表現の歴史性
フランス劇を支配しているのは、作家は観衆が歴史的素材の内に自分たちの時代を見るようにさせるべきだという要求であって、作家は歴史的忠実さを保持すべきだという他面の要求ではない。この二重の要求は、素材が我々の時代の教養と観衆に関してあるいは客観的に、あるいは主観的に扱われるべきことを求めるものだ、と言う風に表すことも出来る。これについてもっと明確に説明しようとするならば、ドイツ人が芸術品に要求するところがフランス人の場合と対照的に違うことを思い浮かべてみればよい。我々の見る所ではフランス人は、前述のように、その劇において全てをフランス化しようとしたきらいがあるが、我々は全てを、出来事が客観的にあった通りに、表現しようとし、我々を見知らぬ世界に適合させるために、孔々として努める。我々は素材を全面的に捉えることを帰するが、フランス人にとっては全ての非フランス的なものは享受の対象となり得ない。周知のように、彼らにとってはシェイクスピア劇の上演は我慢のならないものであり、我々がそこに見出す最も好ましいものも、全てフランス人の斥けるところとなる。ヴォルテールは「最上のものは水なり」というピンダロスの言葉を全く笑殺している。これに反して我々は一方では甚だ寛容であって、異風異態のものにも満足を見出し、それに適従するし、他方では全てが客観的に、忠実に表現されていることを要求する。『オレルアンの少女』における戴冠式の行列などはこの点から多くの研究を必要としたのである。ところがフランス人にあってはちょうどこれと反対のことが要求される。全ての外面的事項は挙措動作その他種々の演技などに関して自国の流儀で表現されている。
同様の原理によってフランスでは歴史を書くことも往々それ自身ないしその対象のために行われるのではなく、為政者に有益な教訓を与えるとか、施政の非を鳴らすとかいうような時事的関心のために行われる。同様に多くの戯曲は明らかにその全内容に渉って、あるいはただ折に触れて当代の時勢への諷示を含んでおり、また古い時代の劇の内に当代に関係のある箇所が出てくれば、ことさらこれを前面に引き出し、非情な熱意を以て採り上げるという風である。
ドイツでもこのような主観化がなされなかったわけではなく、しかもその仕方は顕著でさえある。ハンス・ザックスの有名な詩では父なる神、アダムとイヴ、カインとアベルがいわばドイツ化されている。いなニュルンベルク化されている。そこでは神がカインとアベルと共に児童用の教義問答を持って、彼らが十誡を覚えたかどうかを問いただし、ちょうど当時の学校の先生が初歩の主要教科書を教えるような仕方で彼らに教義を授ける。アベルは何でもよく覚えるが、カインは神をもなみする悪童のように振る舞い、例えば「汝窃盗すべし」などという風に、全てをさかさまにした答え方をする。このようにここでは素材が全く卑近な土俗の風に化せられている。また南ドイツの、カトリック教の行われている地方ではキリストの磔刑のような受難の劇がとくに復活祭の前週に演ぜられるが、これにはポンティウス・ピラトが現れていかにも傲慢な役人らしく振る舞い、兵卒どもは兵隊風に粗野な冗談を飛ばし、互いに煙草を勧め合い、キリストにも一つまみのかぎ煙草を渡し、彼がこれを断ると、彼の鼻にこれを押し込み、そのほか同様に野暮なことをいろいろとやって見せる。民衆は一方ではこのような表現を見て大いに笑い興じ、しかも他方では少しも敬虔な信仰心を失わない。宗教的帰依の念が自由無碍に生気に満ちた趣を得ていると同時に、また本来の宗教性を以て表現されている。このように事物を我々自身の見たままの形態に変え、ひっくり返してしまうことは、確かに正当なところがあるし、神やその他の古来の観念を馴れ馴れしく扱い、それらを、敬虔でありながらも、全く世俗の態に適合したものとしたハンス・ザックスの大胆さは、偉大なものに見えるかもしれない。しかしながら、対象に対してそれ自身の客観性の権利を少しも認めないのみならず、客観的なものを全く反対の形にしてしまうことは、我々の心意の側から対象に暴力を加える行為であり、無教養な精神の致すところであって、その結果は道化じみた矛盾となって現われる他ない。このような表現はしかし無趣味である。それは素材の固有の性質と、人物の考え方や話し方や行動の仕方を示す表現との間に対照的差異を生ぜしめ、その結果、宗教的なものを、また一般に本来の内容を道化じみた、たわけたものにしてしまう。宗教的なものの内包はこのような手法によって歪められ、それに不相応な扱いを受けると考えることが出来る。とにかく宗教的内容とその表現に仕方とが矛盾することになるのである。
このような表現に見られるのは、主観性が優勢を占めていることであり、そしてまたこの主観性なるものは我々が普通対象について持っている表象が、我々自身の教養または何か他の現代風の教養に合うようにひっくり返されていることに認められるであろう。かくてこの場合には、対象がそれにふさわしい形態を持っておらず、むしろ主として観照主観に対する関係に従って把握されていて、客観的な素材が主要事ではなくなっている限り、表現の客観性が欠けているうらみがあるであろう。しかしまた、このような場合とは反対に、対象の描写に主観的なところが欠けているうらみがあることも起こり得るであろう。「表現の客観性」という言葉は、事象そのものをそれ自体として表現し、主観の反省や特殊な感じ方が混入しないようにすることを意味するに他ならない。
この表現の客観性はまた内面性がそれを通じて暗示されるにすぎないと言うことをも含んでいる。このような表現では感情がただ外物を通じて現れるが、本来内面に集中しているので、あらわに発露するに到らず、パトスの雄弁な表現に達することが出来ない。この客観性は特に民謡に見出される。全ての民謡は全く単純なもので、心底からの深い感情を根底に蔵しながらも、これを明らかに言い現わし得ないのだということが窺われる。この段階ではまだ芸術そのものがその内容をあからさまに隈なく照らし出すまでに発達しておらず、外物を通じてそれを人の心に感知せしめることに満足しなければならないからである。この場合主体の心情は自己の内に凝結し圧縮されており、他人の心情にとって理解できるものとなるためには、全く有限な外部の事態や現象に自己を反映させるほかない。尤もこれらの外物は、ほんの僅かでも内面の心情や感懐を思わせる機縁を与えられさえすれば、内心に対する表出効果を持つようになるのである。
この客観性は民謡の本性にふさわしいところがある。種々様々な民謡は一種の憧憬的傾向を有し、外面的表徴の内に深秘な無言の憧憬や痛苦を暗示している。まだ文化的に発達していない人間の活動する場面が、この表現形式の本来の地盤なのである。しかし民謡は芸術の初段階の一つであり、芸術がまだ内面の真実の生を完全に顕現せしめるに到らず、これをただ不完全な表現の仕方で暗示し感知させるところの低次の段階である。ゲーテはこの種の優れた詩を作っており、例えば『牧人の歎きの歌』などは、全くこのような性格を持っている。痛苦と憧憬の内に打ちひしがれた心情が純然たる外面的形相に覆われて暗黙の内に示されるに止まり、しかも内面に集中した感情の深みが無言裡に響き渡っている。『魔王』やその他多くの詩にもこれと同じ調子が支配している。
次にまた全く蛮風と称すべき客観性もあり、この場合には境位が全く外面的に表現されている。その例として私はゲーテが激賞した『童児の魔笛』の中の一詩を想起する。それは鼓笛隊の一員が絞首刑に処せられるところを謳ったもので、「おお絞首台、汝高き家よ」という句で始まり、「さらば、隊長殿」などと言っている。ゲーテはこの詩をしごく珍重すべきものと称する。いかにも仔細な点でははなはだ結構なものでもある。が、その表現はおしなべて客観的であって、客観の内に主観が暗示されてはいるが、はっきり言い現わされてはいない。それは外へ向かって伸展することの出来ない心の中の感情として脈動しているにすぎない。それは、あくまで内面に集中しているだけで、本質的契機たるパトスを意識に上らせない、一種の鈍麻状態である。同様にゲーテの『我が編みし花束』という歌でも内面の感情が暗示されてはいるが、この内容が意識され表白されるに到らないので、感情は所詮、外へ進展し得ない。そういう広さを持たない心の内に閉じ込められている。これに反してシラーでは内面の豊かさが、パトスが陸離たる光彩をもって表白されている。彼は全霊を上げてパトスに没入しており、しかもその偉大な魂は事象の本質に食い入ってこれを体得すると同時に、事象の深みを自由自在に、いとも見事に、ゆたかな充実と諧調の内に表白する力を持っている。
表現の客観性への要求はまたロマン的なるものやいわゆるイロニーと関連するところがある。いかにも表現は客観的なるべきものであり、そうして確かにロマン派は好んで一連の外面的偶然事を描き出している。しかもこれらの事物は同時にある内面的な、外部に現れず、直接には言い現わらされない関連をなすものである。表現の客観性がイロニーと関連している限り、それは、外面的なものだけを挙示し、外面性を通じて観者または読者に、表現の内に含まれているあらゆる深みを察知させるという意味を持っているにすぎない。こうして詩人は内面の、至上のものを自分だけで保持しているわけであり、その表現したものの内には至高の、こよなく優れたものが含まれているのだが、それは言説すべからざるものなのだという。従って読者や観者は背後に潜んでいるものを察知しなければ、えてして徒に愚弄されることになりかねない。実際、単に外面的な事柄を寄せ集めたようなものがしばしば真の詩と見なされており、そういう考え方では、表現の内に多くのものをひそめていることや、読者をからかってそれが何であるかを推察させることが、芸術であり、偉大なことであると言うことになる。それで文芸の表現の内には、「詩の詩」などと称しながら、実は惨めな散文に他ならず、往々卑俗無意味かつ平板極まる散文にすぎないものが見られるのである。我々がすでに先に述べたことだが、フリードリッヒ・フォン・シュレーゲルは相当の期間、自分が詩人であると思い込んで、実は全く凡常な散文にすぎないような詩を発表していた。しかし芸術品においては何ものも背後に隠れたままになっていてはならず、はっきり言い現わされなければならない。もし詩人が何も言い現わさなければ、言うべきことが何もなかったのだということを証拠立てるに他ならない。詩人は実体ある内容を言い現わすべきであり、何か重大なものがまだ後に残っていると悟らせるだけであってはならない。尤もまた他の点から見ると、詩人が例えば恋愛の描写をしても、読者が自分自身の感情をそこに認めることが出来ないというので、表現が不充分だとされない場合もないではない。あるいは逆に読者が詩的描写から恋愛というものの観念を作り出し、自分がすっかりそれに染まってしまって、どんな恋情でも作品に表現されている通りにこれを感じない内は、本当に恋に落ちたとは思わないということもある。およそ主観的側面が充実していないと、主体はその主観性を客観的表現の内に見出すことが出来ないものである。
