エンチュクロぺディーへの序論

 § 1 哲学は、他の諸科学のように、その対象を直接に表象によって承認されたものとして前提したり、また認識をはじめ認識を進めていく方法をすでに許容されたものとして前提したりするという便宜を持っていない。なるほど哲学はまず宗教と共通の対象を持ってはいる。両者ともに真理を対象としており、しかも、神が真理であり、神のみが真理であるという最高の意味における真理を対象としている。また両者ともに、有限なものの領域、即ち自然および人間の精神、それらの相互関係、およびそれらの真理としての神とそれらとの関係を取り扱っている。従って哲学は、我々がその対象を識っていることを前提し得るのみならず、それを識りそれに関心を持っていることを前提しなければならない、とさえ言える。このことは、意識は、時間からすれば、対象の概念よりも表象の方を先に作るものであり、しかも思惟する精神は、表象作用を通じまた表象作用に頼ってのみ、恣意的な認識および把握へ進むものであることを考えただけでも明らかである。
 しかし、思惟的な考察をしてみればすぐ分かるように、思惟的な考察というものは、その内容の必然性を示し、その対象の諸規定のみならずその対象の存在をも証明しようとする要求をその内に含んでいるものである。従って単に対象を識っているだけでは不十分であり、また前提や断言を作ったり承認したりすることは許されないことである。しかしそれと共に始めを作ることの困難が生じて来る。なぜなら、始めは直接的なものであるから、それは前提を作るものであり、あるいはむしろそれ自身前提であるからである。

 § 2 哲学はまず一般的に言って、対象を思惟によって考察することと定義され得る。しかし人間と動物との区別が思惟にあるということが正しいとすれば(そしてこれは確かに正しいことであろう)、全て人間的なものが人間的であるのは、それが思惟によって成就されるということに依るのであり、しかもただそのことにのみ依るのである。しかしながら哲学は、思惟の一つの独自の様式、即ちそれによって思惟が認識となり概念的認識となるような様式であるから、哲学的思惟と、あらゆる人間的なものの内に働いており、しかも人間が人間であるゆえんを作り出す思惟とがどんなに同一であり、即自的にはただ一つの思惟であるにせよ、両者の間にはやはり差別もあるであろう。この区別は、人間の意識内容が本来思惟に基いていながら、最初は思想という形式をとって現われず、感情や直観や表象というような、形式上思惟と異なった諸形式をとって現われるということと関係があるのである。
 人間を動物から区別するものは思惟であるという思想は決して新しいものではなく、今ではもうあまりにも分かり切ったことになっている。こんなに昔から信じられ、分かり切ったことになっている事柄をいまさら注意する必要があると言うと、人々は奇異の感を抱くに違いない。しかし現代の人々が持っている偏見を見ると、まさにそうした注意は必要なのである。今日人々は感情と思惟とを、両者が対立するに至るほどに分離し、感情、特に宗教的感情は思惟によって不純にされ歪められ絶滅されさえするほど、両者は敵対的なものであって、宗教および宗教心は全く思惟に基かず、思惟の内に場所を持たないと考えている。両者をこのように分離する人々は、人間のみが宗教の能力を持つこと、そして動物は、法律も道徳も持たないように、全く宗教を持たないことを忘れているのである。
 宗教はあくまで思惟から分離されねばならないと主張する人々は、普通、追思惟という言葉で言い表し得る思惟、即ち、思想そのものを内容とし、それを意識へもたらす反省的思惟を念頭においている。哲学に対する最も無知な観念や最も甚だしい非難を生み出すものは、思惟に関して哲学がはっきり述べている区別を知ろうとも注意しようともせぬ怠慢なのである。人間のみが宗教や法律や人倫を持っており、しかもそれは人間が思惟する存在であるからこそそうなのである。従って、宗教や法律や人倫の内には、感情や信仰の形をとるにせよ、あるいはまた表象の形をとるにせよ、思惟一般が働いているのであって、思惟の活動および産物はそれらの内に現在し含まれているのである。しかし思惟に規定され貫かれているこうした感情や表象を持つということと、それらに関する思想を持つということとは違う。反省とか理由づけとか言うようなものも、上に述べたような意識の諸形式に関して追思惟が作り出した思想であり、哲学もまたそうである。
 人々はこの区別を無視して、しばしば、こうした追思惟が永遠にして真なるものの表象および信仰へ到達する条件であり、唯一の道であるというような主張をした。そしてあらゆる哲学者がそのような主張をしているように誤解した者はいっそう多かった。例えば、今ではむしろ過去のものとなった神の存在の形而上学的証明は、それを知りかつ確信することが、神の存在を信仰し確信するに欠くべからざる唯一の道であるかのように取り扱われて来たものである。しかしこのような主張は、我々が食物の化学的知識や植物学的知識やあるいは動物学的知識を得るまでは我々は食事をすることが出来ず、我々が解剖学と生理学の研究を終えるまでは消化するのを待たねばならないというような主張と同じである。もしそうだったら、これらの学問や哲学は、それぞれの領域で非常に有用さを増すであろう。否、あらゆる場合絶対に欠くことのできないものとなるであろう。むしろそれらは、欠くこのの出来ないものとなる代わりに、全く存在しなくなるであろう。

