論理学の世界 概念論第三章理念 生命、認識(真、善)
(一)理念の本性
理念は即自かつ対自的な真理であって、概念と客観性との絶対的な統一である。その意味で、理念はまた「十全な概念」であり、客観的な真理であり、真理そのものであることが言われる。それが絶対的な統一であり、十全な概念であるというのは、即ち主観性と客観性、概念と客観性のおいてある根底の原理であるということである。またその限り、それは客観的真理である。だから、およそ「或る物が、真理を持つとすれば、それはその理念によってこれを持つのである。言い換えると、或る物はそれが理念である限りにおいてのみ、真理を持つ」のである。
そこで、いま理念の本性を説明するために、理念が概念と客観性との統一であるということについて、考えておかねばならない。なぜなら、この統一は単に機械的、公式的な弁証法的統一ではないからである。だが、そのことを明らかにするためには、いま上に述べた、客観性ということについて改めて考えておかねばならない。そしてこのことはまた一般に、弁証法におけるいわゆる正、反、合の中の反の面、即ち外的他在の面について共通する問題である。即ち、定有、実在性、実存、現象、客観性について、またエンチュクロぺディーの体系から言えば自然について、一般に含まれている問題である。
これをいま前の客観性について述べると、それは主観性、概念の自己疎外したものであり、一般に言ってその他者である。だから、それは自己疎外したもの、または他者として、概念そのものではない。主観性の要素はそこには何ものも含まれていないように見える。前節では、私は特にこの客観性の概念からの独立性の面を強調した。けれども、この点が問題である。なぜなら、前節でもまたこの他の面についても述べたが、もし客観性が概念の他者として、概念の何ものをも含まないとすれば、それは全く非合理的なものであろう。したがって、それが自己展開をなすことはなく、弁証法的発展的であることはないだろうからである。ということは、たとえ仮に、それが何らかの展開をなすとしても、それは概念の他者である以上、概念との連関はなく、したがって何ら合理的な把握は可能ではないということである。しかし、ヘーゲルにとっては、客観性は上述のように、概念の自己疎外として、依然一種の概念である。言い換えると、客観性は一種の概念として、しかも概念が自己を他者の中に措定し、概念そのものとしては他在の中に消失したものであるから、一面概念に全く対立するものであると共に、他面それはなお概念である。言い換えると、それが本来概念に対立するものとして概念の他者である限り、それ自身としては概念ではないが、それも即自的にはやはり概念自身の他者としてそれ自身概念である。これを客観的に見れば、まず主観性の領域そのものが全体の国であるが、その中において主観性の領域と客観性の領域とが分けられる。即ち、客観性そのものは主観性の国の一部である。そしてこれを認識過程として見る限り、第一に概念そのものの領域としての主観性があり、第二にその他面としての客観性の領域が来るのである。言い換えると、世界の全体は概念の活らきの浸透する限りの世界であるが、これに概念がそれ自身として積極的に現れる領域と消極的に現れる領域とが区別せられる。つまり、即自的には主観性と客観性とが統一せられ、その全領域に亙る世界がまず展開せられる。これが第一段の主観性である。別の言葉で言えば、これを社会的存在の全体の領域、または単に社会性と呼んでもよい。これに対して、このような即自的な全領域としての主観性に対して、その対象面が対立し、それ自身として展開するのが対自的段階としての客観性である。ということは、客観性もまた主観性または概念が入り込み、それが活らいていない限り、即ちいわゆる主体性が活らいていない限り、無意味だということである。このことは「自然」について言っても同様である。自然は論理または精神の他者といわれるが、それも論理または精神の一面であり、論理を基体とする全世界の一面でない限り、したがっていわゆる主体性がそこに活らいていない限り、そこには発展的把握は可能でない。だから、逆にそこに発展的把握が可能だということは、自然もまた具体的主体的世界の一面であり、主体性によってそれ自身作られるものだということを意味する。
そこでこの意味で、客観性は主観性、概念の他者としてそれ自身概念であり、概念を含むものである。しかしまた、それが概念の他者として他面主観性に対立するものである限りでは、それは概念ではない。だから、概念はそこでは、その内面の本質として内含され、潜在的にあるにすぎない。言い換えると、概念はこのような意味で、それ自身主観性、即ち概念自身と客観性との潜在的統一として、内面的にあり、表面はただ全く客観性としてあり、概念の他者としてある。即ち表面上は、客観性は概念と全く対立する客観性の自立的な展開である。けれども、この客観性がその過程を通して、殊にその第三段階において「実現せられた目的」となり、過程の中で目的の概念であったものが措定せられることによって、客観性それ自身が概念であること、或いは客観性の中にあって、それを導いていたものが概念であったことが、明らかになる。この意味で、主客の潜在的な統一が顕在的となったものが理念である。または、主観性と客観性の根底をなすのが概念であることが明らかになるとき、概念は即ち理念となる。最初から主観性と客観性の全体に亙る全領域の根底をなす本質は概念であるが、それは最初は即自的に、内的にあるにすぎない。しかし、客観性は主観性に対立するものとして、対自的には概念でないように見える。ところが、それも概念でないなら自己展開はなく、概念とは全く無縁のものとして、いわば客観性でさえもない。そこで、この客観性が自己の本質、根底をなすものが概念であることを明らかにし、それによって主観性と客観性に共通する全根底をなすものが概念であり、共に概念においてあることを明らかにすることによって、概念は理念となる。だから概念と理念とは別のものではない。概念の外に別に理念があるのではない。両者は、ただ同一の概念をこの異なった面から名付けたものにすぎない。またその意味で、理念が概念と客観性との統一なのである。それはただ、最初から主観性の領域と客観性の領域との統一であり、両者の根底である概念が、客観性の過程を経て、最初から真に両者の根底であることが明らかになったものにすぎないのである。これが即ち、理念が両者の絶対的統一だと言われることの意味であり、また理念が十全な概念だとか、客観的な真理だとか、真なるものそのものだなどと言われることの意味である。また絶対者が理念であると定義せられるのも、この意味でのみ正しい。
以上にいう意味において、理念は概念と実在性、概念と客観性との同一性である。それはこのような根底の同一性が、客観性の過程の展開を通して具体的な同一性として措定せられたものである。だから、この同一性はまた主観=客観と規定せられることも出来る。それ故に概念は、したがってまた理念は、絶対的判断である。
即ちこの判断の主語は自己に関係する否定的統一として自己をその客観性から区別し、その即自かつ対自有となるが、しかし本質的には自己自身によってその客観性に関係するのであって、したがって自己目的であり、衝動である。ところが、まさにそのために、主語は客観性をその中に直接的に持たない。もしそうでないとすれば、主語は客観性の中に失われた客体そのものの全体にすぎないことになるであろう。ところが、客観背はむしろ目的の実現であり、目的の活動性によって措定された客観性である。即ちこの客観性は被措定有として、その存立とその形式とをただその主観によって貫通せられたものとしてのみ持っている。それは客観性という点で、概念の外面性の契機をその中に持っていて、そのために一般に有限性の面であり、変化と現象の側面である。けれども、この面はまた、概念の否定的統一に復帰するという点において自己の没落を持っている。そしてこの客観性の無関心な相互分離存在を非本質的なものとして、また被措定有として示す否定性こそ、概念そのものなのである。理念はそれ故に、この客観性にも拘わらず、全く単純で、非物質的である。なぜなら、外面性はただ概念によって規定せられたものとしてのみ存在し、概念の否定的統一の中に取り入れられているからである。・・・理念はむしろただ無関心な有の否定性を通じて現れた、概念の単純な規定性としての成に他ならない。」
