絶対的精神(哲学)
§ 572 芸術においては、形式の方から見て直観方法が外面的であり、生産活動は主観的であり、実体的内容は多くの独立した形態に引き裂かれている。宗教は全体性であり、宗教においては離散の展開と展開されたものの媒介とが表象において行われている。しかも、芸術における外面的直観方法や主観的生産活動や実体的内容の分裂が、宗教の全体性において、単に一つの全体へ統合されているばかりでなく、また単純な精神的直観へ結合され、そして次に自覚的思惟に高められている。その限りにおいてこの学(哲学)は芸術と宗教との統一である。この知はそのことによって、芸術と宗教との概念が思惟によって認識されたものである。そしてこの概念においては、内容において相違しているものは必然的なものとして認識されており、かつこの必然的なものは自由なものとして認識されている。
§ 573 従って哲学は、絶対的表象の内容の必然性と、次の両形式の必然性とを認識することを自分の課題にする。すなわち、哲学によって必然性を認識される形式の一方は、直接的直観とそれの詩、および前提を持った表象・客観的外面的な啓示の形式であり、他方は最初に信仰の主観的な自己内進行の形式、次には信仰の主観的彷徨運動・信仰とあの前提との同一化作用の形式である。それでこの認識作用はこの内容と、この内容の形式とを承認することであり、二つの形式の一面性からの解放であり、両形式を絶対的形式へ高めることである。絶対的形式は自己自身を内容へと規定し、内容と同一なものとして止まっており、かつ内容の中であの自己自身において存在する必然性を認識することである。この運動が哲学である。そしてこの運動は、最後に自分自身を捉える際に、すなわち専ら自分自身の知を振り返って見る際に、すでに自分自身が成就されているのを見出すのである。
宗教に対する哲学の関係を一定の論述において議論すべき場所がここにあるように見えるかもしれない。宗教に対する哲学の関係について議論する際に問題になる全く唯一の点は、思弁的思惟の諸形式と表象や反省的思惟の諸形式との区別である。しかし、この区別をただ認識させるだけでなく、また評価し、またむしろこの区別の本性をこれらの範疇そのものに即して発展させ裁かせるのは、哲学の、そしてとくに論理学の全経過である。ただ諸形式に関するこの認識を根拠としてのみ、大切な真実の確信、すなわち宗教の範囲内に帰属しないところの外的自然や有限な精神の細かい内容を除いては哲学の内容と宗教の内容とは同一の内容であるという確信が獲得される。しかし宗教は万人にとっての真理であり、信仰は証しをするものとして人間の中にある精神であるところの精霊の証しに基いている。この証しはそれ自身において(本質的に)実体的であり、自己を表明するように駆り立てられている限り、差し当たり、証しが入って行かなければ世俗的教養であるところの人間の世俗的な意識や悟性の教養の中に入って行く。このことによって真理は有限性一般の諸規定や諸関係へ転落する。このことは、精神が、宗教的なものとして本質的に思弁的である自己の内容を、感性的な諸表象や思惟の有限な諸範疇を使う際にも、これらの表象や範疇に対立して固執し、これらの表象や範疇に制肘を加え、そしてこれらの表象や範疇に対して不条理であることを妨げない。精神は感性的表象や思惟の有限な範疇における欠陥をこの不条理によって匡正(きょうせい)する。そのために悟性にとっては、信仰の説明の中の矛盾を明示し、そして自分の原理すなわち形式的同一性に凱歌を奏でさせることほど容易なことはない。もし精神が理性や哲学(合理主義)と自称したところのこの有限な反省に譲歩するならば、そのときは精神は宗教的な内容を有限化し、そして実際において宗教的内容を否定するのである。宗教はそのときはこのような理性や哲学に対して自己を防衛し、そして理性や哲学に敵対すると宣言する自分の完全な権利を持っている。しかしもし宗教が、概念によって理解する理性に対し、そして哲学一般に対し、かつ明確にはまた思弁的内容を持ちかつそのことによって収容的であるような哲学に対して対立するならば、その時は事情は別である。このような対立は、表象や反省的悟性の形式と思弁的思惟の形式との間の既述の区別の本性に対する洞察の欠如、および精神的諸形式一般(とくに思惟の諸形式)の価値の本性に対する洞察の欠如、ならびに最も明確に言えばあの二つの形式(表象や反省的悟性の形式と思弁的思惟の形式)において同一である事が出来る内容のこれらの形式からの区別に対する洞察の欠如に基いている。哲学が宗教的側面から非難と詰問とを経験したのは形式を根拠としてであり、哲学が自称哲学(同じく無内容な敬虔派)からの非難と詰問とを経験したのは逆に思弁的内容のためである。宗教にとっては哲学は自分の中に神に関して余りに少ししか持たないと言うのであり、自称哲学や敬虔派にとっては哲学は自分の中に神に関して余りにも多く持っているというのであろう。
人々がかつて哲学に対してしばしば行った無神論という詰問、すなわち哲学は神に関して余りに少ししか持っていないという詰問は、稀になってしまった。しかし汎神論という詰問、すなわち哲学は神に関して余りにも多く持っているという詰問は、それだけ益々いっそう多く広がっている。この詰問はたいへん広がっていて、詰問というよりはむしろ明示された事実、またはそれ自身何らの証明をも必要としない事実・赤裸々な事実として認められているほどである。とくに敬虔派は、空虚な悟性哲学と一致して、いわば単に或る熟知された事象に言及するにすぎないのだというふうに、哲学は全一論または汎神論であるということを断言する憂き身をやつしている。彼らは敬虔な上品さの中で、そのうえ証明などしないで済ますことが出来ると信じているのである。敬虔派は空虚な悟性哲学に対してたいへん対立しようとしているが、しかし実際においては全く急遽な哲学の教養に基いているのである。或る哲学体系例えばスピノザ主義を無神論として詰問することは、それを汎神論として詰問することよりも、一見してはいっそう残酷にかついっそう陰険に見える(前掲松村訳『小論理学』上巻228-30 頁)。しかし人々は、或る哲学体系を無神論として詰問することは、それを汎神論として詰問することよりも、敬虔派や神学そのものに対して、いっそう多くの名誉を与えたと言わなければならない。
或る哲学的体系を無神論として詰問すると言うことは、それにもかかわらず、詰問者が内容豊かな神に関して一定の表象を持っているということを前提している。そして、人々がこの表象が結び付けられている特有な諸形式を或る哲学的体系の諸々の哲学的概念の中に再び見出すことが出来ないときに、その哲学的体系を無神論として詰問するということが発生するのである。すなわち哲学はもとより、宗教的表象方法の諸範疇の中に自分自身の諸形式を認識することが出来る。それで哲学は宗教的内容に対して正しい態度を取ることが出来る。しかし逆に宗教は哲学的内容に対して正しい態度を取ることが出来ない。というのは、宗教的表象方法は自分自身に対して思想の批判を適用せず、また自己を概念によって理解せず、それ故に自分の直接性の中に止まっていて排他的だからである。哲学を無神論として詰問する代わりに汎神論として詰問するということはとくに近世の教養、すなわち新敬虔派や新神学に帰属する。新神学にとっては哲学は神を余りに多く持っているというのである。新神学にとっては哲学は神をたいへん多く持っているので、新神学の断言に従えば哲学においてはその上神は全てのものであるはずであり、また全てのものが神であるはずなのである。なぜかと言えば、宗教を専ら或る主観的感情にし、神の本性の認識を拒否するこの新神学は、このことによって、客観的諸規定を持たない或る神一般以上の何物をも保持していないからである。新神学は神の具体的な充実された概念に対して自分自身の関心を持たず、神の具体的な充実された概念を単に他人がかつて持っていた或る関心として考察するにすぎない。このために新神学は神の具体的本性に関する教説に属するものを、単に或る歴史的なもの(物語的なもの)として取り扱うにすぎない。無規定的な神はあらゆる宗教の中に見出されることが出来る。あらゆる種類の敬神(前掲松村訳『小論理学』上巻 230-1 頁)すなわち猿・牡牛等々に対するインド人の敬神、ダライラマに対する敬神、牡牛等々に対するエジプト人の敬神は、常に、自分の不合理な諸規定にも拘らずまた類すなわち神一般という抽象的なものを含んでいる或る対象の尊敬である。