形而上学的神学としての概念論 主観性(1)

 イエスの死は死の死だ、とヘーゲルは言う。形而上学的神学としての論理学は、この死の意味を、論理的に解明しなければならない。しかしその前にこの死の表象的意味を少し考えて見よう。イエスは肉体を持ち、人々の眼にふれ、皮膚に触られ、奇蹟をおこない、また奇蹟を否定し、そして肉体を持つものの必然として死ぬ。しかも自然に朽ち果てるのではなく、犯罪人の死を、十字架の死を、死なねばならない。横死し、殺されねばならない。要するに、彼の生と死は人々に対して感覚的確実性を与え、人々の生かし殺すものとならねばならない。
 犯罪人の死とは言っても、罪ある殺人者バラバは赦され、罪なきイエスは処刑される。それはイエスが罪なきが故に最も大きな罪を犯したからである。国法はむしろ罪あることを容認する。単なる罪は国法全体を毀損するものではなく、その特殊な否定にすぎない。その意味ではむしろ犯罪は国法を富ます。国法に必須の存立条件は罪あることである。死文と化した法規を生かすには、恐らくその一部を毀損すれば十分であろう。ところが罪なきことは国法そのものの存立を無限に否定する。国法は罪なきことを包摂することが出来ず、また無視することも出来ない。ピラトはイエスの罪なきことを知ってはいるが、罪なきことが最も大きな罪であることを知らない。言い換えれば罪なきことが国法そのものを解消してしまうことを自覚してない。だから赦免も断罪も、そのような決定をピラトは何一つ出来ない。彼の為し得るのは唯一、イエスの存在を偶然の手に委ねることである。
 罪あるものは罪なきものを憎む、なぜならそれを認めることは、自身を究極的に否定してしまうことになるからである。この憎しみという感覚的で個別的な論理の先端で、イエスは死ぬ。この抽象の極端で、イエスと人々とは完全に乖離する。この両者に共通の第三のもの、それをここには何一つ見出せぬだろう。しかし、AとBとがそれらを疎通するものを何一つも持たずにこのような対峙することを抽象と呼ぶならば、まさにこの抽象情況の内でこそ、AはAであり、BはBである、と同時に、AとBとの根源的なつながりが明らかになるのである。人々はなぜそれほどまでに罪なきものを憎むのであろうか。それは彼らが自ら罪あるものであることを知っているからである。知っているからには、彼らは罪なきもの、善を自らの内に持っているのでなければならない。持っていながら、それに成り切ることが出来ない。人々はこのように自らの内で善と悪とに分裂している。その心の分裂状態は無限の苦悩と無限の不幸とを人々に与える。無限の、とは自己による自己に対する謂いである。苦悩・不幸の原因は自己であり、それを蒙るのも自己である。だからこの苦悩・不幸は無限なのであって、止むことがない。そこで人々は善が不在の存在として、彼らの心の内で彼らの現存在との緊張状態においてのみ可能な原理であることを知っている。善に近づけば自らの悪であることをますます思い、悪に落とされれば自らの善であることをますます願う、このような流動状態に身を任せることにおいて、彼らは自らの苦悩を歓喜に、不幸を幸福にする術を得ようとする。ところがイエスは見られ聞かれ触れられる、肉体を持つ善として現れた。この最大の不正・罪なきものの罪を人々は赦すことは出来ないであろう。言い換えればかかる不正を癒すには、肉体を持つ善の、その肉体を否定するしかないであろう。
 もしピラトが何らかの罪状を作り上げてイエスを断罪するか、あるいは人々がイエスではなくバラバを選択したと仮定すれば、そこには如何なる精神の出来事も起こらなかったであろう。イエスの死は単に無辜の死に終わったであろう。国法は形式だけになり、それの為し得ることはただ死の暴力の容認のみである。ピラトはイエスの提起した無限否定を、特殊な否定へ転化させる活力を失った形式的国法の無為を象徴している。決定を偶然に委ねる、この決定は国法自身の自己による否定を意味しているであろう。カエサルの国(政治)は、そのことによって、自己への神の国(霊)の浸透を自らの手で促したのである。一方、人によるイエスの選択は、聖書による限り無根拠のものである。国法を根拠とするものではなく(それならば殺人犯であるバラバを選択したであろう)、ただ憎悪と蔑笑があるのみである。人々は形式を失った無形の力として、感覚の先端で、そして抽象の極端で、イエスを憎み殺すのである。しかし上に述べたように、人の憎むものが自己自身であってみれば、彼の殺すものは自身に他ならない。こちらでも決定は自己を否定するものになってしまうのである。一般に抽象の時代(現代もそうであるが)にあっては、全ての決定が自己否定に連なり、そしてそのことによって、新しき時代を予示していると言える。

 イエスの死をそれ自身として見れば、それは有限性の極端に他ならない。感覚にも欲望にも、また病・不幸にも有限性の証左はあるが、しかし死こそ一切の有限性が最終的に、回復されぬ形で、現れ出る一点である。この有限性における死は、しかし有限性の死とも考えられる。死ぬことの死として。イエスの死は有限性の極端、有限性そのものであると共に、有限性の否定でもある。見られ聞かれ触れられるイエスは死ぬべきなのである。イエスの復活という神話はかかる死の死を、再び見られ聞かれ触られる形で、感覚的なものとして示したのである。