それで、理念は実現せられた有であると共に、実現せられた目的として「自己目的」そのものである。またそれは目的そのものとして、「内在的な自己媒介過程」であるということも出来るであろう。またこのように主観と客観の根本的統一として、過程の根底にあるものがそれが自身として現れたものとして、それは理性そのものであり、ロゴスそのものである。
(二)理念の区分
(Ⅰ)生命
このように、理念は概念と客観性との同一性であり、両者の真理としてそれ自身普遍的なものであるが、それは丁度ロゴスそのものが端初として一般的なものであり、有であったように、単に一般性であり、直接性である。即ち、理念はまず存在的な、または直接的な理念としてある。それはただ理念そのものとして、一般的にあるにすぎない。そこでは、「対立と特殊の存立は、その自己同一的な否定性に解消し、自己自身との同一性として存在する」のみである。これが、理念そのものの先ずそれ自身とる相であり、理念の展相の第一段階である。そしてこれは第一の理念としての「生命」である。これを生命と呼ぶのは、理念は概念が客観性の中に現れ、客観性は概念を持つ自己目的として、まず客観性の中の、それにまとわられる理念として現れるからである。
ところが、この直接的な理念は、主観性と客観性との絶対的統一であり、両者の根底を貫く原理として、またそれ自身の中で二つの領域の対立を持つ。前の主観性と客観性との対立は、両者の原理としての理念の中で、改めてまた対立を生じる。それは勿論、両者の統一としての理念がそれ自身において自己を疎外し、自己を自己の他者として全面的に措定することによる。しかし、その限り理念は分裂するのであって、したがって「理念は単純な概念の対自有的主観性と、それとは区別される客観性との関係である。」前者は本質的にこの分離を止揚しようとする衝動であり、後者は全く無関心な存在である。理念はこのような関係として、自己を個体性とその非有機的な自然に分離し、そしてまた再びこの自然を主観の力の下に連れ戻し、以て最初の単純な普遍性に復帰する過程である。
以上のことを今少し詳しく述べると、次のようになる。ここに「生命」と呼ぶのは、勿論生命一般の意味であって、単に植物的とか動物的とかの区別は、ここにはない。更にまた、それが単に人間の生命に限られるというわけでもない。それは全生命を意味する。したがって、ここでは全生命の根本条件と根本機能が問題である。もとより、前章の「客観性」の項において、機械性から化学性へ、それから更に目的性への展開がなされ、そして最後の目的性において目的を持つものとしての有機体が考察せられた。しかし、そこでは有機体は目的と手段との二面を持ち、二面に分裂して、それ自身が目的であるのではなかった。そしてこの目的性は最後に「実現せられた目的」として「自己目的」となったが、この自己目的こそ、主観性と客観性の統一としての理念である。ところで、この自己目的としての理念の最初の存在形態がが生命である。だから、この点から見ると、自己目的を持つものとしての生命は、一見手段としての目的性、即ち有機体に対して、むしろ人間生命を意味するようにも思われるが、実は必ずしもそれには限らない。有機体自身、即ち生命そのものが他の手段としてではなく、それ自身として価値を持ち、自己目的を持つものとして、理念としての「生命」だからである。
(A)生命的個体
この意味で、生命はまず個別的なものとして現れ、「生命的個体」という形をとる。これが生命の展開の端初である。ところが、いま言うように、このそれ自身主観と客観の統一としての個体的生命は、自己目的としての自己自身、即ち個体性と自己の客体としての自己自身、即ち非有機的自然とに分かれる。即ち、生命が個体であることは、主体としての個体とその客体との対立である。このことは一層具体的には、魂 Seele とその身体 Leib との対立である。そして生命的個体そのものは、この両面の統一体である。また、この魂と身体の関係は一般的には、形相と質料の関係であると言うことができる。そこで、またこの両面が分けられ、しかも殊に形相としての魂が生命の中心、原理、主体となる限り、魂を中心としてそれと客体との関係が問題になる。だから、生命はそれ自身としてはまず生命それ自身における内的運動として衝動であるが、この個体的生命の自己内部における運動の過程として、ヘーゲルは更に次のものを挙げる。(a)感受性、生命の主観的状態、(b)興奮性、外的客観との関係の面、客体からの刺激、印象による主観の状態、即ち両者の分離が明確に出る面、(c)再生産、身体諸器官の区別における主体の分散性から自己を回復すること、の三段の分析をなす。これはまた、感受性が主体の主客未分合一の状態として「普遍性」であり、興奮性は両面の対立として「特殊性」であり、再生産は主体自身への自己回復として「個別性」であると言うようにも規定せられる。
(B)生命過程
これに対して、このような個体的生命が自己目的であり、自己の目的を全うするためには、単に単独であることはできない。それは他の個体と「目的協同体」を形成しなければならない。そしてこの過程が、ここに言われる「生命」の第二段としての「生命過程」である。
これをまた一層三段に分けることが出来る。(a)有機体、即ち各生命的個体の組織、協同体の形成、(b)同化、即ち他の個体、並びに自己に対する外的自然を自己の生命そのものとすること、(c)生命体種族の維持。[ 尤もヘーゲルは、「生命過程」をむしろ個体的生命の外界との関係、即ち個体が自己の外界に対する「欲求」ならびにその充足の過程と見ていて、いま私の言うのとは異なる。だから、(A)生命的個体の項も個体的生命の分析であるが、(B)生命過程は、これをどちらかと言えば動的に見て、個体的生命の全体的考察である。しかし、私はここではクノーフィッシャーに従って、以上のように、それが個体的生命全体の問題であるという点から、むしろ個体的生命と他のそれ、及び外界との関係と見ておく。しかしまたそのために、この第三段として規定した「種族の維持、発展」の問題は、ヘーゲルのテキストにおいてはむしろ次の「類」の問題である。]
(C)類
生命的個体が自己の欲求を十分に充たすためには、もはや自己自身では不可能である。それは自己の他者としての自己、即ち子孫によると共に、また個体の全体であり、「自己の実在的な普遍的生命」としての「類」によって生命一般の維持、繁殖を計らねばならない。「動物にとっては、類の過程が生命の頂点である。」直接的理念としての直接的生命にとっては、このような直接的な形態でしか、理念の実現を期することが出来ない。言い換えると、生命はそれ自身死ぬることによってのみ、自己を生かすことが出来る。ここに生命自身の自己矛盾がある。しかしこのことは、同時にそれ自身肯定的、生産的な面を持っている。というのは、生命の死は即ち理念の直接性の消滅であり、それは同時にそのまま理念の更生を意味するからである。即ち、この理念の更生は「精神」の誕生である。直接的な個別的生命の死こそ精神の出現である。そして、ただこのことによってのみ初めて生命は真に存続し、理念は進展するからである。これが生命から認識への理念への展開に他ならない。
繰り返して言えば、自己同一性としての直接的理念である生命そのものが、(a)生命的個体と、(b)生命的過程とに分けられる。けれども、この生命過程の根底を貫いているものは、理念そのものである。つまり、それは直接的個別性の中にある内的なものとしての概念であり、普遍性である。したがってこの理念の中における客観性としての生命は、この理念の外面性の中においてその普遍性、即ち類にまで高められるのであって、これが理念の第一段階、生命の中における第三段(C)類である。即ち、類は客観性としての理念、外面性の形における理念が、外面性、外的存在の領域の中において、その最高の領域に高められたものである。この意味で、この類の中では直接的な生命的個体と共に、生命過程も止揚せられている。そしてこの外面性の領域の中における理念としての類が、理念そのものとなったものが、生命の根底としてその他者であり、理想でもある認識の理念または真の理念であり、それはまた更に善の理念である。言い換えると、生命が類としての生命となることは、一面、類は生命としての客観性の中における普遍性になることであると共に、それは同時に他面、生命の自己否定であって、その点で類はそのまま既に精神であり、理念は認識の理念である。
