第三篇理念第二章認識の理念 真の理念(1)

 主観的理念は最初は衝動である。というのは、主観的理念は次のような概念の矛盾だからである。即ち自分を対象とし、自分を実在化しようとするものであるが、しかしその対象が概念に対する他者として自立的なものとなると言うことはないという矛盾だからである。言い換えると、概念自身の自分とのこの区別が同時に差異性または無関心な定有という本質的な規定を持つようになると言うことはないという矛盾だからである。だから衝動は自分自身の主観性を止揚し、自分の最初の抽象的な実在性を具体的実在性となし、つまりこの抽象的な実在性を自分の主観性によって前提された世界の内容を以て充実しようという規定性(役割)を持つ。それ故に衝動は他面から見れば、次のように見られる。即ち概念は、確かに自分自身の絶対的確実性である。しかし、この概念の対自有に対しては即自的にある世界という概念の前提が対立している。尤も、この世界の無関心な他在は概念自身の確実性にとっては単に非本質的なものという価値を持つにすぎない。概念はその限り、この他在を止揚して、客観の中に自分自身との同一性を直観しようとする衝動である。それで、この自己反省が止揚された対立であり、また初めは前提された即自有として現れる個別性が主観のために作り出されたところの、措定された個別性となったものである限り、ここにあるものは対立から回復された形式の自己同一性である。つまり、この同一性は区別性の中にある形式に対して無関心なものとして規定され、内容となったところの同一性である。
 だから真理が認識の中にあるものである限り、この衝動は真理の衝動であり、それ故にその本来の意味における理論的理念としての真理の衝動である。客観的真理とは概念に一致した実在性としての理念そのものであり、したがって対象もこの一致如何によってその中に真理を持ち得るか否かであるが、これに対して真理の一層規定的な意味は、真理が主観的概念に対してそういう一致としてあること、或いは主観的概念の中で、即ち知識の中で、そういう一致としてあるということである。それで真理は前に真理の形式的判断として述べたあの概念の判断の関係である。即ちこの概念の判断においては、述語は単に概念の客観性であるのみでなく、むしろ事物の概念とその事物の現実性とを関係づける比較である。概念が形式として、まだ主観的概念の規定を持つ限り、言い換えると概念が主観に属するものであるという規定を主観に対して持つ限り、概念のこの実在化(実現)は理論的である。認識は目的としての、或いは主観的なものとしての理念であるから、その即自的に存在するものとして前提されている世界の否定は最初の否定である。それ故に結論では客観的なものが主観的なものの中に措定されることになるが、この結論は差し当たっては即自的に存在するものがただ主観的なものとして、或いはただ概念規定の中で措定されているのみで、したがってまだ即自かつ対自的にあるのではないという意味を持つにすぎない。その限り結論は単に中和的な統一に、或いは一種の総合に達するにすぎない。言い換えると、元来は分離しているが、ただ外面的にのみ総合されているにすぎないというような統一になるにすぎない。だから、この認識において概念が客観を自分の客観として措定することによって、理念は一応、内容を獲得するが、その内容は、その根底は与えられているが、そこでは外面性の形式だけが止揚されたというような内容である。その限り、この認識は、その実現された目的の中でも、まだその有限性を帯びている。即ちこの認識は、その実現された目的の中で同時に、この目的を獲得していないし、その真理の中で、まだその真理に到達していない。というのは、内容が結果の中でまだ与えられた内容という規定を持つ限り、概念に対する前提された即自有は止揚されてはいないからである。したがってまた、その中には概念と実在性との統一、即ち真理は含まれていないのである。ところが、不思議なことに近世においては、この有限性の面が殊更に主張されて、それが認識の絶対的な関係と見られることになっている。それは、あたかも有限者そのものが絶対者であると言うかのようである。このような立場に立つから、客観として認識の背後にある不可知な物自体が立てられるということになり、この物も、また真理も認識にとって絶対的彼岸と見られることになる。だから、そこでは思惟規定一般、カテゴリー、反省諸規定、並びに形式的概念やその諸契機が即自かつ対自的に(それ自身として)有限的な規定だというのではなく、むしろそういう空虚な物自体に対して主観的なものだという意味で有限的だということになる。つまり、このような認識の非真理性の関係を真の関係と見るということこそ、近世の通念となっているところの誤謬に他ならない。
