統体的な個体性の物理学
§ 308 物質は、まず自体的に、重さを持つ物質としての概念の統体性である。それゆえ、物質はそれ自身に即して形式化せられていない。概念の特殊な規定が物質に措定せられた場合には、その概念がまず差し当たって示すのは、特殊性へ分裂する有限な個体性である。
しかし概念の統体性が措定された今は、重心の中心は、もはや物質によって求められているにすぎない主体性ではなく、まず最初は直接的で制約せられていたかの形式規定の観念性として物質に内在している。いまやこれらの形式規定は、内から展開せられた契機である。それゆえ、物質的個体性は、展開しながらもあくまで自己と同一であるから、無限に対自的であるが、しかし同時に制約されてもいる。このような個体性は、ようやく直接的なものとなったにすぎない主観的な統体性である。従って、この個体性は、対自的に無限ではあるが、他者に対する関係を含んでいる。過程において初めてこの個体性は、この外面性と被制約性が、自己を止揚するものとして措定されるに至るのである。こうしてこの個体性は、物質的な対自有の、現存する統体性となる。この統体性は次に、自体的には生命であり、概念としては生命へ移行するものである。
§ 309 統体的な個体性は、
(a)直接的には形態そのものと、その抽象的な原理が自由な現存として現れたものとである。これが磁力である。
(b)この個体性は、規定されて区別となる。即ち、物体的な統体性の特殊な形式となる。この特殊化がその極に達すると、それは電気である。
(c)このような特殊化の実在性が、化学的な差異を持った物体と、このような物体の関係である。即ち、物体を己の契機として持ち、自己を統体性として実現する個体性、化学的過程である。
a 形態
§ 310 物体は、統体的な個体性としては、直接的な、静止的な統体性であり、それゆえ、物質的なものの空間的共存の形式である。従ってそれはまず、例によってまた力学的な関係である。それゆえ形態は、今や制約を受けることなく自由に規定する個体性の物質的な力学的関係であり、内面的な凝集におけるその特殊な仕方だけでなく、空間におけるその外面的な制限までも、内在的な、展開した形式によって規定せられている物体である。こうして形式は、自ずから示現されており、外的な暴力に対する一種の独自な抵抗として初めて現れるのではなく。
§ 311 (α)直接的な形態、即ち、それ自身としては無形式なものとして措定されている形態は、一方の極では、脆弱性という点性であり、他の局では、球状となる流動性である。これが内面的な無形態性としての形態である。
§ 312 (β)脆弱なものは、自ら形成する個体性の、自体的に存在する統体性であるから、開示されて概念の区別となる。点はまず差し当たって線へ移行し、形式はこの線上の両端(項)として対立するに至る。ところでこれらの両端は、自身契機であるために、自分自身の存立を持たず、両者自身の関係(これは現象としては両者の媒概念であり、対立の零点である)によって保持されている。このような推論が、展開された規定態を持つ形態化の原理を構成するのであって、このようにその厳しさがまだ抽象的な場合は、磁力である。
磁力は、概念が、一定の自然の中に己が存在することを自覚し、自然哲学なるものに想到するに至ったときに、特に現れざるを得なかった規定の一つである。というのは、磁石は、概念の本性を、ただし推論( § 181 )というその発展した形式において、単純かつ素朴な仕方で現わすものだからである。両極は、一本の実在的な線の(一本の棒の、あるいはまた全ての次元へ更に延長された物体における)感性的に現存する両端である。しかしこれらの極は、極としては、感性的な、力学的な実在性を持たず、観念的な実在性を持つ。これらの極は、分離することが全く不可能である。これらの極の実体をなす零点は、これらの極が概念の規定としてその中に存在している統一である。従って、これらの極の意義と現存は、専らこの統一の中にあるのであって、分極性とは、単にこのような契機の関係である。磁力は、こうして措定された規定以外さらに、何ら特殊な性質を持たない。個々の磁針が北へも向けば、南へも向くというのは、普遍的な地球磁気の現象である。しかし、あらゆる物体は、磁力を持つと言えば、これは曖昧な誤解を招きやすい。即ち、実在的な形態は、脆弱な形態に限らず全て、このような限定原理を含んでいる、という意味ならば正しいが、しかし、あらゆる物体はまたこの原理(現存はしているがその厳しさがまだ抽象的な、即ち、磁力として存在しているこの原理)をその身に現象させる、という意味ならば正しくない。一つの概念形式が自然の中に存在していることを(ただし、この概念形式が、一個の抽象として存在しているような規定態のままで普遍的に現存すべきである、という形で自然の中に存在していることを)示そうなどと思うのは、非哲学的な考えであろう。自然はむしろ、相互外在という自然本来の場における理念であり、従って自然は、悟性と同様、諸々の概念契機を分散的に固定させ、実在的な姿で現しはするが、しかし高級な事物の場合には異なった概念形式を同時に総合し、一個の極めて高度な具体物たらしめているのである。
§ 313 自己自身へ関係するこのような形式がまず差し当たっては、存立する差異の同一性というこの抽象的な規定の中に現存する限り、従って統体的な形態の中で、すでに産み出されたものとなり終わって無力化されていると言うのではない限り、この形式は、活動として、ただし、形態という領域における活動として、自由な力学的関係の内在的な活動、即ち、場所的関係を規定する内在的な活動である。
磁力と電気および化学的関係の同一性は、当今一般に承認されており、物理学では動かすべからざる基本とされているのであるが、このことに関しここで一言したい。個体的な物質的なものにおける形式の対立は、進んでは、さらに実在的な、即ち電気的な対立として、また、それよりもより以上に実在的な、即ち化学的な対立として規定されるに至る。これら全ての特殊な形式の根底には、その実態として、同一の普遍的な、形式の統体性が潜んでいる。さらにまた、過程としての、電気と化学的関係は、さらに実在的な、物理的に更に立ち入って規定された対立の活動である。しかしこれらの過程は、それ以外にまず何よりも、物質的な空間性の関係における変化を含んでいる。この面から、即ち、このような具体的な活動が同時に力学的な規定である、というこの面から見れば、この具体的な活動は、自体的には、磁気的か活動である。この磁気的な活動そのものが、このより具体的な過程の内部においてもどの程度に現象し得るか、というこの点に関する経験的な条件が最近発見されるに至った。従って、これらの現象の同一性が、電化学的関係、あるいはまた磁電化学的関係、その他これに類する名称を持つ観念によって承認されるに至ったことは、経験科学の重要な進歩と見なければならない。しかし他方また、特殊な形式や(その中に普遍的な形式が現存してはいても)これらの形式の特殊な現象は、本質的には各自それぞれに区別せられねばならない。磁力という名称は、形態そのものの領域におけるものとしての、即ち、単に空間規定にのみ関係するものとしての明確な形式、およびその現象のために保存すべきであって、電気という名称も同時に、この名称によって明確に現わされる現象規定のために保存しなければならない。以前には、磁力と電気と化学的関係は、互いに関係なく、完全に分離され、それぞれ一つの自立的な力と見なされていた。哲学がこれらの現象の同一性に想到したのであるが、しかしこれらの現象の区別は明確に保留していた。物理学における最近の考え方を見ると、これらの現象の同一性という一方の極へ飛び移り、その結果、これらの現象は同一であると同時に、区別すべきものでもあり、またそうだとすればいかにこれを区別すべきであるか、という難関に直面しているようである。区別と同一性の両者を総合しようと欲する点に困難があるのであって、この解決は、概念の本性の中にのみ与えられており、磁電化学的解決などという、様々な名称をごったまぜにした同一性の中に与えられているのではない。
§ 314 形式の活動は、概念一般の活動に他ならない。即ち、同一なものを差別あるものとして、差別あるものを同一なものとして措定する活動であり、従って物質的な空間性というこの領域では、空間において同一なものを差別のあるものとして措定し、即ち、この同一なものを自己から遠ざけ、空間において差別あるものを同一なものとして措定する活動、即ち、この差別あるものを近づけ、接触させる活動である。しかしこの活動は、物質的なものの中にまだ抽象的に(この活動はこのような抽象的な活動としてのみ磁力なのである)現存しているために、単に線的なものをのみ生動させる( § 256 )。同一性と差別性という、形式のこの両規定は、この線的なものの場合には、単にこの線的なものの区別、即ち、両端に分離して現れるにすぎない。そしてこの両規定の活動的な、磁力的な区別は、単に次の点にあるに過ぎない。即ち、一方の端(一方の極)は、他方の端(他方の極)が自己から遠ざけるまさにその当のもの(第三者)を自己と同一なものとして措定する、という点である。