それ故に、以上の客観性から理念へ、しかも生命としての理念へ、及び生命から認識の理念への過程を見ると、次の点が特徴的である。即ち、ここでは「概念→客観性→理念」の過程における「概念→客観性」の過程と違って、客観性から理念に至る過程は、むしろ「客観性→概念」の過程をとっていることが注目される。というのは、生命は理念の直接性としての普遍性であるが、それは客観性がそれ自身の過程の中で、自身の底を貫く概念に覚醒したものとして、一面ではそれ自身理念であるが、それはなお客観性としての理念であり、客観性の中における理念である。だから、この概念と客観性との統一としての理念は、まず生命として現れるのである。そしてこの生命としての理念の中で、理念そのものと客観性とが分離し、対立したものが生命過程である。これに対して、生命的個体と生命過程の両者を止揚した、主体的客体としての生命の中において客体性をその根底の理念に反省し、自己復帰したものが類である。そしてこの客観性の中における理念、即ち客観性の中における客観性と理念との統一としての類が、類そのものとなり、理念そのものとなったのが、認識の理念である。しかし、この客観的な理念としての類が認識の理念として、たとえ認識の過程のおいてある根本の原理としてであれ、主体的なものとなる限り、また理念は客観性と対立し、分離する。それ故に、この認識の理念の段階は、第一段の生命が両面の始元における即自的統一であったのに対して、むしろ対立の段階である。そしてこのような意味において、この生命から認識の理念への過程は、「概念→客観性」の場合と反対に、一応はむしろ「客観性→概念」、即ち「生命→理念」の形をとる。しかし、その形の中でまた依然「直接性→分離または関係」の形をとり、見方によっては、即ちその内面から、即ち理念そのものから見れば、依然として「理念(直接性としての理念)→客観(客観性に対立するものとして、それに関係する理念)」の形をとっていることは見逃されない。繰り返して言えば、理念の最初のものである生命は、理念を中に含む客観性が言わば癒着して、客観性の中における理念となったものなのである。
(Ⅱ)認識の理念
理念の展開段階の第二段は認識の理念である。そしてそれは真と善の理念である。しかし、ここでは生命の場合に生命的個体と生命過程とが分離し対立したように、有限的認識と有限的意欲とはそれぞれ真と善とに対立し、後者の二つを目標として持つことになる。そしてそれに従って、真と善、認識と意欲とが区別され、対立することになる。即ち、この有限的認識と有限的行為とは、全体性としての普遍性に対立し、それに関係する。その限り、普遍性は「完全な客観性」である。つまり、有限的認識と意欲との真と善の理念とに対する関係は、また主観性と客観性の対立であって、両面は理念そのものの中において再びこのような形において対立するのである。そしてこのことは言い換えれば、有限的な、主観的精神が客観的な世界を前提することだと言ってもよい。
(A)真の理念
一般にこの第二段の「認識の理念」は、「生命としての理念」が単に客観性における理念であり、直接性としての理念であったのに対して、主観性の中における理念である。言い換えると、これは主観性としての理念と客観性としての理念との対立段階である。主観的理念とは、即ち「有限性の中における理念」である。主観的、有限的精神はまず真の理念を追求する。それは、理論的理念としての真理を追求し、把握しようとする衝動である。だから、それは「実現すべき目的」、即ち「真なるもの」を対象として持つ。即ち、認識の理念は、主観的理念、有限的精神とその根底としてまた対象であり、目的である。「真」そのものとの対立、概念自身と実在性との対立である。或いはここでは理念はただこのような対立的な形で、両者の同一としてあるにすぎない。一言で言えば、理念はここでは「その現象の中にある絶対的理念そのもの」である。したがってまたこの有限的認識は、直接的認識として、真理そのもの、または物自体を認識しない認識であるという矛盾である。その限りまた、有限的認識は認識自身の行程を通じて自己自身の矛盾を明らかにし、認識そのものが自己の目的そのものであり、根拠そのものであることを自覚して、自己の即自性と矛盾とを止揚し、解消するに至る。
ところで、この「真理の理念」、または認識の段階は分析的認識と総合的認識とに分かれるが、総合的認識は更にまた定義、分類、定理に分けられる。しかし、これらの認識の展開がアリストテレスにおける「オルガノン」、殊にその「分析論」前書および後書の問題のヘーゲル的解釈における展開であることが明らかである。アリストテレスの論理学は、ここに体系的に叙述せられ、その相互の内面の論理が付けられ、体系の中に位置づけられることになる。しかし、その点でまた、この分析的認識と総合的認識のそれぞれの意味規定、及び関係が、カントの第一批判のそれに定位していることも明らかである。ヘーゲルはカントのいわゆる 5+7=12の判断における総合的認識について綿密な批判を加えている。
(1)分析的認識
まず有限的認識は、自己に対立する外的自然や意識の多様の事実を前提し、その具体的なものから、非本質的なもの、特殊なものを捨象して、形式的同一性、即ち類とか、力とか、法則とかを取り出す活動性である。その意味で、認識の理念はまず「分析的認識方法」である。分析が客体の中に既に含まれているものの展開であることは明らかであるが、それはただそれ自身任意的な客観的に存在する事柄の抽象的分析にすぎないものではない。勿論、分析的認識は第一義的には、それ自身として与えられている概念と実在性との客観的な統一体を、その中から特殊性と非本質的なものを捨象することによって分析して見出すものであるが、そのことも実は単にそのような所与の真理の開示にすぎないものではない。むしろそれが開示であることは、主観的認識の活動性が加わるのであって、その意味で分析的認識はすでにそれ自身また総合的認識でなければならない。この意味で、上述のように、カントの分析的命題に関する考えが批判されると共に、また同時に5+7=12を超越論的総合判断であるとする考えに、ヘーゲルは同意する。即ち、分析的認識はそれ自身進展して、高次の認識としての総合的認識に移行しなければならない。言い換えると、分析的方法が概念または認識の単に自己自身に対する関係であるのに対して、総合的認識は他者に関係する認識である。
(2)総合的認識
総合的認識方法は、概念の諸形式へ対象を取り入れる方法であるということが出来る。だから分析的方法の取り出す普遍が、それ自身客観的に与えられ、存在する普遍として、端的な直接的普遍であるのに対して、総合的認識方法のそれは規定せられた普遍性である。なぜなら、ここでは予め前提せられた概念そのものが、それに悟性が働くことによって措定せられ、規定せられるからである。言い換えると、概念も単に無限の概念ではなく、無限の概念そのものが認識の活動性、規定によって言わば産出せられるものとして、「悟性的な規定された概念」だからである。
これを更に言い換えると、分析的認識は直接的に存在する真理、即ち同一性の把握であり、その限りむしろ抽象的同一性の把握である。つまり、分析的認識は「単に存在するものの把握」である。これに対して総合的認識は「存在するものの概念的把握」である。即ち、規定の多様をその統一において把握することが、ここでは問題である。だから、分析的認識が認識という全推論の第一前提をなすとすれば、総合的認識は全推論の第二前提をなすというように言うこともできる。総合的認識は差異的なものを関係させるが、その関係は概念の中における関係であり、したがって必然性である。概念の必然性の把握がこの認識の目標である。総合的認識は分析的認識の直接的な抽象的同一性から関係へ、或いは有から反省への移行であると言ってもよい。
だからまた、総合的方法の運動は分析的方法の逆である。分析的方法は、直接的な具体的な個々の事実を分析して、その中の普遍的同一性を発見するものであって、いわば個別から出発して普遍に進むものであるが、総合的方法は、普遍(定義)から出発して、特殊(分類)を経て個別(定理)に進む。
(a)定義
認識の内容がまず規定せられた概念の形式の中にもたらされ、これによって対象の類および対象の普遍的規定性が措定せられるとき、これが定義である。それで定義は概念の三つの契機を持っている。(α)最も近い類としての普遍、(β)類の限定としての特殊、(γ)定義された対象そのものとしての個別、である。まず定義の対象となるものは、直接的な客体そのものである。そしてこの対象は、同一の種差を持つ同一の領域の中に限定せられ、特殊として立てられる。しかもその場合には、対象は同時に最近の類において規定せられているのであって、客体は普遍、類として措定せられる。或いは直接的客体について、それを通してその属する最近の類としての普遍が立てられるのである。こうして定義は対象をその概念に還元するのであり、直接的な存在が持つ多様な諸規定の豊かさを単純な契機に還元するのである。