 国法と人々とイエスとが、三者三様にその抽象の極端において自己を止揚してしまうこの場面で、我々は初めてヘーゲルの神についての思想を語ることが出来る。決定を排除しようとするピラトの非決定の決定、人々の感覚による決断、そしてイエスの受難、これらは個別的な主体性の原理による決定を越えている。逃れ得ぬ運命として表象される。そこでは以前述べたような仮定(ピラトの決定とかバラバの選択)は無意味であろう。運命とは座視することによって顕われて来るものではなく、それに歯向かい、あるいはそれを避ける行動において、むしろそれに直面してしまうようなものである。自ら主体的に行為し、作り出したことが、実はすでに初めから存在していたものを明るみに出したにすぎなかったことを知ることである。ピラトが国法に対立するイエスの原理を回避することによって、むしろその原理に浸潤され、また人々がイエスを憎しみによって殺すことによって、それを真に生かし、憎しみを憎しみ消した、そのようなものである。個別的で主体的な行為が避け得ぬ実体の必然性によって支配されているのである。「時は満ちた」という言葉は、この個別的な主体性による自己止揚の運命を表象するものであろう。
 ところで先に、生み出されたものはすでに初めから存在していたものである、と言った。初めから存在している、この即自的なもの、実体を神と考えるのは、我々には理解しやすいだろう。しかしそのようなものが存在するのは、運命のもう一つの契機である生み出す行為、そしてその行為をなす有限者の存在によってのみ可能である。だから上の実体を神とすれば、それは必然的にそれを明るみに出す有限者の存在とその自己止揚とが、その神の契機として必要とされるのである。
 ヘーゲルの神は、運命において、敵対する有限者がその抽象の極端で各々自己を否定して一に帰することにおいて、そのこと自身がすでにあったこととして現れる、そのようなものである。神は自らの内に悪を有し、自らを否定して感覚的実在性を得、しかもこの実在性を否定して自己へ回帰する、その過程としてのみ存在する。イエスの死は、だからむしろ神の死の死であり、否定の否定であって、神の愛の力による現実との和解に他ならない。「しばの中の炎のうちに」(出エジプト記 3-2 )、即ち感覚を越えた、しかし感覚的なものとして、肉体を持った人の子として神が現れること、そして人々のあたりまえの感覚的な確実性を与えることが、キリスト教の神観念の最も優れた点である、とヘーゲルは考える。感覚的な直接性を与えるのだから、イエスの事績と死は、或る時或る場所で起きた一回限りのものでなければならない。出来事として一回限りのものであるからこそ、それは精神の内で反復され得、精神の内ではいつでもどこでも起きるものとなるのである。石につけられた傷は消えない、肉体の傷は跡が残る。しかし起こったことを起こらなかったとする力を精神は持っている。それゆえまた精神は起こったことを、記憶としてではないが、反復する力をも持つのである。
 我々はここでヘーゲルの語る文を挙げておこう。「永遠の即自かつ対自存在は自己を開示し、規定し、判断し、自己を自己の区別として措定する。しかし区別はまた同様に永遠に止揚されており、即自かつ対自的に存在するものは永遠にそこにおいて自己へ回帰し、そうしてその限りにおいてのみ精神である。区別されたものは、区別が直接に消失しており、これが神・理念の自己自身への関係に他ならない、というように規定されている。この区別は単に一つの運動、即ち愛の自己自身との遊戯であって、そこではそれは厳然たる他者となることも、分離や分裂に到達することもない。」
 「キリストの死はあらゆる問題の枢軸である」というヘーゲルの発言から、私はこれまで、イエスの死をめぐって、そこにヘーゲルの神観が結晶されている次第を見て来た。神は過程としてのみ真理であること、故にそれは自己の内に悪・否定性を含み、自らを疎外し、感覚的実在性を得、しかもその疎外の極において自己へ回帰していること、である。これまで神、精神、愛などと呼ばれて来たもの、これが以下我々の考察の主題である概念の、表象的表現に他ならない。そして神が自己を区別し、人の子イエスになること、これが論理的表現では判断であり、またその疎外の極端において自己に回帰すること、即ちイエスの死と復活が推理と呼ばれるものに他ならない。
 そこで次に我々はこの過程としての神の論理的構造を理解しなければならない。神は推理によって完結し、閉塞された全体的な直接性として現れるであろう。そしてその媒介の自己否定によって出現した直接的な全体性は客観性と呼ばれるであろう。しかしそのことを見る前に、我々は表象ではなく論理を研究の対象とする我々の方法について反省しなければならない。