主客両面が統合されていてしかも作品が、それら両面の調和にも拘わらず、不満足で非芸術的で散文的であることもないではない。ゲーテの初期の作品にはこの種のものが多く、それらは主観の影を止めていると共に、客観的なものをも表現している点で、大いに人気を博していた。このような例は、「ハンスのおやじ、ブランデーをもう一杯!」云々という文句で始まる『ゲッツ』の冒頭に、すぐさま見られる。これは忠実な描写であり、主観の影をも止めている。第三幕のゲオルクとレルゼとの対話の場面でも同様である。ゲオルクは弾丸用の鉛を溶かすために、一つの導管を持ってくる。ここでは全てがいかにも活気に満ちており、その場の状況と騎士たちとの客観的な特徴がたくみに描かれている。それにもかかわらず、これらの表現は極めて散文的であり、極めて平凡で退屈である。さらに近くは、特にフリードリッヒ・シュレーゲルの時代には客観的表現が忠実な模倣に置き換えられている。模倣の忠実さが芸術品において特に人を悦ばせ、主要の観点たるべきものであって、我々主体の関心は専らこうした方面を認識することに終始すべきだというのである。このような要求がなされるとき、それは我々が高級な関心や特殊な事柄を作品に求めてはならないということを表明するものであり、内容に関してもこれが本来重大な、実体的なものであることは要求されない。根本原理としてはただ忠実な表現ということが掲げられるのである。この見解は、芸術品は、内容のいかんを問わず、ただその表現に本領を有するという、全く形式的な見地に止まっており、それ自体として価値ある内包をも主観的な心情の内容をも度外視している。しかしこれらはいずれも度外視出来ないものであり、芸術品の真の客観性は先に述べたところにあると見るべきである。芸術品は精神と意志との高級な関心を内容としなければならない。これらの関心が文芸の外形を通じて現れ、全ての活動を通じてその調子を響かせていなければならない。もし作品が実際にそのようになっており、実体的な関心を根底に蔵しているならば、それはそれ自体において客観的であると同時に、我々の主観性に語りかける。真実な関心こそ我々が親昵するところであり、この点で我々と芸術品との共鳴諧調が成り立つからである。芸術品はこの点で偉大であるとき、その効果を現わすのである。表現はただ内容を収める枠であり、ただ観照のために必要な、従って手段としての意味しか持たない非本質的なものである。これに対して精神的内容は真に威力ある、永続的なものである。作家が遠く過ぎ去った時代から素材を取って来るときも、その根拠は、そこに表現されて人を感動させる精神にあり人間にあるのであって、この効果は、客観的なものが同時に我々自身の主観に訴えることによって生ずる。表現上の外面事項は、我々の共感をさそう芸術的内包には及びもつかないものだから、我々はそれが邪魔にならないように折り合いを付けねばならない。我々に課せられる要求は、作品本来の内包と共鳴一致することである。この真実な内包を形作る面、芸術品の真正な面が作品の客観性の存するところであって、それは我々がたえずそこに眼を向けていることを要求するのである。そこには主観性が欠けているなどという苦情が起こるかもしれないが、この主観性なるものは実は日常の凡俗な散文性であろうし、これこそ度外視すべきものである。
歴史的事実の面はそれぞれの時代の条件によって制約され、局限された、特殊なものである。それは風習・法律・世態・情況の点で独特な、現代とは違ったものであり、従ってただ異様な感じのするものである。このようにまず以て異様な感じのするものはその限りにおいて我々の享受を妨げる。が、他面から見ると、我々は時代の一般的教養によって過去に関する多様な知識をも持っているので、往古の神話の歴史的内容や、歴史上の国家状態や風習の異様な趣に通暁し、これを会得していることが出来る。それで例えば古代の芸術と神話、また文学・祭式・慣習などについての知識は我々現代人の教養の出発点となっており、どんな子供でも既に学校でギリシアの神々や英雄や歴史上の人物のことを聞き知っている。かくしてギリシアの世界の諸形態や諸関心が想念の上で我々のものなっている限り、我々はそれらをまた想念の地盤の上で共に享受することが出来る。そしてインドやエジプトやスカンジナビアの神話についても同程度の親近感を得ることが出来ないという理由は見出されないはずである。のみならず、これらの民族の宗教的観念には神という普遍者も存している。しかしギリシアの神とかインドの神とか言うような、特殊の条件によって規定された神性は、もはや我々にとって真実性を持っていない。我々はもはやそれを信ぜず、ただ我々の想像の対象としてそれに満足を感じるだけである。そのためにそれらの神は我々の本来のより深い意識にとっては所詮疎遠なものであるに止まる。例えば歌劇で「おお御身ら神々よ」とか、「おおジュピターよ」とか、あるいは更に「おおイシスとオリシスよ」とか言ったりするほど、空々しく余所余所しいことはない。ましてその上に神託を取り入れるというような窮余の策が用いられたりすれば、なおさらのことである。しかも神託は、今日ではようやく悲劇において狂気や透視がその代わりに使われるようになったが、歌劇には殆どなくては済まされないものなのである。
我々は確かに過去の時代の情態を自分のものにすることが出来るが、それは教養に培われた世界の、有識者としてのことである。例えばギリシアの時代の事情と人物は多かれ少なかれ我々の知っていることである。ギリシアが教養の一般的出発点であるために、我々が学校の授業から学び知っている、一種の人為的な自然である。しかしこの知識はそれ自身としては単に修得された知識であって、我々はこのような異境の事物がドイツの文芸には不適当な材料であることを察知している。他の時代や民族の詩は研究によって初めて我々の関心を惹くものとなる他ない。だから芸術品が、そのために労力を払い、それについて研究した我々有識者にとって享受できるものだということと、それが民衆にとって享受できるものであるべきだということとは、別問題である。ところで我々もやはり民衆に属するのであり、芸術品は民衆にとって、様々な知識という迂遠な回り道を経て初めて享受できるものとなるのではなく、直接的効果を持ち、直接に理解できるものであらねばならない。これに反してギリシアの神話は、いかに多様であろうとも、また芸術と学問との復興以来、いかに繰り返し材料として利用されていようとも、近代の諸民族にあっては完全に身に付いたものになろうとせず、すでに造形美術においてさえも多かれ少なかれそうだが、なおいっそう詩においては、広く普及しているにも拘らず、所詮余所余所しいものであることを免れない。例えばアプロディテやゼウスやパラスについて詩を作ろうなどとは今日何人も思いつかないであろう。彫刻は今なおギリシアの神々を題材とせずにはやっていけないが、しかしまたそれ故にその表現は概ね通人や学者や狭い範囲の教養ある人士でなければ親しみ難く理解でにないものとなっている。これと同様の意味を持つことだが、ゲーテは、画家が、「ピロストラトス画」に感銘し、これを模写するようにと、それらの画を彼らにまざまざと語り伝えることに大いに務めたけれども、あまり功を奏さなかった。このような古代の対象はその古代的な現実相のままでは近代の公衆ならびに画家にとって所詮なじみ難いものなのである。これに反してゲーテ自身が遥かに深い精神を以て成功を収めているのは、彼の自由な内面生活の発展の後期においてもなおその『西東詩篇』によって東方の世界を我々の今日の詩に導入し、それを今日の観方に同化させている場合である。この同化に当たって彼は自分が西洋の人間でありドイツ人であることをしかと意識している。従って東方の状況や事情の特色に鑑みて終始東洋的な基調を響かせていながらも、同時に我々の今日の意識とその独自の個性にも充分顧慮を払っている。このように芸術家は確かにその素材を遠隔の地方や過去の時代や異民族から取って来ることを許されており、また大体においては神話や風習や制度の歴史的形態をそのまま保存してよいのであるが、同時にこれらの形態をただ自分の描写のための枠として利用し、これに反して内容はこれを自分の時代の本質的な、より深い意識に適応させなければならない。ゲーテの『イフィゲーニエ』は今日に到るまでこの点で最も驚嘆すべき例として厳存している。
歴史的素材について更に進んで言うならば、史実との正しい一致という意味での真理が問題となり得る。およそ歴史的事実はかつて存在したものであり、今日我々に切実な感動を与えることもあれば、そういかないこともある。我々がそれに切実な感動をあたえるのは、それが我々自身の属するところの国民に属する場合である。この場合それは我々に属するものだから我々を感動させるのである。ただしそれはあまり遠く離れた時代のことであってはならない。我々が我々の時代を連続的発展の結果として見、以前の歴史的事実もこの結果を生み出す前提の本質的な一環であると考えるとき、それは現代に通ずる、馴染みのあるものとなって来るのである。『ニーベルンゲンの歌』では歴史的事件がドイツの地盤で行われ、そこではブングント族とエッツェル王治下のフン族という二つの民族が登場するが、そこに支配している関心はもはや我々の関心と関連するところがない。北方神話についても事情は同様で、クロプシュトックはそれを復活させようとしたが、この試みは徒労に帰し、それは一しきりドイツに行われていただけである。クロプシュトックは詩におけるドイツ的なものを保つために、この神話を取り上げたのであるが、これも、古代ドイツの歴史と同様に、我々現代人からあまりにも遠くかけ離れている。これに反してドイツ人とローマ人との対立は、これも夙(と)うに過ぎ去ったことであるが、ドイツをドイツとして確保して来た対立であり、従ってドイツの独立の保持と、その結果であるドイツ民族の言語や法律と共に、我々の現今の状態と本質的に関連するのである。このように理想の形態化たる人物に属する環境は当の民族に理解できるものであったし、作中に描かれた外面的事実は当の民族に所属し、彼らの意識に直接ありありと浮かんでいるものであったという点から見ても、偉大な詩人は国民詩人であったと言える。歴史的なものが国民的なものであるとき、それは当の国民にとってなじみやすく、理解しやすいものであり、国民の現状の全体と関連している。インドの叙事詩やホメロスの詩篇やギリシアの劇詩の場合はそうである。イスパニア人と彼らのシッドの譚詩との関係も同様である。またポルトガルの詩人カモンイスはポルトガルの海の英雄を歌い、インド発見の航海と言う、この世界史上の、またその祖国の重要な時期を彼の詩の内容としているし、シェイクスピアは自国の歴史を扱っている。『エルサレムの解放』においてこのキリスト教世界の一般的問題を歌ったタッソや『アンリアード』の中でフランスの影響を讃えたヴォルテールについても同様である。これらの作品には人を感動させる神的なるものがその普遍性を以てそれ自体として現存しているが、しかもそれは理想として実現されるように、特殊の様相において表現されている。この特殊相が歴史的契機であり、外的側面である。この点にかけてはとくに我々ドイツ人が他に抜きん出ている。実際我々は一般にフランス人と反対に全ての見知らぬ特性の極めて丹念な記録者であり、従って芸術においても時間・場所・慣習・衣服・武器などの忠実な描写を要求する。同様にまた苦心惨憺して異国民や遠い昔の時代の考え方や観方を学び取り、こうしてその特殊相に順応しようとする忍耐力も、我々には欠けていない。このように多面的に、いな全面的に諸国民の精神を把握し理解しようとする点から、我々は芸術においても見知らぬ特異性に対して寛容であるのみならず、本質的ならぬ外物についてもあまるにも小心翼々としてそれを出来るだけ正確に再現することを要求する。フランス人もやはり有能で活動的ではあるが、彼らがいかに教養の高い、実際的な人間であろうとも、事物を平静に、そのまま承認する態度で観察するだけの辛抱強さを持っていない。彼らにあっては批判することが常に第一義なのである。これに反して我々は特に異国の芸術品においては一切の忠実な描写を尊重する。外国の植物、自然のあらゆる領域の所産、あらゆる種類と形態の器具、犬猫のたぐい、嘔吐をもよおさせる対象さえも我々には好ましい。それで我々は極めて異様な観念、供儀とか、聖者伝とか、これに関わる多くの不条理な事柄にも、またその他の異常な表象にも悦びを感ずることが出来る。同様に行動する人物の表現においても、彼らの言辞・行状などを彼ら自身のために描き出し、彼らが実際それぞれの時代と国民との性格に従って互いに関係し合っているさまを描き出すことが、最も本質的なことであるように我々には思われる。