もし新神学のあの見解にとって、宗教と名付けられるところの全てのものの中に神を見出すためにはこのような神で充分であるならば、そのときはあの見解は少なくともそのような神は哲学においてもまた承認されているのを見出さなければならず、そしておそらくはもはや哲学を無神論だと言って咎めることは出来ない。それ故に無神論という非難を汎神論という非難に緩和すると言うことは、単にそのことの根拠を表象の皮相性の中に持っているにすぎない。そして神を希薄にし空虚にして表象の皮相性に転化したものはこの穏和な態度そのものなのである。さてあの表象は、あらゆる規定性を自分の(抽象的一般性の)外部に脱落させるところの(あの表象の)抽象的一般性を固執する。このことによって規定性は専ら非神的なものであり、事物の世俗的現実存在であるにすぎなくなる。そしてこのことによって事物の世俗的現実存在は確固として何物によっても妨げられない実体性を以て残存していることになる。それでこのような前提を以てしては、哲学において神について主張され、そして外面的事物の存在に何らの真理性をも持たせないところの自己自身において存在する一般性の場合にもまた、依然として、世俗的事物はそれにもかかわらず自己の存在を保持しており、神的一般性における規定されたものを形成するものであるということが固執される。こうして新神学者たちはあの自己自身において存在する一般性を彼らが汎神論的一般性と名付けている一般性にする。汎神論的一般性とは、全てのものすなわち諸々の経験的事物は、いっそう高く尊敬されている事物も平俗な事物も区別なしに存在し実体性を占有し、そして諸々の世俗的事物のこの存在が神であるという一般性である。汎神論に関するこのような表象と断言とを生み出すものは、新神学者たち自身の没思想性と、そこから出て来るところの一種の概念偽造とである。
しかしもし、或る一つの哲学を汎神論と称する人々が、このこと(私が今述べたこと)を洞察することが出来ず、また洞察しようとも欲しないならば(なぜかと言えば概念によっての洞察こそまさに彼らが欲しない当のものだからである)、そのときは彼らは何よりもまず、或る一人の哲学者または或る一人の人間が実際において全ての事物に自己自身においてある実在性すなわち実体性を帰属させ、そして全ての事物を神と見なしているということ、言い換えればひとり彼ら自身以外の或る一人の人間の頭にこのような表象が思い浮かんだということを、ただ事実としてだけでも確かめるべきだろう。私はこの事実をなおこの広義的考察において解明しようと思う。そのことはただ事実そのものが目の前に突き付けられることによってしか起こることが出来ない。もし我々がいわゆる汎神論をそれの詩的な形態・最も崇高な形態、または人々がそうしたければ最も粗雑な形態において取り上げようと欲するならば、そのときは人々はそのためには周知のように東洋の詩人たちのところで見回すべきである。そうすると最も広範な表現がインドのものの中に見出される。このことに関して我々に対して開かれている富の内で、私は最も信頼すべきものとして手に入る『バガヴァッド・ギーター』から、そして飽き飽きするほど詳述され繰り返されている長白の内で、最も適切な章句の若干を選出する。この中でクリシュナは自分について次のように言っている。
「私は生命あるものの肉体の中に宿っている気息である。私は生命あるものの始めであり、中間であり、同じく終わりである。私は星辰の中では輝く太陽であり、太陰星の中では月である。私は聖なる書物の中では讃歌の書物であり、感覚の中では生命あるものの感覚・悟性である、等々。私はルドラの中ではシヴァであり、山頂の中ではメル山であり、山脈の中ではヒマラヤ山脈である。」
これらの全く感性的な描写においてさえも、クリシュナはただ自分を全てのものの内で最も優れたものと称しているだけであって、自分を全てのものそのものと称しているのではない。そして人々は、クリシュナの他に神そのものまたは或る神はここにあると思ってはならない。ちょうどクリシュナが前に自分について自分はシヴァでありインドラであると言ったと同じように、後にはまたクリシュナによって自分の中にはまたブラフマンがいると言われている。諸々の外面的非本質的な現実存在と、それらのものの内の一つの本質的な現実存在、すなわち彼(クリシュナ)との間には、どこにおいても区別が設けられている。たとえ章句の始めのところで、彼は生命あるものの始めであり中間であり終わりであると言われているにしても、この全体性は諸々の個別的現実存在としての生命あるもの自身からは区別されている。人々はこのことによって、神性をそれの現実存在の中で広く延長させるこのような描写をまだ汎神論と名付けることが出来ない。人々はむしろ専ら、無限に多様な経験的世界すなわち全てのものが、諸々の本質的な現実存在から成っているいっそう制限された集合に、すなわち多神論に還元されていると言わなければならないであろう。しかし私が今述べたことの中にはすでに、外面的に実存するこのにおけるこれらの実体性でさえもまた、神が見と名付けられることが出来るために必要な独立性を保持していない。その上シヴァ、インドラ等々は唯一のクリシュナに解消されるということが含まれているのである。
クリシュナがそれこそ自分であると明言するところのこの全は、ちょうどエレア学派の一者やスピノザの実体があらゆるもの(何もかにも)でないと同じように、あらゆるもの(何もかにも)ではない。このあらゆるもの、すなわち有限者を際限なく多く集めて成っている感性的多様性は、これら全ての考え方(クリシュナ、エレア派、スピノザの考え方)においてはむしろ、自己自身において存在するものではなくて自分の真理性を実体または一者において持っているところの偶然的なものとして規定されている。一者はあの偶性的なものとは相違していて、ただそれだけが神的なものであり神であるようなものである。インドの宗教はその上ブラフマンの表象に進んで行く。ブラフマンとは思想の純粋な自己内統一である。そしてこの統一の中では世界の経験的全、および神々と呼ばれているところのあの最初の諸々の実体性が同様に消滅している。コールブルック(イギリスのインド学者)およびその他の多くの人々はこのために、インドの宗教をそれの本質的なものにおいては一神論として規定した。この規定が不適当でないということは今述べられた僅かのことから出て来る。しかし神(そしてもとより精神的な神)のこの統一性は、自己内においてはたいへん具体的でない。その統一性はいわばたいへんに非力なので、インドの宗教は一神教であると同程度に最も馬鹿げた多神論である位の巨大な混乱である。けれども、たとえ悲惨なインド人は猿またはその他どんなものをでも尊崇するにしても、彼らの偶像礼拝は常になお、全てのものが神であり神が全てのものであるという、汎神論のあの悲惨な表象ではない。その上、インドの一神教はそれ自身、もし神の理念が自己自身の中で規定されていないならば、そのときは単なる一神論がどんなに取るに足らないものであるかを示す一例である。なぜかと言えばあの統一は、自己自身の中では抽象であり、そしてそのことによって空虚である限りは、具体的なもの一般を、それが神々の集合として存在しているか、それともまたは諸々の経験的世俗的な個別性の集合として存在しているかを問わず、自己の外部に独立なものとして持たなければならないということを、自ずと招来するからである。その上人々はあの汎神論を、それに関する浅薄な表象に従って、整合的になお一神論と名付けることが出来よう。なぜかと言えば、もしこの浅薄な表象に従って、神が世界と同一であるならばそのときは、世界はただ一つしか存在しないという理由で、この汎神論においてはまたそのことによってただ一つの神しか存在しないことになるだろうからである。空虚な数的統一(単一)は世界については確かに述語されなければならない。しかしこの抽象的規定はそれ以上には何らの特殊な興味をも引かない。むしろこの数的統一(単一)はまさに、それの内容においては、諸々の個別性から成る無限な多様性・雑多性であるということである。しかし、汎神論の劣悪な統一を可能にし招来するものは、専ら空虚な統一によってこのように錯覚に陥っているということである。人々は世界を一つの事物すなわち全として、無規定的な灰色の中でぼんやりと表象するからこそ、世界をひょっとすると神と結合されることが出来るものと見なすことが出来たのである。人々が神は世界であると思い込んだということ、および神が世界であると考えられたということは、ただこのことからのみ可能になったのである。なぜかと言えば、もしあるがままの世界が全として、すなわち諸々の経験的現存在から成る際限のない集合として受け取られるならば、そのときはもはや人々は、このような内容についてそれが神であると主張した汎神論があったということを単に可能とさえも考えはしなかったであろうからである。
