論理学の世界 本質論第二章現象(1)実存
ここでも、まず大論理学における現象論の区分について述べると、前述のように、この部分は大小論理学は非常に違っている。小論理学では、大論理学のこの「実存」は、第二巻本質論の第一段「本質」の第二項に入っている。また、大論理学の「実存」の中の「物」が実存と分かれて、第一段「本質」の第三項に入り、したがって小論理学の第一段、「本質」の項は、「(1)反省規定→(2)実存→(3)物」となっている。また大論理学の「根拠」の中の「形相と質料」は、小論理学のこの「物」の項の第三段になっている。更に、大論理学の「根拠」の中の「形式と内容」は、小論理学では第二段「現象」の中に、「内容と形式」として入れられている。しかし第三段の「本質的関係」の項は、小論理学では単に「関係」となっているのみで、内容的には変わらない。またその三段の展開も、(1)全体と部分、(2)力とその発現、(3)内面と外面と同じである。
第二巻本質論の第一段の問題は「本質」であった。第一巻の有論の展開を通して、その有の本質としての「本質」が開示せられたのである。しかし、本質が有の根底としての本質である限り、それはむしろ有と本質との関係である。したがって、反省が本質であることになる。だから、この反省としての本質は二重の反省運動である。一つは、「有から本質への運動」(有→本質)であるが、その他面は「本質から有への運動」(本質→有)である。この相反する二つの方向の運動が同時に含まれていることが、反省としての本質の特性である。言い換えると、本質と有(現象)、本質論と現象論を同時に含むことが、本質論の特色である。
テキストはここに、「有は(が)本質である」という第一命題と、「本質は(が)有である」という第二命題との二つを挙げ、前者が有論の命題で、後者が本質論の命題であると言っている。第一巻有論では、有(自然)が本質であり、正であって、無(ロゴス)が有(仮象)であり、反であったのに対して、第二巻本質論では本質(ロゴス、無)が、正であり、有(本質)であって、有(自然)は無(仮象)であり、反である。本質論では有(自然)は、ただ根底としての本質によってあるものであり、本質が有として現象したものにすぎない。しかしこのことは、有論がただ有(自然)を根底とし、本質(ロゴス)を有の根底の上にある現象にすぎないとするのに対して、本質論は有(自然)から本質(ロゴス)が生ずるということ、即ち有の根底の上に本質がある面を認めると共に、その面も逆にただ本質(ロゴス)が根底であり、本質の上に有があるという反対の方向においてのみあることを意味している。即ち、有論が「有(自然、正)→本質(ロゴス、反、無)」のただ一つの方向を持つのに対して、本質論は「本質(ロゴス、正)→本質(自然、反)」の方向を存在論的に第一義的なものとしながら、そこに初めて「有(自然)→本質(ロゴス)」の方向も含まれることを意味している。というのは、あらゆる現象をロゴスとしての本質に還元することが、近代の本質だからである。そしてヘーゲルの本質論はこの近代的本質の体系的論理的叙述として、まさにこのことを遂行するものだからである。この意味で、この本質論はこのような二重の運動を同時に含むものなのである。
ところで、ヘーゲルにおいては本質がロゴスであり、自然がむしろ有(現象)とせられるから、このロゴス(本質)から自然(有)への方向(「本質→有」、「ロゴス→自然」)が本質論であり、本質を表現するものであるが、一般的には自然が本質であり、ロゴスがその現象とせられるから、その点から見ると、ヘーゲルにおいて本質論とせられているのものは、普通にはむしろ現象論である。したがってこのヘーゲルの本質論の形式に従って一般的な現象論を規定すれば、普通の現象論そのものが二重性を持つ。即ち、その現象論の中に「現象(有、ロゴス)→本質(自然)」の方向と「本質(自然)→現象(有、ロゴス)」の方向との二重性が含まれている。つまり、この二重の運動を持つことが、現象論の本性なのである。
即ちヘーゲルの本質論は、一般的に言えばむしろロゴスの叙述であり、自然を現象としてのロゴスに還元するものとして、むしろ現象論である。しかし、このヘーゲルの本質論、または普通の現象論の中に、本来の本質論が含まれる。しかも、この「有(自然)→本質(ロゴス)」の過程をとる本来の本質論(ヘーゲルの現象論)は、あくまでも反対の「本質(ロゴス)→有(自然)」の過程をとる現象論(ヘーゲルの本質論)に即して開示されるものである。単に自然を自然とし、有(自然、本質)を有として直観的に把握するのではなく、あくまでもロゴスに即して、ロゴスから自然を開示するのが現実的な行き方だからである。