 この有限的認識の規定からして早速わかることは、有限的認識が自分自身を止揚する矛盾だということである。即ち、それは真理が同時に真理であるべきでないという真理の矛盾であり、また存在するものの認識が、同時に物自体を認識しないという認識の矛盾である。この矛盾の崩壊と共に、その内容、即ち主観的認識と物自体とが崩壊するのであり、言い換えると、それが真でないものであることが立証される。けれども認識は認識自身の行程を通じて、その有限性と、したがってまたその矛盾とを解消しなければならない。我々が有限的認識についてなした考察は外面的な反省である。しかし認識はそれ自身、自分の目的であるところの概念である。したがって自分の実在化によって自分を実現し、またまさにこの実現において自分の主観性と前提された即自有とを止揚する概念である。だから認識は、それ自身の持つその積極的活動性の面から考察されねばならない。前に述べたように、この理念は自分を対自的に(それ自身として)実在化しようとする概念の衝動であるから、その概念の活動は客観を規定し、この規定を通じて客観の中で自己同一的に自分に関係するにある。客観は一般に、どこまでも規定され得るものという意味を持ち、したがって客観が理念の中で持つ本質的な面は、概念に即自かつ対自的に対立しないということである。だが、この認識はまだ有限的な認識であって、思弁的認識ではないから、前提された客観性もまだ認識に対して次のような形態、即ちこの客観性が全くそれ自身において概念であって、概念に対して自立的に何ら特殊的なものを持たないというような形態を持つものではない。けれども、客観性が即自的に存在する彼岸と見られることになると共に、帰って客観性は真に概念によって規定可能なものという規定を持つことになる。なぜなら、その場合には理念が対自的に存在する概念であり、それ自身において全く無限なものであることになり、その中では、客観は即自的に(それ自身として)止揚されており、また目的も全くこの客観を対自的に止揚するものとなるからである。だから客観は認識の理念によって即自的に存在するものとして前提されてはいるが、しかし本質的はこの客観は、理念が自分自身とこの対立者(客観)の空しさとを確証し、客観の中で理念の概念の実現に達するという関係の中にあることになる。
 ところで、主観的理念を客観性と結合する推論においては、その第一の前提は概念の客観に対する直接的な支配または関係の形式であって、我々が前に目的関係の中で見たものと同一の形式である。客観に対する概念の規定的な活動性は概念の客観に対する直接的な伝達であり、抵抗のない伝播である。概念は、そこでは自分自身との純粋な同一性の中に止まっている。しかし、この概念の直接的な自己反省は同様にまた客観的直接性の規定を持ってる。即ち概念にとって概念自身の規定であるものが、同様にまた一つの有である。というのは、この有は前提の最初の否定だからである。だから、この措定された規定は単に見いだされたにすぎない前提と見られると共に、また所与のものの把握とも見られる。しかたって、ここでは概念の活動性は、むしろただ次の点にある。即ち自分自身に対して否定的な態度をとり、現に存在するものに対して自分を抑制して、受動的にし、そのことによってこの現に存在するものが主観によって規定されるのではなく、むしろ在るがままの自分を示し得るようにする、という点にある。
 だからこの認識は、この前提においては決して論理的諸規定の適用という形をとらない。むしろ現に見出されるものとしての諸規定の受容と把握という形をとる。したがって認識の活動性は、ただ主観的な障害物、外面的な殻を対象から取り除けてやることにのみ限りされることになる。ところで、このような認識は即ち分析的認識である。

 a 分析的認識
 人々はしばしば分析的認識と総合的認識との区別を挙げて、一方は既知のものから未知のものに進み、他方は未知のものから既知のものに進むというように言う。しかし、この区別をよく考えてみると、その中に明確な思想を見出すことも、まして概念を見出すことは困難である。認識が一般に未知ものものから始まるということは言い得る。というのは、すでに知っていることは学ぶ必要はないからである。しかしまた逆に、認識は既知のものから始まる。これは同語反復的な命題である。即ち、認識がそれから始まるところのもの、それ故に認識が実際に認識しているものは、まさにそれ故に既知のものである。けれども、まだ認識されていないもの、後になって初めて認識されるはずのものは、やはりまだ未知のものである。尤も、認識が一度始まれば、認識は常に既知のものから未知のものに進むと言わなければならない。
 分析的認識を他のものと区別するものが次の点にあることは、以上から明らかである。即ち分析的認識は全推論の第一前提であるから、それはまだ媒介を持たず、むしろ分析的認識は他在を含まない概念の直接的伝達であり、したがってそこでは、その活動性は否定性を欠いているということである。だが、この関係の直接性こそ、まさに次の点でそれ自身媒介なのである。なぜかと言えば、この関係の直接性こそ、自分自身を否定し、それによって自分を単純なものとし、同一的なものとするところの、客観に対する概念の否定的な関係だからである。この自己内反省は単に主観的なものにすぎない。なぜなら、この反省の媒介の中では区別は、まだ単に前提された即自有的区別として、即ち客観そのものの中にある差異性として、ただ与えられているにすぎないからである。だから、この関係によって生ずる規定は、単純な同一性の形式であり、抽象的普遍性の形式である。それ故に分析的認識は一般に、この同一性をその原理とするものであり、したがって他者への推移、即ち差異的なものの結合ということは、この認識そのものからは、またこの認識の活動性からは予め閉め出されている。