(b)分類
定義は個別的対象を最近の類に還元するものとして、一般に普遍性の性格を持ち、そういうものとして総合的認識の出発点をなすものであるが、それは直接的存在をその領域の中における普遍性に還元する認識の単なる自己関係として形式的普遍である。だから、その内容の規定性は、それがその他の規定性と対立し、それによって媒介せられることによって得られる。しかし、この定義における形式的直接的普遍が、他の普遍、他の領域と対立することは、普遍が特殊化せられた普遍となることであって、それは即ち分類に他ならない。
(c)定理
総合的認識の第三段は定理である。定義は直接的対象の普遍性への還元として、ただ一個の規定性のみを持ち、分類は類の他の類に対する関係として、類の特殊化であり、したがって他に対する規定性を含む。ところが、この他に対する規定性が一個の規定性の中に即して措定せられるとき、それは定理である。即ち、定理は形式的に言えば、定義と分類の統一であり、分類の定義の中への還帰である。言い換えると、普遍性としての定義が、特殊性としての分類の中において措定せられ、規定せられた規定性となって個別性となったものが定理である。即ち定理は、このような具体的個別性の中における総合的認識である。具体的個別性というのは、定義における単純な規定性が分類の過程を経て、個別の中に措定せられるのであるから、個別そのものがそれ自身異なった諸規定の総合的関係だからである。つまり、「定義はあくまでも普遍概念の下に立っているが、反対に定理にあっては、対象はその実在性の中において、その実在的定有の諸々の制約と形式との中において認識される。それ故に定理は定義と結合して、概念と実在性との統一である理念を表現する」のである。だから定義や分類においては、我々の現前に見いだされる存在が概念の形式に還元せられるが、その結合はただ外的なものにすぎず、したがって内容全体は言わば見出されたものとして単に指摘せられるにすぎない。ところが定理においては、その関係は概念の内的同一性の中に基礎づけられていなければならないのであって、したがって定理はそれ自身論証せられていなければならない。この意味で概念はここにその実在性を経て理念となる。総合的認識はその頂点に達すると共に、一般に理論的認識そのものがその頂点に達するのである。
このように有限的認識、或いは理論的認識は、その出発点においては与えられた偶然的内容を持ち、認識と対象との関係は外的必然性としてある。しかし、この認識の過程はこの外的必然性を内的、即自かつ対自的必然性にまで高める。と言うことは、概念の普遍性がそれ自身具体的個別性における普遍性となることであり、普遍そのものが主体的となることである。即ち、いまや有限的認識は、それ自身運動し、活動し、諸規定を措定する概念となったのであって、その意味で理論的理念はそれ自身動的な実践的理念となったのである。その限り、また理論的理念が一般に形式的であり、一般に普遍性であったのに対して、実践的理念は具体的であり、一般に特殊性であるとも言うことが出来るであろう。
(B)善の理念
理論的理念の立場、即ち知性は客観と対立し、いわゆる傍観的態度として、それ自身普遍性であって(客観を自己と対立するものと見る限り有限的個別性であるが、それ自身としては普遍的である)、世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎない。これに対して実践的理念の立場、即ち意志は、このような傍観的普遍的態度そのものが客観と合一したものとして個別的である。しかし、それはまたこのような主客の合一した具体的個別として規定的なものであるから、なお主観的理念として自己を実現しようとする衝動であり、有限的なものである。その限り、この主観的理念は、このような主体とその全体としての目的との対立である。ただこの実践的理念は、理論的理念と違って、たとえそれが有限的であっても、それ自身世界と自己との統一であるから、それがその全体と対立すると言うことは、知性の場合のように、ただ世界をあるがままに見、受け取るのと違って、むしろ世界をあるべき相に変えようとする。したがってそのあるべき相、即ちそれが実現しようとする全体としての目的は当為であり、理念そのものであって、その限りそれは善の理念である。だから、また善の理念は絶対的な要請であるから、それ自身としては既に主観的理念を包む絶対的理念そのものであるが、それがなお要請として主観的理念と対立し、ただ後者においてのみあるものである限り、あくまでも「主観性の規定性を伴った絶対者」以上のものではない。
それで実践的理念はあくまでも主観的理念と善の理念そのものとの対立であり、二つの世界の立場である。即ち、「一方は澄明な思想の純粋空間の中にある主観性の国であり、他方は開かれぬ闇の国としての、多様な外的現実性の要求の中にある客観性の国である。」言い換えると、実践的理念の世界は、「善の目的がこの客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定の中で実現されると同時に実現されないという矛盾、善の目的が本質的なものであると同時に非本質的なもの、現実的なものであると同時に可能的なものとして措定されるという矛盾」である。もし世界があるべき相においてあるとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身自己の目的が実現せられないことをも要求しているともいえる。その限り、この善の理念の世界は、善の実現の無限進行、即ち悪無限として現れねばならない。カントやフィヒテ等の道徳の立場はこれである。
(Ⅲ)絶対的理念への移行
けれども、実践的理念の無限課題性の矛盾は、一言で言えば、実践的理念にまた理論的理念の契機が欠けていることに基づくと言わねばならない。意志に知識が再び入り込むことによって、意志は目的が自己自身であることを知り、世界が現実的な概念であることを知ることが出来る。だから、この意志における矛盾の解消は、意志がこの自己矛盾の結果の中で認識作用の前提に帰り、それによって理論的理念と実践的理念とが統一せられることによってのみ可能である。即ち、「善の理念はその唯一の補足を真の理念の中にのみ見出すことが出来る。」これによって、この理念にとっては、世界の究極目的が不断に実現せられつつあると共に、今も実現せられているということが認識せられるから、満足を知らぬ無限の努力というものはなくなってしまう。即ち、主観の個別性は世界そのものと合し、世界の前提の消失と共に消失してしまう。これは言わば「大人の立場」であると言うことも出来る。それは即ち善の理念そのものの立場であり、絶対的理念の立場である。またそれは、内在的根拠としての概念そのものと現実的世界、善の理念または実践的理念と理論的理念との合一した全く客観的な真理そのもの、または善そのものの立場である。しかし、この「ある」と「あるべし」との一致としての、いわば「あるべし」そのものの世界は、硬化した、過程のないものではない。世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するのであって、動的なものそのものだからである。絶対者としての究極の神は此岸から見る限り静止そのものであるが、その静止はそれ自身としては純粋活動そのものだからである。この意味でまた、この絶対理念は一般に主観的理念としての認識の理念が客観的、即自的理念としての生命の理念に還帰したものであって、両者の具体的統一なのである。
さて以上のようにして、生命の理念と認識の理念、更に真の理念と善の理念の展開を通して、主観的理念のおいてあるもの、その根底を貫くものが理念そのもの、客観的理念であることが明らかになる。それによって、認識的理念、有限的認識と真の理念、有限的意欲と善の理念とが一致し、統一せられ、同時にまた真の理念と善の理念との区別、分離が止揚せられ、統一せられる。そして生命と認識および意欲の理念のみならず、従来の全ての論理学の段階の根底にある理念が明らかになったものが、理念の展開の第三段階である絶対的理念である。それは即自かつ対自的にある真理として「無限的理念」であって、直接的にはここに認識と行為が宥和せられるのである。