 『精神現象学』は表象的思惟の立場であるが、さらに表象が自らを止揚する過程を叙述するものである。表象の運動の成果は絶対知、即ち知るものと知られるものとが一致した、自己についての知に他ならない。ところで意識が表象を生み出すのは、基底的な分裂の上にであって、意識の内容は常に他者についての知である。それ故に自己自身をしか指し示さず、他者を指示しない絶対知は、表象的な意味での内容を一切持たない。その限り絶対知は不在の象徴でしかない。
 論理学の始元において前提ざれているものは、このような不在の象徴としての絶対知である。内容が主観との差異によって生み出される『精神現象学』の過程からすれば、そこにはもはや何ものもない。それでも何かがあるとすれば、それはただ表象作用 vorstellen の自己否定の結果残された、何かがあるべき空所、場だけであろう。そこで純粋学としての論理学はこの空虚な場を始元として出立しなければならない。この場は元来そこに表象が置かれていた所である。
 論理学は意識の経験によって、即ち表象の媒介(しかも自己否定的な媒介)によって生み出された、純粋なエレメントにおける学であるから、現象学のように表象の対象という形をとって直接者が現れることはあり得ない。しかしまた何らかの意味での直接者、前提されたものなしには、いかなる知も不可能であろう。知は異なったものの同一として、命題によってのみ表されるからである。そこで論理学では、疑似的な直接者がその場に置かれる、或いは場自身が自らをそのような疑似的な直接者へと疎外する。つまりこの疑似的な直接者が、絶対知そのもの(ここ論理学ではそれは概念と呼ばれる)を代置 verstellen しているのである。
 かかる代置された直接者を支えとして、それを代置するものである概念は自らを分節する。『精神現象学』の主体であった意識の働きは表象であるのに対して、論理学の主体である概念の働きは代置ということが出来よう。この代置された直接者が何であるかに従って、論理学は三つの領域に分かたれる。即ち有、本質、概念であるが、それはまた概念そのものが自らを三つに分節したものに他ならない。私はこれまでのヘーゲル論理学の方法的研究によって、その代置された直接者が、有論では無規定者=自己自身に等しいものであり、本質論では、自己であることを明らかにしてきた。本稿では、概念論における代置された直接者が名であることが、まず明らかにされるであろう。
 近世の哲学の中心問題の一つは、知識、概念の客観的妥当性を如何にして証明するかにある。そしてその客観性が同時に確実性を伴わねばならないこと、言い換えれば人間的主観によって媒介されたものでなければならないことが特徴である。知識・概念の客観性とは普遍的経験の可能性を問うことである。或いは超越の普遍・必然性の問題でもある。そしてそのことはまた思弁的には、或るものとそれと異質な他のものとの総合は如何にして可能か、の問題になろう。ところでこのような異質的なものの総合は媒介者を必要とする。それらは直接には関係することが出来ないからである。しかし媒介者・中間者の存在は総合そのものを不可能にするであろう。中間者があくまで残存していれば両者は統一されるより、それによって間を開けられてしまうからである。
 これから註釈しようとする『大論理学』概念論の「主観性」の章は、まさにこの知識の客観的妥当性の問題(ヘーゲル的表現では、概念の、主観性から客観性への移行の問題)に答えようとするものである。その際我々は、概念の種々の形態に眩惑されることなく、上に述べた媒介者の動向にまず注目しなければならないが、そのことは後に触れるとして、ここではこのような観点から、近世哲学の二三の形式を振り返ってみようと思う。
 デカルトにおいては、懐疑という否定の途、否定的媒介を経て獲得された確実性、即ちコギトによって知識の客観性が保証されている。ただしかしその確実性は、むしろ不確実性によって、つまり懐疑によって根拠づけられているのであり、しかもその不確実性を止揚するものとして、抽象的な神の実在が要請されるのである。媒介者たる自己意識の内では、この不確実性と確実性とが並存しているだけである。不確実性は方法的懐疑の過程で明らかなように、身体性に由来している。デカルトのやり方では心身関係に解決が見出されないのもここに起因していよう。神を要請することによってではなく、媒介者たる自己意識の自己否定によって、客観性が証明されたなら、デカルト哲学の二元性は解消されていたであろう。しかしデカルトの場合は、確実性と不確実性とが並存している或る種の実体が、その並存故に主観と客観とを媒介するものとされ得るわけである。
 世界はコギトによって客観化され、コギトはまた神によって客観化される。故に客観性を最終的に演繹するのは、実体としての神にすぎない。要請されたものにすぎないから、神は主観的ではなく、そこでデカルトにおいては客観性すなわち真理と、確実性は一致していない、と答えるであろう。