 § 3 我々の意識を満たしている内容は、それがどのようなものであるにせよ、感情や直観や表象の、目的や義務の、および思想や概念の規定性をなしている。この限りにおいて感情、直観、表象、等々はこの内容の諸形式であって、この内容は、それが感じられようと、直観されようと、表象されようと、欲求されようと、あるいは単に感じられようと、思想をまじえて感じられ直観されようと、あるいは全く純粋に思惟されようと、あくまで同一のものである。内容はこれらの形式のどれか一つの内で、あるいは幾つかの混合したものの内で、意識の対象をなしている。しかしこのような対象性の内で、これら特定の諸形式はまた内容に結びついてもいる。その結果これら諸形式の各々に従って特殊な対象が生じるように見え、本来々内容であるものが、様々の内容であるように見えるのである。

 感情、直観、欲求、意志、等々の諸規定性は、それらが意識されている限り、一般に表象と呼ぶことが出来る。従って一般的に言って、哲学は表象を思想やカテゴリーに、より正確に言えば概念に変えるものだと言うことが出来る。表象は一般に思想および概念の比喩と見ることが出来る。しかし表象を持っているからといって、それだけではまだ表象の思惟に対する意味、即ち表象の思想および概念を知っているということにはならない。逆にまた思想や概念を持つということと、どんな直観や感情がそれに対応しているかを知るということとは、別なことである。人々が哲学は分かりにくいと言っている理由の一つはここにある。哲学が分かりにくいのは、一方においては、人々が抽象的に思惟すること、即ち純粋な思想をしっかり捕まえてその内で動くことが出来ないからである(これは本来人々がそうしたことに慣れていないからにすぎない)。普通の意識においては、思想は知り慣れた感性的および精神的材料をまといそれと一つになっている。そして我々は思索や反省や理由づけの内で感覚や直観や表象を思想と混合している(この葉は緑であるというような、全く感覚的な命題のどれを取って見ても、そこにはすでに有、個別性というようなカテゴリーが混じっている)。しかし、思想そのものを純粋に対象とするのはまた別なことである。人々にとって哲学が難解であるもう一つの理由は、彼らが思想および概念として意識の内にあるものを、あくまで表象の形で思い浮かべようとすることにある。彼らはよく、自分は或る概念を理解しはしたが、それによって何を考えたらいいか分からない、と言う。概念が問題となっている場合には、概念そのもの以外の何ものをも考えるべきではない。しかし彼らの真意は、すでに知り慣れた表象への渇望にある。表象に慣れている意識は、表象を取り去られると、自分がこれまで安心して立っていた堅固な地盤が取り去られたような気がするのである。概念だけの世界へ移されると、自分が一体どこにいるのか分からなくなるのである。だから著述家でも牧師でも演説家でも、読者や聴衆がすでに空で知っている事柄、彼らがよく知っていて自明であるような事柄を語る者が最も分かりやすいとされるのである。

 § 4 従って普通の意識に対しては哲学はまず、哲学には哲学特有の認識方法が必要であることを証明せねばならない。否むしろそれを目覚ましさえしなければならない。しかし宗教の対象、即ち真理一般に関しては、哲学は自分がそれを自己自らの内から認識する能力を持っていることを証明せねばならない。そして宗教的表象との相違が前面に現れる場合には、哲学は宗教のそれとは異なっている自己の諸規定の正しさを証明せねばならない。

 § 5 上に述べたような区別、およびそれに関連したことだが、我々の意識の真の内容は、思想や概念の形式に翻訳されても保存されるということ、否むしろそれによって初めて本来の姿を照らし出されるということ。このことを予め読者の頭に入れておくために、もう一つ古くから信じられている考えに注意を促したいと思う。即ち事物や出来事、さらに感情や直観や意見や表象やの真理を知るには思惟が必要であるという考えである。ところで思惟はあらゆる場合に少なくとも、感情や表象、等々を思想に変えるものである。

 哲学が自分の仕事の特有な形式として要求するものは思惟に他ならず、しかも人間は生まれながらに思惟の能力を持っている。従って、私が第三節に述べておいたような区別が無視されると、先に哲学の難解に関する不平として私が言及したものと丁度反対のことが生じて来る。即ち人々は哲学を侮って、苦心して哲学を勉強したことのない人々さえ、自分は哲学がどういうものであるかを生まれながらに理解しているというような口をきき、またそんないいかげんな哲学的教養しかない人々が、特に宗教的感情を拠り所として、哲学したり哲学を批判したりする能力があるというような口をきいたりするのである。他の学問の場合には、それを知っているには予めそれを研究していなければならないということ、そしてそうした知識があって初めてそれに関して判断を下す権利があるのだということを人々は認めている。また靴を作るには、たとえ全ての人が足を持っていて、それを型とすることが出来、全ての人が手を持っていて、その内に仕事に必要な能力を備えているにせよ、予め靴の作り方を学びかつ練習していなければならない、ということを人々は認めている。彼らは、哲学にだけはそうした研究や学習や努力が必要でないと思っているのである。最近こうした安易な考え方が直接知、直観知の学説によって是認されるようになっている。