理念は即自かつ対自的な真理であって、概念と客観性との絶対的な統一である。その意味で、理念はまた「十全な概念」であり、客観的な真理であり、真理そのものであることが言われる。それが絶対的な統一であり、十全な概念であるというのは、即ち主観性と客観性、概念と客観性のおいてある根底の原理であるということである。またその限り、それは客観的真理である。だから、およそ「或る物が、真理を持つとすれば、それはその理念によってこれを持つのである。言い換えると、或る物はそれが理念である限りにおいてのみ、真理を持つ」のである。
そこで、いま理念の本性を説明するために、理念が概念と客観性との統一であるということについて、考えておかねばならない。なぜなら、この統一は単に機械的、公式的な弁証法的統一ではないからである。だが、そのことを明らかにするためには、いま上に述べた、客観性ということについて改めて考えておかねばならない。そしてこのことはまた一般に、弁証法におけるいわゆる正、反、合の中の反の面、即ち外的他在の面について共通する問題である。即ち、定有、実在性、実存、現象、客観性について、またエンチュクロぺディーの体系から言えば自然について、一般に含まれている問題である。
これをいま前の客観性について述べると、それは主観性、概念の自己疎外したものであり、一般に言ってその他者である。だから、それは自己疎外したもの、または他者として、概念そのものではない。主観性の要素はそこには何ものも含まれていないように見える。前節では、私は特にこの客観性の概念からの独立性の面を強調した。けれども、この点が問題である。なぜなら、前節でもまたこの他の面についても述べたが、もし客観性が概念の他者として、概念の何ものをも含まないとすれば、それは全く非合理的なものであろう。したがって、それが自己展開をなすことはなく、弁証法的発展的であることはないだろうからである。ということは、たとえ仮に、それが何らかの展開をなすとしても、それは概念の他者である以上、概念との連関はなく、したがって何ら合理的な把握は可能ではないということである。しかし、ヘーゲルにとっては、客観性は上述のように、概念の自己疎外として、依然一種の概念である。言い換えると、客観性は一種の概念として、しかも概念が自己を他者の中に措定し、概念そのものとしては他在の中に消失したものであるから、一面概念に全く対立するものであると共に、他面それはなお概念である。言い換えると、それが本来概念に対立するものとして概念の他者である限り、それ自身としては概念ではないが、それも即自的にはやはり概念自身の他者としてそれ自身概念である。これを客観的に見れば、まず主観性の領域そのものが全体の国であるが、その中において主観性の領域と客観性の領域とが分けられる。即ち、客観性そのものは主観性の国の一部である。そしてこれを認識過程として見る限り、第一に概念そのものの領域としての主観性があり、第二にその他面としての客観性の領域が来るのである。言い換えると、世界の全体は概念の活らきの浸透する限りの世界であるが、これに概念がそれ自身として積極的に現れる領域と消極的に現れる領域とが区別せられる。つまり、即自的には主観性と客観性とが統一せられ、その全領域に亙る世界がまず展開せられる。これが第一段の主観性である。別の言葉で言えば、これを社会的存在の全体の領域、または単に社会性と呼んでもよい。これに対して、このような即自的な全領域としての主観性に対して、その対象面が対立し、それ自身として展開するのが対自的段階としての客観性である。ということは、客観性もまた主観性または概念が入り込み、それが活らいていない限り、即ちいわゆる主体性が活らいていない限り、無意味だということである。このことは「自然」について言っても同様である。自然は論理または精神の他者といわれるが、それも論理または精神の一面であり、論理を基体とする全世界の一面でない限り、したがっていわゆる主体性がそこに活らいていない限り、そこには発展的把握は可能でない。だから、逆にそこに発展的把握が可能だということは、自然もまた具体的主体的世界の一面であり、主体性によってそれ自身作られるものだということを意味する。
そこでこの意味で、客観性は主観性、概念の他者としてそれ自身概念であり、概念を含むものである。しかしまた、それが概念の他者として他面主観性に対立するものである限りでは、それは概念ではない。だから、概念はそこでは、その内面の本質として内含され、潜在的にあるにすぎない。言い換えると、概念はこのような意味で、それ自身主観性、即ち概念自身と客観性との潜在的統一として、内面的にあり、表面はただ全く客観性としてあり、概念の他者としてある。即ち表面上は、客観性は概念と全く対立する客観性の自立的な展開である。けれども、この客観性がその過程を通して、殊にその第三段階において「実現せられた目的」となり、過程の中で目的の概念であったものが措定せられることによって、客観性それ自身が概念であること、或いは客観性の中にあって、それを導いていたものが概念であったことが、明らかになる。この意味で、主客の潜在的な統一が顕在的となったものが理念である。または、主観性と客観性の根底をなすのが概念であることが明らかになるとき、概念は即ち理念となる。最初から主観性と客観性の全体に亙る全領域の根底をなす本質は概念であるが、それは最初は即自的に、内的にあるにすぎない。しかし、客観性は主観性に対立するものとして、対自的には概念でないように見える。ところが、それも概念でないなら自己展開はなく、概念とは全く無縁のものとして、いわば客観性でさえもない。そこで、この客観性が自己の本質、根底をなすものが概念であることを明らかにし、それによって主観性と客観性に共通する全根底をなすものが概念であり、共に概念においてあることを明らかにすることによって、概念は理念となる。だから概念と理念とは別のものではない。概念の外に別に理念があるのではない。両者は、ただ同一の概念をこの異なった面から名付けたものにすぎない。またその意味で、理念が概念と客観性との統一なのである。それはただ、最初から主観性の領域と客観性の領域との統一であり、両者の根底である概念が、客観性の過程を経て、最初から真に両者の根底であることが明らかになったものにすぎないのである。これが即ち、理念が両者の絶対的統一だと言われることの意味であり、また理念が十全な概念だとか、客観的な真理だとか、真なるものそのものだなどと言われることの意味である。また絶対者が理念であると定義せられるのも、この意味でのみ正しい。
以上にいう意味において、理念は概念と実在性、概念と客観性との同一性である。それはこのような根底の同一性が、客観性の過程の展開を通して具体的な同一性として措定せられたものである。だから、この同一性はまた主観=客観と規定せられることも出来る。それ故に概念は、したがってまた理念は、絶対的判断である。
即ちこの判断の主語は自己に関係する否定的統一として自己をその客観性から区別し、その即自かつ対自有となるが、しかし本質的には自己自身によってその客観性に関係するのであって、したがって自己目的であり、衝動である。ところが、まさにそのために、主語は客観性をその中に直接的に持たない。もしそうでないとすれば、主語は客観性の中に失われた客体そのものの全体にすぎないことになるであろう。ところが、客観背はむしろ目的の実現であり、目的の活動性によって措定された客観性である。即ちこの客観性は被措定有として、その存立とその形式とをただその主観によって貫通せられたものとしてのみ持っている。それは客観性という点で、概念の外面性の契機をその中に持っていて、そのために一般に有限性の面であり、変化と現象の側面である。けれども、この面はまた、概念の否定的統一に復帰するという点において自己の没落を持っている。そしてこの客観性の無関心な相互分離存在を非本質的なものとして、また被措定有として示す否定性こそ、概念そのものなのである。理念はそれ故に、この客観性にも拘わらず、全く単純で、非物質的である。なぜなら、外面性はただ概念によって規定せられたものとしてのみ存在し、概念の否定的統一の中に取り入れられているからである。・・・理念はむしろただ無関心な有の否定性を通じて現れた、概念の単純な規定性としての成に他ならない。」