磁力の法則なるものを述べれば、それは、次の通りである。即ち、同名の極は互いに斥け合い、異名の極は互いに引き付け合うということ、同名の極は敵対的であり、異名の極は友好的であるということである。しかしながら、同名であるということに対する規定としては、両者が同様に第三者によって引き付けられ、あるいは斥けられる、ということ以外には存在しない。しかし第三者に対する限定も、同じように、かの同名のものを、あるいは、一般に他者を、斥けるか、それとも引き付けるか、ということにすぎない。全ての規定は、全く単に相対的であって、それぞれ異なった、感性的で無関心な現存というものを持たない。前にも( § 312 )注意したことであるが、北とか南とかいったようなものは、根源的な、最初の、即ち、直接的な規定のごときものを含んではいない。従って、同名のものの敵対性や異名のものの友好性は、すでにそれ本来の規定が与えられた磁力がまず前提された上で、この磁力から生じた現象、即ち、この磁力に基づくより特殊な現象なのでは決してなく、磁力の本性そのものを、従って、概念がこの領域において活動として措定されているときは、概念の本性をまさに表現しているのである。
§ 315 (γ)活動は、この活動によって産み出されたものへ移行すると、形態であって、結晶として措定せられている。このような統体性の中では、差異を持った磁気的な極は中性へ還元され、場所を規定する活動の抽象的な線性は、全物体の面と表面として実現されている。より詳しく言えば、一方では、脆弱な点性は、発展した形式へ拡張されているが、しかし他方では、球の形式的な拡張は、球の制限へ還元されている。ここで働いている唯一の形式は、物体を外へ向かって(物体の外部を、球を制限することによって)結晶させながら、同時に(点性を形成することによって)物体の内面的な連続性を徹頭徹尾(箱片の貫通、核形成)結晶させる形式である。
b 個体的な物体の特殊化
§ 316 力学的な関係による形態化、即ち、空間規定の個体化は、物理的な特殊化へ移行する。個体的な物体は、自体的には、物理的な統体性である。この統体性は、区別を、ただし、個体性の中で規定され保持されている区別を含むものとして、個体的な物体において措定されなければならない。物体は、これらの規定の主語であるから、これらの規定を性質、あるいは述語として含んでいる。とは言っても、これらの規定は同時に、その束縛せられない普遍的な元素に対する反応であり、これらの元素を相手にする過程である。これらの規定が個体性へまだ連れ戻されておらず、かの元素に対する単なる関係であって、過程の実在的な統体性でないのは、これらの規定の特殊化が直接的であってまだ措定されて(このような措定は化学的な過程である)いないからである。これらの規定相互の区別は、その元素の区別であって、原素の論理的な規定態はその場所で示しておいた( § 282 以下)。
古代では一般に、物体はいずれも四つの元素から成ると考えられ、近世ではパラケルススが、物体は水銀、あるいは流動体と、硫黄、あるいは油、および塩とから成ると考え、その他にもこれに類した考えはいろいろとあるが、これらの場合にまず第一に言えることは、反駁が容易であったということである。というのは、人々は、これらの名前がこういう名で通常差し当たって現わされている個々の経験的な元素を意味するものである、とあくまで考えたからである。しかしここで見誤ってはならないことは、以上の説をなす者がこういう名前によって表現しようと欲し、その名前の中に含ませようとしたのは、概念規定であり、この点こそむしろ重要である、ということである。むしろ、思想が強引にも、このような感性的な特殊な現存の中に専ら思想独自の規定と普遍的な意味をのみ認め、これを確立したというこの点こそ、賛嘆すべきなのである。第二に、このような探求と規定は、理性をその源泉とし理性はまた、現象の戯れやその混乱によって誤られもしなければ、まして己を忘れるものでもないのであるから、物体の性質の単なる探求やわけの分からぬ長談義よりも勝ること万々である。こうした探求の場合には、あいも変わらず何か特殊なものを発見したと言うことが、ただし、かくも多くの特殊なものを普遍的な概念へ還元もせず、この概念をこれらの特殊なものの中に認めようともしないで、功績であり栄誉であると普通せられているのである。
(α)光に対する関係
§ 317 形態化された物体性の場合最初の規定は、物体性の自己同一的な自己性であり、未規定な、単純な個体性としての物体性の抽象的な自己示現であって、これが光である。しかし形態は、それ自身としては光らない。形態が光るというこの性質は、光との関係である。(1)物体は、純粋な結晶としては、その現存する内面的な個体性が中性的であり、しかもこの個体化が完全に同質であるから、透明であり、光に対する媒体である。
透明さに関係のあるのは、空気の場合にはその内面的な無凝集性であるが、具体的な物体の場合これに当たるものは、それ自身凝集力を持ち結晶化された形態の同質性である。もちろん個体的な物体は、特別に規定された物体を考えない限り、透明でもあれば不透明でもあり、また半透明等々である。しかし透明であるということは、結晶としての物体がまず差し当たって持つ最初の規定である。というのは、この物体の物理的な同質性は、それ自身まだ、さらに立ち入って特殊化され深められていないからである。
§ 318 (2)物理的な媒体が持つ最初の最も単純な規定態は、その比重である。それぞれの物体に固有な比重は、それ自体としても、従ってまた透明なものに関係する場合でも、他の媒体の異なった密度と比較することによってのみ明らかとなる。一方(目に遠い方)が他方(目がその中に置かれている方)の中に置かれた二つの媒体が透明な場合(何なら前者を水で、後者を空気と考えてもらってよい。この方が話もしやすいし、分かりも早かろう。)作用するのは、専ら密度、場所を質的に規定する密度である。従って、水の体積は、その中に含まれている物象と共に、透明な空気の中ではあたかも次のように見えるのである。即ち、水がその中に置かれているところの、水と同体積の空気が、あたかも実際より大きな密度、つまり、水の密度を持ち、従って、それに応じて縮小された空間の中へ閉じ込められているかのように見えるのである。これがいわゆる屈折である。
光の屈折という表現は感性的な表現であって、例えば、水中へ差し込まれた棒は周知のように折れて見えるのであるが、その限り、この表現は、まず差し当たっては正しい表現である。また、この表現は、この現象を幾何学に言い表すため当然使われてしかるべきものである。しかし、光といわゆる光線の屈折を物理学的な意味に取るとなると、話は全く別である。この現象こそ、最初一見して受ける印象よりも、はるかに理解が困難な現象なのである。こういう通俗的な考え方はその他にも許し難い点があるが、この点はしばらく別としても、こういう考え方が陥らざるを得ない混乱は、普通認められているように、光線が一点から半球をなして放射するという現象を言い表す段になると、一見して明らかである。この現象を説明するために普通用いられている理論の参考として、次の重要な経験に言及しなければならない。それは即ち、水を満たした容器の平たい底が、平たいままに、従ってその底の全体が一様に高まって見える、という経験である。こういう状態こそ、理論と完全に矛盾しているのであるが、しかし、こうした場合にはよくやることであるが、矛盾しているというそのことのために、教科書ではこれを無視するか、または黙殺しているのである。重要なのは、媒体が一つならば、その媒体は、一般にいわゆる全く透明なもの、であるというだけのことで、比重の異なった二つの媒体があって初めて、これらの媒体の関係が、可視性の特殊化に作用するのである、ということである。ところでこのような特殊化という限定は、単に場所を限定するだけである。即ち全く抽象的な密度によって措定されているだけである。しかし、作用するものとしての、媒体の相関関係は、無関心な相互共在においては生ぜず、一方の媒体が他方の媒体の中で視覚空間として(即ち、単に可視的なものとして)措定されることによってのみ生ずるのである。この他方の媒体は、その中に置かれた媒体の非物質的な密度を伝染され、従って、この他方の媒体はそれ自身制限を蒙るのであるが、この制限に応じてこの媒体はその内部で物象の視覚空間を現出させ、またそのことによってこの視覚空間を制限するのである。
密度の純粋に力学的な性質が、物理的に実在的な性質ではなく、観念的な性質が、即ち、単に空間を規定するだけの性質が、ここでははっきり表れている。それゆえこの性質は、あたかもそれが属している物理的なものの外部で作用するかのように見える。というのは、この性質は、可視的なものの場所にのみ作用するからである。この観念性を除去する限り、この関係は理解不可能である。