我々ドイツ人は、多かれ少なかれ、教養ある世界の記録者であり、あらゆる時代の表現者である。我々は歴史的事実のあらゆる様相に、あらゆる時代と民族の観念になじみ親しもうとする。これは有識者の努力として賞賛すべきことであるが、しかし非常に古い、見知らぬ過去の歴史を我々の対象とすることは、これを避けなければならない。イロケーゼ族(北米インディアン)の詩は、いかにイロケーゼ族の風習に適合したものであろうとも、所詮わが国の公衆には疎遠なものである。近頃では我々はもはや過去の古い歴史を叙事詩の対象としないようになってきたが、しかしこのような取材が普通に行われた時代もあった。クロプシュトックが救世主物語を、ボードマーがノアの物語を書いたように、二三のドイツ詩人は聖書中の対象を扱っている。これらの素材は比較的我々に近く、よく知られているが、それでも我々に特有の性格にとっては所詮疎遠なものであることを免れず、それを今日芸術の対象として扱うのは、既知の、歴史の糸に新しい総(ふさ)飾りをつけるようなものである。ヘルダーは大多数の民族の歌謡を翻訳しており、彼とゲーテによって民謡への注意が喚起されたが、それと同時に詩人たちが自分でありとあらゆる種類の民謡を作るようになった。ギリシア・トルコ・ラップランド・イロケーゼなどの民族がドイツ人によって創作され、こうして異民族の風習などに同化することが、偉大な天才性だと考えられた。一方から言えばこのことは必要であるが、他方から言えばこのような同化は単に外的事象のために努力することであり、この事象を単に外的なものと感じる人々にとっては、所詮疎遠なものである。詩人が遠い昔の時代と風習に同化して全ての歴史的素材を正しくまとめあげるとしても、表現されたものは公衆にとって外的な、疎遠なものであるに止まり、公衆の安んじて没入するところとならない。このような外的・歴史的側面はそれ自身の性質によって我々に属するものとなり、我々の関心を惹くのでなければならないし、異風のものは全く従属的地位におかれて、いわば単に絵画の枠のようなものとなり、人間的なものが、パトスが、それ自体として主要なものであるようにならねばならない。それで例えばペトラルカの詩では、ヘローインがラウラという名前であったかどうか、だれそれの娘であったかどうかなどと言うことは、全く問題にならず、場所についても、ファウクルーゼの泉などというような、ごく一般的なことが挙げられているにすぎない。そこで我々の関心を惹くものは、人間的なものだけなのである。詩においては、恋人によせた詩でその人に外国風の名をつけることがよくあるし、詩人のサークルでは、各人が外国風の名をなのっている場合があるが、そんなことは問題ではない。もちろん、叙事文芸は外部から素材を取って来ることを必要とするところが最も多く、従ってややもすれば人の関心を惹かないものとなって、公衆を冷淡ならしめる危険が最も大きい。これに対して劇文芸や抒情文芸は心情の動きという主観的なものを主内容とする。が、劇文芸は他方また外的存在を必要とし、これを外面的に直観に対して提供する点に、多大の困難がある。劇で語られることは全て直接に理解されねばならず、外的事実は本来我々のよく知っている人物のための見慣れぬ枠以外のものであってはならない。学者が史実との正しい一致を欠いていると非難しても、かまうことはない。表現されたものは、既述のように、民衆によって直接に理解されねばならないのである。この直接に理解できるということが芸術にとって全く本質的な点である。芸術品は本来の性質上、直接に享受されるべきものであり、そのためには異質的なものが持ち込まれてはならない。ところが芸術は自国の素材にのみ取材範囲を局限することは出来ず、実際、種々の民族が互いに接触するようになるにしたがって、いよいよ広くその題材をすべての国民や世紀から摂取するに到っている。しかしそういうことが行われているとしても、詩人が見知らぬ時代の内にすっかり同化して生きることは、偉大な天才的なことであるなどと見なすべきではない。歴史上の外面事項を表現するにあたっては、それが人間的・普遍的なものにとって取るに足らぬ副次的事項となるような処理法を取らねばならない。このような扱い方は例えばすでに中世に見られるところで、中世の詩人は古代の素材を借りてはいるけれども、彼ら自身の時代の内容をそれに投入しており、甚だしきに到ってはアレクサンデルとかオクタヴィアヌス帝とかいう単なる名前しか残していない。
何よりも大切なことはあくまで直接に理解できることである。また実際に全ての国民は芸術品の世界に安んじて親しみ、躍如として活動することを欲したから、いやしくも彼らが芸術品としてよしとしたものには、かれら自身の本性を発揮している。このような独立の国民性を以てカルデロンはゼノビアとセミラミスの物語を作り上げ、シェイクスピアは多種多様な素材にイギリスの国民的性格を刻印することが出来た。しかも彼は、本質的な根本特徴に関しては、例えばローマ人のような異国民の歴史的性格をもイスパニア人より遥かに深く把握する術を心得ていた。更にギリシアの悲劇作家さえもその時代とその属する都市の現状を眼中においていた。例えば『コロノスのオイディプス』は場所の点でアテナイと密接な関係があったのみならず、オイディプスがこの地方で死んでアテナイの守護神になったという点でもそうであった。これとはまた別の関係においてではあるが、アイスキュロスのエウメ二デスもアレスの丘の法廷の判決のためにアテナイ人にとって切実な自国的関心の対象となっている。
全ての国民は、彼らが芸術品として呈示するものの内に自己自身の本性を発揮するという共通点を多かれ少なかれ持っている。観者または読者は、芸術家に対し、彼らの表現するものが自分たちにとって現実味のある、生き生きとしたものであることを要求する権利を持っている。学者は学者としての立場で作品に臨むべきではなく、民衆は作品を研究することを強いられてはならない。劇文芸ではしばしば同じ素材が相異なった国民に属する芸術家によって扱われているが、その扱い方は各自個性的であって、イギリス人はイギリス的なものを、フランス人はフランス的なものを、ドイツ人はドイツ的なものをそれぞれの作品の内に具有している。その労作は新しい素材を扱わなかったにも拘わらず、素材に新しく手を加えて独自のものを作り上げることであって、決して単に既存のものをそのまま現代に置き換えることではなかった。
<歴史性と時代錯誤>
学者は往々作品に扱われた時代の風習や文化の段階や感情が正当に再現されていないことを非難するが、それは何ら意味のないことである。例えばシェイクスピアの史劇には、我々には縁遠い、あまり関心を持つことの出来ないものが、たくさん含まれている。それでも戯曲を読むときはまだ満足できるが、上演を見る段になると、とてもそうはいかない。そこで実際、批評家や通人はこのような内容も歴史的に貴重なものだから、それ自身のために併せて表現されるべきものだと考え、従って公衆がこのような事物に退屈を感じるなどというと、彼らの趣味が下劣で堕落しているのだと非難する。が、しかし芸術品とその直接の享受は通人や学者のためのものではなく、公衆のためのものである。また批評家も同じ公衆の一員であり、彼ら自身にとっても個々の史実の正確な再現は真剣な関心事ではないのだから、彼らとて何もそう上品ぶる必要はない。それだから外国の劇作品を舞台にかける場合には、どの民族でもそれを自分に合うように作り変えることを要求する権利がある。この点から見れば、いかにも優れた作品も改作を必要とするのである。いかにも本当に優れたものは全て時代にとって優れたものでなければならないと言うことも出来ようが、芸術品にはまた時代と共に変化し死滅する面もあり、これが改造を企てねばならない面なのである。なぜなら美は他者に対して現象するのであり、その現象への実現を受ける人々は、現象というこの外的側面に安んじて親しむことが出来なければならないからである。
とにかくイギリス人は多くのシェイクスピア劇から主要場面だけをとって上演し、今の時代には縁遠くてわかりにくくなっている歴史的部面を省略している。我が国の美学者は、この歴史的なものをも表現すること、民衆にはとうに無縁になっていて、もはや何も興味を惹かないような外的事物をすべて民衆の眼前に描き出すことを要求するが、イギリス人はこのような美学者流の衒学臭を持っていない。一体、芸術では個々の特殊相が一般人間的なものとして理解され得るのでなければならない。このように人間的意義を持ちながら特殊の条件に制約された芸術品の外的側面が、まさに歴史的なものなのであり、これは芸術品の観照者たるべき人々が安んじて親しむところでなければならない。歴史的なものは一般人間的なものと同様に直接に享受され得るのでなければならない。優れたもの、美なるものは全ての時代にとって美しいのだと言われてはいるが、しかしこれは抽象的な言葉である。理想は美ではあるが、現象する美であり、現象することによって現実態へ現れ出る美である。その現実化を受け取る人々はこの現実態になじみ親しんでいなければならない。この点で、学者が芸術品に接して経験し得る享受と、民衆(学者も実はその一員であるが)が芸術品に接して経験し得る享受とは、互いに区別しなければならない。
さて芸術において時代錯誤と呼ばれ、普通、芸術家にとっての一つの大きな欠陥に数えられているものは全て、上述のように素材を自己に同化することに根差しており、またこの点から弁疏(べんそ)される。このような時代錯誤の内にはまず第一に単なる外面性に関するものがある。例えばフォールスタッフがピストルのことを話したりするのは、まだ問題とするに足りないことだが、オルペウスがヴァイオリンを手にして立っていたりすることになると、事態はすでに悪化して来る。神話の時代と、そんなに古い時代にはまだ発明されていなかったことを誰でも知っているような近代の楽器との矛盾が、あまりにもどぎつく眼につくからである。それで今日では例えば演劇においてもそのような物に驚くばかり注意を払い、衣装や装置の歴史的忠実さについてきびしい監督を加えるようになっている。けれどもこれはただ相対的な、どうでもよい事柄に関するものなので、押しなべて大抵の場合には徒に心を労することである。もっと重大な種類の時代錯誤は、服装やその他これに類する外面的なことに存するのではなく、作中の人物が所懐を述べ、感情や観念を現わし、反省を行い、行為をなすに当たって、それぞれの時代や文化の発達段階、それぞれの宗教や世界観から見て、到底実際にはあり得なかったような仕方をすることにある。この種の時代錯誤には自然らしさという範疇を適用して、表現された諸性格がその時代にしたであろうような話し方や行動の仕方で話したり行動したりしないのは、不自然だと考えるのが常である。しかしこのような自然らしさの要求を一面的に固執するならば、たちまち偏見に陥ることになる。一体、芸術家は人間の心持ちをその時々の情緒やそれ自身に実体性を持った情念と共に描く場合、いかに個性的特色を保持するにしても、それらの情緒や情念が日常、普通の生活の内に現れる通りに描いてはならないからで、一切のパトスをひたすらそれにふさわしい現象においてのみ発現させるべきなのである。芸術家の芸術家たる所以は、ひとえに、真実性を知り、それをその真の形式において我々の直観と感情に呈示することにある。それ故に芸術家はこのような表現をなすに当たって自分の時代のその時々の文化や、言語などを顧慮しなければならない。