいかんを問わない形式的なものとして、これを規定する他ないことになる。そうして実際、芸術はあらゆる素材、一切の内容を持って感情に訴えるという、形式的な一面を有する。これはいわば芸術の詭弁的態度である。こじつけの議論があらゆるものに対して根拠を見つけ、全てのつまらぬものに説明をつけ、一切の行為の仕方を正当化し得るのと同様に、芸術がいかなる内容をもその性質に構わずに取り入れることは、これをその詭弁的態度と呼ぶことが出来る。この点からいえば、芸術の効果ははなはだ形式的なものとなり、人間はその内にありとあらゆる力を発露せしめ、実現させるべきだという規定と同様に形式的であると言えよう。
この点からして直ちに我々は、芸術の真実な目的はいかに規定されるべきかという方向について、必須の区別を立てざるを得ない。その目的は実体的な目的であって、単にありとあらゆる激情を呼び起こすという目的ではないのである。
かくして即自かつ対自的に存在する、本質的なものを包括すべき、いっそう高い目的を探求することが問題となる。我々を感動させるものは、極めて多様な内容のものであり、従って芸術はその喚起しようとするものに区別をつけるべきだからである。かくて我々は芸術をいっそう高い目的に関係づけ、またその目的を規定しようとするのである。
この目的は一切の芸術品において達成され得る形式的なものとして規定され得る。この形式的目的は一般に粗野なものを和らげることだと言うことになろう。そうして文化の初期段階にある民族においては勿論この緩和が芸術に帰属せしめられる一つの主要目的である。これよりもさらに高い目的は道徳的な陶冶だということになるのであり、これが久しく最高の目的だと思われていた。
そこで問題は次の点にある。いかにして芸術は粗野なものを止揚するというこの独特の作用を発揮し得るか、いかにして芸術は衝動や性向や激情の陶冶の可能性を有するか。我々はこの芸術の眼前である俗情の緩和ということを簡単に検討して見よう。
粗野ということは衝動の直接の我執に存するのであり、欲望がその満足を目指し、しかもただひたすらにそれのみを目指すことにある。この満足は対象を使用してこれが欲望を満たすための手段となるようにすることを含んでいる。欲望は粗野であればあるほど、個別的な、偏頗(へんぱ)なものとして人間全体を領し、普遍的なものとしての人間がなおこの限定された状態から離脱していないことになる。私が私の激情は私自身よりも強力だというのなら、私は私の抽象的自我を激情から区別してはいるが、これは一般的な、全く形式的な区別であって、自我が激情に比べてはまるで問題にならないと言う意味にすぎない。かくして激情の粗野性は、私の普遍的自我が偏頗な、局限された状態に帰一して、私は偏頗な意志の他には何の意志も持たないと言うことに存する。全人とはその全ての意志をこの特殊なものに帰する我執人の謂いであることになる。
ここに激情性の粗野さや力や強さがある。が、それは、芸術が激情そのものや、衝動や、人間のあるがままの相を、人間の眼前に呈示する限りにおいて、芸術によって緩和される。たとえ芸術が単に激情の図絵を繰り広げることに止まるにせよ、このことは、芸術が激情に阿(おもね)る場合も、人間の単に存在するがままの相を人間にとっての対象と化し、それを人間自ら意識させるために行われるのである。すでにこの点に緩和の力がある。人間は今やその衝動を、彼に対して、彼の外に存在し、彼が対立するところのものとして観察し、すでにそれに囚われない自由を獲得し始めるからである。かくして芸術は人を解放する効果を持っている。激情は表象の域に移され、対象化されることによって既に解消される。感情の客観化は、それによって強烈な感情が内部から排出され、我々自身から隔離されるという効果を伴うのである。感情は表象に移されることによって、すでにこの心裡の集中から脱却し、心はすでに表象の自由性を以てそれを超越するに到るのである。苦痛の感情については一般に知られていることだが、人間が重大な喪失の悲しみを和らげるために生来有するところの捷径(しょうけい)は、慟哭を発することである。泣くことにはすでに慰めが含まれているのだ。苦痛の軽減のためにはさらに進んで友人たちにそれを語り、あるいは詩を作りなどとするようにもなる。かくして全く苦痛に沈湎し集中している人間が、この単に内面的な苦痛を外面化し得るに到れば、これによって心が軽くなり、苦痛を言葉や歌に表現したり音や形に現したりすれば、なおいっそう心が軽くなる。こうして事態はいよいよ好転し、苦痛はすでに感情の客観化によって大いに軽減される。この客観化こそ、強烈な、全く心中に凝集した苦痛の感情が、我々自身から、我々の個人的自我から排出されて、対象的なものと化することを含んでいるのである。それだから芸術家も不幸に襲われたとき、苦痛の感情の強さをそれの表現によって和らげ弱めることがよくあるものである。一般にも弔問ということは普通のしきたりであった。それは甚だ煩わしいことであったが、不幸に関与し、それを反復し、客観化することは、実際、当人の苦痛を軽減することに寄与するところがあった。人が死亡した際、各方面から悔やみを述べることは、かくして古来の良習であった。不幸についてたびたび弔問客と語り交わすと、当人にもその苦痛が外在的なものとなるからである。いわば苦痛がその人の前に据え置かれるので、彼はこれについて反省せざるを得なくなり、かくしてその重圧を軽減することが出来る。古人が泣き女を使ったのは、苦痛を客観化しようとする要求に起因するものであった。さらに自分の激情について詩を作ることが出来る人にあっては、激情ももはやそう危険ではない。前述のように、内面の感情はその対象化によって放出され、人間に対して外在的に対立するからである。
人の心は詩や歌に吐露されると、その内に凝集していた感情から脱却する。先に心の鬱積していた内容は、その表象化によって排出され、その集中が解消され、心情はそれを超越した自由の境に達する。かくして新たに開ける視野においては、人は慰安を感じ、あるいはどうしても静かに苦痛に耐えねばならないことを達観するようになる。芸術の効果として生ずる感情や情欲の形式的陶冶は、このような関係に基づくのである。
<道徳性の確立>
このような心の昂揚はしかし心裡に集中した感情の形式的な解消に止まるべきでなく、激情を抑える力として現れるような一定の内容を持つに到らねばならない。即ち芸術の目的は、激情を誘発すると同時に、またそれを純化することであり、従ってその誘発がそれ自身目的なのではないという風に言い現わされるのであるが、「純化」ということを明確な言葉に置き換えるならば、芸術の目的とされるものは道徳的なものであると言うことが出来る。激情の表現は確かに直接に激情から心を脱却せしめて純化するという効果をさえ伴うということは、我々がすでに見たところである。激情の表現は実際、激情や粗野な衝動を制御するという面を持っている。尤も他面では、人間は自然と一体になっているべきだと言うような説を聞くことも多いが、しかしこの直接の統一こそ粗野の状態である。芸術こそは人間を自然との統一において表現し、しかもまさにこれによって人間を自然から超脱させるものである。芸術の諸対象に関係する人は純粋に観照的な態度に終始し、それ故に、たとえ最初はただ表現一般に着目するに過ぎないとしても、更に進んではまた表現の意味に着目し、それを他の内容と比較し、自由に普遍的な観察とその諸観点を取り入れることになる。かくして芸術は道徳的意志を強め、これに活力を与えて、心情そのものが激情を抑える力を得るようにすべきである。この点から見て、芸術は道徳的目的を有すべきであり、道徳的内容が芸術品に含まれているべきだと言われる。芸術は激情や自然の性向などを服従させるようないっそう高いものを包含すべきであり、道徳的活動を強めて、それによって心情や精神が激情の力に対抗する力を持つようにすべきだと言うのである。