§ 319 可視性を規定する密度は、異なった媒体(空気、水、次にガラス等々)の中に現存し、それぞれ異なっている場合には、これらの異なった密度は、まず差し当たっては外面的に比較され、合一される。ところが結晶の本性の場合、これは内面的な比較である。これらの結晶は、一方では、一般にいわゆる透明なもの、であり、他方では、この一般に透明なものが属している形式的な相等性からは免れた形式を、その内面的な個体化(核形成)として持っている。この形式がまた、核形成としての形態であるが、しかし観念的な、主観的な形式であって、これは、比重の作用が場所を規定し、従ってまた空間的な示現として、可視性を最初の抽象的な透明性とは違った特殊な仕方で規定するのと同様である。これが光線の複屈折である。
力という範疇をここで使ってもあながち不当とも言えまい。というのは、偏菱形という形式(形態のあの形式的な相等性から自ら免れている形式の中で最も普通なもの)は、徹頭徹尾結晶を内面的に個体化すると共に(ただし、これは結晶が偶然薄片に砕かれることのない場合であるが)形態として現在せず、また結晶の完全な同質性と透明性を些かも断絶したり妨げたりせずに、単に非物質的な規定態としてのみ作用するものだからである。
まず差し当たっては外面的に措定された関係が、内面的に作用する規定態としてのその形式、即ち、力、へ移行するのであるが、このような移行に関して述べられた言葉を引用するとしたら、互いに向かい合わせに置かれた二つの鏡という外面的装置と、この二つの鏡の間に置かれたガラスの立法体の内部に作り出される超光学的色彩という現象との関係について、ゲーテが述べている表現にも勝って適切なものはなかろう。『自然科学論』、第一巻、第三分冊、第22章、148頁では、「天然の、透明な、結晶した物体について」次のように言われている。「それゆえ我々はこれらの物体について、自然はこれらの物体の内部に、我々が外面的な、物理的力学的な手段で作ったのと同じような反射装置を作り上げている、と言うのである。」同書、同頁参照。上述したように、外面的なものと内面的なものとのこのような合一の場合、問題は、本節で述べているような屈折ではなくて、外面的な二重反射と内部におけるその対応現象である。従ってまた我々は同書147頁で、「これは菱形の方解石の場合に極めて明確に認め得るのであるが、箔片の貫通が違っており、そのために互いに反射し合うということが、この現象の第一の原因である」と述べられている場合に、本節で述べているのは、いわゆる偏菱形の力、あるいは作用であって、現存する薄片の作用(『自然科学論』第一巻、第一分冊、25頁参照)ではないということを、はっきり見分けなければならない。
§ 320 (3)形式のこの非物質な対自有(力)は、内面的な定在へと進むことによって、結晶作用の中性的な性質を止揚する。こうして、内在的な点性という、即ち脆弱性(次に凝集力)という規定がまだ完全な、しかし形式的な透明さと合体する(例えば、脆弱なガラス)。脆弱性というこの契機は、自己自身と同一な示現、即ち光と明るさとは差別されたものである。従ってこの契機は、暗化の内面的な始まり、即ち原理であって、まだ現存するに至らない闇ではあるが、暗化するものとして作用する。(脆弱なガラスは、完全に透明であるが、周知のように超光学的色彩の条件である。)
暗化は、単に原理のままに止まるものではなく、形態の単純で未規定な中性に対抗して、曇りを外面的に量的に生じさせ透明さを減ぜざる以外にさらに、均質性という、即ち、受動的な凝集性という抽象的で一面的な極(金属性)へと進む。こうして次に、対自的にも現存するに至った闇と対自的に存在する明るいものとが、透明さを媒介することによって同時に具体的で個体的な統一へ措定されると、色彩という現象が生じる。
抽象的な闇は、光そのものとは直接対立している( § 277 )。しかし闇は、物理的な、個体化された物体性として初めて実在的となるのであって、ここに示される暗化の進展とは、明るいもの(即ち、ここでは透明なもの)が、つまり形態の範囲内における受動的な示現が、このように個体化されて、個体的な物質の自己内存在へと至ることである。透明なものは、その現存が同質的である中性的なものである。闇は、それ自身対自有へと個体化されたものであるが、しかしこの個体化されたものは、点性としては現存せず、単に力としてのみ明るいものに対抗するものであり、それゆえ、明るいものと同様に完全な同質性として現存し得るものである。金属性は、周知のように、あらゆる彩色の物質的な原理である、あるいは、普遍的な色素(もしそういうふうに言いたければ)である。この場合金属で問題になる点は、単にその高度な比重のみである。特殊な物質が、透明な形態の、開示された内面的な中性に対抗して自己を取り戻し、こうして達したその極点が、高度な比重というこの圧倒的な特殊化なのである。次に化学的なものの場合も、金属性は同様に排他的で無関心な塩基である。
暗化の進展を示す場合に問題なのは、もろもろの契機を単に抽象的に述べるだけではなく、これらの契機が現象する経験的な仕方を挙げることであった。この両者がそれぞれそれなりに困難な点を抱えていることは明かであるが、物理学にとってさらに大きな困難の原因となるのは、全く異なった領域に属する規定や性質をごったまぜにすることである。熱や色彩等々のような普遍的な現象に対し、いかに異なった条件や状況のもとにおいても、単純で特殊な規定態を見つけ出すということは、非常に重要なことであるが、それだけに他面また、このような現象が現れる際の条件の区別を確定することもそれに劣らず重要である。色彩や熱等々が何であるかは、物理学では、概念に基づいて決めるのは不可能であり、発生の仕方に基いて決めなければならない。しかしこの発生の仕方が極めて多種多様なのである。ところが、単に普遍的な法則のみを見出そうとする欲求が強すぎる場合には、この目的のために本質的な区別が無視され、抽象的な見地から、極めて異質なものが秩序もなく、同列に並べられることになる(化学において、例えば一概にガラスとか、硫黄とか、金属とか言われているように)。このように作用の仕方を、それが生じる異なった媒体や範囲に応じて特殊化されたものとして観察しないということは、普遍的な法則や規定を見出そうとする要求そのものにとっても、不利益なことに相違なかった。色彩現象が現れる際のこれらの状況は、極めて無秩序に並べ立てられていて、特殊な範囲の状況に属する実験が、囚われない感覚に対して色彩の本性を明らかにしてくれる単純で普遍的な条件に対し、即ち根源現象に対し、対抗的に持ち出されるのが普通一般の例である。このような混乱は、一見いかにも精妙で徹底した経験のように見えるが、実際は上っ面を粗っぽく撫でまわしているだけで、こういう混乱に対抗するには、発生の仕方における区別に注目する以外に手はなく、そのためにも人は、これらの区別を知り、その規定態をそれぞれ分けて考えなければならない。
まず差し当たっては、次の事実を根本規定として確信しなければならない。即ち、明るさの抑圧は比重と凝集力に関係がある、ということである。これらの規定は、純粋な示現の抽象的な同一性(光そのもの)に対抗して、物体性の固有性と特殊化である。物体性は、これらの規定から、さらに進んで自己自身の中へ、闇の中へと帰る。即ち、これらの規定は、制約された個体性が自由な個体性へ至る進行( § 307 )を直接に構成し、ここでは前者の後者に対する関係において現象する規定である。超光学的な現象において興味のある点は、暗化の原理がここでは、非物質的な(力としてのみ作用する)点性としての脆弱性であって、この脆弱性は、透明な結晶を粉砕する場合に外面的な仕方で現存し、不透明さを生ぜさせるのであって、例えば、透明な液体が泡立つ場合等もこれと同様である。レンズを圧迫すると、薄膜の干渉による色彩が生ずるが、これは、単なる比重の外面的力学的な変化であって、この場合には薄片への分割、その他これに類した現存する抑圧は存在しない。金属を熱すると(比重を変化させると)その表面に次から次へと色彩が生じ、生じたかと思えばたちまち消えて行くのであるが、この色彩そのものは随意に固定することが出来る(ゲーテの『色彩論』第一巻、191頁)。しかし化学的な規定の場合には、酸によって、暗いものを輝かすという、即ち、より内在的な自己示現である白熱という別の原理が現れる。色彩そのものを観察する場合には、化学的に規定された抑圧、暗化や照明は、一応除外しなければならない。というのは、化学的な物体は、目(主観的な、生理学的な色彩現象の場合)と同様、多種多様な立ち入った規定を自己の内に具えている一つの具体的なものであり、そのため、色彩に関係する規定は、はっきりとそれだけが取り出され区別されたものとして示されず、むしろ、この具体的なものの中に色彩に関する点を見出すためには、抽象的な色彩の認識が前提されるからである。