我々はもう一度事実的なものに復帰するために、一者の意識を、インド的に一方では抽象的思惟の没規定的な統一へ、そして他方では特殊者における退屈でお経のように長たらしくなりさえする詳述へ分裂させてではなく、一者の意識を最も麗しい純粋性と崇高性との中で見たいと思う。その場合には我々はモハメット教とのもとで見回さなければならない。もし、その中で、とくに霊魂と一者との統一が強調され、またこの統一が愛として強調されるならば、その時はこの精神的統一は有限なもの・平俗なものを超えての高揚であり、自然的なもの・精神的なものの浄化である。そしてこの浄化においてこそまさに、直接的な自然的なものと経験的世俗的な精神的なものが持っている外面的なもの・無常なものが分離され吸収されているからである。
私は、人々が汎神論と名付け慣れているところの宗教的及び詩的表象に関する実例を増加することを指し控える。人々がまさにこの名前を与えた諸々の哲学、例えばエレア学派の哲学またはスピノザ哲学については、私はすでに前に、それらの哲学は決して神を世界と同一化し、そして有限化するのではなくて、これらの哲学においてはこの全はむしろ何らの真理性をも持たないということ、そして人々はこれらの哲学をいっそう正しく一神論として特色づけ、世界に関する表象に対する関係においては無宇宙論として特色づけるべきであるということを想起させた(前掲松村訳『小論理学』上巻192-4 頁)。最も正確にはこれらの哲学は絶対者を専ら実体として捉えるところの体系として規定されよう。東洋的表象方法、とくにモハメット教的表象方法については、人々はいっそう多く、絶対者は諸々の種・諸々の現実存在に宿っているところの端的に一般的な類として現れるが、しかしその宿り方は諸々の種・諸々の現実存在には何らの現実的実在性をも帰属させないようなふうのものであるということが出来る。これらすべての表象方法や体系の欠陥は、実体を主観として、そして精神として規定するところまで進んで行かないと言うことである。
これらの表象方法や体系は、あらゆる哲学及びあらゆる宗教の唯一かつ共通な欲求、すなわち神に関する表象および次に神と世界との関係に関する表象を捉えるという欲求から出発している。哲学においてはさらに、世界に対する神の関係は神の本性から規定されるということが認識される。反省的悟性は、神と世界との連関を表現するところの、心情や空想や思弁が持っている諸々の表象方法と体系とを投げ捨てることから始める。そして、神を信仰または意識において純粋に保つために、神は本質として現象から分離され、無限者として有限者から分離される。しかしこの分離の後にはまた、本質に対する現象の関係についての確信・無限者に対する有限者の関係についての確信等々が現れ、かつそのことによってこれらの関係の本性を今や反省的に問うと言うことが現れる。事象の全困難が横たわっているのはこれらの関係の本性についての反省の形式のなかにである。これらの関係は神の本性について何事も知ろうと欲しないあの人々によって不可解なもの(概念によって理解されないもの)と名付けられているものである。哲学の結論においては(ここでは哲学の結論のうちでもまた一般に広義的考察の場所であるけれどもそのことに変わりはない)もはや、概念による理解と呼ばれていることについて一語でも費やすべき場所は存在していない。しかし、哲学一般をどう把握するかということや、哲学に対する全ての詰問は、この関係(本質と現象との関係、無限者と有限者との関係)をどう把握するかということと関連している。それで本質と現象・無限者と有限者の関係についてはなお次のことが想起されるべきだろう。哲学は確かに統一に関わり合うが、しかし抽象的な統一・単なる同一性および空虚な絶対者に関わり合うのではなくて、具体的統一(概念)に関わり合うのであり、かつ哲学はそれの全経過において全くただこの具体的統一(概念)にのみ関わり合うのである。このことによって、進行の各段階はこの具体的統一に特有な一つの規定であり、そしてこの統一の諸規定の内で最深かつ最終の規定は絶対的精神の規定である。いまや、哲学について判断し哲学について発言しようと欲する人々に対しては、彼らは統一のこれらの規定に立ち入り、これらの規定を知るために骨折らねばならないということ、少なく戸の彼らはこれらの規定には大いなる多様性がありこれらの規定のもとには大いなる差異性があるということ位は知っていなければならないということが、要求されるべきだろう。しかし、彼らはこのことについての知識を殆ど持っておらず、そうしてそのことについての知識を得ようとはなおさら努めない。それで彼らはむしろ、統一について聞くや否や(そして関係は直ちに統一を含んでいる)全く抽象的無規定的な統一のもとに止まっていて、ただそれだけがあらゆる関心を引くところのもの、すなわち統一の規定性の様式を捨象する。こうして彼らは哲学については、干からびた同一性が哲学の原理であり成果であるということ、そして哲学は同一性の体系であるということ以外の何事をも発言する術を知らない。彼らは同一性についてのこのように没概念的な思惟にへばりつきながら、まさに具体的な統一、すなわち哲学の概念や内容については全く何物をも捉えず、むしろ哲学の概念や内容の反対物を捉えてしまっている。彼らがこの分野(哲学)で振る舞う仕方は、ちょうど物理学者たちが物理学的分野で振る舞う仕方と同じである。物理学者たちは同様に確かに、自分たちが雑多な感性的特性や素材を念頭に置いていること、または通常はただ素材だけを念頭に置いていること(なぜかと言えば彼らにとっては特性も同じく素材に転化するからである)、そしてこれらの素材が相互に関係し合っていることを知っているのである。さて問題はこの関係がどんな種類のものであるかと言うことである。そしてあらゆる自然的事物、すなわち無機的事物と生命ある事物との特有性および全区別は、専ら、この統一の規定性の差異に基いている。しかし、化学を含めた通常の物理学は、この統一をそれの種々なる規定性において認識する代わりに、ただ一つの統一すなわち最も外面的で最も劣悪な統一、言い換えれば合成だけを把握し、そしてただそれだけを自然形像の全系列において適用する。そしてこのことによって物理学は諸々の自然形像中のどれか一つのものをも捉えることを不可能にする。あの無味乾燥な汎神論はあの無味乾燥な同一性からたいへん直接に出て来る。この自分自身の産物を哲学を詰問するために用いる人々は、世界に対する世界の関係を考察することによって、同一性は関係というこの範疇の一方の契機ではあるが、しかしまた単に一方の契機にすぎず、そしてもとより無規定性の契機であるということを聴き取る。彼らは今やこの中途半端な把握に立ち止まっていて、実際誤って、哲学は神との同一性を主張すると断言する。そして彼らにとっては同時に両者が(世界も神も同様に)確固とした実体性を持っている。そのことによって彼らは哲学的理念においては神は神自身と世界とから合成されているということを持ち出すのである。そして次に彼らはこのことを汎神論に関する表象として作り上げ、その表象を哲学に帰属させるのである。彼らは自分が思惟したり思想を把握したりする際に、このような諸範疇を乗り越えないで、哲学の中にはどこにも現存していないような諸範疇を哲学の中に持ち込み、そして疥癬を自分が持ち込んだこれらの範疇から哲学に感染させて哲学をかきたてることが出来るのである。その彼らは、世界に対する神の関係を把握する際に現れるあらゆる困難を、この関係は彼らに対しては彼らが全く理解することが出来ないような或る矛盾を含んでいるということを告白することによって、直ちに、そしてたいへん容易に回避するのである。そこから彼らは、このような関係(神と世界との関係)そのものや、その関係のいっそう詳細な諸様式(例えば、偏在・摂理等々)に関しては同様に、全く無規定的な表象を持つことで甘んじなければならない。信仰とはこの意味では、或る明確な表象へ進んで行こうとしないこと、内容にいっそう苦悪しく立ち入ろうとしないこと以外の何事をも意味しない。