芸術が道徳的陶冶を究極目的とするというこの観点は、かくして激情の緩和という段階を超えて、激情の支配から心を開放し純化することに達する。それによってはっきりして来ることは、芸術の表現はその価値の有無を測定すべき標準を必要とするということである。この標準はまさに激情の純粋な分子を不純な分子から区別する効果を有するものである。この効果のためには、この純化する力を現わすことの出来るような内容が必要である。そうしてこのような効果を生み出すことが芸術の実質的な目的をなすべきである限り、激情は純化力のある内容をその普遍性と本質性において我々に意識させるべきであろう。
近時この見地については多くの論争が行われ、このような目的は芸術に値しないと主張されている。いやしくも芸術において究極目的を論ずるとすれば、これは、すでに述べたように、即自かつ対自的に存在するものとして規定されねばならない。ところで単なる快適感は偶然の域に属するものであって芸術の目的ではありえない。これに反して宗教や人倫や道徳に関することはいかにも即自かつ対自的に存在する対象であって、芸術がこのような規定をそれ自身に有すれば有するほど、いっそう高級になることは言うまでもない。それらの規定は絶対的な基準であって、これをこのような対象の概念に従って芸術の形式で表すことが、芸術の内容である。この内容を表現するものとして芸術は諸民族の教師であった。この方面から芸術の目的を言い現わせば、専ら芸術は教訓をあたえるべきもの、「物語は教える」ということにあり、従って芸術品が我々主観に対して発揮しうる効用にあるのでなければならない。この点から見ると、ホラティウスの格言「詩人は益し、かつ楽しますことを欲す」は、後になって無際限にまで敷衍され、希釈され、甚だしきに到っては最も浅薄な芸術観になったものを、数語の内に集約している。ところでこのような教訓に関して直ちに問題となるのは、この芸術品の内容のあり方は直接的か間接的か、言い換えれば顕在的か潜在的かのいずれであるべきかと言うことである。
さてしかし芸術はこのような内容を有すると認められるとしても、果たしてこれを表現することを究極目的とするべきかどうかが、論争の的となった。この抗議はとりわけ表現の仕方に関係していた。というのは、もし道徳の教えが芸術によって抽象的命題や反省として表明されるか、さもなくばこの表現の仕方が芸術品の内に優勢を占めていて、感覚的要素はただ付属物としてそれに付随し、抽象的内容は形態を包被としてのみ有し、かくて形態が単にそれを被うもののようにしか見えないことになっているならば、全く芸術品の本性は歪められてしまうからである。芸術品は形象的であり得るためには、その内容が個性的で具体的なものでなければならない。内容がすでにその本性において形象的でないならば、形象的要素は単に付属物であるにすぎず、芸術内容は一方では抽象的なものであり、他方では単に仮象にすぎない外面的形象的装飾を要せずして自立自足するもので、このような装飾は内容と形式とが互いに合体していないために退屈感を呼ぶにすぎないのである。
さて芸術の道徳的善導への関係については、まず教訓の目的について言われるのと同じことが言われる。芸術がその原理において不道徳なこととその助長を意図とすべきでないことは、容易に認められる。しかし不道徳を表現の明確な目的にすることと、道徳的なことを表現の明確な目的にしないこととは別のことである。一切の真正な芸術品からは善き道徳を引き出すことが出来るけれども、その際には解釈のいかんが問題となり、従ってまたその道徳を引き出す人のいかんが問題となる。
現実の具体的な生活のあらゆる出来事から教訓を引き出すことが出来るように、真の芸術からも教訓を引き出し、推論を行い得ることは疑いを容れない。これは特に古い時代に行われたことで、例えばダンテの作品に付せられた序文が示す通りである。それらには常に各歌曲の寓意、即ち一般的教訓が何であるかが書いてある。かくしてこのような芸術品からはある教訓が引き出されていたのである。このことは確かに可能であるが、しかし抽象的な教訓が形態を支配し、芸術形式を芸術家の拵(こしら)えものと目されるような装飾として身に着けているにすぎないか、あるいは内容が全く具象的な形式と一体になっていて、その本質がこの統一にあるかという点に相違がある。そこで作品の感覚的側面が付属物として抽象的な道徳上の命題に奉仕しているということが、とくに非難の的となったのである。
これについてはあまり多くを言う必要がない。が、他面において我々はここに存する対立をもっと精しく考察しなければならない。それを手掛かりにして我々は最後に芸術の本当の概念に近づき得るであろう。それはこの概念への通路になるのである。そこで問題は次の点にある。芸術品においては道徳的な教えが最高の内容であるが、教訓として言い表されてはいないという風に、潜在的であるべきか、あるいはそれが正式に言い現わされるという風に、顕在的であるべきかという点である。即ち第一の場合には、芸術品は道徳的目的を潜在的に持つべきであって、道徳的なものが最高の内容ではあるが、しかし顕わに開陳されず、教訓や法則や命令として呈示されずにいるべきだと言うことになる。具体的な表現から、ある出来事の表現から善き道徳が引き出されると言うことは、一般にこれを容認することが出来る。が、潜在的な道徳に関しては、そこに含蓄されたものを展開し、摘出して見ることが問題になるから、全ては解釈に掛かって来る。しかしこのように作品を観察するのでは多くの成果は得られない。一としてそこからある道徳を引き出すことが出来ないようなものはないからだ。道徳的であり得るためには、罪や悪をも知らなければならず、善を認識する場合には、それと違ったものを知らなければならないという理由で、破倫無慚の描写をも弁護し、不道徳極まる作品をも容赦することが行われており、かくして不道徳な事柄の表現が正当づけられている。実際、美貌の犯罪者マグダラのマリアの表現は人々を誘うて懺悔に導くよりもむしろ罪業に至らしめたけれども、懺悔のためには罪を犯すことも必要だと言われている。懺悔をすることは麗しいことだが、しかしそのためには罪を犯していなければならないと言うのである。かくて道徳性の要求はあまりに一般的であり、あまりに不明確である。同様の要求はこれを歴史にも課することが出来る。人生の出来事を扱う全ての表現は、そこからある道徳が引き出されるものだからである。