 抽象的実体としての神を要請せずに、客観性と確実性を直接に一致させようとする試みは、ヒュームの哲学において見られる。彼はその一致を客観と主観の境界において直接に見出すことが出来ると考える。それは印象 impression と呼ばれるものであるが、大切なことは、印象は我々が心の内を内省すれば容易に誰にでも感得し得るものであること、心の内にあるのだから印象はそれから派生した様々な知識・観念と質的に異なるわけではなく、ただ両者は力強さと生々しさの量的程度によって区別されるにすぎないこと、そして知識・観念の原因を、デカルト、またロックやバークリーのように、内あるいは外に超越する実体に求めることをせず、この印象に肩代わりさせ、それ故純粋に観念内部で観念の体系を築こうとしたことである。im-pression は言葉からしても内と外との、即ち主観と客観との統一である。原因の探究は一般に規定されたものの悪無限的な系列を必要とし、究極的には無規定的な、それ故抽象的な実体の仮説で終わるものであるが、ヒュームは印象の原因を探究することはしない。印象は「未知の原因に基づいて」、我々の魂の中に「本源的に生じ」ている言われるのである。
 知識・観念を、ヒュームは単純観念と複雑観念の二つに大きく分け、更に複雑観念をロックにならって、実体・様相・関係の三つの観念に分類している。単純観念は印象の模写であるから印象によって直接権利づけられる。そして単純観念は、自然界における引力に相応する精神界の原理的力である連合(引力の原因を探究するのが無意味であるように、観念連合の原因を探究することはない、それは一般的な経験的事実である)によって、集合する。実体と様相の観念はこのように単純観念の集合にすぎない。ところで残るのは関係の観念であるが、ヒュームはこれを七つにまとめている。それらの中で数学的な関係観念を意味する絶対的知識と呼ばれるものは、(関係とは観念間の比較によって生まれる観念であるが)比較される観念に全く依存している。だから絶対的知識という関係観念は、他の複雑観念あるいは単純観念の本性に依存しており、そのことによって間接的に印象に根拠を持っている。残る関係観念は同一・空間時間・因果の三つの知識である。例えばこの隣り合ったペンとインキ壺を、1メートルの距離に引き離すとする。空間観念は10センチから1メートルに変わっても、ペン、あるいはインキ壺の観念は変化しない。つまり空間の知識は、それの基になる比較される観念に依存していない。そのことは他の、同一・因果の知識にも妥当する(この三つの関係観念は先の絶対的知識に対比して蓋然的知識と呼ばれる)。そこで蓋然的知識は間接的にも印象に基礎づけられていないことになる、客観的ではないことになる。しかしヒュームによれは、同一と空間時間の観念は「我々の眼か手をずっとそのものに置き続ける」とすれば、即ちそのような実験的な経験によって客観的であることが証明される、という。換言すれば印象が知識の客観性の根拠であるのに、印象を伴わぬ知識があるが、それに対しては新たな印象(この場合は恒常的な注視と接触)を次々に付与することによって、それが客観化されるのである。そのような実験的な印象によっても客観化されない知識が因果観念である。この観念は全く印象を越えている、言い換えれば因果というものは一切の印象を伴わなくとも、事物にそのような知識を与えうるようなものと考えられる。ところが先に述べたように印象を伴わない知識は客観的でない。そこで因果に客観性を認めるとすれば、ここでもやはり新たな印象が代置されねばならない。それが習慣 custom である。習慣は記憶の印象、過去における経験の反復によって惹き起こされる印象である、いわば印象の頽落態に他ならない。
 このようにしてヒュームにおいては、単純観念、それから複雑観念の内の実体と様相、続いて関係の内の絶対的知識、さらに同一と空間時間、そして最後に因果の観念が、主観と客観の境界的統一である印象によって、直接あるいは間接に、基礎づけられているのである。
 外的な実体を否定するヒュームの実験的方法は、しかし両刃の剣であって、外的実体のみならず心の存在をも否定することになる。心は「種々の知覚の束」であり、そこに幾つもの知覚が現れては消えてゆく「劇場」にすぎない。注視や反復などによって観念を印象へと根拠づけていた何物か(心)は、その作用の完成と同時に、自らの成果によって否定されてしまう。ヒューム哲学において実在するものは、ただ中間者としての印象ないし観念のみである。このことによって彼の哲学は純粋な観念学として完成する。
 アリストテレスは三段論法における中辞の決定的重要性を指摘し、中辞を、主辞と賓辞との結合、即ち知識を普遍的かつ必然的にするもの、その意味で「原因」と呼んでいる。近世哲学では今見て来たように、かかる中間者が確実性をも伴うものとして、つまり認識論的概念として考えられているのである。中間者は存在の客観性の原因であるが、それが同時に確実なものであること、即ち意識に対していることが必要である。ところで意識というものは元来中間的、対自的なものであるから、ここには中間者の自己対抗が現れている。あるいは中間者の自己止揚が考えられ得る。
 中間者・中保者は異質的な二者を媒介し統一するものであるが、XとYとが媒介される限り、その媒介を中保者の有によってなされる、XとYとは直接に関係することは出来ないからである。しかしXとYとが統一される限り、中間者はXYにとって異質なものとなる。仲保者の有はむしろXとYの統一によっては排除されるべきものであって、仲保者の無こそ統一のための条件でなければならない。仲保者の存在はこのように矛盾しており、それ故に即自的に止揚されるものであろう。