 ところで、分析的認識を更に詳しく考察してみると、それは或る前提された対象から、それも個別的な、具体的な対象から出発する。勿論その場合に、この対象が表象に対してすでに定まっている(出来上がっている)対象である場合もあれば、一個の課題である場合もあろう。即ち対象が、その諸々の状況や制約の中で、ただ与えられたものであって、まだこれらから抜け出して、単純な自立性を持つものとなっていない場合もあろう。しかし、この対象の分析は、この対象をただそれが含んでいる諸々の特殊的表象に分解することにあるのではない。このような分解や分解的な把握は認識本来の問題ではない。それは精々博識を問題とするもののやることであり、表象の圏内の規定をこととするもののやることである。分析は概念を基礎とするものであるから、また当然に概念諸規定をその所産として持ち、それも対象の中に直接的に含まれているような概念諸規定なのである。客観そのものは概念の全体性に他ならないから、主観的概念の活動性が一面から言えば、単に客観の中にすでにあるものの展開と見られねばならないということは、認識の理念の本性からして明らかである。けれども、対象の中に入れ得ないようなものは対象の中には一つとしてないかのように見るのは、そこに出て来る諸規定が単に対象からのみ取り出されるかのように考えるのと同様に、分析の見方としては一面的である。前の考え方は周知のように主観的観念論の主張するところであるが、それも分析において認識の活動性だけを見るのは一面的なやり方(措定)だと見、その彼岸に物自体が隠れていると考える。後の考え方は、いわゆる実在論のやるところであって、それは主観的概念を以て、思想の諸規定を外部から自分の中に受け入れるような空虚な同一性と解する。しかし分析的認識は所与の素材を論理的諸規定の中へ転化(分析)するものであるから、上の両者が一つになっていなければならないことは明らかである。言い換えると、そこでは措定がそのまままた前提の意味を持たねばならない。それ故に論理的なものは、この後者、即ち前提の点では、すでに前から対象の中にある既成のものと見られるが、前者、即ち措定の点では単に主観的な活動性の所産と見られる。しかし、二つの契機は分離されるべきではない。即ち論理的なものは分析が析出するその抽象的な形式の中で、もちろん認識として出て来るしかないが、また逆に論理的なものは単に措定されたものではなくて、むしろ即自的に予め存在するものなのである。
 ところで分析的認識が、いま言うような転化である限り、分析的認識は次々と中間項を通過して先に進んで行くものではない。その限り規定は直接的であって、まさに対象に固有のもので、対象に即自的に所属するという意味を持ち、したがって主観的媒介なしに対象から把握さるべきものである。しかし一方から言えば、また認識は進展であり、区別の展開でなければならない。けれども、認識の現在の段階の規定から言えば、認識は没概念的で非弁証法的であるから、認識は単に所与の区別を持つにすぎず、したがってその進展もただ素材のそれぞれの規定に沿うて行われるにすぎない。つまり、そこに導き出される思想の諸規定がまだ具体的なものである限りにおいて新たに分析され得るものである限りでのみ、この分析は内在的進展をなすもののように見える。即ち、この分析の最高のもの、究極のものは抽象的な最高の本質であり、言い換えると抽象的な主観的同一性と、これに対立する差異性とである。だが、この進展は実は分析の本源的行為の繰り返しに他ならない。即ち抽象的な概念形式の中へすでに取り入れられている具体的なものを再び規定し、そこで続いて、この具体的なものの分析が行われ、次にこの分析から生じた抽象的なものを新たに具体的になものとして規定し、以下また同様にして進んで行く。けれども思想の諸規定は、それ自身の中にまた推移をも含んでいるように見える。対象が全体として規定されている場合には、勿論それから部分という他の規定への進行が起こるし、また原因からは結果と言う他の規定へ進行する、等々。しかし、この場合それは実は進行ではない。というのは、全体と部分、原因と結果は相関関係であり、それもこの形式的認識にとっては、一方の規定は他方の規定に本質的に結び付けられて考えられるようになっているところの既成の相関関係だからである。したがって原因として、あるいは部分として規定された対象は全相関関係によって、あらかじめ相関関係の両面によって規定されているのである。たとえ、この相関関係が即自的にはすでに或る総合的なものであるにしても、この連関は分析的認識にとっては、その素材の他の連関と同様に一個の所与にすぎず、したがってこの連関は分析的認識本来の職分には属さない。或いはまた、このような連関が先天的のものとせられるか、それとも後天的のものと見られるかということも、この連関が一個の所与の連関と見られる限り、或いはまた人々の言うように、意識の事実と見られ、その意味で全体という規定に部分という規定が結合したものだ等々、とせられる限り、ここでは問題にならない。カントは先天的総合原則についての深い考察を樹立し、この諸原則の根底として自意識の統一を、したがって概念の自己同一性を認めたが、それにもかかわらず、やはり規定的な連関を、即ち相関関係にある各概念と各原則そのものとを形式論理学から所与のものとして採用している。だから、この諸原則の演繹は本来は、その自意識の単純な統一の、この統一の諸規定または区別への推移の叙述でなければならなかったはずである。ところがカントは、この真に総合的な進展の叙述、即ち自分自身を産出する概念の叙述を行うことをしなかったのである。