 § 6 他方においてはまた哲学は次のことを、即ち、哲学の内容は、生きた精神の領域そのものの内で生み出され、また現存在生み出されつつある内容、意識の世界、意識の外的および内的世界となされている内容に他ならないということ、一口に言えば哲学の内容は現実であるということ、を理解していなければならない。この内容を最初に意識するものがいわゆる経験である。世界の思慮深い考察はすでに、内的および外的存在の広い世界の内で、単に現象にすぎないもの、即ち一時的で無意味なものと、それ自身真に現実の名に値するものとを区別している。哲学はこの同一の内容に対する他の意識の仕方と、形式の点でのみ違っているのであるから、それは現実および経験と必ず一致せねばならない。実際この一致は、或る哲学が正しいか否かに関する、少なくとも外的な試金石であり、またこの一致を認識することによって自覚的な理性と存在する理性すなわち現実との調和を作り出すことが、哲学の最高の究極目的と見られなければならない。

 私の「法の哲学」の序文には、理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である、という命題がある。この簡単な命題は多くの人に愕きと敵意を起こさせた。しかも自分は宗教はもちろん哲学をも持っていると考えている人々の内にさえそうした人々があった。この点に関して宗教を引き合いに出す必要はあるまい。というのは、神が世界を支配しているという宗教の教えの内に、この命題があまりにも明白に述べられているからである。しかしこの命題の哲学的意味を理解するには、神が現実的であるということ、神こそ最も現実的なものであり、神のみが真に現実的であるということを知るだけでなく、形式の点から言って、一般には存在は一部は現象であるから、現実であるのは一部にすぎない、ということをも知っているだけの教養が必要である。日常の生活ではあらゆる気まぐれ、誤謬、悪と言ったようなもの、及びどんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手当たり次第に現実と呼ばれている。しかし我々は普通の感じから言ってもすでに、偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しないことを感じている。偶然的なものは可能的なもの以上の価値を持たない存在であり、有るかもしれずまた無いかもしれないものである。私が現実という言葉を使っているとすれば、人々はそれについてとやかく言う前に、私がどんな意味にそれを用いているかを考えて見るべきだろう。なぜなら、私は論理学を詳細に述べた本の内で現実 Wirklichkeit という概念をも取り扱っており、それを、やはり現存在 Existenz を持っているところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有 Dasein 、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別しているからである。一般の漠然とした考え方にもすでに理性的なものの現実性を否定するするような考え方がある。その一つは、理念や理想は幻想にすぎず、哲学とはそうした幻想の体系にすぎないというような考え方であり、もう一つは逆に、理念や理想は現実性をもつにはあまりにも優れたものであるとか、理念や理想は現実性を手に入れるにはあまりにも無力であるというような考え方である。しかしとくに理念と現実とを切り離すことを好むのは、悟性的な考え方をする人々であって、彼らは悟性が作り出した非現実的な抽象物を真実なものと考え、彼らが政治の領域においてさえ特に好んで押し付けたがるゾレン Sollen を得意になって振り回している。まるで世界が、それがどうあるべきで、どうあってはならないかを知るために、彼らを待っていたかのようである。もし世界があるべきようになったら、悟性の小賢しいゾレンなどどこに残る余地があるであろうか。尤も、一定の時および特定の範囲にとっては大きな相対的重要性を持っているが、大きく見れば外面的で一時的な事物や制度や状態などに、悟性的なゾレンが向けられる場合には、その言い分が正しいこともあるであろう。このような場合には、それは普遍的な正しい規定に一致しないものをたくさん見出すでもあろう。誰しも自分の周囲に、あるべきものでない多くのものを見出すほどの知恵は持っているからである。しかしこのような知恵が、先に述べたような諸事物やそのあるべき姿を云々することによって、哲学の内にあると自惚れるのは見当違いである。哲学はただ理念をのみ取り扱うものであるが、しかもこの理念は、単にゾレンに止まって現実的ではないほど無力なものではない。従って哲学が取り扱うのは現実以外の何ものでもなく上述の事物や制度や状態などは単にその表面にすぎないのである。

 § 7 思惟は一般に哲学の原理(始めという意味においても)を含んでいるのであるが、ルターの宗教改革の時代以後、近代において再び思惟が独立を得るようになってから、それは直ちに、ギリシアにおける哲学的思惟の始まりとは違って、単に抽象的にのみ振る舞わず、現象界の一見三秩序とも見える無限の素材へ向かっていった。そこで哲学という名称は、経験的個別性の大洋の内にある確かな規準および普遍的なものの認識、一見無秩序とも見える無数の偶然事の内にある必然的なものや法則の認識に従事し、従ってその内容を、内外の世界を自分の目で直観し知覚することから、即ち目の前にある自然、目の前にある人間の精神および心情から取り出す、あらゆる知識に与えられるようになった。