けれどもヘーゲルの本質論は、これとは違った過程をとらざるを得ない。それは、ヘーゲルにおいては、たとえロゴスが本質であっても、それっが「本質」である限り、本質は端的に把握されるものではないからである。本質は現象(有)によって開示される他なく、「有(現象)(自然)→本質(ロゴス)」の過程によって把握される他ない。即ち、意味内容はたとえ反対ではあれ、本質を本質として直観的に把握するのではなく、本質をあくまでも現象を通して把握する方法をとるのは、ヘーゲル哲学の、したがってまた弁証法の現実的性格をなすものである。しかしその場合にも、それは言わば認識論的にそうだということであって、存在論的には、やはり「本質→有(現象)」の面が基本でなければならない。そこでヘーゲルの本質論、即ち論理学の第二巻本質論では、やはり本質が根底であり、それを基にして有(現象)が生ずる。即ち第二巻本質論の第一篇は本質(自己自身の中における反省としての本質)であり、第二篇が現象論とせられる。本質論は「本質→現象」という本質的、存在論的過程をとる。しかし、そのことも認識論的には、あくまでも「現象→本質」という過程に即してあるのでなければならない。そしてこの「現象→本質」の過程を本来的に叙述するのが、この第二巻本質論の第二篇現象論である。したがってこの現象論は、第一義的には「現象→本質」の過程であるが、その中に第二巻第一篇の「本質→現象」の過程を開示するものである。即ち、現象論は表面上は、単にこの「現象→本質」の過程のみのようであるが、その中に「本質→有」の反対の過程、本質的、存在論的過程を含み、本来この二重の過程を含む。この意味で、現象論こそ第二巻本質論の本性を最も適切に代表するものと言うことが出来る。言い換えると、全ての過程の根底の同一性としての本質がまず現象(有)(反)として規定せられ、「現象(正)→本質(反)」の過程をとるために、その根底の本質が自身の歪曲せられた過程に対して対立し、逆に有(現象)を反とし、本質を正とする正常の位置に返そうとするのである。そしてこの本質の現象に対する対立の過程、言い換えると本質が自身の歪曲に対して自己の本来が根底であることを示す対立の過程が、「本質→有(現象)」である。つまり、現象論における二重の運動、相反する二つの方向の対立は、それ自身本質と現象の対立を意味する。
しかし、ヘーゲルの本質論では、反省としての本質が第一篇とせられ、本質が現象の根底であるという存在論的過程がまず採られた限り、そこではまず本質から現象への生成過程が明らかにせられねばならない。言い換えると、本質が現象として規定せられ、いわば歪曲せられる過程が示されねばならない。これが前に根拠論の結果において示された「事物の実存への現出」の問題であった。即ち、根拠はそれ自身事物である。事物は自己の媒介である根拠と制約の消滅によって、具体的な直接性となり、事物となった。この意味で、本質は必然的に現象となるのである。そしてこの現象した本質、本質の現象として規定せられたものが、いまや実存に他ならない。だから、この直接的存在としての現象は、それ自身本質であるが、同時にそれは本質が現象として実存となったものとして、もはや本質ではなくて、単に有である。この意味で、本質そのものがここではむしろ現象そのものとなったと言ってもよい。つまり、この現象の立場は、この意味の新しい本質の立場である。
そこで次に、現象論の一般的区分をなすことができる。
(a)こうして、本質が直接的存在としての有に現象したものが、現象論の第一段、実存 Existenz である。或いはそれは、「実存するもの」Existierendes 、即ち「物」 Ding である。Existenz の語源は、ex-sisto 、ex-istemi で、「何々<から>(ex)成立する」(何々から現れ出る、生ずる)の意味を持つ。それで実存は、「<何かから>現れ出た」ものとして、その本質、根拠を持つと共に、「何かから<現れ出た>」ものという意味で、根拠の止揚せられたもの、無根拠のものという意味をもち、それ自身自立的である。いまこの実存も、まさにこの二義を持ち、第一の意味においては、それはなお本質を根拠として持ち、それ自身本質である。しかしまた第二の意味においては、実存は全く無根拠の存在であり、単に現象である。ここでは根拠としての本質は否定せられて、現象のみ独り存在である。それはむしろ無根拠の存在として、それ自身本質なのである。だから第一の意味で、実存はこの第二段、現象論の第一項をなし、本質と有との始元の統一としてあるが、第二の意味において実存は本質論ではなくて、あくまでも現象論の一項である。つまり実存は、この二つの意味を同時に持つ存在である。そしてこの実存は、具体的には、「実存するもの」、即ち「物」である。[ 大論理学で、「実存」が第二段の「現象」に対して第一段とせられ、この「実存ー現象ー本質的関係」のトリアーデの始元とせられているのは、この意味においてである。また小論理学で、実存が本質論の中に入れられているのも、それが本質を持ち、本質と合一したものだからであるが、「本質ー実存ー物」として、現象論の中でなくて、本質論の中に入れられ、その第二段におかれているのは、やはりそれが本質の現象面だからである。]
(b)ところが、このような二義をそれ自身の中に含むところの実存は、本来無根拠の存在で、「現れ出たもの」である。即ち二義はここに、第二の意味に集約せられる。これが即ち「現象」に他ならない。言い換えると、現象は無根拠の存在としてそれ自身存在であるから、根拠の否定として根拠と対立することになる。つまり、現象が実存の本来の相であり、「現象が物の即自の存在、言い換えると物の真理である」。しかしこうなると、今度はこの現象が基体、即ち根拠としての本質を逆に規定するのであって、本質がむしろ現象にすぎない。だから、現象の面の変化または展開に連れて、基体としての本質そのものも変化するのである。いまや本質はそれ自身不易のままにあるのではなくて、現象形態の変化に応じて変化する。これは一般的に言っても、本質的存在の独立な不易を主張する古い存在論に対して、近代的な合理論または現象主義の立場を示している。この第二段の面こそ、現象論の中軸をなすと共に、その限りまた第二巻本質論の中軸をなすものである。