第二の場合はこれと事情を異にし、道徳が顕在的に芸術品の内に表現されねばならず、一定の教訓、明瞭な諸法則、「物語は教える」ということが作品そのものに現れていなければならないと言われる。イソップ物語の場合はそうである。それは一つの全体をなしている。ある道徳をそこから引き出したり、それに寓したりすること、「寓話はしかじかのことを教示する」ということは、後になって初めて行われたことで、往々は甚だ見当違いでもある。この寓話はそれ自体において一つの教えなのである。
仔細に見れば、この道徳的目的に関する見解によって要求されているのは、法則の立場である。我々はこれをさらに立ち入って考察しなければならない。人生においては人倫に適っているということが一般に真理なのだから、芸術は必然的にこの形式を採らねばならないと言われている。人倫的形式とは、意志の法則と良心における自由の法則が厳存しているということ、そうしてこの法則は普遍的な、絶対的な法則だと言うことを意味する。そこには一方に法則の形式があり、他方に自然の性向や感情や情欲があるのであって、道徳的な立場は、人間がこの法則を知り、それに従って激情と闘い、それを克服するということ、人間がその義務を心得、行為に際してそれを念頭におき、それに従って行動することを決意し、全ての利己的な関心に打ち克つということにある。
道徳的な人間は、この考えに従えば、義務や法則の意識を有し、この普遍的なものに従って自己を規定し、それを自己の格率とする。彼は義務のために義務を果たし、彼にとってその行動の規定根拠である格率や一般的法則のために義務を果たすことを決意する。この法則や、義務のための義務は、かくして普遍的な、抽象的なものであり、自然や自然的感情に、本能的傾向や自然的意志や心情にその対立物を有する。人間は正義と義務が何であるかについての意識を有し、そのなすところのものを、洞察と確信を以てなすのである。この主体は選択を行うものであって、悪を選ぶことも出来しょうし、善を選ぶことも出来ようが、善を選んで自分の本能的傾向や主観的関心に対する善の力を発揮させる。この道徳的見地によって全く普遍的な意志と特殊な、自然的な意志との対立が全般的に設定され、そうしてこの対立は牢固たるものなので、道徳的行為は自然的意志に対する闘争にのみ存することになり、道徳性は本質上、自然の性情に対する闘争としてのみ存在し、また自然の性情に対する勝利がそれによって勝ち得られるという点にのみ存することになる。かくしてまずこの対立が道徳的立場から生ずるのであるが、しかしそれはこのように局限された意味にとるべきではなくて、全く包括的に、普遍的に解すべきものである。法則や命令は、通常の生活において一般に概念と呼ばれる抽象的・悟性的なものであり、心情や自然一般の具体的充実相に対立する抽象的なものであると解せねばならない。この対立は人間と人間精神においてのみ真実な二様の世界として現れる。二様の世界とは、一つは即自かつ対自的に存在する規定の真実永遠な世界であり、他方は自然や自然的傾向、感情や衝動や主観的関心の世界である。この対立が人間においては強度に達している限り、人間は、一方に自由や理念、他方に心情や感情や困窮や桎梏があるという無限の矛盾の内に存在する。人間は一方では卑俗な現実の内に生き、人間における自由の純粋な思想に反して物質的感性的な諸目的や、現世的な時間性の内に生きており、他方ではそれを超越して自由の国、永遠に即自かつ対自的に存在する理念の国に参入し、世界からその生々しい現実の衣を剥ぎ取って、それを思想によって抽象化されたものに解体し、かくして思想の国に身を持し、この方面から自分の意志に対しても見識に対しても普遍的な目的や規定を与える。精神はこの矛盾の内に存在し、右往左往するのである。この矛盾は義務と心情、自由と必然というような様々な形式を持つものである。自由は、人間が自分の思想や意志にのみ従い、ひたすら自分の目的の実現を追究するという点にあり、他方、必然は、人間が自ずから自然や環境やまた人間の心情の必然によって規定されているということにある。しかし自由もまた法則的である。かくて自由の法則と必然の法則とがあり、普遍と特殊とが対立することになる。特殊は抽象的普遍の内に含まれてはいるが、これによって規定されてはいないからである。特殊は普遍に相応したりしなかったりするそれ自身の規定を有する。さらにここで問題になる対立は抽象と具体との対立である。かくして思想と現実とが対立し、冷ややかな抽象化が生動性に、主観的生動性が冷ややかな概念に対立し、理論とそれに対立する経験とがある。かくして我々が道徳的見地なるものを観察すると、それは本質上それ自身に対立を含み、精神と肉体との矛盾を含んでいるが、しかしそれはこの点に限られるのではなくて、我々の知るところでは、さらに広範な、普遍的なものである。
これらの対立は奇警な反省や煩瑣な哲学上の見解によって案出されたものではない。それは近代の教養によって初めて極度に尖鋭化され、甚だしい矛盾の極に達したにしても、以前から様々な形で人間の意識を捉え、不安にしていたものである。精神的教養、道徳的悟性が人間の内にこの対立を生ぜしめるのであって、その結果、人間は相矛盾する二つの世界に棲息せねばならないことになった。かくしてまた意識はこの矛盾の内に右往左往し、両面の間に反側輾転して、いずれの側にも自分にとって満足を見出すことが出来ない。さてしかし近代的教養とその悟性にとっては、このような生および意識の分裂と共に、このような矛盾を解消すべきだという要求が存在する。けれども悟性はこれらの堅固な対立から離脱することが出来ない。矛盾の解消はそれ故に意識にとって単なる当為であるに止まり、現前の存在と現実はいたずらに宥和を求めてこれを見出すことなき交互反転の不安の内に動揺するのみ。そこでこのように解消の単なる当為と要請の域を出ない全面的徹底的な対立が、果たして即自かつ対自的に真なるものであり、一般に最高の究極目的であるかどうかという問題が起こって来る。
人間の関心はこの対立を解消することにあり、その相異なった両項を調和させる高次の原理を求めて宥和を実現しようとすることにある。近代においてはこの対立が特別に強く意識されるに到り、人間が常に多種多様な様相で心を労するところとなっている。思考がそれを呼び起こし、悟性は汝しかすべしという要求を現実に対抗せしめてこの対立を固執するものである。この対立は人間を不安ならしめ、普段の動揺の内に投ずる。かくて人間は対立が人間の精神にとって解消されることを関心事とする。即ち相異なった両項の対立を解消し、その間に調和をもたらすべき場所なりいっそう深い原理なりを求めて、宥和を実現しようとすることが、人間の関心事なのである。