それで、理念は実現せられた有であると共に、実現せられた目的として「自己目的」そのものである。またそれは目的そのものとして、「内在的な自己媒介過程」であるということも出来るであろう。またこのように主観と客観の根本的統一として、過程の根底にあるものがそれが自身として現れたものとして、それは理性そのものであり、ロゴスそのものである。
(二)理念の区分
(Ⅰ)生命
このように、理念は概念と客観性との同一性であり、両者の真理としてそれ自身普遍的なものであるが、それは丁度ロゴスそのものが端初として一般的なものであり、有であったように、単に一般性であり、直接性である。即ち、理念はまず存在的な、または直接的な理念としてある。それはただ理念そのものとして、一般的にあるにすぎない。そこでは、「対立と特殊の存立は、その自己同一的な否定性に解消し、自己自身との同一性として存在する」のみである。これが、理念そのものの先ずそれ自身とる相であり、理念の展相の第一段階である。そしてこれは第一の理念としての「生命」である。これを生命と呼ぶのは、理念は概念が客観性の中に現れ、客観性は概念を持つ自己目的として、まず客観性の中の、それにまとわられる理念として現れるからである。
ところが、この直接的な理念は、主観性と客観性との絶対的統一であり、両者の根底を貫く原理として、またそれ自身の中で二つの領域の対立を持つ。前の主観性と客観性との対立は、両者の原理としての理念の中で、改めてまた対立を生じる。それは勿論、両者の統一としての理念がそれ自身において自己を疎外し、自己を自己の他者として全面的に措定することによる。しかし、その限り理念は分裂するのであって、したがって「理念は単純な概念の対自有的主観性と、それとは区別される客観性との関係である。」前者は本質的にこの分離を止揚しようとする衝動であり、後者は全く無関心な存在である。理念はこのような関係として、自己を個体性とその非有機的な自然に分離し、そしてまた再びこの自然を主観の力の下に連れ戻し、以て最初の単純な普遍性に復帰する過程である。
以上のことを今少し詳しく述べると、次のようになる。ここに「生命」と呼ぶのは、勿論生命一般の意味であって、単に植物的とか動物的とかの区別は、ここにはない。更にまた、それが単に人間の生命に限られるというわけでもない。それは全生命を意味する。したがって、ここでは全生命の根本条件と根本機能が問題である。もとより、前章の「客観性」の項において、機械性から化学性へ、それから更に目的性への展開がなされ、そして最後の目的性において目的を持つものとしての有機体が考察せられた。しかし、そこでは有機体は目的と手段との二面を持ち、二面に分裂して、それ自身が目的であるのではなかった。そしてこの目的性は最後に「実現せられた目的」として「自己目的」となったが、この自己目的こそ、主観性と客観性の統一としての理念である。ところで、この自己目的としての理念の最初の存在形態がが生命である。だから、この点から見ると、自己目的を持つものとしての生命は、一見手段としての目的性、即ち有機体に対して、むしろ人間生命を意味するようにも思われるが、実は必ずしもそれには限らない。有機体自身、即ち生命そのものが他の手段としてではなく、それ自身として価値を持ち、自己目的を持つものとして、理念としての「生命」だからである。
(A)生命的個体
この意味で、生命はまず個別的なものとして現れ、「生命的個体」という形をとる。これが生命の展開の端初である。ところが、いま言うように、このそれ自身主観と客観の統一としての個体的生命は、自己目的としての自己自身、即ち個体性と自己の客体としての自己自身、即ち非有機的自然とに分かれる。即ち、生命が個体であることは、主体としての個体とその客体との対立である。このことは一層具体的には、魂 Seele とその身体 Leib との対立である。そして生命的個体そのものは、この両面の統一体である。また、この魂と身体の関係は一般的には、形相と質料の関係であると言うことができる。そこで、またこの両面が分けられ、しかも殊に形相としての魂が生命の中心、原理、主体となる限り、魂を中心としてそれと客体との関係が問題になる。だから、生命はそれ自身としてはまず生命それ自身における内的運動として衝動であるが、この個体的生命の自己内部における運動の過程として、ヘーゲルは更に次のものを挙げる。(a)感受性、生命の主観的状態、(b)興奮性、外的客観との関係の面、客体からの刺激、印象による主観の状態、即ち両者の分離が明確に出る面、(c)再生産、身体諸器官の区別における主体の分散性から自己を回復すること、の三段の分析をなす。これはまた、感受性が主体の主客未分合一の状態として「普遍性」であり、興奮性は両面の対立として「特殊性」であり、再生産は主体自身への自己回復として「個別性」であると言うようにも規定せられる。
(B)生命過程
これに対して、このような個体的生命が自己目的であり、自己の目的を全うするためには、単に単独であることはできない。それは他の個体と「目的協同体」を形成しなければならない。そしてこの過程が、ここに言われる「生命」の第二段としての「生命過程」である。
これをまた一層三段に分けることが出来る。(a)有機体、即ち各生命的個体の組織、協同体の形成、(b)同化、即ち他の個体、並びに自己に対する外的自然を自己の生命そのものとすること、(c)生命体種族の維持。[ 尤もヘーゲルは、「生命過程」をむしろ個体的生命の外界との関係、即ち個体が自己の外界に対する「欲求」ならびにその充足の過程と見ていて、いま私の言うのとは異なる。だから、(A)生命的個体の項も個体的生命の分析であるが、(B)生命過程は、これをどちらかと言えば動的に見て、個体的生命の全体的考察である。しかし、私はここではクノーフィッシャーに従って、以上のように、それが個体的生命全体の問題であるという点から、むしろ個体的生命と他のそれ、及び外界との関係と見ておく。しかしまたそのために、この第三段として規定した「種族の維持、発展」の問題は、ヘーゲルのテキストにおいてはむしろ次の「類」の問題である。]
(C)類
生命的個体が自己の欲求を十分に充たすためには、もはや自己自身では不可能である。それは自己の他者としての自己、即ち子孫によると共に、また個体の全体であり、「自己の実在的な普遍的生命」としての「類」によって生命一般の維持、繁殖を計らねばならない。「動物にとっては、類の過程が生命の頂点である。」直接的理念としての直接的生命にとっては、このような直接的な形態でしか、理念の実現を期することが出来ない。言い換えると、生命はそれ自身死ぬることによってのみ、自己を生かすことが出来る。ここに生命自身の自己矛盾がある。しかしこのことは、同時にそれ自身肯定的、生産的な面を持っている。というのは、生命の死は即ち理念の直接性の消滅であり、それは同時にそのまま理念の更生を意味するからである。即ち、この理念の更生は「精神」の誕生である。直接的な個別的生命の死こそ精神の出現である。そして、ただこのことによってのみ初めて生命は真に存続し、理念は進展するからである。これが生命から認識への理念への展開に他ならない。
繰り返して言えば、自己同一性としての直接的理念である生命そのものが、(a)生命的個体と、(b)生命的過程とに分けられる。けれども、この生命過程の根底を貫いているものは、理念そのものである。つまり、それは直接的個別性の中にある内的なものとしての概念であり、普遍性である。したがってこの理念の中における客観性としての生命は、この理念の外面性の中においてその普遍性、即ち類にまで高められるのであって、これが理念の第一段階、生命の中における第三段(C)類である。即ち、類は客観性としての理念、外面性の形における理念が、外面性、外的存在の領域の中において、その最高の領域に高められたものである。この意味で、この類の中では直接的な生命的個体と共に、生命過程も止揚せられている。そしてこの外面性の領域の中における理念としての類が、理念そのものとなったものが、生命の根底としてその他者であり、理想でもある認識の理念または真の理念であり、それはまた更に善の理念である。言い換えると、生命が類としての生命となることは、一面、類は生命としての客観性の中における普遍性になることであると共に、それは同時に他面、生命の自己否定であって、その点で類はそのまま既に精神であり、理念は認識の理念である。