上に述べたことは、暗化が物体の本性に属するものである限り、内面的な暗化に関することである。色彩に関しては、こういう内面的な暗化を指摘するのは興味あることである。ただしそれは、この暗化によって生じた曇りが、外面的に独立して現存する方法によって措定され得ず、従ってまたこのような方法によって示され得ないからである。ところで、外面的に現存しつつ、曇らすものとして作用する媒体は、比較的に不透明な、即ち、単に半透明な媒体一般である。水、あるいは純粋なガラスのような全く透明なもの(元素としての空気は、個体化されない中性的な水がすでに含んでいるような具体的なものを含んでいない)は曇りの萌しを示す。即ち、この媒体を濃厚にすることによって、特に層(遮断する限界)を増加することによって曇りが生ずるのである。曇りをもたらす外面的な手段で最もよく知られているのは、プリズムで、その曇化作用は二つの事情に基づく。即ち、第一は、プリズムの外面的な限界そのもの、即ち、プリズムの縁であり、第二は、プリズムとしての形態、即ち、プリズムを横断した場合、側面全体の広さを持つものからこの面に対する稜に至るまでの横断面の差し渡しが不等である、ということである。色彩理論において特に不可解な点は、これらの理論では、プリズムの曇化作用という性質、特に、光が通過する異なった部分の差し渡しの厚さが不等であるのに応じて、曇化作用も不等である、という性質が見逃されていることである。
しかし暗化一般は、二つの状況の内の一つの状況にすぎず、いま一つの状況は照明である。色彩には両者の関係におけるさらに立ち入った限定が必要である。光は輝き、白昼は闇を駆逐するだけである。明るいものと、存在する闇との単なる混合である暗鬱化は一般に灰色を与えるに過ぎない。しかし色彩は光と闇のこの二つの規定の結合である。ただしこの結合では、両規定は、区別されていながら、同時に一つにされている。この二つの規定は、分離されてもいるが、同様にまた一方が他方において反照している。それゆえこれは、結合ではあるが、この結合はまた個体化とも言うべきものである。即ち、いわゆる屈折の場合に示されたような関係であって、一方の規定は他方の規定の中で作用しながら、しかもそれだけで独立した一つの定在なのである。これは、概念一般のやり方であって、概念は、具体的であるから、その契機を、区別すると同時に、これらの契機の観念性、即ち、統一、の中に置きつつ、含んでいる。このような規定は、ゲーテの叙述の中に、この叙述特有の具体的な表現で述べられている。即ち、プリズムでは、明るいものが暗いものの上に、あるいは逆に、暗いものが明るいものの上に、引き寄せられ、そのため明るいものは、曇らされながらも、それと同時になお明るいものとしてあくまで独立に作用し、そしてこの明るいものは(プリズムの場合)、(明るいものと暗いもの両者に共通のずれは別として)現にある位置に止まっていながら、同時に位置をずらされている、というのである。明るいもの、あるいは、暗いものは、というよりはむしろ、照明するもの、あるいは、暗化するものが(両者は相関的である)曇った媒体として独立に現存する場合、この曇った媒体は、照明するものとして暗い背後の前に置かれ、こうして照明するものとして作用させられると(あるいは逆に曇った媒体を暗化するものとして、明るい背景の前においても同様である)、依然として自己本来の姿を保つのであるが、それと同時に、この媒体と背景は、相互に否定し合い、かく否定し合うことによって、両者は同一なものとして措定せられている。従って色彩と単なる灰色(例えば、色のない単に灰色の影などというものは、おそらく、普通人が考えるほど簡単には見つかるまいと思うが)との区別をまず理解しなければならない。この区別は、色彩の四角形の内部における緑と赤の区別と同様である。即ち、前者は、青と黄という対立物の混合であり、後者は、このような対立物の個体性である。
有名なニュートンの理論によれば、白色光は、即ち、無色の光は、五色、あるいは、七色から出来ているそうである。五色、あるいは、七色と言ったのは、この理論自身、その点がはっきり分かっていないからである。ここでいかに力説強調するとも、なおかつ足りない点を挙げるとすれば、それは、まず第一に、光の場合にも、合成という最も悪い反省形式が採られたのであり、この場合には、明るいものが七つの暗いものから出来ているとまで主張されているのであるが、このような考え方の野蛮さである。こういう考え方をすれば、澄んだ水は七種類の土から出来ている、とすることも出来る。
第二には、ニュートンの観察と実験がいかにも拙劣で不正確であるということ、さらにそれが平板かつ陳腐であるということであり、異やそれどころか、ゲーテが示してくれたように、それが欺瞞的でさえあるということである。その不正確さの中で最も顕著で単純なものは、第一のプリズムで生じたスペクトルの単色の部分は、第二のプリズムを通過しても元通りの単色としてしか現れない、という間違ったことを確言していることである(ニュートン『光学』、第一巻、第一部、定理5の結び)。
第三には、これまた同様に悪い癖であるが、このような不純な経験的な素材から推測したり、結論を下したり、証明したりすることである。ニュートンは単にプリズムを使ったということだけではなく、次の事情をも見逃してはいなかったのである。即ち、プリズムによって色彩を生じさせるには、明暗の境界が必要である、ということである(『光学』、第二巻、第二部、203頁)。それにもかかわらず彼は、暗いものが曇らす作用を持っていることを、不可解にも見逃したのである。一般にニュートンは、色彩のこの条件を、全く特殊な現象(この場合にも全く拙劣に)の場合にのみ、ついでに、しかも理論がとっくに出来上がってしまった後で、言及するのである。だから、ニュートン理論の擁護者は、この言及を楯に取り、こういう条件をニュートンは知らなかったわけではない、と弁明することは出来ようが、彼らは、この言及を参考にして、光と共にこの条件を、まさに欠くべからざる条件としてあらゆる色彩観察の要請たらしめるには至らないのである。それどころかむしろ、全ての色彩現象の場合に暗いものが存在していると言うこの事情は、次の全く簡単な経験と同様、教科書では黙殺されている。簡単な経験とは即ち、プリズムを通して全く白い(あるいは一般に単色の)壁を見ると、色彩は全く(単色の場合には、壁の色そのものの他は全く)見えないが、釘を壁に打ち付け、壁の上に何らかの不等性が作られると、直ちに、かつその時にのみ、そしてその場所にのみ、色彩が現れる、ということである。それゆえ、このように自己の理論に対する多くの否定的な経験が黙殺されている、ということもまた、この理論の叙述における怪しからぬ点の一つとして数えねばならない。
この点に関して最後に特に挙げねばならないのは、この理論から直接生ずる多くの帰結(例えば、色収差のない望遠鏡は不可能であるということ)は拒否されたにも拘らず、理論そのものは主張されている、というその軽率さである。
最後に、この理論の基礎が数学的である、という愚昧な先入見である。まさか、一部は欺瞞的一面的でさえある測定が、専ら数学の名に値するわけでもなく、また、結論の中へ持ち込まれた量的な規定が、理論と事柄の本性そのものに対して何等かの根拠を提供するわけでもなかろう。
光の中の闇に関するゲーテの解明は、明快であると共に根本的であり、また学問的でさえあるにも拘わらず、なぜこの解明が、世に迎えられてよりいっそう効果を発揮しなかったかと言えば、その主な理由は疑いもなく、もしそういうことになれば、彼らは、自分たちが余りにも軽率であり単純であったことを告白しなければならなくなるからである。そこでこういう不合理な考え方は、減少するどころか、最近では、マリュースの発見から始まり、さらに光の偏極作用、それどころか、太陽光線の四角形的性格、赤い光球の左転運動と青い光球の右転運動、挙句の果ては、移転しやすい衝動と反射しやすい衝動などという説に見られるような、ニュートンの衝動説の復活を経てますますその数を増やし、最後には、これらの説も顔負けの形而上学的駄法螺に堕し去ったのである。これらの考え方の一部は、ここでもまた差別形式を色彩現象に適用したために生じたものである。というのは、これらの形式のそれぞれの部分が力学の場合に有する正当な意味が、不法にも、全く別の分野へ転用されたからである。
(β)特殊な物体性における区別
§ 321 区別の一方の項の原理(対自有)は火( § 283 )である。しかしこの原理はまだ、実在的な化学的な過程( § 316 )として存在せず、また、もはや力学的な脆弱性でもなく、物理的な特殊性を具えたものとして、可燃性自体である。この可燃性は、同時に外へ向かって親和的であり、普遍的な元素として否定的なもの、即ち、目に見えぬように消耗させるものである空気に対する関係( § 282 )、物体的なるものにおける空気の過程である。即ち、単純な観想的な過程としての特殊な個体性であり、空気による物体の目に見えぬ発散である。これが匂いである。
物体の匂いの性質は、独立に現存する物質( § 126 )、臭素としては、油、即ち、炎となって物を燃焼させるものである。しかし匂いは、単なる性質としては、例えば金属のあのいやな匂いの中にも現存している。
§ 322 対立のいま一つの契機である中性は( § 284 )、個体化されることによって、塩性という徳的に物理的中性とこの塩性の規定、即ち酸等々となる。これが味であって、この性質は同時に、水という抽象的な中性である元素に対する関係に止まっている。物体は、単に中性的にすぎないものとして、この水の中で溶解し得るのである。逆に言えば、物体の中に含まれている抽象的な中性は、物体の具体的な中性の物理的な構成要素から分離し得るものであって、結晶水とでも言うべきものであるが、この結晶水は、また溶解されていない中性的なものの中では、もちろん水として現存していない( § 286 註)。