トロイア戦争の時代には表現法や全生活様式が『イリアス』に再現されているほどに発達していなかったし、同様にこの民族の大衆と、ギリシアの王族の卓抜な諸人物は、我々がアイスキュロスの作品や完璧の美を示したソフォクレスの作品において驚嘆せざるを得ないような、円熟したものの観方や表現の仕方を持ってはいなかった。これらの作例に見られるようないわゆる自然らしさの侵害は芸術にとって必要な時代錯誤である。表現されたものの内的実体はあくまで同じものであるが、時代が進んでこの実体的内容の表現と展開が洗練の度を増して来ると、どうしてもこの内容の表出と形態に変更を加えることが必要になる。尤も後世における宗教的および人倫的意識の発展に伴って起こってきた直観や観念が、このような新しい観念に矛盾する世界観を持っていた時代や民族に推し及ばされるならば、事情は一変する。その実例を挙げよう。キリスト教はギリシア人には全く無縁であった人倫の諸範疇を造り出した。例えば何が善であり何が悪であるかを決定する際の良心の内的反省や、良心の呵責と後悔は、近代の道徳的陶冶を俟って初めて生じたもので、後悔というような首尾一貫しないものは英雄的性格の関り知らぬところである。このような性格にとっては、自分の為したことは、あくまで自分がそれを為したのである。オレステスは母殺しのために後悔はしない。この所為に対する復讐の神フーリエが彼を追究しはするが、これらのエウメ二デスは同時に普遍的な力として表現されているのであって、彼の単に主観的な良心の内面に巣食う毒蛇として表現されているのではない。この事例に見られるような一時代や一民族の実体的核心こそ詩人が知らねばならないものであって、この最も内的な中心点へそれと背馳し矛盾するものを投入するとき、初めて高次の時代錯誤を犯したことになる。この点から見て芸術家に課せられるべき要求は、過去の時代や異民族の精神に同化し、いわばこれに生(な)りこむということである。けだしこの実体的なものは、いやしくも真に実体的なものであるならば、全ての時代にとって明確なものであることを失わないが、古代の錆びの付いた単に外面的な現象の特定の殊別相を個々の点に亙ってひたすら正確に模写しようとするのは、単に外面的な目的を追求する、幼稚な博識ぶりにすぎないのである。確かにこの方面においても一般的な正しさは要求されねばならないが、さりとてこの正しさを保持しようとする詩人が詩と真実との間に浮遊する権利を奪われてはならない。
さて以上の考察から、素材はこれを現在の時代から選ぶのが好都合だという結論を引き出そうとすることも出来よう。この時代に属する対象なら、種々の事情によって局限されたものも全て直接に理解できるからである。
しかしこのような対象を選ぶべきだと言っても、それは外面的な、卑俗な現実を指すのだと解してはならない。そういう客観性を要求することは出来るが、その結果は間違ったことになる。このようなものの表現はとくにコッツェブーの作品の内容や人物に見られるところで、それらの人物は全く凡常な現実の域を脱せず、その内容は全く自然のままの外面性に止まっている。確かにこのような世界には誰でもすぐに安んじて親しめるが、しかし芸術的要求を以てこのような作品に接する人は、決してそこに安住する気にはなれない。芸術はこの種の主観性からこそ我々を解放すべきだからである。例えばコッツェブーはこのような表現によって彼の時代には大いに人気を博したが、それはただ、「我々の悲歎と困苦だとか、銀の匙の窃取だとか、極刑を賭した暴挙だとか」を、さらには「牧師・商業顧問官・士官候補生・秘書・軽騎士隊長」などを公衆の耳目に供したからであり、それでだれもが自分自身の家庭内の瑣事や、さもなくば知人や親せきなどのそれを眼前に見、あるいは一般に、各自がそれぞれの事情と特殊な目的のもとで難渋するさまを見聞したからである。このような表現の主観性は、たとえその対象への関心を我々の心の通常の要求やいわゆる道徳的通念ないし反省に帰着させることが出来るにしても、芸術品の真の内容をなすものについての感情や観念へ我々を引き上げる力をそれ自身において欠いている。上述の観点から見て外部事情の表現は主観性の一面に偏したものであって現実の客観的な形態を少しも公正に扱わないのである。この外面的事象は真実性や理想性を欠いている。それは芸術品においては排除されねばならない。尤も作中人物の表現するものを通じて卑俗な外界の現実を想起する人にとっては、そういう外面性もなくては困るかもしれない。実際このような種類の客観性はしばしば人々を悦ばせるし、ゲーテの青年期の作品はこの面をしたたかに存しているが、しかしまたそのために卑俗さを示していることも甚だ多い。例えば『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』は、その表現がこの客観性を持っているからこそ、途方もなく高く評価されているのだが、その中の多くの箇所は卑俗なものになっている。フリードリッヒ・フォン・シュレーゲル氏やティーク氏はこのことを賞賛しているし、後になってゲーテもロマン的な場面を挿入しているのだが、たとえそのような表現が往々生動性の名を以て呼ばれるにしても、実際にはそれは卑俗な現実味であるにすぎない。それは何の美的価値もなく、とくに舞台ではたちまち無意味なものとして目に付くのであって、この種のものを表現するのが骨折りがいのあることだと思う人はない。このようなものは読むだけならまだしも我慢できるが、それが大きな設備をもって舞台上に表現され、期待して幕の上がるのを待ち受けている観客群の前に演出されて、そこへ出て来た馬丁が「ブランデーをもう一杯!」などと言うときは、観るも忌まわしい感じがするし、また甚だ殺風景に見える。この劇では境位の特徴と騎士たちの性格が全て極めて直観的に、分かりやすく描かれているが、それにも拘わらず、これらの場面は極めて凡俗であり、もともと散文的である。その内容となり形式となっているものは、確かに誰にでも身近ではあるが、全く普通のありふれた現象相や客観態であるにすぎないからである。同様の事例はなおゲーテの青年期に属する他の多くの作物にも見出される。それらの作物はとくに、従来規則と見なされていた全てのものに対する反抗を示しており、その主なる効果の由って来るところは、全てのものを我々の直観と感情にとって至極容易に把握できるものとして表現することによって、我々に身近なものとしたことにある。しかしそれらの作物はあまりにも卑近であり、ときにはあまりにも実質的内容に乏しかったので、そのために凡俗なものになってしまった。この凡俗性は主として劇作品の上演を見る場合にいよいよ目に付いてくる。と言うのは、我々は劇場に入るとすぐにもう多くの装置や照明や着飾った観衆などに刺戟されて、二人の農夫とか二人の騎士とかもう一杯の酒とか言うものとは別のものを観たいという気になるからである。『ゲッツ』は読み物としてこそ魅力があったが、舞台上に長く続けて上演されることは出来なかったわけである。私は『ゲッツ』がヴァイマールで上演されたのを見たことがある。ここではそれがゲーテによって他のどこでよりも永く舞台にかけられたのである。この劇でなお多少の興味を惹くのは、ロマン的な場面であるが、その上演を見ると、この種の客観性は初っ端から甚だ殺風景に見える。またシラーは『ヴィルヘルム・テル』で表現の外面的正確さを得るために大いに苦心したが、当時イエナで学んでいた80名ないし100名のスイス人はその初演に一向満足せず、これは本当のスイス人ではないと考えた。劇の外面上の存在相が彼らの記憶にそぐわなかったのである。
コッツェブーの脚本があれほど大きな効果を収めたのも、卑近な世相を描いたからである。それらの劇は、イフラントその他の人々のやはり大いに愛好されていた劇と同様に、世間周知の情態や庶民的な題材などを表現している。そこでは種々の社会的関係、役人の立場、家政上の困難など、およそ好ましからぬ情態が題材として用いられているが、それらの全体は万人周知の地盤の上に演じられる。コッツェブーは全ての人に身近な日常生活の場面を表現したから、あれほど多くの効果を収めたのである。とにかくこのような情態が描き出されると、だれもがそこに自己自身を観るのであるが、しかし芸術においては我々はこの主観性からこそ解放されるべきである。我々が主観として客観的なものに対する感受力を欠いているならば、芸術品の内に自己を見出すことを求めてはならない。
もちろん、芸術品にはそれをいつも我々に疎遠なものにしておく一面がある。我々はそこに描かれた多くの情態をそのまま容認し、前提しなければならないからである。この疎遠なものが芸術品の死滅する面を形作るのであって、この面は真理をそれにふさわしい真実な仕方で表現することが出来ない。このような表現のためにはもっと高級な形式が必要だからである。我々の内なる最高の規準から言えば、ただ種々の境位が充分にそれに適合しないのみならず、芸術一般が不満足なものである。しかし芸術に理想を具現するにあたっては、種々の事情によって制限された市民生活の情態や、これらすべての依存関係を切り捨てることが肝要であり、従って素材はこれをより古い時代から取って来る力がよいということになる。このような素材では個々の特殊相が表象の域へ移行しており、かくて全体がいっそう大きな独立性を以て表現され得るからである。芸術品はその現象の面において完全に規定されていなければならないが、この規定性は作品を受容すべき人々にとって周知のものでなければならない。しかもこの規定性は、出来る限り、理想に適ったものでなければならず、本質的な内容と帰一しなければならない。それは錯綜した外面的依存関係に巻き込まれないような、普遍的な形式でなければならない。ところで表現が過去の時代へ移されると、これによって外面的なもの自身がより抽象的に、普遍的になるのである。
以上の考察によって我々は、ある時代の我々に疎遠な、外的な面を真に同化する仕方を理解し、また芸術品の真の客観性というものを了解するに到った。芸術品は精神と意志との高級な諸関心、本来人間的で力あるもの、心情の真の深みを我々に開示しなければならない。この内容があらゆる外面的現象を通じて現れ、あらゆる騒音を貫いてその基調を響かせることが、芸術の本質上肝心な主要事である。
かくして真の客観性はある境位の実体的内容たるパトスを我々に啓示し、また精神の実体的諸契機が生きたものとなって実現され外化されるところの、豊かな、力強い個体性を啓示してくれる。その場合このような内容を具体化するためには、ただ一般にこれにふさわしい、それだけで分かるような限界をつけ、確然たる現実性を与えることが要求されるのである。このような内容が発見され、理想の原理に従って展開されるならば、芸術品は、個々の外面的な細部が歴史的に正当であろうとなかろうと、即自かつ対自的に客観的なのである。その場合芸術品はまた我々の真の主観性に語りかけられて我々自身のものともなる。そうなると、たとえ素材が、その皮相の形態の上では、遠く過ぎ去った時代から摂取されたものであっても、芸術品の永続的な基礎をなすものはあくまで精神固有の人間的なものである。これは一般に真の意味で永続的な、力強いものであって決して我々に働きかけずにはおかない。この客観的なものは同時に我々自身の内面を充たす内容をも形作るものだからである。
これに反して作品の単に歴史的な外面は消滅して行く面であって、我々が遠い昔の芸術品に接するときは、この面と和解してその余所余所しさを解消するように努めねばならないし、我々自身の時代の芸術品の場合でさえもそれを看過し無視するように心がけねばならない。そうすれば、サラストロが『魔笛』の中で歌っているような徳さえも、この曲の旋律の内奥の核心と精神のために、誰もがエジプト人と一緒に満足感を以て受け入れるところとなろう。