 経験の原理は、限りなく重要な規定を含んでいる。それは、人が或る内容を受け入れ信じるには自分自身がそれに接していなければならないということであり、もっとはっきり言えば、そのような内容が自分の確かめたことと一致し結合するのを見出すということである。単に外的な感覚を以てするにせよ、あるいはより深い精神、本質的な自覚を以てするにせよ、我々自身がその事柄に接していなければならないのである。この原理は、今日信仰とか、直接知とか、外見におけるおよび特に自分自身の内部における啓示とか言われているのと同じものである。我々はこれまで哲学と呼ばれてきた諸科学を、その出発点からみて経験的科学と呼んでいる。しかしそれらが目指しかつ作り出す本質的なものは法則、普遍的な命題、理論であり、一口に言えば、現存するものの思想である。ニュートンの物理学が自然哲学と名付けられていたのは、こうした根拠を持っているのである。同じ理由から例えばフーゴー・グローティウスにしても、諸国民相互の歴史的行為を総括比較し、普通の推理を用いて一般的な原則、理論を打ち立てたのであるから、その理論は国際法の哲学と呼ぶことが出来る。哲学という名称は英国では今なお一般にこうした意味に用いられていて、ニュートンは依然として最大の哲学者と呼ばれている。それのみか磁気、電気の器械などというような特定の見出しの下に入れられない器械、例えば寒暖計や晴雨計、等々から器械製造者の定価表に至るまで、哲学的器械と呼ばれている。もちろん木材や鉄などから組み立てられたものではなく、ただ思惟のみが哲学の道具と呼ばれるのが正しいのであるが(原注:トムスンが発行している年報も、その表題は「哲学年報、あるいは化学、鉱物学、力学、博物学、農学、および技術の雑誌」となっている。これを見れば、ここで哲学的と呼ばれている材料がどんなものであるかが自ずから分かる。最近私はイギリスの或る新聞の新刊書の広告の内に、「哲学的原理に基づいた毛髪保護法,8 ポースト、美しい印刷、定価 7 シリング」というのを見出した。毛髪保護の哲学的原理とは、おそらく化学的、生理学的というような意味を持ってるのであろう。)かくして特に、ドイツでは合理的国家経済学とか、理知の国家経済学とか呼ばれている。最近代におこった政治経済学はイギリスでは哲学と呼ばれている。(原注:イギリスの政治家は公の言論においてさえ、一般的な国家経済学的原則について哲学的原則という言葉をよく使う。1825年2月2日の議会でブルーエムは玉座からの言葉への奉答にあたって「恐れ多くも陛下が今日その通過に関して議会に祝辞を賜りましたところの、政治家のふさわしくかつ哲学的な、自由貿易の原則、と申しますのは、これらの原則が哲学的であることは疑いのないところでありますから」というような表現を用いている。こうした言葉を用いるのはしかしこの在野党の議員だけではない。同じ月に船主協会が首相リヴァプール伯を主賓とし、外相カンニング、陸軍会計総監チャールズ・ロングを副賓として催した年一回の晩餐会の席上で、外相カンニングは自分への乾杯に答えてこう言っている。「閣員が我が国の行政に深遠な哲学の正しい諸原則を適用し得る時代が最近において始まったのであります」イギリスの哲学とドイツのそれがどんなに違っているにせよ、他方では哲学という名称が綽名および嘲笑の的として用いられているとき、それがイギリスの政治家にはなお尊敬を以て語られているのを見るのはうれしいことである。

 § 8 以上述べたような認識は、差し当たり自己の領域内では満足を与えるが、それは次の二つの点で不十分である。第一に、その領域に含まれていない一群の対象、自由、精神、神というような対象が存在する。これらの対象が上の地盤の上には見出されない理由は、それらが経験に属さないからではなく(なぜならもちろんそれらは感覚的に経験され得るものではないが、およそ意識の内にあるものは経験されるものであって、このことは同語反復的な命題でさえあるからである)、その内容から言って無限なものであるからである。

 「感覚、経験の内になかった何ものも思惟の内にはない」という命題は古くからある命題であって、普通誤ってアリストテレスに帰され、人々はこれによってアリストテレス哲学の立場が言い表されるように思っている。もし思弁的な哲学がこの命題を承認しようとしなかったとすれば、それは誤解に基づいていたにすぎない。しかし思弁的な哲学はそれと同時にその逆の命題「思惟の内になかった何ものも感覚の内にはない」という命題をも主張するであろう。そしてそれは、広い意味では、ヌースあるいは精神(これはヌースのより深い規定である)が世界の原因であるということを意味し、狭い意味では、法律的、道徳的、宗教的感情が、ただ思惟の内にのみその根と場所を持っているような内容に関する感情であり、従ってそうしたものの経験である、ということを意味する( § 2 参照)。

 § 9 第二に、主観的理性は、形式の点から言って、経験的知識が与え得る以上の満足を求めるものである。そしてこの形式は即ち最も広い意味での必然性である( § 1 参照)。経験的科学の方法は次の二つの点で不十分なところを持っている。その一つは、経験的科学が含んでいる普遍、類、等々は、それだけ取って見ると無規定で、特殊との連関を持たず、普遍的なものと特殊なものとは互いに外的であり偶然的であるということであり、また結合されている諸特殊もそれ自身としては互いに外的であり偶然的であるということである。もう一つは、経験的科学は常に直接的なもの、与えられたもの、前提されたものから始めるということである。この二つの点から言って、経験科学の方法は必然性の形式を満足させないものである。こうした要求を満足させようとする思惟が真の哲学的な思惟であり、思弁的な思惟である。思弁的な思惟は、従って、最初に述べた思惟と共通なものを持ちながら、同時に異なったものをも持っているのであって、それは共通な諸形式の他になお独自の諸形式を持っており、そしてこの独自の諸形式の普遍的な形式は概念である。