哲学にとって主なる課題は、我々が一般的に規定し呈示したような諸形式における対立を止揚することに在り、克服すべからざる対立のように見えるものが、実はさほど堅固な、克服すべからざるものではなくて、対立の各側面の真相は、どちらもそれ自身だけでは真実ならぬものであるということ、そうして両側面の真相はただその和解と統一と調和であるということを示すにある。一方に自由があり、他方に必然がある。自由は精神の本質的属性であり、他方、必然は自然的意志の法則である。悟性は両者を矛盾のままにして置き、自由はそれ自身、それに対抗するものと闘争する点にのみ存する。さてしかし人間にはこの対立は解消されるものだという信念がある。哲学はこのことの真相を示さねばならない。即ち矛盾が存在しはするが、それは同時にまたそのままで永遠に、即自かつ対自的に解消されているのであり、実を言えば、矛盾が解消され得るとか、未来において初めて解消されるべきだと言うに止まらず、即自かつ対自的にすでに解消され、宥和されているのであって、ただ哲学において初めてそれが解消されるものだという真相がわかる。かくて真理は解消された対立、宥和された矛盾にある。対立が永遠に解消されていることを示すのは哲学である。実に哲学によって初めてそれが解消されるものだという真相がわかるのである。
これまで述べて来たところはより多く認識方法に関することであったが、我々がこれから語ろうとするのは、芸術の内容に関する諸規定により多く関係することである。この方面については従来多くの相異なった観念が行われているのを見逃せない。
その第一は、芸術の権能は自然を模倣することに限られ、内外いずれにせよ、一般に自然のままのものを模する以上には出ないという観念である。芸術が自然を模倣するというのは、古くから言われていることで、この観念はすでにアリストテレスに現れている。そして反省の初期段階においては結構このような観念で満足することも出来る。そこには常に、しかるべき理由によって是認され、それ自身理念の一契機と見られ、他の諸契機と同様に理念の発展に参与するものが含まれている。
一体、人間はいかなる目的のために自然を模倣するのか。自分の力を試し、技量を示し、自分が自然と同じように見えるものを造り出したということについての悦びを味わうためである。自分の所産が後世にまで保存されるとか、あるいは他の地域にも知られるというような他の諸目的は、この場合問題ではない。何よりもまず人間は一つの芸をなし、自分の腕を試し、技量を示すことを悦ぶのである。即ち自分の労作によって自然を模倣し、幸福の施与者にして造物主である神を模倣したことを悦び、その所産に悦びを観ずるのである。しかしこの模倣の悦びと模倣の技量に対する讃歌はそれ自体、模造が自然の原像に似ていればいるほど、却っていよいよ冷却し、あるいは逆転して嫌悪の情となる。奇警な言い方に従えば、嘔吐を催させるほど似ている肖像があるものだ。一般に模倣から得られる喜びはごく狭い範囲に限られた悦びである。自然の模倣においては内容や素材が人間に与えられているのだから。人間は何か自分のものを造り出し、自分に固有のもの、自分の所有するもの、自分が案出したものを造り出すことに、いっそう大きな喜びを感じなければなるまい。一切の技術的工作物、例えば船や、とくに科学的な所産、その他およそ人間に全く本来的に属するものは、人間自身の所産であって模倣ではないからこそ、いっそう多くの悦びを与えるのでなければならない。いかに劣悪な技量的工作物も人間にとっては模倣より高級なものである。人間は鎚や釘を発明したことを誇りとすることが出来る。このような発明は人間の独創にかかり、模倣の結果ではないからである。人間は精神そのものに属する制作においてこそ、自然を模倣する場合よりもよくその技量を示すことが出来る。いかにも人間は自然と闘争することも出来る。この意味において自然の生産は精神のそれよりも優れたものであるかのように言われる。我々がすでに最初に述べておいたように、自然の生産は単に人間的な所産よりも高級だと見なされている。それは神の所産とよばれる。しかし神は精神であり、自然においてよりも精神において遥かによく認識されるものである。人間が自然と競争するならば、これはもう無価値な芸にすぎない。小さな穴を通して豆を投げることに熟練した人があって、アレクサンドロスにその技を演じて見せたが、王はかれに一二椀の豆を与えさせた。いかにも至当なことだ。そのような技はものの役に立たぬのみならず、それ自体価値内容のない手練でしかなかったからだ。自然の模倣における巧みさについても同じことが言える。単なる模倣によって自然と競争しようとしても、芸術は到底これに適わないであろう。それは巨象のしりえに這いながらこれに追いつこうとする虫けらの観を呈するものだ、と。またナイチンゲール(夜鶯)の声を模倣することの出来る人間があるが、それが人間であることに気づくや否や、興味索然としてしまうものだ、とカントは言っている。我々が夜鶯の歌声を聴いて悦ぶのは、もちろん、ある動物は無意識のうちに自ずから人間の感情の表出に類似する音を発するということを看取するからである。してみればこの場合我々を悦ばせるのは自然のままのものに見られる人間的なものの模倣なのである。
世人の意見によると、芸術の目的は自然の模倣であり、従って芸術はすでに存在しているものの忠実な模倣を提供すべきものであるが、かくて芸術の目的は実物を想起させることだと言うことになろう。しかしこのような目的を課せられては芸術は自由な、美なる芸術ではありえない。勿論、自然がその諸形態を産出するのと同様に、人間も仮象を作り出そうとすることは、人間の一つの関心事であることを失わない。しかし人間が表現されるべきものの客観的価値を顧みることなしにその技量を示そうとすることは、全く主観的な関心にすぎないであろう。人間の所産は内容上また精神的なものでなければならず、このような内容にこそ価値があるのでなくてはならない。自然模倣においては人間は自然的なものの域を出でないが、内容は精神的なものであるべきである。いかにも芸術における自然の模倣は価値のある、極めて重要なことである。画家にとっては、色彩の相互関係や、光の効果や反射を捉えて、紙やカンバスに移すことは、多大の研究を要する。このような模倣によって表現されるものは、単に感覚的な、自然のままのものである。最上の芸術といえども、本質上、自然のものに遠く及ばず、いかに巧妙を極めても、人間がこのような表現においてはむしろ拙劣なものだと言うことが解るだけだと言わなければならない。人間の特徴を描き止めることを目的とする肖像画においては、確かに類似性が重要なことではあるが、しかしそれはいわゆる完全には正確でないものである。そこでは常に様々なものが省略されているので、表現は自然の所産のように完全なものとは見えない。ここに芸術の不完全性が見られるのであって、そのために表現は直接に実存するがままの自然の対象よりは常に抽象的なものであるに止まる。
最も抽象的なものは影絵や線画である。色彩のある場合にも、自然の事物を規準にしてみるならば、常に、何かあるものが省略されているということ、即ち表現や模倣が自然の所産と同様には行われていないと言うことがわかるであろう。このような模倣がさらに一段と不完全な点は精神性に欠けていることである。この種の線画が人間によって制作されるに当たっては、精神性を持つべきである。この表現は、自然の人間も、厳密な意味における直接の外観においては、これを欠如している。そこには自然的存在そのもの、ないしはその無力さにのみ本来固有の欠陥があるのだ。しかし精神的なものの表現こそ常に一切を支配するものであらねばならない。感覚的な諸形態を描き止めることを目的とするにおいては、自然の事物に規定根拠をおき、これに則ること、即ち模倣を必要とすることは、至極当然ではあるが、かくては単に抽象的なものしか得られないのである。模倣は自然らしさを主眼とする者であるが、しかしその所産にじっさい欠けているものは、軽少なものではなくてより高いもの、精神的なものであり、しかも本来は精神的なもののためにこそ、自然を模倣するという意図を生ずるのである。