しかし概念の統体性が措定された今は、重心の中心は、もはや物質によって求められているにすぎない主体性ではなく、まず最初は直接的で制約せられていたかの形式規定の観念性として物質に内在している。いまやこれらの形式規定は、内から展開せられた契機である。それゆえ、物質的個体性は、展開しながらもあくまで自己と同一であるから、無限に対自的であるが、しかし同時に制約されてもいる。このような個体性は、ようやく直接的なものとなったにすぎない主観的な統体性である。従って、この個体性は、対自的に無限ではあるが、他者に対する関係を含んでいる。過程において初めてこの個体性は、この外面性と被制約性が、自己を止揚するものとして措定されるに至るのである。こうしてこの個体性は、物質的な対自有の、現存する統体性となる。この統体性は次に、自体的には生命であり、概念としては生命へ移行するものである。
§ 309 統体的な個体性は、
(a)直接的には形態そのものと、その抽象的な原理が自由な現存として現れたものとである。これが磁力である。
(b)この個体性は、規定されて区別となる。即ち、物体的な統体性の特殊な形式となる。この特殊化がその極に達すると、それは電気である。
(c)このような特殊化の実在性が、化学的な差異を持った物体と、このような物体の関係である。即ち、物体を己の契機として持ち、自己を統体性として実現する個体性、化学的過程である。
a 形態
§ 310 物体は、統体的な個体性としては、直接的な、静止的な統体性であり、それゆえ、物質的なものの空間的共存の形式である。従ってそれはまず、例によってまた力学的な関係である。それゆえ形態は、今や制約を受けることなく自由に規定する個体性の物質的な力学的関係であり、内面的な凝集におけるその特殊な仕方だけでなく、空間におけるその外面的な制限までも、内在的な、展開した形式によって規定せられている物体である。こうして形式は、自ずから示現されており、外的な暴力に対する一種の独自な抵抗として初めて現れるのではなく。
§ 311 (α)直接的な形態、即ち、それ自身としては無形式なものとして措定されている形態は、一方の極では、脆弱性という点性であり、他の局では、球状となる流動性である。これが内面的な無形態性としての形態である。
§ 312 (β)脆弱なものは、自ら形成する個体性の、自体的に存在する統体性であるから、開示されて概念の区別となる。点はまず差し当たって線へ移行し、形式はこの線上の両端(項)として対立するに至る。ところでこれらの両端は、自身契機であるために、自分自身の存立を持たず、両者自身の関係(これは現象としては両者の媒概念であり、対立の零点である)によって保持されている。このような推論が、展開された規定態を持つ形態化の原理を構成するのであって、このようにその厳しさがまだ抽象的な場合は、磁力である。
磁力は、概念が、一定の自然の中に己が存在することを自覚し、自然哲学なるものに想到するに至ったときに、特に現れざるを得なかった規定の一つである。というのは、磁石は、概念の本性を、ただし推論( § 181 )というその発展した形式において、単純かつ素朴な仕方で現わすものだからである。両極は、一本の実在的な線の(一本の棒の、あるいはまた全ての次元へ更に延長された物体における)感性的に現存する両端である。しかしこれらの極は、極としては、感性的な、力学的な実在性を持たず、観念的な実在性を持つ。これらの極は、分離することが全く不可能である。これらの極の実体をなす零点は、これらの極が概念の規定としてその中に存在している統一である。従って、これらの極の意義と現存は、専らこの統一の中にあるのであって、分極性とは、単にこのような契機の関係である。磁力は、こうして措定された規定以外さらに、何ら特殊な性質を持たない。個々の磁針が北へも向けば、南へも向くというのは、普遍的な地球磁気の現象である。しかし、あらゆる物体は、磁力を持つと言えば、これは曖昧な誤解を招きやすい。即ち、実在的な形態は、脆弱な形態に限らず全て、このような限定原理を含んでいる、という意味ならば正しいが、しかし、あらゆる物体はまたこの原理(現存はしているがその厳しさがまだ抽象的な、即ち、磁力として存在しているこの原理)をその身に現象させる、という意味ならば正しくない。一つの概念形式が自然の中に存在していることを(ただし、この概念形式が、一個の抽象として存在しているような規定態のままで普遍的に現存すべきである、という形で自然の中に存在していることを)示そうなどと思うのは、非哲学的な考えであろう。自然はむしろ、相互外在という自然本来の場における理念であり、従って自然は、悟性と同様、諸々の概念契機を分散的に固定させ、実在的な姿で現しはするが、しかし高級な事物の場合には異なった概念形式を同時に総合し、一個の極めて高度な具体物たらしめているのである。
§ 313 自己自身へ関係するこのような形式がまず差し当たっては、存立する差異の同一性というこの抽象的な規定の中に現存する限り、従って統体的な形態の中で、すでに産み出されたものとなり終わって無力化されていると言うのではない限り、この形式は、活動として、ただし、形態という領域における活動として、自由な力学的関係の内在的な活動、即ち、場所的関係を規定する内在的な活動である。
磁力と電気および化学的関係の同一性は、当今一般に承認されており、物理学では動かすべからざる基本とされているのであるが、このことに関しここで一言したい。個体的な物質的なものにおける形式の対立は、進んでは、さらに実在的な、即ち電気的な対立として、また、それよりもより以上に実在的な、即ち化学的な対立として規定されるに至る。これら全ての特殊な形式の根底には、その実態として、同一の普遍的な、形式の統体性が潜んでいる。さらにまた、過程としての、電気と化学的関係は、さらに実在的な、物理的に更に立ち入って規定された対立の活動である。しかしこれらの過程は、それ以外にまず何よりも、物質的な空間性の関係における変化を含んでいる。この面から、即ち、このような具体的な活動が同時に力学的な規定である、というこの面から見れば、この具体的な活動は、自体的には、磁気的か活動である。この磁気的な活動そのものが、このより具体的な過程の内部においてもどの程度に現象し得るか、というこの点に関する経験的な条件が最近発見されるに至った。従って、これらの現象の同一性が、電化学的関係、あるいはまた磁電化学的関係、その他これに類する名称を持つ観念によって承認されるに至ったことは、経験科学の重要な進歩と見なければならない。しかし他方また、特殊な形式や(その中に普遍的な形式が現存してはいても)これらの形式の特殊な現象は、本質的には各自それぞれに区別せられねばならない。磁力という名称は、形態そのものの領域におけるものとしての、即ち、単に空間規定にのみ関係するものとしての明確な形式、およびその現象のために保存すべきであって、電気という名称も同時に、この名称によって明確に現わされる現象規定のために保存しなければならない。以前には、磁力と電気と化学的関係は、互いに関係なく、完全に分離され、それぞれ一つの自立的な力と見なされていた。哲学がこれらの現象の同一性に想到したのであるが、しかしこれらの現象の区別は明確に保留していた。物理学における最近の考え方を見ると、これらの現象の同一性という一方の極へ飛び移り、その結果、これらの現象は同一であると同時に、区別すべきものでもあり、またそうだとすればいかにこれを区別すべきであるか、という難関に直面しているようである。区別と同一性の両者を総合しようと欲する点に困難があるのであって、この解決は、概念の本性の中にのみ与えられており、磁電化学的解決などという、様々な名称をごったまぜにした同一性の中に与えられているのではない。
§ 314 形式の活動は、概念一般の活動に他ならない。即ち、同一なものを差別あるものとして、差別あるものを同一なものとして措定する活動であり、従って物質的な空間性というこの領域では、空間において同一なものを差別のあるものとして措定し、即ち、この同一なものを自己から遠ざけ、空間において差別あるものを同一なものとして措定する活動、即ち、この差別あるものを近づけ、接触させる活動である。しかしこの活動は、物質的なものの中にまだ抽象的に(この活動はこのような抽象的な活動としてのみ磁力なのである)現存しているために、単に線的なものをのみ生動させる( § 256 )。同一性と差別性という、形式のこの両規定は、この線的なものの場合には、単にこの線的なものの区別、即ち、両端に分離して現れるにすぎない。そしてこの両規定の活動的な、磁力的な区別は、単に次の点にあるに過ぎない。即ち、一方の端(一方の極)は、他方の端(他方の極)が自己から遠ざけるまさにその当のもの(第三者)を自己と同一なものとして措定する、という点である。