 実際、媒介は自己矛盾している。媒介が完全に実現されれば、媒介されるものは消滅しており、媒介されるものの媒介はあり得ないであろうから、それ故に媒介作用、媒介者の存在は無意味になる。そこで媒介はその完成時には、即自かつ対自的には媒介ではない。媒介は自ら働くことにおいて、媒介を否定する。媒介 Ver-mittelung という言葉は、そのもの自身において、中保者 Mittler ・媒介と、その消滅ないしは破壊(前綴り vre-)の意味を含んでいる。ヘーゲルは有論のどこかで、ドイツ語の持つ弁証法的性格を指摘していたが、この Vermittelung もそのようなものの一つといえるであろう。
 さて、デカルト哲学の中保者、コギトにおいては、確実性と不確実性とが並存していたにすぎない、媒介の肯定と否定とが関わり合わずに並置されているだけであった。(そしてこのことがまた心身の二元性をもたらす)仮に仲保者が、自らの否定的根拠(疑い)を、抽象的な実体的な神(抽象的というのは相互に否定的な関係を持たぬ自立者同士の孤立した関係をいう)におかずに、自らの懐疑による媒介自身に向けるのであれば、そこで媒介の自己否定は実現されていたことであろう。なにしろ懐疑という否定的で表象的な媒介自身の結果は、自己という肯定的で論理的な立場に、即自的には達しているのであるから。
 ヒュームにおいては最終的に中保者のみが残る。媒介されるものは存在しない(媒介されるものを考えるのは形而上学的として排除された)、にも拘らず印象(これが客観化されれば現象である)だけが残存している。このように媒介の自己止揚がなされていないのは、中保者がそもそも直接的であったからである。印象は直接に与えられたものとしてのみ認められ、それの原因すなわち媒介性の根拠の究明は、形而上学的として無視されていたのである。
 概念の客観的妥当性を扱う「主観性」の章は、このようにして媒介の自己止揚をめぐって展開されていると言える。我々が上でイエスの死の問題を考えたのは、まさしく媒介の自己止揚という論理的課題を考える糸口をつかむためだったのである。
 媒介をその極端において直接性に転換する。ヘーゲル論理学の基調はこのことである。そしてその原理は概念の三つの様相、領域の中で、異なった方法によって説かれている。現にあるもの das Dasein は<成りて有る>である。この有論の方法では媒介自身は隠されているが、媒介の自己止揚が語られていることには変わりない。本質論では、措定即前提、意識によって媒介されたものは既に有ったものであること、或いは前提即措定、有ったものは意識によって媒介されることによって初めて有ったものであること、このような形で媒介の自己止揚が説明される。そしてこの概念論では媒介そのものの機制が論理的に展開されるのである。
 そこでこの「主観性」の章の解釈に際しては、仲保者を分析して取り出し、その発展を見ることが、解釈を必然的にし、かつ容易にするのである。「概念」節の仲保者は特殊、「判断」節は繋辞、そして「推論」節は中辞である。だから概念、判断、推理という概念の客観的妥当性の発展は、「特殊ー繋辞ー中辞」という仲保者の系列の展開によってこそ理解されるのである。

 <成りて有るもの>、措定即前提、媒介の自己止揚、これらヘーゲル論理学の方法を規定するものを、より一般的に、直接性から直接性へという表現で説明することが出来るであろう。直接性から直接性へ、と直接性を強調すれば、そこでは何ごとも起こらなかったことになろう。このような事態を指して、ヘーゲルは、一切は神の遊びである、と言う。そして遊びの相手は神の鏡、神がそこにおいて他ならぬ自分を見るもの、と考えられるのであって、それは自立性を持つものではないのである。ところで直接性から直接性へ、と方向を強調すれば、今度はそこにはただ運動だけがあることになろう。一切の基体を持たない媒介だけが宙に浮いている。ヘーゲルの哲学はこの二つの事柄を本質的に統一しようとしている。過程は存在であり、存在は過程である。または媒介即直接性、直接性即媒介である。神の世界創造は歴史的にはただ一回限りであるが、一回限りであるが故にこそ精神においては無限に繰り返され得るのである。創造は瞬間瞬間において常になされている。逆言すれば世界の存在は瞬間的な存在である。
 直接性という日本語の表現では理解しようがないが、Un-mittelbarkeit というドイツ語による表現からすれば、直接性の概念には、中間者ないしは媒介のみならず、同時にその否定(un- )とが含まれていることが分かる。直接性は、それ故に媒介を、止揚されたものとして内含している。真の直接性は所与としてのそれではなく、直接性から直接性へ、の全体を指すのである。