それだから我々がここでまず第一に自然のものの模倣ということに反対するのは、自然らしさのみが表現の規則や最高法則であってはならないというだけの意味に他ならない。さらに芸術品の内容も、その形態化という主要な一面において、感覚界や、直接の、与えられた自然あるいは人生諸般の関係から摂取されるように見えるということは、我々が既に述べたところである。一般に内容は感覚的なものから摂取されるという見地に止まるならば、芸術品は自然の模倣であるべきだと考えられやすいわけである。従ってこのことが芸術品の唯一の規定であるかのように思われもしよう。
芸術がその諸形態を自然から摂取するということは、これを承認しなければならない。このことの理由は後になってわかるであろう。とにかく芸術品の内容はその本来の性質上、それ自身としては精神的なものでありながら、自然的なものの形態において表現される他ないものである。しかし作品は自然の模倣であるというような、抽象的な言い方をすると、芸術家の活動と技量は模倣に局限されることになりかねない。かくて模倣すること自体が目的視されると、客観的な美そのものは消滅してしまう。この見地ではもはや模写されるべきものがどのような性質のものであるかは問題にならず、ただそれが正しく模倣されることが問題なのであるからだ。かくて美の対象と内容は全くどうでもよいものと見なされることになる。
芸術の目的はそれだからやはり現存の事物の単に形式的な模倣とは別の点に存しなければならない。このような模倣はいわゆる単に技術的な芸を現わし得るのみで、本来の芸術品を作り出すことは出来ない。
いかにも一般に自然性や現実性というものが芸術品にとって、いな理想にとっても、一つの全く必須欠くべからざる契機である。理想は曖昧模糊とした一般的抽象的なものではない。が、模倣は、これと反対に自然の事物をそのあるがままに、その外面的実存に従って、直接に表現することのみを目的とし、これによっては実物を想起しようとする要求が満足させられるにすぎない。しかし我々は生全体の直接的現象を想起することの満足を求めるのみではない。心情を満足させようという要求が直ちに起こって来るこである。
<心情の誘発>
かくして心情を満足させることが芸術の究極目的であると言われ、芸術はこの効果を追究すべきであり、また実現し得ると言われる。我々はまずこの説について語らねばならない。我々が芸術の究極目的をこの方面から考察し、何が芸術の効果として生ずべきか、また生じ得るか、また実際に生ずるかを考察するならば、芸術の内容は心情と精神の全内容であり、芸術はすでに心情の内に存する本質的なものや偉大なものや高貴なものや尊敬すべきものや真実なものを観者の心に啓示するものだと言うことが認められるに違いない。芸術は一方では実生活の経験を我々に得させ、我々を自分の状態そのものによっては経験されない境地におき、その表現する人物の行為の仕方や境遇を我々に経験させるのであり、我々はそれらの人物に関与することによって、同時に我々の感情内容をいっそう深く真底から感ずることが出来るようにされるのである。総じて芸術の目的は、一般に人間の精神の内に存するもの、人間がその精神の内に有する真実なもの、人間の胸を奥底から揺り起こすもの、人間精神の内に生起するものを直観的に現すことにある。実に芸術はこのような内容を表現するものであり、しかもこれを仮象によって表現するのであるが、仮象はこの場合より高きものの意識を我々の内に喚起するという目的に奉仕するのであるから、それ自体としてはどうでもよいものである。芸術はこの目的を有する限り、人間的なものについて人間を教え、眠れる感情を呼び覚まし、精神の真の関心事についての表象を与える。我々はかくして芸術が人間の胸裏のあらゆる感情をその深さや豊かさや多様さにおいて動かすのを見、人間の内部に生起する限りのものが我々の内に揺り起こされて経験されるのを見る。芸術は「人間のこと一として我に無縁なりとは思わず」という名句の意味するところを我々に体験せしめるのである。
かくしていろいろの感情や性向や情欲が芸術の内容によって揺り起こされる。芸術はこの効果と直観と表象によって生ぜしめるのであって、その場合内容がどこから来ているか、即ち現実の状況や感情から発しているか、或いは単に芸術が我々に与える処の表象から発しているかは、総じて問うところではない。それは芸術の目的から見てどちらでもよいのである。
さてこの見解についてまず指摘すべき点は、この芸術の心情に対する効果は内容のあらゆる差別に関わりなく発揮されるということである。芸術は眠れる感情を呼び覚まし、あらゆる種類の情欲や性向を我々の内に誘発することが出来る。それは我々にあらゆる不幸と災禍を経験させる力があるし、悪や罪業をも我々の眼前に現ぜしめることが出来る。芸術によって我々は全ての凄惨なものに参与し、それに対する恐怖を感ずる。全ての戦慄すべきものに与り、また与ろうとすることが出来るし、それを共に体験し、それを恐れ、それによって激しい感動を経験することが出来る。芸術は我々に高貴真実なものの輝かしさを感じさせて、感激を起こさせることが出来るが、また同様に我々をごく官能的な感情や単なる快感や柔弱な情欲に沈湎せしめ、快楽に耽溺せしめ、放縦な想像力に身を委ねさせ、かくして観念の無為な戯れに沈湎せしめることも出来る。この人間的な活動には、卑しいものと気高いもの、善いものと悪いものが無差別に含まれている。またこれに関連して芸術は一種の霊感によって至高の内容を感得させることも出来れば、我々を委縮衰弱せしめて官能の一面に堕せしめることも出来る。かくして相反する内容の間には何の差別も存せぬことになる。芸術は我々を高めることも出来れば、ごく利己的な快感に耽って衰弱させることも出来るし、我々を誘惑して官能的なものに堕せしめることもあてば、我々を力づけて最高の精神的なものに達せしめることもある。かくして芸術の力は、内容のいかんを問わない形式的なものとして、これを規定する他ないことになる。そうして実際、芸術はあらゆる素材、一切の内容を持って感情に訴えるという、形式的な一面を有する。これはいわば芸術の詭弁的態度である。こじつけの議論があらゆるものに対して根拠を見つけ、全てのつまらぬものに説明をつけ、一切の行為の仕方を正当化し得るのと同様に、芸術がいかなる内容をもその性質に構わずに取り入れることは、これをその詭弁的態度と呼ぶことが出来る。この点からいえば、芸術の効果ははなはだ形式的なものとなり、人間はその内にありとあらゆる力を発露せしめ、実現させるべきだという規定と同様に形式的であると言えよう。
この点からして直ちに我々は、芸術の真実な目的はいかに規定されるべきかという方向について、必須の区別を立てざるを得ない。その目的は実体的な目的であって、単にありとあらゆる激情を呼び起こすという目的ではないのである。