 この限りにおいて思弁的な学問の経験的な諸科学に対する関係は次のごとくである。前者は後者の経験的な内容を無視せず、それを承認しかつ使用する。思弁的な学問は経験的な諸科学の内に見出される普遍的なもの、法則、類、等々を承認して、それらを自己の内容のために役立てる。しかしさらにまた思弁的な学問は、経験的な諸科学から得た諸カテゴリーの内へ他のカテゴリーをも導き入れかつ使用するのである。この限りにおいて両者の論理学および形而上学を含み、同じ思惟形式、法則、および対象を保存するものであるが、しかし同時により進んだ諸カテゴリーをもってこれらのカテゴリーを発展させ変形するのである。
 思弁的な意味での概念と、普通に概念と呼ばれているものとは区別されなければならない。思弁的なものは概念では捉えられないという主張が立てられ、それは幾度となく繰り返されて今では先入見とまでなっているが、この場合概念という言葉は普通用いられているような一面的な意味に理解されているのである。

 § 10 哲学的な認識方法であるこのような思惟は、それ自身、その必然性に従って把握されなければならないし、またそれが絶対的な対象を認識する能力を持っているということも立証されなければならない。しかし、このような洞察はそれ自身哲学的認識であるから、哲学の内部にのみ属する。従ってそれを前以て説明するというようなことは非哲学的な説明とならざるを得ないし、それは、様々の前提や個々の理由付けの組み合わせ、言い換えれば、同じ権利を以て反対のことも主張できるような偶然的な諸主張の組み合わせ以上のものではあり得ないであろう。

 批判哲学の主眼点は、神や事物の本質や認識に取り掛かる前にまず認識能力そのものを吟味して、それが果たしてそうした能力を持っているかどうかを吟味しなければならない、ということにある。つまり、仕事に取り掛かる前に、仕事に使う道具をまず知っておかねばならない、もしそれが不十分だったら、あらゆる骨折りが無駄になってしまうだろう、と言うのである。この思想は極めてもっともらしく見えたので、非常に大きな賛嘆と同意を引き起こし、対象に関心を持ち対象の認識に従事していた人々は、その認識を認識そのものへ、形式の問題へ向けるようになった。しかし言葉に欺けられなければ容易に次のことがわかる。認識以外の道具の場合には、その道具に特有の仕事を予めしてみないでも、他の方法でそれを吟味したり評価したりすることが出来ないことはない。しかし認識作用の吟味ということは、認識しながらでなければ不可能である。このいわゆる道具においては、道具を吟味するとは、水に入る前に泳ぎを習おうというスコラ学者の賢明な企てと同じように馬鹿げたことである。
 ラインホルトは、ことをこういう風に始めることの不合理を認識したので、それを救う方法として次のような提案をしている。それは、まず仮定的な、蓋然的な哲学思惟から始め、この思惟を進めていって(どのようにしてそうするのか誰にも分からないが)、いつかは遂に本源的真理へ到達しているようにする、というのである。しかしよく考えてみると、この方法は、経験的基礎の分析か、でなければ定義の形をとった暫定的な想定の分析に帰着する。前提や暫定的な命題から進んでゆく普通の方法を彼が仮定的で蓋然的な方法と言っていることの内には、正しい自覚があることを看過することはできない。しかしこの正しい洞察も、この方法の性質を変えるものではなく、この方法が不十分であることを明白に示すにすぎない。

 § 11 もっと立ち入って言えば、哲学の要求というものは次のように規定することが出来る。精神は感じ直観するものとしては感性的なものを、想像としては心象を、意志としては目的をその対象としているが、精神はこれら精神の定有および対象の諸形態と対立しながら、あるいは単に区別されながら、自己の最高の内面性たる思惟をも満足させ、そして思惟をその対象としようとする要求を持っている。かくして精神は、言葉の最も深い意味において、自分自身へ帰るのである。というのは、精神の原理、精神の純粋な自己は思惟であるからである。しかしこの仕事に携わっている時、思惟が矛盾に巻き込まれるということ、言い換えれば、諸思想の固定された区別の内に自己を見失い、従って自分自身に到達するどころか、むしろ自己と反対のものの内に捉えられてしまうというようなことが起こって来る。より高い要求は、単なる悟性的思惟のこうした結果に反抗する。そしてこの要求は、思惟が「こうした結果を克服することを目指して」、即ち思惟そのものの内でそれ自身の矛盾の解決を成し遂げることを目指して、自己に踏みとどまり、自分を見失ったことを意識している場合でさえ、あくまで自己に忠実であることに基いているのである。

 思惟の本性そのものが弁証法であり、悟性としての思惟は自己否定、矛盾に陥らざるを得ないという洞察が論理学の主な側面の一つをなしている。思惟は、自分自身で陥った矛盾の解決を自分自身で為し遂げることに絶望すると、他の仕方および形式において精神に与えられていた解決と安息へ後戻りしてしまう。しかし思惟は、絶望しさえしなければ、このような後戻りをして、プラトンがすでにその時代に見たような思惟の嫌悪に陥る必要もなければ、また真理を意識する唯一の形式と称しているいわゆる直接知の主張に見られるように、自分自身に対して反駁的な態度をとる必要もないのである。