磁力の法則なるものを述べれば、それは、次の通りである。即ち、同名の極は互いに斥け合い、異名の極は互いに引き付け合うということ、同名の極は敵対的であり、異名の極は友好的であるということである。しかしながら、同名であるということに対する規定としては、両者が同様に第三者によって引き付けられ、あるいは斥けられる、ということ以外には存在しない。しかし第三者に対する限定も、同じように、かの同名のものを、あるいは、一般に他者を、斥けるか、それとも引き付けるか、ということにすぎない。全ての規定は、全く単に相対的であって、それぞれ異なった、感性的で無関心な現存というものを持たない。前にも( § 312 )注意したことであるが、北とか南とかいったようなものは、根源的な、最初の、即ち、直接的な規定のごときものを含んではいない。従って、同名のものの敵対性や異名のものの友好性は、すでにそれ本来の規定が与えられた磁力がまず前提された上で、この磁力から生じた現象、即ち、この磁力に基づくより特殊な現象なのでは決してなく、磁力の本性そのものを、従って、概念がこの領域において活動として措定されているときは、概念の本性をまさに表現しているのである。
§ 315 (γ)活動は、この活動によって産み出されたものへ移行すると、形態であって、結晶として措定せられている。このような統体性の中では、差異を持った磁気的な極は中性へ還元され、場所を規定する活動の抽象的な線性は、全物体の面と表面として実現されている。より詳しく言えば、一方では、脆弱な点性は、発展した形式へ拡張されているが、しかし他方では、球の形式的な拡張は、球の制限へ還元されている。ここで働いている唯一の形式は、物体を外へ向かって(物体の外部を、球を制限することによって)結晶させながら、同時に(点性を形成することによって)物体の内面的な連続性を徹頭徹尾(箱片の貫通、核形成)結晶させる形式である。
b 個体的な物体の特殊化
§ 316 力学的な関係による形態化、即ち、空間規定の個体化は、物理的な特殊化へ移行する。個体的な物体は、自体的には、物理的な統体性である。この統体性は、区別を、ただし、個体性の中で規定され保持されている区別を含むものとして、個体的な物体において措定されなければならない。物体は、これらの規定の主語であるから、これらの規定を性質、あるいは述語として含んでいる。とは言っても、これらの規定は同時に、その束縛せられない普遍的な元素に対する反応であり、これらの元素を相手にする過程である。これらの規定が個体性へまだ連れ戻されておらず、かの元素に対する単なる関係であって、過程の実在的な統体性でないのは、これらの規定の特殊化が直接的であってまだ措定されて(このような措定は化学的な過程である)いないからである。これらの規定相互の区別は、その元素の区別であって、原素の論理的な規定態はその場所で示しておいた( § 282 以下)。
古代では一般に、物体はいずれも四つの元素から成ると考えられ、近世ではパラケルススが、物体は水銀、あるいは流動体と、硫黄、あるいは油、および塩とから成ると考え、その他にもこれに類した考えはいろいろとあるが、これらの場合にまず第一に言えることは、反駁が容易であったということである。というのは、人々は、これらの名前がこういう名で通常差し当たって現わされている個々の経験的な元素を意味するものである、とあくまで考えたからである。しかしここで見誤ってはならないことは、以上の説をなす者がこういう名前によって表現しようと欲し、その名前の中に含ませようとしたのは、概念規定であり、この点こそむしろ重要である、ということである。むしろ、思想が強引にも、このような感性的な特殊な現存の中に専ら思想独自の規定と普遍的な意味をのみ認め、これを確立したというこの点こそ、賛嘆すべきなのである。第二に、このような探求と規定は、理性をその源泉とし理性はまた、現象の戯れやその混乱によって誤られもしなければ、まして己を忘れるものでもないのであるから、物体の性質の単なる探求やわけの分からぬ長談義よりも勝ること万々である。こうした探求の場合には、あいも変わらず何か特殊なものを発見したと言うことが、ただし、かくも多くの特殊なものを普遍的な概念へ還元もせず、この概念をこれらの特殊なものの中に認めようともしないで、功績であり栄誉であると普通せられているのである。
(α)光に対する関係
§ 317 形態化された物体性の場合最初の規定は、物体性の自己同一的な自己性であり、未規定な、単純な個体性としての物体性の抽象的な自己示現であって、これが光である。しかし形態は、それ自身としては光らない。形態が光るというこの性質は、光との関係である。(1)物体は、純粋な結晶としては、その現存する内面的な個体性が中性的であり、しかもこの個体化が完全に同質であるから、透明であり、光に対する媒体である。
透明さに関係のあるのは、空気の場合にはその内面的な無凝集性であるが、具体的な物体の場合これに当たるものは、それ自身凝集力を持ち結晶化された形態の同質性である。もちろん個体的な物体は、特別に規定された物体を考えない限り、透明でもあれば不透明でもあり、また半透明等々である。しかし透明であるということは、結晶としての物体がまず差し当たって持つ最初の規定である。というのは、この物体の物理的な同質性は、それ自身まだ、さらに立ち入って特殊化され深められていないからである。
§ 318 (2)物理的な媒体が持つ最初の最も単純な規定態は、その比重である。それぞれの物体に固有な比重は、それ自体としても、従ってまた透明なものに関係する場合でも、他の媒体の異なった密度と比較することによってのみ明らかとなる。一方(目に遠い方)が他方(目がその中に置かれている方)の中に置かれた二つの媒体が透明な場合(何なら前者を水で、後者を空気と考えてもらってよい。この方が話もしやすいし、分かりも早かろう。)作用するのは、専ら密度、場所を質的に規定する密度である。従って、水の体積は、その中に含まれている物象と共に、透明な空気の中ではあたかも次のように見えるのである。即ち、水がその中に置かれているところの、水と同体積の空気が、あたかも実際より大きな密度、つまり、水の密度を持ち、従って、それに応じて縮小された空間の中へ閉じ込められているかのように見えるのである。これがいわゆる屈折である。
光の屈折という表現は感性的な表現であって、例えば、水中へ差し込まれた棒は周知のように折れて見えるのであるが、その限り、この表現は、まず差し当たっては正しい表現である。また、この表現は、この現象を幾何学に言い表すため当然使われてしかるべきものである。しかし、光といわゆる光線の屈折を物理学的な意味に取るとなると、話は全く別である。この現象こそ、最初一見して受ける印象よりも、はるかに理解が困難な現象なのである。こういう通俗的な考え方はその他にも許し難い点があるが、この点はしばらく別としても、こういう考え方が陥らざるを得ない混乱は、普通認められているように、光線が一点から半球をなして放射するという現象を言い表す段になると、一見して明らかである。この現象を説明するために普通用いられている理論の参考として、次の重要な経験に言及しなければならない。それは即ち、水を満たした容器の平たい底が、平たいままに、従ってその底の全体が一様に高まって見える、という経験である。こういう状態こそ、理論と完全に矛盾しているのであるが、しかし、こうした場合にはよくやることであるが、矛盾しているというそのことのために、教科書ではこれを無視するか、または黙殺しているのである。重要なのは、媒体が一つならば、その媒体は、一般にいわゆる全く透明なもの、であるというだけのことで、比重の異なった二つの媒体があって初めて、これらの媒体の関係が、可視性の特殊化に作用するのである、ということである。ところでこのような特殊化という限定は、単に場所を限定するだけである。即ち全く抽象的な密度によって措定されているだけである。しかし、作用するものとしての、媒体の相関関係は、無関心な相互共在においては生ぜず、一方の媒体が他方の媒体の中で視覚空間として(即ち、単に可視的なものとして)措定されることによってのみ生ずるのである。この他方の媒体は、その中に置かれた媒体の非物質的な密度を伝染され、従って、この他方の媒体はそれ自身制限を蒙るのであるが、この制限に応じてこの媒体はその内部で物象の視覚空間を現出させ、またそのことによってこの視覚空間を制限するのである。
密度の純粋に力学的な性質が、物理的に実在的な性質ではなく、観念的な性質が、即ち、単に空間を規定するだけの性質が、ここでははっきり表れている。それゆえこの性質は、あたかもそれが属している物理的なものの外部で作用するかのように見える。というのは、この性質は、可視的なものの場所にのみ作用するからである。この観念性を除去する限り、この関係は理解不可能である。
§ 319 可視性を規定する密度は、異なった媒体(空気、水、次にガラス等々)の中に現存し、それぞれ異なっている場合には、これらの異なった密度は、まず差し当たっては外面的に比較され、合一される。ところが結晶の本性の場合、これは内面的な比較である。これらの結晶は、一方では、一般にいわゆる透明なもの、であり、他方では、この一般に透明なものが属している形式的な相等性からは免れた形式を、その内面的な個体化(核形成)として持っている。この形式がまた、核形成としての形態であるが、しかし観念的な、主観的な形式であって、これは、比重の作用が場所を規定し、従ってまた空間的な示現として、可視性を最初の抽象的な透明性とは違った特殊な仕方で規定するのと同様である。これが光線の複屈折である。