かくして即自かつ対自的に存在する、本質的なものを包括すべき、いっそう高い目的を探求することが問題となる。我々を感動させるものは、極めて多様な内容のものであり、従って芸術はその喚起しようとするものに区別をつけるべきだからである。かくて我々は芸術をいっそう高い目的に関係づけ、またその目的を規定しようとするのである。
この目的は一切の芸術品において達成され得る形式的なものとして規定され得る。この形式的目的は一般に粗野なものを和らげることだと言うことになろう。そうして文化の初期段階にある民族においては勿論この緩和が芸術に帰属せしめられる一つの主要目的である。これよりもさらに高い目的は道徳的な陶冶だということになるのであり、これが久しく最高の目的だと思われていた。
そこで問題は次の点にある。いかにして芸術は粗野なものを止揚するというこの独特の作用を発揮し得るか、いかにして芸術は衝動や性向や激情の陶冶の可能性を有するか。我々はこの芸術の眼前である俗情の緩和ということを簡単に検討して見よう。
粗野ということは衝動の直接の我執に存するのであり、欲望がその満足を目指し、しかもただひたすらにそれのみを目指すことにある。この満足は対象を使用してこれが欲望を満たすための手段となるようにすることを含んでいる。欲望は粗野であればあるほど、個別的な、偏頗(へんぱ)なものとして人間全体を領し、普遍的なものとしての人間がなおこの限定された状態から離脱していないことになる。私が私の激情は私自身よりも強力だというのなら、私は私の抽象的自我を激情から区別してはいるが、これは一般的な、全く形式的な区別であって、自我が激情に比べてはまるで問題にならないと言う意味にすぎない。かくして激情の粗野性は、私の普遍的自我が偏頗な、局限された状態に帰一して、私は偏頗な意志の他には何の意志も持たないと言うことに存する。全人とはその全ての意志をこの特殊なものに帰する我執人の謂いであることになる。
ここに激情性の粗野さや力や強さがある。が、それは、芸術が激情そのものや、衝動や、人間のあるがままの相を、人間の眼前に呈示する限りにおいて、芸術によって緩和される。たとえ芸術が単に激情の図絵を繰り広げることに止まるにせよ、このことは、芸術が激情に阿(おもね)る場合も、人間の単に存在するがままの相を人間にとっての対象と化し、それを人間自ら意識させるために行われるのである。すでにこの点に緩和の力がある。人間は今やその衝動を、彼に対して、彼の外に存在し、彼が対立するところのものとして観察し、すでにそれに囚われない自由を獲得し始めるからである。かくして芸術は人を解放する効果を持っている。激情は表象の域に移され、対象化されることによって既に解消される。感情の客観化は、それによって強烈な感情が内部から排出され、我々自身から隔離されるという効果を伴うのである。感情は表象に移されることによって、すでにこの心裡の集中から脱却し、心はすでに表象の自由性を以てそれを超越するに到るのである。苦痛の感情については一般に知られていることだが、人間が重大な喪失の悲しみを和らげるために生来有するところの捷径(しょうけい)は、慟哭を発することである。泣くことにはすでに慰めが含まれているのだ。苦痛の軽減のためにはさらに進んで友人たちにそれを語り、あるいは詩を作りなどとするようにもなる。かくして全く苦痛に沈湎し集中している人間が、この単に内面的な苦痛を外面化し得るに到れば、これによって心が軽くなり、苦痛を言葉や歌に表現したり音や形に現したりすれば、なおいっそう心が軽くなる。こうして事態はいよいよ好転し、苦痛はすでに感情の客観化によって大いに軽減される。この客観化こそ、強烈な、全く心中に凝集した苦痛の感情が、我々自身から、我々の個人的自我から排出されて、対象的なものと化することを含んでいるのである。それだから芸術家も不幸に襲われたとき、苦痛の感情の強さをそれの表現によって和らげ弱めることがよくあるものである。一般にも弔問ということは普通のしきたりであった。それは甚だ煩わしいことであったが、不幸に関与し、それを反復し、客観化することは、実際、当人の苦痛を軽減することに寄与するところがあった。人が死亡した際、各方面から悔やみを述べることは、かくして古来の良習であった。不幸についてたびたび弔問客と語り交わすと、当人にもその苦痛が外在的なものとなるからである。いわば苦痛がその人の前に据え置かれるので、彼はこれについて反省せざるを得なくなり、かくしてその重圧を軽減することが出来る。古人が泣き女を使ったのは、苦痛を客観化しようとする要求に起因するものであった。さらに自分の激情について詩を作ることが出来る人にあっては、激情ももはやそう危険ではない。前述のように、内面の感情はその対象化によって放出され、人間に対して外在的に対立するからである。
人の心は詩や歌に吐露されると、その内に凝集していた感情から脱却する。先に心の鬱積していた内容は、その表象化によって排出され、その集中が解消され、心情はそれを超越した自由の境に達する。かくして新たに開ける視野においては、人は慰安を感じ、あるいはどうしても静かに苦痛に耐えねばならないことを達観するようになる。芸術の効果として生ずる感情や情欲の形式的陶冶は、このような関係に基づくのである。
<道徳性の確立>
このような心の昂揚はしかし心裡に集中した感情の形式的な解消に止まるべきでなく、激情を抑える力として現れるような一定の内容を持つに到らねばならない。即ち芸術の目的は、激情を誘発すると同時に、またそれを純化することであり、従ってその誘発がそれ自身目的なのではないという風に言い現わされるのであるが、「純化」ということを明確な言葉に置き換えるならば、芸術の目的とされるものは道徳的なものであると言うことが出来る。激情の表現は確かに直接に激情から心を脱却せしめて純化するという効果をさえ伴うということは、我々がすでに見たところである。激情の表現は実際、激情や粗野な衝動を制御するという面を持っている。尤も他面では、人間は自然と一体になっているべきだと言うような説を聞くことも多いが、しかしこの直接の統一こそ粗野の状態である。芸術こそは人間を自然との統一において表現し、しかもまさにこれによって人間を自然から超脱させるものである。芸術の諸対象に関係する人は純粋に観照的な態度に終始し、それ故に、たとえ最初はただ表現一般に着目するに過ぎないとしても、更に進んではまた表現の意味に着目し、それを他の内容と比較し、自由に普遍的な観察とその諸観点を取り入れることになる。かくして芸術は道徳的意志を強め、これに活力を与えて、心情そのものが激情を抑える力を得るようにすべきである。この点から見て、芸術は道徳的目的を有すべきであり、道徳的内容が芸術品に含まれているべきだと言われる。芸術は激情や自然の性向などを服従させるようないっそう高いものを包含すべきであり、道徳的活動を強めて、それによって心情や精神が激情の力に対抗する力を持つようにすべきだと言うのである。