 周知のように、分離量を取り扱う算術学と更に一般的な諸学とは、特に分析的科学または解析学と呼ばれる。事実これらの学の認識方法は徹頭徹尾、分析的である。以下、簡単に、その根本について考察して見なければならない。他の分析的認識は偶然的な多様性を、その中に持つ具体的な素材から出発する。内容のあらゆる区別も、また更に細かな内容への進展も、この素材に依存する。これに反して、算数と代数との素材は、すでに全く抽象的、無規定的にせられたものであって、そこではあらゆる関係(比)の特有性は抹殺されている。したがって如何なる規定や結合も、その関係(比)にとっては外面的なものである。このようなものが分離量の原理であって、それは即ち一に他ならない。この没関係的な原子は増加されて数多とせられることができ、また外面的に集合数として規定され、結合されることが出来る。この増加と限界づけとは、あくまでも抽象的な一という同一の原理に立つ空虚な進行であり、空虚な規定作用である。更にまた数がどのように結合されたり、分離されたりするかということも、全く認識する者の措定作用に依存する。ここでは一般に量が根本のカテゴリーであって、このカテゴリーの内部で、いま言うようないろいろの規定もなされるのである。即ち量は無関心的なものとなった規定性であって、それ故に対象は内在的であるような、したがってまた認識に与えられているような如何なる規定性をも持たない。それで認識に対して、まず数の偶然的な差異が与えられているものである限り、これらの数が種々の計算や、いろいろの関係(比)のための素材となる。だから、このような関係(比)とか、それらの関係(比)の発見とか、処理とかは、確かに分析的認識に内在的なものではなくて、偶然的なものであり、与えられたものであるかのように見える。そのことは、これらの関係(比)やそれらの関係(比)に関係する演算が、普通に内的な連関を顧慮することなしに、次々のそれぞれ別の演算として行われることからも分かる。けれども、その場合にも一つの指導原理を認識することは容易である。しかもこの原理は、それぞれの異なるものの中に同等性として現れるところの分析的同一性という内在的な原理である。したがって、ここでは進展とは不等なものを漸次にヨリ大きな同等性に還元することである。初歩的なものに一例をとるとすれば、加算は全く偶然的に不等な数を寄せ合わすことであるが、これに反して掛算は同等な数の寄せ合わせである。そしてそれに続いて集合数と単位との同等性の関係(比)が現れ、また冪比例が現れる。
 ところで、対象と関係(比)との規定性は措定された規定性であるから、それらについての演算も、また全く分析的である。したがって分析的な学は課題は持つが、定理は持たない。分析的な定理は課題を、それ自身すでに解かれたものとして含んでいるから、それが等しいとして立てる両項の外面的な区別は非本質的なものである。だから、このような定理は下らない同一性とも言うべきであろう。カントは、なるほど5+7=12という命題を総合的命題と見た。その理由は、同一のものが一面においては5と7という複数の形式において叙述され、他面においては12という一者の形式において叙述される点にあるという。けれども分析的な、ものが、もし12=12という全く抽象的に同一なもの、同語反復的なものを意味すべきではなく、その中にも一般に進展があるべきだとすれば、そこにも何らかの区別はなければならない。尤も、その区別は如何なる質にも、如何なる反省の規定性にも、まして概念の規定性にも基づかない区別でなければならない。5+7と12とは全然、同一の内容である。しかし前者の項の中には、やはり5と7とが一つの表現の中に総合されるべきだという要求が言い表されている。言い換えると、5が算え上げられた数であって、その際どこで中断するかは全く任意であったし、またもっと進んで算えることもできたように、今また同じ仕方で算え進んで、加えられる1が更に7(七個)となる(つまり12となる)ようにすべきだという要求が言い表されているのである。それ故に12は5と7との結果である。それも、演算をやり始めさえすれば、その性質上全く外面的で、没思想的な操作でさえあって、機械でもやることのできるような演算の結果である。ここには他者への推移と言うことは少しもない。ここにあるものは、5と7を生み出すした演算と同一な演算の単なる続行、即ち繰り返しである。
 このような定理が総合的命題であるとすれば、それは証明を必要とするであろう。しかし、こおような分析的命題の定理の証明は、ただ5から初めて更に7個を一々算え上げる演算によってなされるのであり、したがって計算の進行が普通に12と呼ばれているもの(尤も、この12にしても前の続けて一々算え上げることそのことを別にしてあり得るものではないが)と一致するということを認識することによって果たされるである。だから定理の形式の代わりに端的に課題の形式が、即ち演算の要求という形式が選ばれることになる。つまり方程式の一方の項(5+7)だけが言い表されて、この一方の項が定理の役目を演じ、方程式の他方の項(12)は見出さねばならないという行き方がとられることになる。課題は内容を含んでいて、この内容についてなされるべき一定の演算を掲示している。演算は特殊の関係(比)を持つ御し難い素材によって制限されるというようなことはない。むしろ演算は外面的で、主観的な操作であって、素材は自分の中に措定されるところの、この操作の各規定を、ただ無関心的に受け入れるのみである。課題の中に立てられている各条件(例えば5+7)と解答の中にある結果(例えば12)との区別は、単に課題の中に掲げられた通りに、結果の中で一定の仕方で実際に結合または分離されるという点にあるにすぎない。