力という範疇をここで使ってもあながち不当とも言えまい。というのは、偏菱形という形式(形態のあの形式的な相等性から自ら免れている形式の中で最も普通なもの)は、徹頭徹尾結晶を内面的に個体化すると共に(ただし、これは結晶が偶然薄片に砕かれることのない場合であるが)形態として現在せず、また結晶の完全な同質性と透明性を些かも断絶したり妨げたりせずに、単に非物質的な規定態としてのみ作用するものだからである。
まず差し当たっては外面的に措定された関係が、内面的に作用する規定態としてのその形式、即ち、力、へ移行するのであるが、このような移行に関して述べられた言葉を引用するとしたら、互いに向かい合わせに置かれた二つの鏡という外面的装置と、この二つの鏡の間に置かれたガラスの立法体の内部に作り出される超光学的色彩という現象との関係について、ゲーテが述べている表現にも勝って適切なものはなかろう。『自然科学論』、第一巻、第三分冊、第22章、148頁では、「天然の、透明な、結晶した物体について」次のように言われている。「それゆえ我々はこれらの物体について、自然はこれらの物体の内部に、我々が外面的な、物理的力学的な手段で作ったのと同じような反射装置を作り上げている、と言うのである。」同書、同頁参照。上述したように、外面的なものと内面的なものとのこのような合一の場合、問題は、本節で述べているような屈折ではなくて、外面的な二重反射と内部におけるその対応現象である。従ってまた我々は同書147頁で、「これは菱形の方解石の場合に極めて明確に認め得るのであるが、箔片の貫通が違っており、そのために互いに反射し合うということが、この現象の第一の原因である」と述べられている場合に、本節で述べているのは、いわゆる偏菱形の力、あるいは作用であって、現存する薄片の作用(『自然科学論』第一巻、第一分冊、25頁参照)ではないということを、はっきり見分けなければならない。
§ 320 (3)形式のこの非物質な対自有(力)は、内面的な定在へと進むことによって、結晶作用の中性的な性質を止揚する。こうして、内在的な点性という、即ち脆弱性(次に凝集力)という規定がまだ完全な、しかし形式的な透明さと合体する(例えば、脆弱なガラス)。脆弱性というこの契機は、自己自身と同一な示現、即ち光と明るさとは差別されたものである。従ってこの契機は、暗化の内面的な始まり、即ち原理であって、まだ現存するに至らない闇ではあるが、暗化するものとして作用する。(脆弱なガラスは、完全に透明であるが、周知のように超光学的色彩の条件である。)
暗化は、単に原理のままに止まるものではなく、形態の単純で未規定な中性に対抗して、曇りを外面的に量的に生じさせ透明さを減ぜざる以外にさらに、均質性という、即ち、受動的な凝集性という抽象的で一面的な極(金属性)へと進む。こうして次に、対自的にも現存するに至った闇と対自的に存在する明るいものとが、透明さを媒介することによって同時に具体的で個体的な統一へ措定されると、色彩という現象が生じる。
抽象的な闇は、光そのものとは直接対立している( § 277 )。しかし闇は、物理的な、個体化された物体性として初めて実在的となるのであって、ここに示される暗化の進展とは、明るいもの(即ち、ここでは透明なもの)が、つまり形態の範囲内における受動的な示現が、このように個体化されて、個体的な物質の自己内存在へと至ることである。透明なものは、その現存が同質的である中性的なものである。闇は、それ自身対自有へと個体化されたものであるが、しかしこの個体化されたものは、点性としては現存せず、単に力としてのみ明るいものに対抗するものであり、それゆえ、明るいものと同様に完全な同質性として現存し得るものである。金属性は、周知のように、あらゆる彩色の物質的な原理である、あるいは、普遍的な色素(もしそういうふうに言いたければ)である。この場合金属で問題になる点は、単にその高度な比重のみである。特殊な物質が、透明な形態の、開示された内面的な中性に対抗して自己を取り戻し、こうして達したその極点が、高度な比重というこの圧倒的な特殊化なのである。次に化学的なものの場合も、金属性は同様に排他的で無関心な塩基である。
暗化の進展を示す場合に問題なのは、もろもろの契機を単に抽象的に述べるだけではなく、これらの契機が現象する経験的な仕方を挙げることであった。この両者がそれぞれそれなりに困難な点を抱えていることは明かであるが、物理学にとってさらに大きな困難の原因となるのは、全く異なった領域に属する規定や性質をごったまぜにすることである。熱や色彩等々のような普遍的な現象に対し、いかに異なった条件や状況のもとにおいても、単純で特殊な規定態を見つけ出すということは、非常に重要なことであるが、それだけに他面また、このような現象が現れる際の条件の区別を確定することもそれに劣らず重要である。色彩や熱等々が何であるかは、物理学では、概念に基づいて決めるのは不可能であり、発生の仕方に基いて決めなければならない。しかしこの発生の仕方が極めて多種多様なのである。ところが、単に普遍的な法則のみを見出そうとする欲求が強すぎる場合には、この目的のために本質的な区別が無視され、抽象的な見地から、極めて異質なものが秩序もなく、同列に並べられることになる(化学において、例えば一概にガラスとか、硫黄とか、金属とか言われているように)。このように作用の仕方を、それが生じる異なった媒体や範囲に応じて特殊化されたものとして観察しないということは、普遍的な法則や規定を見出そうとする要求そのものにとっても、不利益なことに相違なかった。色彩現象が現れる際のこれらの状況は、極めて無秩序に並べ立てられていて、特殊な範囲の状況に属する実験が、囚われない感覚に対して色彩の本性を明らかにしてくれる単純で普遍的な条件に対し、即ち根源現象に対し、対抗的に持ち出されるのが普通一般の例である。このような混乱は、一見いかにも精妙で徹底した経験のように見えるが、実際は上っ面を粗っぽく撫でまわしているだけで、こういう混乱に対抗するには、発生の仕方における区別に注目する以外に手はなく、そのためにも人は、これらの区別を知り、その規定態をそれぞれ分けて考えなければならない。
まず差し当たっては、次の事実を根本規定として確信しなければならない。即ち、明るさの抑圧は比重と凝集力に関係がある、ということである。これらの規定は、純粋な示現の抽象的な同一性(光そのもの)に対抗して、物体性の固有性と特殊化である。物体性は、これらの規定から、さらに進んで自己自身の中へ、闇の中へと帰る。即ち、これらの規定は、制約された個体性が自由な個体性へ至る進行( § 307 )を直接に構成し、ここでは前者の後者に対する関係において現象する規定である。超光学的な現象において興味のある点は、暗化の原理がここでは、非物質的な(力としてのみ作用する)点性としての脆弱性であって、この脆弱性は、透明な結晶を粉砕する場合に外面的な仕方で現存し、不透明さを生ぜさせるのであって、例えば、透明な液体が泡立つ場合等もこれと同様である。レンズを圧迫すると、薄膜の干渉による色彩が生ずるが、これは、単なる比重の外面的力学的な変化であって、この場合には薄片への分割、その他これに類した現存する抑圧は存在しない。金属を熱すると(比重を変化させると)その表面に次から次へと色彩が生じ、生じたかと思えばたちまち消えて行くのであるが、この色彩そのものは随意に固定することが出来る(ゲーテの『色彩論』第一巻、191頁)。しかし化学的な規定の場合には、酸によって、暗いものを輝かすという、即ち、より内在的な自己示現である白熱という別の原理が現れる。色彩そのものを観察する場合には、化学的に規定された抑圧、暗化や照明は、一応除外しなければならない。というのは、化学的な物体は、目(主観的な、生理学的な色彩現象の場合)と同様、多種多様な立ち入った規定を自己の内に具えている一つの具体的なものであり、そのため、色彩に関係する規定は、はっきりとそれだけが取り出され区別されたものとして示されず、むしろ、この具体的なものの中に色彩に関する点を見出すためには、抽象的な色彩の認識が前提されるからである。
上に述べたことは、暗化が物体の本性に属するものである限り、内面的な暗化に関することである。色彩に関しては、こういう内面的な暗化を指摘するのは興味あることである。ただしそれは、この暗化によって生じた曇りが、外面的に独立して現存する方法によって措定され得ず、従ってまたこのような方法によって示され得ないからである。ところで、外面的に現存しつつ、曇らすものとして作用する媒体は、比較的に不透明な、即ち、単に半透明な媒体一般である。水、あるいは純粋なガラスのような全く透明なもの(元素としての空気は、個体化されない中性的な水がすでに含んでいるような具体的なものを含んでいない)は曇りの萌しを示す。即ち、この媒体を濃厚にすることによって、特に層(遮断する限界)を増加することによって曇りが生ずるのである。曇りをもたらす外面的な手段で最もよく知られているのは、プリズムで、その曇化作用は二つの事情に基づく。即ち、第一は、プリズムの外面的な限界そのもの、即ち、プリズムの縁であり、第二は、プリズムとしての形態、即ち、プリズムを横断した場合、側面全体の広さを持つものからこの面に対する稜に至るまでの横断面の差し渡しが不等である、ということである。色彩理論において特に不可解な点は、これらの理論では、プリズムの曇化作用という性質、特に、光が通過する異なった部分の差し渡しの厚さが不等であるのに応じて、曇化作用も不等である、という性質が見逃されていることである。