芸術が道徳的陶冶を究極目的とするというこの観点は、かくして激情の緩和という段階を超えて、激情の支配から心を開放し純化することに達する。それによってはっきりして来ることは、芸術の表現はその価値の有無を測定すべき標準を必要とするということである。この標準はまさに激情の純粋な分子を不純な分子から区別する効果を有するものである。この効果のためには、この純化する力を現わすことの出来るような内容が必要である。そうしてこのような効果を生み出すことが芸術の実質的な目的をなすべきである限り、激情は純化力のある内容をその普遍性と本質性において我々に意識させるべきであろう。
近時この見地については多くの論争が行われ、このような目的は芸術に値しないと主張されている。いやしくも芸術において究極目的を論ずるとすれば、これは、すでに述べたように、即自かつ対自的に存在するものとして規定されねばならない。ところで単なる快適感は偶然の域に属するものであって芸術の目的ではありえない。これに反して宗教や人倫や道徳に関することはいかにも即自かつ対自的に存在する対象であって、芸術がこのような規定をそれ自身に有すれば有するほど、いっそう高級になることは言うまでもない。それらの規定は絶対的な基準であって、これをこのような対象の概念に従って芸術の形式で表すことが、芸術の内容である。この内容を表現するものとして芸術は諸民族の教師であった。この方面から芸術の目的を言い現わせば、専ら芸術は教訓をあたえるべきもの、「物語は教える」ということにあり、従って芸術品が我々主観に対して発揮しうる効用にあるのでなければならない。この点から見ると、ホラティウスの格言「詩人は益し、かつ楽しますことを欲す」は、後になって無際限にまで敷衍され、希釈され、甚だしきに到っては最も浅薄な芸術観になったものを、数語の内に集約している。ところでこのような教訓に関して直ちに問題となるのは、この芸術品の内容のあり方は直接的か間接的か、言い換えれば顕在的か潜在的かのいずれであるべきかと言うことである。
さてしかし芸術はこのような内容を有すると認められるとしても、果たしてこれを表現することを究極目的とするべきかどうかが、論争の的となった。この抗議はとりわけ表現の仕方に関係していた。というのは、もし道徳の教えが芸術によって抽象的命題や反省として表明されるか、さもなくばこの表現の仕方が芸術品の内に優勢を占めていて、感覚的要素はただ付属物としてそれに付随し、抽象的内容は形態を包被としてのみ有し、かくて形態が単にそれを被うもののようにしか見えないことになっているならば、全く芸術品の本性は歪められてしまうからである。芸術品は形象的であり得るためには、その内容が個性的で具体的なものでなければならない。内容がすでにその本性において形象的でないならば、形象的要素は単に付属物であるにすぎず、芸術内容は一方では抽象的なものであり、他方では単に仮象にすぎない外面的形象的装飾を要せずして自立自足するもので、このような装飾は内容と形式とが互いに合体していないために退屈感を呼ぶにすぎないのである。
さて芸術の道徳的善導への関係については、まず教訓の目的について言われるのと同じことが言われる。芸術がその原理において不道徳なこととその助長を意図とすべきでないことは、容易に認められる。しかし不道徳を表現の明確な目的にすることと、道徳的なことを表現の明確な目的にしないこととは別のことである。一切の真正な芸術品からは善き道徳を引き出すことが出来るけれども、その際には解釈のいかんが問題となり、従ってまたその道徳を引き出す人のいかんが問題となる。
現実の具体的な生活のあらゆる出来事から教訓を引き出すことが出来るように、真の芸術からも教訓を引き出し、推論を行い得ることは疑いを容れない。これは特に古い時代に行われたことで、例えばダンテの作品に付せられた序文が示す通りである。それらには常に各歌曲の寓意、即ち一般的教訓が何であるかが書いてある。かくしてこのような芸術品からはある教訓が引き出されていたのである。このことは確かに可能であるが、しかし抽象的な教訓が形態を支配し、芸術形式を芸術家の拵(こしら)えものと目されるような装飾として身に着けているにすぎないか、あるいは内容が全く具象的な形式と一体になっていて、その本質がこの統一にあるかという点に相違がある。そこで作品の感覚的側面が付属物として抽象的な道徳上の命題に奉仕しているということが、とくに非難の的となったのである。
これについてはあまり多くを言う必要がない。が、他面において我々はここに存する対立をもっと精しく考察しなければならない。それを手掛かりにして我々は最後に芸術の本当の概念に近づき得るであろう。それはこの概念への通路になるのである。そこで問題は次の点にある。芸術品においては道徳的な教えが最高の内容であるが、教訓として言い表されてはいないという風に、潜在的であるべきか、あるいはそれが正式に言い現わされるという風に、顕在的であるべきかという点である。即ち第一の場合には、芸術品は道徳的目的を潜在的に持つべきであって、道徳的なものが最高の内容ではあるが、しかし顕わに開陳されず、教訓や法則や命令として呈示されずにいるべきだと言うことになる。具体的な表現から、ある出来事の表現から善き道徳が引き出されると言うことは、一般にこれを容認することが出来る。が、潜在的な道徳に関しては、そこに含蓄されたものを展開し、摘出して見ることが問題になるから、全ては解釈に掛かって来る。しかしこのように作品を観察するのでは多くの成果は得られない。一としてそこからある道徳を引き出すことが出来ないようなものはないからだ。道徳的であり得るためには、罪や悪をも知らなければならず、善を認識する場合には、それと違ったものを知らなければならないという理由で、破倫無慚の描写をも弁護し、不道徳極まる作品をも容赦することが行われており、かくして不道徳な事柄の表現が正当づけられている。実際、美貌の犯罪者マグダラのマリアの表現は人々を誘うて懺悔に導くよりもむしろ罪業に至らしめたけれども、懺悔のためには罪を犯すことも必要だと言われている。懺悔をすることは麗しいことだが、しかしそのためには罪を犯していなければならないと言うのである。かくて道徳性の要求はあまりに一般的であり、あまりに不明確である。同様の要求はこれを歴史にも課することが出来る。人生の出来事を扱う全ての表現は、そこからある道徳が引き出されるものだからである。
第二の場合はこれと事情を異にし、道徳が顕在的に芸術品の内に表現されねばならず、一定の教訓、明瞭な諸法則、「物語は教える」ということが作品そのものに現れていなければならないと言われる。イソップ物語の場合はそうである。それは一つの全体をなしている。ある道徳をそこから引き出したり、それに寓したりすること、「寓話はしかじかのことを教示する」ということは、後になって初めて行われたことで、往々は甚だ見当違いでもある。この寓話はそれ自体において一つの教えなのである。
仔細に見れば、この道徳的目的に関する見解によって要求されているのは、法則の立場である。我々はこれをさらに立ち入って考察しなければならない。人生においては人倫に適っているということが一般に真理なのだから、芸術は必然的にこの形式を採らねばならないと言われている。人倫的形式とは、意志の法則と良心における自由の法則が厳存しているということ、そうしてこの法則は普遍的な、絶対的な法則だと言うことを意味する。そこには一方に法則の形式があり、他方に自然の性向や感情や情欲があるのであって、道徳的な立場は、人間がこの法則を知り、それに従って激情と闘い、それを克服するということ、人間がその義務を心得、行為に際してそれを念頭におき、それに従って行動することを決意し、全ての利己的な関心に打ち克つということにある。