 それ故に、ここに総合的命題とこそ関係のある幾何学的方法の形式を適用して、課題の解答の外に更にその証明をも併用しようとするのは、全く無益なやり方である。証明は、課題の通りに演算したが故に解答は正しいという同語反復を表現する以上の何ものでもあり得ない。もしも課題が若干の数を加えよというのであれば、解答は、これを加えるにある。そして証明は、加えるということが課題であったから、そこでこれを加えたというその故に、解答が正しいということを示す。もし課題がヨリ複雑ないろいろの規定と演算とを、例えば小数の掛算を掲げていて、解答が機械的な処理しか与えないときには、たしかに証明が必要となる。しかしその証明も、そこから解答が自ら出て来ることになっているところの、あの各規定と演算との分析以上のものであることは出来ない。ところが、機械的な処理としての解答と、処理される対象と演算そのものとの性質の吟味としての証明とが、このように分離されることになると、却って分析的認識の長所は失われてしまう。即ちその構成が直接に課題から導き出され、そのために構成が即自かつ対自的に(それだけで、端的に)理解できるものとして叙述され得るものだという長所は失われてしまうのである。しかしそれかといって、他方の方法を以てすると、総合的方法に特有の欠陥が構成に、はっきり出て来る。高等解析学において冪比例になると、分離量の質的な諸々の比例と概念の諸規定性に依存する諸比例とが特に問題となって来るが、この高等解析学においては課題と定理とは、確かに総合的な諸規定を含んでいる。即ち、そこでは課題または定理によって直接的に掲げられているものとは別の規定や比が中間項として取り上げられねばならない。けれども、これらの補助として用いられる規定にしても、課題または定理の項の顧慮と展開とに基づくという性質を持つものでなければならない。だから総合的な外観は、ただ課題または定理が、この項を、それ自身として予め、はっきり出していないところから来るにすぎない。例えば方程式の根の冪の和を見出すという課題は、まず考察によって、それから次に方程式の根の係数をなしている諸々の関数の結合によって解かれる。ここで補助とせられている係数の関数やその結合という規定は、課題の中には、まだ言い表されてはいない。尤も、その他の点では展開そのものは全く分析的である。その意味で、サインの助けによる方程式 X^(m-1)-1=0の解法や、またガウスによって発見されたあの有名な、X^(m-1)-1=0を m で除した剰余と、いわゆる単純根との考察を助けとする内在的な代数的解放も(これは近世における解析学の最も重要な拡張の一つである)総合的解法である。なぜかといえば、補助とせられる諸規定であるサインまたは剰余の考察は、課題そのもの規定ではないからである。
 いわゆる変量の無限微差を考察する解析の本性、即ち微積分計算の本性については、この論理学の第一部において詳論した。その際、この計算の根底となるものは質的な量の規定であって、それはただ概念によってのみ把握され得るものであることを述べておいた。量そのものからこの質的な量の規定への推移は、もはや分析的ではない。だから、数学は今日に至るまで、このような推移に基づく諸々の計算を自分自身によって、言い換えると数学的な仕方で論証し、弁明することが出来なかったのである。というのは、この推移は数学的性質のものではないからである。無限微差による計算を一つの微分計算にまで仕上げたという栄誉を担うライプニッツも、その箇所で述べておいたように、この推移を極めて不十分な仕方で、即ち全く没概念的であると共に、また非数学的であるような仕方で行った。しかし一度び推移が前提されると、また事実、この推移は現在のこの学問の段階では一個の前提に他ならないが、それから先の過程は勿論、普通の分析的計算の一系列にすぎない。
 分析が、もはや課題自身によって措定されたものでないような諸規定に達する限り、分析が総合的となることは上に述べておいた。しかし分析的認識から総合的認識への一般的な推移は、直接性の形式から媒介へ、抽象的同一性から区別への必然的推移の形をとる。分析的認識においては、その諸々の規定が自分自身に関係するものである限り、その活動性は一般にあくまでも、この自分の諸規定に止まっている。けれども、これらの規定はその規定性のゆえに、本質的にまた他者に関係するという性質をも持つ。すでに述べておいたように、分析的認識が外面的に考えられた素材ではなくて、思想の規定であるような諸々の関係(比)において進んで行くような場合でも、これらの関係(比)が分析的認識に対して与えられたものである限りは、その認識はやはり分析的である。けれども、この分析的認識が自分の領分に属するものとのみ思い込んでいる抽象的同一性も、本質的には区別されたものの同一性であるから、この区別されたものの同一性も区別されたものの同一性として、またこの分析的認識の同一性でなければならない。したがって主観的概念(分析的認識)にとって、連関もまた主観的概念によって措定されたものとなり、また主観的概念と同一的なものとならねばならない。

 b 総合的認識