未発達な悟性を持っている人間や身分が諸々の不明確な表象に満足しているということは、整合的なことである。しかしもし、発達した悟性と反省的な考察に対する関心とが、いっそう高い関心および最も高い関心として承認されているものにおいて、諸々の不明確な表象で満足しようとするならば、そのときはそういう精神の人が内容を実際に真剣に取り扱っているかどうかを区別することが困難である。しかし、もし上述の不毛の悟性にへばりついている人々が、例えば神の遍在という主張を、彼らが神の遍在に対する信仰を明確な表象の中で思い浮かべるという意味で真剣に取り扱ったならば、そのときは彼らが諸々の感性的事物の真実の実在性に対して持っている信仰は、彼らをどんな困難に巻き込むことであろうか?彼らはおそらく、エピクロスとは違って、神を事物間の空隙の中に、物理学者たちの気孔の中に住まわせたりはしないだろう。このような気孔は物質的に実在的なものの傍らに存在するとされているところの否定的なものである。彼らはこの傍らという言葉の中にすでに、彼らの汎神論(空間性の汎神論)、すなわち空間の相互外在として規定された彼らの全を持つことになろう。今、彼らが神に、充実された空間に対する活動と充実された空間の中での活動、世界に対する活動と世界の中での活動、世界に対する神の関係の中での活動を、帰属させるとしよう。そのときはしかし彼らはそのことによって、神的現実性を無限な物質性の中に無限に分裂させることになるのであり、また彼らが汎神論または全一論と名付けている劣悪な表象を実際において専ら神と世界とに関する彼らの劣悪な表象自身の必然的な帰結として持つことになるのであろう。しかし、人口に膾炙しているこのような統一または同一といったようなものを哲学のせいにするということは、正義と真理とに関する一大不注意である。この不注意はたいへん大きいものなので、ただ思想や概念を頭に叩き込むことの困難さ(すなわち、抽象的統一を頭に叩き込むのではなくて、統一の規定性の多形的な様式を頭に叩き込むことの困難さ)によってのみ、概念的に理解されるものになることが出来るほどであろう。もし事実に合った主張が打ち立てられ、そして事実が思想や概念であるならば、そのときは事実に合った主張を捉えることは不可欠なことである。しかしまたこの要求を充たしてやることも、哲学が汎神論・同一性の体系・全一論であるということが、とうに一つの既定の先入見になったということによって、余分なことになった。その結果、この事実を知らない人は、単に或る熟知されている事象について無知なものとしてか、または或る一つの目的のために逃げ道を求めているものとしてしか、取り扱われないほどである。私がこの見せかけの事実の外的および内的非真実性について、長々と、そして広義的に説明しなければならないと信じたのは、このコーラス(哲学は汎神論であるという非難のコーラス)があるためである。なぜかと言えば、概念を単なる事実として外面的に捉えること(まさにこのことによって概念はそれの反対物に転化されるのであるが)は、差し当たりただ広義的にのみ認められることだからである。しかるに、神や同一性についての秘儀的な考察は、認識作用や諸々の概念についての秘儀的な考察と同様に、哲学そのものである。
§ 574 哲学のこの概念は自己を思惟する理念であり、知る真理であり(前掲松村訳『小論理学』下巻 237 頁)、論理的なものである。しかしこの論理的なものは、それの(論理的なものの)現実態としての具体的な内容の中で確証された一般性であるという意味を持っている。学はこのような仕方で自己の端初に復帰している。そしてこうして論理的なものが学の成果である。しかもこの論理的なものは精神的なものである。前提を持つ判断作用においては、概念は単に潜勢的なものにすぎず、端初は直接的なものであった。そしてまたこの判断作用においては論理的なものはそれ自身において(本性上)現象を持っていた。しかし論理的なものはここでは、前提を持つその判断作用から、従ってこの現象から、同時に自己の境位としての自己の純粋原理へ自己を高めている。
§ 575 差し当たりいっそう進んだ発展を基礎づけるものはこの現われである。第一の現象を形成するものは、論理的なものを出発点としての根拠として持ち、自然を媒辞として持っているような推論である。そしてこの推論においては媒辞としての自然が精神を論理的なものと契合させる。論理的なものが自然になり、そして自然が精神になる。精神そのものと精神の本質との間に立っている自然は、もとより両者を有限な抽象化の両極に分離するようなことがなく、また自己自身を両者から引き離して一つの独立なものにするようなこともない。もしそのようなことをしたならは、そのときは自然は両者とは別の独立なもの、すなわち単に二つの他者(二つの独立なもの)を他者(第三の独立なもの)の立場から契合するにすぎないものになろう。自然はなぜこのようなことをしないかと言うと、推論が理念の中にあるからであり、また自然が本質的に単に通過点・否定的契機として規定されているにすぎず、潜勢的自体的には理念であるからである。しかし、概念の媒介は自然においては移行という外面的形式を持っており、学(自然哲学)は必然性の行程という形式を持っている。その結果、ただ一方の極(精神)においてのみ、概念の自由は概念の概念自身との契合として措定されている。
§ 576 この現象は第二の推論においては止揚されている。というのは、第二の推論ではすでに、過程において媒介者の地位を占めているところの、そして自然を前提し自然を論理的なものと契合するところの、精神そのものの立場であるからである。これが理念における精神的反省の推論である。ここでは学(精神の現象学)は主観的認識作用として現れる。そしてこの主観的認識作用が目的としているものは自由であり、主観的認識作用自身は自分に自由を作り出すという道程である。
§ 577 第三の推論は、自己を知る理性を・絶対的一般者を自分の媒辞として持っているところの、哲学の理念である。そしてこの媒辞は、精神と自然とに分裂して、精神を理念の主観的活動の過程にして前提し、自然を自体的(直接的)客観的に存在する理念の過程にして一般的極にする。理念は自己を両現象(自然(自然哲学)と精神(主観的認識作用)・精神の現象学)へ根源的に分割する( § 575、§ 576 )ことによって、これら二つの現象を理念自身の(自己を知る理性の)顕示として規定する、それで理念の中では、運動を続け発展するものは事象の本性すなわち概念であるということと、この運動は同様に認識作用の活動であるということとが、結合されている。こうして理念は、絶対的精神として永遠に自己を活動させ自己を産出し自己を享受するところの、現実的自覚的な(自己自身に充足している)永遠な理念である。
アリストテレス『形而上学』第12巻第7章から
そして、その思惟は自体的な思惟であって、それ自らで最も善なるものをその対象とし、そしてそれが最も優れた思惟であるだけにそれだけその対象も最も優れたものである。その理性(思惟するもの)はその理性自身を思惟するが、それは、その理性がその思惟の対象の性を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからである。こうしてそれ故に、ここでは理性(ヌース)(思惟するもの)とその思惟対象(ノエートン)(思惟されるもの)とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実体(形相)を、受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を受け容れて、現にそれを所有しているときにであるから、従って、この理性が保っていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れ得る状態(可能態)というよりもむしろそれを現に自ら所有している状態(現実態)である。そしてこの観想(テオーリア)は最も快であり最も善である。そこで、もしもこのような良い状態に(我々はほんのわずかの時しかいられないが)神は常に永遠にあるのだとすれば、それは驚嘆すべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆さるべきである。ところが、神は現にそうなのである。しかも彼には生命さえも属している。というのは、彼の理性の現実態は生命であり、しかも彼こそはそうした現実態だからである。そして、彼の全くそれ自体での現実態は、最高善の生命であり永遠の生命である。だからして我々は主張する。神は永遠にして最高善なる生者であり、従って連続的で永遠な生命と永劫(アイオーン)が神に属すると。けだし、これが神なのだから。