さて芸術品が上述の意味での客観性を有するとすれば、これに対しては我々主体も、そこに我々自身がその単に主観的な特殊性や独自性を以て現れているのを再認しようと欲するような、誤った要求を放棄しないければならない。『ヴィルヘルム・テル』が初めてヴァイマールで上演されたときは、スイス人が誰一人としてそれに満足しなかったが、これと同様に多くの人々はいかに美しい恋愛歌に接しても、そこに自分自身の感情を求めてこれを見出し得ないならば、この理由でその表現を誤ったものと断ずる。それは、恋愛を小説によってしか知らない人々が、現実においても、作中の人物と全く同じ感情を身に感じ、また全く同じ状況を身の回りに見出さない限りは、恋に落ちたとは思わないのと同様である。
同様の原理によってフランスでは歴史を書くことも往々それ自身ないしその対象のために行われるのではなく、為政者に有益な教訓を与えるとか、施政の非を鳴らすとかいうような時事的関心のために行われる。同様に多くの戯曲は明らかにその全内容に渉って、あるいはただ折に触れて当代の時勢への諷示を含んでおり、また古い時代の劇の内に当代に関係のある箇所が出てくれば、ことさらこれを前面に引き出し、非情な熱意を以て採り上げるという風である。
ドイツでもこのような主観化がなされなかったわけではなく、しかもその仕方は顕著でさえある。ハンス・ザックスの有名な詩では父なる神、アダムとイヴ、カインとアベルがいわばドイツ化されている。いなニュルンベルク化されている。そこでは神がカインとアベルと共に児童用の教義問答を持って、彼らが十誡を覚えたかどうかを問いただし、ちょうど当時の学校の先生が初歩の主要教科書を教えるような仕方で彼らに教義を授ける。アベルは何でもよく覚えるが、カインは神をもなみする悪童のように振る舞い、例えば「汝窃盗すべし」などという風に、全てをさかさまにした答え方をする。このようにここでは素材が全く卑近な土俗の風に化せられている。また南ドイツの、カトリック教の行われている地方ではキリストの磔刑のような受難の劇がとくに復活祭の前週に演ぜられるが、これにはポンティウス・ピラトが現れていかにも傲慢な役人らしく振る舞い、兵卒どもは兵隊風に粗野な冗談を飛ばし、互いに煙草を勧め合い、キリストにも一つまみのかぎ煙草を渡し、彼がこれを断ると、彼の鼻にこれを押し込み、そのほか同様に野暮なことをいろいろとやって見せる。民衆は一方ではこのような表現を見て大いに笑い興じ、しかも他方では少しも敬虔な信仰心を失わない。宗教的帰依の念が自由無碍に生気に満ちた趣を得ていると同時に、また本来の宗教性を以て表現されている。このように事物を我々自身の見たままの形態に変え、ひっくり返してしまうことは、確かに正当なところがあるし、神やその他の古来の観念を馴れ馴れしく扱い、それらを、敬虔でありながらも、全く世俗の態に適合したものとしたハンス・ザックスの大胆さは、偉大なものに見えるかもしれない。しかしながら、対象に対してそれ自身の客観性の権利を少しも認めないのみならず、客観的なものを全く反対の形にしてしまうことは、我々の心意の側から対象に暴力を加える行為であり、無教養な精神の致すところであって、その結果は道化じみた矛盾となって現われる他ない。このような表現はしかし無趣味である。それは素材の固有の性質と、人物の考え方や話し方や行動の仕方を示す表現との間に対照的差異を生ぜしめ、その結果、宗教的なものを、また一般に本来の内容を道化じみた、たわけたものにしてしまう。宗教的なものの内包はこのような手法によって歪められ、それに不相応な扱いを受けると考えることが出来る。とにかく宗教的内容とその表現に仕方とが矛盾することになるのである。
このような表現に見られるのは、主観性が優勢を占めていることであり、そしてまたこの主観性なるものは我々が普通対象について持っている表象が、我々自身の教養または何か他の現代風の教養に合うようにひっくり返されていることに認められるであろう。かくてこの場合には、対象がそれにふさわしい形態を持っておらず、むしろ主として観照主観に対する関係に従って把握されていて、客観的な素材が主要事ではなくなっている限り、表現の客観性が欠けているうらみがあるであろう。しかしまた、このような場合とは反対に、対象の描写に主観的なところが欠けているうらみがあることも起こり得るであろう。「表現の客観性」という言葉は、事象そのものをそれ自体として表現し、主観の反省や特殊な感じ方が混入しないようにすることを意味するに他ならない。
この表現の客観性はまた内面性がそれを通じて暗示されるにすぎないと言うことをも含んでいる。このような表現では感情がただ外物を通じて現れるが、本来内面に集中しているので、あらわに発露するに到らず、パトスの雄弁な表現に達することが出来ない。この客観性は特に民謡に見出される。全ての民謡は全く単純なもので、心底からの深い感情を根底に蔵しながらも、これを明らかに言い現わし得ないのだということが窺われる。この段階ではまだ芸術そのものがその内容をあからさまに隈なく照らし出すまでに発達しておらず、外物を通じてそれを人の心に感知せしめることに満足しなければならないからである。この場合主体の心情は自己の内に凝結し圧縮されており、他人の心情にとって理解できるものとなるためには、全く有限な外部の事態や現象に自己を反映させるほかない。尤もこれらの外物は、ほんの僅かでも内面の心情や感懐を思わせる機縁を与えられさえすれば、内心に対する表出効果を持つようになるのである。
この客観性は民謡の本性にふさわしいところがある。種々様々な民謡は一種の憧憬的傾向を有し、外面的表徴の内に深秘な無言の憧憬や痛苦を暗示している。まだ文化的に発達していない人間の活動する場面が、この表現形式の本来の地盤なのである。しかし民謡は芸術の初段階の一つであり、芸術がまだ内面の真実の生を完全に顕現せしめるに到らず、これをただ不完全な表現の仕方で暗示し感知させるところの低次の段階である。ゲーテはこの種の優れた詩を作っており、例えば『牧人の歎きの歌』などは、全くこのような性格を持っている。痛苦と憧憬の内に打ちひしがれた心情が純然たる外面的形相に覆われて暗黙の内に示されるに止まり、しかも内面に集中した感情の深みが無言裡に響き渡っている。『魔王』やその他多くの詩にもこれと同じ調子が支配している。
次にまた全く蛮風と称すべき客観性もあり、この場合には境位が全く外面的に表現されている。その例として私はゲーテが激賞した『童児の魔笛』の中の一詩を想起する。それは鼓笛隊の一員が絞首刑に処せられるところを謳ったもので、「おお絞首台、汝高き家よ」という句で始まり、「さらば、隊長殿」などと言っている。ゲーテはこの詩をしごく珍重すべきものと称する。いかにも仔細な点でははなはだ結構なものでもある。が、その表現はおしなべて客観的であって、客観の内に主観が暗示されてはいるが、はっきり言い現わされてはいない。それは外へ向かって伸展することの出来ない心の中の感情として脈動しているにすぎない。それは、あくまで内面に集中しているだけで、本質的契機たるパトスを意識に上らせない、一種の鈍麻状態である。同様にゲーテの『我が編みし花束』という歌でも内面の感情が暗示されてはいるが、この内容が意識され表白されるに到らないので、感情は所詮、外へ進展し得ない。そういう広さを持たない心の内に閉じ込められている。これに反してシラーでは内面の豊かさが、パトスが陸離たる光彩をもって表白されている。彼は全霊を上げてパトスに没入しており、しかもその偉大な魂は事象の本質に食い入ってこれを体得すると同時に、事象の深みを自由自在に、いとも見事に、ゆたかな充実と諧調の内に表白する力を持っている。
表現の客観性への要求はまたロマン的なるものやいわゆるイロニーと関連するところがある。いかにも表現は客観的なるべきものであり、そうして確かにロマン派は好んで一連の外面的偶然事を描き出している。しかもこれらの事物は同時にある内面的な、外部に現れず、直接には言い現わらされない関連をなすものである。表現の客観性がイロニーと関連している限り、それは、外面的なものだけを挙示し、外面性を通じて観者または読者に、表現の内に含まれているあらゆる深みを察知させるという意味を持っているにすぎない。こうして詩人は内面の、至上のものを自分だけで保持しているわけであり、その表現したものの内には至高の、こよなく優れたものが含まれているのだが、それは言説すべからざるものなのだという。従って読者や観者は背後に潜んでいるものを察知しなければ、えてして徒に愚弄されることになりかねない。実際、単に外面的な事柄を寄せ集めたようなものがしばしば真の詩と見なされており、そういう考え方では、表現の内に多くのものをひそめていることや、読者をからかってそれが何であるかを推察させることが、芸術であり、偉大なことであると言うことになる。それで文芸の表現の内には、「詩の詩」などと称しながら、実は惨めな散文に他ならず、往々卑俗無意味かつ平板極まる散文にすぎないものが見られるのである。我々がすでに先に述べたことだが、フリードリッヒ・フォン・シュレーゲルは相当の期間、自分が詩人であると思い込んで、実は全く凡常な散文にすぎないような詩を発表していた。しかし芸術品においては何ものも背後に隠れたままになっていてはならず、はっきり言い現わされなければならない。もし詩人が何も言い現わさなければ、言うべきことが何もなかったのだということを証拠立てるに他ならない。詩人は実体ある内容を言い現わすべきであり、何か重大なものがまだ後に残っていると悟らせるだけであってはならない。尤もまた他の点から見ると、詩人が例えば恋愛の描写をしても、読者が自分自身の感情をそこに認めることが出来ないというので、表現が不充分だとされない場合もないではない。あるいは逆に読者が詩的描写から恋愛というものの観念を作り出し、自分がすっかりそれに染まってしまって、どんな恋情でも作品に表現されている通りにこれを感じない内は、本当に恋に落ちたとは思わないということもある。およそ主観的側面が充実していないと、主体はその主観性を客観的表現の内に見出すことが出来ないものである。