 分析的認識は全推論の第一前提であり、即ち客観に対する概念の直接的な関係である。だから、同一性は分析的認識が自分の同一性として認識するところの規定である。したがって分析的認識は単に存在するものの把握(直観的、直接的把握)にすぎない。ところが総合的認識は存在するものの概念的把握(証明的、必然的把握)を問題とする。言い換えると規定の多様性を、その統一において把握することが問題である。だから、この認識は推論の第二前提であって、この推論において差異的なものそのものが関係させられる。それ故に、この認識の目標は一般に必然性である。互いに結合させられている差異的なものは一面では相関関係をとる。したがって相関関係の中では、それらは勿論、互いに関係させられていると共に、また互いに無関心で、自立的なものとしてある。しかし、それらは他面では概念の中で結合される。即ち概念こそ、それらの単純な、しかし規定的な統一である。ところで総合的認識が、まず抽象的同一性から相関関係へ、或いは有から反省へ推移するものである限り、総合的認識は概念の自分の対象の中における認識であるような概念の絶対的反省ではない。即ち概念が獲得する実在性は次善の段階であり、即ちいま言うような差異的なものそのものの同一性である。したがって、この同一性は同時にまだ内的な同一性であり、単に必然性であって、主観的な対自的(自立的)にあるような同一性ではなく、したがってまだ概念そのものではない。だから総合的認識も勿論、概念諸規定をその内容に持つものであり、客観は概念諸規定の中で措定されてはいる。しかし、ここでは概念諸規定は、まだせいぜい互いの相関関係の中にあり、言い換えると直接的な統一の中にある。したがって、まさにその点で、それらはまだ概念が主観としてあるというような統一の中にはないのである。
 以上の点が、この認識の有限性を形成する、即ち理念のこの実在的な側面は、この認識の中では、同一性をまだ内的な同一性として持つから、この同一性の規定も、まだ自分に対して外面的な規定性としてある。それで、理念のこの側面は主観性としてあるのではないから、この概念がその対象の中で持つ概念自身の存在には、まだ個別性が欠けている。したがって、この客観の中で概念と一致するものであるところのものも、もはや抽象的な形式ではなくて、むしろ規定的な形式であり、それ故に概念の特殊的な形態ではあるが、しかし概念の個別的な形態は、まだ与えられた内容である。それ故に、この認識は客観世界を概念に転化するが、しかしただそれぞれの概念規定にしたがって客観世界に形式を与えるというというだけであって、個別性の面、即ち規定的な規定性の面では客観をただ、そういうものとして見出さなければならない。即ち、この認識はまだ、それ自身が規定するものではないのである。同様にまた、この認識はいろいろの命題や法則を見出して、それらの必然性を証明するが、しかしこの必然性を事物の必然性として即自かつ対自的に、言い換えると概念から証明するのではない。むしろこの認識は、この必然性を次のような認識の必然性として証明する。即ち、この認識は与えられた諸々の規定、現象の諸々の区別に沿うて進み、対自的に(別々に)命題を統一または相関関係として認識し、言い換えると現象に基づいて現象の根拠を認識するものなのである。
 次に総合的認識の各契機を考察することにしよう。

 1.定義
 第一の問題は、まだ所与の客観性にすぎない客観性が、ここで第一の形式としての単純な形式に、したがって概念の形式に転化されるということである。だから、ここにある把握の契機は概念の三つの契機、即ち普遍性、特殊性、個別性に他ならない。個別は直接的表象としての客観そのものであり、定義されるべき対象である。この客観の面は、客観的判断の規定の中で、言い換えると必然性の判断の規定の中で類として、それも最も近い類(すぐ上の類)として出て来たものである。即ち、この普遍は同時に、特殊的なものの区別に対する原理であるという規定性を持つ普遍である。対象は種差に基づいて、この区別を持つ。つまり種差こそ対象を規定的な種となし、他の諸々の種に対して、その対象の分離(離接、選言)を基礎づけるものに他ならない。
 定義は、このような仕方で対象をその概念に連れ戻すことによって、対象が実存のために必要としている諸々の外面性を取り除く。概念はその実在化(実現)によって第一に理念に、第二に外面的な実存に歩み出るのであるが、定義はこの概念の実現に際して概念に加わるもの(実存の面)を取り除くのである。記述は表象のためにあるものであるから、このような実在性に所属する種々の具体的な内容を取り上げる。(特殊の面)ところが定義は、このような直観的な定有が持つ多様な規定の豊饒を単純な諸契機に還元するのである。即ち、このような単純な各要素の形式が如何なるものであり、またそれらがどういうように規定されているかということは概念の中に含まれているからなのである。(普遍の面)ところが、いま言うように対象は、同時に本質的に規定されたものであるような普遍として把握される。つまり、対象そのものは(記述と定義とに対して)第三者である。即ち類と特殊化とが、その中で一つに措定されている個別である。しかも対象そのものは、概念がまだ自己規定的なものでない点で、概念の外に立てられているところの直接的なものである。
 これらの三つの規定の中に、即ち定義の形式の区別の中に概念は自分自身を見出し、その中で自分に一致する実在性を持つ。ところが、概念の諸契機の自己反省、即ち個別性は、この実在性の中にはまだ含まれてはいないから、したがって、客観が認識の中にある場合でも、客観はまだ主観的な客観として規定されてはいないから、認識は主観的であって、外的な始まりを持つにすぎない。言い換えると、認識は個別的なものの中に、その外的な始まりを持つ故に主観的認識である。だから、概念の内容は与えられたものであり、偶然的なものである。具体的概念そのものはしたがって二つの面からして偶然的である。即ち一方では、その内容一般から見て偶然的であり、他方では対象が外的定有の中で持つ多様な質の中で、どの内容規定が概念のために選び出され、概念の契機とせられるかという点からいって偶然的である。