(c)けれども、現象がこのように根底の同一性としての本質、即ち根拠を否定して、自己自身が本質となり、自立的な存在となるとき、それと同時に根底の同一性が自己を主張し、現象に対立して来る。すると、現象はやはり本質における現象であり、単に自立的な存在ではなくて、措定された存在であり、本来現象であることになる。しかしまた同様に、ここではその本質も、もはや現象の背後にある単なる形而上学的存在ではない。本質はただ現象との相互反省においてあるところの根底であり、現象の中にある存在である。けれどもまた、この現象の中の本質的なものは、いまや単に反省としての本質の場合のように、絶対的同一的な形式的なものではない。反省はもはや単なる純粋反省ではない。それは、すでに本質から現れ出た直接的存在としての現象、または物の中におけるそれとして、現象または物の中における現象または物と、その中の本質との具体的反省としての関係である。即ち、現象は自己の展開の過程を通して再び反省としての本質に帰るのであり、むしろそれとの根本的統一である。
しかしこの統一は、単に現象が根底の同一の本質に止揚されるという形で行われるのではない。それは、むしろ現象が本質の現象であり、本質はまた現象の中の本質として、互いに現象の中における対立する関係としてある。両者は互いに他によって初めて自己自身である。両者は全く対立し、矛盾するものとして、しかも他によって存在する。即ち、それは「他在への反省」と「自己内反省」の相即としてある。この意味で、両項の関係は必然的であり、本質的である。だからまた、関係そのものが本質であることになると共に、その関係はあくまでも現象の中における関係として、現象そのものが関係であり、本質であることにもなる。これが第三の「本質的関係」であり、本質的関係としての現象である。したがってまた、この現象の中における反省関係は、「現象の世界」とその中の本質そのものとしての「即自的に存在する世界」、即ち現象と現象の中の本質としてのその法則との関係として現れる。
ところが、このように両者は本質的関係にあるから、ここでは一方の側はそれ自身他方の側を表すものとして、それ自身他方と同一のものである。現象はそれ自身本質を表すものであり、それ自身本質である。けれども、両者がなお対立として関係である限り、現象は本質を完全に表すものではない。したがってその現象における統一は、なお「不完全な統一」を出でない。そこにはなお、内容の表現としての形式が内容そのものであり、現象そのものがそれ自身本質という真の統一、または同一性はない。そこでこの現象それ自身が本質となって、現象が真に第一段の本質または反省としての本質に帰り、現象そのものが真の統一となるとき、それは「現実性」となる。だからヘーゲルでは、有、定有、実存、事物、現実性は、全て存在であり、現象であると共に、それらはそれ自身その根底としての一般に概念、ロゴスとしての本質であり、それを表現するものとしてそれ自身統一であるが、それぞれはこの根底の概念、ロゴスの表現または展開段階、或いは両者の一致の度において深浅の度を持つ。そして現実性はその最も高次の段階である。前にも言ったように、ヘーゲルにおいては何ものでも手当たり次第の存在が現実性であるのではなく、本質または概念を最も深く表し、それに最も一致する存在のみが現実性である。しかし現実性については、次に述べる。
(1)実存
実存の項は(A)物とその諸特性、(B)物の諸特性からの成立、(C)物の解消、に分かれている。ところで、実存は本質としての根拠から現れて来たものであり、本質の外化せられたものであり、本質が直接性の中に「移行」したものである。しかし実存は、有の場合の定有が一般的な有から現れ、有が規定性を持ったものであったように、本質または根拠が具体化し、規定性を持ったものであるが、この実存はまた定有がなお規定的な有として一般的なものであったのと同様に、本質の直接的存在としてなお一般的、抽象的なものである。それで、定有の規定せられた具体的なものが「或る物」であったように、実存の規定された具体的直接性は「実存するもの」または「物」である。
(A)物とその諸特性 ところが、この「物とその諸特性」の項は、更に(a)物自体と実存、(b)特性、(c)諸物の交互作用の三つに分けられる。(a)ここに実存、即ち物の外に、また物自体、特性の概念が現れる。しかしまず一般的に言えば、物自体は物と別のものではない。特性もまた物の特性として、物の表現である。即ち、物自体と特性とは、物の二つの契機であって、物そのものの二面である。物が物自体である限り、その表現が特性であり、物が特性において表現せられる限り、物はその本質として物自体である。