§ 573 従って哲学は、絶対的表象の内容の必然性と、次の両形式の必然性とを認識することを自分の課題にする。すなわち、哲学によって必然性を認識される形式の一方は、直接的直観とそれの詩、および前提を持った表象・客観的外面的な啓示の形式であり、他方は最初に信仰の主観的な自己内進行の形式、次には信仰の主観的彷徨運動・信仰とあの前提との同一化作用の形式である。それでこの認識作用はこの内容と、この内容の形式とを承認することであり、二つの形式の一面性からの解放であり、両形式を絶対的形式へ高めることである。絶対的形式は自己自身を内容へと規定し、内容と同一なものとして止まっており、かつ内容の中であの自己自身において存在する必然性を認識することである。この運動が哲学である。そしてこの運動は、最後に自分自身を捉える際に、すなわち専ら自分自身の知を振り返って見る際に、すでに自分自身が成就されているのを見出すのである。
宗教に対する哲学の関係を一定の論述において議論すべき場所がここにあるように見えるかもしれない。宗教に対する哲学の関係について議論する際に問題になる全く唯一の点は、思弁的思惟の諸形式と表象や反省的思惟の諸形式との区別である。しかし、この区別をただ認識させるだけでなく、また評価し、またむしろこの区別の本性をこれらの範疇そのものに即して発展させ裁かせるのは、哲学の、そしてとくに論理学の全経過である。ただ諸形式に関するこの認識を根拠としてのみ、大切な真実の確信、すなわち宗教の範囲内に帰属しないところの外的自然や有限な精神の細かい内容を除いては哲学の内容と宗教の内容とは同一の内容であるという確信が獲得される。しかし宗教は万人にとっての真理であり、信仰は証しをするものとして人間の中にある精神であるところの精霊の証しに基いている。この証しはそれ自身において(本質的に)実体的であり、自己を表明するように駆り立てられている限り、差し当たり、証しが入って行かなければ世俗的教養であるところの人間の世俗的な意識や悟性の教養の中に入って行く。このことによって真理は有限性一般の諸規定や諸関係へ転落する。このことは、精神が、宗教的なものとして本質的に思弁的である自己の内容を、感性的な諸表象や思惟の有限な諸範疇を使う際にも、これらの表象や範疇に対立して固執し、これらの表象や範疇に制肘を加え、そしてこれらの表象や範疇に対して不条理であることを妨げない。精神は感性的表象や思惟の有限な範疇における欠陥をこの不条理によって匡正(きょうせい)する。そのために悟性にとっては、信仰の説明の中の矛盾を明示し、そして自分の原理すなわち形式的同一性に凱歌を奏でさせることほど容易なことはない。もし精神が理性や哲学(合理主義)と自称したところのこの有限な反省に譲歩するならば、そのときは精神は宗教的な内容を有限化し、そして実際において宗教的内容を否定するのである。宗教はそのときはこのような理性や哲学に対して自己を防衛し、そして理性や哲学に敵対すると宣言する自分の完全な権利を持っている。しかしもし宗教が、概念によって理解する理性に対し、そして哲学一般に対し、かつ明確にはまた思弁的内容を持ちかつそのことによって収容的であるような哲学に対して対立するならば、その時は事情は別である。このような対立は、表象や反省的悟性の形式と思弁的思惟の形式との間の既述の区別の本性に対する洞察の欠如、および精神的諸形式一般(とくに思惟の諸形式)の価値の本性に対する洞察の欠如、ならびに最も明確に言えばあの二つの形式(表象や反省的悟性の形式と思弁的思惟の形式)において同一である事が出来る内容のこれらの形式からの区別に対する洞察の欠如に基いている。哲学が宗教的側面から非難と詰問とを経験したのは形式を根拠としてであり、哲学が自称哲学(同じく無内容な敬虔派)からの非難と詰問とを経験したのは逆に思弁的内容のためである。宗教にとっては哲学は自分の中に神に関して余りに少ししか持たないと言うのであり、自称哲学や敬虔派にとっては哲学は自分の中に神に関して余りにも多く持っているというのであろう。
人々がかつて哲学に対してしばしば行った無神論という詰問、すなわち哲学は神に関して余りに少ししか持っていないという詰問は、稀になってしまった。しかし汎神論という詰問、すなわち哲学は神に関して余りにも多く持っているという詰問は、それだけ益々いっそう多く広がっている。この詰問はたいへん広がっていて、詰問というよりはむしろ明示された事実、またはそれ自身何らの証明をも必要としない事実・赤裸々な事実として認められているほどである。とくに敬虔派は、空虚な悟性哲学と一致して、いわば単に或る熟知された事象に言及するにすぎないのだというふうに、哲学は全一論または汎神論であるということを断言する憂き身をやつしている。彼らは敬虔な上品さの中で、そのうえ証明などしないで済ますことが出来ると信じているのである。敬虔派は空虚な悟性哲学に対してたいへん対立しようとしているが、しかし実際においては全く急遽な哲学の教養に基いているのである。或る哲学体系例えばスピノザ主義を無神論として詰問することは、それを汎神論として詰問することよりも、一見してはいっそう残酷にかついっそう陰険に見える(前掲松村訳『小論理学』上巻228-30 頁)。しかし人々は、或る哲学体系を無神論として詰問することは、それを汎神論として詰問することよりも、敬虔派や神学そのものに対して、いっそう多くの名誉を与えたと言わなければならない。
或る哲学的体系を無神論として詰問すると言うことは、それにもかかわらず、詰問者が内容豊かな神に関して一定の表象を持っているということを前提している。そして、人々がこの表象が結び付けられている特有な諸形式を或る哲学的体系の諸々の哲学的概念の中に再び見出すことが出来ないときに、その哲学的体系を無神論として詰問するということが発生するのである。すなわち哲学はもとより、宗教的表象方法の諸範疇の中に自分自身の諸形式を認識することが出来る。それで哲学は宗教的内容に対して正しい態度を取ることが出来る。しかし逆に宗教は哲学的内容に対して正しい態度を取ることが出来ない。というのは、宗教的表象方法は自分自身に対して思想の批判を適用せず、また自己を概念によって理解せず、それ故に自分の直接性の中に止まっていて排他的だからである。哲学を無神論として詰問する代わりに汎神論として詰問するということはとくに近世の教養、すなわち新敬虔派や新神学に帰属する。新神学にとっては哲学は神を余りに多く持っているというのである。新神学にとっては哲学は神をたいへん多く持っているので、新神学の断言に従えば哲学においてはその上神は全てのものであるはずであり、また全てのものが神であるはずなのである。なぜかと言えば、宗教を専ら或る主観的感情にし、神の本性の認識を拒否するこの新神学は、このことによって、客観的諸規定を持たない或る神一般以上の何物をも保持していないからである。新神学は神の具体的な充実された概念に対して自分自身の関心を持たず、神の具体的な充実された概念を単に他人がかつて持っていた或る関心として考察するにすぎない。このために新神学は神の具体的本性に関する教説に属するものを、単に或る歴史的なもの(物語的なもの)として取り扱うにすぎない。無規定的な神はあらゆる宗教の中に見出されることが出来る。あらゆる種類の敬神(前掲松村訳『小論理学』上巻 230-1 頁)すなわち猿・牡牛等々に対するインド人の敬神、ダライラマに対する敬神、牡牛等々に対するエジプト人の敬神は、常に、自分の不合理な諸規定にも拘らずまた類すなわち神一般という抽象的なものを含んでいる或る対象の尊敬である。もし新神学のあの見解にとって、宗教と名付けられるところの全てのものの中に神を見出すためにはこのような神で充分であるならば、そのときはあの見解は少なくともそのような神は哲学においてもまた承認されているのを見出さなければならず、そしておそらくはもはや哲学を無神論だと言って咎めることは出来ない。