 後の点については、いくらか立ち入った考察が必要である。即ち個別性は即自かつ対自的な(自立的な、多くの)規定有として総合的認識が本来持つ概念規定の外にあるから、そこには対象のどの面がその概念規定に属し、どの面が外的実在性に属すにすぎないかということを決定する原理は存在しない。この点は総合的認識の脱し得ないところの、定義の持つ一つの困難な点である。けれども、その場合にも区別が立てられねばならない。第一に自意識的な合目的性の所産については定義を見出すことは容易である。なぜなら、各所産が奉仕するはずの当の目的こそ、主観的決意に基づいて作り出された規定であって、したがって当面の問題であるところの本質的な特殊化、即ち実存するものの形式を形成しているものだからである。目的の材料が持つその他のいかなる性質、或いは他の外面的な諸特性も、目的に一致する限り目的の規定の中に含まれているのであって、この一致するもの以外の諸特性は目的にとっては非本質的なものである。
 第二に幾何学の諸対象は抽象的な空間規定である。その根底にある抽象、即ちいわゆる絶対空間は如何なる具体的な規定をも持たない。それ故に初めて、この空間の中に立てられるような、色々の形態や形象(図形)を持つことが出来る。だから、これらの形態や形象(図形)は本質的には、ただまさにあるべきものであるにすぎない。即ち、それらの概念規定一般は、或いはもっと正確に言えば、種差は、これらの形態や形象(図形)の中に、その単純な、妨げられることのない実在性を持っている。その限り、これらの形態や形象(図形)は外的な合目的性の所産と同じものであり、またその点で算術の対象とも一致する。というのは、算数の対象においてもまた、ただその対象の中に措定されている規定だけが、その根底となっているからである。もちろん空間は、その他に更に三次元とか、連続性とか、可分割性と言うような、外面的な規定によって初めて空間の中に措定されるのでないところの、いろいろの規定を持つ。けれども、これらの規定は取り上げられた材料に属するものであって、直接的な諸前提である。そこで前に言った主観的諸規定が、この地盤の中に持ち込まれて、この主観的諸規定がこの地盤の持つ特性と結合され、組み合わされることによって、いろいろの総合的な関係と法則とが作られるのである。数の規定にあっては、その根底となるものが一という単純な原理であるから、結合やその他のいろいろの規定は全く措定されたものにすぎない。これに反して、それ自身は連続的な併存である空間の中の諸規定は一層複雑なものとなり、その概念とは異なる実在性を持つことになり、もはや直接的な定義には属さないようなものとなる。
 第三に自然や精神というようなヨリ具体的な対象の定義となると、以上と全く趣を異にする。これらの対象は一般に表象にとっては多くの特性を持つ物である。だから、ここではまず、それらの対象の最も近い類が何であるか、更にまたその種差が何であるかということを把握することが大切になる。だから多くの特性の中のどれが類として対象に属し、またどの特性が種として対象に属するかが、更にまたこれらの特性の中のどれが本質的な特性であるかが定められねばならない。また、この後の点に対しては、諸々の特性が互いに如何なる連関にあるか、一方の措定はすでに他方の措定を含んでいるかどうかを認識することが必要である。しかしそのためには、ここにはまだ定有そのもの以外に何らの基準も存在していないのである。定義においては特性の本質性が単純な、まだ発展していない規定性として取り出され措定されねばならないが、定義にとっては、この特殊の本質性は特殊の普遍性である。ところが、この普遍性は定有の中では単に経験的な普遍性である。それも時間の中にある普遍性である。ただ、他の諸々の特性が存在全体の中で変化的な現象を呈するのに対して、この特性は持続的であるといった違いがあるだけである。言い換えると、それは他の具体的な全体との比較から生ずるもので、その限り共通性以上に出ない普遍性である。ところで、経験的に与えられるような全体的な習性が比較の結果、共通的な基礎として挙げられる場合には、反省はこの習性を単純な思想の規定に還元し、このような全体性の単純な性格を把握しなければならない。けれども或る思想規定、または直接的な諸特性の個々のものが対象の単純で規定的な本質を構成するということの認証は、具体的性状から、このような規定を演繹することによってのみ可能である。しかし、このことは諸々の直接定性状を思想に変じ、それらの性状の具体的なものを単純な要素に還元する分析を必要とする。だが、この分析は前に考察した分析よりも、はるかに高次のものでなければならない。というのは、この分析は抽象を行うようなものではなくて、むしろ普遍の中になお具体的存在の持つ規定的な性質を保存し、これを統一しているものであると共に、単純な思想の規定に基づくものであることを示すようなものでなければならないからである。