それ故に、以上の客観性から理念へ、しかも生命としての理念へ、及び生命から認識の理念への過程を見ると、次の点が特徴的である。即ち、ここでは「概念→客観性→理念」の過程における「概念→客観性」の過程と違って、客観性から理念に至る過程は、むしろ「客観性→概念」の過程をとっていることが注目される。というのは、生命は理念の直接性としての普遍性であるが、それは客観性がそれ自身の過程の中で、自身の底を貫く概念に覚醒したものとして、一面ではそれ自身理念であるが、それはなお客観性としての理念であり、客観性の中における理念である。だから、この概念と客観性との統一としての理念は、まず生命として現れるのである。そしてこの生命としての理念の中で、理念そのものと客観性とが分離し、対立したものが生命過程である。これに対して、生命的個体と生命過程の両者を止揚した、主体的客体としての生命の中において客体性をその根底の理念に反省し、自己復帰したものが類である。そしてこの客観性の中における理念、即ち客観性の中における客観性と理念との統一としての類が、類そのものとなり、理念そのものとなったのが、認識の理念である。しかし、この客観的な理念としての類が認識の理念として、たとえ認識の過程のおいてある根本の原理としてであれ、主体的なものとなる限り、また理念は客観性と対立し、分離する。それ故に、この認識の理念の段階は、第一段の生命が両面の始元における即自的統一であったのに対して、むしろ対立の段階である。そしてこのような意味において、この生命から認識の理念への過程は、「概念→客観性」の場合と反対に、一応はむしろ「客観性→概念」、即ち「生命→理念」の形をとる。しかし、その形の中でまた依然「直接性→分離または関係」の形をとり、見方によっては、即ちその内面から、即ち理念そのものから見れば、依然として「理念(直接性としての理念)→客観(客観性に対立するものとして、それに関係する理念)」の形をとっていることは見逃されない。繰り返して言えば、理念の最初のものである生命は、理念を中に含む客観性が言わば癒着して、客観性の中における理念となったものなのである。
(Ⅱ)認識の理念
理念の展開段階の第二段は認識の理念である。そしてそれは真と善の理念である。しかし、ここでは生命の場合に生命的個体と生命過程とが分離し対立したように、有限的認識と有限的意欲とはそれぞれ真と善とに対立し、後者の二つを目標として持つことになる。そしてそれに従って、真と善、認識と意欲とが区別され、対立することになる。即ち、この有限的認識と有限的行為とは、全体性としての普遍性に対立し、それに関係する。その限り、普遍性は「完全な客観性」である。つまり、有限的認識と意欲との真と善の理念とに対する関係は、また主観性と客観性の対立であって、両面は理念そのものの中において再びこのような形において対立するのである。そしてこのことは言い換えれば、有限的な、主観的精神が客観的な世界を前提することだと言ってもよい。
(A)真の理念
一般にこの第二段の「認識の理念」は、「生命としての理念」が単に客観性における理念であり、直接性としての理念であったのに対して、主観性の中における理念である。言い換えると、これは主観性としての理念と客観性としての理念との対立段階である。主観的理念とは、即ち「有限性の中における理念」である。主観的、有限的精神はまず真の理念を追求する。それは、理論的理念としての真理を追求し、把握しようとする衝動である。だから、それは「実現すべき目的」、即ち「真なるもの」を対象として持つ。即ち、認識の理念は、主観的理念、有限的精神とその根底としてまた対象であり、目的である。「真」そのものとの対立、概念自身と実在性との対立である。或いはここでは理念はただこのような対立的な形で、両者の同一としてあるにすぎない。一言で言えば、理念はここでは「その現象の中にある絶対的理念そのもの」である。したがってまたこの有限的認識は、直接的認識として、真理そのもの、または物自体を認識しない認識であるという矛盾である。その限りまた、有限的認識は認識自身の行程を通じて自己自身の矛盾を明らかにし、認識そのものが自己の目的そのものであり、根拠そのものであることを自覚して、自己の即自性と矛盾とを止揚し、解消するに至る。
ところで、この「真理の理念」、または認識の段階は分析的認識と総合的認識とに分かれるが、総合的認識は更にまた定義、分類、定理に分けられる。しかし、これらの認識の展開がアリストテレスにおける「オルガノン」、殊にその「分析論」前書および後書の問題のヘーゲル的解釈における展開であることが明らかである。アリストテレスの論理学は、ここに体系的に叙述せられ、その相互の内面の論理が付けられ、体系の中に位置づけられることになる。しかし、その点でまた、この分析的認識と総合的認識のそれぞれの意味規定、及び関係が、カントの第一批判のそれに定位していることも明らかである。ヘーゲルはカントのいわゆる 5+7=12の判断における総合的認識について綿密な批判を加えている。
(1)分析的認識
まず有限的認識は、自己に対立する外的自然や意識の多様の事実を前提し、その具体的なものから、非本質的なもの、特殊なものを捨象して、形式的同一性、即ち類とか、力とか、法則とかを取り出す活動性である。その意味で、認識の理念はまず「分析的認識方法」である。分析が客体の中に既に含まれているものの展開であることは明らかであるが、それはただそれ自身任意的な客観的に存在する事柄の抽象的分析にすぎないものではない。勿論、分析的認識は第一義的には、それ自身として与えられている概念と実在性との客観的な統一体を、その中から特殊性と非本質的なものを捨象することによって分析して見出すものであるが、そのことも実は単にそのような所与の真理の開示にすぎないものではない。むしろそれが開示であることは、主観的認識の活動性が加わるのであって、その意味で分析的認識はすでにそれ自身また総合的認識でなければならない。この意味で、上述のように、カントの分析的命題に関する考えが批判されると共に、また同時に5+7=12を超越論的総合判断であるとする考えに、ヘーゲルは同意する。即ち、分析的認識はそれ自身進展して、高次の認識としての総合的認識に移行しなければならない。言い換えると、分析的方法が概念または認識の単に自己自身に対する関係であるのに対して、総合的認識は他者に関係する認識である。
(2)総合的認識
総合的認識方法は、概念の諸形式へ対象を取り入れる方法であるということが出来る。だから分析的方法の取り出す普遍が、それ自身客観的に与えられ、存在する普遍として、端的な直接的普遍であるのに対して、総合的認識方法のそれは規定せられた普遍性である。なぜなら、ここでは予め前提せられた概念そのものが、それに悟性が働くことによって措定せられ、規定せられるからである。言い換えると、概念も単に無限の概念ではなく、無限の概念そのものが認識の活動性、規定によって言わば産出せられるものとして、「悟性的な規定された概念」だからである。
これを更に言い換えると、分析的認識は直接的に存在する真理、即ち同一性の把握であり、その限りむしろ抽象的同一性の把握である。つまり、分析的認識は「単に存在するものの把握」である。これに対して総合的認識は「存在するものの概念的把握」である。即ち、規定の多様をその統一において把握することが、ここでは問題である。だから、分析的認識が認識という全推論の第一前提をなすとすれば、総合的認識は全推論の第二前提をなすというように言うこともできる。総合的認識は差異的なものを関係させるが、その関係は概念の中における関係であり、したがって必然性である。概念の必然性の把握がこの認識の目標である。総合的認識は分析的認識の直接的な抽象的同一性から関係へ、或いは有から反省への移行であると言ってもよい。
だからまた、総合的方法の運動は分析的方法の逆である。分析的方法は、直接的な具体的な個々の事実を分析して、その中の普遍的同一性を発見するものであって、いわば個別から出発して普遍に進むものであるが、総合的方法は、普遍(定義)から出発して、特殊(分類)を経て個別(定理)に進む。
(a)定義
認識の内容がまず規定せられた概念の形式の中にもたらされ、これによって対象の類および対象の普遍的規定性が措定せられるとき、これが定義である。それで定義は概念の三つの契機を持っている。(α)最も近い類としての普遍、(β)類の限定としての特殊、(γ)定義された対象そのものとしての個別、である。まず定義の対象となるものは、直接的な客体そのものである。そしてこの対象は、同一の種差を持つ同一の領域の中に限定せられ、特殊として立てられる。しかもその場合には、対象は同時に最近の類において規定せられているのであって、客体は普遍、類として措定せられる。或いは直接的客体について、それを通してその属する最近の類としての普遍が立てられるのである。こうして定義は対象をその概念に還元するのであり、直接的な存在が持つ多様な諸規定の豊かさを単純な契機に還元するのである。