 若きヘーゲルは啓蒙主義者として現実の改革に激しい情熱を傾けようとする。フランス革命への熱狂や経済学の勉強、政治批判などに、そして特にいわゆる多くの神学論文の内に、そのことが窺われるであろう。ヘーゲルは自らの姿を、1800年前のイエスの内に投影し、宗教批判の形を借りて現実を批判するのである。イエスはそこでは、カント的な道徳の教師として現れ、「義」に耳を傾けず、ただ慣習となり、既成化した宗教に唯々としてつき従う民衆を教化しようとする預言者である。所与のもの、実定性、これに対するに義、この対立形式は、しかし永遠に和解できぬ二元性を形作っている。「実定性ー義」、この対立には媒介の契機が欠けている。しかし、それ故にこそ徳の実践的自由が可能となっているのである。魂は実定性という不可解なものに出会い、それを乗り越えようとするところに自由を感じる。所与のもの、偶然なもの、認識不可能なもの、このようなものを前提して初めて、実践的自由が根拠づけられる。もし全てが見透かされ、真理が現に今ここにあるとされるならば、そこでは実践的自由はあり得ぬだろう。しかるに現実をこのように実定的と考えれば、後のヘーゲルの言う「純粋学」は不可能である。若きヘーゲルから完成されたヘーゲルへの思想転換が仮定され、その転換を概念の上で跡付けようとすれば、現実の概念化のこの変化、即ち、実定性から直接性への変化を軸にすることによって、おそらく整理されるであろう。
 よく古典を太鼓に準えることがある。同じ太鼓でも、打つ人によって違った音色を出す、というわけである。しかし私の研究の目的な差し当たって太鼓を打つことにあるのではなく、むしろその太鼓の構造がどうなっているか、物を相手にするように探ることである。
 ヘーゲルは自らの方法を思弁的と称する。思弁的方法の一つの側面は、事柄を概念によってのみ考えること、即ち、事柄というものは必ず何らかの特殊な情況において生み出され、それ故にそれを生み出した基体に支配されているものであるが、その情況・基体を捨象して、純粋にその概念だけについて考えることである。例を出して説明しよう。カントは世界という概念は矛盾すると言う。カントの方法は超越論的と呼ばれるが、それは概念を主観から客観への超越の通路と考え、その概念の必然性と普遍性を確定しようとするのである。だから概念は根本的に主観と客観の対立という情況の内で、表象として考えられている。世界概念は矛盾だ、というとき、矛盾の責任は、世界を概念と表象してしまう主観に帰せられるのであって、世界そのものは矛盾するともしないも言えない。ところがヘーゲルの思弁的方法では、概念は超越論的・表象的な基底から捨象されて純粋に考えられるから、世界という概念はそれ自体で矛盾しているとされるのである。
 世界は矛盾だ、とはしかしどういう意味を持つか。私は冒頭イエスの死を解釈したとき、このことを示唆しておいた。世界は神の他者、遊びの対象である。世界はそれ自身において矛盾し、自らを止揚するものとしてのみ、瞬間的な存在を得ている。
 思弁的のもう一つの側面は、まさにこの神観にある。この二つの側面を論理的に表現すれば、生成した実定的な諸概念を、抽象し、即自的に分析することが、同時に概念(神)そのものの諸様相として総合されることでもある。カントが人間の表象を、あるいは人間から神への表象を根本としていたのに対して、ヘーゲルは神の表象を、あるいは神から人間への表象を根本としているのである。論理的分析だけでは哲学にならない。そこに表象的な世界観が結びついていなければならないが、ヘーゲルの思弁的方法は結びつきが最も緊密に行われているものであろう。
 ところで私は以下で、この思弁的方法の第一の側面を更に発展させて、大論理学を解釈しようと思う。そのような方法をとりあえず思弁論的な方法と呼んでおく。思弁的なものは必然的に表現され、書かれなければならない。換言すれば疎外されねばならない。思弁論的方法とはその書かれたものに即して、徹底して分析的になされる。アウグスティヌスの喩えを転用すれば、文目も分からぬ絨毯の裏は、美しい整った表の模様をこしらえているのであって、思弁論的方法はまずただこの表の模様すなわち表現された言語を分析して、全体の布置を知ろうとするものである。
 すでに私は「主観性」の章の注釈に必要な二つの思弁論的概念を指摘しておいた。一つは代置された直接者としての名であり、もう一つは仲保者の系列、「特殊ー繋辞ー中辞」である。
 「我々が思惟するのは名においてである。」実際我々は例えばライオン、という名を支えにすれば、それに対して如何なる直観も心象も必要としない。そしてそこにおいて、思惟するという行為が始まるのである。名はまた「知性そのものの産物である現在」、あるいは「内容が知性内で存在する形での現実存在」とも言われる。要するに名は、直観や心象と異なって、思惟界における直接者に他ならない。
 それは名にすぎない、という言い方があるが、しかし何物かを名として固定し、心に滞留させることは思惟の大きな進歩である。幼児は名によって初めて、自分の取り巻く無形の塊を、世界として分節することが出来るようになるし、また名を称えることによって、人と人との、或いは人と霊的なものとの人格的な呼応が可能になるのである。