 § 12 哲学は上に述べたような要求から生じるものであるが、その出発点および帰納的意識を持っている。思惟は、経験に刺戟されて、自然的意識、即ち感性的および帰納的意識を超えて自己を自己自らの純粋な境地へ高め、かくしてまずその出発点から遠ざかりそれを否定するような関係をとるようになる。思惟はこのようにしてまず自己の内に、即ち経験的諸現象の普遍的本質をなす理念の内に(この理念(絶対者、神)は、多かれ少なかれ抽象である)満足を見出す。ところが逆に経験的諸科学は、それらの豊かな内容を単に直接的なもの及び見出されたもの、単に並べられている多様にすぎないもの、従って偶然的なものとして示しているにすぎない形式を克服し、この内容を必然にまで高めようとする刺激を必然的に伴っているものである。この刺激は、思惟を上に述べたような普遍性および即自的に与えられているにすぎない満足から引き出して、自己からの発展へ駆り立てる。この発展は、一方では、単に経験的諸科学の豊かな内容をあるがままに受け入れることを意味するにすぎないが、他方では、それと同時に、この内容に、本源的な思惟という意味で自由に、事柄そのものの必然に従って現れ出るという形態を与える。

 意識における直接性と媒介性との関係については、後にはっきりとより詳細に述べることとして、ここでは差し当たりただ、この二つのモメントは異なったもののように見えるけれども、そのいずれも欠くことのできないものであり、不可分に結合されているということを注意するにとどめておく。例えば神に関する知識は、一般に超感覚的なものに関する知識はそうであるが、本質的に感覚や直観を超えた高揚を含んでいる。従ってそれは感覚や直観のような最初のものへの否定的な態度を含んでおり、この限りにおいて媒介性を含んでいる。なぜなら、媒介性とは、或るものから出発して第二のものへ到達していることであり、従ってこの第二のものは、第二のものとは異なったものから、それに到達されている限りにおいてのみ、存在するからである。にもかかわらず、神に関する知識はあくまで意識の経験的側面に対して独立的である。否、それは本質的にそうした否定と高揚を通じて自己にその独立を与えるのである。もし我々が媒介されていることを一面的に強調して、媒介されていることを制約されていることと考えるならば、我々は哲学はその起源を経験(後天的なもの)に負うていると(別にたいしたことを言ってるわけではないが)言うこと出来る(実際においては思惟は本質的に、直接的存在の否定である)。これは、人は食物がなければ食べることが出来ないから、人は食べるということを食物に負うていると言うことが出来るのと同じである。しかしこの点から言えば、食べるということをは忘恩的であると考えられる。なぜならそれは、自分がそのおかげで存在するものを食べてしまうからである。思惟もこの意味から言えば、食事に劣らず忘恩的である。
 しかし、思惟そのものの直接態、即ち思惟が自己の内へ帰った、従って自己の内へ媒介された直接態(先天的なもの)は普遍性であり、思惟の自己安住であって、思惟はこの普遍性の内に自足し、この限りにおいて、思惟は本来特殊化への無関心、従ってまた自己の発展への無関心を持っている。この点で思惟は、宗教が、進んだものにせよ未発達なものにせよ、学的意識にまで発展しているにせよ、素朴な信仰および心情に止まっているにせよ、満足および浄福と言う内面的な本性を具えているのと同じである。しかももし思惟が、最初の哲学(例えばエレア学派の存在、ヘラクレイトスの生成、等々)においては必然的にそうであったように理念の普遍性から一歩も進まないならば、それは当然公式主義の非難を受けなければならない。哲学のより進んだ段階においてさえ、「絶対者においては全てが一つである」とか、「主観と客観との同一」というような抽象的な命題や規定のみが把握されて、特殊なものを取り扱う場合でも、ただ同じことが繰り返されるというようなことが起こり得る。思惟の最初の抽象的な普遍性を考えるとき、哲学の発展が経験に負うところがあるということは、正しくかつ根本的な意味を持っている。なぜなら、第一に、経験的諸科学は個々の現象の知覚に止まっているものではなく、思惟によって普遍的規定、類および法則を発見して哲学のための材料を作り、特殊的なものの内容を哲学に受け入れられるように準備するからである。第二に、経験的諸科学は、このことによって、思惟が自分自身で具体的な諸規定へ進むことを強要するからである。思惟が、この内容になお附着している直接性および所与性を除去しながらこの内容を受け入れることは、同時に思惟の自己発展を意味する。このように哲学はその発展を経験的諸科学に負いながらも、目前にあるもの及び経験された事実をそのままに是認するのではなく、諸科学の内容に思惟の自由(先天的なもの)という最も本質的な姿と必然性の保証とを与え、事実として思惟の本源的な、かつ完全に独立的な活動の表現および模倣たらしめるのである。

 § 13 人々は哲学の発生および発展の外面的な歴史に特有な形態を哲学の歴史と考えている。こうした形態から見るとき、理念の発展の諸段階は偶然的な契機にすぎず、それぞれの哲学体系がそれぞれの仕方で具体化している様々の連絡のない諸原理に過ぎないように見える。しかし数千年に亙ってこの仕事を続けて来たものは一つの生きた精神であり、そしてこの精神の思惟的本性は、自己が何であるかを自覚すること、そしてかく自己を対象とするや否や、すでにその対象化された自己を超え、自己の内で一段高い段階に立つことにあるのである。哲学の歴史が示すことは、異なった姿をとって現われる様々の哲学体系は、発展段階を異にする一つの哲学にすぎないということであり、それぞれの体系の基礎にある特殊な原理は、同じ一つの全体の枝にすぎないということである。時代から言って最後の哲学は、それに先行するあらゆる哲学の成果であり従ってあらゆる哲学の原理を含んでいなければならない。それゆえにそれは、それが哲学である限り、最も発展した、最も豊富な、最も具体的な哲学である。