それ故に無神論という非難を汎神論という非難に緩和すると言うことは、単にそのことの根拠を表象の皮相性の中に持っているにすぎない。そして神を希薄にし空虚にして表象の皮相性に転化したものはこの穏和な態度そのものなのである。さてあの表象は、あらゆる規定性を自分の(抽象的一般性の)外部に脱落させるところの(あの表象の)抽象的一般性を固執する。このことによって規定性は専ら非神的なものであり、事物の世俗的現実存在であるにすぎなくなる。そしてこのことによって事物の世俗的現実存在は確固として何物によっても妨げられない実体性を以て残存していることになる。それでこのような前提を以てしては、哲学において神について主張され、そして外面的事物の存在に何らの真理性をも持たせないところの自己自身において存在する一般性の場合にもまた、依然として、世俗的事物はそれにもかかわらず自己の存在を保持しており、神的一般性における規定されたものを形成するものであるということが固執される。こうして新神学者たちはあの自己自身において存在する一般性を彼らが汎神論的一般性と名付けている一般性にする。汎神論的一般性とは、全てのものすなわち諸々の経験的事物は、いっそう高く尊敬されている事物も平俗な事物も区別なしに存在し実体性を占有し、そして諸々の世俗的事物のこの存在が神であるという一般性である。汎神論に関するこのような表象と断言とを生み出すものは、新神学者たち自身の没思想性と、そこから出て来るところの一種の概念偽造とである。
しかしもし、或る一つの哲学を汎神論と称する人々が、このこと(私が今述べたこと)を洞察することが出来ず、また洞察しようとも欲しないならば(なぜかと言えば概念によっての洞察こそまさに彼らが欲しない当のものだからである)、そのときは彼らは何よりもまず、或る一人の哲学者または或る一人の人間が実際において全ての事物に自己自身においてある実在性すなわち実体性を帰属させ、そして全ての事物を神と見なしているということ、言い換えればひとり彼ら自身以外の或る一人の人間の頭にこのような表象が思い浮かんだということを、ただ事実としてだけでも確かめるべきだろう。私はこの事実をなおこの広義的考察において解明しようと思う。そのことはただ事実そのものが目の前に突き付けられることによってしか起こることが出来ない。もし我々がいわゆる汎神論をそれの詩的な形態・最も崇高な形態、または人々がそうしたければ最も粗雑な形態において取り上げようと欲するならば、そのときは人々はそのためには周知のように東洋の詩人たちのところで見回すべきである。そうすると最も広範な表現がインドのものの中に見出される。このことに関して我々に対して開かれている富の内で、私は最も信頼すべきものとして手に入る『バガヴァッド・ギーター』から、そして飽き飽きするほど詳述され繰り返されている長白の内で、最も適切な章句の若干を選出する。この中でクリシュナは自分について次のように言っている。
「私は生命あるものの肉体の中に宿っている気息である。私は生命あるものの始めであり、中間であり、同じく終わりである。私は星辰の中では輝く太陽であり、太陰星の中では月である。私は聖なる書物の中では讃歌の書物であり、感覚の中では生命あるものの感覚・悟性である、等々。私はルドラの中ではシヴァであり、山頂の中ではメル山であり、山脈の中ではヒマラヤ山脈である。」
これらの全く感性的な描写においてさえも、クリシュナはただ自分を全てのものの内で最も優れたものと称しているだけであって、自分を全てのものそのものと称しているのではない。そして人々は、クリシュナの他に神そのものまたは或る神はここにあると思ってはならない。ちょうどクリシュナが前に自分について自分はシヴァでありインドラであると言ったと同じように、後にはまたクリシュナによって自分の中にはまたブラフマンがいると言われている。諸々の外面的非本質的な現実存在と、それらのものの内の一つの本質的な現実存在、すなわち彼(クリシュナ)との間には、どこにおいても区別が設けられている。たとえ章句の始めのところで、彼は生命あるものの始めであり中間であり終わりであると言われているにしても、この全体性は諸々の個別的現実存在としての生命あるもの自身からは区別されている。人々はこのことによって、神性をそれの現実存在の中で広く延長させるこのような描写をまだ汎神論と名付けることが出来ない。人々はむしろ専ら、無限に多様な経験的世界すなわち全てのものが、諸々の本質的な現実存在から成っているいっそう制限された集合に、すなわち多神論に還元されていると言わなければならないであろう。しかし私が今述べたことの中にはすでに、外面的に実存するこのにおけるこれらの実体性でさえもまた、神が見と名付けられることが出来るために必要な独立性を保持していない。その上シヴァ、インドラ等々は唯一のクリシュナに解消されるということが含まれているのである。
クリシュナがそれこそ自分であると明言するところのこの全は、ちょうどエレア学派の一者やスピノザの実体があらゆるもの(何もかにも)でないと同じように、あらゆるもの(何もかにも)ではない。このあらゆるもの、すなわち有限者を際限なく多く集めて成っている感性的多様性は、これら全ての考え方(クリシュナ、エレア派、スピノザの考え方)においてはむしろ、自己自身において存在するものではなくて自分の真理性を実体または一者において持っているところの偶然的なものとして規定されている。一者はあの偶性的なものとは相違していて、ただそれだけが神的なものであり神であるようなものである。インドの宗教はその上ブラフマンの表象に進んで行く。ブラフマンとは思想の純粋な自己内統一である。そしてこの統一の中では世界の経験的全、および神々と呼ばれているところのあの最初の諸々の実体性が同様に消滅している。コールブルック(イギリスのインド学者)およびその他の多くの人々はこのために、インドの宗教をそれの本質的なものにおいては一神論として規定した。この規定が不適当でないということは今述べられた僅かのことから出て来る。しかし神(そしてもとより精神的な神)のこの統一性は、自己内においてはたいへん具体的でない。その統一性はいわばたいへんに非力なので、インドの宗教は一神教であると同程度に最も馬鹿げた多神論である位の巨大な混乱である。けれども、たとえ悲惨なインド人は猿またはその他どんなものをでも尊崇するにしても、彼らの偶像礼拝は常になお、全てのものが神であり神が全てのものであるという、汎神論のあの悲惨な表象ではない。その上、インドの一神教はそれ自身、もし神の理念が自己自身の中で規定されていないならば、そのときは単なる一神論がどんなに取るに足らないものであるかを示す一例である。なぜかと言えばあの統一は、自己自身の中では抽象であり、そしてそのことによって空虚である限りは、具体的なもの一般を、それが神々の集合として存在しているか、それともまたは諸々の経験的世俗的な個別性の集合として存在しているかを問わず、自己の外部に独立なものとして持たなければならないということを、自ずと招来するからである。その上人々はあの汎神論を、それに関する浅薄な表象に従って、整合的になお一神論と名付けることが出来よう。なぜかと言えば、もしこの浅薄な表象に従って、神が世界と同一であるならばそのときは、世界はただ一つしか存在しないという理由で、この汎神論においてはまたそのことによってただ一つの神しか存在しないことになるだろうからである。空虚な数的統一(単一)は世界については確かに述語されなければならない。しかしこの抽象的規定はそれ以上には何らの特殊な興味をも引かない。むしろこの数的統一(単一)はまさに、それの内容においては、諸々の個別性から成る無限な多様性・雑多性であるということである。しかし、汎神論の劣悪な統一を可能にし招来するものは、専ら空虚な統一によってこのように錯覚に陥っているということである。人々は世界を一つの事物すなわち全として、無規定的な灰色の中でぼんやりと表象するからこそ、世界をひょっとすると神と結合されることが出来るものと見なすことが出来たのである。人々が神は世界であると思い込んだということ、および神が世界であると考えられたということは、ただこのことからのみ可能になったのである。なぜかと言えば、もしあるがままの世界が全として、すなわち諸々の経験的現存在から成る際限のない集合として受け取られるならば、そのときはもはや人々は、このような内容についてそれが神であると主張した汎神論があったということを単に可能とさえも考えはしなかったであろうからである。