 名は論理学では、主辞 Subjekt (以下Sと略す)と賓辞 Prädikat (以下Pと略す)である。それらは個々の名(例えばライオン)ではなく、「名としての名」、名の名である。名は判断において現れ、推理において消滅するが、その出現と消滅の根拠は後に述べるだろう。主辞と賓辞との差異は、内容の側面から理解することは出来ない。それらの内容は、ただ判断規定が変化しても、それにも拘わらず形式的に同一である、という空虚な内容であるから。その差異はせいぜい、Sは第一に発語され、Pはそれについて第二に発語される、という位置の違いにすぎないであろう。或るものがSであるのは、つまり固定したものと考えられるのは、Sという命題における位置の故であって、次にそれはPの位置に到ることによって、その固定性を溶かされるであろう。
 一般に判断のSは表象されたものとされるが、そのような理解は超越論的な基体観によるのである。論理的には、Sは代置されたものにすぎない。あるいは前提されたものにすぎない。論理による思弁的思考に近づき難い一因は、このように何らの基体も思い浮かべずに、思考することに、我々が馴れていないからである。
 名すなわちSとPは、判断と推理の構造を支える固定的な点である。両者は相補って、分離と対立の形式を維持しようとする。ところがその点、位置を、概念の抽象的な三つの契機、普遍・特殊・個別が過不足なく経巡ることによって、SとPとの位置的差異が消失してしまう。つまり、判断と推理という対立の構造そのものが解体してしまうのである。
 ところでこのような概念の展開過程(概念→判断→推理)(この過程は概念の内化が外化であり、媒介が疎外であるようなもの)を主導するのが、もう一つの思弁論的概念である「特殊(Bと略す)-繋辞(C)-中辞(M)」という仲保者の系列である。先のS-Pが横の図式とすれば、このB-C-Mは縦の図式と言えよう。概念そのものはこの仲保者に宿り、この系列において姿を変えて、その過程の内で全体性を獲得する。つまり中保者は横の図式、S-Pの媒介者であるが、さらに中保者自身が縦の図式において、媒介の系列をなしている。このように媒介者自身の自己媒介という、媒介の交叉した形によって、媒介の自己止揚がおこなわれているのである。
 Bは単なる形式規定にすぎないから、ヘーゲルの神観からすれば、神の国にあるにすぎない。それに対してCは存在を獲得し、感性的直接的なもの、イエスである。MはCの解消によって全体性を得た仲保者、精神である。
  
 概念そのものは、過程としての神を論理によって表現したものであったから、全にして無である。しかしこれでは理解し難いので、今は概念を場所的に分析してみよう。まず論理学全体が概念であり、その三つの場所、即ち有、本質、概念は、概念の様相として、それぞれ概念の領域と呼ばれる。そのうち最後の概念領域は、更に場所的に三分される。即ち主観性、客観性、理念。これらは概念の段階と名づけられる。そしてその主観性段階はまた、概念、判断、推理の三過程に分けられる。その上その概念過程には、概念の契機、あるいは概念規定と呼ばれる三つの規定がある。このように概念を、領域、段階、過程、契機と分析したうえで、我々は、概念構成の最小単位である概念契機、普遍 die Allgemeinheit (Aと略称)、特殊 die Besonderheit (B)、個別 die Einzelheit (E)を足場にして、以下、概念の運動を考えていこう。
 問題になるのは、(1)概念は如何にして演繹されるか、(2)ABEの各々は如何なるものと規定されるか、あるいは同じことだが、ABE相互の差異性は何か、(3)以前仲保者の系列ということを述べたが、この純粋概念においては媒介が如何になされているか、そしてこのことに関連し、また次の判断の構造を作り出すことであるが、(4)ABEと名、即ちSPとの差異は何か、以下のようにとりあえず分けて考えることが出来るであろう。
 (1)概念の内在的演繹
 実在する何物かの概念を問うことはまだ易しい。しかしここで問題になっているのは、そもそも概念とは何かということ、即ち概念の概念を問うているのである。それでもアリストテレスのように、言語表現の文法的形態を前提したり、カントのように、経験ないし超越という事実を前提したり、要するに概念を支える何らかの基底を仮定すれば、この問いに答えるすべが残されていよう。ヘーゲルにとっては、しかし論理学は「純粋学」であるから、概念に対して外なるものを、概念の根拠とすることは出来ない。そこで唯一可能な演繹は「内在的な演繹」であり、あるいは、「概念の発生」を問題にすること、即ち「概念の発生的解明」による以外にはない。
 内在的演繹とはまた次のように言うことが出来よう。純粋学の内では各単位はただ先行する単位及び後続する単位との関係においてのみ決定されるべきであるから、ソシュールの概念を拡張して用いれば、各単位の同一性(ここでは概念そのものがそれであるが)はただ統合の内でのみ決定されるのであって、連合関係によってではない。そしてこの統合を支配するヘーゲル独特の原則がある。それはいわば逆因果律とも称するもので、デカルト風の因果律とは逆に、生成したものがむしろ制約を取り払われた根源的なものだ、というものである。原因が結果を規定するのみならず、むしろ結果が始めて原因を措定するのである。措定即前提、媒介の自己止揚、前に述べたこれらの表現、及び前進即後退、絶対媒介ということもここに関わってくるのである。ともあれその意味では、概念とは何か、という問いは、概念がさらに判断、推理と展開した末に明らかになるものであろうが、しかしまたここに前提されている概念の概念についてまず触れなければならない。