物自体とは、普通に言われるように、実存の彼岸に存在するような、無規定的な根底の存在ではない。それは、物の自己内反省の面であり、実存の中にある物の本性であって、自己自身に関係する本質的な実存である。これに対して特性とは、物の外的反省の面、或いは「外面的実存」である。物自体を不可知の彼岸とし、哲学の領域の外に残すことについては、ヘーゲルは機会ある度にカントを批評している。ヘーゲルのみならず、一般にドイツ観念論の主要動因の一つが、このカントの物自体の超克にあったことは、周知のことである。ヘーゲルにおける本質または存在は物自体そのものであって、論理学または弁証法の展開は、物自体そのものの全面的な自己展開である。ヘーゲル哲学にとっては、単に現象だけが展開して、物自体はその背後のものとして展開しないということはない。だから、この点からして、ヘーゲルからカントを見れば、現象のみについて論ずることが出来るとして、物自体については何も言い得ないとし、存在全体について、その原理的な立言をしないカント哲学は、まだ本来的な存在論ではなく、したがって「哲学」ではないのである。それで、ヘーゲルは丁度この場所で、物自体の批評を主題的に取り上げている。またそれと同時に、自身の哲学からする物自体の積極的解釈を展開している。物自体は、カントにおけるような彼岸の存在ではなく、物をただ自身に関係する自己内反省としての相において見たものであって、いわばその即自有における物である。したがってまた、以下の実存の展開は、同時にそれ自身物自体の展開でなければならない。(b)これに対して、物が自己内反省であり、即自有としての実存である限り、それは同時に外的反省の面を含んでいる。というよりも、外的な面、現象面が物自体であり、外的反省の面がそれ自身自己内反省である。これは言い換えると、外的反省は自己内反省と同一のものであるが、その即自有の自己反発として、またそれとの差異性を持つと言ってもよい。そしてこの即自有そのものの有つ haben 、その自己の他者としての自己への自己固有の関係、即ち物自体の規定性が、物の特性に他ならない。物自体は特性の本質であるが、それは特性を離れてあり得ない。その限りまた、むしろ特性が物自体だとも言うことが出来る。またその限り、物は特性を通して他の物と対立し、関係するのであって、特性とは物が他の物に関係する「その関係の一つの仕方」であると言うことも出来る。[ 「有」の場合には、例えば「或る物」は質である sein のであって、有と質とは一つである。だから、質を捨象すれば有も無いが、この本質における物は諸特性を有つ haben のであって、それ自身特性であるのでないことを、ヘーゲルは特に注意している。これは直接的な存在としての有と、対立を本性とする本質との相違である。しかしまたその点で、ヘーゲルの言葉にも拘わらず、一層広い観点から見れば、いま述べたように、特性がそれ自身物であると言うことも出来る。]
それで、(c)物自体は本質的に実存するものである。外的直接性と規定性は、物自体の即自有またはその自己内反省の他面であって、したがって物自体に属する。それ故に、物自体は多くの特性を持つ一つの物である。だから一般的に差別的な多くの物の関係は、その諸々の特性を通じての本質的な交互作用の中にある。或いは特性はむしろ、この交互作用そのものに他ならないのであって、物はこの関係を離れては無である。その意味で、特性の交互作用はむしろ物そのものの交互作用である。
(B)物の諸特性からの成立 そこで、前には物自体が物の即自有として本質的なものであり、特性は物の非本質的なものと見られたが、いまや物はむしろこの諸々の特性による他の物との関係の中において初めて物であるから、却って特性こそ本質的なもので、物自体はむしろ非本質的なものである。ここでは、現象がそれ自身本質であり、特性がむしろ物自体である。特性はむしろ物を物たらしめる本質的要素であって、いわば「自立的な物質」である。そしてこのことは、物が特性、即ち物質から成立することを意味している。しかも物質は同時に質料の意味を持つ。ということは、前には特性がその本質として物自体の表現として、現象であり、形式であるように見えたが、実はむしろこの形式がそれ自身物質であり、質料だということである。この意味で、小論理学が形式と質料の問題を論理学のこの段階に置き、ここで形式と質料について取り扱っているのは、一つの見方と言うべきであろう。
なお、この形式と質料の関係について繰り返して言えば、次のように言ってもよい。特性または質料は、このようにそれ自身物である。また少なくとも、それは物の成立の本質的契機をなすものであるが、それはまたその限り全体の一面にすぎない。即ち特性は物の外面的関係にすぎない。そしてその限りでは、それはむしろ物の形式である。だから、ここでは特性そのもの、またその意味の質料が、物の構成要素として質料であると共に、それはまたそのまま外的関係の面として形式なのである。つまり、特性そのもの、質料そのものが形式と質料とに分けられるのである。そしてここから見れば、また質料の面は物自体の面であり、形式の面は特性の面であると言うことも出来る。即ち、形式と質料、特性と物自体は相俟って物自体を構成するのである。
(C)物の解消 けれどもこの場合は、質料または物自体は、もはや物の即自的な固有の本質であるよりは、外的関係としての形式の面、特性の面の変様にすぎない。というよりも、外的関係としての形式が、そのまま質料であって、形式の外に質料はない。しかしそうすると、物は質的なものであるよりも、むしろ量的なものである。したがってこの物というもの、或いはこの物の生起も、生滅も、ただ外的な結合または集合と外的解消に他ならない。或いはまた、ここでは物の本性は物の形相としての点性にあることにあるから、一つの物の存在と他物の存在とは同時的であり、共存的であり得る。即ち、各々の物は互いに透明であり、浸透し合う。この意味で、物が全て形式としての特性から成立するということは、物は全く形式的なものとなって、その質料は形式となり、形式の中に解消する。即ち、物は形式、特性としてすでに一様性となり、物そのものとしては解消せられる。こうして本質と現象、根拠と存在との統一としての実存は、それ自身全く無根拠な、自立的な全くの現象になる。[ ヘーゲル自身はここに多孔性という概念を持ち込んでいる。多孔性とは、各存在が同質的なものの中の存在として点的なものであるが、各自は他物の孔、即ち非有の中に存在する有孔的なものであるということである。これは、物がいずれも点的一様性であることを表現するものであるが、同時に物がそれぞれ物として固有性を持つことをも示すためのものである。