主客両面が統合されていてしかも作品が、それら両面の調和にも拘わらず、不満足で非芸術的で散文的であることもないではない。ゲーテの初期の作品にはこの種のものが多く、それらは主観の影を止めていると共に、客観的なものをも表現している点で、大いに人気を博していた。このような例は、「ハンスのおやじ、ブランデーをもう一杯!」云々という文句で始まる『ゲッツ』の冒頭に、すぐさま見られる。これは忠実な描写であり、主観の影をも止めている。第三幕のゲオルクとレルゼとの対話の場面でも同様である。ゲオルクは弾丸用の鉛を溶かすために、一つの導管を持ってくる。ここでは全てがいかにも活気に満ちており、その場の状況と騎士たちとの客観的な特徴がたくみに描かれている。それにもかかわらず、これらの表現は極めて散文的であり、極めて平凡で退屈である。さらに近くは、特にフリードリッヒ・シュレーゲルの時代には客観的表現が忠実な模倣に置き換えられている。模倣の忠実さが芸術品において特に人を悦ばせ、主要の観点たるべきものであって、我々主体の関心は専らこうした方面を認識することに終始すべきだというのである。このような要求がなされるとき、それは我々が高級な関心や特殊な事柄を作品に求めてはならないということを表明するものであり、内容に関してもこれが本来重大な、実体的なものであることは要求されない。根本原理としてはただ忠実な表現ということが掲げられるのである。この見解は、芸術品は、内容のいかんを問わず、ただその表現に本領を有するという、全く形式的な見地に止まっており、それ自体として価値ある内包をも主観的な心情の内容をも度外視している。しかしこれらはいずれも度外視出来ないものであり、芸術品の真の客観性は先に述べたところにあると見るべきである。芸術品は精神と意志との高級な関心を内容としなければならない。これらの関心が文芸の外形を通じて現れ、全ての活動を通じてその調子を響かせていなければならない。もし作品が実際にそのようになっており、実体的な関心を根底に蔵しているならば、それはそれ自体において客観的であると同時に、我々の主観性に語りかける。真実な関心こそ我々が親昵するところであり、この点で我々と芸術品との共鳴諧調が成り立つからである。芸術品はこの点で偉大であるとき、その効果を現わすのである。表現はただ内容を収める枠であり、ただ観照のために必要な、従って手段としての意味しか持たない非本質的なものである。これに対して精神的内容は真に威力ある、永続的なものである。作家が遠く過ぎ去った時代から素材を取って来るときも、その根拠は、そこに表現されて人を感動させる精神にあり人間にあるのであって、この効果は、客観的なものが同時に我々自身の主観に訴えることによって生ずる。表現上の外面事項は、我々の共感をさそう芸術的内包には及びもつかないものだから、我々はそれが邪魔にならないように折り合いを付けねばならない。我々に課せられる要求は、作品本来の内包と共鳴一致することである。この真実な内包を形作る面、芸術品の真正な面が作品の客観性の存するところであって、それは我々がたえずそこに眼を向けていることを要求するのである。そこには主観性が欠けているなどという苦情が起こるかもしれないが、この主観性なるものは実は日常の凡俗な散文性であろうし、これこそ度外視すべきものである。
歴史的事実の面はそれぞれの時代の条件によって制約され、局限された、特殊なものである。それは風習・法律・世態・情況の点で独特な、現代とは違ったものであり、従ってただ異様な感じのするものである。このようにまず以て異様な感じのするものはその限りにおいて我々の享受を妨げる。が、他面から見ると、我々は時代の一般的教養によって過去に関する多様な知識をも持っているので、往古の神話の歴史的内容や、歴史上の国家状態や風習の異様な趣に通暁し、これを会得していることが出来る。それで例えば古代の芸術と神話、また文学・祭式・慣習などについての知識は我々現代人の教養の出発点となっており、どんな子供でも既に学校でギリシアの神々や英雄や歴史上の人物のことを聞き知っている。かくしてギリシアの世界の諸形態や諸関心が想念の上で我々のものなっている限り、我々はそれらをまた想念の地盤の上で共に享受することが出来る。そしてインドやエジプトやスカンジナビアの神話についても同程度の親近感を得ることが出来ないという理由は見出されないはずである。のみならず、これらの民族の宗教的観念には神という普遍者も存している。しかしギリシアの神とかインドの神とか言うような、特殊の条件によって規定された神性は、もはや我々にとって真実性を持っていない。我々はもはやそれを信ぜず、ただ我々の想像の対象としてそれに満足を感じるだけである。そのためにそれらの神は我々の本来のより深い意識にとっては所詮疎遠なものであるに止まる。例えば歌劇で「おお御身ら神々よ」とか、「おおジュピターよ」とか、あるいは更に「おおイシスとオリシスよ」とか言ったりするほど、空々しく余所余所しいことはない。ましてその上に神託を取り入れるというような窮余の策が用いられたりすれば、なおさらのことである。しかも神託は、今日ではようやく悲劇において狂気や透視がその代わりに使われるようになったが、歌劇には殆どなくては済まされないものなのである。
我々は確かに過去の時代の情態を自分のものにすることが出来るが、それは教養に培われた世界の、有識者としてのことである。例えばギリシアの時代の事情と人物は多かれ少なかれ我々の知っていることである。ギリシアが教養の一般的出発点であるために、我々が学校の授業から学び知っている、一種の人為的な自然である。しかしこの知識はそれ自身としては単に修得された知識であって、我々はこのような異境の事物がドイツの文芸には不適当な材料であることを察知している。他の時代や民族の詩は研究によって初めて我々の関心を惹くものとなる他ない。だから芸術品が、そのために労力を払い、それについて研究した我々有識者にとって享受できるものだということと、それが民衆にとって享受できるものであるべきだということとは、別問題である。ところで我々もやはり民衆に属するのであり、芸術品は民衆にとって、様々な知識という迂遠な回り道を経て初めて享受できるものとなるのではなく、直接的効果を持ち、直接に理解できるものであらねばならない。これに反してギリシアの神話は、いかに多様であろうとも、また芸術と学問との復興以来、いかに繰り返し材料として利用されていようとも、近代の諸民族にあっては完全に身に付いたものになろうとせず、すでに造形美術においてさえも多かれ少なかれそうだが、なおいっそう詩においては、広く普及しているにも拘らず、所詮余所余所しいものであることを免れない。例えばアプロディテやゼウスやパラスについて詩を作ろうなどとは今日何人も思いつかないであろう。彫刻は今なおギリシアの神々を題材とせずにはやっていけないが、しかしまたそれ故にその表現は概ね通人や学者や狭い範囲の教養ある人士でなければ親しみ難く理解でにないものとなっている。これと同様の意味を持つことだが、ゲーテは、画家が、「ピロストラトス画」に感銘し、これを模写するようにと、それらの画を彼らにまざまざと語り伝えることに大いに務めたけれども、あまり功を奏さなかった。このような古代の対象はその古代的な現実相のままでは近代の公衆ならびに画家にとって所詮なじみ難いものなのである。これに反してゲーテ自身が遥かに深い精神を以て成功を収めているのは、彼の自由な内面生活の発展の後期においてもなおその『西東詩篇』によって東方の世界を我々の今日の詩に導入し、それを今日の観方に同化させている場合である。この同化に当たって彼は自分が西洋の人間でありドイツ人であることをしかと意識している。従って東方の状況や事情の特色に鑑みて終始東洋的な基調を響かせていながらも、同時に我々の今日の意識とその独自の個性にも充分顧慮を払っている。このように芸術家は確かにその素材を遠隔の地方や過去の時代や異民族から取って来ることを許されており、また大体においては神話や風習や制度の歴史的形態をそのまま保存してよいのであるが、同時にこれらの形態をただ自分の描写のための枠として利用し、これに反して内容はこれを自分の時代の本質的な、より深い意識に適応させなければならない。ゲーテの『イフィゲーニエ』は今日に到るまでこの点で最も驚嘆すべき例として厳存している。
歴史的素材について更に進んで言うならば、史実との正しい一致という意味での真理が問題となり得る。およそ歴史的事実はかつて存在したものであり、今日我々に切実な感動を与えることもあれば、そういかないこともある。我々がそれに切実な感動をあたえるのは、それが我々自身の属するところの国民に属する場合である。この場合それは我々に属するものだから我々を感動させるのである。ただしそれはあまり遠く離れた時代のことであってはならない。我々が我々の時代を連続的発展の結果として見、以前の歴史的事実もこの結果を生み出す前提の本質的な一環であると考えるとき、それは現代に通ずる、馴染みのあるものとなって来るのである。『ニーベルンゲンの歌』では歴史的事件がドイツの地盤で行われ、そこではブングント族とエッツェル王治下のフン族という二つの民族が登場するが、そこに支配している関心はもはや我々の関心と関連するところがない。北方神話についても事情は同様で、クロプシュトックはそれを復活させようとしたが、この試みは徒労に帰し、それは一しきりドイツに行われていただけである。クロプシュトックは詩におけるドイツ的なものを保つために、この神話を取り上げたのであるが、これも、古代ドイツの歴史と同様に、我々現代人からあまりにも遠くかけ離れている。これに反してドイツ人とローマ人との対立は、これも夙(と)うに過ぎ去ったことであるが、ドイツをドイツとして確保して来た対立であり、従ってドイツの独立の保持と、その結果であるドイツ民族の言語や法律と共に、我々の現今の状態と本質的に関連するのである。このように理想の形態化たる人物に属する環境は当の民族に理解できるものであったし、作中に描かれた外面的事実は当の民族に所属し、彼らの意識に直接ありありと浮かんでいるものであったという点から見ても、偉大な詩人は国民詩人であったと言える。歴史的なものが国民的なものであるとき、それは当の国民にとってなじみやすく、理解しやすいものであり、国民の現状の全体と関連している。インドの叙事詩やホメロスの詩篇やギリシアの劇詩の場合はそうである。イスパニア人と彼らのシッドの譚詩との関係も同様である。またポルトガルの詩人カモンイスはポルトガルの海の英雄を歌い、インド発見の航海と言う、この世界史上の、またその祖国の重要な時期を彼の詩の内容としているし、シェイクスピアは自国の歴史を扱っている。『エルサレムの解放』においてこのキリスト教世界の一般的問題を歌ったタッソや『アンリアード』の中でフランスの影響を讃えたヴォルテールについても同様である。これらの作品には人を感動させる神的なるものがその普遍性を以てそれ自体として現存しているが、しかもそれは理想として実現されるように、特殊の様相において表現されている。この特殊相が歴史的契機であり、外的側面である。この点にかけてはとくに我々ドイツ人が他に抜きん出ている。実際我々は一般にフランス人と反対に全ての見知らぬ特性の極めて丹念な記録者であり、従って芸術においても時間・場所・慣習・衣服・武器などの忠実な描写を要求する。同様にまた苦心惨憺して異国民や遠い昔の時代の考え方や観方を学び取り、こうしてその特殊相に順応しようとする忍耐力も、我々には欠けていない。このように多面的に、いな全面的に諸国民の精神を把握し理解しようとする点から、我々は芸術においても見知らぬ特異性に対して寛容であるのみならず、本質的ならぬ外物についてもあまるにも小心翼々としてそれを出来るだけ正確に再現することを要求する。フランス人もやはり有能で活動的ではあるが、彼らがいかに教養の高い、実際的な人間であろうとも、事物を平静に、そのまま承認する態度で観察するだけの辛抱強さを持っていない。彼らにあっては批判することが常に第一義なのである。これに反して我々は特に異国の芸術品においては一切の忠実な描写を尊重する。外国の植物、自然のあらゆる領域の所産、あらゆる種類と形態の器具、犬猫のたぐい、嘔吐をもよおさせる対象さえも我々には好ましい。それで我々は極めて異様な観念、供儀とか、聖者伝とか、これに関わる多くの不条理な事柄にも、またその他の異常な表象にも悦びを感ずることが出来る。同様に行動する人物の表現においても、彼らの言辞・行状などを彼ら自身のために描き出し、彼らが実際それぞれの時代と国民との性格に従って互いに関係し合っているさまを描き出すことが、最も本質的なことであるように我々には思われる。