 概念に先行するものは、有と本質・反省である。概念は場所的には即ち順番としては第三に現れるもの、しかし概念は全てであって、逆因果律に従えば、むしろ有と反省の根拠であり、第一のものである。更に細かく見れば概念は先行する実体 Substanz から発生する、そこで先行するこれらのものとの関係を調べねばならない。
 概念は実体から発生する。ここではその経緯をたどることは出来ない。ただその成果だけを指摘しよう。実体とは有と結合した、それ故に実現された(現実的な)本質である。この実現の過程は、因果と交互作用という、実体の弁証法的運動によって行われる。そこで実体は有と本質との総合であるが、その総合が未だ即自的であるのに対して、概念における総合は措定されている、換言すれば、実体においては即自的な総合が、概念において「開示されたもの」になる、という。この総合を契機に分析してみると、実体は一方では先行する二者(ここでは可能性と現実性との)単純な同一性という即自的で、有的な契機と、他方では自分自身に関係する否定性としての同一性という対自的で、反省的な契機とを持っている。この二つの契機が、実体の弁証法的運動によって、媒介されて、概念が出来するのである。つまり概念の境位は、即自かつ対自存在が即被措定有である、そのようなものである。
 (2)概念規定の二面性
 概念とは即自かつ対自存在であると共に被措定有であるもの、換言すれば全体であると共にその契機でもある、このことが最も重要な概念の特徴である。有と本質の諸カテゴリー及び諸規定はこのような全体性を獲得していなかった。ひとり概念の諸規定だけが、その規定性において同時に自己自身に単純に関係している、即ち全体的である。
 概念の諸規定とはABEであるが、このことからして、AはAであると共に、A→B→Eという純粋概念の過程全体でもある。他のBEについても同じことが言えるのであって、ABEの各々は全体性を形成する各契機であり、かつ各々が全て全体概念である。
 しかしこのように考えると、ABEは皆全体概念であって、それらの間には差異がないということになろう。そして差異がなければ、それらは無差別的な同一であるから、全体性でないことになる。かかる矛盾は、即自かつ対自的が即被措定的であるという、純粋概念の境位に固有の、全体と契機との抽象的な直接性に由来するのである。そこで境位が直接的であるから、境位を構成する二つの契機が抽象され独立してしまう。一方は即自かつ対自存在そのもの、単純な同一性、これがAであり、他方は被措定有そのもの、自己同一的な非定性、Eである。
 無論、ABEの各節において叙述されることは、AがBEであり、BがAEであり、EがABであることだが、そのような媒介は直接的にすぎないから、むしろ各契機の抽象的な固定化こそが行われてしまう。純粋概念がA→B→Eと自己を媒介し、自己へ回帰することが、むしろ自己を抽象すること、即ち分節し分割することになるのである。その媒介即分割の機制は項を改めて述べる。
 するとABEは各々全体概念であると共に、その全体概念の一契機にすぎない抽象概念とも考えられる。以下、判断、推理で使用される概念規定は全てこの後者の抽象概念に他ならない。そしてその内AEは先行する実体の二つの契機を代表する、あるいは概念の境位をなす二つの特徴(即自かつ対自有と被措定有)をそれぞれ孤立して代表するのである。ところがBは文字通りAEに対して特殊なものであり、AEの中保者として振舞う。仲保者というものは、両項を何らかの意味で内包するものでなければならないだろうが、Bは一般的に規定されているものとして、A(一般性)とE(否定性)とを含んでいるのである。媒介形式が、純粋概念においてはこのように、媒介されるものと中保者とが同じく規定的なものとして現れる限り、直接的にすぎないのである。
 概念規定のこの二面性を、ヘーゲルは「二重に光り輝くこと」と表象している。規定性は「外への光り」あるいは「他者への反省」であると共に、同時にそれは「内への光り」即ち「自己への反省」でもある。概念をこのように光りとして表象するのは適切であろう。光りはまさに外へ発出することが同時に内へ帰入して行くようなものであるからである。もし光りが、弓を離れた矢のように、ただ外へ向かうだけであるなら、それは光源において輝きはしないであろう。光ではないであろう。概念も自己へ回帰することにおいて、自らを分節し、他との関係へ入る。そして外へ向かい他と交渉することにおいてこそ、自己へ回帰するのである。

































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