第二巻本質論の第一段の問題は「本質」であった。第一巻の有論の展開を通して、その有の本質としての「本質」が開示せられたのである。しかし、本質が有の根底としての本質である限り、それはむしろ有と本質との関係である。したがって、反省が本質であることになる。だから、この反省としての本質は二重の反省運動である。一つは、「有から本質への運動」(有→本質)であるが、その他面は「本質から有への運動」(本質→有)である。この相反する二つの方向の運動が同時に含まれていることが、反省としての本質の特性である。言い換えると、本質と有(現象)、本質論と現象論を同時に含むことが、本質論の特色である。
テキストはここに、「有は(が)本質である」という第一命題と、「本質は(が)有である」という第二命題との二つを挙げ、前者が有論の命題で、後者が本質論の命題であると言っている。第一巻有論では、有(自然)が本質であり、正であって、無(ロゴス)が有(仮象)であり、反であったのに対して、第二巻本質論では本質(ロゴス、無)が、正であり、有(本質)であって、有(自然)は無(仮象)であり、反である。本質論では有(自然)は、ただ根底としての本質によってあるものであり、本質が有として現象したものにすぎない。しかしこのことは、有論がただ有(自然)を根底とし、本質(ロゴス)を有の根底の上にある現象にすぎないとするのに対して、本質論は有(自然)から本質(ロゴス)が生ずるということ、即ち有の根底の上に本質がある面を認めると共に、その面も逆にただ本質(ロゴス)が根底であり、本質の上に有があるという反対の方向においてのみあることを意味している。即ち、有論が「有(自然、正)→本質(ロゴス、反、無)」のただ一つの方向を持つのに対して、本質論は「本質(ロゴス、正)→本質(自然、反)」の方向を存在論的に第一義的なものとしながら、そこに初めて「有(自然)→本質(ロゴス)」の方向も含まれることを意味している。というのは、あらゆる現象をロゴスとしての本質に還元することが、近代の本質だからである。そしてヘーゲルの本質論はこの近代的本質の体系的論理的叙述として、まさにこのことを遂行するものだからである。この意味で、この本質論はこのような二重の運動を同時に含むものなのである。
ところで、ヘーゲルにおいては本質がロゴスであり、自然がむしろ有(現象)とせられるから、このロゴス(本質)から自然(有)への方向(「本質→有」、「ロゴス→自然」)が本質論であり、本質を表現するものであるが、一般的には自然が本質であり、ロゴスがその現象とせられるから、その点から見ると、ヘーゲルにおいて本質論とせられているのものは、普通にはむしろ現象論である。したがってこのヘーゲルの本質論の形式に従って一般的な現象論を規定すれば、普通の現象論そのものが二重性を持つ。即ち、その現象論の中に「現象(有、ロゴス)→本質(自然)」の方向と「本質(自然)→現象(有、ロゴス)」の方向との二重性が含まれている。つまり、この二重の運動を持つことが、現象論の本性なのである。
即ちヘーゲルの本質論は、一般的に言えばむしろロゴスの叙述であり、自然を現象としてのロゴスに還元するものとして、むしろ現象論である。しかし、このヘーゲルの本質論、または普通の現象論の中に、本来の本質論が含まれる。しかも、この「有(自然)→本質(ロゴス)」の過程をとる本来の本質論(ヘーゲルの現象論)は、あくまでも反対の「本質(ロゴス)→有(自然)」の過程をとる現象論(ヘーゲルの本質論)に即して開示されるものである。単に自然を自然とし、有(自然、本質)を有として直観的に把握するのではなく、あくまでもロゴスに即して、ロゴスから自然を開示するのが現実的な行き方だからである。
けれどもヘーゲルの本質論は、これとは違った過程をとらざるを得ない。それは、ヘーゲルにおいては、たとえロゴスが本質であっても、それっが「本質」である限り、本質は端的に把握されるものではないからである。本質は現象(有)によって開示される他なく、「有(現象)(自然)→本質(ロゴス)」の過程によって把握される他ない。即ち、意味内容はたとえ反対ではあれ、本質を本質として直観的に把握するのではなく、本質をあくまでも現象を通して把握する方法をとるのは、ヘーゲル哲学の、したがってまた弁証法の現実的性格をなすものである。しかしその場合にも、それは言わば認識論的にそうだということであって、存在論的には、やはり「本質→有(現象)」の面が基本でなければならない。そこでヘーゲルの本質論、即ち論理学の第二巻本質論では、やはり本質が根底であり、それを基にして有(現象)が生ずる。即ち第二巻本質論の第一篇は本質(自己自身の中における反省としての本質)であり、第二篇が現象論とせられる。本質論は「本質→現象」という本質的、存在論的過程をとる。しかし、そのことも認識論的には、あくまでも「現象→本質」という過程に即してあるのでなければならない。そしてこの「現象→本質」の過程を本来的に叙述するのが、この第二巻本質論の第二篇現象論である。