道徳的な人間は、この考えに従えば、義務や法則の意識を有し、この普遍的なものに従って自己を規定し、それを自己の格率とする。彼は義務のために義務を果たし、彼にとってその行動の規定根拠である格率や一般的法則のために義務を果たすことを決意する。この法則や、義務のための義務は、かくして普遍的な、抽象的なものであり、自然や自然的感情に、本能的傾向や自然的意志や心情にその対立物を有する。人間は正義と義務が何であるかについての意識を有し、そのなすところのものを、洞察と確信を以てなすのである。この主体は選択を行うものであって、悪を選ぶことも出来しょうし、善を選ぶことも出来ようが、善を選んで自分の本能的傾向や主観的関心に対する善の力を発揮させる。この道徳的見地によって全く普遍的な意志と特殊な、自然的な意志との対立が全般的に設定され、そうしてこの対立は牢固たるものなので、道徳的行為は自然的意志に対する闘争にのみ存することになり、道徳性は本質上、自然の性情に対する闘争としてのみ存在し、また自然の性情に対する勝利がそれによって勝ち得られるという点にのみ存することになる。かくしてまずこの対立が道徳的立場から生ずるのであるが、しかしそれはこのように局限された意味にとるべきではなくて、全く包括的に、普遍的に解すべきものである。法則や命令は、通常の生活において一般に概念と呼ばれる抽象的・悟性的なものであり、心情や自然一般の具体的充実相に対立する抽象的なものであると解せねばならない。この対立は人間と人間精神においてのみ真実な二様の世界として現れる。二様の世界とは、一つは即自かつ対自的に存在する規定の真実永遠な世界であり、他方は自然や自然的傾向、感情や衝動や主観的関心の世界である。この対立が人間においては強度に達している限り、人間は、一方に自由や理念、他方に心情や感情や困窮や桎梏があるという無限の矛盾の内に存在する。人間は一方では卑俗な現実の内に生き、人間における自由の純粋な思想に反して物質的感性的な諸目的や、現世的な時間性の内に生きており、他方ではそれを超越して自由の国、永遠に即自かつ対自的に存在する理念の国に参入し、世界からその生々しい現実の衣を剥ぎ取って、それを思想によって抽象化されたものに解体し、かくして思想の国に身を持し、この方面から自分の意志に対しても見識に対しても普遍的な目的や規定を与える。精神はこの矛盾の内に存在し、右往左往するのである。この矛盾は義務と心情、自由と必然というような様々な形式を持つものである。自由は、人間が自分の思想や意志にのみ従い、ひたすら自分の目的の実現を追究するという点にあり、他方、必然は、人間が自ずから自然や環境やまた人間の心情の必然によって規定されているということにある。しかし自由もまた法則的である。かくて自由の法則と必然の法則とがあり、普遍と特殊とが対立することになる。特殊は抽象的普遍の内に含まれてはいるが、これによって規定されてはいないからである。特殊は普遍に相応したりしなかったりするそれ自身の規定を有する。さらにここで問題になる対立は抽象と具体との対立である。かくして思想と現実とが対立し、冷ややかな抽象化が生動性に、主観的生動性が冷ややかな概念に対立し、理論とそれに対立する経験とがある。かくして我々が道徳的見地なるものを観察すると、それは本質上それ自身に対立を含み、精神と肉体との矛盾を含んでいるが、しかしそれはこの点に限られるのではなくて、我々の知るところでは、さらに広範な、普遍的なものである。
これらの対立は奇警な反省や煩瑣な哲学上の見解によって案出されたものではない。それは近代の教養によって初めて極度に尖鋭化され、甚だしい矛盾の極に達したにしても、以前から様々な形で人間の意識を捉え、不安にしていたものである。精神的教養、道徳的悟性が人間の内にこの対立を生ぜしめるのであって、その結果、人間は相矛盾する二つの世界に棲息せねばならないことになった。かくしてまた意識はこの矛盾の内に右往左往し、両面の間に反側輾転して、いずれの側にも自分にとって満足を見出すことが出来ない。さてしかし近代的教養とその悟性にとっては、このような生および意識の分裂と共に、このような矛盾を解消すべきだという要求が存在する。けれども悟性はこれらの堅固な対立から離脱することが出来ない。矛盾の解消はそれ故に意識にとって単なる当為であるに止まり、現前の存在と現実はいたずらに宥和を求めてこれを見出すことなき交互反転の不安の内に動揺するのみ。そこでこのように解消の単なる当為と要請の域を出ない全面的徹底的な対立が、果たして即自かつ対自的に真なるものであり、一般に最高の究極目的であるかどうかという問題が起こって来る。
人間の関心はこの対立を解消することにあり、その相異なった両項を調和させる高次の原理を求めて宥和を実現しようとすることにある。近代においてはこの対立が特別に強く意識されるに到り、人間が常に多種多様な様相で心を労するところとなっている。思考がそれを呼び起こし、悟性は汝しかすべしという要求を現実に対抗せしめてこの対立を固執するものである。この対立は人間を不安ならしめ、普段の動揺の内に投ずる。かくて人間は対立が人間の精神にとって解消されることを関心事とする。即ち相異なった両項の対立を解消し、その間に調和をもたらすべき場所なりいっそう深い原理なりを求めて、宥和を実現しようとすることが、人間の関心事なのである。
哲学にとって主なる課題は、我々が一般的に規定し呈示したような諸形式における対立を止揚することに在り、克服すべからざる対立のように見えるものが、実はさほど堅固な、克服すべからざるものではなくて、対立の各側面の真相は、どちらもそれ自身だけでは真実ならぬものであるということ、そうして両側面の真相はただその和解と統一と調和であるということを示すにある。一方に自由があり、他方に必然がある。自由は精神の本質的属性であり、他方、必然は自然的意志の法則である。悟性は両者を矛盾のままにして置き、自由はそれ自身、それに対抗するものと闘争する点にのみ存する。さてしかし人間にはこの対立は解消されるものだという信念がある。哲学はこのことの真相を示さねばならない。即ち矛盾が存在しはするが、それは同時にまたそのままで永遠に、即自かつ対自的に解消されているのであり、実を言えば、矛盾が解消され得るとか、未来において初めて解消されるべきだと言うに止まらず、即自かつ対自的にすでに解消され、宥和されているのであって、ただ哲学において初めてそれが解消されるものだという真相がわかる。かくて真理は解消された対立、宥和された矛盾にある。対立が永遠に解消されていることを示すのは哲学である。実に哲学によって初めてそれが解消されるものだという真相がわかるのである。
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