 けれども、直接的な定有の持つ多様な規定の単純な概念に対する諸々の関係こそ、証明を必要とするところの定理であるはずである。しかし最初のまだ未発展の概念としての定義は、対象の単純な規定性の把握を建前とするものであり、したがってこの把握は直接的なものであるはずだから、定義はそのために対象の直接的な、いわゆる特性の一つを、即ち感性的定有または表象の一つの規定を使用し得るのみである。そこで、その抽象によって行われる個別化によって単純性が取り出されることになる。したがって概念は普遍性と本質性とを求めて、ただ経験的普遍性を得、変化的な状態の中にある持続を獲得することになり、また外的定有と表象との中に、即ち見出されるべくもない場所に概念規定を求めるところの反省を行うことになる。だから、また定義の作用は、本質的に諸々の対象の原理であるような本来的な概念規定を自ら断念して、徴表で満足することになる。或いは、そこでは本質性は対象そのものに対しては無関係であり、各規定はむしろ外的反省にとっての指標であるという目的を持つにすぎないような諸規定で満足することになる。だが、このような個別的な外面的な規定性は具体的全体性や、その概念の本性とは、あまりにもかけ離れたものであり、この規定性をそれだけ選び出して、その中に具体的全体性の真の表現と規定とがあるとは到底、見ることが出来ないのである。例えばブルーメンバッハの説に従えば、耳たぶは人間以外の他の如何なる動物にもないものである。それ故に耳たぶは「共通のものであって区別をなし得る徴表」という一般の標準から見れば、当然に自然的な人間を定義するに当って判明な特性として使用され得るものと言うことが出来よう。しかし、このような全く外面的な規定が自然的人間の全習性という観念と如何に一致しないものであるか、また概念規定が一体に本質的なものであるべきだという要求と如何に一致しないものであるかは、直ちに明らかである。定義に採用された徴表が、ただこのような純然たる応急手段にすぎないか、それとも原理の本性に一段と近づいているかということは全く偶然のことである。したがって概念の認識において、このような徴表から始められなかった所以が、これらの徴表の外面性のためであることも分かるはずである。むしろ本質的なものについての朦朧とした感情、その漠然としてはいるが深い感じ、それの予感が自然や精神における類の発見に先行し、その後に、初めて悟性のために特定の外面性が探究されたのであった。概念は定有の中で外面性に歩み出ることによって、その区別に展開したのであり、したがって概念はこのような特性の個々のものに全然縛り付けられていることは出来ない。各特性は物の外面性として、それ自身に対して外面的である。「現象」の領域で多くの特性を持つ物を論ずる箇所において、このいま言う理由からして、諸々の特性が本質的に自立的な物質になるということを論じておいた。精神も、この現象の立場から見れば、多くの自立的な力の集積となる。だが、個々の特性または力は、それらが互いに他に対して無関心なものとして措定されるようなこの立場そのものによっては、特性づける原理であることを止める。またそれと共に、ここでは概念の規定性としての規定性は一般に消滅する。
 更にまた具体的な諸々の物においては、各特性相互の間の差異の外に、概念とその現実化との間の区別が現れて来る。概念は自然と精神の中で、概念の規定性が外的なものに依存するものとして、変化性と不一致(概念と外的存在との不一致)とを表すところの外面的な表現を持つことがある。だから或る現実的なものは、確かに即自的には、あるべきものであるが、しかしまた否定的な概念の判断の言葉で言えば、概念の現実性は、この概念に単に不完全にしか一致しないものであり、したがって現実性が良くない(不良)ものであることもあり得る。ところで定義は概念の規定性を直接的な特性によって表すことを建前とするものであるから、その実例の挙げられ得ないような特性は一つもない。この実例においては、その全習性こそ、なるほど定義される具体的なものを、我々に認識させてくれるものであるが、しかしその対象の性格として取られる特性が不十分で、歪曲されたものである場合がある。一般によくない植物、良くない動物の類、卑しい人間、良くない国家にあっては、その実存の面は欠陥を持つものであり、或いは抹殺されるものである。しかし、この面こそ却って普通には定義のために、このような具体的なものの実存の中にあるところの区別の原理(そのものの特異性)として、或いは本質的な規定性として、取り上げることの出来るものなのである。つまり良くない植物、良くない動物、等も依然として植物であり、動物であることに変わりはない。けれども、良くないものもまた定義の中に取り入れられるべきだということになると、経験的探究が本質的なものと見ようとするような、全ての特性は、これらの特性を持たない不具の例によって崩れてしまう。例えば自然的人間にとっては脳が本質的なものだということは無頭児の実例によって。国家にとっては生命と財産との保護が本質的なものだということは専制国家や僭主政治(暴君政治)の実例によって。だが、それかといって概念が実例に意義を唱えて、実例を概念の尺度から計って、これを良くない例と見るとすれば、概念はもはや自分の認証を現象の中に持たないことになる。しかも、この概念の自立性は定義の意義に反する。というのは、定義は直接的な概念であるべきであり、したがって定義は諸々の対象に対する定義の規定を、ただ定有の直接性からのみ受け取り、その定有という現前に見出されるものの中でのみ自分を権利づけ(証明し)得るものだからである。定義の内容が即自かつ対自的に(それ自身において、絶対的に)真理であるか、それとも偶然性であるかということは、定義の範囲外にある。しかも、形式的な真理、即ち定義の中に主観的に措定された概念と、概念の外に或る現実的対象との一致は、個別的対象がまた良くないものであることも出来るものである以上、必ずしも決定されることは出来ないのである。

































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