我々ドイツ人は、多かれ少なかれ、教養ある世界の記録者であり、あらゆる時代の表現者である。我々は歴史的事実のあらゆる様相に、あらゆる時代と民族の観念になじみ親しもうとする。これは有識者の努力として賞賛すべきことであるが、しかし非常に古い、見知らぬ過去の歴史を我々の対象とすることは、これを避けなければならない。イロケーゼ族(北米インディアン)の詩は、いかにイロケーゼ族の風習に適合したものであろうとも、所詮わが国の公衆には疎遠なものである。近頃では我々はもはや過去の古い歴史を叙事詩の対象としないようになってきたが、しかしこのような取材が普通に行われた時代もあった。クロプシュトックが救世主物語を、ボードマーがノアの物語を書いたように、二三のドイツ詩人は聖書中の対象を扱っている。これらの素材は比較的我々に近く、よく知られているが、それでも我々に特有の性格にとっては所詮疎遠なものであることを免れず、それを今日芸術の対象として扱うのは、既知の、歴史の糸に新しい総(ふさ)飾りをつけるようなものである。ヘルダーは大多数の民族の歌謡を翻訳しており、彼とゲーテによって民謡への注意が喚起されたが、それと同時に詩人たちが自分でありとあらゆる種類の民謡を作るようになった。ギリシア・トルコ・ラップランド・イロケーゼなどの民族がドイツ人によって創作され、こうして異民族の風習などに同化することが、偉大な天才性だと考えられた。一方から言えばこのことは必要であるが、他方から言えばこのような同化は単に外的事象のために努力することであり、この事象を単に外的なものと感じる人々にとっては、所詮疎遠なものである。詩人が遠い昔の時代と風習に同化して全ての歴史的素材を正しくまとめあげるとしても、表現されたものは公衆にとって外的な、疎遠なものであるに止まり、公衆の安んじて没入するところとならない。このような外的・歴史的側面はそれ自身の性質によって我々に属するものとなり、我々の関心を惹くのでなければならないし、異風のものは全く従属的地位におかれて、いわば単に絵画の枠のようなものとなり、人間的なものが、パトスが、それ自体として主要なものであるようにならねばならない。それで例えばペトラルカの詩では、ヘローインがラウラという名前であったかどうか、だれそれの娘であったかどうかなどと言うことは、全く問題にならず、場所についても、ファウクルーゼの泉などというような、ごく一般的なことが挙げられているにすぎない。そこで我々の関心を惹くものは、人間的なものだけなのである。詩においては、恋人によせた詩でその人に外国風の名をつけることがよくあるし、詩人のサークルでは、各人が外国風の名をなのっている場合があるが、そんなことは問題ではない。もちろん、叙事文芸は外部から素材を取って来ることを必要とするところが最も多く、従ってややもすれば人の関心を惹かないものとなって、公衆を冷淡ならしめる危険が最も大きい。これに対して劇文芸や抒情文芸は心情の動きという主観的なものを主内容とする。が、劇文芸は他方また外的存在を必要とし、これを外面的に直観に対して提供する点に、多大の困難がある。劇で語られることは全て直接に理解されねばならず、外的事実は本来我々のよく知っている人物のための見慣れぬ枠以外のものであってはならない。学者が史実との正しい一致を欠いていると非難しても、かまうことはない。表現されたものは、既述のように、民衆によって直接に理解されねばならないのである。この直接に理解できるということが芸術にとって全く本質的な点である。芸術品は本来の性質上、直接に享受されるべきものであり、そのためには異質的なものが持ち込まれてはならない。ところが芸術は自国の素材にのみ取材範囲を局限することは出来ず、実際、種々の民族が互いに接触するようになるにしたがって、いよいよ広くその題材をすべての国民や世紀から摂取するに到っている。しかしそういうことが行われているとしても、詩人が見知らぬ時代の内にすっかり同化して生きることは、偉大な天才的なことであるなどと見なすべきではない。歴史上の外面事項を表現するにあたっては、それが人間的・普遍的なものにとって取るに足らぬ副次的事項となるような処理法を取らねばならない。このような扱い方は例えばすでに中世に見られるところで、中世の詩人は古代の素材を借りてはいるけれども、彼ら自身の時代の内容をそれに投入しており、甚だしきに到ってはアレクサンデルとかオクタヴィアヌス帝とかいう単なる名前しか残していない。
何よりも大切なことはあくまで直接に理解できることである。また実際に全ての国民は芸術品の世界に安んじて親しみ、躍如として活動することを欲したから、いやしくも彼らが芸術品としてよしとしたものには、かれら自身の本性を発揮している。このような独立の国民性を以てカルデロンはゼノビアとセミラミスの物語を作り上げ、シェイクスピアは多種多様な素材にイギリスの国民的性格を刻印することが出来た。しかも彼は、本質的な根本特徴に関しては、例えばローマ人のような異国民の歴史的性格をもイスパニア人より遥かに深く把握する術を心得ていた。更にギリシアの悲劇作家さえもその時代とその属する都市の現状を眼中においていた。例えば『コロノスのオイディプス』は場所の点でアテナイと密接な関係があったのみならず、オイディプスがこの地方で死んでアテナイの守護神になったという点でもそうであった。これとはまた別の関係においてではあるが、アイスキュロスのエウメ二デスもアレスの丘の法廷の判決のためにアテナイ人にとって切実な自国的関心の対象となっている。
全ての国民は、彼らが芸術品として呈示するものの内に自己自身の本性を発揮するという共通点を多かれ少なかれ持っている。観者または読者は、芸術家に対し、彼らの表現するものが自分たちにとって現実味のある、生き生きとしたものであることを要求する権利を持っている。学者は学者としての立場で作品に臨むべきではなく、民衆は作品を研究することを強いられてはならない。劇文芸ではしばしば同じ素材が相異なった国民に属する芸術家によって扱われているが、その扱い方は各自個性的であって、イギリス人はイギリス的なものを、フランス人はフランス的なものを、ドイツ人はドイツ的なものをそれぞれの作品の内に具有している。その労作は新しい素材を扱わなかったにも拘わらず、素材に新しく手を加えて独自のものを作り上げることであって、決して単に既存のものをそのまま現代に置き換えることではなかった。
<歴史性と時代錯誤>
学者は往々作品に扱われた時代の風習や文化の段階や感情が正当に再現されていないことを非難するが、それは何ら意味のないことである。例えばシェイクスピアの史劇には、我々には縁遠い、あまり関心を持つことの出来ないものが、たくさん含まれている。それでも戯曲を読むときはまだ満足できるが、上演を見る段になると、とてもそうはいかない。そこで実際、批評家や通人はこのような内容も歴史的に貴重なものだから、それ自身のために併せて表現されるべきものだと考え、従って公衆がこのような事物に退屈を感じるなどというと、彼らの趣味が下劣で堕落しているのだと非難する。が、しかし芸術品とその直接の享受は通人や学者のためのものではなく、公衆のためのものである。また批評家も同じ公衆の一員であり、彼ら自身にとっても個々の史実の正確な再現は真剣な関心事ではないのだから、彼らとて何もそう上品ぶる必要はない。それだから外国の劇作品を舞台にかける場合には、どの民族でもそれを自分に合うように作り変えることを要求する権利がある。この点から見れば、いかにも優れた作品も改作を必要とするのである。いかにも本当に優れたものは全て時代にとって優れたものでなければならないと言うことも出来ようが、芸術品にはまた時代と共に変化し死滅する面もあり、これが改造を企てねばならない面なのである。なぜなら美は他者に対して現象するのであり、その現象への実現を受ける人々は、現象というこの外的側面に安んじて親しむことが出来なければならないからである。
とにかくイギリス人は多くのシェイクスピア劇から主要場面だけをとって上演し、今の時代には縁遠くてわかりにくくなっている歴史的部面を省略している。我が国の美学者は、この歴史的なものをも表現すること、民衆にはとうに無縁になっていて、もはや何も興味を惹かないような外的事物をすべて民衆の眼前に描き出すことを要求するが、イギリス人はこのような美学者流の衒学臭を持っていない。一体、芸術では個々の特殊相が一般人間的なものとして理解され得るのでなければならない。このように人間的意義を持ちながら特殊の条件に制約された芸術品の外的側面が、まさに歴史的なものなのであり、これは芸術品の観照者たるべき人々が安んじて親しむところでなければならない。歴史的なものは一般人間的なものと同様に直接に享受され得るのでなければならない。優れたもの、美なるものは全ての時代にとって美しいのだと言われてはいるが、しかしこれは抽象的な言葉である。理想は美ではあるが、現象する美であり、現象することによって現実態へ現れ出る美である。その現実化を受け取る人々はこの現実態になじみ親しんでいなければならない。この点で、学者が芸術品に接して経験し得る享受と、民衆(学者も実はその一員であるが)が芸術品に接して経験し得る享受とは、互いに区別しなければならない。
さて芸術において時代錯誤と呼ばれ、普通、芸術家にとっての一つの大きな欠陥に数えられているものは全て、上述のように素材を自己に同化することに根差しており、またこの点から弁疏(べんそ)される。このような時代錯誤の内にはまず第一に単なる外面性に関するものがある。例えばフォールスタッフがピストルのことを話したりするのは、まだ問題とするに足りないことだが、オルペウスがヴァイオリンを手にして立っていたりすることになると、事態はすでに悪化して来る。神話の時代と、そんなに古い時代にはまだ発明されていなかったことを誰でも知っているような近代の楽器との矛盾が、あまりにもどぎつく眼につくからである。それで今日では例えば演劇においてもそのような物に驚くばかり注意を払い、衣装や装置の歴史的忠実さについてきびしい監督を加えるようになっている。けれどもこれはただ相対的な、どうでもよい事柄に関するものなので、押しなべて大抵の場合には徒に心を労することである。もっと重大な種類の時代錯誤は、服装やその他これに類する外面的なことに存するのではなく、作中の人物が所懐を述べ、感情や観念を現わし、反省を行い、行為をなすに当たって、それぞれの時代や文化の発達段階、それぞれの宗教や世界観から見て、到底実際にはあり得なかったような仕方をすることにある。この種の時代錯誤には自然らしさという範疇を適用して、表現された諸性格がその時代にしたであろうような話し方や行動の仕方で話したり行動したりしないのは、不自然だと考えるのが常である。しかしこのような自然らしさの要求を一面的に固執するならば、たちまち偏見に陥ることになる。一体、芸術家は人間の心持ちをその時々の情緒やそれ自身に実体性を持った情念と共に描く場合、いかに個性的特色を保持するにしても、それらの情緒や情念が日常、普通の生活の内に現れる通りに描いてはならないからで、一切のパトスをひたすらそれにふさわしい現象においてのみ発現させるべきなのである。芸術家の芸術家たる所以は、ひとえに、真実性を知り、それをその真の形式において我々の直観と感情に呈示することにある。それ故に芸術家はこのような表現をなすに当たって自分の時代のその時々の文化や、言語などを顧慮しなければならない。トロイア戦争の時代には表現法や全生活様式が『イリアス』に再現されているほどに発達していなかったし、同様にこの民族の大衆と、ギリシアの王族の卓抜な諸人物は、我々がアイスキュロスの作品や完璧の美を示したソフォクレスの作品において驚嘆せざるを得ないような、円熟したものの観方や表現の仕方を持ってはいなかった。これらの作例に見られるようないわゆる自然らしさの侵害は芸術にとって必要な時代錯誤である。表現されたものの内的実体はあくまで同じものであるが、時代が進んでこの実体的内容の表現と展開が洗練の度を増して来ると、どうしてもこの内容の表出と形態に変更を加えることが必要になる。尤も後世における宗教的および人倫的意識の発展に伴って起こってきた直観や観念が、このような新しい観念に矛盾する世界観を持っていた時代や民族に推し及ばされるならば、事情は一変する。その実例を挙げよう。キリスト教はギリシア人には全く無縁であった人倫の諸範疇を造り出した。例えば何が善であり何が悪であるかを決定する際の良心の内的反省や、良心の呵責と後悔は、近代の道徳的陶冶を俟って初めて生じたもので、後悔というような首尾一貫しないものは英雄的性格の関り知らぬところである。このような性格にとっては、自分の為したことは、あくまで自分がそれを為したのである。オレステスは母殺しのために後悔はしない。この所為に対する復讐の神フーリエが彼を追究しはするが、これらのエウメ二デスは同時に普遍的な力として表現されているのであって、彼の単に主観的な良心の内面に巣食う毒蛇として表現されているのではない。この事例に見られるような一時代や一民族の実体的核心こそ詩人が知らねばならないものであって、この最も内的な中心点へそれと背馳し矛盾するものを投入するとき、初めて高次の時代錯誤を犯したことになる。この点から見て芸術家に課せられるべき要求は、過去の時代や異民族の精神に同化し、いわばこれに生(な)りこむということである。けだしこの実体的なものは、いやしくも真に実体的なものであるならば、全ての時代にとって明確なものであることを失わないが、古代の錆びの付いた単に外面的な現象の特定の殊別相を個々の点に亙ってひたすら正確に模写しようとするのは、単に外面的な目的を追求する、幼稚な博識ぶりにすぎないのである。確かにこの方面においても一般的な正しさは要求されねばならないが、さりとてこの正しさを保持しようとする詩人が詩と真実との間に浮遊する権利を奪われてはならない。