しかし暗化一般は、二つの状況の内の一つの状況にすぎず、いま一つの状況は照明である。色彩には両者の関係におけるさらに立ち入った限定が必要である。光は輝き、白昼は闇を駆逐するだけである。明るいものと、存在する闇との単なる混合である暗鬱化は一般に灰色を与えるに過ぎない。しかし色彩は光と闇のこの二つの規定の結合である。ただしこの結合では、両規定は、区別されていながら、同時に一つにされている。この二つの規定は、分離されてもいるが、同様にまた一方が他方において反照している。それゆえこれは、結合ではあるが、この結合はまた個体化とも言うべきものである。即ち、いわゆる屈折の場合に示されたような関係であって、一方の規定は他方の規定の中で作用しながら、しかもそれだけで独立した一つの定在なのである。これは、概念一般のやり方であって、概念は、具体的であるから、その契機を、区別すると同時に、これらの契機の観念性、即ち、統一、の中に置きつつ、含んでいる。このような規定は、ゲーテの叙述の中に、この叙述特有の具体的な表現で述べられている。即ち、プリズムでは、明るいものが暗いものの上に、あるいは逆に、暗いものが明るいものの上に、引き寄せられ、そのため明るいものは、曇らされながらも、それと同時になお明るいものとしてあくまで独立に作用し、そしてこの明るいものは(プリズムの場合)、(明るいものと暗いもの両者に共通のずれは別として)現にある位置に止まっていながら、同時に位置をずらされている、というのである。明るいもの、あるいは、暗いものは、というよりはむしろ、照明するもの、あるいは、暗化するものが(両者は相関的である)曇った媒体として独立に現存する場合、この曇った媒体は、照明するものとして暗い背後の前に置かれ、こうして照明するものとして作用させられると(あるいは逆に曇った媒体を暗化するものとして、明るい背景の前においても同様である)、依然として自己本来の姿を保つのであるが、それと同時に、この媒体と背景は、相互に否定し合い、かく否定し合うことによって、両者は同一なものとして措定せられている。従って色彩と単なる灰色(例えば、色のない単に灰色の影などというものは、おそらく、普通人が考えるほど簡単には見つかるまいと思うが)との区別をまず理解しなければならない。この区別は、色彩の四角形の内部における緑と赤の区別と同様である。即ち、前者は、青と黄という対立物の混合であり、後者は、このような対立物の個体性である。
有名なニュートンの理論によれば、白色光は、即ち、無色の光は、五色、あるいは、七色から出来ているそうである。五色、あるいは、七色と言ったのは、この理論自身、その点がはっきり分かっていないからである。ここでいかに力説強調するとも、なおかつ足りない点を挙げるとすれば、それは、まず第一に、光の場合にも、合成という最も悪い反省形式が採られたのであり、この場合には、明るいものが七つの暗いものから出来ているとまで主張されているのであるが、このような考え方の野蛮さである。こういう考え方をすれば、澄んだ水は七種類の土から出来ている、とすることも出来る。
第二には、ニュートンの観察と実験がいかにも拙劣で不正確であるということ、さらにそれが平板かつ陳腐であるということであり、異やそれどころか、ゲーテが示してくれたように、それが欺瞞的でさえあるということである。その不正確さの中で最も顕著で単純なものは、第一のプリズムで生じたスペクトルの単色の部分は、第二のプリズムを通過しても元通りの単色としてしか現れない、という間違ったことを確言していることである(ニュートン『光学』、第一巻、第一部、定理5の結び)。
第三には、これまた同様に悪い癖であるが、このような不純な経験的な素材から推測したり、結論を下したり、証明したりすることである。ニュートンは単にプリズムを使ったということだけではなく、次の事情をも見逃してはいなかったのである。即ち、プリズムによって色彩を生じさせるには、明暗の境界が必要である、ということである(『光学』、第二巻、第二部、203頁)。それにもかかわらず彼は、暗いものが曇らす作用を持っていることを、不可解にも見逃したのである。一般にニュートンは、色彩のこの条件を、全く特殊な現象(この場合にも全く拙劣に)の場合にのみ、ついでに、しかも理論がとっくに出来上がってしまった後で、言及するのである。だから、ニュートン理論の擁護者は、この言及を楯に取り、こういう条件をニュートンは知らなかったわけではない、と弁明することは出来ようが、彼らは、この言及を参考にして、光と共にこの条件を、まさに欠くべからざる条件としてあらゆる色彩観察の要請たらしめるには至らないのである。それどころかむしろ、全ての色彩現象の場合に暗いものが存在していると言うこの事情は、次の全く簡単な経験と同様、教科書では黙殺されている。簡単な経験とは即ち、プリズムを通して全く白い(あるいは一般に単色の)壁を見ると、色彩は全く(単色の場合には、壁の色そのものの他は全く)見えないが、釘を壁に打ち付け、壁の上に何らかの不等性が作られると、直ちに、かつその時にのみ、そしてその場所にのみ、色彩が現れる、ということである。それゆえ、このように自己の理論に対する多くの否定的な経験が黙殺されている、ということもまた、この理論の叙述における怪しからぬ点の一つとして数えねばならない。
この点に関して最後に特に挙げねばならないのは、この理論から直接生ずる多くの帰結(例えば、色収差のない望遠鏡は不可能であるということ)は拒否されたにも拘らず、理論そのものは主張されている、というその軽率さである。
最後に、この理論の基礎が数学的である、という愚昧な先入見である。まさか、一部は欺瞞的一面的でさえある測定が、専ら数学の名に値するわけでもなく、また、結論の中へ持ち込まれた量的な規定が、理論と事柄の本性そのものに対して何等かの根拠を提供するわけでもなかろう。
光の中の闇に関するゲーテの解明は、明快であると共に根本的であり、また学問的でさえあるにも拘わらず、なぜこの解明が、世に迎えられてよりいっそう効果を発揮しなかったかと言えば、その主な理由は疑いもなく、もしそういうことになれば、彼らは、自分たちが余りにも軽率であり単純であったことを告白しなければならなくなるからである。そこでこういう不合理な考え方は、減少するどころか、最近では、マリュースの発見から始まり、さらに光の偏極作用、それどころか、太陽光線の四角形的性格、赤い光球の左転運動と青い光球の右転運動、挙句の果ては、移転しやすい衝動と反射しやすい衝動などという説に見られるような、ニュートンの衝動説の復活を経てますますその数を増やし、最後には、これらの説も顔負けの形而上学的駄法螺に堕し去ったのである。これらの考え方の一部は、ここでもまた差別形式を色彩現象に適用したために生じたものである。というのは、これらの形式のそれぞれの部分が力学の場合に有する正当な意味が、不法にも、全く別の分野へ転用されたからである。
(β)特殊な物体性における区別
§ 321 区別の一方の項の原理(対自有)は火( § 283 )である。しかしこの原理はまだ、実在的な化学的な過程( § 316 )として存在せず、また、もはや力学的な脆弱性でもなく、物理的な特殊性を具えたものとして、可燃性自体である。この可燃性は、同時に外へ向かって親和的であり、普遍的な元素として否定的なもの、即ち、目に見えぬように消耗させるものである空気に対する関係( § 282 )、物体的なるものにおける空気の過程である。即ち、単純な観想的な過程としての特殊な個体性であり、空気による物体の目に見えぬ発散である。これが匂いである。
物体の匂いの性質は、独立に現存する物質( § 126 )、臭素としては、油、即ち、炎となって物を燃焼させるものである。しかし匂いは、単なる性質としては、例えば金属のあのいやな匂いの中にも現存している。
§ 322 対立のいま一つの契機である中性は( § 284 )、個体化されることによって、塩性という徳的に物理的中性とこの塩性の規定、即ち酸等々となる。これが味であって、この性質は同時に、水という抽象的な中性である元素に対する関係に止まっている。物体は、単に中性的にすぎないものとして、この水の中で溶解し得るのである。逆に言えば、物体の中に含まれている抽象的な中性は、物体の具体的な中性の物理的な構成要素から分離し得るものであって、結晶水とでも言うべきものであるが、この結晶水は、また溶解されていない中性的なものの中では、もちろん水として現存していない( § 286 註)。
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