したがってこの現象論は、第一義的には「現象→本質」の過程であるが、その中に第二巻第一篇の「本質→現象」の過程を開示するものである。即ち、現象論は表面上は、単にこの「現象→本質」の過程のみのようであるが、その中に「本質→有」の反対の過程、本質的、存在論的過程を含み、本来この二重の過程を含む。この意味で、現象論こそ第二巻本質論の本性を最も適切に代表するものと言うことが出来る。言い換えると、全ての過程の根底の同一性としての本質がまず現象(有)(反)として規定せられ、「現象(正)→本質(反)」の過程をとるために、その根底の本質が自身の歪曲せられた過程に対して対立し、逆に有(現象)を反とし、本質を正とする正常の位置に返そうとするのである。そしてこの本質の現象に対する対立の過程、言い換えると本質が自身の歪曲に対して自己の本来が根底であることを示す対立の過程が、「本質→有(現象)」である。つまり、現象論における二重の運動、相反する二つの方向の対立は、それ自身本質と現象の対立を意味する。
しかし、ヘーゲルの本質論では、反省としての本質が第一篇とせられ、本質が現象の根底であるという存在論的過程がまず採られた限り、そこではまず本質から現象への生成過程が明らかにせられねばならない。言い換えると、本質が現象として規定せられ、いわば歪曲せられる過程が示されねばならない。これが前に根拠論の結果において示された「事物の実存への現出」の問題であった。即ち、根拠はそれ自身事物である。事物は自己の媒介である根拠と制約の消滅によって、具体的な直接性となり、事物となった。この意味で、本質は必然的に現象となるのである。そしてこの現象した本質、本質の現象として規定せられたものが、いまや実存に他ならない。だから、この直接的存在としての現象は、それ自身本質であるが、同時にそれは本質が現象として実存となったものとして、もはや本質ではなくて、単に有である。この意味で、本質そのものがここではむしろ現象そのものとなったと言ってもよい。つまり、この現象の立場は、この意味の新しい本質の立場である。
そこで次に、現象論の一般的区分をなすことができる。
(a)こうして、本質が直接的存在としての有に現象したものが、現象論の第一段、実存 Existenz である。或いはそれは、「実存するもの」Existierendes 、即ち「物」 Ding である。Existenz の語源は、ex-sisto 、ex-istemi で、「何々<から>(ex)成立する」(何々から現れ出る、生ずる)の意味を持つ。それで実存は、「<何かから>現れ出た」ものとして、その本質、根拠を持つと共に、「何かから<現れ出た>」ものという意味で、根拠の止揚せられたもの、無根拠のものという意味をもち、それ自身自立的である。いまこの実存も、まさにこの二義を持ち、第一の意味においては、それはなお本質を根拠として持ち、それ自身本質である。しかしまた第二の意味においては、実存は全く無根拠の存在であり、単に現象である。ここでは根拠としての本質は否定せられて、現象のみ独り存在である。それはむしろ無根拠の存在として、それ自身本質なのである。だから第一の意味で、実存はこの第二段、現象論の第一項をなし、本質と有との始元の統一としてあるが、第二の意味において実存は本質論ではなくて、あくまでも現象論の一項である。つまり実存は、この二つの意味を同時に持つ存在である。そしてこの実存は、具体的には、「実存するもの」、即ち「物」である。[ 大論理学で、「実存」が第二段の「現象」に対して第一段とせられ、この「実存ー現象ー本質的関係」のトリアーデの始元とせられているのは、この意味においてである。また小論理学で、実存が本質論の中に入れられているのも、それが本質を持ち、本質と合一したものだからであるが、「本質ー実存ー物」として、現象論の中でなくて、本質論の中に入れられ、その第二段におかれているのは、やはりそれが本質の現象面だからである。]
(b)ところが、このような二義をそれ自身の中に含むところの実存は、本来無根拠の存在で、「現れ出たもの」である。即ち二義はここに、第二の意味に集約せられる。これが即ち「現象」に他ならない。言い換えると、現象は無根拠の存在としてそれ自身存在であるから、根拠の否定として根拠と対立することになる。つまり、現象が実存の本来の相であり、「現象が物の即自の存在、言い換えると物の真理である」。しかしこうなると、今度はこの現象が基体、即ち根拠としての本質を逆に規定するのであって、本質がむしろ現象にすぎない。だから、現象の面の変化または展開に連れて、基体としての本質そのものも変化するのである。いまや本質はそれ自身不易のままにあるのではなくて、現象形態の変化に応じて変化する。これは一般的に言っても、本質的存在の独立な不易を主張する古い存在論に対して、近代的な合理論または現象主義の立場を示している。この第二段の面こそ、現象論の中軸をなすと共に、その限りまた第二巻本質論の中軸をなすものである。