 一見したところ、非常に多くの異なった哲学があるように見えるが、我々は普遍的なものと特殊なものとを、その真の規定に従って、区別しなければならない。もし普遍的なものを形式的にとって特殊なものと並置するならば、普遍的なものもそれ自身特殊なものとなってしまう。日常生活の内に見られる諸事物をそういう風に取り扱ったら、その不合理は一見して明らかでろう。例えば果物を欲しがる者が、それが桜桃、梨、葡萄、等々であって果物ではないという理由で、桜桃、梨、葡萄、等々を拒んだらどうであろうか。ところが哲学になると人々は、哲学には様々の哲学があって、各々の哲学は哲学の一つにすぎず、哲学そのものではないというような理由を、哲学を斥ける理由として認めている。彼らにとっては桜桃もまた果物ではないのである。まして人々はしばしば、普遍的なものをその原理としている哲学と、特殊なものを原理としている鉄悪とを並置したり、著しい場合には、哲学などおよそ存在しないと主張する学説と並置したりする。彼らは、哲学も哲学を否定するような学説も、いずれも哲学の単に異なった見地と考えているのであろうが、そんなことが言えるとすれば、光と闇は光の二つの異なった種類にすぎないと言うことも出来よう。

 § 14 哲学の歴史に現れているのと同じ思惟の発展が哲学そのものの内にも現れている。しかしこの場合それは、先に述べたような歴史的外面性から解放されて、純粋に思惟のエレメントの内に現れている。自由な本当の思想はそれ自身の内で具体的なものである。かくしてそれは理念であり、その完全な普遍性においては、理念そのものあるいは絶対者である。絶対者の学は必然的に体系でなければならない。というのは、真なるものは具体的なものであって、それは、自己の内で自己を展開しながらも、自己を統一へと集中し自己を統一の内に保存するもの、一口に言えば統体としてのみ存在するからである。また自己の諸区別を区別し規定することによってのみ、諸区別を必然的なものとし、かつ全体を自由なものとなし得るからである。

 体系を持たぬ哲学的思惟は何ら学問的なものではあり得ない。非体系的な哲学的思惟は、それ自身として見れば、むしろ主観的な考え方にすぎないのみならず、その内容から言えば偶然的である。いかなる内容にせよ、全体のモメントとしてのみ価値を持つのであって、全体を離れては根拠のない前提か、でなければ主観的な確信にすぎない。多くの哲学的著作は、このようにただ著者の個人的な考え方や意見を語っているにすぎない。体系と言うと、他の哲学とは違った一つの限られた原理を持つ哲学という意味に誤解されているが、実際はその反対であって、あらゆる特殊な諸原理を自分の内に含むということが真の哲学の原理である。

 § 15 哲学の諸部分の各々はいずれも一つの哲学的全体であり、それ自身の内で完結した円であって、そこでは哲学的理念は特殊の規定性あるいは領域の内にある。しかし個々の円は本来集って体系的な全体をなすべきものであるから、それは自己の領域の制限を突き破って、より広い世界を打ち立てる。従って全体は、各々が必然的なモメントをなしているところの多くの円からなる一つの円として現れ、諸円に特有な諸領域の体系が完全な理念を構成し、またこの理念はあらゆる領域の内に姿を現しているのである。

 § 16 哲学をエンチュクロぺディーという形において述べようとする場合には、哲学の特殊な諸領域を詳細に述べる余裕はなく、特殊な諸学の諸原理および根本概念に止めなければならない。