さて以上の考察から、素材はこれを現在の時代から選ぶのが好都合だという結論を引き出そうとすることも出来よう。この時代に属する対象なら、種々の事情によって局限されたものも全て直接に理解できるからである。
しかしこのような対象を選ぶべきだと言っても、それは外面的な、卑俗な現実を指すのだと解してはならない。そういう客観性を要求することは出来るが、その結果は間違ったことになる。このようなものの表現はとくにコッツェブーの作品の内容や人物に見られるところで、それらの人物は全く凡常な現実の域を脱せず、その内容は全く自然のままの外面性に止まっている。確かにこのような世界には誰でもすぐに安んじて親しめるが、しかし芸術的要求を以てこのような作品に接する人は、決してそこに安住する気にはなれない。芸術はこの種の主観性からこそ我々を解放すべきだからである。例えばコッツェブーはこのような表現によって彼の時代には大いに人気を博したが、それはただ、「我々の悲歎と困苦だとか、銀の匙の窃取だとか、極刑を賭した暴挙だとか」を、さらには「牧師・商業顧問官・士官候補生・秘書・軽騎士隊長」などを公衆の耳目に供したからであり、それでだれもが自分自身の家庭内の瑣事や、さもなくば知人や親せきなどのそれを眼前に見、あるいは一般に、各自がそれぞれの事情と特殊な目的のもとで難渋するさまを見聞したからである。このような表現の主観性は、たとえその対象への関心を我々の心の通常の要求やいわゆる道徳的通念ないし反省に帰着させることが出来るにしても、芸術品の真の内容をなすものについての感情や観念へ我々を引き上げる力をそれ自身において欠いている。上述の観点から見て外部事情の表現は主観性の一面に偏したものであって現実の客観的な形態を少しも公正に扱わないのである。この外面的事象は真実性や理想性を欠いている。それは芸術品においては排除されねばならない。尤も作中人物の表現するものを通じて卑俗な外界の現実を想起する人にとっては、そういう外面性もなくては困るかもしれない。実際このような種類の客観性はしばしば人々を悦ばせるし、ゲーテの青年期の作品はこの面をしたたかに存しているが、しかしまたそのために卑俗さを示していることも甚だ多い。例えば『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』は、その表現がこの客観性を持っているからこそ、途方もなく高く評価されているのだが、その中の多くの箇所は卑俗なものになっている。フリードリッヒ・フォン・シュレーゲル氏やティーク氏はこのことを賞賛しているし、後になってゲーテもロマン的な場面を挿入しているのだが、たとえそのような表現が往々生動性の名を以て呼ばれるにしても、実際にはそれは卑俗な現実味であるにすぎない。それは何の美的価値もなく、とくに舞台ではたちまち無意味なものとして目に付くのであって、この種のものを表現するのが骨折りがいのあることだと思う人はない。このようなものは読むだけならまだしも我慢できるが、それが大きな設備をもって舞台上に表現され、期待して幕の上がるのを待ち受けている観客群の前に演出されて、そこへ出て来た馬丁が「ブランデーをもう一杯!」などと言うときは、観るも忌まわしい感じがするし、また甚だ殺風景に見える。この劇では境位の特徴と騎士たちの性格が全て極めて直観的に、分かりやすく描かれているが、それにも拘わらず、これらの場面は極めて凡俗であり、もともと散文的である。その内容となり形式となっているものは、確かに誰にでも身近ではあるが、全く普通のありふれた現象相や客観態であるにすぎないからである。同様の事例はなおゲーテの青年期に属する他の多くの作物にも見出される。それらの作物はとくに、従来規則と見なされていた全てのものに対する反抗を示しており、その主なる効果の由って来るところは、全てのものを我々の直観と感情にとって至極容易に把握できるものとして表現することによって、我々に身近なものとしたことにある。しかしそれらの作物はあまりにも卑近であり、ときにはあまりにも実質的内容に乏しかったので、そのために凡俗なものになってしまった。この凡俗性は主として劇作品の上演を見る場合にいよいよ目に付いてくる。と言うのは、我々は劇場に入るとすぐにもう多くの装置や照明や着飾った観衆などに刺戟されて、二人の農夫とか二人の騎士とかもう一杯の酒とか言うものとは別のものを観たいという気になるからである。『ゲッツ』は読み物としてこそ魅力があったが、舞台上に長く続けて上演されることは出来なかったわけである。私は『ゲッツ』がヴァイマールで上演されたのを見たことがある。ここではそれがゲーテによって他のどこでよりも永く舞台にかけられたのである。この劇でなお多少の興味を惹くのは、ロマン的な場面であるが、その上演を見ると、この種の客観性は初っ端から甚だ殺風景に見える。またシラーは『ヴィルヘルム・テル』で表現の外面的正確さを得るために大いに苦心したが、当時イエナで学んでいた80名ないし100名のスイス人はその初演に一向満足せず、これは本当のスイス人ではないと考えた。劇の外面上の存在相が彼らの記憶にそぐわなかったのである。
コッツェブーの脚本があれほど大きな効果を収めたのも、卑近な世相を描いたからである。それらの劇は、イフラントその他の人々のやはり大いに愛好されていた劇と同様に、世間周知の情態や庶民的な題材などを表現している。そこでは種々の社会的関係、役人の立場、家政上の困難など、およそ好ましからぬ情態が題材として用いられているが、それらの全体は万人周知の地盤の上に演じられる。コッツェブーは全ての人に身近な日常生活の場面を表現したから、あれほど多くの効果を収めたのである。とにかくこのような情態が描き出されると、だれもがそこに自己自身を観るのであるが、しかし芸術においては我々はこの主観性からこそ解放されるべきである。我々が主観として客観的なものに対する感受力を欠いているならば、芸術品の内に自己を見出すことを求めてはならない。
もちろん、芸術品にはそれをいつも我々に疎遠なものにしておく一面がある。我々はそこに描かれた多くの情態をそのまま容認し、前提しなければならないからである。この疎遠なものが芸術品の死滅する面を形作るのであって、この面は真理をそれにふさわしい真実な仕方で表現することが出来ない。このような表現のためにはもっと高級な形式が必要だからである。我々の内なる最高の規準から言えば、ただ種々の境位が充分にそれに適合しないのみならず、芸術一般が不満足なものである。しかし芸術に理想を具現するにあたっては、種々の事情によって制限された市民生活の情態や、これらすべての依存関係を切り捨てることが肝要であり、従って素材はこれをより古い時代から取って来る力がよいということになる。このような素材では個々の特殊相が表象の域へ移行しており、かくて全体がいっそう大きな独立性を以て表現され得るからである。芸術品はその現象の面において完全に規定されていなければならないが、この規定性は作品を受容すべき人々にとって周知のものでなければならない。しかもこの規定性は、出来る限り、理想に適ったものでなければならず、本質的な内容と帰一しなければならない。それは錯綜した外面的依存関係に巻き込まれないような、普遍的な形式でなければならない。ところで表現が過去の時代へ移されると、これによって外面的なもの自身がより抽象的に、普遍的になるのである。
以上の考察によって我々は、ある時代の我々に疎遠な、外的な面を真に同化する仕方を理解し、また芸術品の真の客観性というものを了解するに到った。芸術品は精神と意志との高級な諸関心、本来人間的で力あるもの、心情の真の深みを我々に開示しなければならない。この内容があらゆる外面的現象を通じて現れ、あらゆる騒音を貫いてその基調を響かせることが、芸術の本質上肝心な主要事である。
かくして真の客観性はある境位の実体的内容たるパトスを我々に啓示し、また精神の実体的諸契機が生きたものとなって実現され外化されるところの、豊かな、力強い個体性を啓示してくれる。その場合このような内容を具体化するためには、ただ一般にこれにふさわしい、それだけで分かるような限界をつけ、確然たる現実性を与えることが要求されるのである。このような内容が発見され、理想の原理に従って展開されるならば、芸術品は、個々の外面的な細部が歴史的に正当であろうとなかろうと、即自かつ対自的に客観的なのである。その場合芸術品はまた我々の真の主観性に語りかけられて我々自身のものともなる。そうなると、たとえ素材が、その皮相の形態の上では、遠く過ぎ去った時代から摂取されたものであっても、芸術品の永続的な基礎をなすものはあくまで精神固有の人間的なものである。これは一般に真の意味で永続的な、力強いものであって決して我々に働きかけずにはおかない。この客観的なものは同時に我々自身の内面を充たす内容をも形作るものだからである。
これに反して作品の単に歴史的な外面は消滅して行く面であって、我々が遠い昔の芸術品に接するときは、この面と和解してその余所余所しさを解消するように努めねばならないし、我々自身の時代の芸術品の場合でさえもそれを看過し無視するように心がけねばならない。そうすれば、サラストロが『魔笛』の中で歌っているような徳さえも、この曲の旋律の内奥の核心と精神のために、誰もがエジプト人と一緒に満足感を以て受け入れるところとなろう。
さて芸術品が上述の意味での客観性を有するとすれば、これに対しては我々主体も、そこに我々自身がその単に主観的な特殊性や独自性を以て現れているのを再認しようと欲するような、誤った要求を放棄しないければならない。『ヴィルヘルム・テル』が初めてヴァイマールで上演されたときは、スイス人が誰一人としてそれに満足しなかったが、これと同様に多くの人々はいかに美しい恋愛歌に接しても、そこに自分自身の感情を求めてこれを見出し得ないならば、この理由でその表現を誤ったものと断ずる。それは、恋愛を小説によってしか知らない人々が、現実においても、作中の人物と全く同じ感情を身に感じ、また全く同じ状況を身の回りに見出さない限りは、恋に落ちたとは思わないのと同様である。
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