(c)けれども、現象がこのように根底の同一性としての本質、即ち根拠を否定して、自己自身が本質となり、自立的な存在となるとき、それと同時に根底の同一性が自己を主張し、現象に対立して来る。すると、現象はやはり本質における現象であり、単に自立的な存在ではなくて、措定された存在であり、本来現象であることになる。しかしまた同様に、ここではその本質も、もはや現象の背後にある単なる形而上学的存在ではない。本質はただ現象との相互反省においてあるところの根底であり、現象の中にある存在である。けれどもまた、この現象の中の本質的なものは、いまや単に反省としての本質の場合のように、絶対的同一的な形式的なものではない。反省はもはや単なる純粋反省ではない。それは、すでに本質から現れ出た直接的存在としての現象、または物の中におけるそれとして、現象または物の中における現象または物と、その中の本質との具体的反省としての関係である。即ち、現象は自己の展開の過程を通して再び反省としての本質に帰るのであり、むしろそれとの根本的統一である。
しかしこの統一は、単に現象が根底の同一の本質に止揚されるという形で行われるのではない。それは、むしろ現象が本質の現象であり、本質はまた現象の中の本質として、互いに現象の中における対立する関係としてある。両者は互いに他によって初めて自己自身である。両者は全く対立し、矛盾するものとして、しかも他によって存在する。即ち、それは「他在への反省」と「自己内反省」の相即としてある。この意味で、両項の関係は必然的であり、本質的である。だからまた、関係そのものが本質であることになると共に、その関係はあくまでも現象の中における関係として、現象そのものが関係であり、本質であることにもなる。これが第三の「本質的関係」であり、本質的関係としての現象である。したがってまた、この現象の中における反省関係は、「現象の世界」とその中の本質そのものとしての「即自的に存在する世界」、即ち現象と現象の中の本質としてのその法則との関係として現れる。
ところが、このように両者は本質的関係にあるから、ここでは一方の側はそれ自身他方の側を表すものとして、それ自身他方と同一のものである。現象はそれ自身本質を表すものであり、それ自身本質である。けれども、両者がなお対立として関係である限り、現象は本質を完全に表すものではない。したがってその現象における統一は、なお「不完全な統一」を出でない。そこにはなお、内容の表現としての形式が内容そのものであり、現象そのものがそれ自身本質という真の統一、または同一性はない。そこでこの現象それ自身が本質となって、現象が真に第一段の本質または反省としての本質に帰り、現象そのものが真の統一となるとき、それは「現実性」となる。だからヘーゲルでは、有、定有、実存、事物、現実性は、全て存在であり、現象であると共に、それらはそれ自身その根底としての一般に概念、ロゴスとしての本質であり、それを表現するものとしてそれ自身統一であるが、それぞれはこの根底の概念、ロゴスの表現または展開段階、或いは両者の一致の度において深浅の度を持つ。そして現実性はその最も高次の段階である。前にも言ったように、ヘーゲルにおいては何ものでも手当たり次第の存在が現実性であるのではなく、本質または概念を最も深く表し、それに最も一致する存在のみが現実性である。しかし現実性については、次に述べる。
(1)実存
実存の項は(A)物とその諸特性、(B)物の諸特性からの成立、(C)物の解消、に分かれている。ところで、実存は本質としての根拠から現れて来たものであり、本質の外化せられたものであり、本質が直接性の中に「移行」したものである。しかし実存は、有の場合の定有が一般的な有から現れ、有が規定性を持ったものであったように、本質または根拠が具体化し、規定性を持ったものであるが、この実存はまた定有がなお規定的な有として一般的なものであったのと同様に、本質の直接的存在としてなお一般的、抽象的なものである。それで、定有の規定せられた具体的なものが「或る物」であったように、実存の規定された具体的直接性は「実存するもの」または「物」である。
(A)物とその諸特性 ところが、この「物とその諸特性」の項は、更に(a)物自体と実存、(b)特性、(c)諸物の交互作用の三つに分けられる。(a)ここに実存、即ち物の外に、また物自体、特性の概念が現れる。しかしまず一般的に言えば、物自体は物と別のものではない。特性もまた物の特性として、物の表現である。即ち、物自体と特性とは、物の二つの契機であって、物そのものの二面である。物が物自体である限り、その表現が特性であり、物が特性において表現せられる限り、物はその本質として物自体である。
物自体とは、普通に言われるように、実存の彼岸に存在するような、無規定的な根底の存在ではない。それは、物の自己内反省の面であり、実存の中にある物の本性であって、自己自身に関係する本質的な実存である。これに対して特性とは、物の外的反省の面、或いは「外面的実存」である。物自体を不可知の彼岸とし、哲学の領域の外に残すことについては、ヘーゲルは機会ある度にカントを批評している。ヘーゲルのみならず、一般にドイツ観念論の主要動因の一つが、このカントの物自体の超克にあったことは、周知のことである。ヘーゲルにおける本質または存在は物自体そのものであって、論理学または弁証法の展開は、物自体そのものの全面的な自己展開である。ヘーゲル哲学にとっては、単に現象だけが展開して、物自体はその背後のものとして展開しないということはない。だから、この点からして、ヘーゲルからカントを見れば、現象のみについて論ずることが出来るとして、物自体については何も言い得ないとし、存在全体について、その原理的な立言をしないカント哲学は、まだ本来的な存在論ではなく、したがって「哲学」ではないのである。それで、ヘーゲルは丁度この場所で、物自体の批評を主題的に取り上げている。またそれと同時に、自身の哲学からする物自体の積極的解釈を展開している。