我々はもう一度事実的なものに復帰するために、一者の意識を、インド的に一方では抽象的思惟の没規定的な統一へ、そして他方では特殊者における退屈でお経のように長たらしくなりさえする詳述へ分裂させてではなく、一者の意識を最も麗しい純粋性と崇高性との中で見たいと思う。その場合には我々はモハメット教とのもとで見回さなければならない。もし、その中で、とくに霊魂と一者との統一が強調され、またこの統一が愛として強調されるならば、その時はこの精神的統一は有限なもの・平俗なものを超えての高揚であり、自然的なもの・精神的なものの浄化である。そしてこの浄化においてこそまさに、直接的な自然的なものと経験的世俗的な精神的なものが持っている外面的なもの・無常なものが分離され吸収されているからである。
私は、人々が汎神論と名付け慣れているところの宗教的及び詩的表象に関する実例を増加することを指し控える。人々がまさにこの名前を与えた諸々の哲学、例えばエレア学派の哲学またはスピノザ哲学については、私はすでに前に、それらの哲学は決して神を世界と同一化し、そして有限化するのではなくて、これらの哲学においてはこの全はむしろ何らの真理性をも持たないということ、そして人々はこれらの哲学をいっそう正しく一神論として特色づけ、世界に関する表象に対する関係においては無宇宙論として特色づけるべきであるということを想起させた(前掲松村訳『小論理学』上巻192-4 頁)。最も正確にはこれらの哲学は絶対者を専ら実体として捉えるところの体系として規定されよう。東洋的表象方法、とくにモハメット教的表象方法については、人々はいっそう多く、絶対者は諸々の種・諸々の現実存在に宿っているところの端的に一般的な類として現れるが、しかしその宿り方は諸々の種・諸々の現実存在には何らの現実的実在性をも帰属させないようなふうのものであるということが出来る。これらすべての表象方法や体系の欠陥は、実体を主観として、そして精神として規定するところまで進んで行かないと言うことである。
これらの表象方法や体系は、あらゆる哲学及びあらゆる宗教の唯一かつ共通な欲求、すなわち神に関する表象および次に神と世界との関係に関する表象を捉えるという欲求から出発している。哲学においてはさらに、世界に対する神の関係は神の本性から規定されるということが認識される。反省的悟性は、神と世界との連関を表現するところの、心情や空想や思弁が持っている諸々の表象方法と体系とを投げ捨てることから始める。そして、神を信仰または意識において純粋に保つために、神は本質として現象から分離され、無限者として有限者から分離される。しかしこの分離の後にはまた、本質に対する現象の関係についての確信・無限者に対する有限者の関係についての確信等々が現れ、かつそのことによってこれらの関係の本性を今や反省的に問うと言うことが現れる。事象の全困難が横たわっているのはこれらの関係の本性についての反省の形式のなかにである。これらの関係は神の本性について何事も知ろうと欲しないあの人々によって不可解なもの(概念によって理解されないもの)と名付けられているものである。哲学の結論においては(ここでは哲学の結論のうちでもまた一般に広義的考察の場所であるけれどもそのことに変わりはない)もはや、概念による理解と呼ばれていることについて一語でも費やすべき場所は存在していない。しかし、哲学一般をどう把握するかということや、哲学に対する全ての詰問は、この関係(本質と現象との関係、無限者と有限者との関係)をどう把握するかということと関連している。それで本質と現象・無限者と有限者の関係についてはなお次のことが想起されるべきだろう。哲学は確かに統一に関わり合うが、しかし抽象的な統一・単なる同一性および空虚な絶対者に関わり合うのではなくて、具体的統一(概念)に関わり合うのであり、かつ哲学はそれの全経過において全くただこの具体的統一(概念)にのみ関わり合うのである。このことによって、進行の各段階はこの具体的統一に特有な一つの規定であり、そしてこの統一の諸規定の内で最深かつ最終の規定は絶対的精神の規定である。いまや、哲学について判断し哲学について発言しようと欲する人々に対しては、彼らは統一のこれらの規定に立ち入り、これらの規定を知るために骨折らねばならないということ、少なく戸の彼らはこれらの規定には大いなる多様性がありこれらの規定のもとには大いなる差異性があるということ位は知っていなければならないということが、要求されるべきだろう。しかし、彼らはこのことについての知識を殆ど持っておらず、そうしてそのことについての知識を得ようとはなおさら努めない。それで彼らはむしろ、統一について聞くや否や(そして関係は直ちに統一を含んでいる)全く抽象的無規定的な統一のもとに止まっていて、ただそれだけがあらゆる関心を引くところのもの、すなわち統一の規定性の様式を捨象する。こうして彼らは哲学については、干からびた同一性が哲学の原理であり成果であるということ、そして哲学は同一性の体系であるということ以外の何事をも発言する術を知らない。彼らは同一性についてのこのように没概念的な思惟にへばりつきながら、まさに具体的な統一、すなわち哲学の概念や内容については全く何物をも捉えず、むしろ哲学の概念や内容の反対物を捉えてしまっている。彼らがこの分野(哲学)で振る舞う仕方は、ちょうど物理学者たちが物理学的分野で振る舞う仕方と同じである。物理学者たちは同様に確かに、自分たちが雑多な感性的特性や素材を念頭に置いていること、または通常はただ素材だけを念頭に置いていること(なぜかと言えば彼らにとっては特性も同じく素材に転化するからである)、そしてこれらの素材が相互に関係し合っていることを知っているのである。さて問題はこの関係がどんな種類のものであるかと言うことである。そしてあらゆる自然的事物、すなわち無機的事物と生命ある事物との特有性および全区別は、専ら、この統一の規定性の差異に基いている。しかし、化学を含めた通常の物理学は、この統一をそれの種々なる規定性において認識する代わりに、ただ一つの統一すなわち最も外面的で最も劣悪な統一、言い換えれば合成だけを把握し、そしてただそれだけを自然形像の全系列において適用する。そしてこのことによって物理学は諸々の自然形像中のどれか一つのものをも捉えることを不可能にする。あの無味乾燥な汎神論はあの無味乾燥な同一性からたいへん直接に出て来る。この自分自身の産物を哲学を詰問するために用いる人々は、世界に対する世界の関係を考察することによって、同一性は関係というこの範疇の一方の契機ではあるが、しかしまた単に一方の契機にすぎず、そしてもとより無規定性の契機であるということを聴き取る。彼らは今やこの中途半端な把握に立ち止まっていて、実際誤って、哲学は神との同一性を主張すると断言する。そして彼らにとっては同時に両者が(世界も神も同様に)確固とした実体性を持っている。そのことによって彼らは哲学的理念においては神は神自身と世界とから合成されているということを持ち出すのである。そして次に彼らはこのことを汎神論に関する表象として作り上げ、その表象を哲学に帰属させるのである。彼らは自分が思惟したり思想を把握したりする際に、このような諸範疇を乗り越えないで、哲学の中にはどこにも現存していないような諸範疇を哲学の中に持ち込み、そして疥癬を自分が持ち込んだこれらの範疇から哲学に感染させて哲学をかきたてることが出来るのである。その彼らは、世界に対する神の関係を把握する際に現れるあらゆる困難を、この関係は彼らに対しては彼らが全く理解することが出来ないような或る矛盾を含んでいるということを告白することによって、直ちに、そしてたいへん容易に回避するのである。そこから彼らは、このような関係(神と世界との関係)そのものや、その関係のいっそう詳細な諸様式(例えば、偏在・摂理等々)に関しては同様に、全く無規定的な表象を持つことで甘んじなければならない。信仰とはこの意味では、或る明確な表象へ進んで行こうとしないこと、内容にいっそう苦悪しく立ち入ろうとしないこと以外の何事をも意味しない。