(b)分類
定義は個別的対象を最近の類に還元するものとして、一般に普遍性の性格を持ち、そういうものとして総合的認識の出発点をなすものであるが、それは直接的存在をその領域の中における普遍性に還元する認識の単なる自己関係として形式的普遍である。だから、その内容の規定性は、それがその他の規定性と対立し、それによって媒介せられることによって得られる。しかし、この定義における形式的直接的普遍が、他の普遍、他の領域と対立することは、普遍が特殊化せられた普遍となることであって、それは即ち分類に他ならない。
(c)定理
総合的認識の第三段は定理である。定義は直接的対象の普遍性への還元として、ただ一個の規定性のみを持ち、分類は類の他の類に対する関係として、類の特殊化であり、したがって他に対する規定性を含む。ところが、この他に対する規定性が一個の規定性の中に即して措定せられるとき、それは定理である。即ち、定理は形式的に言えば、定義と分類の統一であり、分類の定義の中への還帰である。言い換えると、普遍性としての定義が、特殊性としての分類の中において措定せられ、規定せられた規定性となって個別性となったものが定理である。即ち定理は、このような具体的個別性の中における総合的認識である。具体的個別性というのは、定義における単純な規定性が分類の過程を経て、個別の中に措定せられるのであるから、個別そのものがそれ自身異なった諸規定の総合的関係だからである。つまり、「定義はあくまでも普遍概念の下に立っているが、反対に定理にあっては、対象はその実在性の中において、その実在的定有の諸々の制約と形式との中において認識される。それ故に定理は定義と結合して、概念と実在性との統一である理念を表現する」のである。だから定義や分類においては、我々の現前に見いだされる存在が概念の形式に還元せられるが、その結合はただ外的なものにすぎず、したがって内容全体は言わば見出されたものとして単に指摘せられるにすぎない。ところが定理においては、その関係は概念の内的同一性の中に基礎づけられていなければならないのであって、したがって定理はそれ自身論証せられていなければならない。この意味で概念はここにその実在性を経て理念となる。総合的認識はその頂点に達すると共に、一般に理論的認識そのものがその頂点に達するのである。
このように有限的認識、或いは理論的認識は、その出発点においては与えられた偶然的内容を持ち、認識と対象との関係は外的必然性としてある。しかし、この認識の過程はこの外的必然性を内的、即自かつ対自的必然性にまで高める。と言うことは、概念の普遍性がそれ自身具体的個別性における普遍性となることであり、普遍そのものが主体的となることである。即ち、いまや有限的認識は、それ自身運動し、活動し、諸規定を措定する概念となったのであって、その意味で理論的理念はそれ自身動的な実践的理念となったのである。その限り、また理論的理念が一般に形式的であり、一般に普遍性であったのに対して、実践的理念は具体的であり、一般に特殊性であるとも言うことが出来るであろう。
(B)善の理念
理論的理念の立場、即ち知性は客観と対立し、いわゆる傍観的態度として、それ自身普遍性であって(客観を自己と対立するものと見る限り有限的個別性であるが、それ自身としては普遍的である)、世界をあるがままに受け取ろうとするにすぎない。これに対して実践的理念の立場、即ち意志は、このような傍観的普遍的態度そのものが客観と合一したものとして個別的である。しかし、それはまたこのような主客の合一した具体的個別として規定的なものであるから、なお主観的理念として自己を実現しようとする衝動であり、有限的なものである。その限り、この主観的理念は、このような主体とその全体としての目的との対立である。ただこの実践的理念は、理論的理念と違って、たとえそれが有限的であっても、それ自身世界と自己との統一であるから、それがその全体と対立すると言うことは、知性の場合のように、ただ世界をあるがままに見、受け取るのと違って、むしろ世界をあるべき相に変えようとする。したがってそのあるべき相、即ちそれが実現しようとする全体としての目的は当為であり、理念そのものであって、その限りそれは善の理念である。だから、また善の理念は絶対的な要請であるから、それ自身としては既に主観的理念を包む絶対的理念そのものであるが、それがなお要請として主観的理念と対立し、ただ後者においてのみあるものである限り、あくまでも「主観性の規定性を伴った絶対者」以上のものではない。
それで実践的理念はあくまでも主観的理念と善の理念そのものとの対立であり、二つの世界の立場である。即ち、「一方は澄明な思想の純粋空間の中にある主観性の国であり、他方は開かれぬ闇の国としての、多様な外的現実性の要求の中にある客観性の国である。」言い換えると、実践的理念の世界は、「善の目的がこの客観的世界のそれ自身矛盾している諸規定の中で実現されると同時に実現されないという矛盾、善の目的が本質的なものであると同時に非本質的なもの、現実的なものであると同時に可能的なものとして措定されるという矛盾」である。もし世界があるべき相においてあるとすれば、意志の活動はなくなるのであり、したがって意志はそれ自身自己の目的が実現せられないことをも要求しているともいえる。その限り、この善の理念の世界は、善の実現の無限進行、即ち悪無限として現れねばならない。カントやフィヒテ等の道徳の立場はこれである。
(Ⅲ)絶対的理念への移行
けれども、実践的理念の無限課題性の矛盾は、一言で言えば、実践的理念にまた理論的理念の契機が欠けていることに基づくと言わねばならない。意志に知識が再び入り込むことによって、意志は目的が自己自身であることを知り、世界が現実的な概念であることを知ることが出来る。だから、この意志における矛盾の解消は、意志がこの自己矛盾の結果の中で認識作用の前提に帰り、それによって理論的理念と実践的理念とが統一せられることによってのみ可能である。即ち、「善の理念はその唯一の補足を真の理念の中にのみ見出すことが出来る。」これによって、この理念にとっては、世界の究極目的が不断に実現せられつつあると共に、今も実現せられているということが認識せられるから、満足を知らぬ無限の努力というものはなくなってしまう。即ち、主観の個別性は世界そのものと合し、世界の前提の消失と共に消失してしまう。これは言わば「大人の立場」であると言うことも出来る。それは即ち善の理念そのものの立場であり、絶対的理念の立場である。またそれは、内在的根拠としての概念そのものと現実的世界、善の理念または実践的理念と理論的理念との合一した全く客観的な真理そのもの、または善そのものの立場である。しかし、この「ある」と「あるべし」との一致としての、いわば「あるべし」そのものの世界は、硬化した、過程のないものではない。世界の究極目的である善は、常に自己を産出することによってのみ存在するのであって、動的なものそのものだからである。絶対者としての究極の神は此岸から見る限り静止そのものであるが、その静止はそれ自身としては純粋活動そのものだからである。この意味でまた、この絶対理念は一般に主観的理念としての認識の理念が客観的、即自的理念としての生命の理念に還帰したものであって、両者の具体的統一なのである。
さて以上のようにして、生命の理念と認識の理念、更に真の理念と善の理念の展開を通して、主観的理念のおいてあるもの、その根底を貫くものが理念そのもの、客観的理念であることが明らかになる。それによって、認識的理念、有限的認識と真の理念、有限的意欲と善の理念とが一致し、統一せられ、同時にまた真の理念と善の理念との区別、分離が止揚せられ、統一せられる。そして生命と認識および意欲の理念のみならず、従来の全ての論理学の段階の根底にある理念が明らかになったものが、理念の展開の第三段階である絶対的理念である。それは即自かつ対自的にある真理として「無限的理念」であって、直接的にはここに認識と行為が宥和せられるのである。
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