物自体は、カントにおけるような彼岸の存在ではなく、物をただ自身に関係する自己内反省としての相において見たものであって、いわばその即自有における物である。したがってまた、以下の実存の展開は、同時にそれ自身物自体の展開でなければならない。(b)これに対して、物が自己内反省であり、即自有としての実存である限り、それは同時に外的反省の面を含んでいる。というよりも、外的な面、現象面が物自体であり、外的反省の面がそれ自身自己内反省である。これは言い換えると、外的反省は自己内反省と同一のものであるが、その即自有の自己反発として、またそれとの差異性を持つと言ってもよい。そしてこの即自有そのものの有つ haben 、その自己の他者としての自己への自己固有の関係、即ち物自体の規定性が、物の特性に他ならない。物自体は特性の本質であるが、それは特性を離れてあり得ない。その限りまた、むしろ特性が物自体だとも言うことが出来る。またその限り、物は特性を通して他の物と対立し、関係するのであって、特性とは物が他の物に関係する「その関係の一つの仕方」であると言うことも出来る。[ 「有」の場合には、例えば「或る物」は質である sein のであって、有と質とは一つである。だから、質を捨象すれば有も無いが、この本質における物は諸特性を有つ haben のであって、それ自身特性であるのでないことを、ヘーゲルは特に注意している。これは直接的な存在としての有と、対立を本性とする本質との相違である。しかしまたその点で、ヘーゲルの言葉にも拘わらず、一層広い観点から見れば、いま述べたように、特性がそれ自身物であると言うことも出来る。]
それで、(c)物自体は本質的に実存するものである。外的直接性と規定性は、物自体の即自有またはその自己内反省の他面であって、したがって物自体に属する。それ故に、物自体は多くの特性を持つ一つの物である。だから一般的に差別的な多くの物の関係は、その諸々の特性を通じての本質的な交互作用の中にある。或いは特性はむしろ、この交互作用そのものに他ならないのであって、物はこの関係を離れては無である。その意味で、特性の交互作用はむしろ物そのものの交互作用である。
(B)物の諸特性からの成立 そこで、前には物自体が物の即自有として本質的なものであり、特性は物の非本質的なものと見られたが、いまや物はむしろこの諸々の特性による他の物との関係の中において初めて物であるから、却って特性こそ本質的なもので、物自体はむしろ非本質的なものである。ここでは、現象がそれ自身本質であり、特性がむしろ物自体である。特性はむしろ物を物たらしめる本質的要素であって、いわば「自立的な物質」である。そしてこのことは、物が特性、即ち物質から成立することを意味している。しかも物質は同時に質料の意味を持つ。ということは、前には特性がその本質として物自体の表現として、現象であり、形式であるように見えたが、実はむしろこの形式がそれ自身物質であり、質料だということである。この意味で、小論理学が形式と質料の問題を論理学のこの段階に置き、ここで形式と質料について取り扱っているのは、一つの見方と言うべきであろう。
なお、この形式と質料の関係について繰り返して言えば、次のように言ってもよい。特性または質料は、このようにそれ自身物である。また少なくとも、それは物の成立の本質的契機をなすものであるが、それはまたその限り全体の一面にすぎない。即ち特性は物の外面的関係にすぎない。そしてその限りでは、それはむしろ物の形式である。だから、ここでは特性そのもの、またその意味の質料が、物の構成要素として質料であると共に、それはまたそのまま外的関係の面として形式なのである。つまり、特性そのもの、質料そのものが形式と質料とに分けられるのである。そしてここから見れば、また質料の面は物自体の面であり、形式の面は特性の面であると言うことも出来る。即ち、形式と質料、特性と物自体は相俟って物自体を構成するのである。
(C)物の解消 けれどもこの場合は、質料または物自体は、もはや物の即自的な固有の本質であるよりは、外的関係としての形式の面、特性の面の変様にすぎない。というよりも、外的関係としての形式が、そのまま質料であって、形式の外に質料はない。しかしそうすると、物は質的なものであるよりも、むしろ量的なものである。したがってこの物というもの、或いはこの物の生起も、生滅も、ただ外的な結合または集合と外的解消に他ならない。或いはまた、ここでは物の本性は物の形相としての点性にあることにあるから、一つの物の存在と他物の存在とは同時的であり、共存的であり得る。即ち、各々の物は互いに透明であり、浸透し合う。この意味で、物が全て形式としての特性から成立するということは、物は全く形式的なものとなって、その質料は形式となり、形式の中に解消する。即ち、物は形式、特性としてすでに一様性となり、物そのものとしては解消せられる。こうして本質と現象、根拠と存在との統一としての実存は、それ自身全く無根拠な、自立的な全くの現象になる。[ ヘーゲル自身はここに多孔性という概念を持ち込んでいる。多孔性とは、各存在が同質的なものの中の存在として点的なものであるが、各自は他物の孔、即ち非有の中に存在する有孔的なものであるということである。これは、物がいずれも点的一様性であることを表現するものであるが、同時に物がそれぞれ物として固有性を持つことをも示すためのものである。
"論理学の世界 本質論第二章現象(1)実存" へのコメントを書く