未発達な悟性を持っている人間や身分が諸々の不明確な表象に満足しているということは、整合的なことである。しかしもし、発達した悟性と反省的な考察に対する関心とが、いっそう高い関心および最も高い関心として承認されているものにおいて、諸々の不明確な表象で満足しようとするならば、そのときはそういう精神の人が内容を実際に真剣に取り扱っているかどうかを区別することが困難である。しかし、もし上述の不毛の悟性にへばりついている人々が、例えば神の遍在という主張を、彼らが神の遍在に対する信仰を明確な表象の中で思い浮かべるという意味で真剣に取り扱ったならば、そのときは彼らが諸々の感性的事物の真実の実在性に対して持っている信仰は、彼らをどんな困難に巻き込むことであろうか?彼らはおそらく、エピクロスとは違って、神を事物間の空隙の中に、物理学者たちの気孔の中に住まわせたりはしないだろう。このような気孔は物質的に実在的なものの傍らに存在するとされているところの否定的なものである。彼らはこの傍らという言葉の中にすでに、彼らの汎神論(空間性の汎神論)、すなわち空間の相互外在として規定された彼らの全を持つことになろう。今、彼らが神に、充実された空間に対する活動と充実された空間の中での活動、世界に対する活動と世界の中での活動、世界に対する神の関係の中での活動を、帰属させるとしよう。そのときはしかし彼らはそのことによって、神的現実性を無限な物質性の中に無限に分裂させることになるのであり、また彼らが汎神論または全一論と名付けている劣悪な表象を実際において専ら神と世界とに関する彼らの劣悪な表象自身の必然的な帰結として持つことになるのであろう。しかし、人口に膾炙しているこのような統一または同一といったようなものを哲学のせいにするということは、正義と真理とに関する一大不注意である。この不注意はたいへん大きいものなので、ただ思想や概念を頭に叩き込むことの困難さ(すなわち、抽象的統一を頭に叩き込むのではなくて、統一の規定性の多形的な様式を頭に叩き込むことの困難さ)によってのみ、概念的に理解されるものになることが出来るほどであろう。もし事実に合った主張が打ち立てられ、そして事実が思想や概念であるならば、そのときは事実に合った主張を捉えることは不可欠なことである。しかしまたこの要求を充たしてやることも、哲学が汎神論・同一性の体系・全一論であるということが、とうに一つの既定の先入見になったということによって、余分なことになった。その結果、この事実を知らない人は、単に或る熟知されている事象について無知なものとしてか、または或る一つの目的のために逃げ道を求めているものとしてしか、取り扱われないほどである。私がこの見せかけの事実の外的および内的非真実性について、長々と、そして広義的に説明しなければならないと信じたのは、このコーラス(哲学は汎神論であるという非難のコーラス)があるためである。なぜかと言えば、概念を単なる事実として外面的に捉えること(まさにこのことによって概念はそれの反対物に転化されるのであるが)は、差し当たりただ広義的にのみ認められることだからである。しかるに、神や同一性についての秘儀的な考察は、認識作用や諸々の概念についての秘儀的な考察と同様に、哲学そのものである。
§ 574 哲学のこの概念は自己を思惟する理念であり、知る真理であり(前掲松村訳『小論理学』下巻 237 頁)、論理的なものである。しかしこの論理的なものは、それの(論理的なものの)現実態としての具体的な内容の中で確証された一般性であるという意味を持っている。学はこのような仕方で自己の端初に復帰している。そしてこうして論理的なものが学の成果である。しかもこの論理的なものは精神的なものである。前提を持つ判断作用においては、概念は単に潜勢的なものにすぎず、端初は直接的なものであった。そしてまたこの判断作用においては論理的なものはそれ自身において(本性上)現象を持っていた。しかし論理的なものはここでは、前提を持つその判断作用から、従ってこの現象から、同時に自己の境位としての自己の純粋原理へ自己を高めている。
§ 575 差し当たりいっそう進んだ発展を基礎づけるものはこの現われである。第一の現象を形成するものは、論理的なものを出発点としての根拠として持ち、自然を媒辞として持っているような推論である。そしてこの推論においては媒辞としての自然が精神を論理的なものと契合させる。論理的なものが自然になり、そして自然が精神になる。精神そのものと精神の本質との間に立っている自然は、もとより両者を有限な抽象化の両極に分離するようなことがなく、また自己自身を両者から引き離して一つの独立なものにするようなこともない。もしそのようなことをしたならは、そのときは自然は両者とは別の独立なもの、すなわち単に二つの他者(二つの独立なもの)を他者(第三の独立なもの)の立場から契合するにすぎないものになろう。自然はなぜこのようなことをしないかと言うと、推論が理念の中にあるからであり、また自然が本質的に単に通過点・否定的契機として規定されているにすぎず、潜勢的自体的には理念であるからである。しかし、概念の媒介は自然においては移行という外面的形式を持っており、学(自然哲学)は必然性の行程という形式を持っている。その結果、ただ一方の極(精神)においてのみ、概念の自由は概念の概念自身との契合として措定されている。
§ 576 この現象は第二の推論においては止揚されている。というのは、第二の推論ではすでに、過程において媒介者の地位を占めているところの、そして自然を前提し自然を論理的なものと契合するところの、精神そのものの立場であるからである。これが理念における精神的反省の推論である。ここでは学(精神の現象学)は主観的認識作用として現れる。そしてこの主観的認識作用が目的としているものは自由であり、主観的認識作用自身は自分に自由を作り出すという道程である。
§ 577 第三の推論は、自己を知る理性を・絶対的一般者を自分の媒辞として持っているところの、哲学の理念である。そしてこの媒辞は、精神と自然とに分裂して、精神を理念の主観的活動の過程にして前提し、自然を自体的(直接的)客観的に存在する理念の過程にして一般的極にする。理念は自己を両現象(自然(自然哲学)と精神(主観的認識作用)・精神の現象学)へ根源的に分割する( § 575、§ 576 )ことによって、これら二つの現象を理念自身の(自己を知る理性の)顕示として規定する、それで理念の中では、運動を続け発展するものは事象の本性すなわち概念であるということと、この運動は同様に認識作用の活動であるということとが、結合されている。こうして理念は、絶対的精神として永遠に自己を活動させ自己を産出し自己を享受するところの、現実的自覚的な(自己自身に充足している)永遠な理念である。
アリストテレス『形而上学』第12巻第7章から
そして、その思惟は自体的な思惟であって、それ自らで最も善なるものをその対象とし、そしてそれが最も優れた思惟であるだけにそれだけその対象も最も優れたものである。その理性(思惟するもの)はその理性自身を思惟するが、それは、その理性がその思惟の対象の性を共有することによってである。というのは、この理性は、これがその思惟対象に接触しこれを思惟しているとき、すでに自らその思惟対象そのものになっているからである。こうしてそれ故に、ここでは理性(ヌース)(思惟するもの)とその思惟対象(ノエートン)(思惟されるもの)とは同じものである。けだし、思惟の対象を、すなわち実体(形相)を、受け容れるものは理性であるが、しかし、この理性が現実的に働くのは、これがその対象を受け容れて、現にそれを所有しているときにであるから、従って、この理性が保っていると思われる神的な状態は、その対象を受け容れ得る状態(可能態)というよりもむしろそれを現に自ら所有している状態(現実態)である。そしてこの観想(テオーリア)は最も快であり最も善である。そこで、もしもこのような良い状態に(我々はほんのわずかの時しかいられないが)神は常に永遠にあるのだとすれば、それは驚嘆すべきことである。それがさらに優れて良い状態であるなら、さらにそれだけ多く驚嘆さるべきである。ところが、神は現にそうなのである。しかも彼には生命さえも属している。というのは、彼の理性の現実態は生命であり、しかも彼こそはそうした現実態だからである。そして、彼の全くそれ自体での現実態は、最高善の生命であり永遠の生命である。だからして我々は主張する。神は永遠にして最高善なる生者であり、従って連続的で永遠な生命と永劫(アイオーン)が神に属すると。けだし、これが神なのだから。
この記事へのコメント