 一つの特殊な学問を構成するのにどれだけの特殊な諸部分が必要かということは、真実なものであるためには部分が決して孤立したモメントではなく、それ自身一つの統体でなければならない以上、これを定めることはできない。従って哲学の全体は真に一つの学をなしている。しかしまたそれは多くの特殊の学からなる一つの全体と見ることもできる。哲学的エンチュクロぺディーは普通のエンチュクロぺディーとは異なったところを持っている。普通のエンチュクロぺディーは、偶然的かつ経験的に取り上げられた諸学の寄せ集めにすぎず、しかもこれらの学問の内には、学問とは名だけで、単なる知識の寄せ集めにすぎないものもある。このような寄せ集めの内で様々の学問が持っている統一は、もともとそれらの取り上げられ方が外面的なのであるから、同じく外面的な統一、即ち排列にすぎない。しかもこの排列は、同じ理由によって、またそれに加えるにその材料が偶然的なものであるために、常に一つの試みにすぎず、うまく行かないところが必ずあるものである。哲学的エンチュクロぺディーは次の三つのものを排除する。(1)それは、例えば言語学が一見そう見えるような、単なる知識の寄せ集めを除外し、また、(2)例えば紋章学のように単なる恣意の上に立っている学問を排除する。この種の学問は徹頭徹尾実証的なものである。(3)その他に、やはり実証的な学問と呼ばれてはいるけれども、その始まりと基礎とだけは合理的な学問がある。この場合は、合理的な部分のみが哲学に属するものであって、実証的は方面はあくまでこれらの学問に特有なものである。最後に挙げた種類の学問の実証性には三通りある。第一に、これらの学問は、その始まりにおいては合理的であるが、普遍的なものを経験的な個別性と現実性とへまで下降させねばならないために、偶然的なものへ移って行くのである。この変転と偶然との世界においては、概念は通用せず、ただ様々の理由を主張し得るにすぎない。例えば法律学や直接税および間接税の体系は、最後的な、厳密な決定を必要とするものであるが、しかそそこまでは概念そのものによって規定されているのではなく、従って、或る理由からすればこう考えられるが、他の理由からすれば別の風に考えられて、確定した最後的な理由を挙げることはできない、というような無決定の余地が残されている。自然の理念にしても同じことであって、それは個別化するに至ると、偶然的なものの内へ消失してしまう。かくして博物学、地理学、医学、等々は、概念によらぬ諸規定、即ち理性によってではなく外的な偶然の戯れによって規定されている種類や区別を取り扱うにすぎない。歴史でさえ、理念がその本質をなしてはいるが、理念の現われが偶然と恣意との領域にある限り、この例にもれない。第二に、これらの学問は次のような点においてもまた実証的である。これらの学問は、自分が持っている諸規定が有限であることを認識せず、諸規定および諸規定の全領域がより高い領域へ移って行くということを明らかにしない。第一の場合には素材が有限であったし、この第二の場合には形式が有限なのである。実証性の第三の種類は、この形式の有限性と結び付いており、それは即ち認識根拠の有限性である。この認識根拠は、あるいは理由付けであり、あるいは感情や、信仰や、他の人がそう言っているということや、一般的に言えば内的あるいは外的な直観がそれを示しているということである。哲学でさえ、それが人間学や意識の事実、内的直観や外的経験に基こうとする場合には、この種の学問に属する。しかしまた、学問の叙述の形式こそ経験的であるが、洞察に満ちた直観が、単に現象にすぎないものを概念の内的な順序どおりに排列しているということもあり得る。このような経験的知識の場合には、総括されている様々の現象の対立によって、諸条件の外面的で偶然的な事情が除去され、普遍的なものが目に見えるようになるのである。このようにして深い智恵を含んだ実験物理学、歴史、等々は、自然および人事に関する理性的な学問を、概念を反映する外的な形象の内に表現している。

 § 17 哲学もまた、その仕事を始める場合、他の諸科学と同じように、やはり主観的な前提から始めなければならないように見える。即ち、他の諸科学が空間、数、等々の特殊な対象を思惟の対象としなければならないと同じように、哲学は思惟を思惟の対象としなければならないように見える。しかし、哲学の場合、思惟が自分自身に対して存在するようになり、これによって自分自身のためにその対象を自ら産出しかつ与えるという立場に立つということは、思惟の自由な行為によって行われるのである。のみならず、直接的であるように見えるこの立場は、哲学の内部において成果、しかも哲学の最後に成果とならなければならない。従って哲学はそこで再びその端初に到達し、自己の内へ帰るのである。かく哲学は自己へ帰る円であり他の諸科学のような端初を持たない。従って哲学の端初は、哲学しようと決心する場合の主観に関係を持つにすぎず、哲学そのものには関係がないのである。言葉を変えて言えば、哲学の概念、従ってまた哲学の最初の概念は(これは最初の概念であるから、思惟が(いわば外的な)哲学する主観にとって対象であるという分離を含んでいる)哲学そのものによって把握されねばならないのである。哲学が自己の概念の概念に到達し、かくして自己へ帰り満足を見出すということ、これこそ哲学の唯一の目的であり、行為であり、目標である。

 § 18 哲学の全体が初めて理念を表現するのであるから、哲学について予め一般的な観念を与えることは不可能である。同じように哲学の区分もまた理念からのみ初めて理解され得るのである。従ってここで与えられる哲学の区分は、そこから区分が取り出されるべに理念と同じく、一つの予想にすぎない。しかし、これまで述べて来たところからも分かるように、理念は全く自己同一的な思惟であるが、しかもこの自己同一の思惟は同時に自己を自覚するために、自己自身を自己に対峙させながらも、この他者の内で自己のもとにあるような働きである。かくして哲学は三つの部分に分かれる。
  1、即自かつ対自的な理念の学としての論理学
  2、本来に姿を失った姿における理念の学としての自然哲学
  3、自己喪失から自己の内へ帰る理念の学としての精神哲学
 すでに § 15 で述べたように、特殊な哲学的諸学の間にある諸区分は理念そのものの諸規定にすぎず、これら様々の領域の内に現れているものは、理念そのものに他ならない。自然の内で認識されるものは理念以外のものではない。しかし自然の内では、理念はその本来の姿を失った姿において存在している。精神の内では、理念は、対自的に存在し、かつ即自かつ対自的になりつつあるものとして存在している。理念がその内に現れるこのような特定の形態の各々は、同時に流動的な契機である。従って個々の学は、その内容を有的な対象として認識すると共に、これらの内容の内にそのより高い領域への移行をも認識させねばならない。だから区分という観念には、特殊な諸部分あるいは諸学を並置し、それらを静止的なものと考え、それらの区別を、様々の種類のように実体的なものと考えるという、正しくない点が含まれている。



































 

























































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